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3候補を抑えて新大統領に決

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(1)

はじめに

2008

3月 2

日、ロシア連邦における大統領選挙が実施され、統一ロシア党など

4

党の推 薦を受けた42歳のドミトリー・メドベージェフ候補が、野党の

3候補を抑えて新大統領に決

まった。正確にはメドベージェフ候補への支持は

70.28%、5253万 7012票であった

(1)

前回プーチン大統領への投票は2004年の再選時に

71.1%

であるので、今回若干は低いも ののあまり変わらない。対抗馬の共産党ジュガノフ党首は17.76%にあたる

1313万 1993

票、

自民党のジリノフスキー党首は9.37%の

693

万3405票、そして民主党のボグダノフは

1.29%、

95万6567

票となった(2)

新大統領メドベージェフは

2007年 12

月の下院選挙後に後継指名をうけてからわずか

3ヵ

月に満たないが、各種世論調査の結果や、あるいは

12

月下院議員選挙での統一ロシア党、

公正ロシア党といった与党系の得票である7割ともほぼ一致していた。1965年生まれ、事実 上ペレストロイカとソ連崩壊後に育った世代であるが、大統領として当選したことは、ロ シアが名実ともにソ連期の桎梏を完全に越えたことを示している。

ロシアはこうして憲法に従ってプーチン大統領は辞任し、代わる新しい指導者を選出し た。5月

7

日には就任式が行なわれたこの大統領の政治力をめぐっては、プーチンによる院 政論が話題となっている。2012年に再度大統領に復帰するという説も流れている。しかし よく考えれば、メドベージェフを傀儡とみたてる説はつじつまが合わない。この考え方だ けから後継人事を進めたとしたら2007年

9

月に首相に急浮上した66歳のズプコフを指名す れば、プーチン復権には容易であったからである。にもかかわらず、あえて42歳とプーチ ンより13歳も若い候補を後継者として指名したのである。この議論の変種としてプーチン 大統領3選論もあったものの的はずれであったことが証明された。憲法に従って権力を運営 するという自らの言明をプーチンは守ったことになる。

同様に2004年前後、ウクライナやグルジアでみられた民主化革命を期待したカシヤノフ 元首相や世界的チェスのチャンピオン、カスパロフらの選挙運動は、一部に当局の嫌がら せはあったとしても、ほとんど広がらなかった。それ以上に、1990年代の改革派はヤブリ ンスキーのヤブロコ党、チュバイス系の右派勢力同盟も含め凋落し、立候補すらできなか った。選挙は必ずしも民主的ではなかったが、すくなくとも公正ではある、といった評価 はおおむね正しいと言えよう。

(2)

いずれにしても前回のエリツィンによるプーチンの指名と権力継承とは異なって、前任 者プーチンが完全に政界を去るというのではなく、プーチンは首相として引き続き権力を 分掌することが大きな差異と言えよう。プーチンは2007年

9

月のバルダイ会議で、そして

10月、統一ロシア党リストに名を出して信任投票を行なったとき、大統領職にはとどまら

ないが政治の世界には残ると言明した。実際プーチンは

4月末に統一ロシア党党首ともなり、

新首相としての役割は大きいものがある(3)

こうしてプーチン、メドベージェフの二頭支配、権力分掌といったことが可能となった。

このような結果となった一つの理由は、ロシア憲法がもつやや曖昧な大統領と首相との権 力配分だ。現行の1993年ロシア連邦憲法は、ソ連憲法の一元的権力観を引きずった旧最高 会議系の議院内閣論と、執行権力を握ったエリツィンの強い大統領論との対抗のなかでで きた。ふたりの恩師でもあるソプチャークがこの論争のなかで中間派であったことも重要 かもしれない。その結果、政府をいかに統制するかの問題は不透明であって、強い権限を もつようになった大統領と政府との権限配分は必ずしも明確ではなかった。この大統領と 首相との曖昧さゆえに、政府にも大きな権限が残っている。1997年の政府法もこの延長線 上にある。したがって首相の実際の権限は大きくなかったものの、プーチンのような大物 政治家が首相となった場合、憲法改正なくとも外交・安全保障を含め大きな権限を行使す ることは可能である。

1

権力の継承と選挙

こうして三代目の大統領を選んだロシア連邦であるが、クレムリンにおける権力の継承 と民主化、選挙による権力の選択という問題をめぐっては多くの議論があった。クレムリ ン権力の継承という古くからの問題群と大統領制共和国を憲法に謳うロシアにおける大統 領選挙のあり方とは、それぞれ固有の問題状況がある。

ミハイル・ゴルバチョフが始めたソ連末期の政治改革、その民主化は、ソ連崩壊という 形で初代ロシア大統領エリツィンへ権力が移行する結果になった。エリツィン自身は、ソ 連の構成共和国であったロシアでの民主化直接選挙により、1991年6月、初の民選大統領に 選ばれた。しかし彼がクレムリンの主人となる過程では、周知のように

1991年 8月のクーデ

ターと12月のソ連崩壊というドラマがあった。これはマクロからみれば革命であるが、こ と権力の変動について言えば一種のクーデターに近かったとも言える。クレムリンに居座 るソ連大統領を放逐するために、エリツィンはソ連国家を解体したからである。

そのエリツィンは1993年にまだ最高会議との間で曖昧さがあった憲法改正を強行し、ロ シアは大統領共和国となった。1996年半ばには、とくにオリガルフ(新興財閥)の支持を得 て大統領に再選された。しかしその後の1998年の金融危機と自身の病気もあって

1999

年末 に突然後継者として指名したのは、当時首相としてチェチェン戦争処理に当たったウラジ ーミル・プーチンであった。あらかじめクレムリンの後継指名されたものが、大統領選挙 で当選するという人事のあり方を「選挙君主制」だと喝破したのは、ロシアの政治学者リ リヤ・シュエフツォバだった(4)
(3)

その意味ではそれから8年後、大統領プーチンによって彼の後継者として指名され、3月

2日の選挙で大統領となったドミトリー・アナトーリエビッチ・メドベージェフもまったく

同じ経緯で選ばれたと言えよう。両者の選択手続きに違いがあるとすれば、プーチンが、

無制限の権力を想定したクレムリンでの権力の論理ではなく、憲法が規定した3選禁止とい う法の優位でもって行動したことだ。法学部出身のプーチンが遵法精神のみからこの選択 を行なったかどうかは不明だが、クレムリン権力も憲法という明文によって規制されるこ とがはっきりした。これはロシアの改革にとって大きな進歩である。

これらの変動はいずれも法的正統性をもつ制度の論理に従って機能している。ロシアの 政治では制度の役割が小さいという説があるが(オクサナ・アントネンコ氏)、これへの反論 になる。ゴルバチョフ、プーチン、そしてメドベージェフといったソ連末期以後の指導者 の多くがいずれも法学部出身であることが制度の政治学には重要だろう。ゴルバチョフは モスクワ大学法学部だが、プーチン、メドベージェフはともにレニングラード大で法律を 学んだ。ロシアの改革派潮流に「合法主義」というのがある。結果よければすべてよし、

といった考えが多いロシアで、法や手続きを重視する人たちだ。プーチンが今回、3選支持 の世論があったなかでもあえて憲法の規定に従って現職を退いたのは、この発想が背景に あろう。

プーチン自身は17年間協同したメドベージェフ新大統領とはウマが合うと語っているが、

同じ土地で育ち、同じ法学教育を身につけながらも、世代的には違う個性だ。同じ法律で も、プーチンの考える法とリベラル派のメドベージェフが学んだ法とはやや内容が異なる ようだ。前者は「法と秩序」といったイメージで政治を考え、周りの友人たちも将軍が多 い。ロシア語で「力(シーラ)」から転じて「シロビキ」と呼ばれる。

これに対しメドベージェフはペレストロイカが育てた世代だ。ロシアの春と言われた

1989年の最初の自由化選挙で恩師ソプチャークを担いで選挙運動をやった。その師に学び、

自ら教科書を書いたのは民法であって、ここでは契約関係が重要だ。民法は英語ではシビ ル・ローとなるが、メドベージェフ周辺の法律関係の友人たちはこれをもじって「シビリ キ」(CIVILIKI)と呼ばれているという(5)。もともとプーチンがサンクトペテルブルク副市長 であったころからの盟友であり、やや遅れて第1副首相となったシロビキ系のセルゲイ・イ ワノフとともに、トップランナーの有力候補として、テレビでも対外的にも最有力であっ た。それでも

2007年後半の保守的潮流が印象深かった政治のなかで、メドベージェフのよ

うなリベラルが指名されることはやや意外感をもたれたことも事実だ。インサイダーであ る『エクスペルト』誌までが、セルゲイ・イワノフを新候補に予想したほどである。その ような挿話はあったとしても、プーチンは2005年11月にはメドベージェフを第1副首相に 抜擢しており、順当な「後継者」でもあった。

それにしてもソ連時代を含めて、後継者がこれほど前任者と立場が近いようにみえるの は例がない。クレムリン権力という観点からみた場合、ソ連期の継承では、同じイデオロ ギーを信奉しているようにみえて、新しい指導者は前任者を批判することに急速に移行し ていくのが通例であったからである。これからのメドベージェフ/プーチン政権はこの二

(4)

つの「法」の理解が鍵かもしれない。とりあえずふたりが重視するのは腐敗との闘争、綱 紀粛正、そして人事の刷新だろう。民営化のかげで起きた腐敗、経済大国にのし上がった 過程で見逃された権力の乱用が対象だ。

2

ドミトリー・メドベージェフという個性

ドミトリー・メドベージェフの公的経歴は比較的知られている。ペレストロイカさなか の1989年にはレニングラード大(サンクトペテルブルク大と改称)法学部で働きながら、恩 師ソプチャークの市長選挙を助け、その後市長の補佐集団にも関与した。なかでも1991年6

月から

5年間、プーチン副市長兼対外連絡部長のもとで働いたことが決定的となった。1999

年12月末、大統領代行となったプーチンが行なった初めての人事が、メドベージェフを大 統領府副長官に抜擢することであったことが示しているように、両者の関係は当初から深 かった。翌年2月にはプーチン大統領の選挙対策本部の責任者となり、大統領就任直後プー チンは彼を大統領府の第

1副長官とした。ほぼ同時に世界的大企業ガスプロム社の会長とな

った。そして

2003

年10月、ユーコス事件のさなかに大統領府長官の地位を得た。2005年11

月には第

1副首相となっている

(6)。新大統領の私的側面はあまり知られていなかったが、選

挙用ホームページや、2008年2月に『イトギ』誌

8号でのインタビューを通じて個人的なプ

ロフィールも知られるようになった(7)

ドミトリー・メドベージェフは、プーチン周辺の政治家のなかでもリベラルであるとい う評価で知られている。このことを表わしているのは、プーチン政権のイデオローグであ るウラジスラフ・スルコフとの主権民主主義論争である。スルコフは、「主権民主主義」論 でもって第2期プーチン政権のイデオローグとなった。イデオロギーの重要性についてスル コフは、「恐怖」が支配する全体主義体制とは異なって、民主主義のもとでは「理念」がい っそう重要になると語った。主権は民主主義と関係するだけでなく、経済発展でも重要な 役割を果たすと、第2期プーチン政権の国家主義的傾向をスルコフは擁護した(8)。これはウ クライナのオレンジ革命へのロシアからの対応であった。ロシア民主主義はあくまで主権 の枠内でのみ機能するといういわば一種の「制限主権」論を展開した(9)。スルコフのこの言 葉に安保担当書記ココーシンをはじめ、政治学者のパブロフスキー、チャーダエフ、ミグ ラニャンらも同調した(10)。なかでもグリズロフ統一ロシア党議長が党の概念として取り上 げたことで政治的意味をもった。たんに統一ロシア党の政治プログラムだけでなく、経済 政策までかかわり始めた。2006年7月、スルコフは「経済的主権民主主義」という表現で、

「経済的主権」と対外投資への国家管理を正当化し始めた。

だがメドベージェフはこの概念に当初から反対であり、「主権民主主義は概念として熟し ていない」と2006年

7月にこれを批判した

(11)。彼は、主権民主主義は概念としては好まない、

理想的な概念ではないと、むしろ「真の民主主義」とか「全面包括的な国家主権の下での 民主主義」といった言葉を選ぶべきだ、と述べた。「主権」といった言葉は、たんに「国家 主義的」とか「民族主義」を言い換えているにすぎない、とも語った(12)。ロシア政治でイ デオロギー論争が果たす役割は大幅に低下していたが、しかし第1副首相クラスが、クレム

(5)

リンの政治担当者による、半公式教義になったような概念を批判したのは近年なかったこ とであった。

さらにメドベージェフはこの論争が経済政策に関連していることを懸念した。それは

「主権経済」といった含意をもち、一種の国家経済を正当化することになるとみたからであ る。そもそもグローバリゼーションのなかで「独立した経済」などありえないというのが メドベージェフの考えであった。実際プーチン体制下で、国家の限界について論じたのも メドベージェフだった。彼は、経済に国家が関与してはいけないとは思わないが、経済で の国家の存在を大きくすべきだとも思わない、と指摘した。シロビキ系の経済への関与が 行き過ぎているという考えであった(13)。実際、2006年以降の大統領教書は、経済での国家 の関与に警告していた。

このふたりの論争についてプーチン自身は、2006年

9月のバルダイでの会議で、対外的な

主権と、国内体制を主として扱う民主主義とは元来別個ではあるが、グローバル化してい る世界では両者の境界が消えて重なる領域が現われる、と言って「主権民主主義」を支持 したかに思われた(14)。メドベージェフの主権民主主義への最初の批判がその前に表われた ことは意味深長である。さっそくロシアの「主権」に敏感なタタルスタンのシャイミエフ 大統領も「主権」がロシアと同一視されることに懸念を示した。統一ロシア党のオレグ・

モロゾフも批判的であった。スルコフの定式化がプーチン・レベルでの完全な支持を得た わけではないことを示していた。こうしてメドベージェフは当初から「完全な民主主義」

という言い方をした。民主主義の特性のある徴表を取り立てて強調することは法律家とし てみると不適切だとも言い切った。

2007年 1月末、メドベージェフはスイスで開かれた世界経済フォーラム、いわゆるダボス

会議を選んで、ここで「形容詞抜きの民主主義」の必要性を訴えた。『コメルサント』紙は 彼のダボス会議への登場を、国家の限定的役割を強調する「メドベージェフ計画」と呼ん だ。メドベージェフが国際的にデビューし、リベラルとの評判を呼んだ瞬間だった。

なかでもメドベージェフの面目躍如だったのは、国家資本主義に関する言明だった。さ きの『エクスペルト』誌での2006年夏の議論で、メドベージェフは、「主権経済」といった 言い方は「国家経済」にほかならず、これは「独立経済」と同じであって、グローバル経 済の現在、とくに受け入れられないと強調した。

「国家資本主義」に関しても彼は明確であって、国家の経済における役割を拡大すること には反対だ、と語った。国家は所有者としては効率的でない。国家の経済への参加には限 界があって、軍需産業、パイプライン輸送、電力網、原子力産業といった戦略部門にのみ 限るべきだという考えである。対外貿易投資でも、現段階はこれへの金融を維持すべきだ と語った。つまり巨大国家企業創設には否定的であった(15)。メドベージェフは、オリガル フ資本主義は1990年代に終わっており、別の道が模索されたのだと論じた。

こうして経済では、シロビキ潮流が強調している国営企業は私的企業より非効率だ、と 言いきった。もっともエネルギーとか軍需産業は長期にわたって国家が統制すべきだとも 考えている。プーチンもメドベージェフを推薦した

12

月の演説で、国家資本主義は導入し
(6)

ない、と言いきった。「21世紀の経済における国家の役割」と題する講演会で、大統領府の 経済責任者であるメドベージェフ系のドボルコビッチは、「国家資本主義への別辞」という 講演を行なった(16)

3

メドベージェフの選挙公約と綱領

メドベージェフには法的思考をするリベラル派の相貌がある。彼が政党政治を拡大すべ きだと論じ、大統領は党人であってもかまわない、と述べたのは2006年夏であった。ロシ アのエリートを(シロビキとリベラルといった)二元的対立でみるのは誤りで、大統領統治 の政府のほうが、議院内閣制下の政府より統一がとれるとも考えている。それでも将来は、

政党内閣ができるのは完全に可能だともみている(17)

実際大統領候補になったドミトリー・メドベージェフが自らの選挙公約を発表する舞台 として選んだのは、2008年

1

22

日の市民フォーラムの場であった。長期の安定化が必要 であると考えた彼が掲げたのは、リベラル派にふさわしく「市民社会の強化」であった。

国家主義者であったプーチンの後継者が市民社会に関心を示すのは興味深いことである。

もっともクレムリンは社会院のような審議機関まで「市民社会」に含めるので、その意味 を明確にする必要はあろう。メドベージェフは

1月 29

日に選挙公約を2005年

12月にできた

法律家の大会でさらに敷衍した。ここにはメドベージェフのほか、彼の選挙対策にあたる ソビャーニン大統領府長官、ヌルガリエフ内相、パトルーシェフ = ロシア連邦保安庁(FSB)

議長、

V・チェルケッソフ麻薬統制局長などシロビキ系の有力者も参加している組織である。

このほか、プーチンの前の首相だった会計院長ステパーシンも関与している。

その内容としてメドベージェフは、法的ニヒリズムや腐敗と戦うことを課題として挙げ た。なかでも法的ニヒリズムと戦うことで司法の独立を図るというのが重要だった。反腐 敗は、旧体制へ新興勢力が切り込む手段であることは、古くは、ブレジネフ初期のシェレ ーピン、シェレスト、セミチャスヌイなどの政治局員から始まり、さらにブレジネフ末期 には、後継となるアンドロポフ国家保安委員会(KGB)議長が使った手段だ。しかし彼らと メドベージェフが違うのは、経済での自由経済重視を掲げたことだった。国家の役割とは 自由な経済を守ることだ。

また環境問題を取り上げたことも新鮮だった。単一の官庁をつくって、環境を理由とし た権力の介入を防ぐことも、ミトボリら「環境」専門家を使った資源再配分であるサハリ ン2の事件などを防ぐ意味があった。また、メドベージェフは、国家資本主義を

21世紀につ

くることは不可能だし、2007年に六つもできた国営企業は臨時のものだとも指摘した。メ ドベージェフが選挙のために訪れた地方は、カリーニングラード、ムルマンスク、チェリ ャビンスクだった。フルシチョフが1962年に弾圧したノボチェルカッスクの犠牲者の記念 碑をプーチンとともに訪れた。

なかでも2月

7

日、極東のハバロフスクに続いて、シベリヤのクラスノヤルスクでは彼の 綱領と言うべき選挙演説で、経済を中心に述べた。『エクスペルト』誌が要約した概要によ れば、ここでメドベージェフは、①司法、②行政、③租税、④住宅改革、が課題となった
(7)

と言う。①は簡単に言えば司法権の独立と腐敗防止の国民計画、②は官僚削減と非国家セ クターへの移管、③租税改革は付加価値税の縮減、④一戸建ての家建設へ、となった。

メドベージェフの七つの公約とは、第一、法的ニヒリズムの克服=腐敗との戦い、第二、

経済への行政的障害の低下、第三、租税的重荷(付加価値税)の低減(18%から10%へ)、ま たは廃止、第四、ルーブリ通貨を地域的な外貨へ、第五、インフラストラクチュアの整備、

第六、革新的経済政策、第七、社会計画の実施、である。最初の五つが難しいと言われた。

プーチンの2月8日の「2020年までのロシア発展戦略」演説と比較して「学術会議」の演説、

と保守派からは酷評された。おもしろいことは、この演説でメドベージェフが、大統領の 専管事項に思われている軍事安全保障、外交への関心を示さなかったことである。

むしろこの期間、ロシア外交について語ったのは、彼のライバルと目されていたセルゲ イ・イワノフ第1副首相であった。2月

9

日―10日のミュンヘン安全保障会議で、彼は引き 続き現職として残り、対外関係に引き続き関与することを、高村正彦外相を含めた世界の 関係者に印象づけた。もっともセルゲイ・イワノフは5月に軍需産業担当の副首相に格下げ となった。

プーチンはKGB人脈を活用し、シロビキを自らのパートナーとしたが、メドベージェフ は自ら教職にあった、現サンクトペテルブルク大学法学部の民法関係者、前述のシビリキ を自己の人材供給源としている、と言われている(18)。なかでも1987年卒業の同級生たちは、

自ら理事長をつとめたガスプロム社に集まっていた。アントン・イワノフ(ガスプロム・メ ディア)、同じくガスプロムで法律関係で補佐官となったコンスタンチン・チュイチェンコ、

ウラジーミル・アリソフ、ヴァレリヤ・アダモバといった人物が蝟集した。イリヤ・エリ セーエフは、ガスプロム銀行に行った。また経済部門でも、社会経済発展相のナビウリナ、

また、このもとで次官となった若手のスタニスラフ・ボスクレセンスキー次長は、大統領 府の経済リベラル派の中心、アナトーリー・ドボルコビッチらと関係が深い。もっとも同 じリベラルでも、金融引き締めに動く財務相のクドリンとは対立関係にある(19)

メドベージェフが、中小企業や中産階級重視、またメディアや司法権の独立を支持して いることは明らかである。実際、1月末の社会院の議論では、しかし厳しい現状が指摘され た。賃金は上がったが労働生産性はこれに応じて伸びていない(ヤクーニン = ロシア鉄道社 長)、中小企業の全経済に占める比重は

11%余りである

(チトフ = ビジネス・ロシア会長)、い や13%である(メドベージェフ第1副首相)、といった議論があった。

なかでも中小企業への注目は最初から顕著だった。中小企業はロシアではわずか

13

15%、しかし他の国では50

―70%を占めている。ロシアでの中小企業数は

100

万、個人営業

は300万人程度のみ(2007年資料)、明らかに少ないと、2008年

2月 16日、著名なクラスノヤ

ルスク演説で新大統領は語った。とくに中小企業で科学技術とかかわっているのは

1.2%の

みであるのも新大統領を喜ばせなかった。2020年までに中産階級が

60

70%

となる改革を 主張したが、この中産階級への注目は、プーチンが

2月 8

日に国家評議会で語った2020年ま でのロシア発展戦略シナリオと同じだった(20)。国営企業については、ナノテクノロジーや 住宅公営事業については必要であっても他の分野については、無意味であるとみる。
(8)

4

プーチンとメドベージェフ

このような新大統領にとって最大の問題は、大統領を去り首相となるプーチンとの関係 である。憲法に従って2期で退くが、引き続き政界に残るプーチンと新大統領との関係は、

そうでなくとも次期大統領制の行方を占う論点である。そのなかでもいくつかの議論があ る。

第一は、プーチンの将来の復帰説である。2012年に大統領に返り咲くための準備、ある いは一時的に腹心であるメドベージェフを「技術的大統領」(政治学者V・ニコノフ)につけ ておき、大統領復帰をねらうというものである。つまり何らかの理由で大統領が交代する という説である。実際、ミローノフ上院議長は3月の大統領選直前に憲法改正を行なって、

メドベージェフの任期を

5― 7年とし、その後プーチンが復位すべきことを主張した。

しかし、これには有力な反論がある。2007年までにミローノフや『政治階級』誌編集長 トレチャコフらによる3選運動が相当程度広がっていたのに、プーチンは憲法が個人の権力 に優越する、と言ってこの主張をとらなかったことである。さらに、プーチンが自己の権 力の極大化を図る動機であれば、先にも述べたように、年上のズプコフ首相を大統領につ けておけば、年齢面でも健康面でもいつでも後継候補として再登場可能であった。実際

2007年末、綱紀粛正を掲げるズプコフの人気もそれなりに上がっていた。けれども実際に

はズプコフは、メドベージェフに代わって2月にガスプロム会長になったのである。復帰論 などの背景には、二頭支配の不和を促進させることで自立を求める官僚たちの思惑がある という。

第二は、権力の中心と課題が次第に経済に移っており、大統領は「技術的大統領」にな るという説。経済面での首相の役割は今や大きく、ドイツ型の権限分担となるのではない かというものである。政治学者リリヤ・シュエフツォバらが主張するように、「外交と安保」

がプーチン首相の権限に残り、社会経済など残りは大統領メドベージェフが担当するだろ う、という考えもある。彼女は『新新聞』での論文で、まさに首相と大統領との役割転換 と言うべき筋書きを想定した(21)。これらの点について、プーチン自身は、2月

14日の記者会

見で、メドベージェフとはお互い知りつくしていると不和説も一蹴した。

大統領と首相を含む政府との関係を考えるに際しては、ロシア政治でもそもそも大統領 権限は、すくなくとも第

1

期は限定的だという説が成り立ちうる。プーチン第

1期を仔細に

みれば、この説が成り立つ。プーチン大統領は、エリツィン系の人事である大統領府長官 ボローシン、首相カシヤノフについては、ユーコス事件がおきた2003年末に至るまで解任 しなかった。それどころかユーコス事件前後には、プーチンを第2期でも「技術的大統領」

とし、議会に勢力をもつ首相に権限を集中するという政治改革プログラムをホドルコフス キーらのオリガルフが構想していた、とベルコフスキーらの評論家が指摘している(22)。その 意味では、プーチン第2期政権はシロビキ系の力でこの勢力を追い出したことが背景にある。

セーチン、ミローノフ、リトビネンコら資源国有派が、このオリガルフ系の力を減殺し、

この潮流を抑えたのがユーコス事件であった。

(9)

けれどもこの問題には、オリガルフとシロビキの権力闘争を超えた深い背景がある。ロ シア憲法下での大統領と政府、その議長(首相)との関係は複雑である。1997年

4月 11

日に 採択された憲法的法「ロシア連邦の政府について」は、政府が国家権力機関として執行権 力を実施するものとし、首相は憲法に従って大統領が決め、また解任すると規定している

(第7条)。この憲法的法とは、憲法に従って上院の

4

分の3、下院の

3

分の

2

の承認を必要と する特別な法である。この特別な法によると、政府はその内外政策を実施するとある(第

13

条)。また防衛と国家安全保障もその権能に入っている(第

20条)

。いずれにしても憲法的に は政府に広い権限を予定した体制のもとで、「権力」をどうとらえるか、新大統領と首相の 相互関係の理解は今後も議論の対象となろう。

もう一つの接近法は、プーチンとメドベージェフの発言内容をみるものである。すでに 述べたとおり、2月

8

日にプーチン大統領は国家評議会で「2020年までのロシア発展戦略」

という演説を行なった。彼は自己の統治の8年間の成果を振り返り、経済成長と国家建設と いう課題が達成されたことを誇示した。それはロシア国民にも納得いくものであった。経 済規模は5倍、国民1人当たりの所得は2.5倍になった。所得倍増は超過達成された。

しかし一方で、プーチンは経済が原油高頼みのものとなっており、経済の近代化に政府 は「ただ部分的にしか関与していない」という厳しい評価もしている。その結果、技術と 商品を輸入せざるをえなくなり、「世界経済での燃料面の付属物の役割」となっている、世 界経済のリーダーから遅れ、世界指導国から除外されることになると述べた。生活水準向 上の達成も、安全保障も、正常な発展も得ることができない。これに代わる唯一の道は、

国の発展のイノベーションだ。そのためには人間資本への投資が欠かせない。学問や教育 が重要だ。健康にも注意を払うべきである。男性の平均寿命の

59歳から 75

歳までの延長を

2020年までに達成すべきだ。

さらに、2月

14日、プーチンは年 1回恒例となっている記者会見を行なった。そこで彼は 2007年の成果

(経済成長

8.1%、個人所得 10.4%、年金 3.8%

上昇)を誇示し、購買能力でも世界

7位となったと喧伝した。

この席で首相になることについて聞かれたプーチンは、「飛ぶ前に『エイ!』と言うな」

ということわざを引用して、あまり語らなかったが、そのなかでは首相の役割として「国 防能力向上と安全保障の確保と対外経済の実施」と言っている。実際プーチンは首相権限 の再配分はないと言った。メドベージェフもロシアは大統領型共和国であって首相型とは ならない、と言った。

そうだとすると、実際の権力はどうなるのか。大統領は代わるが、官僚は残るし、その 既得権益はロシアではきわめて大きい。二頭制への懐疑論の背景にこの既得権を有する勢 力の利害をみておくべきであろう。第二に、メドベージェフには固有のシロビキの支援が ないし、幹部の予備もない。もっともシロビキ自体、イワノフとセーチン、パトルーシェ フとチェルケッソフなど分裂した存在であることは事実だ。それでも彼らの人事を大統領 府とプーチンのどちらが握るのか不明確でもある。第三に、ロシアでは政府法はあるが、

大統領法はまだない。その意味では、大統領の潜在的権力は大きいものの、同時に先に述

(10)

べた

1期目のハンディは強調されていいだろう。

メドベージェフが台頭すると、並んで顕著になってきたのは学者や知識人など政策集団 の蝟集だ。これも起源は実はプーチン政権

2

期での改革で、2004年9月、「市民社会」との 協調を謳い「社会院」をつくったことが起源であることは強調されていい。なかでもジャ ーナリストのファデーエフ、国会議員で法律家のプリギンらの「11月

4日」クラブは、統一

ロシア党とパートナー関係をもち、政権内リベラル保守派の集合体で社会院の知的サーク ルの体をなしている。彼らは、大統領選直前の2月28日に研究者ロゴジニコフの報告「世界 の指導――2008―2020年のロシアの課題」を聞いて検討した。そこでロゴジニコフは、「メ ドベージェフが民主国家の建設、首相プーチンが国家の発展」であると役割分担を強調し た(23)

また著名な保守派の政治学者ツイプコは、菅見の限り最も最初にプーチン首相説を予測 した学者だが、2008年3月にはプーチンの担当は「核と主権」となると予想した(24)

経済問題でもリベラル派のヤーシンらが属するシグマなど、シンクタンクの提言や発言 が相次いでいる。なかでも科学アカデミー経済研究所の会員で、元ゴルバチョフ大統領の 補佐官でもあったペトラコフらは、大統領選を前に「将来の大統領の課題」と題して

2008

年から16年の大統領への提言を行なった。プーチン政権の達成とメドベージェフの構想に ついて記者会見し、ロシアの当面するシステム的問題からして、これまでの方針を継続す ることはできないと厳しい批判を行なった。世界市場でのエネルギー価格の高騰にもかか わらず、この条件をハイテク経済などに多角化できず、「社会の劣化と経済の原始化」を招 いた、というのである。中小企業育成や文明的市場競争をもたらさず、むしろ国営企業体 や経済の独占的な形での民営化が、独占を強め競争効率を下げた、と

2007年に優勢であっ

た国営企業を批判した。これはメドベージェフ的な方針への応援とも言える(25)

結  語

こうして、プーチンの政治変容戦略は

2007年 9

月から

08年 5月 7

日の新大統領就任式に向 けてのサイクルを終える。要約すれば、

第一に、強い国家の回復を掲げたプーチンのもとでロシアは政治的安定と、エネルギー 資源の価格高騰という僥倖に恵まれ、経済成長を経験した。

第二に、同時にこのことがエネルギー依存のロシア経済の構造的問題と、グローバルな 遅れへの認識を深めた。

第三に、このことへの対応をめぐって、プーチン周辺にはいくつかの潮流が生じたが、

メドベージェフのシナリオを書いたのは、よりリベラルな改革を主張する集団であった。

彼らの背景には地方で地歩を固め、中小企業などの発展を願う統一ロシア党などの利害も あった。

こうして第四に、プーチンは統一ロシア党と組んだ下院選挙の勝利の余勢を駆って、リ ベラル派の大統領選挙の勝利と、首相となる自己との二頭制による政治変容を進めた。

もちろん将来予測がロシアにとって難しいことは事実だが、このタンデム(二頭制)は、

(11)

すくなくとも2012年選挙方針を確定する

2011年までは機能する可能性が高い、と言えよう。

1 http://www.polit.ru/news/2008/03/07/cik.popup.html

2 NTV、3月3日10時(モスクワ時間)報道、中央選挙管理委員会の報道による。

3 Nezavisimaya Gazeta, 28 March 2008.

4 Lilia Shevtsova, Russia Lost in Transition: The Yeltsin and Putin Legacies, Washington & Moscow: Carnegie Endowment, 2007, pp. 6, 23.

5 Business New Europe, 22 January 2008.

6 Rossiskay Gazeta, 11 December 2007.

7 www.medvedev.ru, Itogi, February 2008.

8 Ekspert, No. 9, 2006, p. 74.

9 Nezavisimaya Gazeta, 18 July 2005.

(10) 下斗米インタビュー、2007年5月7日、モスクワ。

(11) Izvestya, 25 July 2006.

(12) Ekspert, No. 28, 2006, p. 59.

(13) Ibid.,

(14) 論争については、「主権民主主義の党」と自己規定した統一ロシア党のサイトをみよ(www.edinros.

ru/news.html?id=114545)

(15) Ekspert, No. 28, 2006.

(16) Rossiskay Gazeta, 17 Octber 2006.

(17) Rossiskay Gazeta, 11 December 2007.

(18) www.businessneweurope.eu, 22 January 2008.

(19) Ekspert, No. 12, pp. 22–26.

(20) http://www.edinros.ru/news.html?id=127560

(21) Novaya Gazeta, No. 7, 2008, p. 6.

(22) Radio Free Europe/Radio Liberty, Prague, Czech Republic, Security and Foreign Policy in Russia and the Postcommunist Region, Vol. 4, No. 41, 14 October 2003.

(23) http://www.inop.ru/page509/page 516

(24) http://www.rosbalt.ru/, 2 March, 2008.

(25) Nezavisimaya Gazata, 8 February 2008.

しもとまい・のぶお 法政大学教授

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