畏 友
中 島 三 千 男 先 生
岡 島 千 幸
中島 先生 も︑ 今春 つい に定 年退 職を 迎え られ た︒ 次の 資料 は1
︑今 から 三十 五年 前一 九八
〇年 九月 三〇 日付
﹁神 奈川 大学 通信
︵第 一二 九号
︶の 新任 教員 紹介 のコ ラム 記事
︵プ ロフ ィー ル︶ であ る︒ この 度︑ 三十 五年 振り にこ の記 事を 再読 し︑ その 頃の 事を 色々 と懐 かし く思 い出 した
︒こ のコ ラム の右 紙面 は︑ 大学 創立 五〇 周年 記念 事業 で完 成し た新 図書 館の 落成 記念 式典 の記 事で ある が︑ 当時
︑大 学や 我々 の属 する 外国 語学 部も 現在 とま った く異 なっ てい た︒ 先生 が赴 任さ れた 頃ま で︑ 大学 はま だ大 学紛 争の 後遺 症で
︑学 部教 授会 が旧 本館 の会 議室 では なく 二本 榎の 別館
︵大 学創 立者 米田 吉盛 の別 宅で あっ たが
︑当 時大 学の 施設 とし て利 用さ れて いた
︒現 在は 学生 寮に 建て 替え られ てい る︒
︶の 畳の 大広 間で 開催 され た事 もあ った
︒そ んな 事が 出来 たの も︑ 当時 の学 部は
︑英 語と スペ イン 語の 二学 科︑ 他は 体育 と教 職︑ それ に我 々の 一般 教育 に所 属す る教 員か ら成 り︑ 全体 で四 十数 名で あっ たか らで ある
︒し たが って
︑人 文と 社会 の一 般教 育担 当教 員は
︑十 数名 でお 互い の気 心は いや でも 知り 得て いた
︒そ して
︑地 歴の 教員 は︑ それ ぞれ 一名 ずつ であ った
︒ この 中島 先生 紹介 の記 事を 書い たの は︑ 私で あっ たが
︑こ の文 章に は当 時の 私の 達成 感の よう な感 慨が 秘め ら
れて いる
︒ 私は 世界 史担 当教 員と して 着任 する と︑ その 前 年︑ 日本 史の 担当 教員 が退 職し たた め︑ すぐ に人 事選 考委 員に させ られ た︒ その 委員 長は 文学 の長 老教 員で あっ たが
︑こ ちら は同 じ歴 史学 とい う事 で人 事の 中心 的役 割を 担わ され たの であ る︒ 教授 会で
︑選 考委 員長 から 最終 選考 まで の選 考過 程と その 理由 を私 にも 説明 する よう 発言 があ り︑ 私も 懸命 に話 した こと を憶 えて いる
︒こ の人 事で は最 終的 に︑ ある 学会 のボ スと して îの 高か った 委員 の先 生の 推薦 する 人物 と中 島先 生と どち らに する か難 航し た︒ 今か ら考 えて 見れ ば︑ まだ 着任 した ばか りの 三十 代の 私の よう な若 造に
︑そ の先 生は
︑ 委員 会と 教授 会で 押し 切ら れた ので ある から 忌ま 忌ま しい 気持 ちで あっ た事 はま ちが いが ない
︒ この よう にし て始 まっ た中 島先 生と のご 縁で あ るが
︑新 学期 早々
︑大 学広 報課 から 私に 新任 者紹
資料1
介記 事の 依頼 が来 たの であ る︒ それ で︑ 先生 の生 い立 ちや 学生 時代 の事 を色 々と 伺い
︑制 限字 数い っぱ いに まと めた のが
﹁プ ロフ ィー ル﹂ の記 事︵ 先生 は︑ 福岡 生れ で︑ 熊本 は御 両親 の里 の由
︒三 十五 年振 りで 訂正 いた しま す︒
︶で ある
︒先 生は
︑高 校時 代ま で九 州福 岡で 過ご され たが
︑戦 後何 も無 い時 代に 育っ た我 々の 世代
︑先 生の 幼少 期の お話 は︑ 私も 自分 の生 い立 ちと 重ね 合わ せて お聞 きし たよ うに 憶え てい る︒ なお
︑現 在︑ 神奈 川大 学の イメ ージ
・イ ラス トレ ータ ーと して も活 躍さ れて いる 本学 外国 語学 部特 任教 授わ たせ せい ぞう 氏は
︑先 生が 小倉 高校 時代 の同 窓・ 同級 生で ある との お話 であ る︒ 先生 とは 研究 室も 隣同 士で あっ たこ とも あり
︑個 人的 にも 接す る機 会が 多か った
︒二 十数 年ほ ど前 だっ たと 思 うが
︑そ の頃 私が 京都 や関 西に 出か ける 折に 定宿 にし てい た﹁ 岩波
﹂と いう 旅館 に﹁ ぜひ 自分 も泊 まっ てみ た い﹂
︑と いう
︒そ れで
︑お 互い 関西 での 仕事 を済 ませ 京都 で落 ち合 うこ とと なっ た︒ 二人 で同 志社 大学 から 今出 川通 りの 京大 キャ ンパ スの 側を 歩き なが ら︑ 期せ ずし て先 生が 下宿 をし てい た場 所と か︑ また 奥様 と知 り合 った 頃よ く一 緒に 歩か れた とい う道 など を思 い出 話と 共に 伺っ た︒ その 後︑ 先生 が学 生時 代か らの 馴染 みの うど ん屋 に寄 り︑ 東山 の清 水寺 に向 った
︒目 的は
︑観 光コ ース とは 別の 塔頭 寺・ 善光 寺の 住職 福岡 精道 氏に お会 いす るこ とで あっ た︒ 先生 は︑ 学生 時代 にこ のご 住職 に大 変お 世話 にな った との 事︒ 私も ご紹 介い ただ いた が︑ まこ とに 気さ くな 老師 で﹁ せっ かく だか らこ ちら にど うぞ
﹂と
︑一 般に は非 公開 の仏 足石 の大 伽藍 に案 内し て下 さっ た︒ 半地 下構 造に よる 吹抜 き五 階の 上か ら︑ その 下の 仏足 石を 見る と︑ 巨大 な仏 陀の 立像 が想 像さ れる 仕組 であ る︒ この 夜︑
﹁岩 波﹂ に宿 泊し たの であ るが
︑通 称骨 董通 りに あっ たこ の典 型的 な京 町屋 作り の宿 に先 生が 気に 入っ たか 否か は︑ 聞き そび れた 儘で ある
︒た だ先 生は
︑こ の宿 の一 件ば かり では なく
︑そ の後 も私 が話 した レス
トラ ンや 飲み 屋に 関心 を示 し︑ 案内 させ られ た事 がよ くあ った
︒そ の中 でも
︑横 浜関 内の スタ ンド バー
︵現 在は 無く なっ たが
︑戦 後ま で洋 酒の 輸入 元も 兼ね てい た店 で︑ 大仏 次郎 は常 連客 の一 人で あっ た︒
︶や
︑野 毛の 焼鳥 屋な どは 思い 出深 い︒ 中島
先生 は︑ 一昨 年の 私の 退職 記念 号に 巻頭 文を 書い て下 さっ た︒ その 中で お互 いに 長年
︑大 学入 試業 務を め ぐっ て大 変苦 労し たこ とか ら︑ 私と の関 係を
〝
戦 友〟
と位 置付 けて 思い 出を 語っ てい る︒ 先生 は︑﹁今 時︑ 死語 にな って いる 言葉 を使 って 恐縮
﹂と 断っ てい るが
︑我 々の よう に戦 中生 まれ の世 代は
︑長 い間 生死 を共 にし た人 間同 士と 同様 の体 験を した 場合
︑つ い脳 裏に 浮ぶ 共感 語と 言っ てよ いで あろ う︒ 先生 と同 じ戦 後七 十年 を経 て︑ この 言葉 が名 実と もに 死語 とな って くれ るこ と︵ 昨今 のわ が国 の政 治状 況を 見る と不 安を 感じ るが
︶を 切に 願う のみ であ る︒ 先生 は︑ 経済 学部 の山 口徹 先生 から の﹁ 命﹂ によ り翌 年か ら作 問責 任者 との こと であ るが
︑私 の場 合は
︑着 任 して 右も 左も わか らな い数 か月 も経 ない 内に
︑あ なた が責 任者 です よ︑ と言 われ 慌て てそ れ
の予 備校 との 関係 を整 理し た次 第で あっ た︒ この よう にし て︑ お互 いに 毎年 の苦 労が 始ま った ので ある が︑ 一九 八五 年に 一般 教育 教員 の増 員が 一部 認め られ︑日 本史
︑世 界史 担当 教員 が一 名ず つ増 えた
︒こ れに より
︑お 互い に毎 年の 責任 者か らは 少な くと も免 れる はず であ った が︑ 運命 の悪 戯か
︑先 生も 私も その 後そ れぞ れの 相方 の先 生が ご病 気や 事故 など でそ れ処 では ない 年が 長く 続い たの であ る︒ 先生 は︑ 一九 九五 年か ら学 部長 に就 任︑ 二〇
〇三 年か ら副 学長 に︑ また 二〇
〇七 年に は学 長と なっ たた め︑ 責
任者 どこ ろか 入試 業務 はこ の十 年以 上に わた って 出来 なく なっ た︒ この 点で は先 生は まこ とに 付き に恵 まれ
︑激 務が 始ま る頃 に就 任さ れた 相方 の先 生は
︑そ の後
﹁強 力な 助っ 人﹂ とな り中 島先 生を 支え られ て来 たこ とは 忘れ られ ない
︒ 入試 業務 をめ ぐっ ては
︑お 互い に際 限の ない 恨み 話が ある が︑ 先生 はこ の巻 頭文 の中 でご 自分 の立 場か ら戦 友 同士 の恨 み節 を大 変よ く整 理し て話 して 下さ って いる
︒た だ︑ 今か ら考 えて も遣 る瀬 のな い思 い出 は尽 きな い︒
﹁こ の夏 は論 文を まと めた いの で﹂
︑あ るい は﹁ 引っ 越し があ るの で﹂ 等々
︑個 人的 に密 かに 作問 委員 を外 して く れと 頼み 込ん で来 る方 がい た︒ また
︑委 員は 引き 受け ても
﹁公 務出 張だ
﹂と か︑ 事前 に御 本人 にも 予定 を聞 いて 会議 の日 時を 調整 して いて も︑ 当日 にな って
﹁ド タキ ャン
﹂し て平 然と して いる 委員
︒作 問検 討会 議の 最終 日に なっ ても 連絡 すら ない 委員 によ うや く話 を聞 くと
︑ま だ﹁ 出来 てい ない
﹂と の事
︒ど うし よう もな いの で︑ こち らが 徹夜 して 代わ って 穴埋 めを する 等︑ 他人 から すれ ば喜 劇の よう な悲 劇が 毎年 のよ うに あっ たの であ る︒ 作問 会議 は︑ その 検討 過程 で︑ それ ぞれ 教員 の研 究者 とし ての 能力 や教 養︑ また 人間 性な どが 自ず と表 われ る 側面 もあ った
︒著 作等 で社 会的 に評 価の 高い と言 われ る先 生で も︑ 実際 にお 話を 聞く と大 変教 条主 義で あっ たり
︑ その 専門 分野 以外 は基 礎的 な事 を驚 く程 ご存 じな かっ たり
︑権 威主 義的 で少 々性 格破 綻者 では ない かと あ然 とさ せら れる 事も あり
︑会 議全 体に 責任 を負 って いる 立場 から は︑ 人間 観察 を強 いら れる こと も多 かっ たの であ る︒ これ らの 事を
︑先 生と 換気 の悪 い地 下会 議室
︵こ こは
︑朝 から 一日 仕事 をし てい ると 酸欠 状態 とな り私 は苦 言 を呈 し続 けた
︶で お互 い残 務整 理を しな がら
︑そ れぞ れの 愚痴 をこ ぼし 合っ た事 が思 い出 され る︒ しか しな がら
︑ 先生 は︑ 私と は人 間と して の出 来が 異な って いた ので ある
︒先 生は
︑行 動的 でエ ネル ギッ シュ であ った
︒
先生 は︑ 夏季 休暇 中︑ 入試 業務 が一 区切 りつ くと 寸暇 を惜 しむ よう に毎 年︑ 京都 の大 山崎 をは じめ 各地 の研 究 調査 に出 かけ られ てい た︒ 先生 の研 究は
︑天 皇制 や明 治以 降の 国家 神道
︑中 でも 戦後 負の 歴史 遺産 とし て残 され てい る海 外の 神社 遺跡 の調 査も され てい た︒ 北は 旧樺 太︑ 旧満 州︑ 朝鮮 から 台湾
︑さ らに は委 任統 治領 であ った サイ パン やテ ニア ン島 など の旧 南洋 群島 にお よん でい る︵ これ らの 研究 成果 は︑
﹃海 外神 社跡 地の 景観 変容
︱さ まざ まな 現在
︵い ま︶
︱﹄ お茶 の水 書房
︑参 照の 事︶
︒ 先生 の研 究で 私に 取っ て最 も印 象深 い思 い出 は︑ 一九 八五 年の 春先 に箱 根合 宿で のご 報告 であ った
︒こ の合 宿 は︑ この 数年 前︑ 経済 学部 の丹 羽邦 男先 生が
︑﹁ 短大 に網 野善 彦先 生も いら っし ゃっ たこ とだ し︑ 学内 の歴 史関 係者 を集 めて 研究 会を しま せん か﹂ とい う申 し出 があ り︑ それ で当 時短 大所 属の 吉井 蒼生 夫︵ 現法 学部
︶と 田島 泰彦
︵現 在︑ 上智 大学
︶両 先生
︑そ れに 中島 先生 と私 が幹 事と なっ て始 まっ てい た︒ 合宿 は︑ 主に 三月 末に 行な う事 が多 かっ たが
︑夜 の十 一時 頃研 究会 が一 応終 了す ると
︑ア ルコ ール を片 手に 懇親 会と なっ た︒ 何年 であ った か︑ 丹羽 先生 か山 口先 生か
︑﹁ 江戸 時代 まで 封建 制社 会と する か否 か﹂ をめ ぐっ て口 火が 切ら れ︑ 網野 先生 と三 者で 激論 とな り︑ 私は 少々 興奮 を覚 えて 聞き 入っ た事 が懐 かし い︒ 一方 若手 を中 心に 地下 の卓 球室 で︑ 深夜 にお よぶ 打ち 合い がよ く行 なわ れた
︒こ の頃 は網 野先 生も お元 気で
︑仲 間に しば しば 加わ って いら した
︒こ の深 夜の 卓球 の際
︑私 は中 島先 生の 新た な性 格を 思い 知る 事と なっ た︒ それ は︑ 相手 との 競争 事︑ 勝負 事と なる と︑ 先生 は顔 の表 情を 露わ にし て絶 対に 負け まい とす る激 しさ であ った
︒私 は︑ いつ も先 生は まこ とに 穏や かな 印象 が強 かっ ただ けに 驚か され たの であ る︒ この 箱根 合宿 は︑ 大学 の保 養所 で行 われ たが
︑合 宿は
︑こ のよ うな 研究 会ば かり でな く一 般教 育部 会や 我々 の
学科 によ って
︑一 般教 育の あり 方︑ また 組織 改革 をめ ぐっ て八
〇年 代か ら九
〇年 代に かけ て毎 年の よう に行 なわ れた
︒当 時︑ 一般 に大 学の 諸悪 の源 は一 般教 育に ある かの よう にか まび すし かっ たし
︑ま た神 奈川 大学 の中 で一 般教 育の 組織 をど のよ うに 改革 する か様 々な 意見 や案 が検 討さ れて いた
︒私 は︑ 一般 教育 検討 委員 会の 学科 委員 をさ せら れて いた が︑ この 組織 改革 の方 針を めぐ って 学科 の中 で合 宿を 通し て活 躍さ れ︑ 仲間 から 期待 され るよ うに なっ たの が中 島先 生で あっ た︒ 先生 は︑ 在職 三十 五年 の中 で︑ 学部 長と なっ て昨 年学 長を 辞め るま での 約二 十年 間︑ ほと んど 切れ 目な く大 学の 教学 の長 を中 心に 大学 行政 を担 い活 躍さ れた わけ であ るが
︑先 生が この 分野 に目 覚め 先生 を突 き動 かす 発端 は︑ 一般 教育 に対 する 情熱 であ り︑ その 天性 のバ イタ リテ ィー と行 動力 がこ の二 十年 を支 えた と言 えよ う︒ 先生 は一 方で
︑一 九九 一年 から 日本 常民 文化 研究 所を 母胎 とし て始 まっ た﹁ 歴史 民俗 資料 学研 究所
﹂と いう 独 立大 学院 の教 員も 兼務 され てい た︒ この 分野 での 先生 の活 動は
︑学 内で も私 の知 らな い領 域で はあ るが
︑神 奈川 大学 が二
〇〇 二年 から 二〇
〇七 年に およ ぶ文 部科 学省 によ って 採決 され た二 一世 紀C OE プロ グラ ム﹁ 人類 文化 研究 のた めの 非文 字資 料の 体系 化﹂ にお いて
︑先 生の 研究 も重 要な 役割 を占 めて いる こと は言 うま でも ない
︒ 先生 は︑ 教学 の長 とし ての 激務
︵先 生は
︑こ の間
︑週 末に 自宅 に戻 るの みで
︑週 のほ とん どを 横浜 のホ テル を 利用 され てい た︶ の一 方︑ 研究 者と して も成 果を 残さ れて いる こと に驚 かさ れる が︑ これ も先 生の エネ ルギ ッ シュ な性 格が 関係 して いた ので あろ う︒ エネ ルギ ッシ ュと いえ ば︑ 思い 出さ れる 事が ある
︒先 生が 大学 に赴 任し て一 年目 ぐら いだ った と思 うが
︑体 育 館で 中学 時代 から 愛好 して いる バス ケッ トボ ール
︵高 校三 年時
︑東 京オ リン ピッ ク九 州ブ ロッ ク強 化選 手と なり
︑
自身 名手 との 自負 があ った
︒︶ の練 習中
︑ア キレ ス腱 を切 断さ れた ので ある
︒私 は体 育の 先生 から の連 絡で
︑元 住吉 の病 院に 見舞 いに 行く と︑ 御本 人︑ ニコ ニコ しな がら
﹁ぶ すっ とや って しま いま した
﹂︒ こち らは 妙な 安心 感を うけ たの であ った
︒先 生は
︑確 かそ の後
︑も う一 方の アキ レス 腱も 切っ てい るは ずで ある
︒そ れに もか かわ らず
︑二
〇〇
〇年
︑ヒ マラ ヤの アイ ラン ド・ ピー ク︵ 六一 八九 m︶ 登頂 を成 し遂 げる
︒ま こと に不 屈の 魂で ある
︒ この
度の 思い 出話 の締 めと して
︑ど うし ても 触れ ざる を得 ない 話が ある
︒そ れは
︑先 生も 二人 のプ ライ ベー ト な事 とし て述 べら れて いる よう に︑
﹁禁 煙同 盟﹂ の件 であ る︒ この 話は 先生 の名 誉に もか かわ るこ とな ので
︑私 は先 生が 公に しな けれ ば闇 の彼 方で もよ かっ たの であ るが
︑お 話の 内容 に些 か誤 りや 先生 の誤 解も ある ので
︑資 料2
︵岡 島・ 中島 協定
︶を ご覧 いた だき なが ら以 下述 べて 置き たい と思 う︒
︵実 は︑ この 協定 書の 上段 に︑ 協定 書作 成経 緯に つい ての 前文 があ るが
︑紙 面の 関係 で省 略し た︒
︶ まず
︑先 生は
﹁十 年ほ ど前
﹂と
︑さ れて いる が一 九九 六年 であ るか らも う二 十年 近く 前の 誤り であ る︒ 確か こ の年 の夏 休み に入 る頃 の打 ち上 げ会 の席 で︑ お互 いに 禁煙 する ため に罰 金制 度の 導入 はど うか と先 生が 提案 され たの であ る︒ 私は
︑こ の案 を話 半分 で聞 き流 して いた ので あっ た︒ とこ ろが 九月 に入 って
︑こ の様 な先 生の 署名 付き 協定 書が 私の メー ルボ ック スに 入っ てい るの を見 た時
︑お 話を 思い 出す と同 時に 少々 驚い たの であ った
︒た だ内 容を 読ん でに んま りと もし た︒ 私事 を申 し上 げる のは 恐縮 であ るが
︑私 の本 格的 な喫 煙歴 は遅 く三 十代 に 入っ てか らで あり
︑そ の切 っ掛 けは アメ リカ 土産 のコ ーン パイ プで あっ た︒ 八〇 年代 に入 ると ロン ドン のパ イプ 専門 店で 仕入 れた ブラ イア ーパ イプ で悦 に入 って いた
︒し かし 九〇 年頃 にな ると
︑W HO の勧 告も あり 欧米 では
喫煙 に対 する 風当 たり が強 くな って 来て いた
︒ ロン ドン の地 下鉄 構内 に巨 大で 数も 多か った タ バコ の広 告も 全て 無く なっ たの に気 付い た時 の 驚き は今 でも 忘れ られ ない
︒そ のよ うな 変化 の 中で
︑私 も親 族か ら自 らの 健康 問題 ばか りで な く︑ 場合 によ って は相 手を 説教 しな けれ ばな ら ない 職業 にあ る者 が吸 って いて どう する の︑ と 意見 され てい た︒ 五十 にな った ら禁 煙す るか と 考え
︑中 島先 生か ら話 があ った 頃は
︑す でに ほ とん ど止 めて おり
︑申 し出 に対 し︑ たと え一 本 に付 き一 万円 であ ろう とも 自信 があ った ので あ る︒ 私は
︑け っし て先 生か らの 協定 が切 っ掛 け で禁 煙し たの では ない
︒ 私が 中島 先生 のよ うに 今日 まで 悩ま しい 思い をせ ずに 居ら れる のは
︑一 つに パイ プに よる の では ない かと 思う
︒紙 巻き タバ コの よう に無 意 識に 手が 伸び 吸っ てし まう のと 異な り︑ パイ プ
資料2
の場 合は 仕事 中で あれ ば中 断し て一 つの 儀式 が必 要と なる
︒ま た︑ パイ プの 場合 は︑ 胸に 吸い 込む とい うよ り︑ 胃袋 で食 す感 じで ある
︒タ バコ の習 慣性 は紙 巻き より もパ イプ の方 が低 いよ うに 個人 的に は考 えて いる
︒ 先生 は︑ 私が
﹁律 儀に もこ れを 機会 にき っぱ りと 喫煙 をや めら れた
﹂と 記さ れて いる が︑ 先生 との 協定 を契 機 に禁 煙し たわ けで はな い︒ すで に実 質的 に止 めて いた ので ある
︒ま た中 島先 生の 作成 した 協定 はよ く読 むと
︑人 を食 った とい うか ユー モア に富 んで いる
︒一 本に 付き 一万 円の 罰金 で︑ 十万 円を 超え ると 協定 は自 動的 に無 効と なる
︑と いう 事は
︑十 本以 上吸 って 違反 しま した と自 己申 告す れば
︑一 銭も 罰金 を払 う必 要は ない ので ある
︒こ の条 項は 協定 が提 出さ れた 段階 で削 除す べき であ った
︒そ うし てあ れば
︑中 島先 生の この 度の 退職 金は すべ て私 の銀 行口 座に 振り 込ま れた にち がい ない
︒お そら くそ れで も罰 金は 足り なか った ので ある が︑ まこ とに
﹁後 の 祭﹂ であ った
︒ 先生 の誤 解を もう 一つ
︒そ れは
︑﹁ 岡島 は今 でも これ を額 に入 れて 大事 に飾 って いる
﹂と 述べ てい るが
︑先 生 が学 長に 就任 した 時︑ 私は
﹁せ めて 学長 職の 間は 禁煙 しな いと
﹂と 言っ たの であ るが
︑ど うも 無理 のよ うで あっ た︒ 特に 学長 室で 密か であ って も喫 煙さ れて はた まら ない
︵私 が学 生部 長の 折︑ 二〇
〇〇 年の
﹁健 康増 進法
﹂を 拠所 に︑ キャ ンパ ス内 は指 定場 所以 外︑ すべ て禁 煙と して いた
︶の で︑ 先生 を戒 める ため に特 別に 厚紙 の額 縁に コピ ーを 入れ 学長 室に 掛け ても らっ たの であ る︒ 額入 りを 作っ たの はけ っし て私 自身 が大 事に 飾る ため では ない
︒ 大変 な誤 解で ある
︒ 先生 がす でに 副学 長に なっ てか ら以 降︑ 平の 教員 とは 同じ キャ ンパ ス内 でも 住む 場所 が異 なり
︑ほ とん ど遭 遇 する こと もな かっ た︒ それ でも 何か の機 会に 一緒 にな ると
︑﹁ 先生
︑僕 少し いつ もと 変わ って いる と思 わな い?
﹂
と︒ こち らは
﹁何 が?
﹂︒
﹁分 らな い?
僕ね
︑こ の三 週間
︵時 には 十日 間︶ 吸っ てい ない んだ
﹂と
︑ニ コニ コ︒ この よう な会 話を 一年 に二
︑三 回繰 り返 した 年も あっ たよ うに 思う
︒ この よう に話 すと
︑先 生は まこ とに 意志 薄弱
︑優 柔不 断の 人間 と考 えら れて は困 る︒ 先生 は個 人的 には タバ コ に関 して は弱 い人 間的 一面 を有 して いた けれ ど︑ 公人 とし ては
︑困 難な 問題 に対 し︑ 毅然 とし た姿 勢で 臨ま れて いた
︒先 生は 学長 に就 任す ると
︑そ れま で積 み残 され てき た大 きな 懸案 事項
︑学 生定 員の 調整 が絡 んだ 学部 学科 の再 編︑ 平塚 キャ ンパ スの 整備 等の 諸問 題の 対応 に追 われ た︒ これ らは
︑学 内で 大き な利 害対 立を 孕ん でい ただ けに
︑そ の対 策と 解決 には 大変 はご 苦労 があ った と思 う︒ ただ 先生 の穏 やか で優 しい 人柄 が︑ 公人 とし ては 誤解 され たり
︑時 には 信頼 して いた 人物 に裏 切ら れた と感 じて 人間 不信 や孤 独感 に襲 われ るこ とも あっ たの では ない か︑ と憂 慮し てい た︒ 中島 先生 は︑ 在職 三十 五年 間︑ 私の
〝
戦 友〟
とし て︑ また この 約十 年は︑副 学長 そし て学 長と いう
〝
神 奈川 大 学の 顔〟
とし てほ んと うに 誠心 誠意 日々 努力 され てき た︒ 就任 以来︑身 近に 居た 一人 の友 人と して
︑改 めて
︑心 より その 御苦 労を ねぎ らい たい と思 いま す︒ すで に触 れた よう に︑ 先生 は公 人と して の立 場か ら長 く私 的生 活を 犠牲 にさ れて きた
︒そ の間
︑ご 家族
︑わ け ても 大学 人と して 研究 者で もい らっ しゃ る奥 様の 献身 的な 支え があ った ので ある
︒ ただ でさ え恐 妻家 であ る先 生も しば らく の間 は贖 罪の 日々 で大 変だ とは 思い ます が︑ 私も 割り 勘の 温泉 旅行 を 御一 緒で きる のを 楽し みに して いま す︒