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中 島 三 千 男 先 生 と の 出 会 い

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Academic year: 2023

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台 湾 師 範 大 学

・ 台 湾 史 研 究 所 教 授

蔡 錦 堂

一九 九〇 年代 初頭

︑ま だ台 湾・ 淡江 大学 の新 米教 師の 私の 所に

︑あ る日

︑台 湾・ 花蓮 の原 住民 地域 に建 てら れ た﹁ 神社

﹂の フィ ール ドワ ーク の前 に︑ 台北 でお 会い した いと いう 旨の 手紙 が届 きま した

︒そ れが 契機 で中 島先 生と 初め てお 会い し︑ 当時 未出 版の 博士 論文 を先 生に 一冊 贈呈 しま した

︒ 一九 九七 年︑ 筑波 大学 歴史 人類 学科 の雑 誌﹃ 史境

﹄第 三十 四号 に︑ 中島 先生 ご執 筆の 書評 が載 せら れて いま す︒ 一九 九四 年︑ 同成 社よ り出 版し た私 の博 士論 文﹃ 日本 帝国 主義 下台 湾の 宗教 政策

﹄に つい ての 評論 でし た︒ 先生 はい くつ かの 問題 点︑ 特に

﹁蕃 地﹂

︵原 住民 地域

︶に 対す る宗 教︑ 神社 政策 が欠 けて いる こと を指 摘し まし たが

﹁本 書は 植民 地研 究の 文化 面に おけ る労 作と して 高い 位置 を占 める もの であ る﹂ と評 価し てく ださ り︑ 恐縮 と同 時に 感激 を覚 えま した

︒そ れ以 来︑ 中島 先生 と文 通を 続け てま いり まし た︒ 先生 から の年 賀状 を︑ 漫画 好き のわ が家 は毎 年楽 しみ にし てお りま す︒ 幸せ な中 島家 の様 子を 版画 風で 表現 した 傑作 の数 々が 奥様 の手 によ るも のだ と知 った のは

︑つ い三

︑四 年前 のこ とで した

30

(2)

二〇

〇二 年十 月︑ 先生 は私 が中 京大 学主 催の シン ポジ ウム

﹁台 湾の 近代 と日 本﹂ に参 加し

︑﹁ 台湾 の忠 烈祠 と 日本 の護 国神 社︑ 靖國 神社 との 比較

﹂と いう 報告 をす るこ とを 知り

︑横 浜か ら名 古屋 へわ ざわ ざ足 を運 ばれ まし た︒ しか し主 催者 側の 都合 で当 日の 日程 に変 更が あり

︑午 後の 予定 だっ た私 の発 表が 午前 中に なっ たた め︑ 昼過 ぎに 到着 した 中島 先生 は私 の発 表を 聞く こと がで きま せん でし た︒ 先生 はそ のこ とに つい て事 務局 の人 に強 い抗 議を され たと のこ と︒ 私の 未熟 な報 告を 聞き に︑ はる ばる 名古 屋ま でお 越し にな って くだ さっ たこ と自 体が

︑私 にと って この 上な い光 栄で

︑今 でも かた じけ なく 思っ てお りま す︒ 二〇

〇八 年二 月︑ 神奈 川大 学で 第三 回C OE 国際 シン ポジ ウム

﹁場 の記 憶・ から だの 記憶

・非 文字 資料 研究 の 新地 平﹂ が開 催さ れま した

︒当 時︑ 神奈 川大 学の 学長 を務 めて いら っし ゃっ た中 島先 生は

︑私 をコ メン テー ター とし て招 聘し

︑旧 満州 にお ける 神社 遺跡 の調 査結 果に つい ての 報告 など を批 評さ せて くだ さい まし た︒ 私と 神奈 川大 学と の深 いご 縁は

︑そ の時 が発 端で す︒ 二〇 一二 年一 月末

︑中 島先 生は 台南 の旧 開山 神社 跡地 の調 査を 目的 に来 台さ れま した

︒私 もお 付き 合い して 台 北に ある 二代 目の 旧台 湾神 宮の

﹁地 下神 殿︵ 防空 壕︶

﹂や 台南 の旧 開山 神社

︑成 功大 学︑ 旧盛 り場 など をご 案内 しま した

︒取 り外 され たま ま︑ 離れ た場 所に 放置 状態 にあ る旧 開山 神社 の鳥 居の 笠木 に座 った り︵ 写真

︶1

︑ア イス バー を嬉 しそ うに 口に する

﹁不 良お じさ ん﹂ 二人 組︵ 写真

︶2 など

︑思 い出 をた くさ ん作 りま した

︒ ある 晩︑ わが 家四 人 って 先生 と一 緒に 台湾 料理 を食 べま した

︒実 は︑ うち の子 たち は前 から 中島 先生 の大 ファ ンで

︑﹁ 面白 い年 賀状 の先 生﹂ にお 会い でき るの でわ くわ くし てお りま した

︒レ ザー コー ト姿 で現 れた 先生 のこ とを

︑そ の日 から

﹁型 男校 長︵ 格好 いい 学長 先生

︶﹂ と呼 ぶよ うに なり まし た︒

中島三千男先生との出会い 31

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写真

1

写真

2

(4)

二〇 一二 年五 月︑ 台湾 師範 大学 台湾 史研 究所 が中 島学 長を お招 きし て︑

﹁海 外神 社跡 地の その 後﹂ と﹁ 日本 人 の三 つの 戦争 観﹂ とい うテ ーマ で二 回の 講演 をし てい ただ きま した

︒先 生流 の充 実し た内 容と 資料 をも って 師範 大学 の学 生を 魅了 しま した

︒そ の後

︑わ が校 の張 國恩 学長 と懇 談の 結果

︑台 湾師 範大 学と 神奈 川大 学の 学術 交流 協定 が結 ばれ

︑そ れ以 来︑ 留学 生の 交換 など 様々 な交 流が 続い てお りま す︒ 二〇 一二 年十 二月

︑私 は神 奈川 大学 非文 字資 料研 究セ ンタ ー主 催の

﹁第 二回 海外 神社 公開 研究 会﹂ に参 加し

︑ 中島 先生 及び 津田 良樹 先生 の発 表の コメ ンテ ータ ーを 務め させ てい ただ きま した

︒そ の夜

︑中 島先 生︑ 大里 浩秋 先生

︑栗 原純 先生 と神 奈川 大学 近辺 のコ ーヒ ーシ ョッ プで 雑談 をし まし た︒ 甘い 物が お好 きの 中島 先生 はも ちろ ん甘 い飲 み物 を飲 みな がら

︑そ ろそ ろ定 年退 職だ とお っし ゃい まし た︒ あれ から もう 二年 半︑ なん と早 いこ とで しょ う︒

﹁元 神奈 川大 学の 中島 三千 男で す﹂ とい うタ イト ルの メー ル に接 し︑ さす がに 驚き まし た︒

﹃退 職記 念号

﹄に 一文 を︑ との 編集 子か らの 依頼

︑こ れは また 身に 余る 光栄 です

︒ 中島 先生 のこ とを

︑威 風堂 々た る学 長・ 学者 より も︑ 甘い アイ スキ ャン ディ を舐 める

︑人 間味 にあ ふれ た優 しい お方 だと

︑私 はい つも 思っ てお りま す︒ 定年 を迎 え︑ 日常 生活 によ り多 くの 余裕 を楽 しみ なが ら︑ また 新し い研 究成 果を 見せ てく ださ るの では ない かと

︑期 待が 膨ら みま す︒ 先生 のま すま すの ご健 康と ご活 躍を 心か らお 祈り して おり ます

中島三千男先生との出会い 33

Referensi

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