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野村眞康先生を悼む - J-Stage

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化学と生物 Vol. 50, No. 7, 2012 537

野村眞康先生を悼む

野村眞康君は1951年に東大農学部農芸化学科を卒業 した.卒論研究に熱心のあまりか,疲れがたまって体調 を崩し,卒業式前後は病床に伏すことになった.当時は 車の往来もまばらだったので,本郷通り沿いに西片町の 下宿から水道橋駅まで,入院に必要な品々を,のどかに リヤカーで運んだのも懐かしい思い出である.彼の病床 の枕頭に積み重ねられていた専門書の上にひっそりと

「アミエルの日記」が載っていた印象は今なお鮮烈だ.

退院後ただちに醗酵学研究室に入った.坂口謹一郎先

生に与えられテーマは,当時ようやく解禁になった放射 性同位元素をトレーサーとして活用することによるワイ ン醸造中の酒石酸代謝経路の解明であった.研究室は2 号館地下25号室.私も同じ部屋でともに高橋 甫先生 の指導を受けた.下宿先は,野村君は本郷西片町,私は 本郷追分町だったので,いずれも大学に近く,終電車の 時間など気にすることなく,二人でしばしば深夜まで語 り合い,時には未明まで実験を楽しんだ.

終戦前,彼は軍籍にあったが,その時,彼の部下薫陶 の言葉は「死して惜しまれる人となれ」であった.戦後 も自らこの言葉を念頭に,常に寸暇を惜しんで研究に精 励したのである.

野村君は酒石酸アンモニウムを唯一の炭素源,窒素源

とする培地で生育する を分離

し,これが嫌気条件下で酒石酸を定量的にコハク酸,酢 酸,CO2に転換することを証明した.

1953年に東大に設立された応用微生物研究所(現 分 子細胞生物学研究所)に移り,赤堀四郎先生とタンパク 質合成の研究に没頭したが,ここで出会った Francis  Ryan  先生の薦めで1957年に渡米し,イリノイ大学で  Sol Spiegelman  と,ハーバード大学で James Watson  と,パデュー大学で Seymour Benzer  と研究生活を続 けた.1960年から3年間,大阪大学でmRNA,コリシ ンなどの研究に打ち込んだ後,1963年秋にウィスコン シン大学に,1984年にはカリフォルニア大学アーバイ ン校に移った.

アメリカにおける野村君の研究の対象はすべての生物 細胞の構造体であるリボソームだった.そして試験管の 中でリボソーム構成成分を解離させ,再構成させるとい う驚くべき離れ業に成功した.すなわち,大腸菌の30S リボソーム粒子が21個のタンパク質分子で構成される ことを突き止め,そこからRNAおよび各構成タンパク 質を分離し,それらを組み合わせることによって30S粒 子の再構成に成功した.これにより,個々のタンパク質

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についてその機能・役割を明らかにする道を開いたので ある.また,これら構成タンパク質,RNAの遺伝子の 同定,単離から,大腸菌のリボソーム関連遺伝子の塩基 配列,それらが構成するオペロン構造ならびにその発現 制御の詳細を明らかにした.さらに,大腸菌リボソーム を構成するもう一つの50S粒子に関する研究も進め,タ ンパク質合成工場であるリボソームの構造と機能の詳細 な理解に多大なる貢献を行った.

カリフォルニア大学では,さらに対象を細菌から酵母 に拡げ,酵母におけるリボソームタンパク質遺伝子,リ ボソームRNA遺伝子群のRNAポリメラーゼによる転 写の制御機構を明らかにし,酵母リボソームのmolecu- lar geneticsが細菌とは異なることを発見した.このよ うに,生命現象の要であるタンパク質合成の場であるリ ボソームの構造,機能の解明は,生命の理解に大きな役 割を果たし,世界の分子生物学の発展に大きな足跡を残 した.

ウィスコンシン大学の Millard Susman  名誉教授は

「彼は “magical laboratory worker”  として “extremely  hard” に研究に打ち込んだ.リボソームの研究は競争が 激しい分野だったが,彼はあえてその渦中に飛び込んで 自ら Mr. Ribosome となり,リボソームが遺伝子の指示 どおり正確にタンパク質を合成する機構を解明した.彼 の自己主張がもっと強かったら (more assertive) 多分 ノーベル賞を受賞していたであろう」と述べている.

彼は less assertive  だったためノーベル賞は逸した が,われわれ級友一同はじめ彼の学識人格を知る国内外 のすべての人々に敬愛され,真に生きるに値する人生を 見事に全うし「死して惜しまれる人」となって旅立って いったのである.彼岸での祝福に満ちた安らぎを祈って いる.

(國中 明)

日本農芸化学会名誉会員の野村眞康氏は,膵臓がんに より2011年11月19日84歳で急逝されました.誠に哀悼 の念に堪えません.ここに謹んで哀悼の意を表する次第 であります.

故 野村眞康氏は昭和2 (1927) 年4月27日兵庫県にお いて父容道,母八重の次男として出生,アジア太平洋戦 争中,陸軍軍人の父上の後を受け,陸軍幼年学校に入 学,同校ならびに予科士官学校卒業時には御賜の時計を 賜っており,氏が若くして抜きんでいた証左でありま す.航空士官学校在校中の昭和20 (1945) 年終戦を迎え

ました.当時陸海軍の学校生徒を旧制高校・大学が迎え 入れる制度があり,苛烈な試験をとおり第一高等学校理 科乙類に昭和20 (1945) 年入学されました.ここで山本  出と知りあいました.

数ある先輩,知己,友人,後輩がおられる中で,戦争 直後の困難な一時期をともに学んだ者として,氏の青春 の一端を述べることをお許しいただきたい.新設のバ レー部の寮で寝食をともにし,恩師塩見賢吾先生のお宅 をたびたび訪ね,富士山,谷川岳登山を試み,あえてと もに1年休学,青春を楽しむとともに大学のどの学部を 選ぶべきかを語りあいました.はじめ氏は医学を志しま したが,生活を考慮し,山本とともに産業界に縁が深い 東大農学部農芸化学科に昭和23 (1948) 年入学しまし た.氏の優秀なることはよく知られるところであります が,寮で席を並べた山本の見るところ,第一に努力の人 でありました.食事をしながらでもあくことなく読書 し,そのせいか,昭和26 (1951) 年東大卒業式当日は胃 腸の病で床に伏し,級友が卒業証書を届けに駆けつけた こともありました.氏への個人的思い出は尽きることは ありませんが,山本は微生物の道を氏と同じくすれば,

後塵を拝するのみと,有機化学の道に入りました.以来 駐米,訪米の折々,ウイスコンシンのMadison,カリ フォルニアのIrvineに氏を訪ね,また氏の来日時,級友 と歓迎することはあっても,有機化学から農薬科学へと 進んだ山本と学問的に相まみえることはありませんでし た.

氏は坂口謹一郎研究室で高橋 甫氏から学ぶところ多 く,昭和28 (1953) 年東大応用微生物研究所助手とな り,発酵生化学の道に入りましたが,基礎科学への願望 も絶ちがたく,1957年博士号取得後,1957 〜59年の間 米国に留学,University of Illinois の Prof. Sol Spiegel- man,  つ い で Harvard University  の Prof. James D. 

Watson,  ま た1959‒60年 の 間 Purdue University  の  Prof. Seymour Benzer  の研究室において,これら分子 生物学の3人の先駆者に学ぶ機会を得ました.帰国後 1960 〜63年の間大阪大学の蛋白質研究所の助教授とな りましたが,University of Wisconsin  の Department  of Genetics に招かれ,准教授 (1963 〜66), 教授 (1966

〜70) としてコリシンの作用機構,またメッセンジャー RNA, リボゾームについて研究されました.1970年以来 同 大 学 の Institute for Enzyme Research  の Conrad  Elvehjem Professor in Life Sciences に任じられ,また  Department of Genetics and Biochemistry の教授も併

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化学と生物 Vol. 50, No. 7, 2012 539 任 さ れ ま し た.1984年 University of California  のIr-

vine校 に 招 か れ,医 学 部 Department of Biological  Chemistry の Grace Bell Professor に任じられ昨年に至 りました.

研究関係の著作は300を超す一方,氏はまた優れた教 育者でもあり,大学院学生,若手研究者を育て,研究室 には日本をはじめ各国からの博士取得後研究者のみでも 50を数え,嚇々たる業績は,多くの賞,名誉に反映さ れており,これを文末に別記します.

2011年東大昭和26年卒のクラス会に宛てた手紙には,

いよいよ夏には研究室を閉じ,60年にわたる研究生活 に終止符を打ち,しばらくは自適の生活に入りたい旨が 記されていました.氏と潤子夫人との間には一男一女が おられます.しかし昨年は野村家にとりたいへんな年あ りました.夫人は一昨年末転倒による頸部のけがでリハ ビリを続けられ,この間の毎日の見舞い,また洪水で  San Diego の家を損傷した娘さんとお孫さんを家に預か り,娘さんが University of California, San Diego に通 勤する間,家事一切を仕切る生活を氏は続けました.膵 臓がんの発見が遅れたのはこのためかもしれません.定 年後の悠々の人生をご家族とともに味あうことをえな かったのは,はたから見て残念でありますが,一方,学 問研究に一心不乱邁進された氏にふさわしい最後であっ たともいえましょう.

ユダヤ人は人のまっとうな死を祝福すべきものと考え ています.人を人生という海原に船出した船にたとえ て,順風もあれば,逆風にさいなまれ,波浪に翻弄され ることもある航海を終え,船が使命を果たして港に戻っ たときには人々は祝福,喝采を惜しみません.そのよう に人が眠りにつくとき,その人が何をやってきたかを皆 がわかっているのだから,その時こそ祝福すべきである

というのが考え方です.ご家族のお気持ちを察すれば,

祝福とはなかなか難しいと思いますが,戦中戦後の困難 な時期を乗り越え,嚇々たる学問業績を上げられた氏を 想うとき,これも一理あるかと思います.

奥様はじめご家族の皆様には心の支えでおられた方を 失われた寂寥に迫られていることとお察し申し上げま す.くれぐれも良き思い出を抱かれ,お健やかに過ごさ れますよう心から願っております.

(山本 出)

付記

野村氏の研究遍歴については下記に詳しい.

M. Nomura : Journey of a Molecular Biologist,  , 80, 16‒40 (2011).

栄誉

1969  Elected  member,  American  Academy  of  Arts  and  Sci- ences.

1971  National Academy of Sciences Award in Molecular Biol- ogy

1972  Japanese Academy of Sciences Award 1973  Y. D. Mattia Award, Roche Institute

1977  Foreign  member,  Royal  Danish  Academy  of  Sciences  and Letters

1978  Elected member, National Academy of Science

1979  Fellow,  American  Association  of  the  Advancement  of  Science

1989  Foreign  member,  Royal  Netherlands  Academy  of  Arts  and Sciences

1994  Honorary member, Japanese Biochemical Society 1996  Honorary degree, Doctor of Science, Purdue University 1996  Honorary  member,  Japan  Society  for  Bioscience,  Bio-

technology and Agrochemistry

1997  Fellow, American Academy of Microbiology

2001  Distinguished Faculty Lectureship Award for Research,  University of California, Irvine

2002  Abbott-ASM  Lifetime  Achievement  Award,  American  Society for Microbiology Athalie Clark Award

Referensi

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