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台湾の高齢者デイケアセンターにおける「ケア」の意味

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1.本研究の目的

近年,対人援助やケアの実践の場において,

傾聴の果たす役割に関心が持たれている(佐 野,2015;中西,杉澤,石川,杉原,2009;原,

2014;横山,2006)。傾聴は,先入観や一般常識 などの評価的枠組みを捨て,他者の言葉を共感的,

受動的に受容し,その語りの奥行きを受け止めつ つ,相手のいかなる心の動きにも聴き入る態度で ある。こうした行為が重視されるようになった背 景として,「傾聴」そのものに,対人援助過程に おける一つの技法であることを超えた「援助的意 味」が包含されていることが挙げられる。

特別養護老人ホームにおける実践から,傾聴 の意味を考察した村田(1996)は,傾聴におけ る「語り」が聴き手という存在を与え,同時に聴 き手が「語り」を通して,その相手である語り手 に存在を与えるという存在論的立場から,傾聴は 援助者自らが「聴く」態度を取ることによって,

「他者に『存在』を与えること」であるとしてお り,対人援助における傾聴の援助的意味を「他者 の存在の回復と支持」にあると結論づけている。

では,傾聴における「他者の存在の回復と支 持」とは何を指すのか。それは,これまで「聴か れた」経験がない相手(=他者)を,人格を持っ た一人の人間として尊重しつつ,その語りを無条 件に受け止めることで,人としての存在を与え認 めること,すなわちその人自身を肯定する行為で

あると考える。実際に,継続的に傾聴を受けた者 の多くは,その後の生活における態度や雰囲気に 変化が見られるという。村田(1996)は,「それ は多くの場合,その人の安定・成長・成熟を意味 する内容である」と報告している。これは,傾聴 により語り手自身の存在が与えられたことで,こ れまで否定的であった自己の回復がはかられ,結 果的に心の安定に繋がったことを意味しているの ではないだろうか。このように,傾聴という行為 は「他者の存在の回復と支持」を実現し,語り手 の心に直接働きかけることができるものであるが,

「ケア」という側面から考えた場合,忘れてはな らないのは,それが道具や目に見える身体的介助 によらない言語を用いたケアだということである。

言い換えれば,傾聴とは言語による心のケアであ るといえる。

本稿は,台湾の高齢者デイケアセンター玉蘭 荘1 の日本人スタッフ2名に対して行ったインタ ビューをもとに,施設会員に対する「ケア」の本 質が,傾聴にあったことを明らかにする。特に,

傾聴の持つ意味である「他者の存在の回復と支 持」を鍵概念として,玉蘭荘という施設を介護支 援が必要な高齢者のためのケアの場という側面か ら捉えるのではなく,そこで実際に行われていた

「ケア」が,会員の存在の回復と支持にどう結び ついていったのかという過程をスタッフの視点か ら詳述する。さらに,こうした心のケアとも呼ぶ べき行為が「日本語」で行われた意味を考えた上

1 社團法人台北市松年福祉會玉蘭莊(URL:http://

www.gyokulansou.org.tw) キーワード

傾聴,日本統治における台湾,ケア,ことば,人間性の回復

【教育研究ノート】

台湾 の 高齢者 デイケアセンターにおける 「 ケア 」 の 意味

佐藤 貴仁

* 早稲田大学日本語教育研究センター(Eメール[email protected]

ことばを 通 した 人間性回復 の 場

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で,玉蘭荘という施設が果たしている役割を考察 し,その意味を捉えることを本研究の目的とする。

2.玉蘭荘について

2.1.玉蘭荘概要

本研究を行うにあたり,全面的に依拠した玉蘭 荘という施設の概要を説明する前に,本稿におけ る「ケア」の捉え方を明確にしておきたい。一般 的に,「高齢者デイケアセンターにおけるケア」

から捉えるケアの意味は,福祉施設で行われる高 齢者を対象とした介護支援だと考えられがちであ る。しかし,本研究における「ケア」とは,「高 齢者介護」という文脈で語られるものではない。

実際に玉蘭荘に集う人々は平均年齢が80歳以上 の「高齢者」がほとんどであるが,そこで主に行 われていることは,身体的援助等のケアワーク ではなく,「日本語によるケア」である。これは,

玉蘭荘という施設の特徴を最もよく表しており,

ホームページに記載されている以下の施設紹介文 にも見て取ることができる。

玉蘭荘は,(中略)日本語を通して心身と もに支えていく高齢者の為のデイケアセン ターを目指して誕生しました。戦前や戦後 に台湾や中国の方と結婚した日本婦人や,

かつて日本教育を受けた台湾の人々にとっ ても,日本語によるケアは大きな意味を 持っています。(玉蘭荘ホームページ「玉 蘭荘の紹介」より抜粋)

では,「日本語によるケア」が持つ意味ならび に,台湾にありながらも来所者の約9割である 台湾人に対し,日本語で「ケア」を行う意味はど こにあるのだろうか。これらの疑問に答えるべく,

施設の紹介,活動形態と内容および,会員が持つ 背景について以下に述べる。

玉蘭荘は台湾の台北市に所在する,日本語で活 動を行っている高齢者のためのデイケアセンター である。日本のキリスト教組織が母体となって 1989年に誕生したこの施設では,通常1週間に 2回,月曜日と金曜日に活動日を設けている。活 動内容は,キリスト教団体によって設立された経 緯から,外部より招聘した牧師による礼拝に始ま り,歌唱や手工芸,習字や英語,医学講座など,

それぞれ専門家を招いて実施しているほか,遠足 やバザーなどの行事に加え,日本の高校生や現地 の日本人学校の児童生徒との交流会なども,不定 期で実施されている。

このような活動を日本語で行うことが,先述し た玉蘭荘における「日本語によるケア」に繋がっ ていると捉えられるが,その運営は日本人,台湾 人双方による常勤スタッフとボランティアスタッ フに支えられている。毎回の活動には常に40~ 50名の会員が集っているが,一体彼らはどのよ うな背景を持っているのだろうか。玉蘭荘のパン フレットには,そのタイプを大まかに3つに分 けて以下のように説明されている。

1.過去50年に及ぶ日本統治時代(1895年

~1945年)に当時強いられた日本教育によ

り,文化や習慣までも影響を受けてきた台湾 の人々(台湾生まれの日本人も含まれます)。

既に日本教育により自己形成がなされてきた この人々は,戦後再び台湾の教育を強いられ るという境遇におかれました。

2.日本統治時代に台湾の男性と結婚した日本 婦人で,その後も家族と台湾に残り,子供を 育て上げた人々。

3.戦前日本より中国大陸に渡り,敗戦後現地 で中国人と結婚し,夫と共に台湾に移り住ん だ日本婦人。

(玉蘭荘パンフレットより抜粋)

現在,玉蘭荘に通っている9割弱の会員が1. 該当する。彼らは,日本統治時代に「日本人」と して日本語で教育を受けた世代であり,期間の差 こそあれ,そのほとんどが台湾教育令2 施行後の 公学校3(あるいは小学校)において教育を受けた 経験を持つ,日本語を話す人々である。だが,戦

2 1919年施行。これを機に「台湾の教育制度は確立 され,日本語教育の体制が整った」(蔡,1989,p.

57)とされる。この教育令は,台湾人子弟を「日本 人同様に化育する」方針をとり,より徹底した同化 主義を標榜したとされている。よって,1919年以 降に初等教育を受けた台湾人は,制度としては「日 本人」同様の教育を受けることになったという歴史 的経緯がある。

3 台湾人子弟が通う初等教育機関。原則的に日本人子 弟(一部台湾人も含まれる)が通う「小学校」とは 区別されていた。

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後の社会において,そのほとんどが現在まで日常 的に日本語を使用してきた訳ではなく,彼らの 公的な日本語の使用は,戦後間もない時点で終 わっている。なぜなら,1947年から日本語に関 する様々な禁止令が段階的に施行されたのに続き,

1949年に戒厳令4が発令されたことにより,公共 の場における日本語使用は禁止され,日本出自の ものは社会から排除されるに至ったからである。

こうして,社会における彼らの日本語の人生は,

そこで終焉を迎えることになったのである。

玉蘭荘には,上記の背景を持つ者が会員の多数 を占めるが,戦後から70年が経った現在におい ては彼らも高齢となったため,歩行に困難を抱え ている者や,来所には付き添いが必要な者もいる。

それでも週2回の活動日には,欠かさず出席する 会員も多い。そんな彼らとの出会いは2008年に 遡る。きっかけは,当時台湾で日本語専門家とし て勤務していた機関発行の機関誌の編集業務を担 当した際,玉蘭荘を取材したことによる。記事の 本来の目的は,台湾の様々な場所で学習され,使 われている日本語を紹介することにあった。よっ て,従来の日本語学習者には当てはまらない彼ら の存在は,取材対象として単純に興味を惹かれる ものがあり,取材を申し込んだという経緯がある 一方,その歴史的背景にまでは,私自身の意識が 深く及んでいたという訳ではなかった。また,台 湾において日本語を話す彼らの存在ならびに,そ の世代の人々が,玉蘭荘という施設に集っている 意味を捉えていたとも言い難いだろう。

だが,実際に玉蘭荘を訪問し,活気に満ちた雰 囲気の中,会員とスタッフが生き生きと話す姿に 触れ,当初の「単純な興味」とはまた違った思い が湧き起こってくるのを感じたのも事実である。

それは,まさに自分たちの言葉として,玉蘭荘に 関わるすべての人々が日本語で繋がっているとい う強い印象と,会員へのインタビューから,玉蘭 荘における「ケア」について考えた場合,日本語 が大きな役割を果たしているのではないかと直感 的に感じたことであった。その際のインタビュー

4 1949年に施行され,1987年に解除された。戒厳令 下においては集会・結社・言論活動などの自由が制 限され,一般民衆に対する厳しい監視と政治的な抑 圧が常態化し,いわゆる「白色テロ」(国民党政権に 敵対的である人物に対する勾留,粛清の実施など) の時代が続いた(五十嵐,三尾:2006,p. 325)。

の一部を以下に抜粋する。これは,ある会員が玉 蘭荘の活動に対して語ったものである。

ここでは日本語で讃美歌を歌って,日本語 で聖書を読み,日本語で礼拝する。それが 好きなんです。どうして(『日本語』によ る活動にこだわるの)か,と言われても分 からない。その辺の感覚は成人してから日 本語を習い始めた人と全然違うでしょう。

日本語は自分の一部。日本語での活動がな かったら,ここには来ないでしょうねぇ。

上記からは,日本語に強いこだわりを持ってい ることが分かる。また,ほかの会員は,玉蘭荘に 集う人々が創り出している場の雰囲気について,

「ここの活動はボランティアの皆さんが支えてく れていると思います。その方々が架け橋となって,

いい雰囲気や文化を作り出している。日本語を通 じて繋がっている感じです。もし,そういう雰囲 気がなければ,ここはただのケアセンター」だと 述べていることからも,施設にとって日本語が大 きな意味を持っていることが窺える。すべての会 員がこのような思いで来所している訳ではないと 考えるが,やはり玉蘭荘を語る上で「日本語」が 一つのキーワードとなっていることは明らかだろ う。では,玉蘭荘において日本語はどのように位 置付けられているのか。それを探るべく,言語と いう観点からこの施設を捉えてみようという考え に至った。

2.2.「日本語によるケア」を巡る玉蘭荘の捉え られ方とスタッフの意識

既述の通り,玉蘭荘での共通言語は日本語であ り,活動はほぼすべて日本語により運営されてい る。台湾に所在しているにも関わらず,このよう な性質を持つ玉蘭荘の特殊性からか,この施設を 扱った論考も発表されている。

田村(2002)は,デイケアセンターという施 設そのものに焦点を当てることにより,玉蘭荘が

「日本語を介して高齢者を支える福祉施設」と捉 え,センターでの活動がどのように行われている のか詳細に記述している。会員の活動や背景に焦 点を当てた張(2011)は,「日本語世代」の人々 が来所する理由を「日本的雰囲気に親近感を覚え るため」だと述べている。しかし,その背景にあ

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る「日本語世代の台湾人たちはなぜ玉蘭荘のよう な場所を必要とするのか」という,自らが呈した 疑問に対する回答は,今後の課題として残してい る。大月(2011)は,台湾の日本統治という歴 史的な経緯から同センターの必要性を捉え,その 在り方として,「言語という問題を考えたときに,

一般の施設とは違う視点でケアを行わなわなけれ ばならない」とするスタッフの証言を引用してい るものの,言及の裏側にある言語とケアの関係に までは,踏み込んで記述されていない。

このように,上記論考はそれぞれの視点を持ち ながらも,「日本語によるケア」を行っていると いう玉蘭荘の固有性に目を向けている点では一致 している。しかし,固有性を取り上げている一方,

内実には触れていないため,その意味を考えるま でには至っていない。しかし,大月(2011)に 見られた「言語という問題を考えたときに,一般 の施設とは違う視点でケアを行わなわなければな らない」という日本人スタッフの証言からは,ス タッフ自身が言語に視点を置いた「ケア」を意識 していることが分かる。このスタッフは,徳田

(2012)においても,玉蘭荘では「何をケアする かというと,『言語のケア』」と答えていることか らも,それは明白であろう。また,別の日本人ス タッフは,玉蘭荘に集う人々は皆「日本語が大き な結び目となって繋がっている」と述べ,台湾在 住の日本人高齢者のみならず「台湾の日本語世代 の方にとっても,日本語でケアすることが必要な のではないかと気づいた」(佐藤,2008)と証言 している。

上述の日本人スタッフ2名は,会員に対する

「日本語によるケア」の重要性について幾度とな く言及している。しかし,本研究を始めた当初,

私はそうした言動には留意していなかった。玉蘭 荘のケアの内実を描くには,スタッフではなく,

むしろ当事者である会員の語りを聴くべきだと考 えていたからである。実際,スタッフよりも以前 に玉蘭荘の台湾人会員15名に対しインタビュー を試みており,初回のインタビューでは会員それ ぞれから,大いに意味のある語りを聴くことがで きた。だが,「玉蘭荘における『日本語』が持つ 意味とは何か」という当初の問題意識に対する答 えを,語りから導き出すことはできなかった。な ぜなら,ケアを受ける側である当事者ゆえのこと かもしれないが,彼らは玉蘭荘やそこでの活動に

ついて,「日本語で活動することが楽しい」「雰囲 気がいい」「自分の家のように温かい」というよ うな感想しか語らなかったからである。

一方,フィールドワークとして玉蘭荘に身を置 き,活動日には常時10名前後いるスタッフの会 員への対応を観察しているうちに,「日本語によ るケア」の重要性を指摘したスタッフ2名とその 他のスタッフには,明らかな違いがあることに気 づいた。非常に感覚的であるが,先述のスタッフ 2名には,他のスタッフにはない会員からの「信 頼感」や,会員との「親密さ」が透けて見えてい た。それ以外のスタッフは,ほとんどが夫の赴任 に伴い台湾に滞在している駐在員夫人という立場 のボランティアであった。駐在員は通常3年前 後の赴任期間を過ごし,帰国の途につく。した がって,大多数のボランティアスタッフは,玉蘭 荘での活動が滞在期間よりも短いことになり,週 2回の活動だけでは,会員と深い関係性を築くこ とがないまま,日本へ帰国することが想定できる。

だが,当該のスタッフ2名は,ともに約20年間 という長きに渡る歳月の中で,彼らと深く関わり 交わってきた経緯があり,客観的にも双方の結び つきが強いことが感じられた。それは,長く関 わったからこそ構築された関係であり,そうした 関係性の中で,スタッフ2名は「日本語による ケア」の重要性を体得したのかもしれないと考え た。

以上から,玉蘭荘における日本語の意味を探る のであれば,会員のみならず,彼らに長く関わっ ているスタッフに対してもインタビューをすべき ではないか,という思いに繋がった。そこで,当 初抱いていた問題意識である「玉蘭荘における

『日本語によるケア』の意味とは何か」という疑 問を明らかにすべく,上記スタッフ2名にイン タビューを試みることにした。

3.スタッフへのインタビュー

3.1.インタビュー調査概要と分析方法

インタビュー当時,玉蘭荘の常勤スタッフで あった真理子さん(仮名)と元ボランティアス タッフの陽子さん(仮名)に,「玉蘭荘において どのような活動を行ってきたのか」というナラ ティヴ生成質問を設定し,インタビューを行った。

これは,これまでの活動に関連する自身の主観的

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な記憶を,現在の視点から自由に語ってもらうた めである。なお,2人の基本的情報は表1のとお りである。

分析の観点として,2.2.で概観した過去の 論考や記事における2人の発言を手がかりに,初 めて玉蘭荘を訪れた際に感じた私自身の問題意識 にも通じる,「玉蘭荘における『日本語によるケ ア』の意味とは何か」という問題を設定した。分 析に際しては「シークエンス性の形式を前提と している」(フリック,1995/2002,p. 420)ナラ ティヴ分析を用いた。この「シークエンス性」と は,「インタビューで語られた流れではなく,出 来事が起こった時間的な経過」を指す。ナラティ ヴ・インタビューにおける語りは,その出来事と 経験が時間的順序に沿って述べられる訳ではない ため,シークエンス性を重視した分析においては,

「語られた出来事を,その出来事の時間的な前後 関係に従って並べ直す」(フリック,1995/2002,

p. 430)ことが必要となる。

なぜ,この方法を採用したかというと,イン タビューにおいて,会員と関わってきた時間の 経過とともに,施設やケアに対する認識が変容 していったことが,スタッフ両者から認められた ためである。つまり,玉蘭荘に関わった当初か ら「日本語によるケア」に重要性を見出していた 訳ではなく,活動を通し,会員に接する中で気づ きが生まれ,そこから彼らに対する「日本語によ るケア」の意味を捉えるに至ったことが分かった。

よって,時間性に着目し,語りから時間軸に沿っ たその変容プロセスを描き出すことで,「日本語 によるケア」の本質的な意味の一端が明らかにな ると考えた。以下にその変容の過程を述べていく ことにする。

3.2.スタッフ両者の意識の変容

インタビューを分析した結果,真理子さん,陽 子さんともに,時間の経過に伴う同様の意識の変 容が見られた。それは,両者が玉蘭荘に関わり始 めた当初の「高齢者福祉施設」という施設に対す

る認識から,その在り方に違和感を持ち始め,会 員に接するうちに別の気づきが生まれ,最後には 自分たちなりの玉蘭荘および会員に対する捉え方 の変化であった。両者の語りを元に,2人の意識 の変容を時間の進行に従って捉えたところ,その プロセスを以下の4段階に分けることができた。

① 玉蘭荘に関わり始めた当初の「高齢者福祉 施設」における活動という認識

② 会員に接するうちに感じた「高齢者福祉施 設」とは捉え切れない違和感

③ 会員のたわいもないことを聴くことによる 彼らの喜びへの気づき

④ 日本人である自分が日本語で関わることの 重要性に対する認識

3.2.1.玉蘭荘に関わり始めた当初の「高齢者 福祉施設」における活動という認識

2人の語りから,真理子さん,陽子さんとも最 初は玉蘭荘を「高齢者福祉施設」と認識していた ということが分かった。玉蘭荘に関わり始めた当 初の印象を,真理子さんは以下に述べている。

(当時の玉蘭荘総幹事は)ここを老人福祉 と思われて,結局,早く台湾の方に,ここ をね,譲るんじゃないけど,担ってもらう ということで。本土化ですよね。まぁ,頭 で考えればそうなんです。本土化というの は,自分たち,自国の人が自分たちでやっ ていくのが一番望ましいと。そういうふう に考えられて,老人福祉という立場で考え られた。だから「真理子さんも一年くらい でね,あとは黒子のように後ろからサポー トしてください」って言われたんですよね。

はじめに入った時は「ああ,そうなんです か」と。老人福祉の頭で入ったんですよ。

また,陽子さんも「やっぱり最初は分からな かったんですよ。どういう風にすることがいいの か。どんなにすることが彼らの要求に合うのか,

日本の老人と同じなのか,さっぱり分からなかっ 表 1.インタビューデータ

対象 性別 活動歴(当時) 場所 日時 時間

真理子さん 女性 18年 玉蘭荘 2012年9月18日 1°58′12″ 陽子さん 女性 21年 陽子さん宅 2012年12月25日 1°50′25″

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たですよね」と語り,自分に与えられた役割が見 えなかったことを挙げている。そして,当時の会 員に対するスタンスを「来る皆さんが何を望んで いるかっていうことですよね。私は,最初の頃は 何か一生懸命してあげなきゃいけないと思ったん ですよ。ボランティアだから」と,その立場を自 分なりに考えて,活動していた様子を懐述してい る。しかし,陽子さんがそう考えていたのも無理 はない。活動に関わることになった開設当初,玉 蘭荘は高齢者を対象とした福祉施設という側面が 大きく,施設の方針としても,日本から専門家を 呼び,日本式高齢者ケアの方法を導入しようとす るなど,技術的な部分を主眼に置いたケアセン ターを創成するという目的があったからである。

それは,真理子さんの発言にある「老人福祉」と いう表現にも表れているといえるだろう。よっ て,そうした施設の方針に従い,高齢者に対する ケアのサポートをする場所であるという意識から,

「何かしてあげなきゃいけない」と思っていたと 捉えることができる。だが,真理子さん,陽子さ んともに,会員に直に接するうちに,そうした施 設の方針に次第に違和感を持つようになっていっ たのである。

3.2.2.会員に接するうちに感じた「高齢者福 祉施設」とは捉え切れない違和感

両者が感じた違和感とは,一体何だったのだろ うか。真理子さんはスタッフとして活動し始めて

「半年ぐらいしてから,私,違うなぁというのに 気がついたんですね。そうじゃないと。これは普 通の老人福祉とは全然違う役割を担っている」と 思ったと発言している。そして,会員一人ひとり に接するうちに,次第に彼らの背負う歴史的背景 に意識が向くようになったという。

私も大分,初めは分からなかったですよ。

何やったらいいか,何するところか。普通 の老人の福祉…日本とはちょっと違うし,

何なのかしらっていう感じで。頭では捉え られているんですよ。ああ,日本の教育受 けて,日本時代ね,植民地教育を植民地の 時代に強いられたって,頭では理解してい るんですよ。でも,それはどういうことな のかってことはね,一人ひとりに会ってみ ないとね,やっぱり分からないんですよ。

また,陽子さんも開設当初の方針に,どこか違 和感を持っていたと述べている。医療的なケアの 方法や高齢者のための福祉の在り方など,知識と して必要な部分も当然あると理解した上で,それ でも会員が欲していることは,そのようなもので はないのではないか,という気持ちを持ちながら,

活動を続けていた時期があったのだという。

(ボランティアとして)お茶を沸かしたり,

スープを作ったりすることも大事なことだ し,私もそんなに負担に感じないでやった んですけれども,何かねぇ,それだけじゃ ないものを感じるようになったっていうか。

(中略)やっぱり徐々に徐々にですけれど も,やはり3年,3年位ですかね,経って から。

と語っている。また,真理子さん同様,違和感を 持ちつつも活動を続ける中で,かつては「日本 人」であり,日本語で日常生活を送っていた彼ら の歴史的な背景を意識しつつ,会員を捉え始める ようになったという語りも見られた。

ただ単なる高齢者っていうだけではなくて,

台湾のこの世代の方たちっていうのは,こ の世代の特殊な時代っていうか,今では ちょっと考えられないような,まあ,何て いうか,時代でしたでしょ,彼らの歩んだ 道は。第三者から見ても,聞いてるだけで も,すごいなって思うんですよね。自分は 一体,何人なんだろうかって疑問に思うく らい,あの人たちは苦しんできているんで すよね。

それは,知識ではなく,彼らに直に接する中で 得た視点であるという。なぜなら,90年代初頭 であった当時は戒厳令が解かれて間もない時期で あり,それまで話題にすることは公のタブーと なっていた日本統治時代の話などは,事前の情報 として聞いたことがなく,かといって現在ほど情 報化された社会ではなく,自ら何かを簡単に調 べたりできる状況ではなかったからである。また,

赴任する配偶者に付き添って来た陽子さんにとっ ては,台湾は予備知識もない未知の土地であり,

日本との歴史的関係についても,ほとんど知らな

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かったと証言している。

だが,互いに徐々に打ち解け,親しくなるにつ れ,個人的な話をするようになったあたりから,

ボランティアスタッフとして自分が求められてい るもの,彼らが求めているものが何かということ を具体的に考え始めるようになっていったという。

それは福祉的観点から,技術的なケアの導入を目 指す施設のポリシーに対し,「日本人である私が それ(技術的なケア)をするより,もっと違うや り方でね,もっと私たちが求められてるのは,違 うんじゃないかなっていう思いがあったんです よ」と語っていることからも窺えるだろう。

3.2.3.会員とたわいもないことを話すことに よる彼らの喜びへの気づき

真理子さんは訪問スタッフとして職務に従事し ていた頃,その後の会員との関わり方を決定づけ たある人との出会いを経験している。その語り口 から,玉蘭荘に関わる者として,会員から何が求 められているのかを考える上で,大きな気づきを 得た出来事であったことが窺えた。その出来事と は,部屋に閉じこもってしまって,家族もどう接 していいか分からなかったある会員の「お友達」

が,日本語で日本時代のことを話せる真理子さん の訪問を喜び,「自分のアルバム開いたり,色ん なことで少しずつ人生をね,語ってくれた」こと だったという。その際に見せた会員の「お友達」

の様子から,「その時に私,ああ,この方は日本 教育受けてるから,女学校時代のそういう思い出 や色んなことは,私に話したかったんだなと。私 に伝えたかったんだと思います,日本人の代表 として。日本人に伝えたかった」ということが分 かったと述べている。その相手の反応を通して,

自分に求められているものがどのようなことであ るか,腑に落ちた瞬間があったそうだ。それは,

話を聴く相手が日本人であれば,「共感ができる んですね。共感があるんですよ」と言い,「自分 は日本教育受けて,女学校で何々先生が,ってそ ういう部分。そういうのを話すのは,日本人がい いんですよ。日本人に伝えたかった。それでもう,

すごい喜ばれて。穏やかになったからということ で,ご家族もえらい喜ばれたんですよ。で,定期 的に伺うようになっ」たと,話したのである。こ のような出来事を通し,真理子さんは日本語で話 す相手を受け止めることが「共感」を生むことに 気づいたと共に,そこにいかに言語が関わってい

るかという,ケアにおける「ことば」の重要性を 感じ始めたのかもしれない。

一方,陽子さんも彼らとの信頼関係が構築され てきた中で個人的な話をするようになったという が,実際どのようなことをしていたのだろうか。

いや,何も出来ないですよ,それは。ただ,

日常の活動の中でね,些細な会話の中で,

彼女たちが,「ちょっとちょっと,陽子さ ん」って,すぐ呼ぶんですよ。呼ばれて 行った時にね,丁寧に話を聞こうって,そ れぐらいです,私は。話を聞かせてもらう,

それだけでした。

「些細な会話」の中で,たわいもない話をする ことが,実は彼らが望んでいることではないかと 思うに至ったというが,その気づきはどこにあっ たのだろうか。

話を聞かせてもらうことで,彼らが非常に いい表情で話されるんですよ。それでそれ を「そうだったんですか。私,知らなかっ た」って。本当に知らないんですから,私 たちの時代は。それで,「戦争の頃はこん なだったんだよ」とか,「こんなえらい目 にあった」とか,「上官からすごいことや られた」とか,そういうことも最初は話 してくれないんですよね,要は。でも段々 親しくなるにしたがって「こうだったんだ よ」ってね,話されるようになって。「ひ どいねえ」とか,私たちも日本人,台湾 人っていうこと忘れて「そんなひどいこと やられたの?」とかね,「いや,それはも うあまりにもひどすぎる。でも,こういう こともいえるんじゃないかな」っていうよ うなことも私の中で感想があれば話したり だとか。

というように,聴き手となった陽子さんは彼らの 語りを親身になって受け止めてきた語りをする一 方,

まあ,私たちに出来ることっていうのは,

何も技術も要らないし,何も,ある意味で は必要ない。いっぱいものをあげたり,色

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んなテクニック的なことをやるそれ以前に ね,相手の話を聞いて,寄り添うことは大 事ですよね。寄り添うってことは簡単なよ うで難しいんですけどね。

と,自身の行為を客観的にも捉えていることが窺 える。また,言語に関しては以下のように語り,

子・孫世代との文化的・言語的断絶があることを 示唆した上で,それを受け止める重要性を以下に 触れている。

やはり,自分の人生を聞いてもらいたいっ ていう欲求,特にあの方たちは日本語で色 んなこと学んできたしね。(中略)その頃,

何とはなく吸収してきていると思うんです よ。その辺はね,私たち日本人だと「あ,

そうね」って相づちを打てるようなことも 台湾の若い人には分かってもらえないとか,

いっぱいあるんですよ,そういうことは。

(中略)それで,「お父さんお母さん,また 日本のこと言って。何が日本がそんなにい いのか」って,逆に子ども達に反発された りとか,そういう方は多いです。

3.2.4.日本人である自分が日本語で関わるこ との重要性に対する認識

真理子さんは,会員に直に接することを通して,

日本人として日本語で関わることの重要性を認識 するようになった。それは,日本人である自分が 会員の話に丁寧に耳を傾けることが,彼らにとっ て特別な意味を持つことに繋がっているという,

体得的な実感があったからであろう。

役割としてね。共感を持って,一緒にその 人の辿ってきた人生,しかも日本教育を受 けた人生をね,傾聴し,それから気持ちを 共にシェアしていく。それは大切ですね。

彼らが,そういうことをやりたいのは日本 人なんですから。台湾の方とやっても,そ こら辺のことは,あまり意味がない。

上記のように語るのは,「日本人」であった彼 らが,戦後,そうした過去がなかったようにされ てしまった世界を生きていた中で,日本人が日本 語で受け止めることの意味をどこかで感じていた

からではないだろうか。だからこそ,これまで彼 らに接してきた自分が,その役割を担っていると 考えることができたのだろう。

(彼らは)日本人に伝えたいし。こういう 教育,自分たちは受けたんですよってお話 しすること,伝えてくださることによって,

その方もすごく平安になられたり,自分の 人生の,こう何て言うのかな,ヒストリー を辿っていく一つの大きなステップになっ ているとは思いますね。そういうことされ ることで。日本だったら,日本人同士で構 わないけど。ここだったら,そうじゃない 訳ですよね。台湾の方に語っても,あんま り理解されないし,共感がないと思います。

日本の方だからこそ,日本の教育受けた時 のことを話したいし,聴いてもらいたい。

そういう部分でしょうね。それは大きい役 割だなと感じましたね。

そして,戦前,「日本人」として生きていた彼 らが自分の歴史を日本人に語る意味を,真理子さ んは実際の体験から以下のように捉えている。

これは日本の人がもっとしっかり関わって,

戦争で傷ついたり色々ね,そのような歴史 に翻弄された方々が,日本の人にもしっか り関わってもらって,私たちの人生の最後 をきちんと見送ってほしいという非常に強 い要望が感じられたんですね,私自身,一 人一人を見る中で。あ,これこそね,歴史 に翻弄された方々が日本教育を受けたけれ ども,(それが戦後否定されたが)最後に,

日本語が許されんだと。非常にあの,人生 においてそこら辺が全然,空白としてね,

もうずーっと押し潰されてこられた訳です よね。

と語るこうした思いがあったからこそ,彼らの失 われた言語である日本語を話す日本人が,日本語 で受け止める必要性を感じていたのではないだろ うか。また陽子さんも学生時代を東京で過ごした という以下の会員の話から,日本人であるという 自分の立場で語りを受け止めてきたその事実を捉 えていることが分かる。それは,しっかりと彼ら

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の話に耳を傾けてきたからこそ,掴み取ることが できたのではないだろうか。

その日本の風景とか,車窓から見える日本 の特徴的な建物とか,そういう話をすごく なさるの。「僕は,もうあの風景を思い出 すと懐かしいなあ」って。「そうですよね,

小さな家がいっぱいあるんですよね,台湾 と違ってね」って話をしたら「そうそうそ う」って。私はクリスチャンじゃないです けど,その方はクリスチャンで。男性です けどね。向こうで,通えなくなってから はね,電話でね,一緒に讃美歌歌いまし た。「一緒に歌って」って言われるの。「何 番」って「聖書の,讃美歌の何番」って言 われて,一緒に歌うんですよ。で,彼は やっぱり,日本人である私とこうしたかっ たんだなって思います。

そして,どのようにして彼らと関わることがよ かったのか,ということについての解釈として,

受け止めることが必要であると,以下に述べてい る。

(高齢者福祉に立脚した)テクニック的な ケアっていうか,台湾の高齢者の人たちに 対して日本人の立場からすると,そういう ことではないんじゃないかと思ったんです。

相手の心の訴え,非常にあの,恋い焦がれ るっていうか,そういう日本に対する思い を持っている人たちに,あちらも喜んで

(語って),私たちも聞かせてもらう,その キャッチボールをしながらやることの方が,

あの時の私の立場では,そっちの方が重要 だと思ったんですよね。

以上から,両者が手探りで活動に関わり始め,

玉蘭荘の会員と接するうちに気づきを得ていった ことは,日本教育を受けた彼らに必要なこととし て,日本人である自分たちが日本語を話す彼らを しっかりと日本語で受け止めるということが重要 だという認識であることが分かった。これは,決 して「大掛かりなこと」ではないが,しかし,非 常に大切なことだともいえるのではないだろうか。

4.考察

真理子さんと陽子さんのインタビューの語りか ら,関わり始めた当初は両者とも,玉蘭荘を「高 齢者福祉施設」という認識で捉えていたことが分 かった。そして,その中で会員から何が望まれて いるかが見えない中で,どう対応すべきか戸惑 いながらも活動を進めるうちに,それぞれが同 様のプロセスを辿ったように,「日本語によるケ ア」の重要性に気づいていったことが窺えた。こ の「日本語によるケア」の意味として,スタッフ 両者が語ったことは,日本語を用いて何か特別な ことをする訳ではなく,むしろ会員の思い出話 や,たわいもないことをただ聴くことにあると述 べている。真理子さんは,玉蘭荘スタッフの役割 の一つとして,日本語で「共感を持って日本教育 を受けた人生を傾聴すること」が,会員に対して すべきことであると語り,陽子さんも同様に,聴 き手となり「相手の話を聞いて,寄り添うことは 大事」だと語っている。また,スタッフとしてど んなことをすべきか暗中模索をしていた時期に,

話を聴く「聴き役」に徹し,彼らの話を受け止め たことにより,彼らが「穏やかになった」ことや

「彼らが非常にいい表情で話される」ようになっ たという気づきが生まれていることが分かる。こ うして,スタッフとしての役割を考えた場合,日 本語で「傾聴」することが,大きな意味を持つと 捉えるようになったのである。

「傾聴」の持つ意味を探究した村田(1996)は,

援助者が「聴く」態度を取ることによって,「傾 聴」が他者に存在を与えること主張し,対人援助 における「傾聴」の意味を「他者の存在の回復と 支持」にあると結論づけた。これに鑑みると,ス タッフ両者も彼らに接する中で,戦後社会におけ る日本語の排除によって,自分自身の「ことば」

を否定され,それまでの「日本人」としての人生 をいわば,なかったことにされた境遇を日本語で 受け止めることが,彼らの存在を認めることやそ の回復に繋がると,体得的に理解したのではない か。では,なぜ彼らに日本語で関わり,彼らを日 本語で受け止めることが重要だと思うに至ったの だろうか。

言語は人間同士のコミュニケーションに不可欠 であり,また自己表現の手段として,人間の社会 生活においてなくてはならないもの,つまり意思

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疎通のための道具や手段であるとする考え方があ る。一方,言語は他者との意思伝達を行うためだ けではなく,自身の内的思考を深めたり,外言化 するための思考を練ったりするために必要なもの でもあるといえる。前者は言語道具主義であり,

後者は言語本質主義と呼ばれるものであるが,後 者に立脚して考えた場合,言語を習得するという ことは,単なる言語知識の獲得ではなく,人間の 思考や人格形成に関わる営みであると捉えること ができる。よって,出生時から「日本人」として 育ち,徹底した同化主義のもとで教育を受け育っ た彼らは,「日本語」によって他者との相互行為 を行うことでその人格を形成し,自身の心理を 発達させてきたといえるだろう。つまり,彼らの

「日本語」は,「中国語」や「台湾語」などと並列 的に存在する,単なる一言語としての「日本語」

ではなく,分かち難く人格が織り込まれ身体化さ れた自身の「ことば」とも呼べるものだったので はないだろうか。だが,その「ことば」により自 己を培っていた過程で,彼らの「ことば」は社会 から排除されるに至ってしまったのである。

中学1年まで日本語で教育を受けた玉蘭荘の 会員に,ライフストーリーインタビューを試みた 佐藤(2014)が,「日本語は自分の母語である」

とする彼の証言から,戦後の社会において,それ が使用できなくなった苦悩を浮き彫りにしている ように,それは単に社会の主流言語が入れ替わっ たことを意味してはいないことが分かる。田中克 彦が「母語は運命であるから,皮膚の色同様に,

一たん身についてからは,その個人から引き離 して,別の言語で置き換えるわけには行かない」

(田中,1975,p. 55)と述べているように,中国

語への変更を迫られた彼らにとっての日本語とは,

「皮膚の色」に例えられるがごとく,身体化され た自身の一部だったといえるだろう。

身体化された自身の一部を否定されること。そ うした行為は人権を否定されることにも繋がり,

それは単に社会における「日本語」の使用を制限 されたという問題ではないことに繋がる。つまり,

「ことば」を使用する権利を他者の要請によって 変更を迫られたり,奪われたりするということは,

社会生活を営む人間としての権利が保障されなく なることにも通じることだといえるだろう。この 言語に関する権利について,人種を根拠にした人

種差別(racism)や,性に基づく性差別(sexism)

に対応する「言語差別」(linguicism)という概 念を提唱したスクトナブ=カンガスは,言語に関 する権利,すなわち言語権を以下のように定義 している(フィリプソン,スクトナブ=カンガス,

1999)。

① すべての社会集団は,一つまた複数の言語 に肯定的帰属意識を持つ権利,およびその帰 属意識を他者から認められ尊重される権利を 有する。

② すべての児童は自集団の言語を十分に習得 する権利を有する。

③ すべての人は,あらゆる公式の場で自集団 の言語を使用する権利を有する。

④ すべての人は,自身の選択にしたがって,

居住国の公用語のうち少なくとも一言語を十 分に習得する権利を有する。

上記「自集団の言語」は,発表された当時は

「母語」と記載されていたことから,「自集団の言 語」はそれと同等の意味を包含していると解釈す ることができるだろう。前出の田中(1975)は,

母語が個人から引き離すことができない「このよ うな性質のものであるとすれば,ある個人が他の 言語のいずれでもない,固有の母語を用いること,

人間生まれながらの権利であって,何人もこの権 利を侵すことはできないはずである」と続けてい る。

そう考えると,戦後日本語から中国語へと,社 会の言語が切り替わったという事実は,単に言語 が入れ替わったということではなく,人としてあ る「ことば」を使う権利,すなわち言語権を剥奪 されたことになるのではないだろうか。なぜなら,

この言語権に関し,フィリップソン,スクトナブ

=カンガスは,はっきりと「言語権は人権の一種 である」(フィリプソン,R.,スクトナブ=カン

ガス,1999,p. 95)と謳っていることから,彼

らを例に取った場合,社会的な日本語使用の禁止 は,人として生きることを否定されたことになる からである。

5.玉蘭荘における「ケア」の意味

フィリップソン,スクトナブ=カンガス(1999) は,言語権の保証として,未来に向けた規約にな

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るべき宣言を提唱しているがその中の項目として 以下の文言がある。

「母語の変更は全て自発的であって強制さ れてはならない」(p. 123)

玉蘭荘に集う日本教育を受けた経験のある彼ら にとって,この上記の文が守られなかったことか ら,日本語が禁止されたことは「言語」の問題の みならず,アイデンティティの喪失や,社会,次 世代の家族との断絶感,人格形成などにも多大な 影響を及ぼすことになった。だからこそ,戦後か ら70年が過ぎた現在においても,彼らにとって は玉蘭荘のような場が必要であり,そこで行われ ている「日本語によるケア」というのは,単に日 本語を懐かしむといった情緒的なものではなく,

むしろ「人権」という観点から捉えた,人間性の 回復の場として機能しているコミュニティといえ るのではないか。失われた彼らの「ことば」を傾 聴によって受け止めるということは,実は「彼ら 自身そのもの」を受け止める行為でもあったに違 いない。なぜなら,彼ら自身が深く織り込まれ た言語である日本語は,彼らと分かち難く結びつ いたものであり,不可分の関係にあるからである。

すなわち,「ことば」とは人格と言語が織りなす ものであり,それは彼ら自身の一部であると捉え ることができるだろう。そうしたことを真理子さ んと陽子さんは知識ではなく,直接彼らと触れ合 うことで体得し,その経験から「日本語によるケ ア」の重要性を訴えたのではないだろうか。つま り,玉蘭荘における「日本語によるケア」とは,

「ことば」のケアであり,傾聴による彼ら自身の

「ケア」でもあり,それは人間性の回復を意味す るものでもある。よって,玉蘭荘という施設は単 なる高齢者デイケアセンターではなく,人間性の 回復の場であると考える。

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The meaning of the word “ caring ” in a Taiwanese adult day care center

SATO, Takahito*

* Waseda University, Tokyo, Japan E-mail address: [email protected]

Keywords

active listening, Japan-ruled Taiwan, caring, language and personality, recovering humanity Note

The community of reviving humanity through their own language

Referensi

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