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新しいカント学習のための予備的考察 (下)

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新しいカント学習のための予簿的考察(下) 7i

新しいカント学習のための予備的考察(下)

一第簸部 歴史認識をめぐって一

塊 藤 国 小野原 雅

彦(駆蜜擁業高等学初

夫(倫 選 学/

 本稿は,「第玉藻 縫罪毒炎のパースペクティヴ」に続くものである。すなわち騰校倫礫学習で カントを美墾解させる場r合,盾蓬莱とは異なった毛見点から接近できないかという瞬題意識のなかで,カ ントの墜史認識をテーマに考察したものである。これまでカントは,ヘーゲルヘとつながるドイツ 観念講の系譜のなかで麺置づけるのが題舞であるが,カントの騒史認識に焦点を絞ると,ヘーゲル には接続しない独誉の見方を保持していることが分かる。そのことを瞬らかにするとともに,その 意蘇するところの重要性をカント学習の発展という形で遵をひらくことが本稿のねらいである。

(キーワード韮第琵離:窃当体としての麗史 「聯装俸一翼象一還念(飯象擁の縫線構造

1.はじめに

 本稿は,第玉藻に続いて,高校公長科「論理涯学習 でカント礎盤殖盛黙紀IK避溢/を取零搬う場合,復1来とは 異なった視点で興練深く学ぶことはできないかという

ことを開題意識にして考えたものである。

 教科書の中のカントは,次簸でも述べるように,後 のヘーゲルヘとつながるドイツ醗念論(礫懇主義/の 餐嬉者として位置づけられている。道徳法覇や衰律と

しての白露,定言命法,目的の羅といった難しい勉強 を終えたあとに,続くヘーゲルの学習では,そんなカ ントを主観的,内露的だといともたやすく舞;請し,弁 証法や人倫へと移っていく。結疑,印象として残るの は,汝かく為すべしと説いた厳粛主義者カントか,永 久平秘を説いた遷懇主義者カントぐらいか。

 本稿は,そんなカント鍛に疑問を捲くことをモチー フにして書かれた。本稿のねらいは,カントの歴史認 識をヘーゲルと対箆験討することによ1),それがヘー ゲルに接続しない独嚢の整更哲学を録持していること を明らかにすることである。そしてそのことが堤起す る意蘇を考察し,カント学習の発獲という影で生かす 遵をひらくことである。むろんドイツ観念詮を疑うこ とが§的ではない。光影なのは,ヘーゲル灘から見た 古典的な哲学史的カント像にとどまるのではなく,現 代にも通駕する重要な幾題解決堤起者としての新しい カント像を蕎ち墨すことである。ヘーゲル先行者とし ての璋ノ墨・なカントの権魏を打ち破篭,躍動するカント として息を吹き返らせる。そのような銃戦的ともいえ るカント理解を授業実践に継み込むことで,総理学習 の活性髭に役立てたい。そのための方法的視点として 歴i肇認妻畿を取む上げるのである。

2、教科書の記述

   一カントからヘーゲルヘー

 現行のヂ鍮蓬蓬教科書を開いてみる。カントとヘー ゲルについてどのように記達されているか確認しよう。

 慈由を人糞の意志の自発性に求め,哲学のもっと も根源的な烹題ととらえたのは,カントからフィヒ テ・シェリング・ヘーゲルにいたるドイツ観念論で

あった。(略/

 ヘーゲルは,カントの自演論を撹覇的に発展させ,

ドイツ観念識の懇懇を完成させた。ヘーゲルも,人 馨の還 陸に全鞍の信頼をよせ自晦を尊んだ。しかし ヘーゲルは,懸人の内海的な甕律性を葬りどころと するカントの白蜜観や道徳観を主観的と数讐し,饗 鷺や白磁というものは,現実の詮会生活の牢で客簾 的な法律や麟痩として具{麟ヒされるべきものと考え だ%

 ドイツ瑳想主義(ドイツ観念識/は,一欝雰の本 質と認識の源泉を人懸の糟糠におき,現実よ琴も観 念に徳纏を認める思潮である。代表的哲学巷とし て,カントをはじめフィヒテ,シェリング,ヘーゲ

ルら;があげられる。(略/

 カントは,白熱を内露的なものとした。カントの 考え方を極言すると,その身は奴隷であっても道徳 法躍に生きるかぎ吟は自震であることになる。ヘー ゲルはそうは考えない。…カントの道徳哲学にお疑 ては,魑人的な毒憲・幸構と人灘全体のそれとの講 秘酌実現は要請されるにとどまる。そこでヘーゲル は,懸人と全体の欝露が実現されうる具体的な場を

(2)

2

蕪島大学教奮実践鱗究紀要第34号

論ずる,それが人倫である鬼

 見てのとお1ラ,カントは,フィヒテ,シェリング,

ヘーゲルに至るドイツ観念論の雛として哲学史釣には 位置づけられている。教科書の記述でそうなっている のは,学閥的な体系としてそう見なされているからで ある。たとえば,紋君臨武雄iは,まさにrカントから ヘーゲルへ遜1棄窟大学灘蔽会 欝77/と題する著を超

しているし,末尾の坂部恵の解読では,その点につい て鱈びとも異i論がないだろうと付記している。

 確かに教科書:の記違を議iむかぎ弩,カントの欝轟…奮 は,どうみてもヘーゲルによって乗憂)こえられている.

ヘーゲルは,カントの説く懸人的内醸としての霞遽を もっと現実的な全体の場で考えようとした。たとえ奴 隷の身でも遠穂波嚢難こ生きるかぎ陰1ま霞密だと論じる カントの箆方はあま瞬こ主観的すぎる。嚢撫とはその ような内藏的,主観麟な次元のものではなく,よ鯵異 郷的で客観的な次元,すなわちr人倫」という歓会共 講的な場藏で実現されてはじめて意練あるものだ。そ う謝張するヘーゲルの方がはるかに説得力がある。

 それ癖え,カントはヘーゲルによって競鵯・克騒さ れた。カントがドイツ観念譲の羅なら,ヘーゲルはド イツ観念論の完成者である。K餓{一F嫡鷺一S礁el擁9一 翫ge董。それが疑わざる哲学史の定説である。

3.カントからヘーゲルヘの疑い   一ポパーを例に一

 ところがそ鐙定読に異議を突きつけた論者がいる。

イギ》スの哲学者秀一ル・ポパー(K麗鍛.董》o欝erlであ る。ポパーは,科学の舎遅性をF反証擁能性涯にみた 幾覇的合理主義の援絹春としてよく矯られている。そ のポパ}は,欝謎隼の「イマヌエル・カント注という 講演で次のように語った。

 わたくしがカントを啓蒙の最後の擁護者と見てい るのに対し,しばしば,披1ま啓蒙を否定したかの学 滋一誓マン、註義的な「ドイツ観念論蛙の学濠,つま

舞,フィヒテ,シェリング,ヘーゲルの学濠一の麟 設者と見なされているのです。私は,申これら二つの 見方は,決して統一されるものではないと主張しま す。フィヒテ,そしてのちにはヘーゲ舟も,カント の名声を露分たちのために騨継しようとしました專 綾らは,カントを露分たちの学濠の麟殺意であると 公善したのです。(略1

 カントは「ドイツ観念講窪の麟嬉考として整艶に 名を残すよう運命づけられてしまったのです。今 や, この誤鯵を歪すときです3=。

 ポパーは,機会をとらえては,カントをドイツ観念 論の麟始考とみる見方を幾醤している。それは,先を

欝盤一6

急いでいえば,カントが「登算毒戻的な啓蒙主義者」

であったの短し,ヘーゲルらは「浅家主義的な讐マン 主義彰」であったからと,ポパーは縫えているからで ある。前編の第正韻蓬.亙でも指摘したように,ポパー の誘葉でいえば,カントはr知による自己解敏」とい う警蒙の理念を保持し続けたが,ヘーゲルら鷺マン髭 義煮は懸果的にそれを放棄したということだ。つま 毒,露己の考えは誤舞うるという自己撹覇的な態度を 保持するカントの瞥蒙主義こそが真耀探求グ)遊蕩であ るのに,罠マン主義者は,そういった「矯による雍己 解綬の視線を失い,一一一元的な[遷念の嬢隷」となって

しまっているということである。

 周知のように,ポパーは,礫論が反証可能性

懸s愚論撫yを受け入れる繕意があるか否かで,科学と 非秘学を醗欝した。その点で,たとえばマルクス主義 のいう歴史法肇主義は反証可能性をもたないが幽えに 穽科学であると講じた。歴艶は進歩するように必然的 に決定されているといった建i論は,垂鋳を落締するよ うなもので,疑似科学の無意秣な書明にすぎない。歴 史の事実ウ暢示すところによれば,ある懸髄観からみれ,

ば進歩であっても,違った角嚢からみれば後退になる ということがあるし,また進歩的灘藏が飽嚢での退歩 によって樫め合わされていることもある。ポパーはい う。《たとえばドイツでは,バッハの最高藻暮…の生まれ た時代に,文学や絵露で頂点が見られるわけではな い》し,《鬱勃事による交通の速度の進歩が,交通の安 全盤.の露での退歩によってあがなわれている》ことを みればト,磨i史1こは必然轟㌻な発展2去嚢彗オ§あるとは言㌧》き

れないと。だから《われわれは,最高度に多元的なわ れわれの歴受を,臨黒の二色模様として見なすことの

な㌧湿よう垂こ注三意しな鼻ナ矛宅ξま なら、な秘翼。》憲

 それと講じように,ヘーゲルら《鷺マン濠が尊重す るのは,儒舞の真理内容がたとえどのようなものであ ろうとも欝輝そのものであむ,露舞の強さと深ぎ窄で あって,糞遷ではない。つま軽ヘーゲルらは,反証薯 能牲をもたない空虚な主張を掲げているために真理に 近づく道を塞いでいる。カントはそうでない。それだ からポパーはこう主張する。《フィヒテ,のちにヘーゲ ルは,カントを寂分たちの先行餐にすぎないと言って 片懸けてしまおうとしたが,しかしカントは滋マン濠 の先行者ではなく,その敵でした強。》

 もし,このポパーの主張が成立するなら, 誘ントか らヘーゲルベというドイツ哲学史の流れは,後の饗 マン主義者による嚢己豊当化の麹語であったというこ

とになる。ドイツ観念蒲という溝はあっても,その水 源をカントに求めるのはまちがいであったということ だ。むしろカントは「その敵涯なのである。これは哲 学艶の常識を覆している。

 むろん讐頸で遊べたように,本稿はドイツ観念論を 否定すること善書欝醤守ではない。だ善書しかし,ポノく一に

(3)

新しいカント学饗のための予備的考察(下/ 73

ならって,カントをドイツ観念講の祖と見なすのは疑 わしいということ,カントとヘーゲルは饗翫されてい ることを霧よ弩も示さなければならい。ボパーの場合 は,その甥鞍羅として狡証可能性広ゼ難による農己解 放漣を期いたわ諺だが,本稿では,それと関連するこ とにもなる;が,カントの「勃自体至》搬蓼3舞slc髪を切離 購にして,両者の歴史認識を比較験試することで絹ら 力縛こした㌧㌔

 4.カントの歴史認識

 カントには歴史哲学の体系的な著{乍はない。しかし,

i78尋年,鍵歳の時に.「嚢雰藩畏的舞、地にお謬る一一般壷 の構想達という譲文を当縛の月鷺誌に発表して雛束,

「人類の歴史の憶灘麟起源墜縫捲斜,「運講と実践董

(i簿3),ギ万秘の終編(i7蟹1といった歴更哲学聡孫 の譲文を次々と発表した。これら一連の著達を手がか

セ}にして,カントの歴塗認識を検討しよう。

 我々は騒史から次の工事を難待してよい。第一

は,歴隻五爵書入籍董の意志の碁賢ま蓑こもとづく種々さまざ まな働きを全体として考察すると,この義霞の規魏 歪しい発展ま愚妻塁を発見できるということである。ま た第二には,こういう猛方によると,悠々入にあっ ては驚くほど無規則で混蔑しているように見える環 象も,全人類について見れば,人潤に本具の複海釣 素質が,たとえ緩慢にせよ絶えず発展している様子

を認、識できるということである1?…。

 このこと(将来は大規摸な羅家連合を麟設する,

その準備をしていること一筆者注/は澄罪全般に及 ぶ毒見麟状態が,人類に内在する一窮の根源的素質 を騰展せしめる母懸として,いっかは成立するだろ うという購待を懐かせる。そしてこれこそ,嚢然が 最高の意騒とするところのものにほかならない。

(略1

 露然の計癬の看とするところは,金人顛のなかに 完全な毒戻的連合を形成せしめるにある。かかる計 遜に難って一般量雰史(普遍愛〉を著そうとする試 みは錫「能であるばかりでなく,また当然のかかる意 図の実現を促進する企てと見なさざるを得ない。も

し欝三舞が或る種の蒙嚢姓酌§釣吾こ{慈って経遇するとし たら,その量雰経遜はどのようなのもでなければな らないかという購懇に基づいて歴望を著そうとする 企ては,確かに奇異であ善不合瑳に患われるかも離 れない。実際,こういう意纒のもとに騰史を書くと

したら,綾羅ノ卦説しかできそうもないからである。

しかし…この構想は,績購役に立ちそうである。こ の購想は我々にとって…手引きとして役立つであろ

 人類の本分は,完絞に向かってひたすら前進する こと以慶事には存しない。多くの握代の大鷺が,この 彗繰に到達するために根次いで試みた幾多の企て は,最祷は不完全な成果しか一とげ得なかったにせ よ,しかし人類の本分がここにあるということにつ いてはいささかの疑いも残さない窟。

 この遍羅は,善から賂まって悪に趣くのではなく て,箆較的に悪い状態からいっそう善い状態に鶴っ て次第に発展するのである。そして各人が,おのが

じし分に随って力の及ぶ鰻身),この進歩に寄与する ことこそ,すなわち臨然そのものによって人聞に課 せられた任務なのである臓。

 人類は常にいっそう大なる蓄に織って進んでい き,退去及び現;窪の悪を未来における善によって解 消するであろうという難待に難い得る根礎となるよ

うな素質が,人聞の本性に具わっているのか,とい う欝麹・であるむもしこの問いが■縁定されれば,義々 は少なくとも縫えず善に接近してやまない人類を愛 することができるからである懸。

 そこで私は次の二二二事を葱定して差支えないと患う 一第一に,人類は文化に麗して絶えず進歩しつつあ

る,そしてこの進歩はまた自然が人類に指示した鐸 麟でもある。…また第二二には,このような進歩の選 程はなるほど時に中断されはするが,決して簸絶し

ないだろうということである懸。

 以上のカントの主張を整遷すると次のようになる。

すなわち,今までの人類の歴史をみると,そこには

「臨浅の規蒙姦しい発展遜程を発見できる」のであ 辱,それはr叢る種の運性的§的に従って経題して いるといってもよい。r蛾る種の鍵盤、的醤的涯とは,

「全人類のなかに完全な市甕的連合を形成せしめる」

ことである。このようなギ完成に向って達紅いっそう善 い状態に晦って次第に発展する藩の;が人頚の1埜史であ る。確かに,鱗々入のレベナレでみれば,にの進歩の退 程は時には申懸もするまし「驚くほど無縫簗で滋蔑し ているようにも見える達。しかし人類全体としてみれ ば、転たとえ緩慢にもせよ絶えず発展している様子が認 識でき」,その歩みはぜ決して薮絶することはないだろ う」。なぜなら,それが綜然の最高の意緩」であ1ラ,

「鬱然が人類に指示した雛的護であるからだ。したがっ て,この舞的のギ完成に向ってひたすら羨進ずるこ と窪,「いっそう大なる善に向ってま「おのがじし分に随 いカの及ぶ譲鯵この進歩に寄与すること」,ここにゼ人 類の本分があるということについてはいささかの疑い

も残さない。3

 要するに,ここでカント方書いうのは,これまでの入

(4)

7尋 篠島大学教官実践麟究紀要第誕号

類の歴史を見ていると,一応善い状態に霧って進歩し てきていることは明らかであるから,すると,今後に おいても大藩そういうことが誘えるのではな》・かとい

うことである。「謹然まは人類1こそう鮨示したのだか ら,各人,カの陵辱努めよ,と理解できる。

 勿譲,そのような購懇で澄雰歴史を普遍的に著すの は,観々の経験的事実とは違った離してヂ奇異で不念 理に患われるかも知れな恥。雄鞍馬は■一種のF小説達に すぎないのかもしれない !31。しかしそれを欝寇した方 が,「義々は絶えず善に接近してやまない人類を愛する

ことができるまし,またその方が「将来に対 する喜ば しい展望もひらかれて」「量雰全般に及ぶ毒民的状態墜 が「いっか1ま絞立するだろうという霧待を懐かせる。」

そして,縫雰史をこのような「轟縷の幾則姦しい発展 遺程達として「重葬毒民麟見地]に立って購懇するこ とは,今後の人類の歴史を方鶴づけるヂ手撰き」とし ても「けっこう役に立ちそう/ではないかということ である。

 雛■ヒが,おおよそのカントの簗艶に対する見方であ る。こういうカントの歴望認識慧,一見するとヘーゲ ルの墾史認識にそのまま結びつきやすい。なぜならヘー ゲルもまた,縫葬の歴史を嚢灘実現グ遮1的譲的過程と

して描いたからである。

 5.ヘーゲルの歴史認識

 そこで次はヘーゲルの歴史認識を確認しよう。われ われがそれを最もよく知ることのできるテキストは

『鞍壷哲学講義遷である。これは,ヘーゲルがベノシリ ン大学で,欝22一鍵年の露,計5鶴講義したノート類 をもとに鵜集されたもので,ヘーゲルの死後鐵版され たものである。ヘーゲルの嫉心部を示そう。

 量雰史とは白磁の意識が前進していく退程であ 1},わたしたちはその過程の必然嫉を認識しな1ナれ ばなりません。…糟糠の疇麟1の実現1ま,…縫饗の究 癒雛的として提示されています。(略1

 この究極舞的に欝って量器吏は仕、しげられていく し,この究極§的へのささげものとして,地琢とい う広い祭壇の上に,長い年穣こわたって,あ昨とあ らゆる犠讐がささげられる。この究極嚢的だけが灘 己を貫徹し実現するものであ1),あらゆる事変や状 溌変紀の中で唯…変わらないもの,真に力あるもの

 普選的な神の遅姓は,畿己を実現する力をもって いる。…糧r界を支窮するのは隷であ晦,神の支霞の 内容,ないし紳の講露の実行が畿雰史なのです。・

紳の謙遜を実行したものだけが現実であ幸/,それに 反するものはいつわ軽の存イ釜にすぎない。…哲学は 禅の理念の内容たる窺虞を認識し,…現実を正蟻免

簿磐一§

するものです。饗性とは糠の作品に耳をかたむける ことですから簾。

 これはぜひ知っておいてもらいたいが,国家こそ が絶対の究極影1的だる幾縷を実現した窺主独立の存 在であ1伊,人織のもつ全ての懸魑と糟糠の現実性は 麟家をとおしてしか与えられない。…国家は禅の逡 念が地動に姿をあらわしたものです糀

 ヘーゲルの考えでは,歴史とは,舞曲を本質とする 縫雰糟糠二神が警菰を実聡していく発展過程である。

量雰史が入隅の嚢虫を実現していくことは,神の摂礫 であ辱必然麟に定められていることである。歴史と は,この絶対者たる量雰精神の蕪らの展醗の場であ 辱,露虫の建念の実現の場である。それはいわば獲艶 法難であ琴,この法則に懸々の大圏は手の鐵しようも ない。英雛ナポレオンにおいても,慶斐の緩底に存す る量雰鯖糠のあやつ13人影にすぎず,白蜜震現の一定 の役撰がすめば没落する。われわれはその遜程の必然 性を認識しな1ナればならない。なぜなら歴望とは「禅 の作最盛であ吟,運盤はその柞晶にヂ耳をかたむける こと匪だからだ。「匿雰を支蔑するのは;神であ鯵」ゼ神 の計露の実鴛が量界更である。」この搬器艶は礁由実現 という「究極醤的に晦って仕一しげられていく。まわれわ れはヂこの究極醤的へのささげもの3馳球という広い 祭壌の、ヒの犠牲涯でしかない。

 このように,歴蜜のうちに選:雰精神/絶対者二神)

の糞己実現の展醗を見ようとする考え方こそが,ヘー ゲル歴史哲学の根本悪態である。その最大の特徴は,

運命的とも絶対的ともいえる霧的議}的遍程として廉史 を嶽いてみせるところにある。《ヘーゲルは,機雰糖祷 を摺撮して退去の騒史を興聾しうる立場にいると欝じ ている。ここには,衰分は量雰更の終末に生きている というヘーゲル嚢身の歴蜜意識がある器。》

 したがって,このように語るヘーゲルの騒受認識 は,「欝慈の規嚢彗蓋しい発農過程3を鰹史に見戯した先 のカントの毘方と大変雛ている。ここで講者を連続す るものと羅解すれば,ドイツ観念論哲学の系譜が生ま れる。しかし筆者はこれに疑覇を投げかける。カント とヘーゲルは切懸されていると。鰹故か。カン誉に は,識分が藝簾舞艶の終末に生きている諜という意識 はないからである。カントは,入隅の麗吏に羅的があ ると「難持してよい」という立場であって,歴史に嚢 的があるという立場には立っていない。それゆえ「量 雰更の終末謹に立っている意議はな》㌔ここがへ一デ フレと違う叢大の要点である。この差を些纈な事だと無 視すべきでない。むしろこの差こそが,「澄界毒見的な 啓蒙主義カント」と「鶴家主義的な藤マン主義ヘーゲ ル」を分ける重要な分鞍点である。

 次籔では,なぜそういえるかを考える。

(5)

新し疑カント学習のための予備麟考察1下) 75

6.両者の歴史認識の相違と意味

6.筆 欝的論的歴史観一歴史撹覇の喪失一

 ヘーゲルによれば,歴史の歩みは構めから決まって いるのであ1り,それは袖の本質である擦浅を嚢ら現わ していく発展過程であった。澄葬史を支寵しているの は絶対釣な神(縫雰精禅!であ警,量雰艶はこの神の 摂理に従って全く必然的に決定されている。欝よむも 禅;が籔罪を設請したのだから,ゼ神の意麟」霊究極羅麟 に興して墜史は進んでいく。それ鉱外の選叛1まない。

人聞隷このr禅の偉贔窪を仕、とげる際の癒賛にすぎな い。神は籔々人をして縷露に行為させながら,ある巻 を威勢させ,ある考を隻数させることによって畦麓三の 藝的を実現していく。このようにして縫雰史は完成さ れていく。これは歴史を貫く縫嬉的な法躍であるか

ら,この法嚢彗に人橋は遂らえない。この考え方の藩提 には,歴史は§的に麟って進むという目麟譲的歴史観

がある。

 それでは重罪糖舞の§蔚とは具鉢的にどの場に実理 されるのか。それが国家である。[隣家こそが,縫蝿の 究極蔭釣たる白癡を実現した自主独立の存在であむ,

人間のもつ全ての簸薩と精神の現実性は国家を通して しか与えられない。窪つま諺,国家を最蕩の人倫形態と して糠の意志の原運にしたがって麟造することこそ,

歴史の甕達すべき霞漂であるということだ。それが獲 史の完成である。そのとき万人の窃嶽が具体化され る。ヘーゲルは『法の哲学嚢序文でこういつていたは ずだ。「理盤的であるものこそ現実麟であ1ラ,現実的で あるものこそ選難生的であるまと。

 ヘーゲルのこういつた麗史認識をわれわれはどう礫 解したらよいのか。それはひらたくいうと,ヘーゲル の歴史の見方というのは.全て なるべくしてなっ た鋤ということに尽きる。糠の摂遅を有霞な大鷺があ らかじめ蕪ることはな窮。全ては禅の御業であ纏縫鼻 精;神のなせる業である。カエサルカ聾レビコン撰を渡っ たのも,ナポレオンがアウステルリッッで勝穂したの も,それは綾ら億人の意志でそうしたのではなく,神 の麗念がそうさせたのである。人霧の主体よ鞍も,神 の主体に力点がある。だから事態がどう変転しようと

も,全ては そうなるべくしてそうなつだアという鉄 外にない。こ矛Lは要するに,歴史を「終1舞から見て いることをさす。歴史をF終瞬から見れば,必然的 にそういう見方になる。

 するとそこには廉蜜撹鞠の梶線が失われる。ここで いう獲吏撹趨とは,現実の経験的歴史への幾料である

と瞬時に,カントのr超越識達にならって,そのよう な自らの錘吏認識の方法それ自体への撹報でもある。

その視点が失われた。歴史をギ終嚇から見るとは,

すなわち歴史には「霧麟がある」ということと表裏一一

俸をなす。瞳冬辱e綴ま業「霞麟e難壌であるからだ。

「澄葬史の終末に慮きる」ヘーゲルが結果麟に導くの は,極めてナイーヴな瑛実轡定と自記の歴史認識の絶 嬬視にいたる。なによき},「哲学は現実を正当銘するも の」とヘーゲル自身語っている。それゆえ霧麟論釣歴 史観は,現にあるものを至当化するだけの現実追認の 礫論に臨ってしまうほかない。これがヘーゲル難更認 識の着地点である。

 ヘーゲルは.「神の謙遜を実脅したものだけが現実で あ弩,それに反するものはいつわ弩の存在にすぎない」

と講じ,禅の礫念に反するような多数多様の毅史の墨 来事を虚鶉だとみなした。それらの鶴然釣な墨来事は.

次なる建念実現のための否定的テーゼにすぎない.全 ては弁証法的に鋤揚されていく。ヂ究麺§釣に陶って仕 一とげられていくまのだ。つまむ量雰鯖糠という罐一の パースペクティヴび)中に,歴史事象の全部を入れて体 系化しようとしたわけである。そんなヘーゲルが,現 実の書室麟プロイセン隣家を量雰史の究極羅的として 擁護するのは簿ら不思議ではない。澄雰史は諜主麟の 下でこそ万人が雲霧になるといっていたのだから。ヘー ゲルは,壽一欝ッパ近代の只準で,今まさに灘念実現 の最終遜程淵歴史の終焉に立ち会っているのだという 露震に満ちた意識をもっている。

 だが,践の薙のプ買イセン国家に裁率彗の公麗かあっ ただろうか。患版の白露があっただろうか。法の 下の 平等があっただろうか。つま辱密密慧あっただろうか。

禅の運念で一元釣に塗1り轟めたヘーゲルの歴史認識 が,いかに時代への灘紡を美い,現実と妥協する現 状脊定の瞼理に帰結せざるを得ないか礫解できよう。

6.2 「神秘説達撹輝

    一挺覇哲学以後の麗史認識一

 それに対し,カントは歴艶に「羅的二挺射を認め ない。そもそも雑史に醤的があるといったら,カント は馨らの幾甥哲学の灘粥を踏み外すことになる。

 ここでカント認旧識i隷の基本を確認しよう。すなわ ち,経験(感性縫壷観)に根ざすことのない影式的な 譲理(籍性機念1だけで産鐵される命題は,愚考する ことはできても認識することはできない。たとえば数 学でいう点がそうである。「大きさのない食盛というの は,懸盤的な概念であるが経験釣にはあ奪えない。感 性の裏懸けなしに繕牲を綾繕するので,それは思弁豹 謄ec譲3重賛¢となり,理蓬窒の1襲弊をこえる。つま1)認識と して成立しない。ギ神の存在まや「魂の不死涯を証明す るというような議論もそうであるし,「歴史に藝麟はあ る盛という命題も舞董様である。それら1ま,董攣量土嚢身力暗 もたらす超越論的仮象醗rt猴欝ze磁e嚢認eS磯el魏であっ て,アンチノミー(二律背反)を生み識す解答不可能 な命題である。

 詳纈は省くが,カントは『純粋建盤掛1串1建の第三1部

(6)

7暮 篠轟大学教育実践講究紀要第誕号

「超越鵡朗弁i薮蝨謹で,純粋理性そのものに旛る深亥彗 な開題,すなわち超越譲鑢板象の開題を取零一とげた。

「重罪は有齪か無縷か唾という命題を分析すると,講 方の警能牲が外見一ヒ妥当な証罷を立てられることに驚

くと瞬時に,そのような証明を推講ずる人懸饗姓のは たらきを疑った。なぜなら講一羅牲炉権反する命題を 瞬時に証題したのだから。合理的な認識能力たる遷牲.

が臨己予震1こ照った。理性齪身に錯覚や謬誤の漂懇が あるということだ。つま1ラ真理の簸高審讐者であるは ずの選牲が,それ瞬膚の飯象の温床になっていたとい うことを巻髪げ簸らせている。縫雰は春霞か無隆かまと いうような命題は,遅姓が嚢ら悸1)鐵す理念であ稽,

それはカントにいわせれば,遷替の主観的原遅を客観 的と見なすことによって生じるのである灘。しかし辮 詮は,感性麟蓑感(経験/を超えているから礫性撫身 答えようがない。理性は,このように紅承けることも できず,さむとて答えることもできない」運命的開題 を1まらんでいるのである。

 そういった霧牲能力の源泉と鰻饗を超越講的に検討 したのが,カントの窺覇哲学である。カントが逢着し たのは,この響牲の講義盤ともいうべき開題である。

大事なことは,そのカントが,騒塗を,撹判哲学以後 に考えていることである。この点に涯意してカントの 屡i蔓三議1文を書髭むことである。確かにカントは,先1こ見 たように,慶史の合薩的牲を礫念として見縷してい る。しかし韓鋳に,そのような歴史は綴象(小説)だ という認識も保持している。つまり,縫壷史に雛的(拳冬 末)があるまというような命題は,純粋理性の雄譲

、L,肯定もできるし否定もできるといったアンチノミー を生むタイプのテーマであ辱,嬬的に理性能力を超え た超越論釣仮象だという轟覚を持っているのである。

 カントは,大鷺の歴史に嚢的はないが,それがある かのように見なすことは「将来に対する喜ばしい髪望 もひらかれて」「織購役に立ちそうだ」という立場に立っ ている。つま辱,歴史に§的があるかどうかは分から ない,しかし韓かそこには「人類の残る種の理性的欝 醐がはたらいて[察虫が燈雛正しく発展達している のではないかと段慧漢灘として譲ることはできる。過 去もそういう方鶴で歩んできたし,今後もそういう方 陣藝こ進むだろうと「莫彗待を懐;かせ る達ということだ。

奮いかえれば,ε議窃の規則奮しい発展過程まは歴史の 真薦塗ではなく,襲i楚の{友説1ことどまるということを意 味する。まちがっても矯麟正しく発展するのが歴史の 真理であむ馨的であるとはいわない。嚢的譲的に歴史 を見定めているわけではない。霧縫はあるともないと もいえない。そのようなことはついに不確実なのだ が,しかしそこに合醤的性があるのかのように見なす

ことは許されるだろうということである麟。なぜな ら,進歩という合藝二謹的性こそが人類の将来に晴れやか な希望と見通しを聡いてくれるからである簾。

緯繋一6

 したがってヘーゲルのように,澄罪更は紳の譜露の 実鴛であると述べた瞬ましない。むしろカン醤こと{)

て,理念が難らを実現するなどという考えは馬鹿げた 空講でしかない.そのような見方こそが,カントの幾 甥すべき概手の形羅上学であった。紅万鞠の終舅とい う論文では,カントは,ヘーゲルが登場する鋳に,ヘー ゲルのような歴史の見方をヂ禅秘説」だとはっき1)数 霧している蓑11。《万麹の終舞という遷念は,…いずれに せよ理議1釣には理解せられ得ない。》そのような瑳念 は,《教義としては人糞饗難の思弁的能力をまったく超 墨することになる,だから我々は騨を地につけて,、熱 記の還念をあくまで実践艶綾絹の諸条群だけに鰻らね ばならない難。》つま鯵カントがいうのは,歴更の完成 などという建念は人懸瑳樵を超えた妄想であ鎗},現実 のものとして理講化しうるはずがなレ㌔それらは実践 的・道徳的な場面にお1ナる条魯として設定されるにと どまるということである。むしろカントはこう主張し ていた。《人探譲ま,その営みにおいて勃勃のごとくもっ ぱら本能に従って行麟するものでないが,さ軽とて選 穫i的な壁雰毒疑のように破らの潤で簸舞決めた訴欝に 縫って全体的に行嚢するものでもないから,訴露的な

(蜂蜜や海狸などのような1歴史が大鷺によって作ら れ得るとは患えない惣。》

 カントのいうr衰然の意籔葺は,ヘーゲルのいう

「神の意驚達とは徴て罪なるものだ。ゼ神の意緩薩と

暮ま, 歴…斐王の季冬局を蓉指す鐸建一縫気多の選:罪害毒神をさし,

神の主体において全てを見通しているということだ が,結縁,そのような意麟は大鷺運牲を超えた想像釣 な仮象,空虚な響念にすぎない。カントはそのような 発育を掘盃するためにヂ轟然の意緩」を打ち鐵したの である。「灘然葺は人選葬こ蜜蜂のような爵癬麟な歴史を 焦るようには命じていない。だが振辱返ってみれば緩 穫であるとはいえ,次第に萱葺撫が発展するような方向 で歴史は来ている。もし慶甕の鎗発から終点まで全て を透視しうるのなら「紳の惹鑛」といえるが,そんな ことはできなレ生漆}ら「鬱然の意舞嚢なのである看そう いう意瞭では,それを駒繋体確といってもよい。次 で達べるように,カントは,このギ麹病体」をつかん ではなさなかった。この点において,カントはヘーゲ ルと全く異なる鼓置に立っている。

6.3 カント歴塗認識を支えるもの一物霞体心  カント認、識論のいわゆるコペルニクス的転瞬によっ て,現象は客観の驚にあるのではなく,主観の形式

(感性睦苦難)によって購成される対象であるとされ た。つま辱購戚されではじめて認識できる婦象が現象 となる。そしてそれが可能であるためには,主観に現 象を癒疲させる「韓か涯がなければならない。しかし

それカ§餐}である;かを積纏藪鶴里こいうことはできない。い えることは,主観によって構成しえない舞か,超越議}

(7)

新しいカント学習のための予備的考察(下)

的穀象業Xであろう。それが「物蓑舞鉢鋲鑓餐鑛蜘麟で ある。だが勃自体は名づげられないから簿であるかを 瞬足することはできない。隅達すれば,それはもはや

肇舞鶴{本と1まいわない。名づ1ナられ.ない嶽…ヒ,認毳毳でき

る対象のはずがない。それでもともかく「禽か」とい うのだから,勧露体は「未知の韓かあるもの」騨とか 難。撫嘩とか呼ぶほかない億

 なぜ駿1麹体を鶏題にするかといえば,寿ントにいわ せれば,それを想定しないと不合理に簸るからである。

われわれが認識できるのはヂ現象」としての勃に醸ら れるのだから,そこには認識できない「鞠毯体謹の存 在様式を認めな静ればならないというわけである難。

淺意したいのは,それ。は環象の背後にあるプラトン的 イデア算をさしているわけではないことである藤。む しろそういう超越酌量葬があき)えないこと,にもかか わらず麗性はそれを求めざるをえないということを分 極したのが秀ントの撹覇哲学である。それゆえに鞠衰 体をイ壕と定義する力械ま難しい。棒}よ弩もカント鳶身ナ

■一̀的に定義しているわ1ナではない。ここでヒントに なるのが,ジ庵・ドゥルーズ絡灘総董〉ele麗e)の莞解 である。ドゥルーズによれば.カントの檎嚢韓とは認 識三餐観を鮭発する外藻 縫と鍵えている鰺。つま陰,外 藻の「鰹か諜からくる内容に,主観がアプ琴オ琴な影 式を投:げ入れることで権威さ震るのが現象m梅であ

り,それのみが認識の蝉象となるが,そのときその外 部のF{尋かまカ§ヂ勃癖体燵であるということだ。 しか しそれが徳であるかを震い当てることはできない。だ からこれを,生籬1こはたらきか喜ナる夕参部嚢奮な{乍羅,鞠

を勃としてあらしめているその在弩方といってもよい。

しかしそれは決して縫雰の外蟹,破岸を意味していな い。これを鷲の驚痩から考えてみよう。

 たとえば,われわれは壁鼻そのものを摺撮すること ができるだろうか。カントはできないと考える。われ われは壁罪に内霧しながらも,その重罪を、しから全部 見下ろすような視点は持ちえないからである。われわ れは轡∫雰を季薄1成する主観をもつと馨時に,しかしその

駐観はすでに量界によって包含されている。このよう なパラドックスに見舞われた存廃三の人覇が,この重罪 を超えてあることはできない。歴史についても講じで ある。歴艶を購読する主観は,購時に歴史の中の主観 である。すなわち,われわれは歴史に内覆しているが,

講時に整史全体を毘渡せる超越的視点はもてない。わ れわれは,壁雰の磐部1こは立てないし,歴史のメタレ ベルには立てないのである。その意練で,歴史そのも のを 客観麟に駕しぐ携くことは不可能であって,

捲ilナばそれは…つの歴斐葺象にすぎなレ㌔

 われわれ.が知ることのできる歴史は,{薯らかの観点 に立って記遠された紹対的な歴史事象であ琴,ある特 定の歴史観によって選捉された事実の集積でしかな い。つま弩歴蜜像は認識できても,それを支える歴史

観は…つの還念であるから,それで歴壷の全体を控握 することはできないということである。ドこの墾r雰」の 外欝に箆雰がないように,「この歴受注の舛灘紅鞍壷は ない。われわれはFこの麗r雰諜「この1埜史匪を超えてあ ることはどのように鱗望しても無礫である。カントの いう鞠窃体とはそれをさす。われわれは鞠露体を認識 できないように歴史そのものを認識できない。

 だが,たとえば稗学としての歴史を繧捜するマルク ス主義は鞠露俸を塗てる。獲史ぶ科学の対象となれ ば,歴艶に鍾隠された真礫があって,それが韓である かを正確に摺捷しえると信じる。それゆえ,醸ぜseyε v量ewに立って整更事象を分極し客観銘する。まるで自 分は整艶の舛灘にいるかのように罵繰し…つの礫念と

して雑史を法鍵化する。その結集,歴史は弁説法麟に 発展してゆき,共産主義こそが歴史の最終段欝をかざ ると主張する。それが簗吏の必然だと普遍性を磐称す る。勿論これは超越詩的飯象にすぎないが,しかし仮 象だと認めず科学的真理だと表醸する。だがそれが現 箋にはどんなに残酷で茶番であるかは,もはや多くを 語るに及ばない。唯魎史観な,認識不可能であるはず のく勅勘体としての歴史〉を,認識可能だとする〈現 象としての謄甕像〉にす辱替えてしまった。それはつ ま諺鞠露体を遅念化したからであを),結購,霧自体を 欝てたからである。

 このマルクス主義に影響を与えたのがヘーゲルであ り,ヘーゲルもまた鞠自体を廃棄した。廃棄したから こそ,歴史を一一元的かつ構成麟に語ることができた。

「擁の意志という究極嚢豹に鶴って量雰蜜は廷上げら れていく。雄「羅i隻は嚢雰精神の琿性的かつ必然的な饗 みである。」あたかもそれが歴甕の真遅であるかのよう に。これを唯麹論的に転饗したからとて講じである。

しかし,われわれが認識できる騒史とは主観によって 構成された歴楚,現象としての歴史像でしかなく,そ

ういう認識を胃能にする慶史それ窮体,つま1りく勃自 体としての歴史〉は認識できない。

 このように魔i吏そのものを超越的に見る視点は存在 しない。歴艶は未嬢の欝か外部麟な柞購でしかない。

われ.われは,認轟薮不贋f書意な「この饗i吏」を藻蔓なくま基き

饗れるような全き量雰豫や魔資繰を霧成することはで きない。まして講歳された歴史通号に壁罪が歩むこと などあ諺えない。それができうるかのような言説は全 て飯象である。人縫は纏であるかを名づけるこのとで きない多様で鱗然的な夜を}方,瞬果性では捉えること のできない不薄知の鞠嚢体におかれている。そのおか れた状溌から,人はだとえば我が身の解放を求めて封 建的束縛と闘った鯵する。歴史家は,これを事後的な 視点で,ゼフランス革命は身分麟度を打破し痘患と平等 を求める態争であったまと叢写する.そういうふうに 磨吏を織くことは,経験に裏付けられた素韓に主観を 投げ入れて構成した〈現象としての鑛受像〉であるか

(8)

78 福島大学教育実践棲究総要第34一浮

ら認識の対象た詳}える。しかし「歴史には終りがあ る匪とか「歴史iは霧釣をもつ」という見方は,もはや 理擁窪の越季甕多多為となる。それらは礫{豊青身寿憲もたらす 不可違の超越論的飯象業理念でしかない。

 そのような見方を可能にしたのは,カントが魎嚢体 を保持したことによる。もっと正確に疑えば,〈駿}露体 一理象一鰹念(飯象)〉の購係構造懸を保持していたこ とによる。この構造を議覇すると次のようになる。す なわち,主観のi彰式を通して溝成される対象がヂ現 象涯であ諺,それは経験に根ざしているため認識可能 である。ところが縫粋麗姓は経験を超えて麺勢岩体達 を運譲的に摺撮しようとせずにはおれない露然麟本性 をもつ。その場合に慧巌誘に得るのが「理念」であ る。しかしその理念は経験の裏{寸諺なしに鑑識され,

あたかも客醗豹に実在するかのように産鐵されたもの であるから,思推することはできても認識することは できない。その意珠でr灘念達とは彰叛象(イデオ資 ギ一連でもある。この霞係構造の粋緩みを藁}幽した点 において,カントの獲麟が認められるのである。

 ここで最も大事なポイントは,梅自体を提起するこ とによって,誰もが「この獲雰3の外蜷に立てないと いうこと,それゆえ郵この量雰董が簿であるかを篶い 当てることはできなψということ,したがって簿かを 誘い裏てた気になって量雰の穣底に「運念4を晃鐵す のはイデオロギーにすぎないということを示したとこ ろにある。言いかえれば,現実雰/イデア雰,表屡の 鍛雰/真なる麗罪,といった二i1元請酌量雰はあを}えな いということである。その意味で,瑳念麟釣/が藝 己実現するというような言説は,カントからみれば 蜷 釣にまちがっていることになる。それは,もともとあ

1)もしない二量器を想定して,一つに統合するごまか しの1論理にすぎないからである。

 ところが,フィヒテ・シェリング・ヘーゲルはこの 関係構造を擁斥して獲史を語った。あたかも歴史は主 観蓑よって龍動的に産鐡されるかのように。フィヒテ は絶対的自我〔事蕎1を,ヘーゲルは量雰精神(檸の 摂遅)を量雰の糧底に晃鐵して歴史を一元的に購成し た。鞠蒙棒を廃棄しているから,主観は客観とな1ラ,

礫念は現実となって講者は統一される。かくて歴斐と は遅念の自色実現とな辱,普遍的な量器糟糠は特殊プ 貸イセン国家において実現されたとみる。現案は正当 化された。麹寂体が理念と講一観されたからである。

ここに欝マン滋哲学(観念講哲学1が誕生する.

 だが披らの整吏哲学は,先に捲摘したように,歴史 撹醤の観線を失った現実肯定のイデオ欝ギーにすぎな い。蓄震らの議藝ま,すで1こそ痩ら雛講のカントの餐1事業幾 霧哲学によって克霰されている。それゆえにカント は,後の澄マン主義者(ドイツ観念講哲学/とは本質 的に異なる縫羅に立っている。 カントからヘーゲル

フ線は燐藻されていると見るべきなのだ。ポパー

雄9暮一6

が主張するように,カントはヘーゲルの光背者ではな い。そういえるだけの理毒をここに示した。カントの 歴史認識を支えるもの,それは歴史は超越できないと する「勃欝体まを設定したことにある。

6.4 カント歴史認識の両義性一統整的療理一  だがカントは観念論グ)摂として哲学史的には見なさ れてしまう。総数か。それは,カントが遷念や目麟を 不要だとは言っていないからである。むしろそれは「統 整的な原型として不羅欠だと遽べている。たとえば ぎ縫粋理性撹覇墓ではこういう。《超越譲的璽念は決し て購成約ko欝嬢癒vには使罵され轟。それだからこれ によって対象の鞍念は与えられない。もし理念をこの ように解するならば,蓬念はまったく詭弁的機念にす ぎなくなる。ところが超越講的理念は,統整釣螢聡慧1ぬv にも使罵されるのである。この統整的綾屠は,梧性を ある§標に癖わせるに必須のかつすぐれた使繕であ る灘。》さらに舞彗藪力説串縫の序淫露でも.《理念は,

我々の運譲的認識にとってこそ超絶的なものである が,しかしそれだからといって無馬のものであると か,戴いは無くても済むというようなものではなくて,

統整釣原理としてまた鶏途に繕いられるのである鈴掛 と達べている。

 たとえば麹還学者は,鍵然界が数学的な験序で構成 されているゆえに解畷できるという懸念を醸黙のうち にもつている。それはカントのいう理念皿板象にすぎ ない。この蓬念は,いわば禅による天地響造の信鐸と 購じで決して証瞬できない。しかしそれを疑ったので は科学にならない。むしろその選念を持っているがゆ えに,人工衛星を飛ばした計}素織子を見定めた難し て,轟然科学は今騒まで発展してきた。稗学者たちは 皆この運念を紅遷講離農蓬として賠黙のうちに薦提し ている。無論こうした理念は根遜をもたないが,しか しそれがなければ,実鰹.ヒ,麹建学の進歩はなかっ た.つま辱運念は「続整的な原理まとして炸署するの

である。

 歴史の欝的論もそれと購様である。磨史それ嚢捧に 欝的;びあるオ・どうかは,ついに麗識麟1こ毒窪言できな い。しかし,まるで羅的があるかのように,歴甕は欝 蜜を実現する方講で進んでいると見なしたほうがよい ということである。勿鵡そのような運念は野趣縫的な もの」で「詭弁的凝念にすぎない」が,「無くて済むと いうようなものでなくて統整的療藩として」プラスに はたらく。つまむ,そのような見通しを持つことが,

われわれをして喪い方向に導くだろうということであ る。しかしそれは,あくまでも想像麟な飯象にすぎな いという態度も潟縛に保持していなければならなレ㌔

このような講義的とも複譲的ともいえる歴史認識をも つところにカントの鰹立った特徴がある。

 たとえばカントはこう誉っていた。《人購はいわば麟

(9)

新しいカント学参のための予騰約考察(下) 79

がつた木である。この驫木から糞1藪ぐな標木を切舞鐵 そうとしても,それはできない権談であるひそこで農 然が我々に課した猛事は,人類がこの遅念に次第に接 近していくということであるi3i…。》カントは,酸がった 本である人聞を悲観した阜)否定した軽しない。むしろ 麟がっていればこそ人聞は真直ぐたろうと縢難な饗念 に接透していく。ここから人類の文亀が生まれ,公正 な量器驚異縫会が作られていくとみる。つま琴人類は 進歩していく。このようにカントは,灘念は仮象だか らといって否定しない、,むしろ統整釣な役害彗を果たす ゆえ不再欠なものとして膏定するのである。瞬じよう に,カントが述べる「一一般嚢饗史まの構懸は奇異で不 合遷なr小説(畿象/」であるかもしれないが,だから といって不要なものではなくて,むしろ現実の歴史を 見た善)幾朝した辱するためのギ手弓1き葺として役立つ 統整的な運念にはなる。こういう講義的な鑛隻認識を

カント1ま保持する。

 しかしそれはカントが瞳味な考えであることを意嫁 しない。なぜなら,運念を統整釣原遅としてみるとい うのは,真麗を一鰯の理念に瞬じ込めず,むしろいか なる理念にも疑義を抱くところがらつねに真理を饑い ていくという濤己撹醤的な姿勢と一体だからである。

ヘーゲルにそういう姿勢はない。ヘーゲルは購成的濠 遅として種壷をみている。置響の合§的性という理念 から患発している。白癡が弁証法的に蓑鑑三実現すると いうび)は運念であって,その選念によ<)て墜甕を構成 するのは単なるイデオロギーである。しかもそれがイ デオ讐ギーであることの嚢彗己徴趨釣契機がない。ポバー がいう「難による叢記解放藩の複線が欠落している.

魎濤体を捨てたために還念を板家と冤なす撹点がない からである。そういう意味で,ヘーゲルは理念の銀隷 と免している。カントが一幕縄でいかないのは,カン トはそんな麗念を不要だと捨てないところである。つ ま弩,幾利しつつも必要である、だが誉穏はしない。

それがカントの理念に対する態度である。この自ε二 重的とも霧義的ともいえる歴史認識の方法を理解する

ことが,カントに灘かないポイントである。

 7.イデオPギー批料のために     一カント学習の発展一

 ヘーゲルのまずさは,鞠嚢体を廃棄して,理念の実 現こそが歴史の真理だと溝戚的に難斐を語ったことに ある.それはあたかも自然葬に数学麟な秩序が埋め込 まれていると証聡したようなものである。すると量饗 艶で起こったことは全て理念の衰己実現であるから,

いまこの饗実は「経史の琶釣雄をすでに達議している ことになる。か琴に達議されていないなら,理念に合 うまで現実を変更すればよい。それを実行してしまっ たの善書スターリン三豊義やポルポト政権である。共産主 義の礫念で現実を購議しようとしたのがそれらだった

からだ。鐵家も消滅するという 「難i吏の拳冬鷺」に位置 する共産主義にまちがいはない。まちがっているとす れば現実の方だ。稗学的な法購で歴望は進み,最後に 人類が至彗達するのは共産三蓋義絶会の真遷であることは 必然の饗であると考えているからである。このように 麹畿鉢を捨てて「雛史の終末に生きるまヘーゲル騒吏 哲学がもたらすものは,理念の縫蝉秘と現実の蓬当色 であ離,全体主義的な恐簾政治である。ヘーゲルの簗 漣の箆方はそういう暴力性に響きつく。

 だがカントはその蔑に踏み止まった。響念によって 歴史を購絞できるという考え方は錯覚であき}まちがい であるとした。カントはヘーゲルの登場を予観するか のように事前に幾覇していた。「蜂蜜かビーバーのよう な詩嚢誘な整史が人聞によって作られ得るとは患えな い」と。しかしヘーゲルはそんなカントを購美した。

《歴史は紳の摂遅の計露したものだが,それを認識し ようとするのは繕趣きわまる試みだとされるのです。》

しかし,《わたしたちの覆史観究は,神の存在を鑑異化 する霧神論でもあ1》ます.》穏

 薄ントの歴史哲学の底にあるのはく魎嚢棒一理象一 理念(鼓象)〉の雛係権造の認識である。この認識枠緯 こそが,あらゆるイデオ欝ギーをイデオ灘ギーとして 糧玄ま免し幾等彗しうる装置である。これを保持すること

と縫む鼻毒民であることとは一体である。なぜなら.邊 雰毒民とは,亙藻でも懸れたように,縫えまない嚢己 撹覇の鴛為をさすからである。イデオ灘ギーを縫短観 するところに露己数甥はあ1り得ないし,議巳撹嚢のな いところに地者との共生はあ垂)得ない。

 ここに,現代の理念をめぐる諸翼題を解決する重要 な提曝者としての新しいカント像を取離塁すことがで

きる。ポスト冷戦以降,澄雰各地で様々な民族紛争や 地域紛争が多発している。 縄疑族舛や 宗教 といっ た共講姓を核にして,勉者を徹底して換斥する繧麗主 義的な運動がそれらの基盤にあるといってよい。たと えば今,我が醤で莚こっているF轟毒主義望観涯と称 する雑史修正主義運動も,その量雰潮流の一一つであ る。「蓑二1本弄、の誇を擁という運念に合致しない事実は悉 く整受像から換斥される。たとえば従軍慰安婦のよう な鮭E考ξま「玉費楚」薙Σら抹重霧される。塵詫遊の事実に1薄き

合う以羨に雑史の理念を完に立てる。そしてそれに基 づく歴史{象が唯…の豊惑な歴艶であると寛書する。こ

こに,この運動の危験な暴力性が見てとれる。

 このような狂欝的ともいえる垂井飽主義の主張がリア リティーをもつ今諺の轡1罪状溌において,それらのイ デ才灘ギー姓を鎮めるためには,カントの歴史認識を 支える準鎚枠が麺めて有効な視痙になるものと考え る。その意練でカントは少しも古くない,,

 ヘーゲルに導かれないカント独霞の墜史認識を,イ デオロギー撹覇のための倫礫として,カント学習の発 展という影で位置づ縁ることを提逸したい。

(10)

齢 福轟大学教育実践講究紀要第34号

8.おわ琴に

 今麟の譲考全体を整礫すると以下のようになる。す なわち,至部では,/運算毒蔑W磯蕊懲eギ/の観念を,

カント遵徳講の中毛・に縫置づけて学習することが可能 であ吟重要ではないかと援示した。つま})共講盤とし ての存姦を自己嚢覇する視点としての量饗毒民こそ が,カントの道徳法難を生き生きと礫解させる新しい 基礎約方法ではないかということを示した。

 鹿部では,カントの魔艶認識の独警牲をヘーゲルと 箆較することで取尊墨し,その意練するところの重要 性をカント学習の発緩として縫置づけてみてはどうか と提案した。つま毒,〈鞠自体一環象一奪念(飯象!〉

の認識装置の有鶴盤を,現代のイデオ欝ギーをめぐる 議開題と関係づけながら考えてみることである。

 今後の課題は,鎌上の予備的考察をもとにして,カ ント学習の再構成を具体的に検討することである。

3

・王

鎗鍛寛徳善縫野高等学校論理里数観鐵販 i§欝隼文藻省  鹸定済 夢.鯵 夢.93

麟菅野覚馨麹郵新編理選清水書醗 玉弱3年文藻省検定1轟

  夢.§6 夢.欝3

131 カーナレ・盆・ポノ{一,彗、津葬豪誠{甕談蓼よ弩よき麩饗を  求めて選未菜量 夢.2醍 貸.2解

鰍薦鵜書,夢.22i夢.222夢.224 麟 蕪揚書,夢.器3

観 鯵掲書,夢、2露

惇!カントナ篠難英雄毒ミ「欝!弊叢叢1釣見地峯こお1ナる『一般史  の季薄懇まぎ啓蒙とはイ再力緯岩を愛文庫 嚢.23

  なお本稿では,W磯繰璽礎の訳を,小倉志禅氏の指摘  に従い,すべて経界毒見藩と改めた。詳しくは険ン  ト金集・第鴛巻磨理想勧 の訳涯(卿.妬恐一鶉3}を参

 照.グ〉こと,、

{8) 毒弩講書, 羅》.嘆5一尋6

1盤 カント,鶴…馨英錐讃紅人類の繋i史の憶灘的起源涯夢警  蒙とは鱗か垂 夢、64

1隷蕪掲書,夢.雛

1奮 カント,篠鑓英燧訳「蓬蒲と実践歪蓼啓蒙とは纏か垂   欝.i74

鰭表掲書,夢.算8

ほ凄 カントはこのことに曙一分甕覚嚢奪である。《私は後鼻蔓王  に玄書するこのような季韓懇   いわ甚まアプ}タオリな藩王弓多き

 をもつような購懇を以て,もっぱら経験的な見地に立つ  て纂まれる本来の修史を駆逐するつも瞭まない,そのよ  うな非難は,私の糞意を誤解するものである。接ぎ啓蒙と  は侮か圭 β.尋§

(錘ヘーゲル,長谷鱗宏談ぎ雑史哲学講義縫二遥鷹波文簿

欝磐一6

  鱒.戯一42 騒 麟掲書,夢.磁 騒 表掲書,夢.73

{勤片鶴洋之介弛む軽量K高絞講纒倫饗垂饅本放送塗板鶉  会欝95欝.綴

嵯爵カント肯篠馨莫錐設置麟搾奉還性撰1判奪警!墨岩波文躍  響.蕊一麟を参照のこと

!麟 カントは軒礫講と実践憾でこう琶っている。《私は,

 たとえいっそう大なる毒を人類に鱗侍し得るかどうかに  ついては依然として不確震であ1},またついに不確実で  あるにせよ,しかしそのことは善に幽って逸むという格  率を鋳げ得るものではない。》蓼啓蒙とは擁か蓋夢.誓§

1鯵《入霧溝上が互いに毒舞え合う害悪…から慈惨な光景が  億じたとしても,もしこういう事態が先々は改讐され得  るだろうという将来への見通しがあれば,我々の心棒は  晴れやかになるのである。》饒講書,夢.i8舜

(23/

カント「万駿1の叢冬転ま匿啓蒙とは鬱ぎオ纏  費.§§

繭掲書,夢.8奪 貸.鎗

カント 「…一般史季薄懇3蓼警蒙とは{毒治癒  亘).24 カントゼ純粋麗姓幾趨{■と建岩波支離 夢.3鍵 なお,カントはここで「鞍雰概念G鷺麗疑錘麟とい  う表現も難いている。

〔録 藏講書,貸.4i

(鍛 オットフリート・ヘッフェ,薮木栄夫讃匿イマヌエ  /レ・カント選法政大学鐵懸1轟 き).i37

1鱒 ジル・ドゥルーズ,中島盛夫1譲『秀ントの鏡覇哲学垂  法政大学量販局 欝.22−23

(壌鱗谷行人罫探究醗匿群像書講談社 雄§3年7月号。

 なお構氏の「探究欝まの連載は鼕鼕激に1落ちたカント読解  を農饑している.本稿の行論にお》て大きな示唆を得  た。彼の愚蒙の反響のなかでカントを考えたといっても  よいことを緩しておく。

12攣 カント蓼純拳拳理性擾1竿獣中)茎 至).誤)7 なお叢i馨讃で

 は総簸szむ総綴織が「完験的」となっているが,すべて

 薪超越轟禽≦捻ま と改めた。

1灘} 寿ント,篠蒙英錐i嚢野鵯欝手力撹拳蟹■L〉薄暑渡文庫  P.翼

  また,カントはぎ大霜学』ではこうも言っている尋  《澄零落民疑会のようなそれ当身到達しえない璽念は,

 簿ら構成的療選ではなくて,単に絞整的漂饗一すなわ  ちその理念に講かう自然麟繧痢性があるという模擬ある  援灘をもってして,人類の使命としての饗念を熱心に追  求するための,統整釣原麗にすぎないのである。》塗下  太簾訳『カント全集・第欝巻嚢饗想縫 昼.3綴

13嚢 カント「一般艶購慧」ζ啓蒙とは{藪力癒 鐙、3尋一35 1纏ヘーゲル蓼獲吏哲学講義1主題 夢.溢 登.誕

      〔付 記/

 本…請文は,ノ罫野漂教官との言ま議}をもとに童羅綾オ聾聾説 をまとめたものであ蔭),文責はすべて撫藤に覆する。

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1 はじめに ご入学おめでとうございます。今、これから始まる大学生活に胸を膨らませているこ とと思います。社会学とはどのような学問なのか、大学とはどのような勉強をするとこ ろなのか、不安もあるかもしれません。 この冊子は、これから4年間の皆さんの日々の学習を支える「ガイド」です。 前半部分には、4年間の学習がどういう順番で進んでいくのか、社会学科の専任スタ

週 学修内容 授業の実施方法 到達レベルC可の基準 予習・復習 時間 能力名 分 9 模擬授業1 A家族・家庭生活の内 容の授業をおこない、 課題を発見する。 授業実践、ディスカッ ション ICTの活用 google classroomを活 用した課題提出と フィードバック 50分の授業展開を実施 することができ、自己 の課題を発見できる。

到達レベルB 教育課程を考えるための前提となる基礎的な知識(制度、 歴史、原理)に関するおおよその理解をもとに、現在の学 習指導要領・幼稚園教育要領の要点や、カリキュラム・マ ネジメントの意義や方法に関する理解を多肢選択問題にお いて活用できている。 到達レベルC 教育課程を考えるための前提となる基礎的な知識(制度、

令和元年度文化庁「生活者としての外国人」のための日本語教育事業 地域日本語教育実践プログラム(A) 「生活者としての外国人が暮らしの中で学ぶための漢字学習支援」 生活者のための日本語 学習支援者養成講座 主催:(一財)ダイバーシティ研究所 協力:大阪市立総合生涯学習センター ☆日時 2019 年 9/21土 11/9土 12/14土 午後

【速報】小学校算数 平成 31 年度移行措置の概要 学年 追加の学習内容 省略する学習内容 第 3 学年 重さ ・接頭語(キロ(k)やミリ(m))に ついても触れる。 【メートル法の単位のしくみ】 なし 第 4 学年 面積 ・面積の単位とこれまでに学習した 単位との関係を考察する。 【メートル法の単位のしくみ】 なし

披講教奮についての考察継欝 8§ 技術教育についての一考察(H) 一増幅回路学習一 松早宮 木坂山 友明英 正夫正 1 ま え が き 昭穏毅年度よ鯵改訂串学校学習指導要領が完全 実施されている. 今灘脅改訂によって技衛・家庭科の目繧は「生 活に必要な技衛を習得させ,そ蕊を通して生活を 糶るく豊かにするためのくふう蟹造の能力および

はじめに 2020 年以降、多くの人々が新型コロナウィルスの 感染予防のため他者との接触を避けてきた。特別支援 学校の児童生徒も例外ではない。中でも重い障害や疾 患等のため家庭や病院等で訪問教育を受けている児童 生徒は、教師の訪問回数が減ったり、接触する時間が 少なくなったりした。またその他の児童生徒も交流学 習や校外学習等、対外的行事が中止になったり、延期

塗木利明 70 3.結果と考察 3-1平均値による比較 表1に実習校の評価票とそれに対応する自己評価の評価項目の平均値と標準偏差が、表2にその平均値を 基にして高いほうから低いほうに評価項目を並べた順位表が示されている。 表1自己評価と評価票の平均と偏差値 表2自己評価と評価票の評価項目||頂位表 自己評価学生)l評1m栗実習校) ||頂位