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一.冷戦終結の国際情勢
一九八九年一二月にマルタで行われた米ソ首脳会談の共同記者会見
で、ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領とミハエル・ゴルバチョフ=ソ連書記長両首脳が冷戦の終結を宣言したことにより、九〇年代の国際
情勢は大きな変動期へと突入していった。『国際問題』の編集では、そ
のような国際情勢の変動をどう捉え、日本がどのように取り組んでいく
べきかを解明することが、重大な課題となったのである。
一九九〇年四月号の創刊三〇周年記念特集号では、永井陽之助が「冷
戦は終わったか」を論じ、平井友義も「『新思考』外交と冷戦心理の克
服―ソ連外交三〇年」でゴルバチョフの下でのソ連外交の変化について
解説したのに次いで、同年一〇月号がソ連特集「変動のなかのソ連」を
組んでいる。もう一つの震源地になった東欧諸国の情勢については五月
号が特集「東欧の変革と展望」を組み、百瀬宏の「東欧の政治変動をみ
る視点」などが掲載され、同年一一月号「欧州再編の基調」ではドイツ
の再統一をはじめヨーロッパ情勢の再編が特集された。アジア情勢では
ヨーロッパ情勢とは裏腹に、八九年に中国では天安門事件が起こってお り、九〇年一月号はこの事件後の中国の内外の情勢について特集「天安門事件以後の中国」を組んだ。このように『国際問題』は、国際情勢の変動に関してタイムリーな特集を組み、情勢の変化を追いかけた感がある。
二.変動期の日本外交の試練
一九九一年以降は冷戦後の移行期が関心の的になって、九一年一〇月
号が「冷戦後の世界」を特集し、ブッシュ米大統領が一月に提唱した新
国際秩序構想を受けて、高坂正堯がその性格と日本の国際貢献について
論じた「冷戦後の新世界秩序と日本の〈貢献〉」を寄稿した。この新国
際秩序構想に関しては、九二年二月号の米国特集「新世界秩序とアメリ
カ」で中馬清福が米国の軍事戦略(「冷戦後の米国の軍事戦略とその転換」)、
渡邉昭夫がそのアジア・太平洋政策との関連(「ブッシュ政権の新世界秩
序構想とアジア・太平洋政策」)をそれぞれ考察した。このような情勢の
中で課題になった日本の対応に関しては、西原正が本撰集に収録した「東
西関係の急展開と日本の安全保障」を九〇年三月号で執筆し、東アジア
情勢のヨーロッパ情勢との違いを整理したうえで、日米安保体制が継続
― 解説 一九九〇年代 ―
五十嵐 武 士
解説 1990 年代
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する可能性が高いと指摘した。
このように冷戦が終結しつつある中で、一九九〇年八月にはイラクが
クウェートを侵略し、日本が七三年の第一次オイル・ショック以来、安
全保障政策の核心にしていた「中東有事」が発生した。この予想だにし
なかった事態に直面して、海部内閣は適切な対応を取れずに混迷を極め
たが、九一年八月号は「湾岸戦争―日本への教訓」を特集にし、北岡伸
一が本撰集に収録した「湾岸戦争と日本の外交」で日本外交の問題点を
明快に点検した他、日本の野党やメディア、経済界の状況、各国の世論
の動向も分析している。
冷戦の終結に符節を合わせるかのように、この年日本経済のバブルが
弾けて「失われた一〇年」と呼ばれる低迷期に陥ったが、一九九一年六
月号では日本経済の特集「日本経済の行方」が組まれ、佐和隆光が「新
世界秩序と日本経済」を寄稿している。また冷戦が終結するとはいえ、
日ソ関係は冷戦後も懸案にとどまっており、九一年には四月号「日ソ関
係の新段階」と七月号「〔シンポジウム〕ソ連情勢と日ソ関係の展望」
で二度にわたって特集を組んだ。七月号は日ソ両国の研究者によるシン
ポジウムの特集であり、ソ連側の参加者からソ連の将来の展望等につい
て報告がなされたが、この特集翌月のクーデタ未遂事件を経て、一二月
のソ連解体に至るまさに前夜に出版されたことになる。
三.冷戦後の紛争と日米安保の再定義
ヨーロッパで胎動し始めた新たな情勢に関しては、一九九二年八月号
「統一ドイツの選択」で佐瀬昌盛が再統一したドイツの外交について論
じ(「ドイツ外交の始動と誤算―『東方政策』を中心に」)、冷戦後の課題と して新たに浮上した紛争については、同年一二月号「東欧の民族問題と紛争」で旧東欧諸国の民族問題、九六年五月号「旧ユーゴ紛争と国際的解決」では旧ユーゴスラヴィアを特集した。中東情勢では九四年六月号「イスラーム復興主義の現在」で不安定化をもたらすイスラーム過激派
の動向、アジアの地域紛争については九三年一〇月号「アジアにおける
地域紛争」でカンボジア、中台関係、南シナ海の問題、北朝鮮の核開発
問題を取り上げて、それぞれ特集を組んでいる。
一九九四年には北朝鮮の核開発問題をめぐって米国と北朝鮮との関係
が極度に緊張し、日米安保体制をも揺るがす事態に発展したが、九六年
四月号「朝鮮半島情勢の現況」では朝鮮半島情勢を特集に取り上げ、小
此木政夫が危機の性格と日米韓三国の対応について分析した(「北朝鮮
危機の構図と日米韓の対応」)。またインドとパキスタン両国間で核戦争の
瀬戸際まで高まった緊張についても、九九年四月号「南アジアの現況」
が考察している。
冷戦後には人権問題も国際的な緊張を惹き起こしたが、一九九〇年六
月号の特集「現代国際関係と人権」で石井修がその原因になった米国の
人権外交を解明した(「米国の人権外交の理念と現実」)。天安門事件を起
こした中国はその槍玉になり、国際的に孤立したものの、米国の人権
外交には他のアジア諸国からもアジア的価値観を掲げる強い反発が生じ
た。九七年八月号「人権とアジア的価値」がこの問題を特集し、毛里和
子は本撰集に収録した「中国の人権―強まる国権主義のなかで」におい
て中国ではむしろ国権主義が高まっており、人権状況の改善が期待でき
ないと指摘していた。
中国の国際関係では、一九九六年三月に台湾海峡でミサイル実験を強
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行したのに対して、米国が二隻の航空母艦を派遣して牽制するという深
刻な事態が発生し、中国の経済的な発展に伴う大国としての台頭が国際
的に注目を浴びた。山本武彦が二〇〇〇年二月号に掲載の「クリントン
政権の対中国政策と国内政治―『建設的関与』から『建設的曖昧性』へ」
で解明したように、米国では中国による核スパイ疑惑も取り沙汰され、
米中関係の動向が重大な懸案になったのである。
そのような情勢の中で、日米関係では経済摩擦で「戦後最悪」とも言
われた状況を打開するために、日米安保体制の再構築が図られた。渡邉
昭夫は一九九八年三月号「国際情勢と日本・一九九九」に寄稿した本撰
集に収録した「日米安全保障関係の新展開」で、日本側で防衛問題を検
討し新たな方針を提示した樋口レポートの作成担当者という当事者の立
場から、九六年四月の二一世紀に向けた日米共同宣言で、日米安保体制
を東アジア情勢を安定化させるための国際公共財と位置づける、再定義
が発表されるまでの経緯を解説している。
四.冷戦後の南北問題と国連の活動
冷戦期に東西対立と並んで国際情勢の重要な争点だった南北問題は、
冷戦の終結と軌を一にして変容したが、山本満は本撰集に収録した「冷
戦終結と南北問題の再定義」(一九九三年七月号)で両者の相互関係を解
明し、一九九六年一一月号は南北問題の現状について特集「南北問題
の現在」を組んだ。その特集で恒川惠市は南北問題を世界システムとの
関係で位置づけ(「世界システムと南北問題」)、ODAの世界最大の供与
国に躍進していた日本の方針については、九七年一〇月号「日本のOD
Aの再構築」で横田洋三が岐路に立っているとみる観点から論じている (「岐路に立つ日本の政府開発援助」)。
冷戦後は発展途上国で紛争が頻発したことから、国際的な安全保障問
題としても注目を集めるに至った。その犠牲者の実態と対策について、
国際連合難民高等弁務官に就任した緒方貞子が本撰集に収録した「人道
分野における国連活動」(一九九五年一一月号)を寄稿し、カンボジアと
旧ユーゴで国連代表として紛争の収拾を担当した明石康も、一九九六
年五月号に両国での国連平和維持活動について自身の体験をもとに執筆
している(「カンボジアおよび旧ユーゴスラヴィアにおける国連平和維持活
動」)。
湾岸戦争が国連の決議に基づいて組織された多国籍軍によって遂行さ
れ、国連の集団安全保障が初めて実施されたのを受けて、アフリカ初の
国連事務総長に就任したブトロス・ガリ氏は、一九九二年に平和維持
活動を平和執行にまで高めようと意欲的な方針を提示した。しかし、現
実の紛争の困難な状況の中で期待したほどの成果を挙げることはできな
かった。
納家政嗣が一九九九年一二月号「予防外交の理念と実践」に寄稿した
本撰集に収録した「予防外交論の展開と射程」で、予防外交論の展開を
整理し、その原因は紛争の収拾が国家建設自体が課題になるような破綻
国家のものであることを指摘した。すなわち、予防外交の域を超える問
題が懸案になっており、二一世紀に入ると活発に論議される帝国論の前
提条件を明らかにしたのであった。
五.グローバル・ガバナンスとアメリカ政治の変容
冷戦後の国際情勢の変容は、グローバル化の傾向が急速に進展したこ
解説 1990 年代
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とにも由来していた。その結果、グローバル・イシューが注目されるよ
うになり、一九九七年一二月号「地球温暖化と日本の選択」で地球温暖
化問題を特集したのに次いで、九九年二月号「クリントン政権の諸相」
では米国のテロ対策も考察している。
一九九七年に発生したアジア通貨危機は、二一世紀をアジアの世紀と
みる展望を大きく揺るがすものであり、九八年四月号「アジア金融危機
と世界標準」ではこの危機の震源地になった東南アジア諸国の金融上
の問題を、世界標準との関係で解明する特集が組まれた。この危機では
日本政府がアジア通貨基金構想を提示して、米国と鋭く対立する一幕も
あったが、伊藤隆敏は九九年二月号に掲載された「アジア通貨危機とア
メリカの対応」でアメリカの対応について論じている。またその犠牲に
なった諸国の危機後の情勢を、ASEANとの関係に的を絞って九九年
七月号「アジア経済危機とASEAN」で特集している。
グローバル・イシューが浮上したのに伴って、グローバル・ガバナン
スが課題になったが、一九九四年九月号では国際機構の発展について特
集「国際機構の発展と相互連関」を組み、国際原子力機関、WTO、国
連機関の人権保障、世界銀行およびUNDPを取り挙げている。冷戦後
のヨーロッパは緊張緩和の代表的な例であり、新たに創設されたEUを
九四年四月号「欧州連合の方向性」で特集し、EUとNATOの東方拡
大については九八年五月号「ヨーロッパの対外政策」で解説している。
その政治統合の拡大を媒介した協調的安全保障という新たな考えに関
しては、山本吉宣が国際的な危機管理を特集した一九九五年八月号「国
際システムと危機管理」で解明していた(「協調的安全保障の可能性―基
礎的な考察」)。九六年七月号「冷戦後の安全保障」はそれに次いで冷戦 後の安全保障問題の特集を組み、同年九月号の「国際レジームと国際的統治」特集では国際通貨、地球環境、海洋などのレジームを考察している。
グローバル・ガバナンスでは政府に限らず、NGOも重要な役割を担っ
ている。一九九六年一二月号「NGOの国際的役割」はNGOの国際的
な役割の特集を組み、NGOの活躍で達成された対人地雷禁止条約につ
いては、浅田正彦が「対人地雷の国際的規制―地雷議定書からオタワ条
約へ」を九八年八月号「軍備軍縮・軍縮体制の現在」に寄稿している。
しかし、グローバル・ガバナンスはいまだ発展途上の段階にあり、冷
戦後唯一の超大国になった米国の動向が依然として国際情勢の中核を占
めている。一九九二年大統領選挙では戦後世代初のビル・クリントン
が新大統領に就任し、大胆な財政政策と華麗な金融政策の組み合わせに
よって、九〇年代後半にはアメリカ経済の回復をもたらした。米国では
景気循環を克服したニューエコノミーが実現したとも評価されたが、そ
のニューエコノミーの実態については、丸茂明則が九八年二月号「アメ
リカの方向性」に掲載した「米国の『ニュー・エコノミー論』を検証す
る―労働生産性を中心に」で労働生産性に関して分析した。
しかし、政治的には一九九四年の中間選挙で共和党が四二年ぶりに連
邦議会の多数党を奪還した。佐々木毅が九六年二月号「クリントン政権
の展開」に掲載の「変容する米国のニューライト」で解明したように、
共和党でのニューライト派の勢力拡大は、地球温暖化防止のための京都
議定書の批准を拒否するなど、クリントン政権の国際協調方針を妨害し
単独主義の傾向を強めて、二一世紀に米国が帝国化の傾向を深める背景
をなすものであった。