化学と生物 Vol. 50, No. 11, 2012
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生物の分布は,それら自身の系統進 化や分散の歴史のほか,過去から現在 にわたる地史や気候変動などの影響も 反映する.そのため生物の分布の変遷 を推定するためには,分類学,系統 学,生態学,古地理学,古気候学と いったさまざまな研究分野からの知見 を統合する必要がある.いずれの要因 も,過去の状態の推定は時代をさかの ぼるに従って困難になるため,それら を統合して行われる古い時代の生物の 分布の推定はより困難となる.一方,
同一種の分布の変遷といった新しい時 代の事象は,古地理,古気候などの推 定精度は高くても,形態情報を利用し た種内系統の解析ができず,かつては その推定が困難だった.しかし近年,
分子データ,特に塩基配列情報を用い た系統解析が容易になったことで,種 内の遺伝的構造の高精度な推定が可能 になった.また塩基配列データは形態 データと異なり,変異の量が分岐して からの時間とおおよそ相関するという 利点もある.これにより,集団遺伝 学,系統学,生物地理学を統合した系 統地理学が誕生し,地史的に新しい時 代の生物相の変遷に関する研究は大き く進んだ.
ここで紹介するムカシトンボの分布 の変遷も,そのような分子情報を用い ることで初めて明らかにすることがで きた成果である.ムカシトンボはトン ボ 目Odonataム カ シ ト ン ボ 科Epio- phlebiidaeに属するトンボの総称で,
日本に分布するニホンムカシトンボ*
(図1),ヒマラ ヤ地域に分布するヒマラヤムカシトン ボ , および2012年に中国 東北部から新種記載されたばかりの チャバラムカシトンボ(和名新称*)
の3種から構成される(1). 現生のトンボ目は2つの亜目に分けら れ,不均翅亜目(トンボ類)は体が太
短く,後翅が前翅より幅広く,翅を開 いて止まるなどの特徴をもち,もう一 方の均翅亜目(イトトンボ類)は体は 細長く,前翅後翅がほぼ同じ大きさ で,翅を閉じて止まるといった特徴を もつ.ムカシトンボは,体は太短いの に,翅は前後同じ大きさで,翅を閉じ て止まるといったように,両亜目の特 徴を兼ね備えている.このことからム カシトンボは,現生のトンボ目のなか で最も原始的な特徴を残していると考 えられ,さらに絶滅した化石トンボ類 との類縁関係も示唆されることから,
ジュラ紀(約1億9960万〜1億4550万 年前)の残存種,つまり「生きた化 石」と考えられている(2).
生 物 コ ー ナ ー
生きた化石 , ムカシトンボの由来
*「ムカシトンボ」という名称は,日本産の 種にも,ムカシトンボ科(または属)全体 の総称にも当てはめられてきた.本稿では 混乱を避けるために,日本産の種にニホン ムカシトンボの名称を当てはめ,3種の総 称としてのムカシトンボと区別した.また 中国産ムカシトンボには,その形態的特徴 に基づき,チャバラ(茶腹)の名称を当て た.
図1■ニホンムカシトンボ
清流での7年間の幼虫期間を経て成虫になる.体長5 cm程度.写真の標本は北海道大学農 学部に所蔵されているもので,1899年に福岡県の英彦山で採集され,1913年刊の松村松年
「新日本千蟲図解」の図版の元となったもの.
化学と生物 Vol. 50, No. 11, 2012 841 これまでは,このように起源の古い
トンボが遠く離れたごく一部の地域の みに分布している理由として,ジュラ 紀には広く分布していたムカシトンボ の祖先が,日本,中国東北部およびヒ マラヤのごく限られた地域でのみ,長 期間隔離されて生き残ってきたためと 考えられてきた(1) (図2A).一方で,
ニホンムカシトンボとヒマラヤムカシ トンボの形態は極めて類似しており,
それらがごく近縁であることも以前か ら指摘されてきたが(3),「定説」が覆 ることはなく,長期隔離説が最新の論 文でも採用されている(1).
ドイツゲッティンゲン大学を中心と したわれわれ研究チームは,分子系統 学的手法を用いてムカシトンボの系統 関係の解明を試みた(4).解析には,ミ トコンドリアCOIIおよび核 18S, 28S, ITS1, ITS2 の部分配列を用いた.こ のうち,18S, 28S は塩基置換速度が遅 く,深い系統関係の解析に適したマー
カーで,COIIとITSは塩基置換速度 が速く,近縁な種や地域集団間の解析 に適したマーカーである.解析の結 果,日本,中国,ヒマラヤのムカシト ンボの塩基配列にほとんど違いがない ことが明らかとなった.具体的には,
塩基置換速度の遅い 18S, 28S では地 域間で配列に全く違いが見られず,塩 基置換速度の速いCOIIでも,282塩 基中変異は1塩基でしか見られなかっ た.しかもその変異は,ニホンムカシ トンボの北海道と関東の個体間で見ら れたもので,北海道とネパールのサン プルの配列には全く違いが見られな かった(中国のサンプルからCOIIの 配列は得られなかった).最も変異の 多かったITS1領域では,日本とヒマ ラヤの個体群間で最大215塩基中11塩 基座位の変異が見られたが,それらの 変異は2回の進化事象で説明可能で あった.ITS2領域の変異も,最大で 265塩基中4塩基座位でしか見られな
かった.
この変異の量を評価するため,ほか のトンボとの比較を行った.COIIに つ い て は,ア オ イ ト ト ン ボ
とオオアオイトトンボ という近縁種のデータを比較 し,282塩基中28塩基で変異を確認し た.またアジアイトトンボ
では,同じ佐賀県唐津市から 得られた個体間でも最大283塩基中4 塩基で置換が見られた.ITS1に関し てはカラカネトンボ のヨーロッパ原名亜種と日本亜種の データを比較し,最大283塩基中14塩 基で変異を確認した.進化速度の遅い 28Sでも,シオカラトンボ
とオオシオカラトンボ の近縁種間で,約1%の変 異が見られた.
以上の比較から,ムカシトンボの各 地域間で確認された塩基配列の変異 は,近縁種間で見られる変異より明ら
図2■ムカシトンボの分布の変遷
A. 現在の地形とムカシトンボの分布域(黒枠および星印).B. ウルム氷期時の地形と推定されたムカシトンボの分布域(黒線以南).
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かに小さく,同一種内の地域集団間ま たは個体間の変異に相当する程度の違 いしか見られないことが明らかとなっ た.上でも述べたように,ムカシトン ボ3種の現在の隔離分布は,古い時代
(ジュラ紀)からの長期隔離によって 形成されたと説明されてきた.しか し,ムカシトンボ3種間に見られた遺 伝的差異の少なさは,このような旧来 の考え方では説明できず,むしろ3種 の分岐がはるかに最近生じたことを示 している.
では遺伝子の比較から得られた結果 は,ムカシトンボの生態や,古気候,
古地理と照らし合わせて,どのように 解釈できるであろうか? ムカシトン ボは寒冷地に適応したトンボで,特に 幼虫は夏期でも16 〜 17℃を上回らな いような,水温の低い渓流でしか棲息 できない.現生のムカシトンボの分布 もこの条件に合致した地域に限られ る.一方,地球が寒冷化した氷期に は,現在では熱帯地域にあたるような 南の低地にも,ムカシトンボの棲息に 適した環境が広がっていたと考えられ る.さらに氷期には氷床が発達し,海 水面の低下も起こっていたため,大陸 と日本列島はたびたび陸続きになって いた.ムカシトンボ3種の遺伝的差異 の小ささも合わせると,ムカシトンボ の共通祖先は,約2万年前にピークを 迎えた最終氷期(ウルム氷期)には,
南アジアから東アジア地域で単一の集 団を形成していたと考えられる(図 2B).そして氷期が終わり地球が温暖
になるのに伴って,これらの地域はム カシトンボの棲息に適さなくなり,一 方,北上したムカシトンボが,日本の 山地や中国東北部,ヒマラヤ山地と いった寒冷な地域に隔離されたこと で,現在の分布が形成されたとする解 釈が最も適当と考えられた.
系統解析の結果もこの仮説を支持す
る.図3は今回得られたデータから推 定された系統樹で,ムカシトンボのサ ンプル間の枝の短さは,それらの分岐 がごく最近起こったことを示してい る.さらに,遺伝的構造が地域集団を 反映しておらず,ニホンムカシトンボ の北海道個体群が,同種の関東個体群 よりもヒマラヤムカシトンボとより血
図3■塩基配列データからベイズ法で推定されたトンボの系統関係 枝長は遺伝的距離を表しており,枝につけられた数字は事後確率を示す.
化学と生物 Vol. 50, No. 11, 2012 843 縁が近いことも示されている.つまり
現在見られるムカシトンボの遺伝的変 異は,各地域集団に分断されてから蓄 積されたものではなく,過去に同一集 団だった際に生じた個体変異を反映し ている可能性が高い.そしてこのこと は,3つの地域集団に分断されたあ と,各地域に固有の変異が蓄積するだ けの十分な時間が経っていないことを 示している.
この結果がもたらすもう一つの問題 は,現在3種とされているムカシトン ボの分類学的な取り扱いである.遺伝 的な違いが同種内の変異レベルである ことが示されたほか,形態の検討にお いても,ニホンムカシトンボとヒマラ ヤムカシトンボの種の識別形質とされ てきたものが,実は個体変異の範囲内 であることも明らかとなった(3, 4).つ まり分子,形態いずれの結果とも,ム カシトンボ3種が別種とするほどには 分化していないことを示している.し かし,検討した個体数が十分でないこ とや,チャバラムカシトンボに固有の 特徴(雄腹部の色彩)が,ニホンムカ シトンボ,ヒマラヤムカシトンボの個 体変異の範囲を超えることなどから,
現段階では分類学的に同種として取り 扱うべきとの判断は下さなかった.
今回の結果は,ムカシトンボという 一昆虫群の分布の成因に関するこれま での考えを覆すのみならず,ヒマラヤ から日本にかけての生物相の成り立ち を考えるうえでも新しい視点をもたら す.日本とヒマラヤ地域の生物相の類
似は以前から指摘されており,これら の地域に共通する生物は,日華区系ま た は 西 部 支 那 系 要 素 と 呼 ば れ て い
る(5, 6).このような分布を示す生物は
比較的起源が古く,温暖な第三紀(約 6430万年前〜180万年前)には周北極 域に広く分布していたものの,第三紀 終わりから第四紀にかけての気温の低 下で南下してきた生物の生き残りと考 えられている.ムカシトンボの解析か ら得られた結果は,類似した分布型を 示しながら,分布の成因が全く異なる 生物が存在することを示すものであ り,日華区系/西部支那系要素の成り 立ちに関して新しい視点をもたらすも のとも言える.
過去の気候変動は,生物の分布に大 きな影響をもたらしてきた.第四紀に 繰り返された気候変動の際,生物は南 北に分布を移すことで生き延びた.し かし,たとえばヨーロッパでは東西に 連なるアルプス山脈によって,アジア の中央地域では広大な乾燥地によって 生物の移動が阻害され,多くの生物が 絶滅したと考えられている.一方,日 本列島は南北に連なり,山脈も同様に 南北方向に走っていることから,気候 変動に伴う生物の南北移動を阻げる要 因が少なかったと考えられている.ま た標高差も大きく,生物が南北移動だ けではなく,垂直に移動することに よっても気候変動に対応して生き延び た.そしてこのような気候的,地理的 要素により,ホットスポットとみなさ れるほどの生物多様性が日本列島に形
成された.ムカシトンボも,同様に気 候変動を生き延びてきた昆虫であり,
日本の生物多様性形成の背景を象徴す る生物の一つと言える.さらに今回の 結果は,ニホンムカシトンボの遺伝的 多様性が他地域に比べ高い可能性を示 唆しており,3種の祖先集団がもって いた遺伝的多様性が,強いボトルネッ クを受けず列島内で維持されてきた可 能性もある.詳細な系統地理学的解析 と,絶滅危惧となっている各地の地域 集団の保全が求められる.
1) J.-K. Li : , 37, 408 (2012).
2) A. C. Rehn : , 28, 181
(2003).
3) S. Asahina : , 46, 441 (1961).
4) S. Büsse : , 7, e38132 (2012).
5) 堀田 満: 植物の分布と分化 ,三 省堂,1974, p. 400.
6) 白水 隆:松蟲,2, 1 (1947).
(吉澤和徳,北海道大学農学部)