滝
たき
山城
やまじょう
の築城から今年で 500 年目!
みなさんが啓明学園の教室から眺めている小高い丘。啓明から 見る代表的な景色でもあります。春の新緑、夏の深緑、秋の紅葉 や綺麗な夕焼け、冬の雪景色。教室の窓から四季折々の景色を見 せてくれるこの丘の名前を、みなさんご存じですか。実はこの丘 に日本を代表する中 世ちゅうせいじょうかく城 郭の遺跡があることを知っていますか。
(丘の名前は、この紙面のどこかで登場します。)
啓明学園の周りにある歴史の物語
滝山城の本題に入る前に、昭島市の歴史を少しお話します。
みなさんご存じのアキシマクジラは、今から 160 万年前頃に、こ の当たりに生息していたクジラの化石です。今から 1 万 3000 年 前から 2300 年くらい前は縄文時代となります。啓明学園の敷地 の中にも、縄文時代の遺跡や、縄文時代の人々が食べていたど んぐりの実をつける木があります。さらに、鎌倉時代になると、
拝島大日堂だいにちどうの仁王に お う尊像そんぞうも造立されます。
そして、時代は今回のテーマの戦国時代、滝山城は高月たかつきじょうしゅ城 主 の大石源三おおいしげんぞう定重さだしげが 1521 年に滝山城を築いたとされています。今
年で築城から 500 年目を迎えます。この滝山城(八王子市にありますが、、、)をめぐる戦国乱世の物語と、その中 心となる滝山城が今回のテーマです。
そもそも「城」とは何か?
小田原城・姫路城・松本城・大阪城・名古屋城、、、、と、思 いつく有名な城をあげればきりがありません。「城」とはどの ような定義なのでしょうか。有名な城と同じように、滝山城も 立派な建物がたっていたのでしょうか。
「城」とは、「敵から身を守るための防御施設」というもの が最も大きな定義となります。そのため、江戸時代の前までに 日本に存在した城は、約 2 万 5000~5 万城あったと言われます。
このように数多くある城ですが、日本の歴史の中では、城の発 展は大まかに「山城やまじろ」→「平山ひらやま城じろ」→「平城ひらじろ」という順で変化
しています。今回取り上げる滝山城は、「山城」に区分されます。また、「中 世ちゅうせいじょうかく城 郭」とも呼ばれます。
「山城」とは、自然にある山を削り、もしくは土を盛って、堀や土塁ど る い(防御のための土手)、曲くる輪わ/ 郭くるわ(区画さ れた平坦な土地)などを作った城になります。「中世城郭」は、「中世」の時代(=一般的には院政期から戦国時代
/織豊政権までの時代)に作られた城という、時代区分をもとにした分け方になります。ちなみに、冒頭紹介した 有名なお城は、すべて天守てんしゅのある「近世きんせいじょうかく城 郭」になります。「近世城郭」の特徴としては、高い石垣があり、水を はった幅の広い堀があり、天守を持つ城が挙げられます。また、天守(一般的には天守閣と呼ばれる)は、領主が 常に生活をしていた場所ではありません。あくまでも軍事施設ですので、普段は御殿ご て んと呼ばれる平屋の建物に住ん でいました。八王子城では「御主ご し ゅ殿でん」という名前で遺構い こ うが残っています。(織田信長の安土城だけは例外で、天守 の中に居住空間が設計されていました。)
この丘です
発 行 : 「理系大好き」 プロジェクト 発行事務 : 理数強化プロジェクト委員会 発 行 日 : 2021 年10 月15 日 第 7 号
…今回は『滝山城』の話です。
学校法人 啓明学園
津久井城俯瞰図(作成:守屋浩之氏)
∴高月城址
啓明学園
滝山城とは?
近くにある城といえば、八王子城が有名です。滝山城もこれに劣らず 有名な城で、国指定史跡です。なぜ、二つの城が重要なのでしょうか?
どちらの城も、北条氏うじ照てるの居 城きょじょう(=領主が普段住んでいる城)とし て、関東の戦国時代を考える上で重要な位置を占めるからです。そして、
この滝山城は、啓明学園から見える加住か す みきゅうりょう丘 陵に戦国時代に築かれたお 城です。中世城郭の最高傑作とも呼ばれ、「続日本 100 名城」に選ばれて います。なぜ有名かというと、加住丘陵を巧みに活かした大規模な城で、
当時では関東随一といわれたほどでした。
《滝山城に関連する・・・戦国時代の大きな動き》
この城の城主となったのが、小田原北条氏の3代当主北条ほうじょう氏うじやす康の三男として 1540 年に 誕生した北条氏照です。天文 15(1546)年川越かわごえじょう城の合戦の際に、氏照の父である氏康が 鎌倉公方か ま く ら く ぼ う
の管領かんれい上杉うえすぎ氏しを破ります。これにより上杉氏は関東から追い出されます。これ に伴い、上杉氏の守護代だった大石おおいし定久さだひさを氏康は支配下におきました。息子の氏照を定
久の娘と結婚させて大石家に迎えるように降伏条件を出したとされる 15 歳頃に、氏照は浄じょう福寺ふ く じじょう城(由井ゆ いじょう城)に入城(1554 年頃)したとされま す。この頃より、由井領
ゆ い り ょ う
の中心(=現在の八王子市弐分方
に ぶ か た
周辺)に居住し、由井源三
ゆ い げ ん ぞ う
または大石源
おおいしげん
三
ぞう
氏
うじ
照
てる
と名乗り、多摩南部から川崎当たりま での地域の支配を任されるようになったと考えられます。ちなみに、氏照が浄福寺城に入ったとされる 1554 年は、甲相
こうそう
駿
すん
三国
さんごく
同盟
どうめい
(=武田氏・
北条氏・今川氏による同盟)が結ばれた年でもあります。
長尾景虎(=上杉謙信)と小田原城の戦い(1560 年) ※同年、桶狭間の戦い
永禄 3(1560)年から、長尾景な が お か げ虎とらは何度となく関東平野まで山を越えて攻め込んできました。これは同年 3 月に織 田信長による桶おけ狭間は ざ まの戦いで今川いまがわ義元よしもとが討たれたことで、北条氏うじ康やすに敵対していた武将たちの求めに応じたこと が一つに挙げられます。また、管領上杉氏が、越後(今の新潟県)の長尾な が お氏しに助けを求めます。この時、長尾景な が お か げ虎とら は、上杉氏より「管領」の役職と、「上杉」という名前を受け継ぎます。長尾景虎が正式に管領になるためには、
鎌倉で引き継ぎの儀式を行わないといけません。そのために関東に侵攻してきました。最初の攻撃(=1560 年)では 北条氏は小田原城まで攻め込まれました。その戦いの後の上杉氏と北条氏の領国の境界線は、八王子と青梅の間に 設定されました。そのため、北条氏は上杉謙信の山越えに対応した領国の支配のかたちが求められました。北条氏 照が城主であった浄福寺城(由井城)は甲斐か い の国くに(今の山梨県)の国に向いていて、上杉謙信の山越えへの対応には 向いていませんでした。そこで注目されたのが滝山城でした。小田原から上 野こうずけの国くに(今の群馬県)へとつづく街道 に沿って、北条氏の重要な拠点である滝山城と鉢形はちがたじょう城が配置されました。この時の戦いは、上杉氏の内部分裂も あり、北条氏は小田原城を守り抜くことが出来ました。名将である上杉謙信の攻撃を守り抜いたことで、小田原城 は天下の名城として名をはせることとなりました。 (中高社会科 佐藤)
次回 滝山城をめぐる攻防 1569 年 滝山城の合戦
永禄 12 年(1569 年)、武田た け だ信しん玄げん・勝頼かつよりからなる約 2 万の軍勢に対し、滝山城に立てこもった北条方は約 2 千。
両者の力の差は歴然とした中で、滝山城の対岸の拝島の森に布陣した軍勢が動き出す。
・・・ 戦いはどうなったのでしょうか ・・・・
《滝山城築城 500 年に関わる行事》
八王子市は築城 500 年目に合わせて、滝山城の魅力を紹介するための講演会やオンラインツアー と実施しています。詳しくは滝山城築城 500 年記念行事のホームページからご覧下さい。
検索 「滝山城築城 500 年記念行事」【https://hachioji-takiyama-500th.com/】QR コードはこちら。
※園児や初等低学年では、読み解けないことが多数あります。保護者の方が読み聞かせをしたり、お子様がわかるよう にお話していただく、などのご協力をしていただけるとありがたいです。
関連する資料は次号に掲載します。
北条 五代 略図