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1 問題の所在:台頭する中国と既存の国際レジーム―「適応」か

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1

問題の所在:台頭する中国と既存の国際レジーム―「適応」か、「衝突」か

アメリカを中心とした今日の世界で、パワー・トランジッション(勢力交代)に関する議 論の焦点となっているのは中国の経済的、政治的台頭の問題である(1)。中国の経済的台頭を 最初に予測したのは、『エコノミスト』誌

1992

年11月

28

日号の記事で、1991年から

20

年間 で中国経済が世界最大となるというものだった。この予測は外れたし、中国の経済成長は 技術革新がなければこのままのペースでは進まないとするポール・クルーグマンの反論や、

レスター・ブラウンの将来の食糧需給についての問題も提起された。また、中国には国内 の社会安定の問題もある。だが、2008年になるとアイケンベリーのように、中国は

2030

年 になっても国防費ではアメリカを抜けないが、2020年には国内総生産(GDP)でアメリカを 抜くと、その経済的台頭を是認し、「ドイツが戦争を起こした帝国主義の時代と異なり、現 在の西側の体制は非差別的な規則・規範・市場開放に基づいており、その指導は政府間の 連合によるし、体制は深く広範である。だから中国の台頭によるパワー・トランジッショ ンの際の戦争は起こりにくく、中国は国際通貨基金(IMF)や世界貿易機関(WTO)などの 既存の国際経済レジームに適応するだろう」とする議論や、バーグステンのように「中国 は、過小評価されている人民元や、アジア通貨基金(AMF)を作るかもしれないなどの問題 はあるが、アメリカと共に対等の

“G2”

を形成していくべきだ」とする議論など、平和的な パワー・トランジッションを前提とした「中国歓迎論」が出てくる(2)

一方、ハンチントンは、1993年以降、一連の「文明の衝突」論で、西欧文明の下にある アメリカと、中華文明の下にある中国は相容れず、東アジアで覇権を求める中国は地域諸 国にその指導に従うことを求め、アメリカと衝突する可能性があると、アメリカと同盟関 係になく安全保障協力関係が弱い中国の政治的台頭を警告した(3)。さらに、バーンスタイン とマンローは、中国の政治犯の人権問題と最恵国待遇、不公平な貿易慣行などの経済問題、

知的所有権侵害を中心に、クリントン米政権の対中政策を批判した(4)。また、2009年になる とエコノミーとシーガルは、中国の食品の安全性や気候変動への取り組みの問題、ミサイ ルや潜水艦による台湾への圧力、人民元の交換レートや輸出補助金問題、南シナ海での米 海軍の哨戒機や音響測定艦の活動への妨害などを挙げ、「

“G2” は幻想だ」と述べたし、2010

年にはカプランが中国の海・陸における膨張的傾向に警鐘を鳴らしている(5)。これらは、い ずれもパワー・トランジッションが絡んだ「中国脅威論」である。

(2)

以上の議論をみてわかるのは、覇権国アメリカにおいてさえ、識者の間で中国の台頭に 対する評価は分かれているということである。では、東南アジア諸国連合(ASEAN)とその 加盟諸国の視点からみると、中国の台頭はこれまで東アジアの秩序にどのような影響を与 えたと映るのであろうか。また、今後、その秩序は、東アジアでアメリカに次ぐ地位にい た日本が中国へその地位を譲って、大きく変化する可能性があるのだろうか。この問題は、

中国が、たとえアイケンベリーの言う既存の国際レジームに適応した場合でも、国際レジ ーム全体でなく、東アジアの地域政策に独自色を出した場合、それがアメリカにとっては

「さざなみ」程度にしか感じられなくとも、小国ばかりのASEAN諸国にとっては「津波」

に感じられることもあるわけで、座視できない問題である。以下、これまで、IMFや

WTO

と、アメリカとの同盟や安全保障協力の基礎の上に、ASEANの会議外交を触媒として形成 されてきた東アジアの秩序との関連から、中国の動向を振り返り、今後の新秩序形成の可 能性について若干の考察を加えることとしたい。

2 ASEAN

の会議外交を触媒とする東アジアの地域秩序形成1991

2003

年)

ASEANは、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの 5

ヵ国の外 相会議(第

1

ASEAN

外相会議〔AMM〕)により

1967

年に結成され、1984年にブルネイ、

1995

年にベトナム、1997年にラオス、ミャンマー、1999年にカンボジアを加えて、2011年 現在10ヵ国体制である(6)。ASEANは、全会一致を旨とする独特の会議外交によって運営さ れており、冷戦末期以降、アジア太平洋地域の経済、安全保障協力のための協議の場を提 供する国際公共財として域外大国から認知され、注目を集めるようになった。筆者は、

ASEAN

の会議外交の特徴を、①全会一致の政策決定、②紛争当事者間の対話の維持、③域

外対話諸国との集団交渉、④必要に応じた国際会議の増設、⑤増設した国際会議の主催 権・議長権の全部または一部の把握、⑥閣僚級リトリートを含めた非公式協議、の6つに整 理しており、これをASEANレジームと呼んでいる(7)。ASEANレジームは、IMFや

WTOな

どの拘束力の強い、硬いレジームとは異なり、拘束力の弱い、軟らかいレジームである(8)

これを用いた会議外交には、AMMや1975年以来のASEAN経済閣僚会議(AEM)、1976年 以来のASEAN首脳会議などの

ASEAN域内の会議のほかに、域外対話諸国との間で 1979

年 以来の

ASEAN

拡大外相会議(PMC)全体会議、1989年以来のアジア太平洋経済協力会議

(APEC)、1994年以来の

ASEAN

地域フォーラム(ARF)、1996年以来のアジア欧州会合

(ASEM)、1997年以来の

ASEAN

3

(日中韓)首脳会議、2005年以来の東アジア首脳会議

(EAS)、2010年開始の

ASEAN

国防相会議+8(ADMM+

8〔日中韓、アメリカ、ロシア、イン

ド、オーストラリア、ニュージーランド〕)がある。すべての会議が

ASEAN

の意向に沿ってで きたわけではないが、東アジアの地域秩序形成のために重要な安全保障協力を協議する

ARF

などは、アメリカや日本のような大国ではなく、形式上

ASEAN

という小国の集団が

「主導権イニシアティヴ」をとって主催者を務めたことが、中国などの反発を買わずに会議が成立するうえ

で効果的であったとみられている(9)

ASEANの会議外交への中国の参加は、1991

年まで溯る(10)。この年、中国はソ連と共に、

(3)

AMM主催国マレーシアのゲストとして、外相会議開幕式に参加し、事実上の ASEAN

中国 外相会議が始まったからである。天児慧が指摘するように、中国外交は「米中ソの大三角」

のような大戦略を除けば、伝統的に二国間協議重視であり、ASEANの会議外交のような多 国間協議に踏み込むことは大きな変化であった(11)。その背景には、1989年

6

月の天安門事件 で人権問題を起こし、アメリカを中心とする西側から経済制裁をかけられ、国際的な孤立 状態にあったことがある。その打破のために人権問題を提起しない、小国の集団である

ASEANに接近したのである。これは ASEAN

側に、マレーシアのように

1990年末に、後に

東アジア経済会議(EAEC)と呼ばれるようになる構想を提起して、自国のペースで貿易自 由化を急ぐアメリカを牽制する勢力があったことも関連していた(対米関係が悪化していた 中国は、東アジア諸国全体の支持を得られず、最終的には実現しなかったEAEC構想の熱心な支持 者となる)(12)。また、中国自体として、冷戦後の世界は、経済のグローバル化と政治の多極 化が潮流である、という認識の変化があり、これも多国間協議への参加に繋がったと言わ れる(13)。いずれにせよ、ASEAN側からみると、安全保障分野で大きな影響力をもつアメリ カや、経済分野で大きな影響力をもつ日本に比べ、その影響力は限られていたし、天安門 事件直後に 小平が出したと言われる「韜光養晦」(能力を隠して実力を醸成せよ)の方針に 従う江沢民政権は、比較的低姿勢の外交を続けた(14)

中国は、1994年から

ARFに参加するが、その多国間協議への参加も基本的には「仲間外

れ」にならないためであり、消極的なものであった(15)。それは、天安門事件などで対立し たアメリカなどへの警戒心と共に、中国海軍が1988年3月にスプラトリー諸島周辺海域でベ トナム海軍と交戦し、ASEAN諸国との間でも南シナ海の石油などの海底資源と島礁の領有 をめぐる問題を抱えていたからである。逆に言うと、ASEAN側では、そのような状態でも 中国を、日米などと共に自らの会議外交に参加させられたことは大きな成果と感じた。こ のため、当時の

ASEAN

側の識者のなかには、インドネシアのユスフ・ワナンディのように

ARFの成立で自信をつけ、ASEAN

が将来のアジア太平洋地域で予想される日米中の間のさ まざまな摩擦の調整役を果たせるという見解をもつ者さえ現われたのである(16)

そして、1995年

2

月になると中国海軍がスプラトリー諸島のミスチーフ礁を占拠して建造 物を構築したことから、AMMが自制を求める声明を出し、ASEANとの対立が深まるが、

中国はさらに5月に地下核実験を実施して日本の反感も買い、6月にはアメリカが台湾の李 登輝総統の訪問を認めたため、対米関係も悪化した。このため、8月の

ARF

で孤立した中国 は懸案となっている南シナ海問題について、それまでの二国間協議にこだわる姿勢を変え、

ASEANとの多国間協議に応じてもよいと譲歩したのである

(17)。その後、ASEAN側は会議外 交の特徴の②に挙げた紛争当事者間の対話の維持と、③に挙げた集団交渉を用いて中国と 協議を重ね、1998年10月末の中国側のミスチーフ礁の建造物増築などはあったものの、最 終的に

2002

年のASEAN+

3首脳会議の一環である ASEAN

中国首脳会議で、「南シナ海の係 争当事者間の行動宣言」を取りまとめて、法的な強制力はないものの武力不行使を約束さ せ、2003年

10

月のASEAN中国首脳会議では、中国は、ASEANの加盟国がすべて加入して いる東南アジア友好協力条約(TAC)の、域外の最初の署名国となったのである。TACには

(4)

平和的紛争解決と内政不干渉原則が謳われており、中国のASEANへの友好的、平和的な姿 勢が条約への加入でより強く示されたと、ASEAN側では歓迎された。

以上は、安全保障分野での会議外交の「成功」だが、経済分野はどうか。冒頭に挙げた

1992

年の『エコノミスト』の中国経済の発展に関する予測記事が出た後、ASEAN側では外 資を吸収する中国と、中国に投資する

ASEAN諸国の華人実業家たちに対する「中国脅威論」

が現われたため、1993年の第

2

回世界華商大会でシンガポールのリー・クアンユー上級相

(当時)が、「ASEAN諸国の華人は、中国への一方的投資がエスニックな関係の悪化を招く 危険性を軽くみてはならない……ASEAN諸国のどの国であろうと中国との関係が悪くなれ ば、その国の華人の対中投資は国家に対する不忠の疑惑を受けることになろう」と警告し た(18)。だが、その後も華人実業家を中心としたASEAN諸国の対中経済関係の拡大は続く。

これは、第1表に示したとおりで、ASEANと中国の貿易総額をみると

1995年から 2008年

までの14年間で、14.4倍に膨れ上がっていることからもわかる。だが、これは一貫して

ASEAN側の入超であるし、後述するように 2007

年までは貿易総額は日米に比肩する金額で はなかった。また、投資関係を第

2

表からみると、1995年から2008年の

14

年間で投資は次 第に双方向になってきているが、中国からASEAN諸国への投資は、2000年以前はASEAN 事務局が統計を公表しなかったくらいで微々たるものである。2008年現在でも中国の対

ASEAN投資は少なく、ASEAN

側から中国への投資が常態的かつ圧倒的に多い。すなわち、

貿易でも投資でも、ASEAN側から中国へ金が出ていくほうが多いのである。こうした状況

第 1 表 ASEAN中国貿易統計(1995―2008年)

ASEAN輸出 6200.9 7474.1 9167.9 9202.6 9590.8 14178.9 14516.0 ASEAN輸入 7129.7 9217.6 13482.9 11211.5 12331.7 18137.0 17399.2 貿易総額 13330.6 16691.8 22650.8 20414.1 32315.9 31915.2 42759.8

1995

(出所) http://www.aseansec.org/publications/aseanstats08.pdf

1996 1997 1998 1999 2000 2001

ASEAN輸出 19547.5 29059.9 41351.8 52257.5 65010.2 77945.0 85556.5 ASEAN輸入 23212.2 30577.0 47714.2 61136.1 74951.0 93172.7 106976.6 貿易総額 42759.8 59637.0 89066.0 113393.6 139961.2 171117.7 192533.1 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008

(単位 100万米ドル)

第 2 表 ASEAN中国投資統計(1995―2008年)

中国の対ASEAN投資 −133.4 144.0

ASEANの対中投資 11047.9 7923.8 5561.8 3950.7 3135.8 3082.2 3288.5

1995

(出所) 中国の対ASEAN投資:ASEAN Statistical Yearbook 2008(www.aseansec.org/)、ASEANの対中投資:

『中国対外経済貿易年鑑』各年版(2000―2003年)、『中国商務年鑑』各年版(2004年)、中国商務部ホー ムページ(2005―2008 年:ASEAN5のみ)。

1996 1997 1998 1999 2000 2001

中国の対ASEAN投資 −71.9 186.6 735.0 537.7 1016.2 1226.9 1497.3 ASEANの対中投資 4460.5 6177.2 7395.1 2937.3 3033.8 3981.0 5105.6 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008

(単位 100万米ドル)

(5)

の下で、1997年

7

月以降のアジア通貨危機で東アジア諸国は不況に陥り、さらに

1997

年以 降、中国の

WTO

加入希望が実現に向かって動き出したため(中国の実際の

WTO加盟は 2001

年12月)、先進諸国の投資は今まで以上に中国へ向かい、ASEANにとって大きな挑戦となる ことは明らかであったし、中国が人民元を切り下げる可能性も出てきた(19)。経済分野での

「中国脅威論」が本格化したのである。

このとき日本は、経済的な苦境に陥ったインドネシア、マレーシア、タイなどのASEAN 諸国と韓国を救うべく、1997年

9月の日 ASEAN蔵相会議での ASEAN側からの求めに応じて AMF構想を提起し、それが IMF

やアメリカの賛同を得られないと、1998年

10

月に今度は

330億米ドル規模の資金支援を柱とする新宮沢構想を提起して、アメリカを含む先進 7

ヵ国

(G7)を説得し、2000年5月には通貨スワップ協定であるチェンマイ・イニシアティヴも主 導した(20)。だが、国際金融協力にまだ積極的でなかった中国は、1998年

12

月の時点では、

ASEAN中国首脳会議でも、胡錦濤国家副主席

(当時)が人民元の為替レートの維持を約束 し、財務次官・中央銀行副頭取級の臨時協議の提案をするぐらいがせいぜいだった(21)。し かし、1999年

5

月にアメリカを中心とした北大西洋条約機構(NATO)の空軍機による在ベ オグラード中国大使館誤爆事件が起きる。中国は、既述のように1998年10月末に再びミス チーフ礁で事件を起こしており、ASEAN側の印象は悪いし、アジア通貨危機対策でも日本 に水をあけられた。そして、この誤爆事件で対米関係も再び悪化した。

ARFや ASEAN+ 3

首脳会議などの会議外交の場で、アメリカや日本と張り合うことを考 えれば、主催者のASEAN諸国を味方につけておくほうがよい。これが、中国を安全保障分 野では既述の「南シナ海の係争当事者間の行動宣言」やTACの署名へ導いたが、経済分野 でも同様に対

ASEAN

関係の打開へ動くことにつながったと考えられる。2000年

11

月の

ASEAN+3

首脳会議に臨んだ中国の朱鎔基総理は、

ASEANと中国の間で自由貿易協定

(FTA)

の締結の可能性を探る共同研究の作業部会を立ち上げることを提案し、これが2002年11月 のASEAN中国包括的経済連携枠組協定に基づく

ASEAN

中国自由貿易地域(ACFTA:

2010

年までに完成を予定)の形成合意に繋がった。このACFTA計画で、中国は早期収穫計画を掲 げ、ASEAN諸国の農産物の買い付けに前向きな姿勢を示して、ASEAN側を喜ばせた。

そして、ASEAN自体は、2003年

10

月の第

9

回ASEAN首脳会議で、ASEAN安全保障共同 体(ASC:

2007

11

月の

ASEAN

首脳会議で

ASEAN

政治安全保障共同体〔APSC〕に改称)、

ASEAN経済共同体

(AEC)、ASEAN社会文化共同体(ASCC)の3つの柱からなる

ASEAN共

同体(AC)を設立することを宣言し、ARFや

ASEAN

+3プロセスを通じ、地域秩序を「主 導」する決意を示した。全体として、ASEAN諸国は、1991年から

2003年にかけて会議外交

を粘り強く使い、安全保障面でも経済面でも対中外交に成果を挙げたと言える。だが、こ れは、中国が日米との競合関係において不利であると感じ、形式上のものにせよ、会議外 交の主催者としての「ASEANの主導権

イニシアティヴ

」を重視する限りにおいてのものでもあった。2002 年11月に成立した胡錦濤政権は、「与隣爲善、以隣爲伴」(近隣諸国との善隣外交)政策を打 ち出す一方で、国家戦略のスローガンとして「中華民族の偉大な復興」を、また2003年か ら2004年にかけての一時期は「和平崛起」(平和的台頭)を掲げ、大国意識を表に出すよう

(6)

になっていく(22)。さらに、2001年

4月の海南島への米偵察機の強制着陸事件や、同年 9

月の 同時多発テロ(9・11事件)を受けた

10月のアメリカを中心とする多国籍軍のアフガニスタ

ン侵攻、2003年

3

月のイラクへの侵攻によって、中国の対米脅威感は高まり、対日関係も

2001

年から2006年まで小泉純一郎総理の靖国神社参拝の継続で悪化していく(23)。中国は次 第に大国意識を前面に出すようになり、日米との対立も高まるなかで、自国の外交のため にASEANをより積極的に利用しようとし始める。以上のような経緯から考えると、2003年 は中国外交にとっても、ASEANにとっても転換点であった。

3

中国の台頭 と

ASEAN

の焦慮(2004

2010年)

ASEAN

諸国は、2004年

11

月の第

10

ASEAN

首脳会議でASCを

2020

年までに設立する

ASEAN安全保障共同体行動計画を提示し、2005年 12

月の第

11

ASEAN首脳会議で AC

の 形成を促進するためのASEAN憲章の必要性を提起し、2007年

1

月の第

12回 ASEAN

首脳会 議の議長声明でAC全体の設立を

2015

年に前倒しし、同年11月の第

13回ASEAN

首脳会議で 憲章に署名した。ASEANは、1976年の第

1

回首脳会議で締結されたTACの第12条で、将来 の目標としての東南アジアの共同体形成を謳ったことはあるが、1967年の結成から

2003

年 のASCを含む

AC

構想の提起まで

36年間、自らの共同体形成のための具体的な日程表や計

画を示したことはなかった。それは、ASEAN域内諸国の間で、民主化の度合いや貧富の差 などの多様性があり、1995年以降の加盟国の増加でそれがさらに拡大したこと、また、隣 国同士が領土・領海紛争を抱えている場合が多く、経済分野でも安全保障分野でも共同体 の形成が現実的とはとても考えられなかったからである。2003年以降の、AC構想の提起と その形成のための政策展開の急進ぶりは異常であった。

どうして、ASEANはこんな大変なことを始めたのか。ASEAN側の識者の指摘によると、

AC

構想が提起され、その形成が急がれたきっかけは、アジア通貨危機や9・11以降の国際 テロを中心とした非伝統的安全保障問題の台頭と、域外大国、特に日本と中国からの東ア ジア共同体(EAC)構想の提起、の

2つであったという

(24)。確かに前者は、ASEANだけでな く、日本を含むすべての東アジア諸国に対処の必要性を認識させた。だが、これは会議外 交における「ASEANの主導権イニシアティヴ」を脅かすものではない。「主導権イニシアティヴ」を脅かして、ASEAN側 に自らの足腰を強化せねば域外大国に翻弄されると考えさせ、現実性がないACの形成を模 索させたのは後者であった。EAC構想は、元をたどれば、EAEC構想まで溯るのであるが、

こちらは既述のように実現しなかった。だが、アジア通貨危機後、WTO交渉の進捗が思わ しくなく、世界各国に

FTA

などの経済地域主義へ向かう趨勢が現われたことを背景に、日 本なども経済連携協定(EPA)に取り組み始め、1999年11月の第3回

ASEAN+ 3首脳会議で

のフィリピンのジョセフ・エストラダ大統領の「東アジア共同体」構想に続いて、2002年1 月に小泉総理がシンガポールで東アジアに「共に歩み共に進むコミュニティ」の構築を提 唱したことから、この構想が再度外交課題として登場してくる。日本の提案は、主に日系 企業の東アジアにおける生産活動の円滑化を狙った経済的動機に基づくものであった。だ が、1999年

5

月の在ベオグラード中国大使館誤爆事件以来、対米脅威感が強まった中国は、

(7)

アメリカを排除した自らの地域圏を構築しようと、2004年以降、国を挙げて「東亜共同体」

の形成に努力した(25)。こちらは経済を利用しているが、政治的動機に基づくものであった。

さらに、中国には、靖国参拝をやめない小泉総理への反感もあったと考えられる。

ASEAN諸国は、その「主導」する会議外交で、2005

年にASEAN+

3首脳会議を発展的に

解消し、それを進化させた最初のEASを開催し、将来は漸進的な

ASEAN

のペースで

EACの

形成に向かうはずだった。だが、親米の日本と反米の中国は、ASEAN加盟諸国を巻き込ん で、EASへの参加国の範囲や、EASとASEAN+3のあり方について張り合った。結果的に、

EASは日本の主導でオーストラリアやニュージーランド、インドを加え、地理的な東アジア

の概念を大きく超える形となり、ASEAN+

3

首脳会議は、EASで主導権をとれなかった中 国の意向で解消されないことになった。双方の会議は並立し、別々の議長声明で重複する 内容を謳い、さらにこれも同じような東アジアの平和と繁栄を謳った「クアラルンプール 宣言」を出したのである。日米に反発し、かつ大国としての自信をもち始めた中国は妥協 せず、「ASEANの主導権イニシアティヴ」は半ば無視された。このため、かつて、将来のアジア太平洋地域 で日米中の間の摩擦の調整役を果たせるとさえ考えたASEAN側の目論見は、脆くも崩れた のであった。

さらに、自らが中心となる地域秩序を模索する中国の自己主張は、安全保障分野でもはっ きりしてくる。中国政府首脳は、

2004年 9月に訪中したフィリピンのアロヨ大統領

(当時)に スプラトリー諸島周辺海域での合同石油探査をもちかけ、成功しなかったが、最終的に

2005

3

月から2007年

7

月まで中国、フィリピン、ベトナムの

3

ヵ国で合同探査を行なった(26)。 また、中国は、人民解放軍に2005年

8月と2007

年8月の2回にわたって、ロシア軍と、(国内 の分離主義者や台湾独立派を意識した)非伝統的安全保障問題をテーマとする「平和の使命」

合同軍事演習を実施させ、さらに2005年

11月から 12月にかけて、初めて海外でパキスタン、

インド、タイと、個別の二国間合同海軍演習を行なわせた(27)。そして、2007年には、中国 海軍幹部が、訪中したアメリカのティモシー・J・キーティング太平洋軍司令官に、ハワイ を基点として、米中で太平洋を「分割管理」しようという構想を示している(28)

アメリカでは冒頭で述べたように2008年に

“G2” 論が出てくるが、それに呼応するかのよ

うに中国の南シナ海紛争への対応も高圧的になっていく。2009年になると、中国の薛捍勤

ASEAN担当大使

(当時)はシンガポールでの講演で、「ASEANは域内の紛争解決メカニズ ムであるTACが定めた高等評議会を、自らの問題に使ったことがない。紛争は皆二国間交 渉で処理されている。スプラトリー諸島の問題も中国と係争諸国の(個別の)二国間交渉で 解決されるべきだ」と述べて多国間協議からの退出の意向を示し、さらに中国外交部高官 が2010年

3月に訪中したオバマ米政権の高官に「南シナ海は今や中国の核心的利益になった」

と述べて、アメリカの介入を牽制した(29)。その後、南シナ海や東シナ海、太平洋の一部で は、中国海軍や中国の海上保安機関の艦船の演習や調査が活発になっている。

最後に少し数字をみてみよう。中国の国防予算は、2007年の時点で

461

億米ドルとなり、

アメリカの

5359億米ドルには遠く及ばないが、日本の410

億米ドルを抜いた(ASEAN諸国の 国防予算は、ブルネイ、カンボジア、ラオスを抜いたASEAN7で

266億米ドルにしかならない)

(30)

(8)

また、中国は2008年

12月に航空母艦の建造計画も明らかにしている

(31)

近年のASEANと日米中の貿易・投資については、対

ASEAN投資額に関しては、2008年

の段階で、日本は76億

5360万米ドル、アメリカは 33

9250万米ドルで、中国の14

9730

万米ドルを凌駕している(32)。そして、対

ASEAN

貿易に関しては、2008年の段階で日本の貿 易総額は、2119億

8820万米ドルとなっており、中国の貿易総額 1925

3310万米ドルよりま

だ10%多いが、アメリカの貿易総額はこの年、1811億

9330

万米ドルで初めて中国に抜かれ ている。既述のように、ASEANの対中貿易は、ASEAN側の赤字続きであり、ACFTAが発

効した

2010年以降もそれは変わらず、インドネシア、フィリピン、タイ、ベトナムなどで、

安価な中国製品に太刀打ちできない製造業者たちが悲鳴をあげているが、その一方で

2000

年以降は第

2

表に示したように、中国側から一部の

ASEAN

諸国などへの供給連鎖(SCM)

関連の投資も始まり、インドネシアなどは2000年から

2009

年まででジャワ島のスラバヤと マドゥラ島の間の橋梁建設を含む

180億米ドル相当の借款と 180万米ドルの贈与も受け取っ

ている(33)。ASEANへの安全保障、および経済の双方の分野での影響力において、日米中の 間のパワー・トランジッションが始まっている印象がある。

4

新秩序形成の可能性

本稿の冒頭で、中国が既存の国際秩序に「適応」するか「衝突」するか、というアメリ カでの議論を紹介した。向こう

20

年ぐらいの期間で、中国の台頭による東アジアのパワ ー・トランジッションは、現在のASEANの会議外交を触媒とする東アジアの地域秩序をど う変えるだろうか。第1に言えることは、中国は現在のアメリカのように経済・安全保障双 方の分野で完全に世界の頂点に立つことはこの期間にはできないだろうということである。

軍事安全保障分野でのアメリカの優位は動かない。第2にアイケンベリーが言うとおり、経 済分野では既存の体制は非差別的な規則・規範・市場開放に基づいており、さらにその指 導は政府間の連合によるものなので、これを壊すのは容易でない。壊すより、それに適応 したほうが利益が多いことがわかる。中台関係が極端に悪化し、それに連動して米中が戦 争でも始めない限り、ハンチントンの言う全面的な「衝突」のシナリオは起こりにくい。

だが、東アジアをみると、NATOのような堅固な安全保障枠組みはない。そうなると中国 は、WTOやIMFの国際レジームは尊重し、日本が貿易・投資などの経済分野での実力と対 米同盟を維持すれば、日本の存在もそれなりに尊重するだろうが、南シナ海紛争や台湾問 題のような中国の主権の絡む問題に日米が介入することには、より強く反発するようにな るだろう(尖閣列島問題も過熱するかもしれない)。そのような口出しの機会を提供する

ARF

やEASの会議外交における比重は、中国の台頭が進むと低下するかもしれない。ASEANそ のものについては、10ヵ国体制で、堅固な共同体の形成は困難だが、なくなりもしないと 考えられる(東ティモールの加盟の可能性はある)。ASEAN統合(共同体論)をめぐっては、

経済発展段階をめぐる二層化(ASEAN6〔ブルネイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、

シンガポール、タイ〕と

CLMV〔カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナム〕

)と、政治統合 をめぐる二分化(民主化や

TACの内政不干渉原則の見直しなどをめぐるインドネシア・フィリピ

(9)

ンと、シンガポール・タイ・ベトナム・ミャンマーの対立)があるうえ、南シナ海紛争に関し

ては

ASEAN域内に、反中のフィリピン・ベトナムと、親中のタイの立場の差もある。だが、

会議外交の場という国際公共財を提供し、域外大国から集団交渉で譲歩を引き出し、形式 上の「主導権イニシアティヴ」で国際社会へ存在感を示す、というその機能の維持については域内に異論 はない。また、一枚岩でないことは、逆に域外諸大国に対しては「公平」に振る舞えるこ とにも繋がる。そう考えると、ASEANの会議外交は継続する。そして、アメリカのアジア 地域への関心の高低、日中の経済・安全保障双方での勢力交代の速度が、その会議外交を 触媒とする東アジアの秩序のあり方を決める鍵になること、また変化の中心は、堅固な枠 組みのない安全保障分野であることがわかる。

これを手掛かりに、今後の東アジアの秩序で可能性のあるモデルを考えれば、第1は、食 糧供給や技術革新、社会安定の問題から中国の台頭にブレーキがかかり、日本がアメリカ に次ぐ第

2

位の地位を維持する現状維持モデルである。これは、日本としては望ましいが、

東日本大震災の影響も残る日本が、単独で長期的に政府開発援助(ODA)や貿易・投資で、

ASEAN諸国の期待に応え続けることは難しいかもしれない。第 2

は、現状に近い安全保障 分野を中心とした、アメリカ主導の会議外交モデルである。アメリカの東アジアへの関心 が高く、日本が経済・安全保障の双方の分野で健闘して、日中の勢力交代の速度が緩慢な 場合である。

この場合、日本の役割は、米・中とASEANの調整役となる。台頭する中国との摩擦を軽 減するため、日米中首脳会議を中心にした新たなASEAN+

3

首脳会議が必要になろう。日 本は、防衛予算の制限から装備拡充は難しいものの、その分、日米同盟により積極的に関 与することを、ASEANを含む周辺諸国から期待されるだろう。地域の軍事安全保障に関与 するため、非伝統的安全保障問題を利用した軍事行動の拡大や、集団的自衛権の行使、武 器輸出3原則を含めた安全保障政策の再考が必要となる。中国の海洋進出に対応するため、

宮古水道周辺での日米合同海軍演習や、南シナ海の公海上での日米・オーストラリア・イ ンド4ヵ国や、アメリカとASEAN諸国などとの合同海軍演習(34)が必要だし、日本には、接 続水域、排他的経済水域(EEZ)での外国艦船への取り締まりのための国内法令の整備も求 められる。

また、海洋部と朝鮮半島を中心とした東アジア地域全体の安全保障の確保のために、ARF やADMM+

8

などの会議外交に、軍・海上保安機関関係者の参加をどう担保するか、が課 題となる。後者に関しては、2000年以来のアジア海上保安機関長官級会合の重要性が高ま るかもしれない。なお、会議外交全体ではアメリカの都合で会議日程の合併(APECの際に

EASを並行開催するなど)

もありうるし、ARFがAPEC同様、域外諸国と

ASEAN

側の隔年交 代の議長制になるかもしれない。EASは、環太平洋パートナーシップ(TPP)を協議する

APECとの役割分担で、域外のアメリカを含めた東アジアの EPA

やFTAの構造の強化と、そ れによる

WTOの補強を目指すことになるだろう。日本は、アジア開発銀行

(ADB)の活動 を通じて、大メコン河流域(GMS)首脳会議にも積極的にアプローチするべきである。いず れにせよ、このモデルの成否は、ASEANがARFや

ADMM+ 8

とEASに、アメリカを常に引

(10)

きつけていられるかどうかにかかっている(35)。ASEANを支援する日本は、EASに常にアメ リカが参加することを働きかける必要がある。

第3は、中国中心の会議外交モデルである。中東情勢が恒常的に不安定になるなどの理由 で、アメリカの安全保障分野を中心とした東アジアへの関与が低下する、あるいは朝鮮半 島の非核化をめぐる交渉の行き詰まりや北朝鮮の崩壊で、アメリカにとって対中関係が重 視されるようになり、東アジア地域での中国の発言力が強まる、そして日中の勢力交代の 速度が迅速で、経済的に余裕がなく憲法上の制約に囚われる日本が、安全保障政策の再考 もしない、という場合にこれが出てくる。まず、中国の意向で複数ある会議外交の場での 議題の制限が起こり、次に中国の閣僚の欠席などでそれらの会議の間の重心が変化し、過 剰な数になっている会議外交の場の削減が起こる。中国は、ARF、ADMM+8、ASEAN中 国首脳会議、EASなどより、アメリカとの二国間協議、ASEAN諸国との二国間協議、

ASEAN+ 3

(日中韓)首脳会議、GMS首脳会議、上海協力機構(SCO)などの重視へ動くだ ろう。

また極端な場合、中国が二国間協議重視で首脳会議を除き、ARFや

ASEAN+ 3

などのい くつかの閣僚会議の場が

PMC

全体会議ひとつにまとめられてしまうこと(会議外交の退行)

も起こりうる。複数の会議がひとつにまとめられてしまえば、当然ひとつの議題にかけら れる時間は限られてくるから、南シナ海紛争などの討議は進まなくなる。経済分野では、

中国と東アジア諸国の二国間

FTA

の拡大が進み、中国とアメリカの関係が悪化した場合、

ASEAN

3を中心とした EAC構想の再構成の可能性も出てくる。そして、南シナ海、東シ

ナ海では、中国海軍と海上保安機関の進出がエスカレートし、スプラトリー諸島などの新 たな島礁の占拠や、中国政府の一方的な禁漁海域・期間の設定と軍事演習の実施、違法な 臨検、などが行なわれるようになる。そして、アメリカ主導の会議外交モデルから中国主 導の会議外交モデルへの移行期には、南シナ海での米中、あるいはASEAN諸国と中国の間 の、海軍や海上保安機関同士の衝突が起こる危険性も高まるだろう。

第4は、疑似中華秩序モデルである。第

3

のモデルが形成されて時間が経つと、中国の影 響力がさらに顕在化し、会議外交への参加に消極的になる可能性がある。また、ASEAN域 内で2008、2009年のタイのように議長国でありながら内政問題で

ASEAN

首脳会議を開催で きなくなったり、ミャンマーのように人権問題で域外諸国から疎まれている国が議長国に なって域外諸国の会議外交への参加が確保できない場合も出てくるかもしれない。これら の要因が重なると、国際公共財としてのASEANの会議外交は次第に顧みられなくなる。東 アジア地域では、中国と他の諸国の二国間協議へ外交の重点が移り、アメリカは、東アジ ア地域の問題は中国と協議すればよいという認識に変わってくるかもしれない。

こうなると、東アジアに限定された形で、前近代の中華秩序に近いモデルが実現する可 能性が出てくる。天児慧は、中華秩序について、皇帝を中心とした「文化」(儒教思想)に 基づく、①円錐型、同心円型に広がる権威主義的階層型秩序と、②秩序形成における非法 制性と主体の重層性、をその特徴として挙げている(36)。このような中国流の「文化」主義が、

21世紀の東アジアの地域秩序の普遍的ルールになるのは無理があるが、中国が 2005

年以降、

(11)

アメリカを中心とした先進諸国とは異なる「和諧世界」(和して同ぜず)の実現も求めている ことを考えると、遠い将来の極端な事象の可能性としては、西側の人権意識や、国際法の 規制の弱い中国中心の枠組みが志向されることを、まったく排除することもできない(37)。 南シナ海は、具体的な制度によらず、実質的に中国の支配下におかれるかもしれない。

以上が、中国の台頭によって起こりうる、今後の東アジア地域の秩序の4つの典型的な形 態である。現状維持モデルの長期的な持続性と、疑似中華秩序モデルの当面の実現性は低 いとみてよい。現実には、これからの東アジアの地域秩序は、日米中の影響力と関与の変 化によって、現状維持モデルから、中国中心の会議外交モデルまでの間を、振り子のよう に行きつ戻りつする形態になるだろう。このほか、紙数の関係で議論できなかったが、貿 易・投資などの経済面でASEANにとって重要な欧州連合(EU)の東アジア地域へのかかわ り方や、ロシアの関与も、地域秩序のあり方に何らかのインパクトを与える要素となるこ とが考えられる。日本は、東アジアの秩序形成における中国の影響力を抑えるために、対 ロ関係の再考や

SCO諸国との関係の促進を考慮する必要が出てくるかもしれないし、イン

ドをもっと東アジアに引き込む努力も必要になる。いずれにせよ、東アジアでは日米中の 対立と協調の波の起伏が続き、小国の集団である

ASEANの懸念と困難は続くだろう。

1) 本稿の構想を得るにあたって、山本吉宣「アジア太平洋の安全保障アーキテクチャー:2030 へのシナリオ」(山影進主査『アジア太平洋地域における各種統合の長期的な展望と日本の外交』

報告書、日本国際問題研究所、2011年3月、111―135ページ)、天児慧・三船恵美編『膨張する中 国の対外関係―パクス・シニカと周辺国』(勁草書房、2010年)所収の各論文から、示唆と刺激 を受けた。

2 G. John Ikenberry, “The Rise of China and the Future of the West,” Foreign Affairs, January/February 2008, Vol. 87, No. 1, pp. 23–37; C. Fred Bergsten, “A Partnership of Equals,” Foreign Affairs, July/August 2008, Vol.

87, No. 4, pp. 57–69. G2(A Group of two comprising China and the United States)という表現は後述する エコノミーやブレジンスキーも使っている。Elizabeth C. Economy & Adam Segal, “The G-2 Mirage:

Why the United States and China are not Ready to Upgrade Ties,” Foreign Affairs, May/June 2009, Vol. 88, No.

3, pp. 14–23; Zbigniew Brzezinski, “The Group of Two that could change the world,” Financial Times, 13 January 2009.

3 Sumuel P. Huntington, “The Clash of Civilizations?” Foreign Affairs, Summer 1993, Vol. 72, No. 3, pp.

22–49; Sumuel P. Huntington, The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, London:

Touchstone Books, 1997, pp. 230–231; サミュエル・ハンチントン『文明の衝突と21世紀の日本』、集 英社新書、2000年、149―159ページ。

4 Richard Bernstein & Ross H. Munro, The Coming Conflict with China, Vintage Books, 1998(本書の初版は 1997年にAlfred A. Knopf, Inc. より刊行)

5 Elizabeth C. Economy & Adam Segal, op. cit., pp. 14–23; Robert Kaplan, “The Geography of Chinese Power,” Foreign Affairs, May/June 2010, Vol. 89, No. 3, pp. 22–41.

6 ASEANについては、岡部達味編『ASEANをめぐる国際関係』(日本国際問題研究所、1977年)

ASEAN事務局ホームページ(http://www.aseansec.org/)を参照。

7 ASEANレジームについて、Koichi Sato, “The ASEAN Regime: Its Implications for East Asia Cooperation—A Japanese View”(Tamio Nakamura, ed., The Dynamics of East Asian Regionalism in Comparative Perspective, Institute of Social Science, University of Tokyo, 2007, pp. 19–30);佐藤考一『「中

(12)

国脅威論」とASEAN諸国(博士論文)(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科、2009年)等を参 照。

8) 軟らかいレジームについて、山本吉宣「協調的安全保障の可能性―基礎的な考察」『国際問 題』1995年8月号、2―20ページ)を参照。

9) 岡部達味「アジア太平洋のなかの日本」、同編『ポスト冷戦のアジア太平洋』、日本国際問題研究 所、1995年、13―14ページ。

(10) ASEAN-China Documents Series 1991–2005, ASEAN Secretariat, October 2006, pp. 1–3; Straits Times, 20 July 1991; Sunday Times, 21 July 1991.

(11) 天児慧「新国際秩序構想と東アジア共同体論―中国の視点と日本の役割」『国際問題』2005

1月号、32ページ。

(12) 1990年12月のマレーシア訪問時に、マハティール首相からEAEC構想の原型の「アジア太平洋 の貿易ブロック」構想を提示された当時の中国の李鵬総理は、「マレーシアを含むASEANとの友 好協力関係を発展させることは中国の確固とした不動の方針である」と、間接的な表現ながら賛 意を示している。New Straits Times, 11 December 1990;『人民日報』1991年12月12日。

(13) 高原明生「中国の多角外交―新安全保障観の唱道と周辺外交の新展開」『国際問題』2004年2 月号、17―30ページ。

(14) 韜光養晦について、たとえば、天児・三船編、前掲『膨張する中国の対外関係』 、2010年、17 ページ。

(15) 木誠一郎「中国とアジア・太平洋の多国間安全保障協力」『国際問題』19971月号、53―67 ページ。

(16) Jusuf Wanandi, “US-Japan and China Relations in the Asia Pacific,” The Indonesian Quarterly, XXII/4, 1994, pp. 367–377.

(17) Far Eastern Economic Review, 10 August 1995, pp. 14–16.

(18) Speech by Senior Minister Mr. Lee Kuan Yew at the Second World Chinese Entrepreneurs Convention on 22 November 1993 in Hong Kong,(http://stars.nhb.gov.sg/stars/public/, 10 September 2008 accessed).

(19) Straits Times, 24 August 1998; Straits Times, 2 December 1999.

(20) 大橋英夫「域外大国とASEAN―経済危機支援問題を中心に」『国際問題』1999年7月号、17―

30ページ;梶川光俊「ASEAN+3財務大臣会議」『ファイナンス』2001年6月号、17―19ページ。

(21) Straits Times, 16 & 17 December 1998;『東南アジア月報』1998年12月号、169―170ページ。

(22) 天児慧、前掲「新国際秩序構想と東アジア共同体論」、27―41ページ; 木誠一郎「中国『和平 崛起』論の現段階」『国際問題』2005年3月号、31―45ページ。

(23) 天児慧、前掲「新国際秩序構想と東アジア共同体論」、31ページ;飯島勲『実録小泉外交』、日 本経済新聞出版社、2007年、37―38ページ;千々和泰明・佐々木葉月・田口千紗「小泉純一郎首相 の靖国神社参拝問題」『国際公共政策研究』第12巻第2号(2007年)、145―159ページ。

(24) Alexandra Retno Wulan & Bantarto Bandoro, eds., ASEAN’s Quest for a Full-Fledged Community, Centre for Strategic and International Studies, 2007, pp. 1–20; Carolina G. Hernandez, “The ASEAN Charter and the Building of an ASEAN Security Community,” Indonesian Quarterly, Vol. 36, No. 3–4, pp. 296–311, および、

筆者のシンガポールのASEAN戦略国際問題研究所連合(ASEAN ISIS)関係者からのヒアリングに よる。

(25) 天児慧、前掲「新国際秩序構想と東アジア共同体論」、27―41ページ。

(26) Straits Times, 2 September 2004; Philippine Daily Inquirer, 11 July 2008.

(27) これらの演習は、中国が近代戦の能力を身に付けつつあることを、東アジア諸国に誇示するもの でもあった。『解放軍画報』2005年第10期、1―45ページ;『解放軍画報』2007年9月上半月期、1―

45ページ;『当代海軍』2006年2月号、4―13ページ。

(13)

(28) Donna Miles, “China Requires Close Eye as it Expands Influence, Capability”(http://www.defenselink.mil/

utility/printitem.aspx?print=http://www.defenselink.mil, 16 March 2008 accessed).

(29) Xue Hanqin, China-ASEAN Cooperation: A Model of Good-Neighbourliness and Friendly Cooperation, Institute of Southeast Asian Studies, 19 November 2009; New York Times, 23 April 2010.

(30) 2007年の中国の国防費は非公表のものも入れると1219億米ドルである。The Military Balance 2009,

International Institute of Strategic Studies, 2009, pp. 381, 391; 財団法人ディフェンス・リサーチセンター

『国際軍事データ2008―2009』、朝雲新聞社、76ページ。

(31) 邵永霊『海洋戦国策』、北京:石油工業出版社、2010年、223―227ページ。

(32) http://www.aseansec.org/publications/aseanstats0.8.pdf, 17 June 2011 accessed.

(33) Jakarta Post, 27 April 2010; Nation, 13 May 2011.

(34) これは、中国の接近・領域拒否(A2AD: Anti-Access, Area Denial)戦略が無効であることを中国側 に示す効果がある。すでに一部が実施されつつあり、中国側は反発している。八木直人「エアシ ー・バトルの背景」『海幹校戦略研究』第1巻第1号(2011年5月)、4―22ページ;Senior Chinese, US military officers hold talks amid tensions over South China Sea(http://eng.mod.gov.cn/DefenseNews/2011- 07/12/content_4251269.htm, 12 July 2011 accessed).

(35) 2009年に、シンガポールのリー・クアンユー顧問相(当時)が、東アジア共同体構想からアメ リカを排除することへの懸念を表明したのは、この点と重なる議論である。Speech by Mr. Lee Kuan Yew, Minister Mentor, at US-ASEAN Business Council’s 25th Anniversary Gala Dinner, 27 October 2009, Washington, DC.

(36) 天児・三船編、前掲『膨張する中国の対外関係』、49―50ページ。

(37)「和諧世界」(http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news/xinhuanet.com/ziliao/2006-08/24/content_5, 10 July

2011 accessed). あるマレーシアの研究者は、こうした中国の台頭に対して、「我々は叩頭外交

(koutou diplomacy:中国へのバンドワゴニングを指す)で応じるしかない」と述べたことがある。

2006年8月28日の筆者のクアラ・ルンプルにおけるヒアリングによる。

さとう・こういち 桜美林大学教授

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