論 説
戦後日本における女性のライフコース の変化と労働、生活に対する意識
一福島県立A高校卒業生への聴き取り調査から
高 橋 準
悪 はじめに
戦後日本の女性労傷に関して、年齢階級別の労働力率が、欝60年代以降いわ ゆる「M字カーブ」を描くことは、一般にもよく知られている。また、90年代 以降その瞳字カーブ窪の新底が上がった」ことも指摘されるようになってき
た。
女性のライフコースという観点からは、「M字カーブ」の形成とはすなわち、
学卒後に労働市場に参入して被雇思者として商いた後、結婚や出産等で一時退 職し、子育てが一段落する年齢に再び労働市場に戻るという、「一時退職・再 就職型」のライフコースが主流を占めるようになったことを意味する。また
ゼM字カーブ蓬の「底上げ]は、こうしたライフコースが主流でなくなり、「就 業継続型達のライフコースが増撫しつつあるという状況を反映したものである
と、通常は解釈される。
こうした女性のライフコースの変容には、その時点における経済や社会の状 況、文化的鰹約、あるいは政策といったさまざまな要因がからみあって、影響 を与えていると考えられる。しかしながら、さまざまなライフチャンスに際し て、蟹人は常に主体的な判断と決噺をおこない、それによって自らのライフコー スを決定しているということも、無視はできない。さらにいえば、講一のライ
一茎58一
戦後§本における女性のライフコースの変化と労働、生活に薄する意識 (高橋 準)
フコースを歩んでいるように見えても、職業や醗偶者の選択等や、『選択の結果 などに対する評優には、違いがあることも十分あり得る。
また、上でふれたマク灘データは一国単位でまとめられたものであるが、日 本国内の諸地域で経済的・社会的・文化的状況は必ずしも隅一でない。女性労 働をめぐる状況は、日本国内でも同一とは言い難いのである。
したがって、地域的な特性や徳人の選択について、さまざまなレベルで調査 醗究をおこなうことは、現代社会における女性労働の動態をより厳密かつ詳綴
に掘握する上での、重要な課題であるといえる。
今回は福島県のある県立高校の卒業生に対して質問紙による調査を行なうと ともに、面接による聴き取り調査への協力を求め、上記の問題について瞬らか にすることをめざした圭。聴き取りでは、労働や家族関係を含めた生活につい て、より詳総な情報を得るべくつとめた・対象者が各ライフチャンスに際して どのような判噺と決漸をし、その結果に対してどのような評無をしているかを 瞬らかにすることがねらいである。本稿は、この聴き取り調査の内容を、整理
して読者に提示することを目的とする。
2 調査の概要
今回調査対象とした福島県立A高校は、後背に農村地域を控えた市部に位置 する学校である。A高校は、欝23年に実業補習学校令に基づく町立の実践女子 高校として設立された.昭和に入ってからは、高等女学校に再編され、その後 県立に移管される。戦後は普通科のほかに家政科、保育科を併設、女子高校と して長く存続してきたが、扮90年代後半に男女共学化され、家政科・保育科も 廃科される。調査時点で卒業生総数はおよそi万60GG人。i難生からのすべて の卒業生を含む同窓会組織が存在する。質問紙調査では、学校とともに同窓会 にも協力を依頼し、その名簿を借用した。
質問紙調査の内容の詳綴については省略するが2、同窓生名簿からi欝7人を
行政社会論集 第2i巻 第4号
サンプルとして紬墨し、質問紙を郵送で送付・掻取した.宛先不瞬等で返送さ れたものを除外した回収率は蟹.i%(3給人〉である、
質翼紙の末羅にインタビュー調査への協力を求める文を掲載し、住所・氏名 等を用紙に記入して、返送用の封筒に同封してもらった。協力に応じていただ いた申から、スケジュール調整がついた欝名(うち関東圏在住者3名、福島県 内在住者絡名)が、今回のインタビュー調査の対象者である。
インタビュー調査は2007年の2月から3月にかけて行われた.ほとんどの場 合、調査対象者懸人に対して自宅、職場または近隣で調査員(i名ないし2名〉
が半構造化面接を行ない、記録を取るという形式で行なわれた(質問項目は末 尾に添付〉。それぞれの面接時間はi〜3時間程度である。(論文末尾に、イン
タビュー調査の項目を付す。〉
調査対象者と主な属性、ライフコースの機要は、表iの通りである。(年齢 はインタビュー調査時点。〉
表iでは、対象者を卒業時期で4つの年代に区分している.第亙期は鍛45年 まで、第H期がig46〜60年、第懸期がig6i〜70年、第W期が197i〜80年の
卒業である。
表のいちばん右は本人がたどったライフコースの大まかな区分である。ここ では、結婚または出産等で退職(表中ではr退職達と略記、以下カッコ内同様〉、
結婚・出産等で退職後期間をおいて再就職(ギ再就職蛋)、同じ職業を継続する か、転職を伴いながら就業を続けている(ギ就業継続」〉、その他の4つに分類
した。これは基本的には質問紙調査における本人の申告にもとづいているが、
聴き取り調査で得た情報によって若干の修正を加えた者もある。
なお、今回の聴き取り調査の対象は、質問紙調査での回答者数のi割にも満 たない人数であり、実数も揚名と少ない。調査結果から地域全体の傾向につい ての知見を導き出したり、踏層や年齢層ごとの特徴に言及するには、量的に不 足している。検討には、あくまでも地域全体および時期区分における特徴につ いて、今後考察を深めていく上での示唆を得るという方針でのぞみたい。
一i60一
戦後羅本における女性のライフコースの変化と労働、生活に麟する意識 (高橋 準〉
表董 ライフヒストリー調査・対象者と主な属牲
卒業年次 名前 (仮名〉 年齢 居住地域 ライフコース
王
Aさん
79歳福 島
就業継続 Bさん 79歳 関 東 退 職
璽王 Cさん 76歳 福
島
再就職
亙)さん 75歳 福 島
再就職
Eさん 74歳 福
島 就業継続
Fさん 73歳 福
島 退 職
Gさん
69歳 福島 退 職
}{さん 65歳 関 東 就業継続
璽 王さん 63歳 福 島 就業継続
」さん 6i歳 福
島 就業継続
Kさん
56歳 福島
その飽
Lさん 55歳 福
島
再就職
Mさん
55歳 福島 就業継続
w
Nさん
54歳 福島 就業継続
0さん
53歳福 島
再就職
Pさん 49歳
関 東
再就職
Qさん
46歳 福島 就業継続
Rさん 45歳 福
島 就業継続
Sさん 44歳 福
島 就業継続
3 就労をめぐって
1就労パターンの変化まず質問紙調査の結果の一部を簡単に参照し、議論の出発点としよう3。
行政社会論集 第蟹巻 第4号
質問紙調査では、表2にみるように、卒業の年代によってライフコース選択 の傾向に大きな変化があったことが明らかとなった毒。
表2 卒業年次×ライフコース (単位 人〉
卒業年次 経験なし 退 職 再就職 就業継続 その催 計
1 4(i3.8%〉 iO(34.5%〉 2(ま3.3%〉 8(27.6%〉 5(i7.2%1 29(鎗α0%〉
豆
7(8護%) 26〈3i.3%) i雛9.3%〉 2i(25.3%〉 茎3(蔦.7%〉 83(鎗。.倉%〉
璽
2(2.5%〉 9(ii.玉%〉 25(鎗9%〉 34(4i.9%〉 銀圭3.6%〉 8雄蟹緯%〉
w o(o.○%1 4(6.5%〉 24(38.7%〉 30(48.逢%〉 4(6.5%〉 62(鎗§.脇〉
全体 i3(5.至%〉 4雛g.2%〉 67(26.3%〉 93(36.4%) 33(i2.§%) 255(欝。愈%〉
第i期の卒業者では、結婚や鐵産を機に退職し、その後職業についていない というライフコースを経験している者が34.5%と、もっとも多い割合を占める が、結婚や畿産後も仕事を続けているという職業継続型盛のライフコースを 歩んでいる者も、27£%と多い。また、就業経験がない者も一定の割合いる。
第登期でも結婚・出産による退職後就業しないという者が3捻%ともっとも 多いが、同じ仕事かどうかを問わなければ就業を継続する者の割合も少なく
ない(2翫3%〉。
これが第灘期になると、結婚・出産で退職してその後就業しない者の割合は 大きく減少し、慧.i%になる。代わって、一時退職した後再就業するという、
野M字型雇用曲線」にそった就業パターンが大きく増加する(3α9%〉。だが、
何らかの形で就業を継続している者の割合はこれを上回り、全体の4割強
(4L9%〉を占める、
もっとも若い第W期の卒業者では、結婚・出産で退職してその後就業しない 者の割合は茎割にも満たず、さきほどの「一時退職・再就職型達が3&7%となっ ている。しかし前の年代と同じく、何らかの形で就業を継続する者の割合も
48.4%と多数を占める。
つまり、1960年以前卒業の世代では「結婚・畿産退職型」が主流であり、い 一162一
戦後欝本における女性のライフコースの変化と労働,生活に録する意識 (高橋 準〉
わゆる「M字型達の割合が増加するのは欝60年以降卒業の年代だということが わかる.しかし、これら第獲幾・第W類の世代では、簿らかの形で就業を継続 するライフコースもまた、割合が大きく増加していることが、この調査結果か
らいえる5。
最初に就いた職を退職した時
表3 卒業年次×平均初職退職年齢 期にも、大きな変化が現れてい
る。表3は、卒業年代別の平均 初職退職年齢を示したものであ る。1・豆と懸・Wの間には明 らかに大きな違いがあるのがわ かるであろう。前半は30代前半 が平均であるのに対し、後半の
2期は20代前半が平均退職年齢になっている。
こうしたライフコースや就労パターンの変容を、以下のインタビュー調査内 容の検討でも前提とする。一般に主流といわれる瞳字型」は、ま960年以降の A高校卒業生においては必ずしも支醗的なパターンでないという結果となっ ているが、それでは具体的に各僊人はどのような形で就業を継続しているのか。
彼女たちの就業継続や再就職を支えたのはどのような要因であったのか。
卒業年次 初職退職年齢(歳)
1 32洛6
E
3325欝 2453
w
22.72全体 2雛2
(21働き続ける女性たち
今回の聴き取り調査結果からまずいえるのは、r働くのは当たり前」という ような意識が、世代を超えて広く存在することである。ただし、そもそも質問 紙調査の内容が就業経験を中心にしており、これがインタビュー調査に応諾し た者の傾向を左右した原因としてあったことも考えられる。
まずは王・登といった古い年代から見ていこう。Aさん(嬉28年生まれ)は 高等女学校卒業後、教員養成所(i年間の課程)に進学し、珍46年から教職に ついた。初任給は43円だったという。蟹歳の時(鐙49年〉に同じ教員の夫と結
行政社会論集 第2i巻 第4号
婚したのちも仕事を続けた。子どもは全部で4太いるが、捻55年に産休代替教 員麟度ができる以前にも、教頭や教務主任が彼女に代わって教壇に立つなどの 支援を受けていた.
Eさん(欝32年生まれ)は高校卒業後に保母の養成所に通い、実習先の保育 所にそのまま就職した。その後23歳のときに公立の保育駈に移っている。32歳
(鍛64年〉で学校教員の夫と結婚して居住地が変わり、さらに二人の子を鐵産 したのちも職場を変わりながら仕事を続けた。子どもの面倒は主に夫の母がみ たという。Eさんは40歳前後で管理職試験を受け、43歳からは保育所長も務め た。47歳で目を患ったときに退職を考えたそうだが、眼科医(女性〉のギみん な協力してくれるから大丈夫まということばで思い直したという。
このように、教員などの専門職や公務員の場合、結婚や出産などがあっても 退職しないというケースが目立つ。特に第三嬬の年代では、結婚や串産でも退 職しなかった回答者のほとんどが教員や公務員である。先に述べたとおり、レ
Hの年代では平均初職退職年齢が30代前半と相対的に遅いが、それはこのよう に専門職・公務員として長く勤める層が比較的多かったことからくるものと思
われる。
インタビューでは本人だけでなく、周囲の状況についても聴き取りを行なっ ている。Aさんの場合は学校教員だが、浮どもができてやめる教員は少なかっ た」、Eさんもギ公立保育所に勤める保母は定年でやめる人がほとんどだまと 語っている。夫の転勤で退職したFさん(欝33年生まれ、当時の郵政省に事霧 職で勤務〉も、結婚や出産では退職を考えておらず、やめるに際しても「迷い ました」と語った。周囲についても「(墨産後の〉職場復帰は当たり前のこと だった達既婚で子どものいる人が多かった達と述べた。Fさんの姉も郵政公 務員として35年間働いた。
学校教員を含め、公務員は、給与水準が地域内では相対的に高いということ が、仕事をやめない要因の一つとしてある。Aさんは「戦後はベースアップに 次ぐベースアップで、給料がよくなった3ことを、Eさんもr待遇」のよさを、
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戦後蓉本における女性のライフコースの変鑑と労髄、生活に対する意識 (高橋 準)
自分の職場では結婚や鐵産でやめる女性が少ない理由にあげている.
AさんやEさんは同じ職種で継続して就業していたが、仕事をいろいろと変 えながらも継続して就業している事例もある。特に今回の調査においては、獲 の年代の卒業生で、結婚後に夫の家業(農業を含む自営業〉を手伝うという形
が目立った。
亙さん(鐙43年生まれ〉は、高校卒業後東京で就職し、大手ホテルに3年半 勇務した後、結婚を期に退職した。夫の両親の家は福島渠中通りの市街地で食 品店を営んでおり、結婚直後から夫とともに店で仕事をした。現在も店を維持 して、地域商店街でも中心的役割を握っている。夫は大学卒業後しばらく食品 関係の会社に勤めており、将来は自分が店を継ぐことを念頭に置雛ていたとい
う。店への関わり方も単なるr手伝い匪ではなく、1さんも夫も新しいアイディ アを出して形にすることに積極的であったという。
Jさん(欝45年生まれ〉は、いくつかの職場を経験したが、結婚後は夫の家 の工場で働いた。夫は営業まわりで販路を拡大し、工場は夫の弟とJさんとで 切り回したという。家事のうちでは炊事は」さんの担当だったが、」さんの子
どもの面倒は夫の両親がみていた。」さん自身の子育てへの関わり方として、
喰分は裏の工場専門でやっていたので、子どもに瓢をくれるときだけ家にも どった」と語ってくれた言葉が印象的であった。
Mさん(欝駐年生まれ〉も、23歳で結婚した後、夫の家の工場で仕事をして いる。途中の十数年は、夫よりもむしろMさんのほうが主導権を握っていた時 期もあったという。簸さんの肩書きは取締役、ただしふだんの仕事は3分のi
ぐらいはCADとのこと。
Qさん(雄60年生まれ〉は、やはり結婚前にいくつか職を経験したあと、結 婚後は夫の家で農業に従事するようになった。ただし農業による収入のほかに、
土地の賃料やアパート経営などでも収入があるようである。したがって耕地も それほど大きくなく、機械化されたあとの農業でもあり、重労働というふうで はない。 ・
行政社会論集 第蟹巻 第4号
より若い第W難卒業の年代では、福謹関連の職に継続してついている人も目
立った、
Nさん(ig52年生まれ)はA高校の保育科の卒業で、漠然とではあるが高校 在学時から保育・福紙関係の職につきたいという希望があったそうである。高 校卒業後は福禄系の四年翻大学に推薦で進学している。2つ年上の嫌がおり、
親の家は決して裕福ではなかったので、姉が大学へ進学するなら自分は無理か と思っていたが、締が大学受験に失敗したので、噛分が行ってもいいのかな と思い始めた」。大学卒業後は、最初北海道の病院で医療ソーシャル・ワーカー として勤務したがしばらくして退職、数ヶ月のブランクはあったものの、その 後福島県内の社会福鮭法人に勤務し、現在に至っている。現在の職場に移って から結婚し、子どもは2人いる。
Nさんの場合、郵便配達請負や工場勤務をしている夫よりも年収が高く、
r一家の大黒柱」としての自覚がある。社会福祉士資格や介護支援専門員の資 格などにも積極的にチャレンジし、現在は管理職として勤務している。かなり の激職で、退職する人も多いと聞いたが、彼女自身は忙しいからといってやめ るつもりはないと語る。夫の両親と同居しているが、夫もギ親の介護が必要に なったら自分がまと言っているそうだ。
Sさん(ig62年生まれ〉は、今回のインタビュー調査では一番若い対象者で、
やはり福祉職.高校在学中から保育・福禄系の仕事やボランティアに関心があ り、点字や手話なども覚えたという。高卒後は3年間病院で事務を経験したが、
退職して福裡系専門学校へ進学。高齢者介護の職に就くことになる。職場を一 度変わっているが、仕事は現在に至るまで継続している。現在は管理職として 勤務している、結婚はしていない。子どももいない。本人は「女性の生き方と
して、(自分は)過渡期にいるんだと思う」と語った。
③ 就労への強い志向
インタビュー調査の対象者には、結婚や出産を機に退職した女性たちであっ
一驚6一
戦後8本における女性のライフコースの変化と労働、生活に録する意識 (轟橋 準〉
ても、その後の再就職や、再就職後の就業継続には積極的である人が多かった。
Cさん(欝30年生まれ〉は、食品会祇で事務を担当していたが、結婚後第一 子の妊娠を機に退職(28歳頃〉.上越に「続けられないだろう」と言われたと
いう.Cさんには2人の子どもがいるが、第二子が5歳になるig68年頃に再就 職を考え墨したという。5年ほどさまざまな仕事を経験するが、エ974年に資格 を取って中学校の図書館司書の職につき、ig89年まで勤めた。いわゆる瞳字 型まの就労パターンで、収入は子どもへの仕送りになったという。
董)さん(欝32年生まれ〉は高女卒業後、事務や司書の仕事を経験したが、3G 歳の時に結婚を機に退職。3人の子どもを串産。末子が20歳をこえた時点(C さん自身によればゼ55、6歳のときか嚇)になって、「ただ家にいるよりはと 思って涯、マネキン(デパートなどでの販促)の仕事をはじめた。今も続ける 意志はあるが、最近は「声がかからなくなった輩という。
さまざまな職を経験している登さん(欝駐年生まれ)のような人もいる。現 在関東在住の琶さんは、高校を卒業した年に親の反対を押し切って東京へ出た
(ヂ実家にいたら農家に嫁にいかされると思って」)。工場の事務員をして働いた が、給料に満足がいかず、さらにビル清掃の仕事を本業の勤務が終わったあと の時間にしていた.
ig64年に結婚したあとも、夫の給料が安かったからという理由で働き続けた。
第一子を出産した後も、子どもが2ヶ月になると内職を始めたという。r iヶ 月にioOO円から2000円ぐらいの収入雌だったらしい。末子がi歳の時に、近所 の人に誘われてヤクルト醗達員に。その後公営住宅に転居してからは新聞配達
もしていた。働き者と見られたのか、近所の人に誘われて自治体の給食調理員 になる。すぐに試験を受けて正規職員になり、定年まで勤務。その後礪託職員 として同じ自治体で事務系列の仕事をした。2GO6年に退職したが、「このまま 受け身ではばかになると思い擁、シルバー人材センターの募集に応募(65歳〉。
市の施設の受付に採用になったという。
そのほか、質問紙の回答にはギ結婚で退職重と回答していても、実際には収
行政社会論集 第2i巻 第4号
入がある仕事をしていたBさん(i盟7年生まれ〉などもいる。現在関東在住の Bさんは、高等女学校卒業後に教員にすすめられて、欝44年春から数ヶ月東京 の専門学校で製蟹を学び、その後すぐに当時の国鉄に勤めた。設計課で園面を
トレースするのが主な仕事内容であった。敗戦でゼ仕事がなくなった」ために 退職し、その後i年ほど洋裁学校で学んでいたが、おじの紹介で欝49年に結婚 する。夫は大卒間近で、大手メーカーに妓籍職として勤務することが決まって
いた。(最終的には系列会社の取締役まで昇進している。〉
Bさん自身は[仕事をして自立するという考えはなかった達と語っているが、
すぐに自宅で洋裁(ワイシャツやスラックスの仕立て〉の仕事を始めている。
忙しいときには見習いの人も2人抱えていた。そのためか、母親の紹介で、i 人いる子どもが幼稚園に行く年頃までは、家事手伝人を頼んでいた。だが夫が
[(仕事で)疲れた顔を見るのが嫌獲というので、夫が帰宅する夕方には仕事を 片付け、晦もしてなかったかのように達していたという。
洋裁による収入は、ゼ夫の給料(おそらく月給)の4分のiぐらいまはあっ たという。家計とは別で、Bさんが自由に使えたらしい。夫がぜいくら(給料 を)もらっていたかは知らない婆が、「洋裁でだいぶ潤っていた達と語ってい る。そのせいもあってか、欝邸年頃にかなり高儀な業務用ミシン(家庭用ミシ ンのおよそ欝倍の価格だという)を購入してもいる。厚手のコートも縫える」
のだそうである。
そのほかFさんは前述の通り、事務系の公務員(郵政省の貯金事務局〉とし て勤務していたが、夫の転勤に伴い退職する。夫の母が63歳で半身麻痺になり、
30年間介護を続けたが、介護をしていてぎつくり腰や腱鞘炎になり、それがも とで気功を始める。65歳になったときには自分の教室を開設している。当然収 入もあったと思われるが、「職業というほどのものではない窪という。そのほ か、お茶も教えたことがあるという。
BさんやFさんがしていた仕事は、たとえかなりの収入があったものであっ ても本人にはゼ職業」として自覚されておらず、質問紙調査でもゼ職について
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戦後欝本における女性のライフコースの変化と労縁、生活に越する意識 (高橋 準〉
いた」という回答になって表われてこないことも多い。聴き取りで初めて浮か び上がってくる現実である。
彼女たちのような技能を活かした仕事ではなくても、内職のような形での仕 事が身近にあるような発言もいくつかある。すでに述べたように、Rさんは子
どもが小さい頃から実際に内職をしていた。Cさんは父親の死後、母親が針子 を2〜3人かかえて縫い物をして生計を立てていたという。自身も一時退職後 の再就職でさまざまな仕事を経験する中で、鵜繍の内職をまとめる仕事を経馨
している。
会社勤めをしたあとアルバイトなどで職場を転々としたRさん(鰺磁年生ま れ〉も、iggi年に結婚後福島を離れたときに、「働きたいと思ったが、福島に は内職がたくさんあったのに(ボールペンの緩み立て、基盤作成など)、札蝿 にはなかったまと語っている。結婚や鐵産で退職した後、家事や育晃をしなが らでも現金収入を得られる手段として、かなり最近になっても内職が位置づけ られていることがうかがわれる。
(41退職や転職の経緯
専門職や公務員で就業継続が一般的であったり、就業条件のよさが語られた りすることが多かったが、結婚等での早期退職が慣行として存在していたらし いことがうかがわれるような内容の発言もあった。
第一子を妊娠したときに上司からギ続けられないだろう」と言われて退職し たCさんの会社には、そもそも結婚後も仕事を続ける人は少なかったという。
ig50年代後半の話である。そのほかRさんが最初に勤めた会社は、待遇は決し て悪くなかったが、「女性は5年で辞めるのが通例だった」という。
就業への意志は強くても、働き続けられなければ、次の職を探すしかないこ とになる。Rさんはその後結婚までの問、勤め先をいくつか変えている。その 中に親戚の紹介で勤めた本テルがあったり、初職(ガソリンスタンド経営〉で のつながりからガソリンスタンドでアルバイトをしたりしている。現職もかつ
行政社会論集 第2i巻 第4号 ての勤務先での人的ネットワークによる。
「M字聖遷の就労パターンをたどっているしさん(鐙駁年生まれ)も、結婚 前の転職は知人の紹介であり、結婚後最初に仕事を始めたのはしさんの晃が経 営する会社(事務〉であった.その後、求人広告(罫チラシ」ということであっ たので、新聞の折り込み広告などかと思われる〉で正社員として現職について
いる、
福禄職のSさんも、最初に勤めた介護施設は初職の病院に勤めていた医舗の つてである。現在の職場も、新しく闘所するときにSさんが経験者として人づ てに紹介され、相談に乗っているうちに勤めることになってしまったという
(本人は高齢者介護施設ではなく保育所勤務を希望していた〉。学卒時には学校 の紹介などが中心であるが、その後転職や再就職にあたっては、職安や求人広 告だけでなく、最初はこういつた親戚関係や以前の職場の人的ネットワークが 機能することも多いようである。
転職は仕方がなくすることもあれば、よりよい職場を求めてのこともある。
Sさんが最初の職場(病院〉をやめたのは、保育の仕事につきたいという希望 があったからである。結局保育の仕事はできず、高齢者介護に従事することに なる。そのあと一度勤務先を変えているが、それは提供されている介護サービ スの質の低さに嫌気がさしてのことであった。現在の勤務先への「スカウト」
に際しては、rあなたが今までいやだったことをなくした施設をつくりましょ う」という言葉に説得されたという。結果を見ればよりよい職場へ移った形
になった。
仕事の内容や質だけでなく、給与等の条件が転職の引き金となることもある。
」さんは家計を助けるために就職したが、最初の職場があまり収入がよくなかっ たので2ヶ月でやめ、「醤油屋の事務まの仕事にかわった。そのあとの職場
(やはり事務職)は、「前よりもまだ給料がよかった」という。
またすでに述べたRさんのように、給与の低さは不満だったが、転職すると いう途を取らず、本業が終わったあとに別の仕事をするという手段をとった人
一170一
戦後饗本における女性のライフコースの変化と労働、生活に麟する意識 (高橋 準〉
もいる。結婚後、彼女が内職→ヤクルト・新聞の配達→市職員と職を変えてい くのも、結果的にはより高い収入を得るためのものであった。
」さんやHさん、あるいはヂー家の大黒柱まであったNさんなどにとっては、
仕事は自分や家族の生活を支える収入を得るためのものであり、必要なだけ、
あるいはよりよい生活のための収入を手にするべく、転職をしたり融業をした りという手段がとられることになったのだと考えられる6.女性たちがかくも 熱心に仕事をするのは、まさにこのように、ギ生活のためまという理由があっ たからでもある。
4 就労を支えるもの、生活の工夫
(葉1育児への支援
こうした女性たちの就労を支えたものはなんだったのであろうか。特に、就 業継続型のライフコースを歩んだ女性たちの場合、家事や育児などの「女性役 割」と就労とは、どのような形で両立が可能になったのであろうか。
比較的多く聞かれたのは、親世代による家事・育児の担当である。Aさん
(教員〉は4人の子どもがいるが、「子どもが小さいときは、おじいちゃん、お ばあちゃん(夫の両親)に見てもらった匪という、Eさん(保育士〉も嘲ご 飯は作るが、寝ている子たちをそのまま置いて出勤した達という、Eさんの場 合も、子どもの面倒を見ていたのは夫の母親である。Jさん(工場勤務〉も、
夫の親が子どもの糧話や勉強をみていたと語っている。ヂ特に祖母(夫の母の こと〉は子ども4人の面倒をよく見てくれて、読み書きもみんな教えてくれた。
その次は、じいちゃんが勉強の面倒を見てくれた。じいちゃんは(牛酪)、勉 強のことはなんでもわかっているので(微分、積分も)」。
しさんは、結婚後2人の子どもを出産、子育ては親が手伝ってくれたという。
また、兄の経営する会社で事務を始めたのちは、子どもは実家に連れて行き、
母親にみてもらっていた。
行政社会論集 第欝巻 第4号
Cさんは親の援助が得られずに退職しているが、それはぜ母親が婦の子ども の糧話で忙しく、頼ることができなかったため喋だという。0さん(欝52年生 まれ)も第二子がまだ小さいときに退職しているが、それは「ばあちゃん(夫 の母親〉が死んだので、子どもの面倒をみなければならなくなった達からであ る。つまり、それまでは義母に子どもの世話をまかせていたということである。
離れて生活していても、たとえば出産時には自分の親〈特に母親)の援助が あるということも聞かれた。Hさん(関東在住〉は、第一子の出産は東京都内 であったが、1週間ほど母親が助けに来てくれたと語った。また第二子は実家 に戻って出産した。このときにも親の援助を受けている。
逆に、孫ができると、今度は自分がその盤話をする翻に回ることもある。今 回の調査ではあまり事例として出てこなかったが、たとえば9さんの場合は関 東圏在住であるが、フルタイム勤務の娘と同居していたことがある。このとき はBさんが孫2人の育児を担っていた。別居してからも、土日に娘が孫を預け に来て、自分たちは夫婦で褻さっさとテニスにいってしまう」と語ってくれた。
福島県内では、孫の面倒をみるという意味で縣守り」という言葉がよく使 われるようである。若い夫婦は就業を継続し、かわって祖父母が孫の挺話をす ることが、広くおこなわれているということであろう。そのほか講じような意 味で、宮城県等では「孫だまし」という言葉がある。三世代同居、あるいは近 隣居住で行き来が頻繁であるということが、これらの地域で若い世代の女性の 就労の支えになっているということである。今回インタビュー調査の対象となっ たうちで、「結婚・出産退職型ま、および「一時退職・再就職型謹の人は、Gさ んを除いて、ほとんどが核家族である。同居の親は、やはりいちばん重要な子 育て支援の担い手であるといえる。
その飽、妹・義妹や親戚からの支援が語られることもあった。Dさん(ig32 年生まれ〉の場合は、子どもの頃、結婚した兄夫婦と同居していたときに、子 守をしていたことがあるという。公務員として仕事をしていたFさんも、子育 てに親戚の援助を受けたと語る。Kさんは、母親がリューマチであったという
一i72一
戦後B本における女鑑のライフコースの変化と労簿、生活に封ずる意識 (轟橋 準〉
こともあるのかもしれない.32歳で双子を鐵産したが、子育てに関わったのは、
本人のほかには当時高校生だった、年の離れた妹だという。
親や親戚の援助がない、あるいはそれだけでは足りないという場合には、保 育所も活用されている。Fさんは、上述の通り親戚の援助を受けて子育てをし たが、「2歳までは保育所蓬に預けていたという。彼女の場合は、職場に維合 が経営する保育所があった。至さん(自営業〉は食品店で夫と夫の両親ととも に働いていたが、自分のところも含め近所の商店では、「たとえおばあちゃん がいても、子どもの世話をしている余裕がないくらい忙しかった」ので、「夜 遅くまで子どもをみてくれる私立の保育勧に子どもを預けていたという。M さん(自営業)も子どもを保育園に預け、工場での仕事の合間に送り違えをし
ていた。
Nさん(福禄施設勤務〉の場合はややめずらしく、夫が重要な育児支援者で ある。保育所への送り迎えも夫と半々程度、また彼女が長時間の勤務の時など は、保育所から戻ってきた子どもの面倒は、同居している夫の親ではなく夫自 身がみていたという。夫の勤務形態や勤務時間との兼ね合いもあるだろう。
こうした一方で、ギ子どもの面倒は母親自身がみるべきまという意見や周囲 の雰囲気が語られる事例もあった。
Dさんは30歳で結婚後退職して、子どもは3人。郵育児は自分でした。自分 ですべきである遷と語る。また、Qさん(欝60年生まれ〉の場合、両親は共働
きで、「自分たち(姉、Dさん、弟、妹〉でインスタントラーメンを作って食 べていたまという。彼女自身は3人の母親。rこどもが小学生までは母親が家
にいて子のめんどうを見るべき」と強く主張する。
また、0さんは義母が亡くなったために退職したが、保育所を利飛しなかっ たことについて、ゼ人に預けてまで働くというのは、どうもね。窪子どもはうち で見るものだ。働きに出るのは、可哀想毒と思われていた。保育所に行ってい る子も周りにいなかったユと話していた。母親自身がという意識はないが、保 育所の利用はやはり「他人に預ける」ということで抵抗が大きかったというこ
行政社会論集 第蟹巻 第4号 とだろうか。
(2)家事にかかわる工夫等
意外に思えるかも知れないが、女性たちは必ずしも、結婚前に家事の経験が 豊富であるわけではない.
最も年齢が高い第至難の卒業生であるAさん(i競8年生まれ〉は、末っ子な ので家のことは家業・家事ともに「何もしなかった」と語った。ヂ(結婚するま で〉家事はひとつもしていなかったので、麦のご飯炊き、お祭りの時のおふか
しづくり、大釜のやりかたもわからなかった。何もできなかったので、本当に 困った」という。同じく第工期卒業生のBさん(欝27年生まれ〉の場合、長女 である姉は、小学校2年生の頃から食事の用意などの家事を手伝っていたが、
彼女自身はヂ来客の時にお茶うけ用のたくあんを物置に取りに行っていた」ぐ らいのことしかしていない?。Cさん(欝30年生まれ〉も、ギ母親と嫌妹が疎 開し、父との2人暮らしだった問は、父親と家事を分担していた藩というが、
そのあとで「母親から家事を教わる機会がなかった。結婚後に大家さんから、
家事を教わった」と語っている。やや若い世代のKさん(鐙50年生まれ〉も、
学校に通っていた時期には家事の手伝いをすることはなかった、駁歳で結婚し た後になって、母親にかわって家事をするようになった。
これとは逆に長女であったり、もしくは長女とさほど年齢が違わない場合は 長女とともに、子どもの頃に家事を経験している事例もある。上述のBさんの 姉は長女であった。また、Rさん(欝4i年生まれ〉は農家で育ったが、2つ上 の締がおり、一緒に食事を作った経験と高校での調理実習が、一人暮らしを始 めたときの家事に役に立ったという。Nさん(ig52年生まれ〉も親の家は農業 を営んでおり、Nさんも含め一家総出で農業をしていたが、Nさんと2つ上の 婦とで、rおさんどん蓬もした、という。ヂカレーやシチューをよく作った。カ レーはルーが串始めていた頃。シチューのルーは趨るのが遅かったので、母に 教わって、鍋にバターをとかして、小麦粉をとかして作った。飽は、郵焼きや
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戦後8本における女性のライフコースの変化と労欝、生活に鰐する意識 (高橋 準〉
味噌汁など婁を作ったと語ってくれた。
結婚後、働き続けながらの家事は、やはり女性たちの大きな負担となるが、
どのような工夫を彼女たちはしているだろう。あるいはどのように援助を受け ているだろう。いちばんの援助者は、育児と同じくやはり購居している本人ま たは夫の親であるといえる。もっとも、先にあげたEさんの語り(朝の食事の 支度をして仕事に呂かける)にもあったとおり、まるっきり親まかせというこ
とはないようである。
子どもや夫が援助者になることもある。工場をやっているMさんの場合は、
子どもも夫も家事負担を共有する。ε子どもが家事を手伝った。自分も忙しい から、こどもたちに家事をやってもらわないと仕事ができない。主人(夫〉も 手伝いをするまぜこどもたちには幼稚園の頃からお茶魏ふきをやらせているが、
恨まれていない達ギ友だちも男女の別なく子どもをしつけている」という。
福禄施設の管理職として働くNさんの家でも、義父母はあまり家事をしてお らず、「居間や玄関の掃除ぐらい崖だという。現在食事の支度の中心を担って いるのは彼女の夫である。喰分が残業が多いので、長年炊事をやってきたた め、それなりに覚えてきたようだ。それ以前も、感心なことに、必ず食事の後 片付けを一緒にする人だったまと語った。
食品店を夫とともに経営する茎さんの場合は、やや特殊かも知れない。夫の 親と同居していた時期には至さんが家事め中心を担っていたが、現在は同居し ている3人(1さん、夫、息子)の全員が調理錘免許を持ち、野ご飯と味噌汁
ぐらいは(亙さんが〉作るまが、基本的に自分の食事は自分でというスタイル
を取る。
1さんはそのほか、生活時間の工夫などもしたようだ。商売をしていると朝 はやることがあってたいへんなので、洗濯は午後に、掃除は夜に。Nさんは逆 に、朝4時、5時に起きて義父母の分を含めて、食事の支度をある程度してい るという(残りは夫に任せている〉。
それ以外では、家電製品の購入がどのぐらい家事負担の軽減に貢献している
行政社会論集 第笈巻 第4号
かということも、当然関心の対象となる。特に年齢が高い糧代では、大きな負 担軽減となったことも予想された。しかし、今回はそれほど回答中で目立って いない。三世代同居などでは家事の手が足りていたということもあったのかも
しれない。
妊娠で退職したCさんは、結婚後働いていた時簸に電気洗濯機をボーナスで 購入したのが、rとても役立ったまと語った.当時週休はi日で、日曜しか洗 濯ができなかったためでもあるだろう。しさんはもう少し若い世代の再就職紐 だが、途中で正社員に転じた。きっかけは、持ち家の購入でa一ン返済が大き な家計負挺となったからである。r大型冷蔵庫を買って、食料品を買いだめし てい惣という。また、フルタイムで勤め始めるときには、夫が子どもたちに
「おかあさんはこれからフルタイムで仕事をするから、みんな手伝おうまと声 をかけてくれたそうだ(ただし、実際どのような協力がどのぐらいあったかは
不明)。
他方、惣菜など、できあいのものの購入という声はほとんど聞かれなかった。
i人暮らしをしているSさんだけが、喰事は、コンビニやスーパーでできあ いのものを買う」と言っていた程度である。こうした行動は、むしろもっと若 い徴代で強くなるということなのかもしれない。
5 むすびにかえて
落合恵美子がζ蟹琶紀家族へ雲(新版、簿97年〉で述べているようにき、高 度経済成長の影響によって、大都市部では多くの核家族が生まれることになっ たが、農村部や地方都市などでは三世代以上が同居する家族が残るといった具 合に、戦後日本では二つのタイプの家族が藍存する状況が作られてきたといえ
る。
戦後主流になったといわれてきた「一時退職・再就職型」のライフコースは、
階層にもよるが、主に糧帯内にほかの育児担当者がいない核家族の蔑婚女性の
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戦後田本における女性のライフコースの変化と労饒、生活に繋する意識 (轟橋 準〉
ものであると考えられる。農村を後背に控えた地域にあるA高校の卒業生は、
それとは対照的に、大都市への移動を経験せず馨、親と同居ないしは近隣に居 住しているような場合などには、必ずしも結婚・畠産によって労働市場からリ
タイアしない。今回のインタビュ」対象者でも、やはり「一時退職・再就職墾 のライフコースを経験している女性の家族は、4の①でも述べたとおり、核家 族であった.
質問紙調査の結果で確認したとおり、欝6()年以降の卒業生ではぜ一時退職・
再就職型蓬が増撫したが、同時にゼ就業継続型まも増撫している。今回のよう に限られた数のサンプルの結果からの一般化は危険であるが、大都市部ではな く、地方都市ないしは農村部の場合、核家族を中心にゼ一時退職・再就職型」
のライフコースが高度経済成長期に拡大すると同時に、三世代以上が講居する 世帯も多いために、「就業継続型豊も女性の就業機会の増大とともにむしろ拡 大する。このことから、地域における麗婚女性のギ主婦化」の進行は限定的で あったということも考えられる。大都市部ではε主婦化」が進行する高度経済 成長顛に就職した樋代(第翼期・第W期〉では、平均初職退職年齢が大きく下 落しており、その時娚に早期退職もしくは結婚退職翻度が存在したとも語られ たが、それにもかかわらずゼ就業継続型達の割合が増加していることは、この 地域で慶婚女性が働き続けることに対する社会や家族からの要請の強さと、女 性自身が働き続けることを規範として内面化していることがうかがわれる。
饑き続ける女性たちは、たしかに同居する親糧代からの育晃支援などを受け ているが、彼女たちが労働に専念できているかというと、そうではない。女性 たちの語りから判閉したことは、労働と家事・育児のヂ二重のシフト達をこな しつつ、一部の家事と育児の中心を親世代に依存することで、負担を軽減して いる様子であって、完全にそこから解放されているというものではなかった。
親世代が孫の面倒をみている世帯でも、Eさんや」さんなどのように、家事の 中心は本人であることも多い。亙さんも若いときは家事を中心的に担っていた
(子どもの世話は保育所を利用〉。核家族よりも、盤帯の人数が多い分、家事負
行政社会論集 第溢巻 第4号 担が多いことも考えられる鈴。
餐さんのような例を除き、夫の家事・育児への関与もあまり語られなかった。
むしろ、家事や育児を担当できる成人女性が糧帯内に複数いるということで、
家事・育晃を女性が担うというジェンダー規範は強直に維持されているともい える。ギ男は外・女は内達という形でこそないものの。
この点、先に紹介したSさんの、「女性の生き方としては遍渡期にいるまと いう言葉が思い串される。彼女のように(少なくとも法的な意味での〉結婚を せず、子どもも持たない、という選択は、おそらくかつては一般的には存在し なかった。Sさんは鐙62年生まれ。2GG9年現在40代後半の毯代になって、核家 族で「M字型匪のパターンを歩むのでもなく、三世代同居の世帯で親世代の支 き援と支配を受けつつ働き続けるのでもない、「第三の道重を歩むという選択が
比較的広く可能になってきたということであろう。
以上、輻広い年代を対象にした質問紙調査と偲劉ケースの聴き取りから明ら かになったのは、ある地域の出身の女性たちが、さまざまな時代、さまざまな 状溌の中で行ってきた選択の変化と、さらに新しい選択が生まれつつあるとい う、まさに動的な過程であった。今回、地域社会の経済的・社会的動態との突 き合わせや、全国的な状況との比較などはできなかったが、こうした実証の積 み重ねが、より精緻な家族生活と女性労働の変化の実態を描き出すことに与っ て力があることを信じて、筆を置くことにしたい。
※お名前をあげることができないが、インタビュー調査にご協力いただいたみ なさん、また、調査をご支援いただいたA高校および同校同窓会関係者の方々 に、深く御礼を申し上げたい。
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戦後嚢本における女鑑のライフコースの変化と労簿、生活に麟する意識 (轟橋 準)
注
t 質問紙調査は艶麗年8〜9月に実施された・この調査は、平成搭年度〜平成 鴛年度科学醗究費補助金基盤研究費(C〉ギ近代羅本の女性労鱈に関する計量歴 史社会学的醗究3(課題番号貿5鎗392、概究代表・橋本健二〉による醗究の一環 としておこなわれたものである。インタビュー調査は、質問紙調査を通して協
力の申し呂があった対象者に対して、2005年より研究活動を続けてきたギ女性 と労働達観究会のメンバーが中心となって、科醗費調査とは切り離して、2007 年2月〜3月に実施された。インタビュー調査に参撫した者は以下の通りであ る(五十音顯.敬称酪〉。撫藤眞義(福島大学、概究会メンバー外〉、木本喜美 子〈一橋大学)、駒辮智子(北海道大学〉、高橋準(福島大学〉、千葉鏡子(福島 大学)、萩原久美子(都留文科大学〉、橋本健二(武蔵大学〉、早辮紀代(明治大 学)、宮下さおり (九州産業大学〉.調査結果はまず、2007年5月の醗究会で、
駒辮智子によって総捲報告がなされた。なおこの醗究会での検討には、調査に 参撫した醗究会メンバーのほか、笹谷晴美(北海道教育大〉が擁わっている。
本稿は駒綴の報告を参考に、高橋の責任で調査結果全体をまとめなおし、書き 下ろしたものである、
2 詳しくは、橋本健二、職方出身女性の地域問移動・社会移動とライフコース玉 露近代欝本の女性労饒に臠する計量歴史社会学的醗究雲(科学欝究費補助金醗究
成果報告書〉、2GG8年、第5章、を参照。
3 本稿で驚いたデータは、橋本健二から提供された入力デ一夕を、執筆者が集 議し直したものである。
4 卒業年次区分と、醐8 あなたの経験されたお仕事を全体としてみたとき、
これまでの働き方は次のどれに近いですか。もっともあてはまるもの一つを選 んでください。」という問いへの回答とのクPス集計、ただし本稿では、選択肢 のうち、ヂ結婚を機に仕事をやめ、以後は仕事についていないまと「量産を機に
仕事をやめ、以後は仕事についていない邊を「結婚・農産退職謹としてまとめ た。また、瞬じ仕事達、「仕事は続けている戴結婚や畿産の前後で仕事が変わっ
た達とヂいろいろな仕事を経験しながら饑き続けている崖を軒就業継続まとし てまとめている.
5 ただし、あくまでも一高校の卒業生を対象とした調査の結果であり、地域全 体の傾向を反映したものとはいえないため、解釈には注意が必要である。
6 今懸の調査では、ゼ扶養の範露内で饑く謹という声は、あまり聞かれなかった。
行政社会論集 第然巻 第4号
これは、醗偶者特劉控除、厚生年金の第三号被保験者麟穫などが成立したのが 簿齢年代と、繋象者全体の年齢からすると、比較的時嬬が遅疑できごとであっ たからかもしれない。一時退職・再就職という「M字型嘩の就労パターンに沿っ ている0さんだけは、調査当落郵便局の非常勤職員として饑いていたが、ぜひと 月憩万円こさないようにしている。行っても焉欝。最初は(時給が〉650円だっ たかなあ、巡回葬常勤になると、もっと給与は高くなるが、扶養手当の関係で それほど稼ぎたくない蓬と話していた。
7 岩村暢子、釈現代家族〉の誕生嚢、勁草書房、2倉05年、でも、年上の子どもが 家事を手伝っていても、下の子どもはほとんど家事をしない擁が紹介されてい
る。
8 落合恵美子、奮蟹世紀家族へ毒(新版〉、有斐閣、欝97年。
9 質闘紙調査の結果によれば、県内在住者はおよそ3分の2(67・4%〉と、かな りの割合にのぼる。また、第亙V難の卒業生では県内在住者は8割以上(8L8%〉
になる。高度経済成長が終わったことによって、地域問移動も減少した結果と 考えられる.橋本、2008年、98ページ。
鐙 なお、今回は語りの中であまり墨ていないが、親縫代が給与を含めた家計を 管理する権限を握っていた様子なども、福島県内で行われた飽の聴き取りから はうかがわれる。ジェンダー規範に加えて親縫代・子縫代の世帯内での支醍・
従属関係を含む「家父長融のあり方について、今後改めて検討が必要である かもしれない、
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戦後日本における女性のライフコースの変化と労働、生活に麟する意識 (高橋 準〉
付・インタビュー調査質問項目
○出身家庭の状況
・父の鐵身地、学歴、職歴(少なくとも最長職は尋ねる〉
・母の畿身地、学歴、職歴(少なくとも最長職は尋ね、無職と答えた場合でも臨 時的・偶発的な仕事、内職がなかったか聞く〉
・本人の続柄(きょうだいの構成も確認する〉
・裾父母等との同居状濁
・家業経営における決定権(経営規模の拡縮、取接品目の変更等に母/父が関わ れたか〉
・衣類、食料品等、生活必需品の購入状混(霊自給の程度〉とその決定権、自給 の場合の生産撞当者
・住宅の状溌(持家か婚家か〉、購入希望者・決定者・購入方法(現金か月賦か、
母就労のきっかけになったか〉
・耐久消費財(電話、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、自家箱車など〉の有無、購入希 望者・決定者・購入方法(現金か月賦か、母就労のきっかけになったか〉
・学校卒業以前の本人による家業・家事手伝い(きょうだい間での差異も〉
○義務教育以降の学歴について
・高校進学についての親の意見と家の経済状濁
・A高校を選んだ理由(本人の考えだけでなく、親、教員など周囲からの賛講や
反薄も)
・高校時代の将来希望(それは嗣世代の申では標準か異螺か〉
志望した職業
ライフコースに関する希望
・進路選択に影響を与えた人、できごとなど
・高校卒業後の学歴およびその選択理由 学費負撞者
住居(独立か実家住まいか〉
○職業生活・初職
・その職業を選んだ遅虫(本人の考えだけでなく、親、教員など周饗からの賛隅
行政社会論集 第然巻 第4号
や反対も〉
・就職経路
・会社の機要〈規模、業務内容〉
・職務内容・仕事の学びかた
・仕事上の憾みと禰談禰手
・待遇(賃金、福利厚生、職場の雰囲気など)とそれに封ずる満足感
・住居(独立か実家住まいか)とそれに対する満足感
・給料の使途(仕送り/家計補助の有無、きょうだい閤での差異も含め)
・余暇時閥の使いかた 緯合活動への参撫:
サークル活動等への参撫:
・管理職等への昇進
時期(繕盛代男性との差異も含め〉
昇進に鰐する意識(嬉しさ、とまどいなど、周囲の受けとめかたを含めて〉
○職業生活・次職 ※以下、中衛後の再就職・内職を含めて転職するごとに、岡 内容の質問を行う
・転職の経緯(親など周霞からの転職に関する賛同や反対も〉
・就職経路
(以下初職と購じ)
○結婚後の家庭状況
・結婚にいたる経緯〈親・親戚の薦め、適齢期意識など、決定因〉、近隣や職場か らの働きかけ
・夫職歴(少なくとも結婚当時、最長職については尋ねる〉および学歴
・子ども数・串生年
・義父母等との嗣居状況
・結婚鐵産・育児による離職の有無およびその理由(本人の考えだけではなく、
夫や親族など周醗からの賛同や反対も聞き取る〉
・親族・近隣・保育所などによる保育支援状況
・家業経営における決定権(経営規模の拡縮、取援品目の変更等に本人や夫が関 われたか〉
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戦後日本における女性のライフコースの変化と労鱗、生活に薄する意識 (高橋 準〉
・衣類・食料晶等、生活必需品の購入状溌(皿自給の程度〉とその決定権、密給 の場合の生産担当者
・住宅の状況(持家か倦家か〉、購入決定者と購入方法(現金か滋一ンか、本人就 労のきっかけになったか〉
・耐久消費財(冷蔵庫、洗濯機、テレビ、自家馬車など〉の有無、購入希望者・
決定者・購入方法(現金か月賦か、本人就労のきっかけになったか〉
・家事負挺を軽減するための麟難(省力化機器や食事の購入〉とそれに対する気 持ち
・家計状況と家計逼迫時の薄越法(ギ無職」時における臨時的・偶発的な賃仕事に ついても職務内容、仕事のみつけかた・見つかりやすさ、報酬、頻度、満足感
を含めて聞き取る〉
・子どもの進学に薄する本人・夫の意識、学費の工面
・家庭生活上の秘みとその相談相手
・夫の家事・育晃従事状混
・地域活動への参撫(P TA、自治会、嬬人会など)冠婚葬祭などの近所付き合
い
○介護経験について
・義父母、実母の介護の経験の有無
・介護難問
・被介護者の要介護度
・介護運由
・同居介護/尉居介護、在宅/施設
・主たる介護者か否か(飽の親族からのサポート、あるいはもし主たる介護者で ない場合の主たる介護者、例えばr長男の嫁」へのサポートの有無)
○これまでの人生を振り返って
・(県外居住者の場合〉福島で暮らしていた場合との違い(友人の生活と比較して もらうなど〉
・母親世代と本人、本人と娘盛代の人生の違い
・人生にとっての節目(あるいは転機〉はいくつあったか、どんな内容か