日本語教育実践研究(5)期末レポート
「状況」のなかで言語とコミュニケーションを考える 日本語教育実践をふり返って
本稿では、2019年度春学期に実施された「「わたしのにほんご」プロジェクト1-2」における授業実践に ついて、実践授業ふり返りシート(以下、ふり返り)、実践授業見学記録(以下、授業記録)、実践後の講義 ノート(以下、講義ノート)を参考として、ふり返る。
(1)「文型」や「表現(機能)」からではなく「状況」から出発する教育実践を理解し、実現することがで きたか:
「わたにほ」第2回目「自己紹介」の授業後の講義で、小林先生から状況とことばを切り離さないとい う考え方(4/26講義ノート)が示された。この考え方について、その後の全講義を通してさまざまなアプ ローチをいただいたが、その始まりは上の講義で挙げられたピラニア観察の例だった。研究室での解剖に よる“体”の観察と川での“生息状況”の観察、2つ揃って初めてピラニアがわかる(4/26 講義ノート)との ことで、これを日本語の授業に置き換えれば、前者が「ことば」で後者が「状況」にあたり、よって、授業 では「状況とことばを切り離さない」(4/26講義ノート)となる。非常に巧みな例で、筆者のみならず履修 生のだれもが「なるほど!」と合点がいったと思っただろう。が、その後に続く授業実践では、これを実 践することのハードルの高さを思い知らされることとなった。筆者にとっては、日本語教師養成講座受講 から(いや、それ以前からか)これまでの日本語教育観・教師観・教室観を改めて見直すための具体的な 視点を授かる経験となった。以下では、「「状況」から出発する教育実践」のために重要な観点として講義 で繰り返し検討された4点を挙げ、それらに対する筆者の理解と実現状況を述べる。
①教師が授業で行う説明の要・不要を捉える(5/10講義ノート)こと
授業実践で教師が行う説明(=メタ言語)について、そのときそこで本当に必要なのかという問いは、
実習生の授業実践の第一回目にあたる「状況把握」のふり返りから、繰り返し問われてきたことだった。
言われてみれば、「状況とことばを切り離さない」授業が「言語」によるか「メタ言語」によるかは自明、
当然「言語」によるはずである。しかし、学生に伝えよう、わかってもらおうという思いから、教師はメタ 言語を使ってしまう。しかし、このメタ言語を使うという教師の行為は、教師の心情を映して終わる程度 のことではなく、学生を信じること(5/8授業記録)、学生の頭の中を見る(5/8授業記録)ことができてい
るのかという教師の基本的な姿勢を問うものだということに、筆者はだんだんと気づかされた。それにと もない、言語とメタ言語をどのように使い分けるか(5/10講義ノート)を考えることで、授業は大きく変 わる(リアリティに繋げられる)のだという認識にも確信が持てるようになってきた。今はまだ、「言語」
を使って行う実践が実現できているとは、正直言えない。これについては、日々迷うことが本当に多い。
しかし、自分に染みついた授業のやり方が、やりながらメタ的に捉えられるようになってきているのは、
この実践の前後の大きな変化だと思っている。
➁ファシリテーターのすべきこと(活動のルートを定めるのか、ゴールを定めるのか(5/10講義ノート))
ファシリテーターの役割については第4回目の授業ふり返りで初めて取り上げられたと記憶している。
そこでは、活動のゴールへ導くのか、ルート作りを促すのか、グループ活動のタイミングによって異なる ファシリテーターの役割があるということを、小林先生から指摘された。このご指摘を受けて「わたにほ」
のたまご先生の活動をふり返れば、たしかにそのとおりだとわかる。たまご先生は活動の始めの段階では ルートを定める、つまり、テーマを出発点としていかに話を膨らまして表現に落とし込むかを目指し、こ れに付随してグループ内の関係作りを促す。そして活動後半ではゴールを定める、つまり、挙げられた表 現が各学生の状況に結び付いていくようグループ内の“個”を見、個々の活動を促すファシリテーションを する必要がある。しかし一方で、これだけではたまご先生として十分に働きかけられないことも実践では 痛感した。それは、学生の活動へのたまご先生の介入度(どのようにどれだけ介入していけばいいのかと いうこと)にはたった一つの正解のようなものはなく、臨機応変な対応がもとめられるということだ。小 林先生からは、ファシリテーターは前や中心に立つものではない(5/10講義ノート)との指摘もあった。
筆者は自身の実践での失敗を省みて、より適切なファシリテーションとは、学生がよく見える位置(後ろ、
周り)に立ち、学生の向かう先を見ながら適宜活動の後押しをすることだと理解した。また、学生の行き 着く活動のゴールも、けっして始めから固定されるものではないことにも思い当たった。ここでもやはり 常に学生の頭の中を見(5/8授業記録)ていくことが要求されるのだと思う。
筆者は「わたにほ」授業実践後半になるにつれ、学生を見ている時間が多くなっていた。学生が自己解 決ができそうか声をかける前にしっかりと見たいのと、介入した方がいい結果になるという判断をどうつ けるのかということを改めて考えようとしていた。が、これにも答えはないのだろう。今の自身の実践現 場では、教室内の関係作りと限られた授業時間を意識しながら、毎回どのぐらい臨機応変な対応ができた かをふり返っている。
③学生の行く道に教師がのる(5/8授業記録)ということ
第5回の授業(筆者担当)では、前回までの授業のふり返りをふまえ、「状況」から出発する教育実践の 導入を考えたつもりでいたが、結果として、それが各々の学生の状況にはならず、教師の示す状況に学生 をのせるような導入になってしまった(5/15ふり返りシート)のではないかという疑問が生じ、その後の 活動へもうまく繋げられなかった。この授業のふり返りでは、そもそも授業の導入で何をすべきかという 問いが出てきた。その答えとして小林先生から、教案を活動から作成する(5/17講義ノート)というご提 案があった。なぜなら、活動のための導入(5/17講義ノート)であるはずだから。これまでの教案作りで は考えたことのないことだったが、導入から活動を考える教案は教師の視点で作られ、活動を描いた上で の導入案は学生の視点から作られるということには納得がいった。学生の行く道に教師がのる(5/8授業記 録)ことができるかどうかは、教師がいかに自由に視点を動かせるかということであり、これは教師に必 要な技能だと思った。教案については、第5回の授業以降にも教師の行動ではなく、学生の行動を書く(7/10 講義ノート)ものだというご指摘があった。これらの指摘から、学生の行く道に教師がのる(5/8授業記録)
授業の支障には、教師の無意識の構えが多々あることにも考えが及んだ。その結果、筆者の教案作りは視 点が変わり、導入で迷うことも、そういえばなくなった。授業実践においてはまだまだ学生の行く道にの
(5/8授業記録)りきれないこともあるが、それがどういうことなのか、理解の糸口はつかんだものと思え ている。
④学生が意味を理解することへの支援(5/24講義ノート)
6回目の授業ふり返りの講義で小林先生から提起された、学生に意味を伝えるということ(5/24講義ノ ート)にも、考えさせられることが多かった。講義では「ごじたくようですか」の表現を例にとり、この意 味を理解することの支援のし方がいくつもあることが指摘され、教師が授業の前後の流れや学生の状況を 考慮に入れて、適宜、支援のし方の選択をしなければならないことが認識された。ここで筆者がもっとも 強く思い当たったのは、教師がこうした支援のし方を自身の中で整理しておかなければ、その時その場に 合った適切な方法が取り出せないということだった。いくつもの方法を知っている経験を積んだ教師であ っても、それらが未整理で実践に活かされないということがあるということを、自戒も込めてふり返るこ とになった。正直、せっかく得てきた技能を漠然と頭の中に漂わせているために、ここという時に出せな いことが多々あると感じている。実にこのために、たまご先生として学生をサポートしながら自分を残念 に思うことがあった。➁でも述べたが、自身の臨機応変さへの自覚によって、教師としての自分には何が できて何ができないのかを捉え直し、整理をつけていくことが、今、筆者にとって最も必要なことだと、
この実践をとおして実感している。
(2)一人ひとりの学習者にとって「+1」になる活動を組み立て、実現することができたか:
学習者の「+1」が何であるかを捉えることは、この授業実践をとおしてもっとも難しいことだった。ど の回の授業実践でも、担当教師は導入時に活動に取り入れられる「+1」となる表現を提示していたが、実 際の活動で、それらがどれだけ学生に受け入れられ、新たな「わたしのにほんご」の探求に繋がったのか という疑問が常に残った。活動時に学生に言いたい表現を日本語でどういうか聞かれることもあるにはあ ったが、その多くが英語や中国語の対訳以上のものだったかどうか疑問が残る。こうした実習生の疑問に 対し、ふり返りの講義では「+1」を捉えるためにいくつかのヒントを与えられた。例えば、第4回目の授 業後のふり返りでは教える文脈(5/10講義ノート)を作ることからパターン練習に繋げることが指摘され た。例(A:(私)○○んですよ。→B:あ、××なんだ!)(5/10講義ノート)が挙がり、実習生間では盛り 上がったものの、これが実践の活動ではなかなか取り入れられなかった。筆者個人としては、そうした活 動を行う関係作りが学生との間に作り出せなかったことが要因だと思っている。なぜ関係作りができなか ったかというと、なんのための活動かということが学生と共有できていなかったためではないかという問 いを持つ。この疑問は実践全体をとおして感じることが多かった。また、第7 回「話しかける」の授業ふ り返りで小林先生が示された「+1」の活動の組み立て法は、筆者にとって実践でぜひ試したいものだった。
それは、教師の提示する場面での「話しかける」表現として予め予測し得るものをすべてPPTなどで示せ るようにしておく(5/31講義ノート)というやり方だ。授業で学生から得られた反応「+1」を即座に提示 できる用意をするという活動の組み立て方である。これには得心し、「リアクションする」の授業案検討の 際、実際にやってみようということになったが、アイディアを巡らせ、表現を量産し、分別していくこと は想像以上に難しく、実際の活動が一人ひとりの学生にとっての「+1」となるよう組み立てられたとは言 い難い結果となった。打つ授業でも同様の考え方で教案が練られたことが何度かあったと思う。筆者とし ては、この活動の組み立て方で個々の学習者に「+1」を持ち帰ってもらうことができたと思えたことはな いが、今後の自身の実践現場で引き続き実行し、成果を確かめていきたいと考えている。
(3)学期開始時に立てた「私の目標」をどこまで達成できたか
①すべての学生がそれぞれに迷いなく活動に入っていける授業展開を追求する:
導入から活動への授業展開は、常に批判的に見てきたつもりである。この実践で、授業展開を考える上 で筆者にとって最も大きな収穫は、まず活動案を考えるという教案作成の発想の転換だった。一方で、メ タ言語の使用、PPTの使用(リアリティとのギャップがあるイラスト、漢字表記など)、また媒介語の使用 など、手段の一つ一つについて、適切であるかどうかを判断することの難しさを改めて感じた。そして、
学生のレベル差への対応は常に難しかった。話す授業ではグループ活動でのバランスのとり方が難しかっ
た。打つ授業では個人の作業が多く、自分にとって好ましい「わたしのにほんご」を探しているように見 えることも多かったが、ネット上のものをそのまま借用したり翻訳機能を多用している(7/10授業記録)
学生も目につき、本当に身についているのかと思うこともあった。学生たちは授業のやり方に慣れて来る にしたがって、活動の展開が予測可能になり、迷いなく活動に入っていけているようであったが、それが 本来のゴールである「わたしのにほんご」の探求と繋がるものだったのかの判断もまた、難しい問題とし て残っている。
②チーム全員が成長したと思える実践を目指す:
目標に挙げた「切磋琢磨しながら、協働をしっかりと楽しむ」ことはできたと感じている。これだけの 人と授業見学をし合い、ふり返りをし合いながら授業実践ができる経験は今後もそうそうはないと思われ る。本当に貴重で、毎回の興味の絶えない実践だった。
③「状況」のなかで言語とコミュニケーションをとらえる「わたしの」教育実践を言語化できるようにす る:
筆者の考える「わたしの」教育実践は、「学習者の文脈から活動が作られる授業デザインをすること」と 言語化することができる。
これは教師が学習者の視点に立ち、学習者の道に教師がのる(5/8授業記録)活動が行われる授業実践で ある。そのために教師は自身の技能をわきまえて的確にそれを発揮できる力があり、言語とメタ言語を自 覚的に使い分け、学習者の表現活動を後押しすることが必要である。そして、この教育実践にもっとも必 要なのは、常に学習者の頭の中をよく見(5/8授業記録)ようという教師の姿勢だと考えている。