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2010年 1月 20日に、アメリカのバラク・オバマ大統領は就任 2

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(1)

はじめに

2010年 1月 20日に、アメリカのバラク・オバマ大統領は就任 2

年目を迎えた。内政では医

療保険改革、外交ではアフガニスタン問題などの難題に対処しながら、「核のない世界」や 地球温暖化問題でも野心的な取り組みをみせた1年であった。しかし、オバマ政権の直面す る内外の諸課題はほとんど未解決であり、大統領は大幅な支持率の下落に悩んでいる。そ うしたなかで、今年11月には中間選挙が控えている。

本稿では、オバマ政権の過去1年の外交実績を内政との関連で分析したうえで、今後の外 交課題について検討してみたい。特に、今年が日米安全保障条約改定の

50周年に当たるこ

とから、最後に日米関係の今後についても展望する。

1

「変化」―ブッシュからオバマへ

「大丈夫、われわれならできる(Yes, We Can!)」と「変化」と「ひとつのアメリカ」を呼 号しながら、オバマは2008年の大統領選挙でイラク戦争を一貫して批判し、治安の悪化す るアフガニスタンこそ対テロ作戦の主戦場と定めていた。彼によれば、イラク戦争は「決 して承認も遂行もされるべきではなかった」戦争である(1)。オバマのイラク戦争批判はジョ ージ・ブッシュ大統領批判であると同時に、対イラク武力行使容認決議を支持したヒラリ ー・クリントン上院議員ら民主党主流派の有力者への批判でもあった。

他方、共和党の大統領候補ジョン・マケインがブッシュ大統領同様に、国民的声望の高 い保守派のロナルド・レーガン元大統領を模倣しようとしたのに対して、オバマは穏健派 のジョージ・H・ブッシュ元大統領のリアリズムに「絶大な共感」を示してみせた。彼はま た、敵対する国の指導者とも無条件で会見すると断言していた。リアリズムと理想主義の 奇妙な混合がオバマの特徴であり、それはレーガンの特徴でもあった(2)

大統領選挙の結果は、オバマの大勝であった。連邦議会でも、上下両院で民主党が議席 を伸ばして、引き続き多数を制した。それは2期

8

年にわたるブッシュの治世のみならず、

四半世紀に及ぶ保守優位の「レーガンの時代」の終わりを告げるものであった(3)。「他の何 をさしおいても、この勝利が本当は誰のものなのかを、私は決して忘れません。この勝利 は、あなたがたのものです(This is your victory)。あなたがたのものなのです」と、オバマは 有権者に熱く語った(4)

(2)

オバマの勝利の背景には、複合的な「変化」があった。まず、国内政治のレベルでは、

「ブッシュ以外なら何でも(ABB: Anything But Bush)」とでも言うべき、共和党ブッシュ政権 への批判や嫌悪が働いていた。また、アメリカ社会の人種的多様化という傾向がある(2050 年頃には、白人は全人口の過半数を割ると推定されている)。「父の容姿は、私の周りにいる他 の誰とも違っていた。父の肌はタールのように黒く、母の肌は牛乳のように白かった」と、

オバマは回想している(5)。彼個人のアイデンティティーの模索は、アメリカ社会のそれと重 なろう。さらに、国際政治におけるアメリカの地位の相対的低下がある。アメリカ一極の 時代から「無極の時代」や「ポスト・アメリカの時代」の到来を説く者もあった(6)

2009年1

月20日、オバマはアメリカ合衆国の第44代大統領として、就任式に臨んだ。

今日、私はあなた方に告げる。われわれが直面している試練は本物である。試練は深刻で 数多い。試練は容易に、または、短い時間で対処できるものではない。しかし、アメリカよ、

わかってほしい。これらの試練は対処されるであろう。

本日、われわれは恐怖ではなく希望を、紛争と不一致ではなく目標の共有を選ぶため、こ こに集った(7)

もとより、格調高い内容と表現であるが、この大統領就任演説は抑制の利いたものであ り、「大丈夫、われわれならできる」といった高揚感や楽観主義はみられない。「変化」とい う言葉さえ、この演説にはなかった。

それでも、オバマはこの演説のなかで、慎重に言葉を選びながら、ブッシュ時代の慢心 や単独主義を批判し、核軍縮や地球環境問題など新たな政策課題を提起した。聖書(「コリ ントの信徒への手紙1」13章

11節)

を引きながら、「子どもじみたことをやめる時がきた」と オバマは語っている。新大統領はまた、イスラーム世界に対して「相互理解と尊敬に基づ き、新しく進む道」を呼びかけた。彼によれば、アメリカの「つぎはぎ細工の遺産は強み であって、弱みではない」。アメリカは「キリスト教徒やイスラーム教徒、ユダヤ教徒、ヒ ンズー教徒、それに神を信じない人による国家」であり、「あらゆる言語や文化で形成され、

地球上のあらゆる場所から集まっている」。これこそまさに、オバマの体現するアメリカの 多様性であった。

この歴史的な大統領就任式を見るために、国内外から200万人の人々がワシントンに駆け つけた。就任当初のオバマ大統領の支持率は、7割を超えるものであった。早くも

1月 22日

には、オバマ大統領はグアンタナモ基地のテロ容疑者収容所の閉鎖を命じ、2月17日には、

総額

7872億ドルにも上る景気対策法を成立させた。

大統領選挙期間中に、シークレット・サービスがオバマにつけたコード・ネームは「変 節者(Renegade)」であったという。この命名の意味は重いと、ジャーナリストのリチャー ド・ウォルフェは言う。首都ワシントンがオバマを変節させる前に、彼がアメリカを変え なければならないからである(8)。それが可能であると、アメリカも世界も、そしてオバマ自 身も、最初の数ヵ月は信じたのであった。

(3)

2

「変節」?―オバマ外交の1

深刻な金融危機のなかで発足したオバマ政権にとって、もちろん最優先課題は国内経済 の再建であった。そのため、外交問題に割ける時間も労力も限られてはいた。しかも、上 述のようにオバマ大統領が大規模な景気対策を打ち出すと、共和党はこれを「社会主義的」

と批判し、政権への反発を強めた。オバマが提唱した「ひとつのアメリカ」は決して容易 なものではなかったのである。否、それどころか、民主党内からも財政規律重視の批判が 上がったから、反オバマ勢力こそ超党派だったことになる。政権発足

100日目の演説では、

「過去

8

年間で失敗が明らかになった政策を改めて採用するのは超党派とは言わない」と、

大統領自身も経済政策での超党派的合意形成を断念した様子であった(9)

それでも、オバマ大統領は外交でも独自性を発揮しようとしてきた。とりわけ、グロー バルなアジェンダには積極的であった。地球環境問題はその好例であり、オバマ政権の気 候変動問題担当特使トッド・スターンは3月末、国際連合の作業部会で、アメリカは「失わ れた時を取り戻す」、「気候変動への世界的な対応の形成に再び強く関与していく」と明言し た(10)。年末に控えるコペンハーゲンでの国連気候変動枠組み条約第

15回締約国会議

(COP15)

での政治的合意形成が目標であった。

さらに4月5日、オバマ大統領はチェコの首都プラハで、歴史に残る演説を行なった。

アメリカは、核保有国として、そして、核兵器を使ったことのある唯一の核保有国として、

行動する道義的責任がある。アメリカだけではうまくいかないが、アメリカは指導的役割を 果たすことができる。……

今日、私は核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するというアメリカの約束を、明確 に、かつ確信をもって表明する。この目標は、すぐに到達できるものではない。おそらく、

私が生きている間にはできないであろう。忍耐と粘り強さが必要である。しかし、われわれは 今、世界は変わることができないとわれわれに語りかける声を無視しなければならない(11)

国際社会にも、オバマの雄弁はこだました。四半世紀前にコロンビア大学で学んだバリ ー青年の夢が、アメリカの政策として結実しようとしていた(12)。核戦力の強化をめざした ブッシュ前政権とは、大きな相違である。すでに2007年

1月には、ヘンリー・キッシンジャ

ーら超党派の大物外交専門家4人(しばしば「四賢人」と呼ばれる)が、テロリストへの核拡 散などの危険を理由に、核廃絶を提唱するようになっていた(13)。2010年

5月には、核拡散防

止条約(NPT: Non-Nuclear Proliferation Treaty)の再検討会議がニューヨークで開かれる予定で ある。オバマのプラハ演説は、当然これを念頭においたものであろう。

7月には、オバマ大統領は初めてロシアを訪問し、ドミトリー・メドヴェージェフ大統領

との首脳会談に臨んだ。その結果、戦略攻撃兵器を7年間で運搬手段

500

―1100基、搭載弾 頭1500―

1675

発の範囲まで削減することで、米ロ両国政府は合意した。ブッシュ時代の末 期に悪化した米ロ関係のリセットは、「核兵器のない世界」の実現に向けても重要な第一歩 であった。

地域安全保障への取り組みはどうか。

(4)

まず、オバマ政権は6月末にイラクの都市部から米軍の戦闘部隊を撤収させた。2010年8 月末までにはイラクですべての米軍が戦闘任務を終了し、2011年末までに米軍は完全撤収 する予定である。これに対して2月17日には、オバマ大統領はアフガニスタンへの1万7000 人の増兵を決定し、北大西洋条約機構(NATO)諸国にも協力を求めた。しかも、クリント ン国務長官によると、アメリカの安全保障上の重要課題は「防衛(defense)」と「外交(diplo-

macy)

」と「開発(development)」という「3つのD」であって、「民主主義(democracy)」は入 っていない(14)。ブッシュ時代とは大きな相違である。

かつての「悪の枢軸」の一角イランに対しては、オバマ大統領は

3

20

日のビデオ・メ ッセージでも6月

4

日のカイロ大学での演説でも、「イラン・イスラーム共和国」と正式国名 を用いている。特に、「新たな始まり」と題したカイロ大学での演説では、共通の課題への 対処を強く呼びかけている(15)。6月のイラン大統領選挙をめぐる混乱に際しても、オバマ政 権は内政干渉と受け取られるような言動を慎重に控えてきた(ただし、下院は自由と人権を求 めるイラン市民を支援する決議を、405対1の圧倒的多数で可決した)。

しかし、イメージとアプローチ中心の「変化」は、ほどなく行き詰まりをみせた。

グアンタナモ収容所の閉鎖は、ブッシュからオバマへの「変化」の象徴であった。だが、

移転先の確保が難航したため、収容所の閉鎖は延期されたし、軍事法廷の閉鎖に至っては 共和党の反対で取り消されてしまった。

アフガニスタンでの死者も増加の一途を辿った。2009年末の段階で米軍の死者数は

1000

人近くに達し、国際治安支援部隊(ISAF: International Security Assistance Forces)全体では1600人 近くになっている(アメリカに次いで被害の多いのは、イギリス、カナダである)。アフガニス タン戦争への世論の支持が低下するなかで、8月末にはISAF司令官のスタンリー・マクリス タル将軍が、4万5000人もの増兵を要請した。これはアフガニスタン作戦を内乱対策と位置 づけるものであり、パキスタンでの対テロ作戦を重視するジョー・バイデン副大統領らの 意見とは異なっていた(16)

オバマ大統領はアフガニスタン新戦略の策定に

3

ヵ月を要し、その間に米軍の死者数は

100人以上も増えた。12月に発表された新戦略は、3万人の増兵を決めるとともに、2011

年7

月までには撤兵の道筋を示すという折衷的なものであった。言うまでもなく、再選をかけ た2012年

11

月の大統領選挙が本格化するまでに、この問題に解決のめどをつけるというこ とである。だが、バイデン副大統領らが提唱した無人探査機による空爆も強化したため、

民間人の被害は増大し、アメリカへの憎悪の火に油を注ぐ結果にもなっている。アフガニ スタン・パキスタン(アフパック)担当特使に起用された剛腕のリチャード・ホルブルック も、みるべき外交的成果を上げていない。

また、8月のアフガニスタン大統領選挙でハミッド・カルザイ大統領の再選が決まったも のの、その正統性はきわめて怪しいものであった。大統領が任命した閣僚のほとんどが議 会に承認を拒否され、カルザイ政権は組閣もおぼつかない状況が続いている。カール・ア イケンベリー駐アフガニスタン米大使は、「戦略的パートナーとしては不適任だ」などとカ ルザイ大統領を非難したと報じられている(17)。しかも、治安の悪化するなかで、アフガニス

(5)

タンでは麻薬の密売と汚職が蔓延している。国連の調査によると、アフガニスタンで警察 官や地方公務員に賄賂を贈った者は、調査対象の

25%

にも上るという(18)

9

月末には、イランで第

2

のウラン濃縮施設の建設が進んでいると、国際原子力機関

(IAEA)が発表した。イランの核開発問題も、ヨーロッパ主導の交渉重視路線では解決でき そうになくなったが、依然としてロシアは制裁の強化には反対であった。

オバマ外交が呻吟するなかで、10月

9日にノーベル賞委員会は、オバマ大統領へのノーベ

ル平和賞授賞を決定した。ブッシュ前政権へのヨーロッパの反発や多国間協調路線の維持 を求める政治的意図などが、この背景にはあろう。しかし、アメリカの世論の大半は、オ バマには受賞に値する業績はいまだになく、受賞は不適当だとみなしていた。この間もア メリカ経済の苦境は続き、10月には失業率が26年ぶりに

2桁の 10.2%に達した。これに反比

例して、オバマ大統領の支持率は5割を切るようになった。

12月 10

日のノーベル平和賞の授賞式で、オバマ大統領は「平和を維持する上で、戦争が 果たす役割がある」と語り、アフガニスタンでの戦争を正当化してみせた(19)。今度はこれ に、ヨーロッパの世論が一斉に反発を示した(逆に、共和党保守派は珍しくオバマを賞賛した)。 ノーベル賞をめぐる内外の反発の連鎖であった。アメリカの国内世論にとっても、ヨーロ ッパを中心とする国際世論にとっても、オバマの提唱した「変化」はすでに「変節」と映 り出していたのである。「支持率が大幅に低下した過去半年間、オバマは大統領ではなく首 相のように行動している」、つまり、党派性を強めていると、ザカリアは評している(20)

コペンハーゲンでの12月の

COP15

にも、オバマ大統領は自ら乗り込んだが、先進国と途 上国との見解の差は大きく、交渉の破綻を回避するのに精一杯であった。国内では、同月

24日のクリスマスイブに、ようやく上院が医療保険制度改革法案を可決した。これこそ歴

代民主党政権が実現を夢みた、オバマ政権の内政上の最大課題である。しかし翌日には、

アメリカの大型旅客機でアルカイダの仕掛けたテロ未遂事件が発生し、オバマ大統領はテ ロ対策の不十分を反省しなければならなくなった。もはや雄弁だけで山積する難題を解決 できないことは誰の目にも明らかであり、大統領を「チアリーダー」(声援だけでプレーしな いという意味)と揶揄する声も高まった(21)

2010

1月 19

日と言えば、オバマ大統領にとって最初の

1

年の最後の日である。この日、

マサチューセッツで上院の補欠選挙が行なわれた。昨年

8月に死去した民主党リベラル派の

重鎮エドワード・ケネディ上院議員の後任を選ぶ選挙であった。1953年以来はじめて、民 主党はこの選挙区ですべての議席を失った。ここに上院民主党は60議席の安定多数をも喪 失し、野党・共和党による議事妨害(フィリバスター)を阻止できなくなった。医療保険制 度改革法案を上下両院で修正協議することを考えると、途方もなく大きな損失であった。

アメリカ独立革命の端緒となったボストンでの事件に因んで、有権者のこの意思表示を

「茶会事件」と呼ぶメディアもある(22)

こうして、オバマ大統領は「変化」から「変節」へと起伏の鮮明な1年を経て、起死回生 をめざして2年目を迎えたのである。

(6)

3

日米関係の混乱

地球環境問題やエネルギー問題、さらに核軍縮問題といったグローバルなアジェンダで は、日米両国の協力できる余地は大きい。他方、地域安全保障問題では、さらなる政策調 整の必要があろう。2010年

1月 15日に、鳩山

(由紀夫)政権はインド洋での海上自衛隊によ る給油活動を終わらせた。この代替措置という意味もあって、鳩山内閣はアフガニスタン に5年間で最大50億ドルの民生支援を約束している。しかし、上述のカルザイ政権の体質な どからして、かなりの部分が非効率と汚職に消える可能性は否定できない。

さらに北朝鮮問題である。ブッシュ政権が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に対するテ ロ支援国家の指定を解除した際、オバマはこれに歓迎の意を表した。6ヵ国協議の枠組みも 支持している。北朝鮮問題では、ブッシュとオバマの政策は「変化」以上に「継続」の面 が強い。さらに、オバマ政権で北朝鮮核問題政府特使に起用されたスティーヴン・ボスワ ース元駐韓大使は、必要とあれば平壌を訪問する意向も示してきた。アフパック問題とは 逆に、北朝鮮問題では、日本はアメリカに「見捨てられ」の恐怖を抱いている。この「見 捨てられ」と「巻き込まれ」の恐怖が連動すれば、日米同盟の維持・強化に多大な困難を もたらすであろう。

より深刻なのは、沖縄の米軍基地移転問題である。2009年

2月のクリントン国務長官訪日

の際に、「グアム移転に関する協定」が締結された。沖縄の海兵隊普天間飛行場代替施設を 辺野古岬とこれに隣接する大浦湾と辺野古湾の水域を結ぶV字形に設置することを前提に、

8000

人の第

3

海兵機動展開部隊の要員とその家族9000人を

2014

年までにグアムに移転し、

その後に沖縄の在日米軍の6施設が返還される予定である。これはブッシュ前政権の政策を

「継続」するだけではなく、ウィリアム・クリントン元政権以来の政策を「継続」するもの である。オバマ政権を支える日本専門家の多くは、かつてクリントン政権時代に普天間移 転合意に深く関与している。

この在日米軍再編問題は、米国防省が推進する「世界規模の米軍再編」(GPR: Global

Posture Review)

の一環としての戦略的意義を有するとともに、沖縄の負担軽減という日本の

国内政治上の意義をも有する。鳩山政権は2010年

5

月には最終決断を下すとしているが、1 月24日の名護市長選挙で基地受け入れ反対派の候補が当選したため、事態はいっそう混迷 の度を増している。日本政府と沖縄、連立与党内の調整のために、これ以上実施が遅延す れば、日米同盟の核心部分で信頼性を傷つける可能性もある。

この沖縄の基地問題では、日米双方が新政権であったこともあり、日米同盟の全体的な 意義づけの不十分なままに個別問題で対立する拙速を示した。また、ワシントンが日本の 民主党に十分な人脈と理解を有していなかったことも、災いしたであろう。その結果、ワ シントンの日本専門家の信頼性と影響力が傷ついたとすれば、日米関係にとっては個別問 題を超えた損失となろう。

(7)

4

今後の課題

本年11月の中間選挙、さらに

2012

年の大統領選挙を控えて、オバマ政権の外交は今後い っそう内政に影響されるであろう。すでに、金融規制強化などで、オバマ大統領はポピュ リスト(大衆迎合)的な姿勢をみせている。アメリカ政治における党派性の強まりに照らし て、かつて「ひとつのアメリカ」を提唱したオバマが、ポピュリズムと党派性に対してど れほど自制を維持し、中間層、無党派層の支持を拡大できるかどうかが、今後の政権安定 の鍵であろう。しかも、この

2012年には、ロシア、韓国でも大統領選挙が、台湾では総統

選挙が、そして、中国でも国家主席の交代が予定されている。これら諸国でも外交に対す る内政上の拘束が強まろう。

こうしたなかで、オバマ大統領は対話路線を維持しながらも、テロ対策やアフパック、

イラク、イラン、北朝鮮などをめぐって危機管理能力を高めなければならない。また、「変 化」への高い期待が「変節」への失望に転じることを食い止めるために、「期待管理能力」

も問われるであろう。そのためには、オバマ政権は最初の

1年で掲げた多くの外交課題に、

明瞭で現実性のある優先順位を付与しなければならない。外交における優先順位の欠如は、

ジミー・カーター、クリントンと近年の歴代民主党政権に共通する欠点である。

ポピュリズムや党派性への自制、危機管理と期待管理、そして政策の優先順位の確立

―これらがオバマ政権だけの課題でないことは、われわれ日本人にとっては自明であろ う。

1 Barack Obama, “Renewing American Leadership,”Foreign Affairs, Vol. 86, No. 4(July/August 2007), p. 4.

2 David Brooks, “Obama Admires Bush,” New York Times, May 16, 2008; Obama, op. cit., p. 11. また、オバ マやブッシュをレーガンとの比較で考察したものとして、村田晃嗣『現代アメリカ外交の変容

―レーガン、ブッシュからオバマへ』、有斐閣、2009年、を参照。

3 Sean Wilentz, The Age of Reagan: A History 1974–2008, NY: HarperCollins, 2008.

4 “Change has come to America,” CHANGE. GOV. the Office of the President-Elect(http://change.gov/

newsroom/entry/president_elect_obama_speaks_on_the_eve_of_this_election/).

5) バラク・オバマ(白倉三紀子・木内裕也訳)『マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝』、ダイヤ モンド社、2007年、10ページ。

6 Richard N. Haas, “The Age of Nonpolarity: What Will Follow U.S. Dominance,” Foreign Affairs, Vol. 87, No.

3(May/June 2008); ファリード・ザカリア(楡井浩一訳)『アメリカ後の世界』、徳間書店、2008年。

また、ポール・スタロビン(松本薫訳)『アメリカ帝国の衰亡』、新潮社、2009年、も参照。スタ ロビンは「アメリカ後の世界」のシナリオとして、カオス、多極化、中国の世紀、都市国家、世

界文明の5つを挙げている。

7)『読売新聞』2009年1月22日。

8 Richard Wolffe, Renegade: The Making of a President, NY: Crown, 2009, p. 328.

9)『読売新聞』2009年4月30日。

(10) “Press Briefing of the U.S. delegation UNFCCC Climate Change Talks,” March 29, 2009.

(11) http://www.whitehouse.gov/the_press_office/Remarks-By-President-Obama-In-Prague-As-Delivered/

(12) “A Nuclear-Free Vision: Obama’s Youthful Ideas Shaped Presidential Agenda,” New York Times Weekly

(8)

Review, July 12, 2009.

(13) George P. Shultz, William J. Perry, Henry A. Kissinger, and Sam Nunn, “A World Free of Nuclear Weapons,”

Wall Street Journal, January 4, 2007.

(14) Hillary Rodham Clinton, “Expanding the U.S.-Indonesian Dialogue,” Secretary of State, Roundtable with Indonesian Journalists, Jakarta, Indonesia, February 19, 2009.

(15) http://www.whitehouse.gov/the_press_office/Remarks-by-the-President-at-Cairo-University-6-04-09/

(16) 川上高司「オバマ政権の新アフガニスタン政策」『海外事情』第58巻第1号(2010年1月)、72―

73ページ。

(17) “U.S. Envoy’s Cables show Worries on Afghan Plans,” New York Times,January 26, 2010.

(18) “The war in Afghanistan,” The Economist, January 23rd–29th, 2010, pp. 24–25.

(19) http://www.whitehouse.gov/briefing-room/speeches-and-remarks(なお、邦訳については、三浦俊章編 訳『オバマ演説集』、岩波新書、2010年、を参照)

(20) ファリード・ザカリア「オバマよ、大統領らしくあれ」『ニューズウィーク日本版』2010年2月3 日、19ページ。

(21)『毎日新聞』2010年1月22日。

(22) “The Massachusetts election,” The Economist, January 23rd–29th, 2010, p. 10.ジョー・スカーボロー「台 風の目『ティーパーティー』の正念場」『ニューズウィーク日本版』2010年2月3日、24―25ページ。

むらた・こうじ 同志社大学教授 [email protected]

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