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5.研究会「ブノワ=ミシェル・トック教授講演会」

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5.研究会「ブノワ=ミシェル・トック教授講演会」

1.日時:2005 年 11月 20日(日)

場所:国立歴史民俗博物館

テーマ:「西欧中近世における文書史料管理(6-18世紀)」

Les archives au Moyen Age et aux Temps Modernes (VIe-XVIIIe s.)

2.日時:2005 年 11月 22日(火)

場所:中央大学後楽園キャンパス 新 3号館 31101 教室 テーマ:「10-13 世紀の西欧における私文書について」

Les actes privés en Occident aux Xe-XIIIe siècles

3.日時:2005 年 11月 26日(土)

場所:九州大学文学部西洋史学研究室 テーマ:中央大学と同じ

4.日時:2005 年 11月 27日(日)

場所:九州大学文学部西洋史学研究室 テーマ:国立歴史民俗博物館と同じ

リル第3大学教授のブノワ=ミシェル・トック教授をお招きしての、連続 講演研究会が開催された。国立歴史民俗博物館での研究会は、科学研究費助 成研究「歴史的アーカイヴズの多国間比較に関する研究」(代表者:渡辺浩 一(国文学研究資料館))との共催のもと、日本史研究者を念頭に、当館の 高橋一樹助教授のお世話で開催された。中央大学における研究会は、同大学 文学部の杉崎泰一郎教授のご好意により実現した。

ブノワ=ミシェル・トック教授は、1963年、ベルギー王国ナミュールのお 生まれで、現在、フランス共和国リル第3大学教授としてご活躍の気鋭の研 究者である。ルーヴァン・カトリック大学にて勉学され、同大学の助手を務 められたのち、1992 年にはストラスブール大学講師、2004年より現職であ る。

1990年にルーヴァン大学にて取得された博士号の学位論文のテーマは、12 世紀アラス司教文書局研究であった。学位論文と同時に、同司教文書集も編 纂されたが、後者は権威ある「未刊行史料」シリーズ(19世紀に始まるフラ ンス国家事業)の一冊として刊行されている。歴史家としてのスタンスを保 ちながら、史料学・史料論研究にもっとも深く取り組んでいる中世史家とし て、関係の国際学会の常連報告者の一人である、とりわけ、フランスの史料 学者たちとの関係が深く、古文書学校や、アルテム(ナンシー大学付属歴史 資料研究所)とは常に協力関係にある。

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今回の連続講演会は、以下のような趣旨で組織された。

1.前記「アーカイヴズ比較史科研」は、中近世のアーカイヴズをテーマ として、日本と世界の諸地域との比較を行う共同研究であり、年一度の国際 シンポジウムを組織している。すでにソウル、上海での行事を終え、今後は、

アンカラおよびパリでの会合が準備中である。この共同研究の問題関心や活 動の趣旨は、「西欧中世史料論研究会」のそれと触れ合うところが多く、日 本での共同研究の最上のパートナーといえる。

今回の、歴史民俗博物館での研究会は、アーカイヴズについての史上初め ての日欧比較史の集まりとして、トック教授には、総括的な叙述をお願いし た。欧米学界においても、いまだ体系的な総合が不十分なテーマについて、

進んでこれに取り組んでいただいた教授には、あらためて感謝の意を表した い。

研究会では、多数の図像資料がプロジェクターで映写され、内容の理解を 助けた。

2.西欧史料論研究の領域で、近年あらたに注目を集めている対象として、

いわゆる私文書がある。19世紀的な「公」・「私」の峻別が、中世の多様で 柔軟な理解のためにはむしろ障害となる事情が感じられるなか、社会史の流 行ともあいまって、社会秩序が底辺からどのように生成・維持されるのかと いう問題は、現代歴史学の前面に浮上している。

このような状況のなか、トック教授の最新の業績(パリ第一大学に提出さ れた教授資格論文)は、中世初期から盛期にかけての私文書研究であった。

多様な問題関心が錯綜する領域として、また、日本の若手研究者の研究動向 をも念頭に置いた上で、このテーマでの講演をお願いしたところ、中世末期 も含めた、研究の現状と問題の諸論点を全般的に提示する野心的な報告を準 備いただいた。

以下は、トック教授が事前に準備された報告原稿をそのまま翻訳再録した ものである。当日多数提示された図像資料も含めて、将来、より整備された かたちで公表する希望を持っているが、ここでは、報告書刊行による情報の 迅速な共有を優先した。

報告のあとには、各研究会の討論の様子を提示するコメントを3編準備し た。トック報告の位置づけと今後の課題の認識の一助となることを期待して いる。

最後に、過大な要求にもかかわらず、こころよく今回の招聘をお受入れい ただいたトック教授に、あらためて感謝申し上げる。教授は、質疑の場にお いても、しばしば性急な結論を要求しがちな私たち参加者からの疑問に対し て、終始、慎重ななかにも、誠実なご対応で一貫された。

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西欧中近世における文書資料管理(6-18 世紀)

ブノワ=ミシェル・トック

(岡崎敦訳)

今日、私たちが西欧中世の文書や近世の膨大な権利証書を研究することが 出来るのは、それらが現在文書館に収められているからですが、同時に、中 世にすでに、文書の保管・管理に配慮が払われていたからでもあります。こ れは、地味で、ほとんど日の当たることのない作業であり、史料上で言及さ れることもめったにありません。この現象がこれまでほとんど歴史家の注目 を集めてこなかったのは、おそらくこのためでしょう。私がここで試みるの も、完成な総合的叙述ではなく、問題状況の概括ということにならざるを得 ません。

まず第一に、中世、近世という時期に、アーカイヴズなるものが何であっ たかをはっきりさせねばなりません。(訳注。アーカイヴズの原語は Archives だが、これは文書の集合体およびその保管場所の二つを同時に意味する。さ らに、フランス語には、英米圏でつい最近確立した新しい定義であるレコー ドとアーカイヴズの区別がない。役所で生み出された瞬間から、ルーティー ンによって生成し、なんらかの形式性を有する、法行為あるいは法的事実に 関連する資料のかたまりはすべて、アーカイヴズという用語で一括される。

以下、誤解を避けるため、アーカイヴズという表現で一貫する。)以下の二 つの概念を想定することが出来ます。まず第一に、ある個人、あるいは組織 のもとに、文書管理を担当する部門が存在していれば、そこにアーカイヴズ があると見なすことができます。この意味では、文書管理の場所があり、た とえ一人であっても、その業務を担当するスタッフがおり、なんらかの方法 論が確認されれば、そこにアーカイヴズがあるのです。文書形式学国際委員 会の定義を見てみましょう。「アーカイヴズとは、あらゆる行政組織、個人 あるいは法人が、自動的にかつ体系的に、その職務あるいは活動の結果とし て生み出す、あらゆる資料のかたまりである。」ここでは、組織や構造が重 要視されています。この場合には、そこに、資料群についてのなんらかの秩 序がなければ、アーカイヴズを語れないとも考えられます。

ところで、西欧中世について語る場合、この概念はおそらくあまりにも狭 すぎるでしょう。ここでもっとも重要なのは、先に述べたようなアーカイヴ ズの定義ではなく、以下のような文書管理全般の諸問題です。すなわち、専 門化したスタッフはいるのか、定まった場所はあるのか、初歩的なかたちで あれ文書管理の方法はあるのか、などの諸点です。この観点からすれば、中 世という時代は非常に重要です。まさにこの時代に、近代的な意味での、す なわち構造と組織をともなったアーカイヴズが誕生したからです。というこ とは、組織化されたアーカイヴズ誕生の前段階と誕生後の二つの段階が、中 世という時代をめぐって検討できるのです。実際、多くの教会は文書を以前 から受領し続けていましたが、これらを分類し、注意深くその管理に配慮す

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るようになったのは、非常にゆっくりとした過程を通じてでありました。研 究の対象となるのは、資料がアーカイヴズにおいて管理・整理され始めたの はいつからかを、特定することだけでよいでしょうか。むしろ、最初の段階 ではどのような管理が行われ、その後どのように組織が発展したのかを研究 する方が、興味深いのではないでしょうか。

以上を念頭において、西欧中近世の文書管理の問題を考えるとすれば、ど のようなやり方がありえるでしょうか。思うに、以下のような課題を立てる ことが出来るでしょう。

1)どこで、だれによって、管理が確保されるのか

2)文書庫には、どのような類型のアーカイヴズが保管されるのか 3)アーカイヴズは、どのような秩序のもとに整理されるのか 4)アーカイヴズは、どのように利用されるのか

1.どこで、だれによって、管理が確保されるのか

文書を管理することに配慮したのは、まず、そしてとりわけ教会でした。

このことは、断片的な言及や引用であっても、いくつかの史料が語っている ことです。しかしながら、もっとも重要な証拠とは、時間的に遠い過去から、

多くの破壊の危険があったにもかかわらず、中世初期の文書が現在まで伝来 しているという事実自体でしょう。問題は、それゆえ、いつから教会が文書 管理を始めたかではなく、むしろ俗人がいつから同じようなことを真似し始 めたかなのです。しばしば言われるところでは、俗人のもっとも古いアーカ イヴズは1200 年ごろのものです。この説では、イングランドの例が根拠と して引かれますが、ここでは、1193-98 年まで行政長官、ついで1199-1205 年まで文書局長を歴任したヒューバート・ウォルターが王のアーカイヴズを 創設したことになっています。フランスでも、1994年に国立文書館の創設 800年を祝いました。実際には、これらは、それ自体重要ですが、すでに存 在した史料群の再組織化であり、フランスの場合には、とりわけそう言えま す。1194年という年代は、フレトヴァルの闘いの年ですが、この戦闘で、フ ランス王の陣営のテントは、王自身のそれを含めて、敵であったイングラン ド王の手に落ち、このとき、宝物と同時に文書類も敵の手に渡ったというの です。フランス王フィリップ・オーギュストがみずからのアーカイヴズを再 組織化し、今後は、新しく造営したばかりの、パリのルーヴル城塞にこれを 定着させたのも、二度と同じ壊滅を繰り返さないためでした。これこそ、フ ランス王の文書庫である、通称「文書の宝物庫」の起源なのです。イングラ ンドでも同様で、ヒューバート・ウォルターの役割がいかに重要であっても、

我々は、たとえば、ドゥームズデイ・ブックが伝来してきたという事実を忘 れる訳には参りません。これは、ウィリアム征服王の治世末期に作成された、

イングランド王が所有する諸権利の目録なのです。また財務府は、ヘンリ1 世治世のはじめから(1100-1135)、パイプ・ロールと呼ばれる財務管理の 巻物を保管していました。12世紀から 13世紀への転換期は、それゆえ、俗 人による文書管理の誕生の時期ではなく、その恒常化が促進された時期なの

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です。少なくとも、王や領邦君主においてはそうでありました。そして、都 市行政においてもこれは該当します。しかしながら、広い意味では、12世紀 末から 13世紀はじめが、単に王の文書庫だけではなく、アーカイヴズの歴 史全般において画期を呈していることは間違いありません。たとえば、フラ ンス王については 1300年ごろ以降について連続して伝来する文書発給の控 え簿は、教皇文書に関しては、1198 年以来保管されているのです。

13世紀はじめに、少なくとも領邦君主や王のもとで確認される、アーカイ ヴズへの関心は、しかしながら、なお恒常的なものではありませんでした。

管理の仕事の担当者は、文書群の混乱状態にぼう然とするしかありませんで したし、とりわけ、効果的なやり方で資料の分類整理を行ったり、目録を作 成したりする知的な道具立てが整備されていなかったのです。最終的に、真 の意味でのある革新が見いだせるのは、14世紀はじめでありました。この頃 になると、アーカイヴズはもはや、単になんとかその管理を試みようとする 資料群であるだけでなく、王の財産を守るため、端的には裁判で勝ち抜くた めに役立つ武器あるいは武器庫なのです。フランス王の文書庫である「文書 の宝物庫」が真の意味で誕生したのは、この頃でしたが、ここでは、王領に 関する資料のほかに、外交や結婚に関する諸資料も保管されたのでした。

いまひとつ別の重要な変化が 13世紀に生じていました。これ以前には、

少なくとも伝来するほとんどの文書の受益者は教会でしたが、この状況が変 わったのです。単なる個人や都市などの俗人たちもまた、文書を得ようとし、

またその管理を始めたのです。都市のアーカイヴズに伝来する最古の資料は、

一般におおよそ 1200 年ごろのものです。俗人個人については、いくつかの 領主関係のものが今日伝来するのみですが、ここでも最古のものは 13世紀 に遡ります。

すべての組織や個人が、アーカイヴズを管理する物的手段を持っているわ けではありませんでした。資料が散逸するのを避けようとすれば、当時は、

その管理を、そうすることが出来る組織に任せねばならなかったのです。こ のやり方は、中世初期には、末期ローマ帝国の制度である「都市登記簿」と して存在しました。この制度は都市当局が管理する帳簿に、私的な法行為が 登記されるものでしたが、7世紀には消滅します。

12世紀には、文書の管理を教会に委ねることが行われました。とりわけ、

都市・農村共同体に付与された、慣習法特許状のいくつかが、そのようにし て伝来します。たとえば、1161年に小村オッピイは、領主であるボードワン・

ル・ブレからさまざまな慣習的権利の確認を受けますが、これはアラス司教 発給の文書という形をとりました。重要なのは、この村はこの文書を管理す ることができなかったらしく、この文書を管理して伝来させたのは、この法 行為にはいっさい関係がなかったアラス司教自身であったという事実です。

しかしながら、俗人が受益者となる文書の爆発的増加は、組織化された解 決法を必至としました。個人の責任ではなく、中立性が確保されるやり方で、

文書が管理されるようななんらかの場が必要になったのです。これは、いわ ゆる訴訟外裁治権の発展と期を一にした動きです。この制度は、ある独立し

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た制度あるいは機関が、訴訟外の法行為(たとえば、譲渡、売却、遺言など です)の有効性を保証する制度です。当時、さらに二つの解決策が新たに開 発されました。一つは、南ヨーロッパに現れ、その後より広範囲に普及した 公証人制度で、いま一つは、とりわけ北ヨーロッパで、さまざまな形態で見 受けられる、都市当局による登記の制度です。

14世紀には、それゆえ、多かれ少なかれ組織化されたアーカイヴズが、あ らゆる教会・修道院や、王、領主、都市などの統治機関において見られるよ うになりました。個人ですら、ある程度の富を保持していれば、自分の資料 を丁寧に保管するようになったのです。もっとも著名な例として、14 世紀の イタリア人商人、フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティニが挙げられます が、彼は10 万通以上の書簡を保存していたのです。近世においては、国家 の官僚制化、近代化が進行するにつれて、部局が増殖し、これにともなって アーカイヴズの数が増加します。各制度や部局はそれぞれみずからの文書庫 を組織するのです。さらに、フランスその他では、各大臣がみずからが管轄 する組織のアーカイヴズの所有者であるという伝統が存在しました。王が、

辞任した大臣や、死亡した大臣の相続人に対して、関係部署への資料の返還 を要求し始めるのは、ようやく 1670 年以降のことであります。しかしなが ら、徐々に、中央管理された文書庫を創設する必要性が感じられ始めていま した。イニシアティヴはスペインから来ました。15世紀終わりにすでに、枢 機卿シスネロスはこのような文書庫を構想していました。カール5世は、い くつかの文書庫をシマンカスの城塞に集めさせました。しかしながら、ここ シマンカスが、1561 年から 1588 年までの時期に徐々に、2人の専門官と一 人の補助者、そして閲覧の規則を有する、カスティリャ王国のすべてのアー カイヴズの拠点となったのは、その息子フェリペ2世の時でした。続いて、

教皇パウロ5世が、1611-12年にヴァティカンの秘密アーカイヴズを創設し ました。イングランドのステイト・ペーパー・オフィスの誕生は 1618-19年 です。さらに、マリア・テレジアがオーストリア皇帝のアーカイヴズを創設 したのは1749 年、と続きます。フランスでは、公的で中央集権化されたア ーカイヴズ・システム(中央文書館と県文書館)が生まれ、文書庫の極端な 分散状態に終止符が打たれるためには、1789 年の革命を待たねばなりません でした。ちなみに、(革命直前の)1770 年にはフランス全体で、文書庫の数 は 5700あり、そのうちパリだけで 400 あったということです。このことは、

基本的に、諸制度が一元化されておらず、各社団に一定度の自律が常に確保 されていたアンシアン・レジームと呼ばれる社会体制において、諸制度が複 雑に錯綜している状態の反映なのです。

14世紀にアーカイヴズの担当者がはっきりと確認できるようになったと しても、つぎの二つの点は強調しておかねばなりません。第一に、中世初期 にすでに文書のかたまりが存在したということは、たとえ関係の特別な役職 が存在しなかったり、あるいは単に史料で確認できなくても、だれかがその 管理を行っていたことを推測させます。第二に、文書管理に関して、固有な 養成・教育は存在しなかったということです。必要とされる能力としては、

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当然ながら、読み書き能力があるでしょう。(もっとも、古い読みにくい文 字の解読の修練がどのように行われていたのかは、まったく分かりません。)

それから、おそらくはラテン語、場合によっては外国語にも通じていること が要求されたでしょう。しかしながら、重要な資質として、アーカイヴズ所 有者への忠誠意識があったに違いありません。なぜなら、かなり早くにアー カイヴズの戦略的価値については理解されていたからです。14 世紀以降にな ると、法的な素養が重要な要素となりました。というのも、アーキヴィスト は主人の諸権利の防衛の任にあたっているからです。しかしながら、徐々に 変化が生じて、18 世紀には、歴史家としての素養が評価され始めました。歴 史に関する関心が現れた結果、保存されてきた資料が古ければ、それは法的 価値と同時に、過去についての情報を与えてくれる材料とも見なされるよう になったのです。もちろん、この動きは緩慢であり、たとえばフランスでは、

革命に至るまで、中世の文書は裁判で立証能力を有するものとして取り扱わ れていました。しかしながら、ここで念頭においている動きは、それなりに 大きな動きなのであって、たとえば、フランスでは、とりわけベネディクト 会修道士の努力に負うところが大きい歴史研究の発展や、ドイツでは、ゲッ ティンゲン大学における歴史学講座の創設などが挙げられます。

14世紀には、職業的なアーキヴィスト、すなわちその唯一の仕事が文書の 管理である役人の登場という大きな革新が見られました。その最初の一人と しては、1366 年に、ナポリ王国でこの職に任命されたアントニオ・デ・ノト の名が挙げられます。16世紀を越えると、アーカイヴズはより明確に、文書 局と分離しています。文書局は文書を発給し、アーカイヴズは文書を保管す るのです。この時期には、最初のアーカイヴズ学のマニュアルも書かれてい ます。ヤコブ・フォン・ラミンゲンの『文書の登記および管理部局』は、1571 年ドイツのハイデルベルクで刊行されました。とりわけ 18世紀になると、

他にもいくつか書かれています。たとえば、リヨンの大司教座教会参事会の アーキヴィストであった、ピエール・カミユ・ル・モワンヌは、1765年に『実 践的文書学。アーカイヴズや文書の宝物庫の整理の教科書』を発表しました が、そのなかで、アーキヴィストの健康管理について長々と述べています。

アーキヴィストはとりわけ目の健康に気をつけねばならないそうです。ある いは、初版の情報はないのですが、第2版は 1778年にエクス=アン=プロ ヴァンスで出版された、アントワーヌ・デスチエンヌの『市民としてのアー キヴィスト』では、アーカイヴズの保管は、より公正な財務行政、それゆえ 人民の幸福にとって不可欠であるとし、教会機関が持つアーカイヴズの国有 化をすら提案しているのです。

これらのアーカイヴズは、しかしながら、組織内部の管理庫であり、その 閲覧や利用は、領主やその役人に限定され、ひろく公衆に開かれたものでは ありませんでした。この点、少なくとも理論的には、都市のアーカイヴズが 外の注意を引いていました。都市のアーカイヴズは、都市当局の制度である ばかりではなく、都市民自身の制度でもあるからです。たとえば、1402 年に ヴェネツィアの元老院は、当時この都市の所有のもとにあったクレタ島の財

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務帳簿を、多くの人間が閲覧していることを問題視しましたが、これらの人 びとは、恐らく税制の不公平を感じていたヴェネツィアの市民たちでありま した。しかしながら、17世紀から 18世紀にかけて、公的なアーカイヴズ、

すなわち裁判あるいは行政に関係する文書群を、関係者は閲覧できるという 原則が打ち立てられました。アンシアン・レジーム末期には、都市ローザン ヌのアーカイヴズの閲覧願いは一年に2件か3件でしたが、パリ会計院では 何百万単位の閲覧申請がありました。

2.文書庫には、どのような類型の資料が管理されていたのか

文書庫に保管されている資料は、大きくつぎの二つのやり方で分類するこ とができます。一つは資料の出所であり、いま一つは資料の性格による分類 です。

前者の検討から始めます。まず第一に、なんらかの個人・機関のもとに入 ってくる資料です。この場合、保存されているのは、みずから生み出した資 料ではなく、受領した資料です。たとえば、修道院に伝来する王文書がその 典型です。これらの資料は、修道院ではなく、王の文書局が作成し、この文 書局によって修道院へ付与され、当該修道院がこれ以降この資料を保管する のです。逆の方向では、ある修道院長が王に対して、なんらかの特別な恩恵 を求める書簡を送った場合には、この書簡は王のアーカイヴズに残るのです。

これら「入ってくる」資料は、それゆえ、とりわけ権利証書をその代表とす る狭い意味での文書、それから書簡がその大部分を占めます。

ある個人・機関から「出てゆく」資料もまた、同じ性格の資料、すなわち、

書簡や文書が主となります。簡単に言えば、これらの資料を発給する制度は、

これを受益者に付与するに先立って、その写しをとっておくのです。たとえ ば、教皇庁文書局は、1198 年以降、みずからが発給するもっとも格の高い文 書形式であるブッラのいくつかについて、そのコピーを、定まった帳簿に取 り始めました。このようなことが生じたのは、受給したブッラの法的有効性 を最大限確保したい受益者側の要求によるものでした。フランスでは、王文 書局が、1300年ごろから同じような写しを取り始めています。

最後に、いわゆる組織内部資料があります。これは、資料を保存している 制度が、自分自身のために生み出す資料です。このなかには、王や司教、修 道院長がみずからに関する法行為を告示する文書もありますが、この他に、

当該行政部局のメンバーが同僚に宛てる書簡形式のものもあります。しかし ながら、ここでとりわけ問題となるのは、13 世紀以降ますます増殖化した行 政資料全般です。まず膨大な数の会計簿があります。イタリアでは、商人の 私的な帳簿が残っていますが、さらに、都市や領主、王権等が膨大な帳簿を 残しています。都市では、13世紀というかなり早期に、計算し、数え上げ、

課税する知的技術を備えるに至りました。領主の場合には、通行税帳簿、王 権の場合には、王の役人の帳簿に加えて、とりわけ王の家政機関の帳簿があ ります。会計簿以外では、判決や訴訟記録から成る裁判資料が膨大に数に上 り、これらはオリジナルや帳簿への写しによって伝来しています。その他、

地図も挙げられます。

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他方、資料を、有効性や効力の時間的範囲によって分類することもできま す。文書は、たとえば譲渡のような、永遠の効力を持つ法行為を告げ知らせ る場合には多く、明確に「永遠に」という文書形式上定まった文言を有して います。この結果として、当該文書は、可能な限り長らく保管せねばならな いというわけです。中世の文書は、フランスでは革命による法秩序の転覆ま で、他の地域ではかなり最近まで、法廷に提出可能な立証能力を保証されて いたのです。行政命令などの書簡は、より限定された目標しか持っていませ ん。たとえば、役人に債務弁済を命じたり、支払いの完済を証明したりする 場合です。それゆえ、これらは長く保存する必要がないのです。ことは行政 資料についても同じです。実際、14世紀の会計簿を、1600年あるいは 1700 年に至っても、なぜ保管しておかねばならないのでしょうか。実は、結果的 に歴史家にとっては幸運なことには、これらは、実際に保存されていること があるのですが、これはなんらかの保守主義やイニシアティヴの欠如、ある いは過度の慎重さによるものがほとんどでしょう。しかしながら、より根本 的な説明も可能なように思われます。会計簿や書簡は、これを保管している 制度・組織の所有物です。確かに多くの場合、アーキヴィストは関心が失わ れた資料を破壊することを躊躇わなかったとしても、別の場合には、資料を 意図的に破棄することを拒否したようなケースもあるのです。なぜなら、こ の資料はアーキヴィスト個人のものではなく、組織のものであるからです。

3.アーカイヴズはどのように秩序化されているか

最終的には重要性は劣るかもしれませんが、まず物理的問題から検討を始 めましょう。アーカイヴズは、特別な場所を確保するに値するのでしょうか。

クリュニ修道院は、13世紀末までの時期に、約 6000通の資料を保管してい ました。この巨大なかたまりは一定の場所を要求したわけで、実際 15世紀 以降は確実に、おそらくはそれより以前に、修道院教会堂の塔の一つに収め られていました。他にも大量の資料を抱えた修道院があります。12世紀以前 の時期で、1000通以上のオリジナル文書を保管していたはずのマルムチエ、

9世紀はじめに、2000の法行為に関する情報を有していたフルダなどがそう です。しかし、大半の中世の修道院に関して、現在まで伝来している文書数 は数百通のレヴェルです。とはいえ、いくつかの修道院では、Archivum と いう用語が史料で確認されます。たとえば、9世紀のサン=ワンドリユおよ びサン=タマン修道院がそうです。しかしながら、ジョルジュ・デクレール が指摘しているように、そしてサン=ヴァスト修道院の同時期の資材帳が示 しているように、通常文書庫を指すとされる Archivum という用語は、当時、

アーカイヴズのみならず、書籍や貴重な装飾などを含んでいたのです。つま りは、修道院の宝物庫そのものだったのです。

領邦君主のアーカイヴズは、しばしば教会で保管されていました。たとえ ば、ブルゴーニュ公の場合は、ディジョンのノートル=ダム教会、ブラバン ト公についてはニヴェル修道院などがそうです。その他の場合では、周辺部 の城、すなわち権力の中心部ではないところに保管されたケースもあります。

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たとえば、リモージュ司教のアーカイヴズは、14-15 世紀には、リモージュ から数キロ離れたイスルの城に置かれていました。13-14 世紀のフランドル 伯のアーカイヴズも、ルペルモンドの城にありました。すでに見たように、

フランス王は、1194 年までみずからのアーカイヴズを持ち歩いていました。

イングランド王については、そのアーカイヴズは、1170 年代まではウィンチ ェスター城に保管されていました。

最後に、物理的には、文書は、当初は、かなり巨大なものもあったらしい 櫃に収められていました。たとえば、1466年に都市ナントが購入した櫃は、

10人がかりでしか運べなかったということです。これらの櫃は、複数の錠で 閉じられており、鍵は複数の人間が別々に管理していたのです。13世紀に現 れた棚が、とりわけ 16世紀以降には、櫃にとってかわることになります。

棚は、実際のところ、仕切りのお陰で、内部の分類の可能性を拡げると同時 に、閲覧を以前に比べてはるかに容易なものとしました。そのほか、箱や棚、

布や革の袋のなかに、資料を保管することも行われました。

これらの収納庫のなかで、文書はどのように保管されていたのでしょうか。

最初の保管方法とは、もっとも簡単なものでした。資料は箱のなかに、何の 秩序もなく詰め込まれていたのです。しかしながら、これでは、必要な文書 が見つからないばかりか、さらには引っかき回すたびごとに、印章が壊れて しまいます。1182-83 年ごろ、北フランスのアルエーズ修道院の院長は、修 道院文書集の序文でこの点を明確に述べています。「寄進があれば、それと 同じ数の譲渡や確認文書があるのだから、教会の責任者には、これらの文書 を一つに集めて管理することが重要なのである。とりわけ、文書が運ばれ、

探され、読まれる際に、文書や印章が傷まないように注意せねばならない。」

1238-39年ごろには、のちにウルバヌス4世という名で教皇になったランの

司教座教会参事会員、ジャック・ド・トロワは、同僚の教会参事会員たちに 対して、探している文書を見つけるのがいかに難しいかを、以下のように述 べています。「実際、だれかがある文書のことを覚えていても、あなた方の 小さな箱(複数)のなかからそれを見つけようとすると、文書と一緒に印章 をかき回さねばならず、ときには、教皇のブッラがそのために壊れてしまう。

また、折角見つかっても、最後は皆、疲れ果てているのである。」

このような危うい状況を念頭において、次に、文書を知的に管理するとい う問題に移りましょう。まずはじめに試みられたのは、文書の要約です。問 題はいつでも、必要な文書を見つけ出すことにあります。教会のアーキヴィ スト、あるいは担当者が、なんらかの訴訟などの必要のために、古い文書を 探さねばならなくなったとき、彼は、該当しそうな文書を見つけるために、

数百の文書一つ一つに目を通すことになります。この際、文書の裏側にその 要約が書かれていれば、すぐさまそれぞれの文書の内容が分かるというわけ です。(ちなみに、西欧では文書の本文は用紙の片側のみを利用したので、

空白として残された裏側にはさまざまな情報が記載されることになりまし た。また、ある程度の以上の大きな文書は通常、書かれた面を内側に折られ て保管されたので、文書本文ではない裏面が外側に露出することになりま

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す。)この文書裏面への要約の記載という慣行は、非常に古く遡るものです。

パピルスのかわりに獣皮紙を採用した7世紀以後のメロヴィング王文書にお いて、すでに同時代にこの処置が行われていることが確認されるのです。た とえば、694年 12月の日付を持つシルデベルト3世のサン=ドニ修道院のた めの文書の裏面には、同時代の2種類の筆跡による記載が確認されます。一 つは「ベロアキザの聖職者ボッタリウスを相手とする訴訟」、いまひとつは

「これはイボーとその息子である聖職者ボッタリウスについての文書であ る」と書かれています。同時代、同じくパリ近郊の著名な修道院サン=モー ル=デ=フォセにおいても、同じことが行われていました。また、個人を受 益者とする文書の裏面に要約を見つけることもできますが、これは、そもそ もは教会のアーカイヴズ、恐らくはサン=ドニのアーカイヴズにあった文書 なのでしょう。とは言っても、当時、すべての修道院が文書の裏側に要約を 記していたわけではありません。フランドルでは、この慣行が現れるのは 11 世紀です。いずれにせよ、このやり方は西欧の各地に次第に広がっていきま した。このような文書裏面の要約は、常に極めて簡潔なものです。ときには、

別の書記がのちにこれを補うことすらありました。

しかしながら、これはいわゆる文書の配架を示す情報ではありません。オ リヴィエ・ギヨジャナンが強調しているように、この段階は、あくまで「し

るし」Signum、すなわち、区別をつけるための目印なのです。ちなみに、こ

の Signumという用語は、さまざま固有語、すなわちドイツ語では Signatur、

スペイン語では Sginatura、イタリア語では Segnaturaとして現れます。文書 は、かりに見つけることが出来たとしても、とにかく無秩序の状態に置かれ ていたのです。しかしながら、13世紀を通じて、文書数は次第に莫大なもの となっていきます。文書裏面の要約だけでは、探索の助けにはならなくなっ てきたのです。そこで、文書の集合体を、なんらかのやり方で組織化する試 みが始まりました。

巨大なアーカイヴズを前にして、聖職者にはつぎの三つのやり方で対応す ることができました。これらはよりよくアーカイヴズを管理するために、し ばしば補完的に機能します。第一は、文書を複数の異なる入れ物に分けて配 列することで、それぞれの入れ物は文書のなんらかの類型に一致します。第 二は、文書目録の編纂です。最後は、各文書の裏面に、分類配架記号を書き 込むことです。

箱であれ棚であれ、文書を複数の入れ物に分けて管理することが、いつか ら始まったのかは分かりません。ただ、これが始まったのは、すべての文書 を一つの入れ物に収めることが出来なくなったからではなく、秩序立ったや り方で分類しようとしたためであると思われます。すでに紹介したランのケ ースでも、すでに、参事会教会には複数の棚があったことが言及されていま した。また、15世紀後半の史料によると、ヘントのシント=ペーテル教会に は、文書部屋 camera privilegiorum なるものがあり、そこには 50個ほどの箱 があったと言います。

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目録については、すでに9 世紀にいくつか例があるとはいえ、これはいま だ例外でした。目録が増加するのは 13世紀、そしてなにより 16世紀以降で す。ヘントのシント=ペーテル修道院については、目録編纂の動きをよくた どることができます。最初の目録は 1234 年あるいは 1235年に編纂されまし た。この目録は非常に部分的なもので、託身文書 233 通が無秩序に掲載され ているにすぎません、しかも、これらの文書は、恐らく主要なアーカイヴズ とは別個に保管されていたものと思われます。2番目の目録は、13世紀末の ものですが、修道院アーカイヴズ全体を網羅して、これを 26の章に分割し ています。これらの章は、一部は文書発給者別、一部は内容の類型(通行税、

フランシスコ会修道院との関係など)、さらに別の部分は地理別となってい ます。これらのカテゴリーの内部での各文書の取り扱いは、厳密な規則に則 ってはいません。この目録編纂を担当した修道士は、おそらく同時にオリジ ナル文書の整理にも関与しており、仕事のあまりの大きさを、やや持てあま していたようにも見えます。他方では、三つの大きな大分類自体も、緊密な 首尾一貫性を確保するものではありませんでした。たとえば、ワース地方に 所在する財産をめぐるフランスシスコ会修道院との紛争に関する教皇のブ ッラは、どの分類にも整理可能だからです。しかしながら、このような事態 は、非常によく見られることであり、たとえば 14-15世紀のリモージュ司教 の文書庫でも確認されます。

各文書の指示を、アルファベットや数字、さらにはそれらの組み合わせで 行うことは、単なる目印 Signum から、真の意味での分類記号 cotaへの変化 を意味しました。cota とは、ある史料に与えられる全体のなかでの位置関係 であり、数字や他のやりかたで表現されるもので、現在のフランス語の cote の語源となる言葉です。この分類記号は、オリジナル裏面と同時に目録にも 記載されます。オリジナル裏側の記載(現在 notes dorsalesと称しています)

については、あまりに短く、一般に文脈を欠いているので、記載された年代 を特定することが非常に困難です。一般には 13世紀に出現すると考えられ ていますが、ジョルジュ・デクレールはこれを 14世紀とし、逆に、セバス チアン・バレはクリュニ修道院という例外的な対象ではありますが、すでに 11世紀後半にこれが存在したと言います。

分類記号の表現様式として複数のやり方が存在したとしても(デッサンや 奇妙な名前の場合もありました)、もっともしばしば用いられたのは、アル ファベットあるいはアルファベットと数字の組み合わせでありました。1710 年、パリのサン=ヴィクトル教会では、教会の各所領にそれぞれアルファベ ットが割り当てられました。もし文書数が多くて、一つの分類に複数の箱が 必要な場合には、当該アルファベットに数字の番号を付加して区別します。

箱のなかでは、各文書はなんらかのまとまりで紙挟みのたばにまとめられ、

これに番号をつけます。最後に各史料に一連番号が付されます。たとえば、

ウリ Ury という所領にはV という文字が割り当てられますが、これに関係す る史料は V1 と V2の二つの箱に収められ、このうち、Ury 小教区に関する文 書は V1.1 という紙挟みにまとめられます。というわけで、Ury 小教区教会

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に関する、12 世紀のサンス大司教のある文書には、V1.1.1 という記号がふら れています。

近世には、さらに二つの分類が現れました。一つは、ラテン世界で優勢で あった文書の類型に依拠するものです。たとえば、会計簿、書簡類などを別々 に保存するものです。いま一つは、ゲルマン世界によくみられるもので、さ まざまな史料が一件書類としてまとめられる場合です。

以上はすべて、オリジナル文書の管理についてのお話しでした。ところで、

管理では、史料の写しをとることもありえます。単葉の用紙へのコピーは、

非常に頻繁に行われましたが、歴史家によって研究されることは現在に至る までほとんどありません。逆に、とりわけよく知られているのは、文書集

cartulaire への転写です。文書集とは、ある法人あるいは個人が、みずからが

受領した文書のすべて、あるいは一部を転写した書物を指します。文書集が 中世アーカイヴズの中心的な要素の一つとなったことは容易に理解できま す。また、数世紀にわたり、歴史家によって便利に利用されてきましたが、

これについての問題関心が刷新されたのはつい最近のことなのです。私たち は、文書集が文書の取捨選択や制度の組織化を反映すること、すなわち、関 係する機関の記憶を管理するために作成されたことを、以前よりもずっと深 く理解するに至っています。

転写される文書の選択は、さまざまな基準で行われました。厳密な意味で 当該修道院に関係する文書だけを集めるやり方もあります。また、所領の一 部に限定された、意図的に部分的な文書集もあります。たとえば、北フラン スのシトー会修道院ヴォセルでは、文書集は修道院所領の一部しか含んでい ません。ときには、選択の基準が私たちには分からない場合もありますし、

あきらかに仕事の過程で変容したケースも見られます。

つぎに、史料はどのような順番で転写されているのでしょうか。複数の基 準が、ときには組み合わされて用いられました。アルエーズ教会参事会文書 集が、このことをよく示しています。ここでは、まず教皇のブッラ、ついで 修道院に関係する一般的性格の文書が、最後に、教会が所有する所領ごとに 関係文書が並んでいます。ここでは、まずテーマ、ついで地理という二種類 の分類が採用されているのです。それぞれの分類の内部では、各文書は大ま かに年代順に書かれています。一般的には、地理別のプランは大きな組織で はよく見られることでした。他方で、とりわけ中世初期には、年代順の採用 が見られます。ここでは、司教や修道院長ごとに章がたてられ、関係の文書 がまとめられますが、おそらくは教会の歴史編纂と関係しているのでしょう。

文書集が不都合なのは、このやり方では、制度の長い歴史が、ある一つの 時点で止まってしまうことです。文書集の最後のページのインクが乾くと同 時に、この文書集はのちの変化に対応出来なくなるのです。非常にしばしば、

文書集に新しい文書を書き加えることが試みられました。これは、ページの 余白部分を利用したり、折り丁や単葉の用紙を付け加えたり、あるいは用紙 を装丁に貼り付けたりすることで行われました。しかしながら、文書集はす ぐにはち切れてしまい、その首尾一貫性や構造が失われることになります。

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というわけで、例外的な状況を除けば、新しい文書の付け加えは断念される ことになり、場合によってつぎの文書集の編纂が企てられるまでは、文書が 文書庫のなかに積上げられるばかりとなるのです。

最後に指摘しておきたいのは、文書の分類は際限のない仕事であるという ことです。同じ文書庫で多くの分類が次々に試されていることは、この作業 自体がある意味、ほとんど絶望的な作業であったことを示しています。都市 アンジェの例を取り上げましょう。この町のアーカイヴズ目録編纂が1506 年、さらには 1519年に決定されていますが、おそらく前者は実行に移され なかったのでしょう。1533年には、調査官がアーカイヴズの分類を命じられ ています。他方で、別の新しい目録の編纂が 1647年に決定されています。

1667年には、アーカイヴズが新しい箱に移されましたが、1670 年には、ア ーカイヴズが非常に混乱しており、史料を見つけることができない、と報告 されています。さらに、新しい目録の編纂が、1715年、さらには 1735年に 試みられましたが、1773 年には、保存している文書の完全な監査を行った結 果、これら先行する目録の不備を補っているのです。

4.アーカイヴズは、何の役に立ったのか

アーカイヴズの第一の役割は、もちろん文書の保管、および必要な場合に 裁判で利用するために、関係史料を見つけ出すことです。もっとも、裁判で の文書の実際の利用については、思いのほか史料の言及がないことは指摘し ておかねばなりません。

しかしながら、アーカイヴズは、同時に、政治的な道具でありました。中 世という時代においては、現在と未来は固く結びついており、これは近世で も同じでした。すなわち、未来の繁栄は、過去に得た既得権を現在所持して いることに負っているのです。当時すでに、過去の知識は不可欠でありまし た。権利の主張を正当化するためは、過去の知識を援用せねばならないから です。ところで、過去の知識はアーカイヴズに限ったことではありません。

伝統と文字の威信は、文書と同時に記述資料全般に関係します。たとえば、

1478年 4 月 22日、フランス王ルイ 11世は、フランス王位、ノルマンディお よびギュイエンヌ公位についてのイングランド王の権利主張に対抗するた め、モンルイユ領主ギヨーム・クジノに、関連資料の取りまとめを命じまし たが、その際、参照すべきものとして以下のものを挙げているのです。すな わち、高等法院や文書の宝物庫、会計院のアーカイヴズ、そしてフランス王 国の事実上の公式年代記であったサン=ドニ修道院年代記です。しかしなが ら、これらのなかでも、文書が特別な資格を有していたことは事実です。厳 密な意味での法的な文脈においては、とりわけそうであると言えます。1452 年に、フランス王シャルル7世の顧問官であり、ランス大司教でもあったジ ャン・ジュヴェナル・デ・ウルサンは、王に対して、いまやほとんど統合さ れた(というのも、百年戦争がついに終結を迎えたからなのですが)王国の 改革を提案しますが、その際、以下のように述べているのです。すなわち、

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参照のために、あらゆる古い文書を探索する必要があること、そして、「こ のようなことをなすことは、汝のみならず神の意図にも叶うのである」とい うのです。同じ関心の元では、アーカイヴズの調査を行えば、忘れられてい る税や賦課租の痕跡を発見し、それらを蘇らせることも出来るわけです。デ スチエンヌが指摘していたように、アーカイヴズは、まさに財政の道具なの です。

より広くいえば、アーカイヴズは、逆説的には、王の力を示すものともい えるでしょう。

アーカイヴズは、また、歴史編纂事業との関連で、組織の記憶をつむぐた めにも利用されます。10世紀後半に、北フランスのサン=ベルタン修道院で、

修道士フォルクイヌスは、この教会の歴史を執筆しましたが、このなかには 数十通の文書が転写されています。こうすることで、歴代の修道院長の名前 や事跡を記録し、さらに、王文書や他の重要な文書を含む修道院アーカイヴ ズの豊かさとつりあう、教会自体の大きな威信を強調しているのです。同時 期、ランスでは、大司教座教会参事会員であったフロドアルドゥスが、同じ くランス教会の歴史を執筆していましたが、彼もまたその情報源として、こ の教会のアーカイヴズに保管されていた文書や書簡を利用しています。

アーカイヴズは、さらに、書式の貯蔵庫としても役に立ちます。と言うの も、文書の作成者は、一般に、新しい書式を作り出すと同時に、好んで、古 い書式を採用するものだからです。古い書式は、書式集という書物のなかで 探すことができました。書式集には、さまざまな文書作成部局で共通に使わ れる一定度広範に流布したものもあれば、特定の文書局に固有の内部資料で ある場合もあります。しかしながら、文書の作成者は、必要な書式を、アー カイヴズに積み重なった文書自体を参照することで探し出すこともできた のです。そして、これは、書式集の編纂者自身が行っていたことでもありま した。ということは、書式は、しばしばある文書から別の文書へと受け継が れるということです。たとえば、アラス司教ゴデスカルクが、1163年に北フ ランスのブールブール女子修道院のために発給した文書は、その大部分を、

数年前に同教会が3人の教皇特使から得た文書の文章の採録からなってい ます。

文書の利用という点では、特異な問題があります。文書に印章が付されて おらず、またローマ法の復活が文書に非常に厳密な新しい規則を課していな いような状況において、文書にはそれ自体としては絶対的な効力があったと は言えません。たとえば、息子がその父の寄進を確認したり、別の寄進を付 け加えたりする場合には、父の文書への付け加えが行われることがあり得ま した。同一所領においてある土地が付加的に寄進された場合には、この第二 の法行為は文書に書き加えられたのです。

周知のように、中世人は、テクストの法的効力や真正性について、律義な 敬意を払っていた訳ではありません。多くの修道院は、みずからの富と威信 を増すことを望んでおり、失われた財産を取り戻そうと考えていました。そ

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の結果、みずからが保管している文書テクストを改竄することをためらわな かったのです。このような例は、非常に多いのです。

最後に、アーカイヴズの廃棄について一言述べたいと思います。これは、

今日では、アーキヴィストの主要な業務の一つとなっており、事実、日々熱 心な行政が生み出し続けるすべての資料を文書庫に収納することは、現在も はや不可能なのです。アーカイヴズの破棄が、中世および近世を通じて行わ れていたことは、間違いありません。破棄が行われるのは、まず当該資料に 価値がなくなったときです。たとえば、メロヴィング期(6-8 世紀)には、

従来帳簿はないと考えられてきましたが、それはこの時期について伝来する 史料がなかったからでした。ところで、30年ほど前、この種の史料の数枚が 発見され、その結果、当時の人たちは、資料が有用でなくなれば、これを廃 棄していたと見なされるようになりました。しかしながら、資料の廃棄は、

その更新を目的として行われることがあります。これは、より有利な内容を 示す別の文書の獲得や、しばしば偽文書の作成というかたちをとります。こ の例は、とりわけサン=ドニ修道院で確認されます。この修道院で、10世紀 に、メロヴィング王の偽文書を作成しようとしたとき、用紙の問題が提起さ れました。メロヴィング王文書はパピルスに書かれている場合があるのです が、10世紀のフランスではもはやパピルスを手に入れることは困難であった のです。これを解決するために、この修道院が所持していた真正な王文書を 2通、文字が書かれた面を内側にして張り合わせ、新しい用紙を作り出した のです。

しかしながら、あふれ出していたアーカイヴズの廃棄の必要が明確に語ら れ始めるのは、17-18 世紀を待たねばなりません。

結論

教会以外のところでも受領した文書の管理がはじまったこと、大きな文書 作成部局(のちには小さなところでもそうですが)では発給した文書の控え をとる慣行が見られること、そして、内部資料が莫大な量生産され、部分的 にではあれ管理されるようになったこと、以上の動きはすべて、ほぼ同時代 に生じました。おおよそ 1200 年ごろに現われ、13-14 世紀を通じて普及した のです。したがって、ことは一つの動きの異なる側面であるということにな ります。これこそ公的な行政管理の発展という現象です。

この点は、極めて重要です。西欧の中世史家は、メロヴィング期(6-8世 紀)、さらにはカロリング期(8-10 世紀)における文字の利用については、

いまだに意見の一致を見ていません。これに対して、すべての研究者は以下 の点で合意しています。すなわち、イタリアでは 12世紀にすでに、アルプ スの北では 13世紀には、王から都市、ややのちには領主といった、いわゆ る公的当局が文字にますます頼るようになったという事実です。長い時期に わたって、資料を生成させる組織とこれを管理する組織は同一でありましょ う。しかしながら、アーカイヴズは、たとえ特別な部局を構成していない場 合でも、さまざまな制度の、政治的・行政的機構の中核に存在するのです。

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そして、それらの新しい動きこそ、いわゆる「近代国家の生成」と呼ばれる ものなのです。

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Referensi

Dokumen terkait