序
「中華人民共和国公民は、宗教信仰の自由を有する」(「中華人民共和国憲法」第36条)。しか し、これは中国国民、そして国際社会を騙すために作られた狂言とも言える。憲法の第
2章
「公民の基本的権利及び義務」には、「言論、出版、集会、結社、行進及び示威の自由」、そし て「宗教信仰の自由」など、近代民主主義の価値観にふさわしい内容がすべてそろえられて いる。しかし実際には、憲法によって「約束」されたこれらの権利を要求する人はたちまち
「扇動転覆国家政権罪」で拘束され、これらの「権利」に関する言論は公共の場とネット上で タブー(「敏感語」)となっている。憲法を制定した「全国人民代表大会」も一党独裁の政治 体制の「花瓶」(飾り物)にすぎない。憲法の「序章」は中国共産党(以下「中共」)による一 党独裁体制を国是(「根本任務」)としている。つまり、国家と政権と共産党による支配の三 位一体という支配システムが「合法的」に作り出された。
以上のように、現代中国の社会的諸問題を検討するにあたって、最も注意すべきことは、
まず「法治国家」という目眩ましを排除することである。中国におけるあらゆる問題は、「政 治」からの独立は絶対にありえない。政権が高く掲げている「法治」は、事実上一党独裁の 政治体制を維持するための道具にすぎない。2017年
1
月、当時の最高裁判所長・周強は、西 側の「憲政民主」「三権分立」「司法独立」などの「錯誤思潮」に対し「堂々と反対し、剣を 抜き」、党が司法を指導する体制を堅持しなければならないと全国の裁判所長に訓示を行なっ た。ただし、「一党独裁体制」の下で「党」の集団意志というものは事実上存在しない。政治 を動かすのは最高指導部の意志であり、そしていまの習近平政権のように、権力が最高指導 者に集中した時期にはその個人による独裁と言っても過言ではない。そのため、同じ一党独 裁体制であっても、政治が社会に関与する度合いは、その時々の最高指導者個人の性格で強 弱が変わる。つまり、現在の中国で起こっている社会的諸問題の本質を理解するためには、rule of law
(法治)が実現しているかどうかというレベルでは到底できず、「政治」という視点が必須である。以上のような理解は、現代中国が抱えている社会的諸問題をみる際に欠か せない基礎知識とも言える。中国における宗教問題の本質を理解するうえでも例外ではない。
1
矛先はなぜキリスト教に向けられたのか2018年 4
月3日に発表された政府白書「中国の宗教信仰の自由を保障する政策と実践」に
よれば、中国では宗教的信仰をもつ人口はキリスト教、仏教、イスラーム、道教など約
2億
人いるという。民族宗教である道教の人数は公表されていないが、そのほか、ムスリムは2000万人以上、カトリックの信者が約600
万人以上、プロテスタントの信者が3800万人以上とされている。チベット仏教(ラマ教とも言う)の信者人数も公表されていないが、複数の
「少数民族」全体の信仰になっているので、2010年の中国人口センサスに基づいて容易に計 算できる。たとえ真に一部の共産党員が民族の伝統を捨てたにしろ、中国国内のチベット仏 教信者数は少なくとも1300万人以上だと考えられる。
特定の世界宗教に対して強い信仰心をもつ人間が多ければ多いほど、無神論を主張する中 共によるマインドコントロールの失敗と、中共の統治に対して不信と不満をもつ人が多く存 在する証明になる。政権としては、当然それを公にしたくない。特に注目すべきは、宗教弾 圧がますます強くなっているにもかかわらず、中華人民共和国政権が誕生する
1949年以降、
外来宗教であるキリスト教の信者人数が増えつつあることである。中共の支配正当性を疑う 国民が増えつつある証しにもなるため、中国政府が発表した信者数は実際より大幅に下回る と常に疑われてきた。
1900年頃、中国のプロテスタント信者が約 10万、カトリック信者が 70万―80万で、1946
年、「ローマ法王庁が中国において直轄システムを構築し、全国において20の大司教区、137 の教区を設け、300万人以上の信者を統括する」と言われる(1)。1954年に「中国基督教三自愛 国運動委員会」(略称は「三自愛国会」)が設立された際に、「設立宣言に賛同信者
40万人がサ
インし、全国キリスト教プロテスタント信者の3分の2にあたる」(2)。ところで、1982年3月
の中共の文書によれば、当時のプロテスタントの信者が300万、カトリックの信者が300万人 と言う(3)。つまり、政治運動が続いたにもかかわらず、プロテスタントの信者数が約5倍も増 えた。2011年、アメリカのPew Research Centerが公表した「世界キリスト教報告」
(Report ofGlobal Christianity)
の「保守的な推測」によれば、2010年に中国キリスト教徒が国民総人口の5%を占め、プロテスタント信者は 5800
万人、カトリック信者は900万となっている。つまり、1950年代から
60年の間、カトリックの信者が 3
倍、プロテスタントの信者が約100
倍も 増加したのである。ある中国系アメリカ人学者は、この数字は信憑性があり、1950―2010年
の間に年平均増加率は7%と算出し,このままでは2020
年に中国のプロテスタント信者の人 数は1億 1409万人にも達すると指摘している
(4)。プロテスタント信者の大量増加は、疑いなく西側社会にみられる民主・自由と人権などの 普遍的な価値への憧れと関係し、それ以上に現代中国における政治と宗教との関係を考える うえでさらに重要な意味をもつ。中共政権はアメリカが支援していた国民政府を大陸から台 湾に追い出したうえで成立したため、その宗教に対する弾圧を、最初からキリスト教に向け た。教会に「西方帝国主義」との関係断絶を迫り、官製の「中国基督教協会」を設立させ、
信者に対する厳しい管理体制を続けてきたのである。1949年9月、中共は「中国人民政治協 商会議第1回全体会議」を召集し、教会領袖ではないが、以前から中共と連絡があった呉耀 宗を「宗教界首席代表」として招請した。翌年5月2日から中共は「基督教問題座談会」を開 き、周恩来は3回も出席し、6日の会議において「キリスト教の最大の問題は帝国主義との関
係である。中国のキリスト教会は中国自らの教会になるために内部にある帝国主義の影響と 力を粛清し、自治・自養(自給)・自伝(自ら宣教活動)の趣旨を確立し、民族的自覚を高め なければならない」と指示を出した。つまり、いわゆる「中国キリスト教信者自ら始めた三 自運動」は、事実上中共の具体的な指図に従って始まったものであった。
周恩来はこうした外国人による宣教活動を禁止する一方、同じ場でまた「公の宣教活動を してはならず」、「新民主主義の中国における宣教活動が必ず一定の制限を受けるもの」とも 公言した(5)。中共の意志を受けて、呉耀宗は
7
月末に「帝国主義が教会を利用して中国人民 の利益に危害を与えることを防止するため」、中共の新華社通信を通じて「中国キリスト教が 新中国建設運動中における道」という「三自宣言」を出した。9月23日に中共機関紙『人民
日報』が社説を出し、「キリスト教信者による三自運動を歓迎し、それは中国のキリスト教を 帝国主義の影響から脱出させる愛国運動だ」と支援する態度を明らかにした(6)。こうした呉 耀宗らの影響を受けて、四川北部教区の王良佐神父をはじめとする500名の信者は11月末に、「帝国主義との関係を断ち切り、自治・自給・自伝を履行する」という中国カトリック社会の
「底部から」の「自立革新運動宣言」を発表した(7)。
中共政権の宗教に対する政治規制と弾圧が最初にキリスト教に向けられたという特徴は、
1951年10月下旬からの朝鮮戦争参戦にも関係する
(8)。中共政権はアメリカがキリスト教を利用して国民の動員を妨害することを危惧していた。1950年
12月 28日、周恩来首相が「中国
国内にあるアメリカ政府と企業の財産と貯金をすべて管制する」命令を出した直後、郭沫若 副首相が「アメリカからの援助を受けている文化教育慈善機関と宗教団体の処分に関する方 針」を公表し、外国からの資金援助を受けている教会等は政府に登記しなければならないと 決めた。これを背景に、「三自運動」がいっそう広がった。「中国キリスト教革新運動の基本 的な内容は自治・自給・自伝であり、そのなかで最も重要なのは自給であった。つまり、ま ず外国、特にアメリカとの経済的関係を断ち切らなければならない」(9)。カトリック系の輔 仁大学とプロテスタント系の燕京大学などの教育機関と医療機関は相次いで国有化され、1951年の 1月 8日に、
「帰綏天主堂」の胡濡漢神父らは「綏遠天主教三自愛国促進委員会」を設立した(10)。これは中共政権の主導の下でのキリスト教信者の組織化の始まりである。
2
「愛国愛教」という名の弾圧しかしこうした中共が主導する「三自愛国革新運動」に対し、天津の一部の信者は「天主 教はキリストによって作られた渾然一体の、超国際、超政治的組織であり、国際紛争と政治 変動に伴って分裂するものではない」と抵抗したが、
1951
年3月に中共政権によって「外国の
スパイ」として弾圧を受けた(11)。この頃、中共の指示で教会内部で密告が横行し始めた。3 月30日、中華基督教青年会全国協会の呉耀宗、劉良模と中華基督教婦女青年会全国協会総幹 事の 裕志は中国の著名な宣教師・顧仁恩を「アメリカのスパイである」と、上海市共産党 委員会機関紙『解放日報』上で告発した(12)。顧は厳しい批判を受けた後、15年の刑期で青海 省に送られ、その地で亡くなった。同年7月に上海の「天主教教務協進委員会」と天津の「聖母軍」が取り締まられ、9月に南京でバチカンの駐中国公使が国外に追放され、10月に瀋
陽で6人のフランス人宣教師が「反革命活動を行なった」理由で逮捕され、後に国外追放の処 分を受けた。各地において「反革命破壊活動」の罪名で外国人宣教師と信者の逮捕は1953年 まで続き(13)、上海は「帝国主義が宗教を利用して中国を侵略する主要基地」とされ、特にカ トリックに対する迫害が強かった。1953年
6月から 7
月にかけて19名の「公教青年団」に所
属するカトリック信者が逮捕され、さらに1955年9月8日に「 品梅反革命集団」を摘発し、上海教区主教の 品梅をはじめとする183人の聖職者を逮捕した。いわゆる「愛国宣言」へ のサインを拒否し、「不投降、不退転、不密告」を呼びかけた 品梅が無期懲役とされた(14)。
こうした厳しさを増していく政治的弾圧のなか、1951年
4
月に中国基督教抗米援朝三自革 新運動準備委員会、1954年8月にプロテスタント系の三自愛国会が設立され、いずれも呉耀 宗を主席に選出した。一方、バチカンとの関係を完全に断ち切ったうえ、1957年8月 3
日に カトリック系の中国天主教愛国会が設立された。1977年の文化大革命終了後には、その政治 色を薄めるため、三自愛国会と天主教愛国会は、それぞれ中国基督教協会と中国天主教主教 団というもう一枚の看板を1980年に掲げた。ここ数年、中国とローマ法王庁は外交関係の樹 立を模索しているが、大司教の任命権をめぐっていまだに激しく対立している。これらの組 織は名義上「全国信者による自発的に結成された団体」であるが、その人事と仕事内容はみ な中共政権の意志によるものであり、事実上官製の信者管理組織とも言える。その性格はい まだに変わっていない。しかしこうした官製協会に対し、多くのプロテスタント信者は不信感を抱き、それが「家 庭教会」(house church / home church、または中国プロテスタント地下教会)が始まるきっかけと なった。文化大革命以降、中共からの政治干渉を嫌い、政府に登録した教会に通わず、住宅 を教会として利用し宗教活動を行なう信者の数は飛躍的に増加した。正式の統計は確認でき ないが、現在その人数は疑いなく「三自」をはるかに超えている。しかし「家庭教会」は違 法とされ、各地で集会活動の妨害、牧師と信者の拘束などが多発している。2013年から家庭 教会に対する弾圧はいっそう厳しくなり、2018年
1月 9
日に山西省臨汾地域で、武装警察が 家庭教会の集会場「金燈堂」を爆破するという事件も起こった。前述の政府公表は、当然こ の「家庭教会」に通う信者の人数を計算に入れていない。こうした家庭教会政策に対し、三 自愛国会の指導者も疑問を感じ、政治統制がまだ緩かった1980年代のはじめには、全国政治 協商会議では次のような発言もあった。「三自愛国会の仕事は全国の信者をまとめる仕事であ る。そのために家で集会をする信者を異端視してはいけない。私は三自愛国会の指導者とし て、それが違法だと言うのが恥ずかしい。憲法の言う宗教信仰の自由は教会の建物の中に限 られるという解釈なら理にかなわない」(15)。しかしこうした信仰を優先する三自愛国会の幹 部は、容赦なく政治粛清の対象とされる。浙江省では共産党書記の意志で、2014年初頭から2015
年7月まで、「高さが基準を超えた」という名目で1700
ヵ所以上の教会礼拝堂の十字架 が強引に取り外された。その矛先はむしろ三自愛国会の傘下にある教会施設であった(16)。そ れに反対する施約瑟牧師は、浙江省基督教協会長の職を 奪された後に公的資金流用罪で起 訴逮捕された。また、2018年8月から河南省で 7000以上の教会の十字架が強引に取り外され
たとも言われている(17)。3
宗教的権威への危惧チベット仏教またはイスラームを信仰とする民族にとって、その「神に対する畏敬」は生 まれながらのものであり、民族文化の不可欠な要素であり、日常生活と複雑に絡み合い、そ のために、信仰心が深く、宗教指導者の影響力・求心力も極めて強い。また、少数民族問題 とも絡んでいるため、キリスト教に対して国際社会との関係を絶たせ、欧米を頂点とする権 威のピラミッドを徹底的に崩壊させる手法と異なり、中共政権のチベット仏教とイスラーム への対策は、基本的に信者の宗教信仰に厳しい打撃を与えて弾圧することである。
チベット仏教には4つの宗派がある。なかでも1409年にサキャ、カキュー、カダムの各宗 派について修行してきたツォンカパが創立したゲルク派(徳行派、黄教)は、戒律を重んじて 弟子の結婚と飲酒を禁じ、チベットで大きな支持を得た。ツォンカパの死後、愛弟子の
1人
であるゲンドゥン・ギャツォがゲルク派の精神的領袖となり、勢力を急速に発展させた。彼 が亡くなると、宗派を結束させるために、ゲルク派は本来カキュー派の伝統だった活仏転生 制度を取り入れ、ゲンドゥン・ギャツォの転生者(ダライラマ)を代々選ぶようにした。17 世紀にゲルク派を中心とする政教一致制度が確立し、その特徴は宗教が政治を指導すること であり、宗教と政治の双方の頂点にあるのは、ダライラマである。中共軍の侵攻とそれに対 する抵抗の失敗を受けて、1951年5
月にチベット政府は中国中央政府とチベットの平和解放 に関する協定を結んだ。チベットの現行の政治制度の維持、ダライラマならびにパンチェン ラマ(ツォンカパのもう1
人の弟子に由来する活仏)の固有の地位と職権の維持、寺院の経済収 入の維持などが明記された。しかし中共政権は1955年に西康チベット人地域(現在は四川省の一部)にて「民主改革」を はじめ、1956年にチベット自治区準備委員会を発足させ、また現行制度を変更しない約束を 破り、チベットの「民主改革」も1959年から行なうと主張した。1958年
12月に中共中央委
員会はラマ特権の廃止、寺院財産を没収する民族事務委員会の「イスラームとラマ教問題に 関する報告」を承認した(18)。中共政権のやり方に反感を覚えたチベット人は各地で蜂起し、それが頂点に達した1959年3月に、ダライラマ14世はついにインドへ亡命する道に就いた。
ダライラマの亡命後、中共政権はチベット政府を解散し、1965年にチベットを少数民族自 治区にし、パンチェンラマが自治区政府主席に就任した。しかし間もなく彼は北京に移動さ せられ、その後の文化大革命の時期に
10年間も刑務所に拘束された。1989
年1月にパンチェ ンラマ10世は51
歳で急死した。その後、転生者認定をめぐって中共政権とダライラマ側は対 立し、1995年にダライラマは伝統的選出方法に基づき中国国内の転生者を指名したが、先ん じたとして中共政権は反発し別の少年を認定した。中共政権が認定したギェンツェン・ノル ブは中共指導者に「愛国愛教の使命を覚え」、「愛国愛教、護国利民の良い活仏」になること を繰り返して誓い(19)、一方ダライラマが認定したゲンドゥン・チューキ・ニマ少年はいまだ に行方不明のままである。中共政権がチベット仏教独自の宗教的権威を絶対認めたくないこ とは明らかである。一般のチベット人家庭だけではなく、ゲルク派寺院に対してもダライラ マ14世の写真を掛けることを禁止し、ダライラマ側との連絡を犯罪としている。2007年 8月、
「国家宗教事務局」は「藏伝仏教活仏転生管理弁法」を制定し、「国家の統一、民族の団結、宗教の和諧と社会の和諧、チベット仏教の正常な秩序の維持を原則とし」(2 条)、仏教界に影響力をもつ活仏の転生は省または自治区人民政府宗教事務部門が許可、大き な影響力をもつ活仏の転生は国家宗教事務局が許可、特別に重大な影響力をもつ活仏の転生 は国務院が許可し、証書を与えるとした(9条、10条)(20)。注目すべきは、その
2
条にある「国外のいかなる組織と個人の干渉と支配を受けてはならない」という内容である。同じ内容 は2010年1月に公表された「藏伝仏教宗教職人員資格認定弁法」(第3条の2)(21)と2012年12 月に公表された「チベット仏教寺院経師資格評定と招聘方法」(第4条の6)にも書かれてい る。「愛国愛教」と「中共が指導する社会主義制度の擁護」が必須条件とされた僧侶と説法者 に対し、「国外の組織と個人の干渉と支配を受けた」経師・寺院の教職、「国外からの政治的 条件を付帯する寄付を受け」、「違法に出国または他人の出国を手伝った」僧侶に対して職 を 奪するなどの「罰則」も設けられた。これらの内容は、明らかにダライラマ側の影響を 断つために作られたものである。事実上、ダライラマは1988年
6月にフランスで「ストラス
ブール提案」を発表し、中国からの独立要求も放棄し、ただあらゆるチベット人地域を含む「大チベットの高度な自治」だけを要求するとした。近年、高齢をむかえたダライラマはチベ ット帰還を望んでいるが、しかし中共政権は北京に居住することなど無理な条件をもち出し て応酬し、事実上その帰還を拒んできた。暴力的手段でチベット独立を勝ち取ることを否定 したため、ダライラマは1989年にノーベル平和賞を受賞した。そのため、中共政権はダライ ラマの権威と求心力をいっそう危惧し、その帰還をますます許せなくなったのではないかと 考えられる。中共政権のチベット仏教弾圧、特に精神的支えであるダライラマを帰還させな い政策に、多くのチベット人は不満を募らせた。中国に抗議するため、チベット仏教信者に よる焼身自殺は2009年
2月27
日から始まり、2017年12月23日まで中国国内ではすでに151人
(死者
130人)
に達した。4
嫌われた教団と教主1952年 7月末、中国イスラーム協会の準備会議が北京で開かれた。この準備会議を呼びか
けた
8人のなかで、4人は中共幹部であった。1953
年5月上旬、北京で中国イスラーム協会が設立され、当時新疆省政府主席を務めていたボルカンが協会長に選出された。ボルカンは
1949年 1月に中国国民政府の新疆省政府主席に就任したが、後に新疆に進軍してきた中共軍
に帰順し、1949年
12月 31日に中共軍司令官の王震の紹介で中共に入党したウイグル人であ
る(22)。2代目の会長の張傑は1933年に中共に入党し、中国イスラーム協会の最初の秘書長に 就任する前に中共西北軍政委員会民族事務委員会の課長だった。3代目会長の沈遐熙は1938
年に中共に入党し、後に中共の県書記も務め、会長就任前に中央民族大学の副学長だった。つまり3人の会長はみな中共党員であった。現在在任中の会長は6人目であり、ボルカン以降 の会長はみな中国語を母語とし、昔から漢人と同じ地域に居住する「回族」(23)であった。し かし、それは中共が中国語を話すムスリムを完全に信頼していることを意味しない。事実上、
中共政権とその宗教統制は最初から回族の民衆からの強い抵抗に遭った。
1949年 10月から 12月の間に臨夏地域では 2
万人以上のムスリムが「宗教・命・銃を守る」(「保教・保命・保銃」)をスローガンに蜂起した。結局中共の軍隊に鎮圧され、644人の死傷者 に加え、逮捕者は1570人にも達した(24)。臨夏が位置する甘粛南部の回族地域では、1950年代 に複数回、蜂起があった。鎮圧参加者の回顧録と思われるものによれば、1956年
3
月に中共 軍が四川省のチベット人蜂起の影響を受けて起こった回族蜂起を鎮圧して「回民暴徒298人」を殺害した。1958年3月の蜂起鎮圧で「回族匪徒万人余」を殺害した。同年8月の蜂起は「回 族が団結し、共産党を打倒する」というスローガンを掲げ、「参加者が非常に多かった」。中 共軍は2つの師団以上の兵力を投入し、「2ヵ月半」をかけてようやく蜂起を鎮圧し、「1万人 以上を殲滅」し、「回族暴徒3268人」を殺害したという。もうひとつの武装蜂起の多発地域 は現在甘粛省の平涼地区と寧夏回族自治区の管轄になった固原地区である。いずれも詳しい 資料は残っていないが、1950年の平涼、固原地区の「5.8叛乱」に対する鎮圧で「回族叛匪
174名」
、1952年固原の西吉県の「4.2叛乱」に対する鎮圧で「回族叛乱分子151人」がそれぞ
れ殺害されたと言われる(25)。
臨夏は「中国のメッカ」とも言われ、また平涼、固原地区はイスラーム神秘主義(スーフィ ー)教団沙溝門宦の本拠地であった。そのため、蜂起はまさに中共の権力に対する中国語を 話すムスリムの挑戦とも言える。中共にとって、己おのれ以外の権威は許されざる存在であり、教 主の求心力と組織力が強い門宦の解体を常に狙った。その頂点は、1958年の沙溝門宦教主・
馬震武の政治追放と迫害であった。中共政権の樹立後、馬震武はしばらく中共政権の利用対 象とされ、西海固回族自治区人民政府主席、西海固回族自治州長、さらに1953年5月と
1956
年12月に中国イスラーム協会副会長に2度も「選出」された
(26)。しかし1958年 5月に「回族
党員に対する無神論教育とウラマーに対する反右派闘争」が始められ(27)、馬は「極右分子」とされ、8月から「反共反人民反社会主義の罪」で摘発、批判する闘争会議が開かれた。沙 溝門宦の教団勢力が広がる寧夏・甘粛と新疆の各地から出席者が集められ、その会議で馬は あらゆる職を 奪された。「民族の異類、人民の公敵」とされた馬は「日本帝国主義と結託し て回国の樹立」、「中共による西北解放の阻止」と多くの罪が被されたが、その最も重いもの は「宗教的権威を利用し、モスクを拠点に、反乱を企み、政権に対抗すること」であった(28)。 つまり、回族に対する弾圧は、組織化したスーフィー教団「門宦」の「宗教的権威」に対す るものであった(29)。
5
反テロ・反極端主義の名の下で中国のイスラームは事実上中国内地と、新疆の2つの部分からなっている。ウイグル、カ ザフ、キルギスなどトルコ系ムスリムが居住する新疆では、その宗教生活の空間が内地より さらに圧縮された。1950年代から、ウイグル人社会の「依禅派」と呼ばれるスーフィズム教 団が厳しい弾圧を受けた。「依禅」とは指導者、導師の意味で、師弟関係を基本とするつなが りで厳密な組織ネットワークができ、教団の求心力が強かった。特に注意すべきは、1930年 代と1940年代にウイグル人を中心に
2回にわたって起こった東トルキスタン独立運動は、必
ず異教徒に対する聖戦(ジハード)を民衆動員のスローガンにしていた。1980年代後半から、独立運動は旧ソ連領中央アジア諸国の民族運動と独立の刺激を受けて再燃し、その背後には イスラームの要因が存在した。
ただ、1990年代末から、特に
2001年の 9
・11米同時多発テロ事件以降、むしろウイグル人 のイスラーム信仰を口実に、独立運動思想の持ち主にイスラーム原理主義者、テロリストの レッテルを張ってムスリムを弾圧するという構造ができてしまった。クルアーンを教える塾 に対する取り締まりが厳しくなり、2017年3月 29日に公表された「新疆維吾爾
ウ イ グ ル
自治区去極端 化条例」(宗教極端化を無くす条例)はイスラーム式のひげとイスラームの経典『クルアーン』
から新生児に名前をつけること(第
9
条の8)、女性のヴェール(ブルカ)着用(第9
条の7)
を 正式に禁止した(30)。公職にある者と学生だけではなく、この1、2年にあらゆるムスリム家庭
のラマダン期間中の断食が禁止された。中共政権の反テロ・反原理主義の宣伝によって、新 疆のウイグル人、カザフ人はいたるところでひどい差別を受けている。出国手続きが厳しく なり、新疆を出ればどこでも疑いの目でみられ、ホテルからも宿泊を拒否され、非国民的に 扱われている。政権に不満があれば、あるいは海外の親戚と連絡することも、さまざまなこ とが「原理主義の影響を受けた」とされて「再教育営」に送られる。一説によれば、すでに100
万人に近いウイグル人、カザフ人などのムスリムがこの「再教育営」と呼ばれる監禁・思想改造施設に送られたという(31)。
2014年以降、新疆政府は延べ 20
万人以上の公務員を全新疆の8000以上の村に派遣し
(32)、2016年 10
月から、また漢族公務員が一対一でウイグル人家庭を定期的に訪れる「民族団結の親戚」運動を始めた(33)。言うまでもなく、いずれも民族独立運動思想と活動の監視を目的と するものだった。この年から新疆ではまた「暴力テロ活動を厳しく取り締まる特別行動」を 始め、密告が奨励され、ウイグル人が人身捜査、住居捜査、携帯電話のチェックを受けるこ とは日常茶飯事となった。「反テロ」の大義名分で顔識別、声紋識別技術を備えた監視カメラ が大量に設置され、「網格化」と呼ばれるネットワーク化と地域を細分化して監視するシステ ムを備えた「城郷維穏防控網絡」(都市と農村部の安定維持のためのコントロールネット)が全 方位に構築された。現代の技術を使って民衆を監視する能力は、新疆がほかの地域をはるか に超える。この監視システムを構築し維持するために、2017年に新疆ウイグル自治区は
71.2
億人民元(約1200億円)の「公共安全支出予算」を組み、一般公共予算総支出の922.4億人民元の
7.7%も占めた
(34)。2018年5月のラマダン期間中に、官製の中国イスラーム協会は全国の
モスクに対して「愛国愛教の伝統を発揚し」、モスクに中国国旗を掲げ、習近平国家主席の言 う「社会主義核心価値観」を学習するよう呼びかけた(35)。モスクは当然のように厳しく監視 され、宗教への態度がウイグル人公務員と官僚の中共政権に対する忠誠心を測る指標ともさ れている。新疆では、複数のウイグル人官僚は「両面人」(場によって態度が変わる人)とさ れて拘束された(36)。
6
「畏敬」の独占を狙って2013年以降、中共は「宗教の中国化」を推進し始め、
「三自愛国会」は現在「キリスト教の中国化」を最も重要な仕事としている(37)。2017年
4月、中国イスラーム協会は「東南沿海
から西北地域まで現われたモスク建築の『アラビア化』」を厳しく非難した(38)。中共政権は キリスト教信者とムスリムに「中華文化」に対するアイデンティティーを要求するが、しか し「宗教の中国化」は決して中共宗教政策の最終目標ではなかった。
2017年 8
月26日,中共政権は新たな「宗教事務条例」を公表した(39)。そのなかでは、「宗 教極端主義の宣伝・支持と財政支援の禁止、宗教の名目で民族団結の破壊、国家を分裂させ る活動とテロ活動の禁止」(4条)、「独立自主自弁の原則を堅持し、宗教団体、宗教学校、宗 教活動場所と宗教事務は外国勢力の支配を受けることの禁止」(5条)、「非宗教団体、非宗教 学校、非宗教活動場所による宗教教育の訓練、公民を組織して国外の宗教的訓練、会議、活 動への参加の禁止」(41条)、「宗教団体、宗教学校、宗教活動場所が国外組織と個人からの条 件付きの寄付を受け取ることの禁止」(57条)など数多くの行動の禁止が詳しく書かれ、海外 の宗教組織とのつながりに対する規制も特に厳しい。「非宗教団体、非宗教学校、非宗教活動 場所による宗教教育の訓練」は明らかに官製の「三自愛国会」の傘下に入ることを拒否し、公式登録されないプロテスタントによる「家庭教会」を指している。
宗教の本質は「神に対する畏敬」である。中共政権の宗教政策の最終的な目標は、まさに 教会、教団、寺院、聖職者、教主、神から人々の「畏敬」を奪うことである。中共は無神論 と主張するが、しかし共産主義思想を作ったマルクス、一党独裁を実践したレーニンに対す る神格化にみられるように、決して「神」を必要としないというわけではないことがわかる。
さらにかつての毛沢東、今日の習近平に対する個人崇拝からもわかるように、中共は「畏敬」
を否定しておらず、ただそれを独占しようとずっと狙ってきた。自分以外の者に対する「絶 対畏敬」と「絶対忠誠」を絶対認めたくないことが、宗教に対する弾圧の根本的な理由であ る。
一党独裁の政治体制を命とする中共にとって、自分以外の権威構造は絶対容認できない存 在である。そのため、組織的にまとまりのない「漢伝仏教」と道教に対して比較的寛容であ り、その商業化の傾向に対しても目をつむったままである。その反対に、組織が堅固であれ ばあるほど、信仰心が強ければ強いほど、教主に対する服従が敬虔であればあるほど、その 宗教に対する弾圧が厳しい。1997年の新興宗教法輪功に対する弾圧はまさにその好例である。
信者の逮捕が十数年にわたって続き、いままで数千人の信者が逮捕され、これほどの宗教に 対する政治迫害は世界史上おいても稀である。今日の中国では、中共最高指導者習近平が
「全党擁護、人民愛戴、その名に恥ずかしくない党の核心、軍隊の統帥、人民の領袖、新時代 中国特色社会主義国家の舵取り、人民の道案内人」(40)とされ、それに対する「99.9%でも足 りない100パーセント」の「絶対忠誠」が求められ、かつての宰相李
り
斯
し
が、天下統一を達成し 中央集権制王朝の歴史を始めた大独裁者・秦始皇帝に阿あ諛ゆ迎合した「定てい一いっ尊そん」という絶対的 権力(41)も公に表現し、それを求めている。民主選挙のない政治体制と独裁的指導者の時代 に、キリスト教徒、ムスリム、チベット仏教徒、そしてあらゆる敬虔な宗教信仰をもつ人々 にとって、中国における宗教信仰の自由は永遠に現実にならない夢かもしれない。
(1)「中国基督教三自愛国運動」『中国大百科全書・宗教』、北京:中国大百科全書出版社、1988年2月、
400ページ。
(2) 同前、「中国基督教三自愛国運動」、545ページ。
(3) 羅広武編著(2001)、298―304ページ。
(4) 楊鳳崗「中国基督徒 辨析」、普世社會科學研究網、2017年3月9日(〈http://www.pacilution.com/
ShowArticle.asp?ArticleID=7572〉、2018年7月6日閲覧)。
(5) 羅広武編著(2001)、1、4―5ページ。
(6) 羅広武編著(2001)、11ページ。
(7) 羅広武編著(2001)、19ページ。
(8)「天主教徒三自革新運動日益開展」『人民日報』1951年1月23日(第1面)、「川北区抗美援朝使一 千万人結成一股勁」『人民日報』1951年5月10日(第3面)。
(9) 呉耀宗「基督教革新運動的新階段」『人民日報』1951年1月15日(第3面)。
(10)「綏遠天主教人士的愛国運動」『人民日報』1951年1月16日(第3面)、前掲「天主教徒三自革新運 動日益開展」。前掲「川北区抗美援朝使一千万人結成一股勁」。
(11) 羅広武編著(2001)、33―40ページ。
(12)「基督教人士 呉耀宗、 裕志、劉良模対顧仁恩事件発表談話」『人民日報』1951年4月5日(第3 面)。
(13) 羅広武編著(2001)、58―62、84、87ページ。
(14)「第四章 打撃以宗教作掩護的反革命分子」、上海市地方志弁公室編『上海公安志』(〈https://web.
archive.org/web/20110421035234/http://www.shtong.gov.cn/node2/node2245/node4476/node58282/node59920/ind ex.html〉、2018年7月18日閲覧)。
(15)「政協委員在小組討論会上発言摘登」『人民日報』1980年9月9日(第3面)。
(16) 鈴木隆弘「教会の十字架奪う中国」『読売新聞』2014年9月27日(第6面)。
(17)「河南強拆七千十字架 香港教会無動於衷愧対先賢」『基督日報 中国』〈http://chinese.gospelherald.
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%83%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6-%E9%A6%99%E6%B8%AF%E6%95%99%E6%9C%83%E7
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(18)『当代中国民族工作大事記、1949―1988』、北京:民族出版社、1989年9月、126ページ。
(19)「習近平接受班禅額爾徳尼・確吉傑布拝見、 正声陪同接受拝見」、新華網、2015年06月10日
(〈http://www.xinhuanet.com/politics/2015-06/10/c_1115577298.htm〉、2018年7月22日閲覧)。
(20)「藏伝仏教活仏転世管理弁法」、国家宗教事務局、2007年7月18日公布(〈http://www.sara.gov.cn/zcfg/
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(23) 中国語を話すムスリムは新中国の少数民族集団「回族」とされたプロセスについて、王柯『多民 族国家 中国』(岩波新書、2017年第7版)を参照。
(24)『臨夏専区民族工作情況―臨夏専署王治国副専員報告』(参考資料)、1952年12月、3―4ページ。
(25) 童言無忌「五十年代解放軍平定西北和高原的武装叛乱」(〈https://groups.google.com/forum/#!topic/
lihlii/dAB_vcUKp3M〉、2018年7月23日閲覧)。
(26) 羅広武編著(2001)、79、131ページ。
(27) 前掲『当代中国民族工作大事記』、119ページ。
(28)『徹底清算極右分子馬震武的反動罪行』、寧夏回族自治区人民出版社、1959年5月、2―19、21―23、
27―29ページなど。馬は1961年1月29日に冤罪のまま死去。
(29) 回族鎮圧事件として1975年7月の「沙甸事件」に言及すべきだが、紙幅のために省略。
(30)「新疆維吾爾自治区去極端化条例」、天山網、2017年3月29日(〈http://news.ts.cn/content/2017-03/29/
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(31) 葉林「学者:新疆再教育営関人或近百万 警察抓人有指標」〈https://www.voachinese.com/a/4383631.
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(32) 言江「『訪恵聚』、中国基層治理的新疆探索」、鳳凰資訊(〈http://news.ifeng.com/a/20160829/498549 00_0.shtml〉、2016年8月29日、2018年7月21日閲覧)。
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(〈http://www.xinhuanet.com/politics/2018-07/17/c_1123140114.htm〉、2018年7月23日閲覧)。
■参考文献
王柯(2005)『多民族国家中国』、岩波新書。
『人民日報』(中国共産党中央委員会機関紙)。
『当代中国民族工作大事記、1949―1988』、北京:民族出版社、1989年9月。
段徳智(2015)『新中国宗教工作史』、北京:人民出版社。
羅広武編著(2001)『1949―1999 新中国宗教工作大事概覧』、北京:華文出版社、2001年1月。
おう・か 神戸大学教授