今日の話題
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化学と生物 Vol. 52, No. 3, 2014
古くて新しい調味料「魚醤」
速醸魚醤の生産とその利用
魚醤は東南アジアを中心に広く使われている調味液 で,発酵した魚からアミノ酸やペプチドが遊離し,独特 の旨みを呈する.旨みの主役は L-グルタミン酸などの遊 離アミノ酸であるが,約20種類のアミノ酸は魚の種類 によって組成が異なり,さまざまな味を楽しむことがで きる.タイの魚醤である「ナンプラー」はアンチョビ
(カタクチイワシ)などを,ベトナム魚醤の「ニョクナ ム」はアンチョビやアジなどが原料として使われてい る.日本では秋田のハタハタを主な原料とする「しょっ つる」や能登のイカの内臓やイワシを使った「いしる」
が知られている.これらの魚醤は秋田や石川の郷土料理 に用いられているが全国的にはあまり普及していない.
一方で,独特の風味をもつ魚醤は,日本でもさまざまな 調味料の隠し味として使われており,海外から約5,000 t が輸入されている.
伝統的な魚醤は,魚を大量の食塩(原料魚に対して約 20 〜 30%)に漬け込み,数カ月以上じっくりと発酵さ せ,主に魚自身のタンパク質分解酵素の作用により作ら れる.一方,酵素製剤や麹を添加することによる発酵加 速化の取り組みも見られるが,2011年に採択された魚 醤に関する国際規格のコーデックス (Codex) では,魚 醤は最低6カ月間発酵したものと定義している(1)
.
しかしながら,発酵を加速して得られる新しいタイプ の魚醤も,伝統的方法(従来法)で作られた魚醤に劣ら ぬ良好な風味を有している.われわれは,魚介類加工工 場で副生する内臓などの有効利用を目的に研究に着手 し,短時間の発酵(速醸法)で魚醤様の調味液を調製す ることができたので,「新しい魚醤」(速醸魚醤)として 紹介する.
まず,われわれは魚醤生成の仕組みを知るために,魚 醤生成に関与する酵素類の性質の検討から始めた.サバ の内臓(幽門垂)からタンパク質分解酵素を抽出しその 性質を調べたところ,魚醤生産時に雑菌の増殖を抑える ために添加される高濃度の食塩は,この分解酵素の活性 を著しく阻害すること,また,酵素は温度の上昇ととも に活性化され,50 〜 60℃においては,常温での反応と 比べ約3倍近く強くなることを認めた.また,抽出した 酵素液には,トリプシン,キモトリプシン,エステラー
ゼが含まれていることを確認している.なお,この高温 条件では食塩を添加しなくても雑菌はほとんど増殖しな い.そこで,この無塩・高温条件でサバの内蔵を発酵し たところ,われわれが従来の方法(食塩20%添加,常 温発酵)で約1カ月かけて調製していたサバ魚醤とほぼ 同じ濃度の L-グルタミン酸を含む発酵液が,僅か15時 間前後で得られることがわかった(2, 3)
.
速醸法には以下のメリットがある.
①発酵生産性が高いこと タイ魚醤「ナンプラー」
は,原料のカタクチイワシなどを約1年間発酵すること で作られているが,われわれは,速醸法を応用すると4 日間で発酵が完結することを確認した.L-グルタミン酸 をはじめ各種アミノ酸濃度も1年間発酵した市販品に比 較して全く遜色はない.このように短時間で発酵が終了 するので発酵設備はコンパクトなものでよく,また,さ まざまな魚介類を原料とする調味液を短期間で試作評価 することができる.試作した速醸魚醤11種類中のアミ ノ酸比較を行ったところ,旨味成分である L-グルタミン 酸を最も多く含んでいたのはカタクチイワシを原料とし た速醸ナンプラーであった.ニシン魚醤には L-アルギニ ンがほかの魚醤よりも2, 3倍多く含まれており,独特の 風味を呈する.アミノ酸総量が最も多かったのは,イワ シの内臓を原料とした速醸魚醤であり,総重量の10%
にも達する.現在,このような特徴ある速醸魚醤を地域 の方々と開発中である.
②添加食塩濃度が加減できること 既述のとおり速醸 法の特徴の一つは発酵時に食塩を添加しないことにあ る.発酵終了後に食塩を添加するが,その量は必要に応 じて加減することができる.原料に対し15%の食塩を 添加したサバ魚醤は,麺汁の隠し味として使用されてい る.また,食塩を添加しないで精製すると無塩魚醤がで きる.無塩魚醤と大豆醤油を等量でブレンドすると,醤 油の食塩濃度が半分に低減された減塩魚醤油ができ る(4)
.このような減塩魚醤油は魚のペプチドも含む新し
いタイプの醤油として販売されており,塩分を控えてい る方々から好評を得ている.③高度な品質管理ができること 高温かつ短時間で発 酵が完結するので,発酵中の雑菌汚染がほとんどない.
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化学と生物 Vol. 52, No. 3, 2014したがって,発酵過程で生成した遊離アミノ酸の一つで あるL-ヒスチジンが雑菌の脱炭酸酵素によってヒスタミ ンへ分解されることはほとんど認められない.ヒスタミ ンは大量に摂取するとアレルギー反応や中毒を起こすと 言われており,Codexでは400 ppm以下であることを求 めている(1)
.
④総アミノ酸含量が高いこと 従来法で製造された魚 醤と比べて,速醸法による魚醤中のアミノ酸プロファイ ルはほとんど変らない.むしろ速醸法ではアミノ酸の分 解が少なく,総アミノ酸量が多くなる.また,サバ魚醤 では,L-リジンや L-ロイシンなどの必須アミノ酸濃度が 高いことを認めている(図
1
).
魚醤は魚を塩漬けにして長時間発酵して得られる伝統 的な調味料であり,その製法を守ることは伝統の味を守 るために極めて重要なことである.しかしながら,発酵 時間が長いこと,塩分濃度が高いことなど改良の余地が あった.今回,発酵条件を検討した結果,高温条件にて 発酵することで微生物の汚染を回避しながら魚のタンパ ク質分解酵素活性を高め,かつ食塩無添加によってさら にタンパク質分解酵素活性を高めることによって発酵時 間を大幅に短縮できることを示した.アミノ酸組成は長 期間発酵したものとほとんど同じであるが,総アミノ酸 量は高い傾向にあった(図1)
.また,発酵時間の短縮
により,アミノ酸の分解が起こりにくくヒスタミンの生 成がほとんど認められないこと,および食塩濃度の低減 化が可能であることなど,品質面での改善も図ることが できたと考えている.一方で,短時間で発酵したものは アミノ酸組成が同じでも魚醤ではないという見方もあ る.これは時間をかけることによる熟成工程こそが魚醤風味の向上に必須なプロセスであるとする考えである.
アミノ酸以外のペプチド成分や有機酸類,また味以外の 香りに関する各種成分の微妙な変化に違いがあるのかも しれない.そのような風味に関する成分の網羅的な解析 も今後期待される.ここで紹介した速醸魚醤は熟成こそ していないが,塩分や臭いがマイルドでほかの調味液と ブレンドしやすく,使いやすいとの評価を得ている.そ して,この「新しい魚醤」が新しい発酵調味液として伝 統的な魚醤と共存しながら普及することを願っている.
今回,古典的な発酵食品である魚醤を研究素材として 取り組んだが,研究過程で興味ある知見がいくつか得ら れている.たとえば,速醸ナンプラーでは発酵直後に著 量遊離する L-アルギニンが,速やかに分解されることが 観察された.これは,カタクチイワシに L-アルギニンを 分解する強い酵素が含まれていることを示唆している.
したがって,市販のナンプラーに含まれる L-アルギニン 量は極めて低濃度である.また,速醸ナンプラー発酵過 程で遊離するアミノ酸を経時的に分析すると,L-リジン や L-メチオニンなどは発酵初期に,L-グルタミン酸や L- アスパラギン酸は発酵後期に生成することがわかった.
この現象とタンパク質分解酵素との関係にも興味がもた れる.このように,古典的な研究素材を新しい視点で見 直すと,新しい現象が見えてくる場合がある.古典発酵 には興味が尽きない.
1) CODEX STAN 302-2011, STANDARD FOR FISH SAUCE.
2) 福井県立大学:特開公報2011-182663.
3) 宇多川 隆:日本醸造協会誌,107,477 (2012).
4) 福井県立大学:特開公報2013-138654.
(宇多川 隆,福井県立大学生物資源学部)
プロフィル
宇多川 隆(Takashi UTAGAWA)
<略歴>1974年京都大学大学院農学研究 科農芸化学専攻修了(農学博士)/同年 味の素(株)入社/1986年米国駐在/1998 年タイ味の素(株)副社長/2001年味の素
(株)発酵技術研究所取締役所長/2005年 クノール食品(株)取締役社長/2008年福 井県立大学生物資源学部教授/2009年同 学部長/2013年特任教授・理事・副学長,
現在に至る<研究テーマと抱負>伝統的古 典発酵の近代的研究:古典発酵に学び新し い製品・技術を創りだすこと,即ち「温故 創新」的研究の追求.海外を含め,地域に 残る伝統的発酵食品に興味があります<趣 味>伝統的古典落語を学び新しい笑いを追 求すること.ゴルフ
図1■従来法と速醸法とで製造された魚醤中の遊離アミノ酸比 較