1
2018
年2
月17
日 日本保険学会関西部会保険業界における市場規律の存在に関する一考察
関西大学商学部 徳常泰之
[email protected]
1.
はじめに金融ビッグバン以降、保険業界を含めた金融業界において規制緩和が進み、金融機関を取り巻 く経営環境が大きく変化した。保険会社を監督する金融当局が果たす役割は小さくない。だが、
保険会社の経営環境が変化するに伴い、従前の監督手法や規制の枠組みでは対応できなくなり、
変化せざるを得ない状況になっている。保険会社の財務的健全性を維持することが、保険会社や 金融当局にとって至上命題となっている。この流れの中で、市場規律の有効活用が求められる環 境になっている。
本報告では保険市場における市場規律の存在という視点から、保険業界における市場規律につ いて考察する。
2.
保険業界における市場規律2-1
市場規律とは金融業界における規律は以下の
3
種類が存在していると考えられる。1.
金融当局による規制を通じて生じる「監督規律」、2.
自社のガバナンスやリスク管理体制などの自社の行動を通じて生じる「自己規律」、3.
ディスクロージャーや格付会社、株式市場、マスメディアなどを通じて生じる「市場 規律」これらの
3
種類である。「1.金融当局による監督規制」は万全なものではない。また、「2.
保 険会社の自己規律」については十分に機能していたとは考えられない。金融市場の自由化が進展する中で、重要視されるようになってきている。特に銀行業界におけ る「市場規律」に関する研究が進んでいる。
保険自由化・規制緩和の流れの中では市場規律が重視されるようになってきたことが
Cummins and Danzon(1997)、Zanjani(2002)、Harrington(2004)、Epermanis and
Harrington(2006)、 Eling and Schmit(2012)、 Eling(2012)他の先行研究によって裏付けられてい
る。市場規律とは監督機能と影響機能から構成されている。市場規律の機能のうち法令などから逸 脱しないようにするように監督機能と、より良い評価を得られるように経営者にインセンティブ を与える影響機能とがある。
2
図
2-1 市場規律のイメージ図
出所 筆者作成
3.
市場規律の比較 (保険業界と銀行業界)保険業界における市場規律と銀行業界における市場規律は、性質を異にすると考えられる。両 業界の機能、法的環境の相違、商品の特性や他社への乗り換えが容易ではないことに起因してい ると考えられる。
表
3-1 銀行と保険の比較
銀行 保険会社
基本的機能 資金融通、間接金融 経済的保障の提供 セーフティネット 預金保険機構 生命保険契約者保護機構
損害保険契約者保護機構 会社形態 株式会社
持株会社の傘下にある場合も
株式会社と相互会社
持株会社の傘下にある場合も
破綻時 ペイオフあり ペイオフなし 保険金削減、予定利率引き下
げ、責任準備金の削減 会社数 都市銀行(*1):4、信託銀行(*1):16、
その他(*1):14、地方銀行(*3):64、第 二地方銀行(*3):41、外国銀行支店 (*4):55
生命保険会社(*3):41、損害保険会社(*2):
52、少額短期保険業者(*5):94
他社への乗り換え 易 生保:難、損保:易
商品の期間 自在 生保:長期、損保:短期から中期
顧客に対する立場 優越的立場に立つ可能性がある 銀行のような優越的立場にはない
商品特性 シンプルな商品 複雑な商品
健全性規制 バーゼルⅡ、Ⅲ ソルベンシーⅡ
金融庁 免許・許可・登録を受けている業者一覧 (http://www.fsa.go.jp/menkyo/menkyo.html) より、(*1)平成29 年4月1日現在、(*2)平成29年4月3日現在、(*3)平成29年9月1日現在、(*4)平成29年10月4日現在、(*5) 平成29年10月6日現在
出所 筆者作成。
金融当局・監督者
保険会社
市場
活用・連携
行政の効率を高める
行政処分
(指導・命令・報告徴求)
経営者の規律付け 市場参加者の総意
経営者の インセンティブ
3 3-1 銀行業界における市場規律
銀行業界における市場規律は、株価、劣後債、債券利率、預金保険、政府の提供するセーフテ ィネットの有無に出現すると考えられる。
表
3-2 銀行の市場規律の測定に関する先行研究の結果
評価項目 観測結果
○ × △
株価
10 0 2
劣後債、社債
8 0 4
預金保険、譲渡性預金
13 1 3
合計
31 1 9
研究対象国:U.S. 30 / ヨーロッパ 2 / 日本 4 / ポーランド 1 / US & ヨーロッパ 1 / その他 3 41事例 出所 Eling(2012) pp.194-207を元に作成。
3-2 保険業界における市場規律
保険業界における市場規律は、株価、保険料、解約・失効、収入保険料の伸び、セーフティネ ット、格付情報に出現すると考えられる。
表
3-3 保険会社の市場規律の測定に関する先行研究の結果
評価項目 観測結果
○ × △
株価
4 1 0
保険料
4 0 0
解約、収入保険料の伸び
5 0 0
セーフティネット
4 0 0
資産リスクと格付情報
1 1 0
合計
18 2 0
研究対象国:U.S. 18 / ドイツ 2 20事例 出所 Eling(2012) pp.209-214を元に作成。
また
Harrington(2004)によれば、保険業界における市場規律は、セーフティネットの有無、保
険料率設定、保有資産におけるリスク性資産の割合、解約率や収入保険料の変化に出現すると考 えられる。 (Harrington(2004) pp.168-169)
3-3 市場規律の関係者
市場規律を機能させる可能性のあるステークホルダーは、株主、銀行(メインバンク)、債権者、
契約者、格付会社、監督者、代理店などが考えられる。
Eling(2012)によれば、保険業界に関連する市場規律とその関係者、測定方法および関連性など
4
は以下のようにまとめられる。表
3-4
市場規律とその関係者との関係顧客と投資家(直接:監視と影響) 仲介者と評価者(直接と間接:監視と影響)
誰が? 顧客 株主 債券保有者 格付会
社
監督者・アナリ スト
代理店・ブロー カー
どのよう に?
リスクに敏感な顧客の 需要
株価 利子率 格付 投資家への推奨 顧客への推奨
測定方法 収入保険料 / 契約件数 の伸び、失効数
株価の変 化
利子率の変 化
格付の 変更
新規契約の推奨 の度合
新規契約の推奨 の度合
関連性 高い 限定的 限定的 高い 限定的 高い
出所 Eling(2012) p.189を元に作成。
顧客:既契約者のみか、潜在的(将来の)契約者を含めて考えるか?
株主:株式会社の場合のみ適用可能 相互会社の場合は基金拠出者が代替可能か?
格付会社:すべての保険会社が格付を取得していない。
監督者:金融当局が規制を通じてどこまで実効性のある監督をすることができるか?
代理店:保険会社の財務内容だけが顧客への推奨理由となっているか?
3-4 市場規律が機能するための前提条件 1.
契約者による会社選別のインセンティブ 破綻しそうにない会社、財務的に健全な会社2.
複数の会社を比較判断する基準の確立 ソルベンシー・マージン比率、格付情報3.
ディスクロージャー制度の整備・拡充企業の透明性を高めるためには、信頼できる情報開示が必要となるが、そのためには監督 当局による制度設計を通じた誘導や規律付けといったインセンティブ・ストラクチャーの 構築が必要となる。この点が機能すれば、市場規律を活用し、保険会社が破綻するという 危機の予防・解決につながる。
市場規律が企業にインセンティブを与えるものではなければならない。(影響機能)
4.
情報収集手段が容易であること年次報告書などの開示された情報の収集、理解の難易度
5.
セーフティネットの整備市場規律とセーフティネットとのバランス 経営者のモラルハザードの防止
セーフティネットが強ければ経営者のモラルハザードを引き起こす。契約者に規律付けの 行動をするためのインセンティブが働かない。
5 3-5 市場規律のメリットとデメリット
市場規律が有効機能しているのであれば、株価、格付情報、ソルベンシー・マージン比率とい
った
Input
に対して、市場、契約者、ステークホルダー、収入保険料、解約率といったOutput
が得られるのではないかと考えられる。
表
3-5 市場規律の測定
出所 Eling(2012) p.191を元に作成。
3-5-1 市場規律のメリット
・経営者に対するインセンティブ
自社の財務内容をより健全性の高い状態に導こうとする経営者に対する動機づけ ソルベンシー・マージンを良い状態に、良い格付を取得できるように導く
・行政の規律付けとの連携
・市場規律の反応速度
株価、格付情報、ソルベンシー・マージン比率、社債・劣後債の利子率 (速い / 遅い
)
・指標の分かりやすさ
3-5-2 市場規律のデメリット
・適切な指標選定の難しさ
・市場規律の暴走の可能性
ex.
取り付け騒ぎ・市場規律の反応速度
株価、格付情報、ソルベンシー・マージン比率、社債・劣後債の利子率 (速い / 遅い
)
・市場規律の対象となる指標の信頼性
・持株会社の存在
直接保険会社に規律が届かない可能性 (株価をもとにした市場規律の場合
)
リスク状況に関する市場の情報(Input) 情報提供者 市場の反応(Output)・投資家主導型の市場規律
年次・中間報告 会社 投資家の意欲が株価に反映
臨時の情報開示 会社
経営者の方針 会社
アナリストのコメント アナリスト
企業財務状況の格付 格付会社
経営権取得の申し入れ 競争相手 利回り
・顧客主導型の市場規律
保険商品の格付 格付会社 収保に反映される顧客の要求
解約・失効
剰余金の配当 会社
不平・不満に関する統計 監督者 協会により発行された統計 保険協会
6
・相互会社の場合
株価を通じた市場規律はない。
4.
日本の保険業界における市場規律の要因先行研究を参考にして、日本の保険市場、保険業界に市場規律が機能しているかどうかを検証 する。
情報の非対称性の存在、情報取得のためのコスト、情報の判断能力、規律付けに関する行動を 市場参加者がとるためのコストなどの問題が存在する点を踏まえ、契約者などの利害関係者が保 険会社により開示された情報をもとに、保険会社の経営状態を的確に判断することができるか?
開示される情報の信頼性、透明性、入手しやすさ、質、分かりやすさなどの特性を考慮に入れ、
どの項目を保険会社が開示すれば、市場規律の有効活用に結び付けることができるのか?明らか にするため、実証分析が必要となる。
4-1 分析対象となる変数について 4-1-1 株価による市場規律の測定
株式会社の場合にのみ可能。ただし持株会社の傘下にある場合には保険会社を直接評価できな いため測定困難。
相互会社は
5
社のみ。4-1-2 保険料による市場規律の測定
日本の場合、比較可能な保険料が保険会社各社から公開されていない
生命表や参考純率は公開されているが、保険料にどのように反映されているかについては各社 間で差がある 純保険料に大きな差はないと考えられるが、付加保険料には差があると考えられ る。
類似の商品であっても、各社間では差異があるため保険料の高低を比較することは困難。
4-1-3 セーフティネットの有無による市場規律の測定
日本の場合、生命保険業界、損害保険業界ともにそれぞれに契約者保護機構というセーフティ ネットが存在しており、日本で営業するすべての保険会社が加入している。そのためこの点での 比較は困難。
4-1-4 解約による市場規律の測定
生命保険会社の場合、年次報告書で個人保険、個人年金保険、団体保険の解約率が公開されて いる。損害保険会社では公開されていない。
4-1-5 収入保険料による市場規律の測定
年次報告書で収入保険料が公開されている。4-1-6 その他の市場規律の測定に用いられる可能性のある指標
7
ソルベンシー・マージン比率、格付情報、収入再保険料、EV(生保の場合、ただしすべての生 命保険会社が公開しているわけではなく、公開している会社でも異なる基準の
EV
で算出されて いる場合もあるため一律での比較はできない)5. まとめ
保険制度は現代社会の安定を支える重要な経済制度の一つである。しかし保険制度は、将来に 発生するかもしれない損失を填補するため、分かりやすい制度とは言えず、保険事故に際しての 保険金支払いに不確実性を有するという特徴がある。
この特徴があるため、保険を販売し、保障を提供する保険会社に対する正確な評価を将来にわ たって行うことが困難である。
金融当局が保険会社に対して、監督・規制を行っているが、それによってすべての問題が解決 されるわけではない。金融当局による規制にも限界が存在する。仮に今の時点で非常に優れた規 制が制度設計することができたとしても、急速に環境が変化する経営環境下において、優れた規 制であり続けることを望むことはできない。時間の経過とともに、規制と現状が適合しない状態 に陥ることが予想される。ここに、金融当局による規制の限界があると考えられる。
この点において、市場規律の必要性があると認められる。効果的な市場規律につながる保険会 社による適切な情報開示の制度設計と開示された情報の信頼性が市場規律を有効に機能させるた めの前提条件になる。
時宜にかない、精密で信頼できる財務情報を開示することが効果的な市場規律の活用に不可欠 である。情報開示によって、企業の透明性を向上させることが可能になり、当該企業だけでなく、
ステークホルダーの利益につながる。適切な情報開示とは何か?開示される情報の量、質、企業 の規模、業界(監督官庁、規制当局)、組織形態、経営陣を含めこの問題はとても重要な問題であ る。
仮に市場規律を有効活用できたとしても、それによってすべての問題が解決できるわけでもな い点には注意が必要であると考えられる。保険会社の財務状況を的確に把握する枠組みは、経済 価値ベースのソルベンシー規制へとつながっていく。
そのため、金融当局の規制、保険会社の自己規律(ERM:全社的リスクマネジメント)と市場規 律とを組み合わせて活用することが望ましい。市場規律の特徴を踏まえた上で、金融当局の規制 の枠組みを設計する必要がある。
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