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知 の 義 認

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(1)

大 須 賀 史 和

ここ 十年 ほど のロ シア 文化 研究 にお いて は︑ 一九 世紀 末か ら二

〇世 紀初 頭の いわ ゆる ロシ アの

﹁銀 の時 代﹂ が高 い関 心を 集め てき た︒ これ は文 学や 芸術 など の幅 広い 分野 にわ たる もの であ るが

︑思 想的 に見 ると

︑こ れま で多 々 論じ られ てき た革 命思 想と は異 なり

︑キ リス ト教 的な 宗教 哲学 の興 隆を 顕著 な特 徴と して いる

︒ロ シア は一

〇世 紀 のキ リス ト教 国教 化以 降︑ 正教 国と して 歩ん でき たが

︑こ の近 代に おけ るキ リス ト教 的文 化の

﹁ル ネサ ンス

﹂的 展 開は 当時 極め て大 きな 広が りと 影響 力を 見せ てお り︑ 革命 前ロ シア の一 大文 化潮 流を 形成 した こと が再 評価 され て いる ので ある

︒ 当時 のロ シア 文化 のこ うし た動 向は

︑世 俗化 の傾 向を 強め た西 欧の 流れ とは 一線 を画 した 特異 なも のに も見 える が︑ そこ には 近代 まで ロシ アが 抱え てい た歴 史的

︑社 会的 な状 況が 影を 落と して いる

︒そ れは 一言 で言 えば

︑ロ シ ア社 会の 成り 立ち に由 来す るも ので ある

︒思 想面 から のロ シア の歴 史的 概観 によ って

︑ロ シア のみ なら ず︑ 西欧 に

(2)

おい ても 大き な影 響力 を持 った 思想 家ベ ルジ ャー エフ

︵一 八七 四︱ 一九 四八

︶は ロシ アを 次の よう に描 写し てい る︒

﹁ロ シア は一 九世 紀ま でに 農奴 制に 縛ら れた 巨大 な農 民の 王国 を形 成し てお り︑ そこ では 専制 的な ツァ ーリ を頭 に 戴い てい たが

︑そ の権 力は 軍事 力ば かり でな く︑ 民衆 の宗 教的 な信 仰に も立 脚し てい た︒ そし て︑ 自ら 壁と なっ て ツァ ーリ と民 衆を 引き 離し た強 力な 官僚 機構 があ り︑ 中間 には 蒙昧 で手 前勝 手な 農奴 制擁 護の 貴族 があ り︑ さら に は容 易に 分断 され

︑押 しつ ぶさ れか ねな かっ た少 数の 文化 層が あっ た︒

こう した 前近 代的 な社 会構 造の 中で は︑ 文学 や芸 術︑ 思想 も国 民的 な広 がり の中 で発 展す るこ とが でき ず︑ また ヨー ロッ パが ルネ サン スを 経験 して いた 時期 にも

︑ほ とん ど鎖 国に 近い 状態 にあ った ロシ アで は︑ その 影響 も限 定 的な もの にと どま った ので ある

︒よ うや く一 八世 紀初 頭に 当時 の強 国ス ウェ ーデ ンに 代わ って ロシ アの 国際 的地 位 を高 めた ピョ ート ル一 世が 現れ

︑急 激な 西欧 化・ 近代 化を 推し 進め たが

︑文 化の 本格 的な 開花 はナ ポレ オン 戦争 後 のア レク サン ドル 一世

︑ニ コラ イ一 世時 代を 待た なけ れば なら なか った ので ある

︒ しか し︑ この 時期 に起 こっ た急 激な 社会 状況 の変 化は

︑旧 来の 専制 体制 と農 奴制 の支 配す るロ シア 国家 のあ り方 に対 する 反省 をも 生み 出し

︑一 九世 紀後 半に は革 命に よる 専制 体制 の打 倒を 訴え る思 想家 を続 出さ せる こと にな っ た︒ そこ には 社会 の混 乱や それ に伴 う国 民各 層の 不満 の蓄 積が ある と言 える が︑ 特に 一九 世紀 半ば のク リミ ア戦 争 の敗 戦に 伴う 国内 体制 の改 革は

︑農 奴解 放令 をめ ぐる 貴族 と農 民の 利害 対立 を先 鋭化 させ る結 果と なり

︑ロ シア は 国家 の統 一に 不安 を抱 える 状況 に陥 った ので ある

︒ これ につ いて

︑一 九世 紀ロ シア で最 大級 の哲 学者 と評 され るヴ ラジ ーミ ル・ ソロ ヴィ ヨフ

︵一 八五 三︱ 一九

〇〇

︶ は一 八八 三年 のド スト エフ スキ ー記 念講 演の 冒頭 で︑ 次の よう に述 べて いる

︒﹁ アレ クサ ンド ル二 世の 統治 の時 代

(3)

に︑ ロシ アの 外面 的で 自然 的な 形成

︑す なわ ちロ シア の身 体の 形成 が終 わり

︑苦 悩と 病の 中で その 霊的 な誕 生の 過 程が 始ま った

︒存 在す る諸 要素 を新 しい 形式 と結 合へ と導 く新 しい 誕生

︑創 造的 な過 程の すべ てに 不可 避的 に先 行 した のは

︑こ れら の諸 要素 の動 揺で あっ た︒

π この 発言 がな され たの は︑ 改革 を推 進し た皇 帝ア レク サン ドル 二世 が暗 殺さ れ︑ 保守 的な アレ クサ ンド ル三 世が 統治 を開 始し

︑表 立っ た国 家批 判が 厳し く取 り締 まら れた 時期 であ った

︒ロ シア は農 奴制 を廃 して 曲が りな りに も 近代 的な 国家 の体 裁を 整え たが

︑社 会的 に極 めて 多く の問 題を 抱え てお り︑ 社会 や国 家を 指導 する 理念 を確 立す る こと が急 務だ とソ ロヴ ィヨ フは 慎重 な言 い回 しに よっ て主 張し てい るの であ る︒ 旧来 の秩 序が 崩壊 し︑ 新し い社 会 の形 成が 必要 とさ れる 時代 に︑ 理念 的︑ 精神 的に 新し いも のを 生み 出す こと が文 化の

︑と りわ け思 想の 仕事 であ る とい うの は︑ 極め て正 当な 主張 であ ろう

︒だ が︑ それ が﹁ 霊的 な誕 生﹂ と表 現さ れる とこ ろに

︑当 時の ロシ アの 精 神状 況の 一端 が示 され てい る︒ それ まで の歴 史的 な経 緯や 状況 が西 欧と 著し く異 なる ロシ アで は︑ 慣れ 親し んだ キ リス ト教 的な 思考 形式 が呼 び戻 され

︑新 たな 展望 を開 くた めに 用い られ るこ とに なっ たの であ る︒ とは いえ

︑ソ ロヴ ィヨ フが 打ち 立て た宗 教哲 学的 体系 は︑ ロシ ア社 会の 一体 性や 有機 的連 関の 回復 とい うテ ーマ にと どま らず

︑普 遍主 義の 精神 に貫 かれ

︑人 類の 統一 を究 極的 な理 想と する もの であ った

︒そ のた め︑ 伝統 的な ロ シア の正 教的 思考 とは 一線 を画 すこ とと なり

︑同 時代 の教 会指 導者 から は厳 しい 批判 を受 ける こと にも なっ たが

︑ それ まで とは まっ たく 異な る︑ 新た な展 望を 示し たの であ る︒ そし て︑ 二〇 世紀 に現 れた 宗教 哲学 者た ちは

︑こ う した 流れ を受 けて

︑多 くの 場合

︑既 存の 教会 のあ り方 には 批判 的に 対応 しな がら

︑近 代的 な諸 理念 をキ リス ト教 的 な知 見に よっ て基 礎付 ける 大胆 な再 解釈 を展 開す るよ うに なる

︒ま た︑ 一方 では

︑既 存の 教会 の立 場を 擁護 する 議

(4)

論も 現れ るが

︑そ うし た立 場に 立つ 者の 中に もソ ロヴ ィヨ フの 示し た新 たな 神学 的知 見を 援用 する 論者 が存 在す る など

︑極 めて 錯綜 した 状況 が出 現す るの であ る︒ 以下

︑本 稿で は当 時の 宗教 哲学 にお いて 提起 され たユ ニー クな 発想 のい くつ かを 取り 上げ

︑そ の基 本的 な内 容と 共に

︑当 時の 歴史 的文 脈に おけ る意 味︑ そし てそ れら が示 す思 想的 な可 能性 など を概 観し なが ら︑ ロシ アの 宗教 哲 学運 動の 文化 的な 意義 を考 察し てい くこ とに する

1.

ロシ アの 宗教 哲学 はソ ロヴ ィヨ フの 哲学 にお いて

︑初 めて 体系 的か つ総 合的 な表 現を 得る こと とな った

︒そ の意 味で は︑ すで にそ こに 一つ のピ ーク があ ると 言え

︑後 の哲 学者 はソ ロヴ ィヨ フが 残し た問 題や

︑そ こに 含ま れて い る不 一致 や矛 盾と の格 闘を 余儀 なく され るこ とと もな る︒ 本稿 では ソロ ヴィ ヨフ 哲学 の最 重要 テー マの うち

︑﹁ 全 一﹂ と﹁ ソフ ィア

﹂の 概念

・構 想に 着目 し︑ そこ での 諸問 題の 連関 と広 がり を見 てい くこ とに する

︒ まず

︑﹁ 全一

﹂に 関し ては

︑彼 の初 期の 代表 作﹃ 抽象 原理 批判

﹄︵ 一八 八〇 年︶ の中 に見 られ る︑ 次の よう な文 章 をそ のエ ッセ ンス とし て取 り上 げる こと がで きる

︒﹁ 無条 件な もの への 人間 の志 向︑ すな わち 統一 にお いて すべ て

、、

︑ ある いは 全一 であ ろう とす る志 向は 疑い のな い事 実で ある

︒こ の志 向に おい て︑ 人間 は潜 在的 に︑ ある いは 主観 的 に無 条件 な存 在と して ある

︒現 実的 かつ 客観 的に 無条 件な もの であ るの は︑ 単に すべ て︑ ある いは 全一 であ ろう と 志向 する もの では なく

︑現 実に

︵す べて の︶ すべ てを 自ら の統 一の 内に 含む もの

︑あ るい は現 実に 全一 であ るも の

(5)

であ る︒ そう した 現実 の無 条件 さこ そが 人間 の本 来の 目標 であ る︒ だが

︑実 際に

︑自 らの 所与 の状 態に おい て︑ 有 限な 存在 とし て人 間は 全一 では なく

︑自 らの 外部 に他 のす べて を有 する 無限 に小 さな 一単 位で ある ため

︑人 間が す べて とな るこ とが でき るの は︑ 自ら の孤 立状 態を 拒否 して

︑他 のす べて のも のの 生き 生き した 内容 を自 らに 受容 し︑ 吸収 し︑ 自ら の自 由の 境界 線に 向か うよ うに では なく

︑自 由の 内容 と対 象に 向か うよ うに それ らに 関係 しつ つ︑ す べて の他 なる もの との 肯定 的な 相互 関係 の内 にあ る場 合だ けで ある

︒⁝ 人間 の中 にあ る無 条件 な︑ ある いは 神的 な 原理 によ って 規定 され

︑心 理的 には 愛の 感覚 にお いて 基礎 付け られ

︑一 般道 徳の 定式 の肯 定的 な部 分を 具現 する

︑ 諸存 在の この よう な結 合が 神秘 的な 社会

︑あ るい は宗 教的 な社 会︑ すな わち 教会 を形 成す るの であ る︒

表面 的に は︑ 統合 へ向 かう 人間 の志 向や

︑現 実に は孤 立し た一 個人 とし ての 存在 であ るが ゆえ に︑ 社会 とい う有 機的 な連 関の 中に 道徳 的に 存在 する こと の重 要性 を訴 えて いる とい う意 味で

︑個 人と 社会 とい うテ ーマ が中 心に あ るよ うに 見え る︒ だが

︑そ の根 幹に ある 発想 につ いて 考え てみ ると

︑﹁ 客観 的な

︑無 条件 的な もの

﹂は

﹁有 限な 存 在﹂ であ る人 間を 規定 する ため に単 に論 理的 に想 定さ れた もの では なく

︑具 体的 な世 界の

﹁す べて

﹂を 内に 含む 統 一体 とし ての 絶対 者= 神を 念頭 に置 いた もの であ るこ とは 明ら かで ある

︒こ のよ うに 規定 され た絶 対者

=神 の概 念 は︑ 人間 にと って 把握 する こと ので きな い﹁ 超越 者﹂ であ りな がら も︑

﹁人 間が すべ てと なる こと がで きる

﹂道 筋 を示 すも ので もあ る︒ それ は端 的に 言っ て︑ 神に 近づ くこ と︑ すな わち 神化 の問 題を 敷衍 した もの に他 なら ない

︒ こう した 形で

︑ソ ロヴ ィヨ フの

﹁全 一﹂ とい う発 想は

︑人 間存 在や 社会 のあ り方 を一 方で 論じ つつ

︑他 方で キリ ス ト教 神学 の中 心的 な発 想を 柔軟 に応 用し てい るの であ る︒ª そう した 点を 踏ま えれ ば︑ 引用 の最 後で 唐突 に﹁ 教会

﹂ とい う概 念が 持ち 出さ れて いる よう に見 える もの の︑ この

﹁教 会﹂ が人 間社 会の 理想 的な 統合 状態

︑す なわ ち﹁ 神

(6)

的な 原理

﹂の 下で

﹁愛 の感 覚﹂ によ って 結ば れた 人々 が作 り出 す﹁ 道徳 的な

﹂社 会の あり 方に 他な らな いこ とも 理 解さ れる ので ある

︒ ロシ アで は︑ ピョ ート ル一 世時 代に 国家 が教 会を 管理 する 体制 が導 入さ れた

︒言 わば

︑教 会は 国家 機関 の一 つと され たの であ る︒ それ 以前 のロ シア にお いて は︑ 教会 はツ ァー リや 貴族 から 土地 の寄 進を 受け

︑広 大な 所領 とそ こ で働 く農 民を 有し てい た︒ ピョ ート ルの 措置 はこ の土 地や 農民 の国 有化

・世 俗化 にあ った と言 うこ とも でき るが

﹁御 用教 会﹂ の成 立は 教会 のあ り方 をロ シア 民衆 の精 神的 要求 とは 異な るも のに して しま った とい う批 判を 生み 出 すこ とに もな った ので ある

︒ソ ロヴ ィヨ フが 敢え て自 らの

﹁理 想社 会﹂ を﹁ 教会

﹂と 呼ん だこ とに につ いて 考察 す る場 合に は︑ そう した ロシ アの 歴史 的な 精神 状況 を踏 まえ てお く必 要が ある

︒ それ ばか りで なく

︑ソ ロヴ ィヨ フは 正教 会や カト リッ クと いう 分裂 を克 服す る﹁ 普遍 教会

﹂と いう 構想 も打 ち出 して いる

︒こ れは 一七 世紀 の動 乱時 代に 周辺 のカ トリ ック 勢力

︑特 にポ ーラ ンド の脅 威に 晒さ れた ロシ アが 伝統 的 に抱 き続 けて いた 敵意 を超 えて

︑キ リス ト教 世界 の統 一と いう 普遍 的な 展望 を開 くも ので あっ た︒ ソロ ヴィ ヨフ は 自身 でも 外国 のカ トリ ック の司 祭な どと 親し く交 遊し てお り︑ 一時 はカ トリ ック に改 宗し たと さえ 見ら れる こと も あっ たた め︑ 正教 会か らは 特に 批判 を受 ける こと にな った が︑ 逆に こう した 対応 を呼 び起 こし たこ とで

︑既 存の 教 会指 導者 の狭 量さ を暴 くこ とに もな り︑ 二〇 世紀 の宗 教哲 学の 動向 を大 きく 普遍 主義 の方 向に 動か す契 機に もな っ たの であ る︒ こう した 意味 でも

︑﹁ 全一

﹂は 単に 諸々 の理 論を 結合 した とい う意 味で の体 系で はな く︑ まさ に世 界や 人間 のす べて を含 めた 万有 を包 括し

︑さ らに は神 的な 領域 をも 包括 する 真の

﹁す べて

﹂を 把握 でき る体 系を 打ち 立て よう と

(7)

した ソロ ヴィ ヨフ の志 向を 端的 に表 すも のな ので ある

︒ だが

︑ソ ロヴ ィヨ フの 哲学 が持 つ総 合的 かつ 明晰 な論 法は

︑時 に極 めて 図式 的に 概念 や理 念を 規定 する 大胆 さに もつ なが って いる

︒も う一 つの 初期 の理 論的 著作 であ る﹃ 全一 的知 識の 哲学 的原 理﹄

︵一 八七 七年

︶に おい て︑ 彼 は﹁ 絶対 的な もの

﹂︑

﹁ロ ゴス

﹂︑

﹁理 念﹂ とい う三 つ組 みと

︑﹁ 存在 者﹂

︑﹁ 存在

﹂︑

﹁本 質﹂ とい う三 つ組 みを 掛け 合わ せ︑

﹁霊

﹂︑

﹁意 志﹂

︑﹁ 善﹂

︑﹁ 知性

﹂︑

﹁表 象﹂

︑﹁ 真理

﹂︑

﹁魂

﹂︑

﹁感 覚﹂

︑﹁ 美﹂ とい う九 つの 基本 的理 念を 導出 する マト リッ クス を提 起し てい る︒º そこ での 説明 は必 ずし も行 き届 いた もの では ない とい う批 判

もあ るが

︑こ うし た図 式に よっ てソ ロヴ ィヨ フは 父・ 子・ 聖神

︵聖 霊︶ とい う三 位一 体論 を哲 学的 な概 念の 導出 のた めの 原理 とし て用 い︑ ま た基 本的 な哲 学的 概念 を綜 合す る﹁ 全一

﹂的 な見 取り 図を 提起 しよ うと した ので ある

︒ いず れに せよ

︑ソ ロヴ ィヨ フの 宗教 哲学 が︑ ロシ アの 精神 風土 であ る正 教の 土壌 の上 に︑ 近代 とい う時 代に おい て要 請さ れる 新た な思 想の 花を 咲か せる こと ので きる 苗木 とな って いる こと は明 らか であ ろう

︒ソ ロヴ ィヨ フは 同 じ﹃ 全一 的知 識の 哲学 的原 理﹄ の中 で﹁ 発展

﹂と いう 概念 を説 明す るに 当た り︑ まず

﹁何 か﹂ があ るこ と︑ そし て 発展 のそ れぞ れの 時点 で︑ かつ ては 存在 しな かっ た新 しい もの が現 れる こと が必 要で ある が︑ この 新し い契 機は 単 にど こか らか もた らさ れる ので はな く︑ 発展 の初 めに あっ たも のと 不可 分の もの とし て発 展す るの でな くて はな ら ない とし た︒æ ロー セフ はこ の理 説を 説明 して

︑﹁ 発展 する もの は自 分の 中に 次に 現れ てく るす べて を潜 在的 な形 で あら かじ め含 んで おり

︑ち ょう ど植 物の 種子 が潜 在的 に将 来の 植物 の形 全体 を自 分の 内に 含ん でい るよ うな 場合 に のみ

︑本 来の 意味 での 発達 があ りう る︒ 言い 換え れば

︑こ うし た発 展と いう もの は生 命で なく ては なら ず︑ 発展 す るも のは 生き た有 機体 や本 質で なけ れば なら ない

﹂と 述べ てい る︒ø ソロ ヴィ ヨフ の哲 学は まさ にロ シア の精 神風 土

(8)

の上 で有 機的 に発 展し た知 的結 晶と して 現れ たも のだ った ので ある

2.

明晰 な論 理的 叙述 を顕 著な 特徴 とす る一 方で

︑ソ ロヴ ィヨ フの 哲学 的関 心は 幼時 の不 思議 な体 験に も裏 打ち され てい ると 言わ れる

︒晩 年に 書か れた

﹃三 つの 邂逅

﹄に は︑ それ は次 のよ うな 形で 記さ れて いる

︒﹁ 天門 が開 け放 た れた

⁝で も︑ 司祭 や輔 祭は どこ にい るの だ?

/祈 る人 群は 何処 に去 って しま った のだ

/苦 悶の たぎ りは 突然 跡形 も なく 消え 去っ た/ あた り一 面が 瑠璃 色に 変わ り︑ 私の 心の 中も 瑠璃 色に 満た され た︒

/輝 く瑠 璃色 に全 身を つら ぬ かれ

/こ の世 のも ので はな い花 を手 にし て/ 燦然 たる 笑み を浮 かべ

︑あ なた は佇 んで おら れた

/そ して 私に うな ず くと

︑霧 の中 に隠 れら れた

︒﹂¿ この

﹁あ なた

﹂と いう 女性 的イ メー ジの 幻視 とい う神 秘体 験こ そが

︑後 のソ ロヴ ィヨ フに おけ る﹁ ソフ ィア

﹂論 を導 く重 要な 契機 であ った と言 われ てい る︒ また

︑こ の神 秘的 な女 性の イメ ージ はロ シア の象 徴主 義の 詩人 たち に も大 きな 影響 を与 えて おり

¡ 世紀 転換 期の ロシ ア文 化の 大き なモ チー フと もな って いる ので ある

︒ しか し︑ この

﹁ソ フィ ア﹂ は実 に多 様な

︑時 には 内的 に矛 盾す る側 面を 持っ てい る︒¬ 元々

︑こ の﹁ ソフ ィア

﹂は

﹁神 の叡 智﹂ を表 すギ リシ ャ語

︶に 由来 して いる

︒ソ ロヴ ィヨ フの 理解 でも 当然 この 神的 なあ り方 に対 する 言及 がな され てい るが

︑そ れと 同時 に人 類や 人間 社会 とい った もの も﹁ ソフ ィア

﹂で ある とさ れる の であ る︒ ソロ ヴィ ヨフ はこ うし た発 想を 晩年 に書 かれ た﹃ オー ギュ スト

・コ ント にお ける 人類 の理 念﹄

︵一 八九 八 年︶ の中 で展 開し てい るが

︑そ こで はま ず幾 何学 的な アナ ロジ ーか ら人 間と 人類 とい う概 念の 関係 を示 すこ とか ら

η  Σ ο ψι α  το υ  Θ εο υ 

(9)

話が 始ま る︒ 要点 を押 さえ るた めに

︑ロ ーセ フに よる 解説 を援 用し なが ら︑ 概略 を示 すこ とに する

︒﹁ 点と は一 体 何で あろ うか

︒幾 何学 は点 がい かな る次 元も 含ま ない と教 えて いる

︒そ れは 点が 決し て描 写さ れえ ない

︑む き出 し の抽 象で ある こと を意 味し てい る︒ 点は 点そ のも ので はな いも の︑ つま りす でに 線で ある もの との 相関 の結 果と し ての み描 写さ れ︑ 理解 され る︒ 線が なけ れば

︑例 えば 線の 交差 がな けれ ば︑ いか なる 点も 存在 しな い︒ まっ たく 同 じよ うに

︑線 も線 その もの では ない もの

︑つ まり 面と 相関 しな けれ ば︑ むき 出し の︑ 理解 しに くい 抽象 であ る︒ こ うし た幾 何学 的な 相関 の結 果と して

︑物 体

につ いて の正 確な 表象 が生 じ︑ さら にこ の物 体の 多様 な特 性に つ いて の表 象も 生じ てく る︒ 線は 点か らな るの では ない

︒な ぜな ら︑ 個々 の点 はす でに 線の 存在 を前 提し てい るか ら であ る︒ 同様 に平 面も 線か ら得 られ るの では ない

︒な ぜな ら︑ 線そ のも のが すで に平 面の 存在 を前 提し てい るか ら であ る︒ 文字 通り に同 じこ とが 人間 にも 起こ って いる

︒個 々の 孤立 した 人間 は単 に我 々の 抽象 に過 ぎな い︒ 現実 に は︑ こう した 抽象 に対 応す るも のは 何も ない ので ある

︒だ が︑ それ でも やは り個 々人 の存 在は 現実 であ るが

︑そ れ は社 会が 存在 し︑ それ ぞれ の個 別的 な人 間人 格が その 要素 であ るか らに 他な らな い︒ そう して

︑ソ ロヴ ィヨ フは 全 般的 な人 類に つい ての 表象 に到 達し てい るが

︑そ れは まだ 個々 の民 族や 時代

︑社 会︑ 人格 には 分割 され てい ない

︑ 独自 の生 きた 存在 本質 なの であ る︒

ソロ ヴィ ヨフ は孤 立し た個 人か らで はな く︑ 本質 的に 社会 的な 存在 とし ての 人間 とそ の有 機的 な総 体で ある 人類 を規 定す るこ とが 先行 する と考 えて いる

︒こ の個 人を 超え た独 自の 存在 であ る人 類が コン トに おけ る﹁ 偉大 な存 在

Grand E tre

︶﹂ に他 なら ない が︑ ソロ ヴィ ヨフ はそ こで

﹁女 性的 原理

﹂が 称揚 され てい るこ とに 着目 し︑ これ を 中世 カト リッ クの マド ンナ 崇拝 と関 連づ け︑ 宗教 的な 人類 概念 にと って 女性 的原 理が 不可 欠の 要素 であ るこ とを 示

те ло  

(10)

そう とし てい る︒ƒ その 上で

︑古 代ロ シア にお いて は﹁ ソフ ィア

﹂が この よう な女 性的 原理 とし て称 揚さ れて いた こ とか ら︑ コン ト的 な人 類=

﹁偉 大な 存在

﹂と ロシ ア的 な﹁ ソフ ィア

﹂と の宗 教哲 学的 な連 関を 指摘 する ので ある

︒ これ につ いて

︑ロ ーセ フは 次の よう にま とめ てい る︒

﹁全 人類 的有 機体 はソ ロヴ ィヨ フに とっ ては 他な らぬ ソフ ィ ア︑ 神の 賢慮 なの であ る︒ それ ばか りで なく

︑こ のコ ント に関 する 自ら の報 告の 中で

︑ソ ロヴ ィヨ フは コン トの 人 類が キリ スト 教的 な神 人類 であ り︑ それ がビ ザン ツ的 な︑ 純粋 に観 念的 な神 性の 理解 とは 異な り︑ 神性 の身 体的

・ 人間 的な 理解 を与 え︑ ノヴ ゴロ ドと キエ フに ソフ ィア 寺院 を建 設し さえ した ロシ ア人 の昔 から の信 仰だ と考 えて い るの であ る︒

ここ では 神の 賢慮 とい う神 的な もの に対 する ビザ ンツ の観 念的 な理 解に 対し て︑ ロシ アの 具体 的︑ 身体 的な 理解 を対 置す るな ど︑ ロシ ア的 な精 神性 の独 創性 を主 張す る側 面も 見ら れる

︒そ して

︑そ れば かり でな く︑ 人類 とい う 本質 的に 地上 的な

︑あ るい は神 学用 語を 用い れば

︑﹁ 被造 的な

﹂存 在を 神の 賢慮 の一 つの 相と して 捉え る極 めて 大 胆な 解釈 が融 合し てい る︒ これ はロ シア 独自 の哲 学的 思想 の可 能性 を示 すと 同時 に︑ 天上 的な もの と地 上的 なも の︑ 神的

・理 念 的な もの と人 間的

・身 体的

・具 体的 なも のと いう 二元 論を 克服 して いる とい う意 味で

︑や はり 一つ の

﹁全 一的 な﹂ 理念 構築 のあ り方 をも 示す もの であ る︒ そう した 傾向 は人 類概 念に おけ る﹁ 女性 的原 理﹂ への 着目 とい う発 想と も密 接に 関連 して いる

︒こ れは

﹁人 類﹂ とい う概 念が 単な る抽 象的

︑集 合的 な仮 構で はな く︑ まさ に個 人的 な人 間存 在を 生み

︑育 てる

﹁母 体﹂ であ ると 発 想す るも ので

︑具 体的

・身 体的 な理 解の 一つ の究 極的 な形 だと 言う こと がで きる

︒そ れと 同時 に︑ 思想 史的 に見 れ ば︑ 一九 世紀 中葉 の古 典的 スラ ヴ派 がロ シア 社会 は古 代か ら家 父長 制的 な共 同体 原理 を維 持し てお り︑ それ を伝 統

(11)

的な 精神 性と して きた とい う主 張を して いる が︑ これ に対 する 痛烈 なア ンチ テー ゼと もな って いる

︒そ れは 世界 全 体を 人間 論的 に捉 える 形而 上学 的な 視点 の中 に︑ フェ ミニ ズム 的要 素を もた らす 試み でも ある

︒そ れだ けに

﹁ソ フ ィア

﹂概 念に おけ る女 性的 原理 の問 題は

︑ロ シア 文化 全体 の方 向性 を思 想的 に大 きく 規定 する もの だっ たの であ る︒ ソロ ヴィ ヨフ 哲学 の持 つ画 期的 な意 義は こう した 様々 な側 面か ら明 らか にな るが

︑一 九世 紀と いう 近代 化が まさ に進 行し つつ ある 時代 にお いて

︑宗 教的 な知 が活 力を 保持 して いる ばか りで なく

︑そ の新 たな あり 方を も提 示し た とい う点 で︑ ロシ アに とっ ての みな らず

︑よ り普 遍的 な示 唆を 与え てい ると 言う こと も可 能で あろ う︒ こう した イ ンパ クト が二

〇世 紀初 頭の ロシ アに おけ る極 めて 多様 な知 の開 花を 促し たの であ る︒

3.

ソロ ヴィ ヨフ 哲学 の後 継者 とし ては

︑実 に多 くの 哲学 者が 存在 して いる が︑ その 中で も比 較的 整っ た議 論を 構築 して いる 人物 とし てセ ミョ ーン

・フ ラン ク︵ 一八 七七

︱一 九五

〇︶ の名 前を 挙げ るこ とが でき る︒ ここ では

︑フ ラ ンク の認 識論 の基 本構 図と 社会 観か ら︑ ソロ ヴィ ヨフ の思 想的 影響 の広 がり を確 認し てお くこ とに する

︒ フラ ンク は一 九一 五年 の﹃ 知識 の対 象﹄ にお いて

︑当 時の 一般 的な 認識 論や 論理 の持 つ限 界を 指摘 して いる

︒そ の骨 子は 最も 基本 的な 論理 的判 断の 言明

﹁A はB であ る﹂ に含 まれ る問 題点 を指 摘し

︑悟 性的 な思 考が 本質 的に 限 られ たも ので しか なく

︑本 源的 に悟 性を 超越 した 基礎 が要 請さ れざ るを えな いと いう こと にあ る︒ こう した 議論 は︑ 思想 史的 には 一九 世紀 後半 にド イツ で活 況を 呈し た新 カン ト派 哲学 がロ シア にも 紹介 され

︑そ

(12)

の批 判的 な吟 味が 行わ れる 過程 で一 般化 した もの だと 言う こと がで きる

︒そ の意 味で は︑ フラ ンク の指 摘も 決し て 彼独 自の もの とい うわ けで はな く︑ 新カ ント 派哲 学の 洗礼 を受 けた 当時 の哲 学者 に広 く共 有さ れた 見解 であ った

︒ だが

︑そ うし た議 論が なぜ 起こ った かと 考え てみ ると

︑そ の発 端の 一つ はソ ロヴ ィヨ フの

﹁無 条件 的な もの

﹂を め ぐる 議論 に見 られ たよ うな

︑主 観的 な立 場か らの 把握 と客 観的 な立 場か らの 把握 との 間に ある

﹁ず れ﹂ の問 題で あ った よう に思 われ る︒ 立場 が違 えば 同じ もの でも 異な って 見え ると いう 意味 での 認識 論的 な﹁ ずれ

﹂は 哲学 の古 来 から の問 題で あっ たが

︑人 間の

﹁私

﹂の 立場 と絶 対者 であ る神 の立 場と を直 接対 比さ せる 思考 はむ しろ 宗教 的な 思 考に おい てし ばし ば見 られ るも ので ある

︒ロ シア の哲 学者 はこ こか ら論 理学 的な 図式 を再 構成 しよ うと した とい う 意味 で︑ 中世 のス コラ 哲学 とよ く似 た志 向を 持っ てい たと 言え るが

︑そ の道 具立 てに フッ サー ルの 現象 学を 援用 す るな ど︑

﹁ネ オ﹂

・ス コラ 哲学 的な 色彩 をも 備え てい るの であ る︒ とは いえ

︑実 際の 議論 はこ うし た前 置き が予 想さ せる もの より も︑ はる かに シン プル で説 得的 なも ので ある

︒紙 数の 都合 上︑ いわ ゆる 述語 論理 に関 する 考察 に当 てら れた

﹃知 識の 対象

﹄の 第一 部﹁ 知識 と存 在﹂ の第 一章

﹁対 象 と知 識の 内容

﹂で 論じ られ てい るこ との エッ セン スだ けを 抽出 すれ ば︑ およ そ次 のよ うな 議論 にな る︒

﹁A はB であ る﹂ とい う単 純な 判断 は︑ 例え ば対 象A が特 性B を持 って いる

︵﹁ この バラ は赤 い﹂

︶と いう 事態 を言 明し てい ると 考え るこ とが でき る︒ とこ ろで

︑こ の場 合︑ 我々 にす でに Aに つい ての 知識 があ り︑ そこ から Bと い う特 性を 受け 取っ たと 考え ると

︑少 々奇 妙な こと が生 じて くる

︒カ ント が指 摘し てい るよ うに

︑す でに 知ら れて い る対 象A のす でに 知ら れて いる 特性 Bに つい ての 分析 的な 言明 は︑ 新し い知 識の 増加 を意 味す るこ とは でき ない

« なぜ なら

︑そ れは 同語 反復 的な

﹁A Bは Bで ある

﹂︵

﹁こ の赤 いバ ラは 赤い

﹂︶ と同 等だ から であ る︒

(13)

ここ で︑ もし 対象 Aの 特性 に関 する すべ ての 言明 がこ のタ イプ の言 明で ある とす ると

︑我 々は 対象 Aに つい て細 大漏 らさ ずす べて のこ とを 予め 知っ てい るこ とに なる

︒だ が︑ これ は明 らか にあ りえ ない こと であ り︑

﹁認 識﹂ に よる 知識 の 増大 を否 定す るこ とに もつ なが る︒ 逆 に︑

﹁認 識﹂ によ って 新し い知 見が 獲得 され る と考 える なら ば︑ 対象 Aに まだ 知ら れて いな い特 性の 束x があ り︑ そこ から 特性 Bが 引き 出さ れる と考 える こと がで きる

︒つ まり

︑ Ax﹁

はB であ る﹂

︵﹁ この バラ

︵特 性の 束x を持 つ︶ は赤 い︵ xの 一つ の内 容︶

﹂︶ とい うの が本 来の

﹁認 識﹂ とい う 事態 であ ると 考え られ る︒ つま り︑

﹁x はB であ る﹂ の部 分が 認識 によ って 獲得 され た知 識に なる

︒ これ をも う一 歩進 めれ ば︑ そも そも 対象 A自 体も 認識 の対 象と なり うる 未知 のも のの 総体 Xか ら析 出さ れた もの であ る︒ 従っ て︑ 一連 の判 断を 成立 させ るた めに は﹁ X1

︵X の一 要素

︶は Aで ある

﹂と いう 判断 が先 行し てい なけ れば なら ない

» だと する なら ば︑ この 未だ 知ら れて いな いX を我 々は 判断 の前 提と して いる とい うこ とに なる

︒そ れは 悟性 によ って 未だ

﹁何 か﹂ とし て明 確に 把握 され てい ない もの であ り︑ それ が何 かを 判断 する こと が認 識の 役 目と なる

︒こ うし て言 わば 悟性 が予 め知 るこ との でき ない もの であ りな がら も︑ 存在 する こと は分 かっ てい る﹁ 超 悟性 的な もの

﹂が 我々 の世 界認 識の 基盤 だと いう こと にな る︒ こう した 形で フラ ンク は論 理と 認識 の基 底に 存在 する もの の第 一次 的性 格を 指摘 し︑ 存在 論的 に論 理と 認識 を考 察す る立 場に 立つ ので ある

だが

︑そ の思 想的 動機 を探 れば

︑こ れは 有限 な存 在で ある 人間 が主 観的 な認 識を 通じ て新 たな 知見 を獲 得す る局 面ば かり でな く︑ 認識 が生 じる 事態 その もの を客 観的 に︑ ある いは 絶対 者の 包括 的な 立 場に 照ら して 捉え よう とし たも ので ある こと も明 らか であ る︒ それ は現 実と して 客観 的︑ 絶対 的立 場に 立て ない 人 間が 絶対 者に 近づ くた めに 必要 な知 でも あり

︑ひ いて は神 化へ の手 がか りと なる もの でも ある

(14)

また

︑我 々が 未だ 見知 って はい ない が︑ 論理 的に 存在 して いな けれ ばな らな い﹁ 何か

﹂の 存在 の確 固さ は︑ この 世界 の具 体的 な︑ 手に 取る こと ので きる 事物 につ いて のみ 言え るこ とで はな い︒ より 理念 的な 性格 を持 つも のに 対 して もこ うし た思 考法 によ って アプ ロー チす るこ とが 可能 であ る︒ その 一つ の例 が﹁ 社会

﹂で ある

︒ フラ ンク は一 九三

〇年 に刊 行さ れた

﹃社 会の 霊的 基礎

﹄の 中で 次の よう に述 べて いる

︒﹁ 社会 とは

⁝真 正で 完全 な現 実で あっ て︑ 個別 的な 諸個 人を 派生 的に 結合 した もの では ない

︒そ れど ころ か︑ 社会 は人 間が 具体 的に 見出 さ れる 場と なる 唯一 の現 実で ある

︒孤 立的 に考 えら れる 個人 は抽 象に 過ぎ ない

︒ソ ボー ル的 な存 在  にお いて

︑社 会の 統一 にお いて のみ

︑我 々が 人間 と呼 ぶも のが 真に 現実 的な ので ある

︒⁝ 内的 な全 一︑ 第一 次的 な調 和︑ 全人 的な 生 の一 致は 社会 存在 の基 底に ある 真の 現実 であ ると はい え︑ その 実現 を外 部に 見出 すこ とは ない

︑あ るい は社 会生 活 とい う経 験的 現実 の中 では 極め て不 適切 な表 現の みを 見出 して しま うか のい ずれ かな ので ある

︒こ こに 人間 存在 の 真の 悲劇 が︑ 人間 の経 験的 現実 と存 在論 的本 質と の真 の不 一致 があ る︒

À ここ で︑ フラ ンク がソ ロヴ ィヨ フの

﹁全 一﹂ や﹁ ソフ ィア

﹂の 構想 にお いて 語ら れて いた のと ほぼ 同じ 見方 によ って 社会 存 在を 捉え てい るこ とは 明ら かで あろ う︒ 人間 を社 会か ら切 り離 して

︑孤 立し た存 在か ら始 める こと が

﹁抽 象的 な﹂

︑す なわ ちロ シア 語の 本来 の意 味か らし てÃ

︑現 実か ら﹁ 引き 離さ れた

﹂思 考で ある こと は疑 いえ ない

︒ だが

︑そ れと 同時 に︑ ソロ ヴィ ヨフ 的な 人間 理解

︑社 会理 解が すで に先 行し てい るた めに

︑そ の観 念的 な把 握が ソ ロヴ ィヨ フ以 上に 強く なっ てい る印 象も 受け る︒ そし て︑ ソロ ヴィ ヨフ の思 考に おい て︑ キリ スト 教の 三位 一体 論 的な 概念 構図 が自 明の 前提 とな って いた よう に︑ フラ ンク にお いて は︑

﹁内 的な 全一

﹂や

﹁全 人的 な生 の一 致﹂

︵こ の場 合︑

﹁全 人的

﹂と は︑ 完全 な人 間的 要素 を持 つも のと 考え て差 し支 えな い︶ のよ うな もの がす でに 自明 な概 念

(15)

とし て扱 われ る傾 向も 見え 始め てい る︒ その 結果

︑ソ ロヴ ィヨ フが 地上 的な もの と天 上的 なも の︑ 具体 的・ 身体 的 なも のと 観念 的な もの を融 合さ せる よう な構 想を 示し てい たの と比 較し て︑ むし ろそ れら が現 実に おい て二 元論 的 に分 離し てい るこ との 指摘 に力 点が 移っ てし まっ てい るよ うに も感 じら れる ので ある

︒ しか し︑ この 何か が逆 転し てい る印 象も

︑社 会の 現実 と理 想と の乖 離と いう 事実 に立 脚し つつ

︑そ れを 打破 する 構想 を打 ち出 そう とし たこ とに 由来 して いる とす れば

︑や はり ある 種の

﹁現 実的 な﹂ 対応 がな され たの だと も言 い うる

︒こ こで 取り 上げ てい る論 考を フラ ンク が提 出し たの は︑ 革命 直前 の時 期か ら革 命後 の嵐 の時 期を 経て

︑彼 自 身が ヨー ロッ パに 移住 する こと を余 儀な くさ れた 時代 であ り︑ 置か れた 歴史 的状 況か らす れば

︑ソ ロヴ ィヨ フと は 比べ もの にな らな いほ どの 厳し さを 体験 して いる 最中 のこ とで あっ た︒ それ ゆえ

︑ソ ロヴ ィヨ フ的 な社 会的 理想 の 定位 は︑ 当時 の現 実と はま った く対 蹠的 なも のの 追求 にな らざ るを えな かっ たの であ る︒ それ ゆえ

︑同 じ﹃ 社会 の霊 的基 礎﹄ には

﹁社 会現 象﹂ をめ ぐる 次の よう な言 葉も 見ら れる こと にな る︒

﹁人 々の 間の 交流 が単 に彼 らの 事実 的な 相互 作用 や︑ 事実 的な 出会 い︑ 心理 的過 程の 絡み 合い にお いて 行わ れる だけ では

︑ この 交流 はま だ社 会現 象で はな い︒ この 交流 の基 底に ある 統一 が︑ 交流 の参 加者 が従 う力 や機 関と して

︑交 流の 中 で実 現さ れる べ き模 範的 な理 念と して 受け 取ら れ︑ 作用 する 時に のみ

︑我 々は 真 に社 会的 な現 象を 有す るの であ る︒

Õ この 社会 的交 流の ある べき 姿を 述べ た文 章は

︑人 々の 有機 的な 結合 を︑ それ も同 じ理 想や 確信 によ って 結ば れた 共同 体に おけ る結 合を 回復 する こと が社 会を めぐ る思 想の 切実 な希 求で ある こと を物 語っ てい る︒ その 意味 では

︑ フラ ンク の思 想は ソロ ヴィ ヨフ の構 想が 持っ てい た可 能性 をよ り具 体的 に描 き出 し︑ 達成 すべ き課 題と して 再構 成

(16)

する 方向 に傾 斜し てい たと 言え よう

︒そ れは ロシ ア思 想の 革命 体験 とそ の反 応が いか なる もの であ った かを 映し 出 して もい るの であ る︒

4.

フラ ンク とは 異な る形 でソ ロヴ ィヨ フの 思想 的影 響を 具体 化し た例 とし て︑ 次に パー ヴェ ル・ フロ レン スキ ー

︵一 八八 二︱ 一九 三七

︶の 思想 を取 り上 げて いく こと にす る︒ フロ レン スキ ーは モス クワ 大学 で数 学と 哲学 を学 ん だ後

︑神 学大 学に 入り 直し て聖 職者 とな った が︑ ソヴ ィエ ト体 制下 で科 学者

︑技 術者 とし ても 活躍 する など 異色 の 経歴 を持 って いる

︒こ こで は︑ 正統 的な 正教 会の 立場 に立 たね ばな らな いフ ロレ ンス キー が︑ どの よう にソ ロヴ ィ ヨフ の構 想を 引き 継い でい るの か︑ そし てそ の際 に哲 学的 思索 にど のよ うな 意義 を見 出し てい るの かと いう 点に 着 目し てみ たい

︒と いう のも

︑聖 職者

=神 学者 とし ての フロ レン スキ ーに とっ て︑ キリ スト 教的 な知 見に 依拠 しつ つ も︑ 伝統 的な 見解 とは 異な る立 場を 打ち 出す

﹁新 しい 宗教 哲学

﹂に 対す る態 度を 曖昧 にし てお くこ とは でき ず︑ 宗 教哲 学を どの よう に是 認す るか とい う問 題に 直面 した はず だか らで ある

︒ 実は

︑フ ロレ ンス キー が一 九一 二年 に神 学修 士論 文と して

﹃霊 的真 理に つい て 正教 的弁 神論 の試 み﹄ を提 出し た際 にも

︑宗 務院 がこ れを その まま 公刊 する こと を認 めな かっ たた め︑ 改訂 を施 した 上で 一九 一四 年に

﹃真 理の 柱 と礎

﹄と タイ トル も改 めて 刊行 した とい う経 緯が ある

︒そ の一 方で

︑こ の論 文の 口頭 試問 の際 にフ ロレ ンス キー が 行っ た冒 頭発 言が 後に

﹁理 性と 弁証 法﹂ とい うタ イト ルで

﹃神 学通 報﹄ に掲 載さ れて いる が︑ その 中に は﹁ 哲学 は

(17)

それ 自体 で高 く︑ 価値 があ るの では なく

︑キ リス トを 差す 指と して

︑キ リス トに おけ る生 にと って 高く

︑価 値あ る もの なの であ る﹂Œ とい う一 種の 哲学 否定 論と もと れる 発言 が見 られ るな ど︑ フロ レン スキ ーの 立場 が他 の宗 教哲 学 者と は大 きく 異な るこ とも 暗示 され てい る︒ では

︑本 当に フロ レン スキ ーは 哲学 を神 学の 婢と しよ うと した ので あろ うか

︒先 に回 答を 与え てし まえ ば︑ まさ にそ の通 りで ある のだ が︑ そこ では ソロ ヴィ ヨフ が哲 学的 思考 の前 提と して 神学 的知 見を 要請 した のと 同じ 論法 が 用い られ てお り︑ 言わ ば神 学の 立場 から 哲学 を基 礎付 ける 立場 だと 言う こと もで きる ので ある

︒こ れは

﹁理 性﹂ を めぐ るフ ロレ ンス キー の議 論に 端的 に表 れて いる

︒﹁ 理性 は救 済を 渇望 して いる

︑⁝ 理性 はそ の存 在す る形 式︑ 悟 性の 形式 にお いて 死に つつ ある

︒⁝ 二律 背反 にお いて 瓦解 し︑ その 悟性 的な 存在 にお いて 死せ る理 性は

︑生 と堅 固 さの 原理 を求 めて いる

︒理 論的 な領 域で の救 済は

︑何 より もま ず知 性の 安定 性と して

︑す なわ ちま さに

﹁い かに し て理 性は 可能 か﹂ とい う問 への 答え とし て考 えら れる

︒そ して

︑も し宗 教が この 安定 性を 約束 する とす れば

︑弁 神 論の 仕事 は実 際に この 安定 性が 与え られ るこ と︑ つま りま さに その

﹁い かに して

﹂を 示す こと にあ る︒

⁝﹁ 理性 は いか にし て可 能か

﹂と いう 理性 に関 する 基本 的な 問題 への 解答 とし て︑

﹁理 性は 真理 を通 して 可能 であ る﹂ と宣 言 しな けれ ばな らな い︒ だが

︑こ の場 合︑ 真理 を真 理た らし める のは 何で あろ うか

︒そ れは 真理 その もの であ る︒

œ ここ でフ ロ レン スキ ーが 用い てい る﹁ 真 理﹂ とは 大文 字の

であ り︑ それ は まさ に﹁ 神﹂ に他 なら ない

︒ それ ゆえ

︑初 めか ら哲 学の 自立 的基 盤を 否定 し︑ 絶対 的根 拠と して 神の 存在 を要 請し てい ると いう 意味 では

︑極 め て反 近代 的な 立場 に立 って いる よう に見 える

︒だ が︑ よく 考え てみ れば

︑フ ラン クも 悟性 的な 論理 の基 盤と して 未 知の 世界 の総 体と して の﹁ 何か

﹂を 要求 した 際に

︑哲 学の 究極 的な 客観 性が 絶対 者の 立場 にお いて のみ 可能 であ る

И ст и н а 

(18)

こと を認 めて いた わけ だか ら︑ 両者 の相 違は 表現 上の もの に過 ぎな いと も言 える ので ある

︒そ の意 味で は︑ フロ レ ンス キー はカ ント 的な 理性 の二 律背 反と いう テー マを 神学 的に 解釈 しな がら

︑正 統的 な教 会の 立場 を擁 護し つつ も︑ ソロ ヴィ ヨフ の提 起し た宗 教哲 学的 な思 考法 を神 学的 議論 にフ ィー ドバ ック しよ うと さえ して いた ので ある

︒こ れ はソ ロヴ ィヨ フが 自ら の哲 学的 概念 を構 成す るた めに 援用 した 三位 一体 論に つい て︑ フロ レン スキ ーが

﹁三 一性 の 教義 は宗 教と 哲学 の共 通の 根源 とな るの であ り︑ そこ で双 方の 古く から の敵 対も 克服 され る﹂ と述 べて いる こと か らも 十分 に確 認で きる

︒ だが

︑そ の一 方で

︑正 教の 正統 的な 立場 に与 する がゆ えに

︑フ ロレ ンス キー にと って 擁護 でき ない 議論 が存 在す るこ とも 指 摘し ない わけ には いか ない

︒こ れは ロシ ア近 代宗 教思 想の 始祖 とも 言え るア レク セイ

・ホ ミャ コー フ

︵一 八〇 四︱ 一八 六〇

︶に 対す る批 判と して 提出 され た議 論に 明確 に現 れて いる

︒フ ロレ ンス キー はホ ミャ コー フ の人 間理 解と 教会 理解 に関 して 次の よう に述 べて いる

︒﹁ 人間 の自 由な 自己 主張

︑人 間に 内在 する 存在 は愛 の有 機 体の 中に 現れ るも ので あり

︑彼 にと って は何 より も尊 いも ので ある

︒実 際︑ 彼は

⁝﹁ 偉大 な愛 他主 義者

﹂で ある

︒ だが

︑偉 大な 愛他 主義 もそ れ自 体で は教 会に 少し も似 てい ない

︒と いう のも

︑教 会は 人間 性の 外部 にあ るも のの 中 に自 らの 基盤 を置 いた のに 対し て︑ 愛他 主義 にと って は︑ すべ ての 人道 主義 にと って と同 じよ うに

︑最 も強 固な 支 点と なる のは 人間 の内 的な

︑内 在的 な力 だか らで ある

︒⁝ ここ でホ ミャ コー フに 関し て語 られ た主 張は 予期 せぬ も のと 思わ れよ うが

︑得 心す れば

︑ホ ミャ コー フと 宗教 にお ける 存在 論的 契機 との 闘争 にも 予期 せぬ 光が 投げ かけ ら れる

︒宗 教 にお ける 超越 的な も のに 対す る関 係は

︑ 彼の 目か らす れば

︑﹁ クシ ート 的な

﹂原 理の 現れ なの であ る︒ だが

︑そ の時 には

︑な ぜ彼 が権 威を 否定 する のか

︑彼 が権 威に 従う 者の 外部 にい る限 りで の権 威と はど のよ うな も

(19)

ので ある かが 明ら かと なる

﹂ ホミ ャコ ーフ は愛 と自 由の 原理 を﹁ イラ ン主 義﹂

︑権 威と 従属 の原 理を

﹁ク シー ト主 義﹂ と呼 んで

︑本 来は 前者 がキ リス ト教 会の ある べき 姿で ある のに

︑現 実の 教会 は後 者の あり 方に 堕し てい ると して 一九 世紀 中葉 の国 家機 関 化し た教 会を 批判 した

︒フ ロレ ンス キー はこ れに 対し て︑ 教会 の聖 職者 の権 威が 位階 に応 じた 機密 の能 力に ある こ とを 指摘 して 反駁 して いる ので ある

︒ それ は多 分に テク ニカ ルな 神学 的議 論で ある が︑ 要点 とし ては 聖体 機密

︵プ ロテ スタ ント の聖 餐式

︶に おい て使 用さ れる パン と葡 萄酒 の﹁ 存在 変容

﹂の 問題

︑つ まり この 祭式 にお いて パン と葡 萄酒 が現 実に キリ スト の肉 と血 に 変容 して いる と考 える か否 かと いう 点に 関わ って いる

︒カ トリ ック と正 教は この 変容 が聖 職者 の位 階に 基づ く祭 式 的能 力に よっ て起 こっ てい るこ と認 める が︑ プロ テス タン トは 聖職 者に そう した 特別 な能 力が ある とは 認め ない と いう 相違 があ る︒ つま り︑ 聖職 の権 威= 能力 の承 認は

︑こ の﹁ 存在 変容

﹂に 関す る正 教的 理解 とプ ロテ スタ ント 的 理解 の相 違と して も把 握さ れる ので ある

︒ それ ゆえ

︑教 会の 権威

︵こ の場 合は

︑聖 職者 の権 威︶ を否 定す るホ ミャ コー フは 真の 正教 徒で はな く︑ プロ テス タン ト的 な偏 向を 持つ 思想 を唱 道し てい ると いう 批判 がな され るの であ る︒ これ は正 統的 な正 教の 立場 を主 張し た もの では ある が︑ 同時 にホ ミャ コー フの 示し た愛 と自 由と いう 人間 的な 原理 すら をも

﹁愛 他主 義﹂ や﹁ 人道 主義

﹂ とい う近 代の 後知 恵的 な理 念に 過ぎ ない もの とし て切 り捨 てて しま って いる よう に見 える

︒そ の限 りで は︑ ソロ ヴ ィヨ フが

﹁ソ フィ ア﹂ につ いて 論じ た際 に登 場し た﹁ 人類

﹂の よう に︑ 神的 なも のと 人間 的な もの が交 差す る理 念 を容 認す るこ とは 極め て困 難に なる よう に思 われ る︒ フロ レン スキ ーは

﹃真 理の 柱と 礎﹄ の中 で︑

﹁も し︑ ソフ ィ

(20)

アが すべ ての 被造 物で ある なら

︑被 造物 の魂 や良 心︑

︱人 類︱ も専 らソ フィ アで ある

︒も し︑ ソフ ィア が教 会で あ るな ら︑ 教会 の魂 や良 心︱ 聖人 の教 会︱ も専 らソ フィ アで ある

とし て︑ ソロ ヴィ ヨフ のソ フィ ア理 解に 見ら れる 人間 論的 要素 を反 復し てい る︒ だが

︑こ の書 物を 全体 とし て見 た場 合︑ 随所 で人 間の

﹁自 己過 信﹂ が罪 の元 凶で あ り︑ 神= 真理 のた めに 自ら を空 しく する 謙譲 の精 神こ そが キリ スト 教徒 の徳 目で ある と繰 り返 し訴 えら れて いる

︒ その 意味 では

︑人 間的 なも のと 神的 なも のの 本質 的な 相違 の方 が強 調さ れて いる こと は否 めず

︑フ ロレ ンス キー の 保守 的・ 反動 的な 姿勢 が強 く印 象づ けら れる ので ある

︒ しか しな がら

︑フ ロレ ンス キー は単 に近 代的 な立 場か らの キリ スト 教批 判に 反駁 する ため だけ に自 らの 神学 的な 議論 を展 開し たの であ ろう か︒ 仮に そう であ るな らば

︑そ れは そも そも 虚心 坦懐 に真 理を 求め る哲 学で はな く︑ 予 定さ れた 教条 を押 しつ ける だけ のド グマ ティ ック な思 考の 振る 舞い に過 ぎな くな るだ ろう

︒こ うし た疑 問に 対す る 回答 を 与え ると 思わ れる のは

︑ フロ レン スキ ーの ソフ ィア 理解 にお いて 提起 され てい る次 のよ うな 見解 であ る︒

﹁永 遠的 なも のそ れ自 体の 知覚 とは

︑認 識論 的側 面か らす れば

︑そ の内 的な 必然 性に おい て物

を見 るこ と︑

︱ つま りそ の存 在の 意味 や︑ 理路

︵理 性︶ の内 にあ る物 を見 るこ とで ある

︒被 造物 の無 条件 な価 値を 直観 する こと で︑ 聖人 はそ れら の客 観的 な存 在の 理路

︑そ れら のロ ゴス を見 てい るの であ る︒

⁝物 の理 性と は︑ 被造 物の 観 点か ら見 れば

︑被 造物 が自 分の 自我 から 解放 され

︑自 分を 脱し

︑神 の中 で自 らを 使い 果た す者 とし ての 自分 の礎 を 見出 す手 段と なる よう な所 作で ある

︒⁝ 神的 存在 の観 点か らす れば

︑被 造物 の理 性と は条 件的 なも のに つい ての 無 条件 な表 象︑ 個物

につ いて の神 の理 念で あり

︑神 が自 らの 無条 件性 と絶 対性 を︑ 自ら の神 的な 思考 の神 的な 内容 と共 に名 状し 難い 形で 自己 廃棄 する 中で

︑有 限な

︑制 限さ れた もの につ いて 思考 し︑ 被造 物の 貧弱 な

ч ас т н а яв е щ ь   р а зу м   в е щ ь  

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半存 在を 聖三 者の 核心 とい う存 在の 充満 の中 へと もた らし

︑被 造物 に自 己︱ 存在 と自 己︱ 規定 を贈 る︑ つま り被 造 物を ご自 身と あた かも 同じ 水準 に立 てて 下さ ると いう 所作 なの であ る︒

神学 的な 言い 回し であ るだ けに

︑や や理 解し にく い面 もあ るが

︑ソ ロヴ ィヨ フが

﹁全 一﹂ につ いて 論じ た際 に展 開し た﹁ 主観 的な

﹂観 点と

﹁絶 対的 な﹂ 観点 の交 差が

︑こ こで

﹁被 造物

﹂の 観点 と﹁ 神﹂ の観 点と の交 差と して 見 られ るこ とは 明ら かで あろ う︒ しか も︑ ソロ ヴィ ヨフ が﹁ 全一

﹂と いう 術語 で言 い表 そう とし た内 容を

︑﹁ 物﹂ と して 極め て具 体的 に捉 えて いる 点も 注目 され る︒

﹁物

﹂が 端的 に言 って

﹁被 造物

﹂で しか あり えな いと すれ ば︑ 人 間を 含め たす べて

︑つ まり 人類 も社 会も 独特 な﹁ 物﹂ であ り︑ それ が理 性や 神の ロゴ スに 貫か れて いる こと にな る︒ その 意味 で︑ この

﹁物

﹂は ソロ ヴィ ヨフ の﹁ ソフ ィア

﹂の 持っ てい た神 的な 性格 や被 造的 な性 格︑ さら に人 間論 的 な捉 え方 など を独 自の 仕方 で綜 合し た概 念だ と言 って よい

︒こ うし た理 解が 神学 的な 被造 物の 理解 に流 れ込 むこ と によ って

︑ソ ロヴ ィヨ フの 哲学 的構 想も 神学 的な パー スペ クテ ィヴ の中 にご く自 然な 形で 還元 され るの であ る︒ これ らの 議論 を勘 案し た場 合︑ フロ レン スキ ーに とっ て宗 教哲 学が 持ち 得た 意味 とは

︑正 統的 なキ リス ト教 の伝 統的 教義 に対 して

︑よ り具 体的 で豊 かな 表現 をも たら すこ と︑ そし てそ れは 部分 的に 近代 的な 世界 理解 に通 ずる 言 葉を 神学 に与 える こと であ った よう に思 われ る︒

﹃真 理の 柱と 礎﹄ にお いて は︑ この 他に も数 学的 な無 限概 念や 論 理学 的な 二律 背反 に関 する 議論 を神 学的 な問 題の 理解 のた めに 援用 して いる 箇所 があ る︒ それ は現 代の 諸科 学の 成 果を 参照 する こと によ って

︑キ リス ト教 神学 の人 智を 越え た奥 行き を改 めて 確認 する 作業 だと 言う こと がで きる

︒ そう した 形で

︑旧 来の 知見 が抱 えて いる

︑必 ずし も行 き届 いた もの では ない 表現 の限 界を 超え ると 同時 に︑ 数学 や 論理 学の 最新 の知 見が 神学 的正 当性 をも 持ち うる こと を示 して もい るの であ る︒ そう した 形で

︑一 見不 合理 と思 わ

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れる よう な神 学的 言明 の超 合理 性を も示 すこ とが でき たの であ る︒ 逆に

︑一 部の 近代 的理 念︑ 特に 時に は神 に反 逆す るこ とす らで きる 人間 の内 在的 な力 の称 揚に 対す る過 剰な まで の批 判に は︑ 新し い宗 教哲 学が 求め た近 代的 な社 会的 理想 の追 求そ のも のを 否定 する 意図 も感 じら れる

︒そ の点 で は︑ フロ レ ンス キー にと って は︑ キリ スト 教神 学に 内在 され た︑ 存在 の根 元的 論理 の十 全な 展開 こそ が哲 学的 な

﹁創 造﹂ に他 なら ず︑ それ を逸 脱す る思 考は 異端 へ導 く哲 学の

﹁専 横﹂ とし て排 除さ れる べき こと だっ たと 評価 せ ざる をえ ない ので ある

ロシ アの 宗教 哲学 はソ ロヴ ィヨ フ以 降に 様々 な方 向性 が示 され たが

︑全 体と して 具体 的・ 身体 的な もの

︑あ るい はそ れを

﹁物

﹂と して 捉え る独 特な 傾向 が形 成さ れて いる こと は明 らか であ ろう

︒そ れは とか く曖 昧に 語ら れが ち な﹁ すべ て﹂ や﹁ 社会

﹂︑

﹁人 類﹂ など を具 体的

︑身 体的 に捉 えよ うと した とい う点 で極 めて ユニ ーク なも ので あっ た︒ そう した 発想 の根 幹に ある のは

︑人 間論 的・ 人間 中心 主義 的な 解釈 と神 権的

・神 中心 的解 釈と の思 想的 な交 差 であ り︑ それ によ って 伝統 的な ロシ アの 精神 性に とっ て馴 染み 深い 神学 的地 平に おけ る被 造物 の理 解が 新た な段 階 へと 歩を 進め るこ とに なっ たの であ る︒ それ がさ らに どの よう な展 望を 開拓 しう るか は︑ 未だ 解決 され てい ない 課 題と して 残さ れて おり

︑今 日の 思想 文化 一般 に対 して も大 きな 示唆 を与 える もの だと 思わ れる

︒そ の意 味で は︑ ロ シア 宗教 哲学 は今 なお 新し い構 想の ため に開 かれ てい るの であ る︒

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2021 年 8月31日 東進衛星予備校 新型コロナウイルス感染者確認のお知らせ 東進衛星予備校の校舎にて、新型コロナウイルスの感染者が確認されましたので、以下の 通りご報告申し上げます。 東進衛星予備校の校舎における新型コロナウイルス感染症対策は、ホームページ上でお 知らせしている通りです。37 度以上の熱がある場合の入室禁止、手指のアルコール消毒、そ