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EM フォースターの思想形成 - ――クラッパム派の再評価

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福 田 二 郎

小説家としてのE. M. フォースター(1879-1970)が最後に出版した作品は,彼の 代表作であるA Passage to India (1924)である。その高い評価を考えれば,次なる 大作を待ち望む読者にとっては45歳という若さのうちの断筆であった。その後91歳 まで生きた彼の人生の後半は,主に評論活動に捧げられる。彼が生きている間に出 版された最後の著作は,『マリアン・ソーントン:ある家族の伝記』(1956)という大 伯母の伝記だ。

フォースターには,ナイチンゲールやヴィクトリア女王などの伝記作家として名 高いリットン・ストレイチーという友人がいる。しかしフォースターは,歴史上ほ ぼ無名といってよい身内の人間の伝記を書いた。それは一般的に伝記というものを 書くという動機,すなわちひとつの時代の著名人,社会の変革に大きな影響を及ぼ した象徴的人物を取り上げることにより,その背後にある大きな歴史の動きを記録 しようというものではなかろう。また無名であっても,突出した性格や素養を持っ ており,その人生をたどることは,読者にとって未知で興味深い人間考察を提示す るというものでもない。

マリアン・ソーントンは,あまりにもありふれた凡人なのである。英国の上流階 級に生まれて大きな屋敷に住み,結婚を逃したが多くの家族に囲まれ,老齢まで一 族の中心的人物として主に家の中だけで生涯を終えた女性の一生。それはひとつの 典型的な英国的特徴を描いている。それはマリアンでなくてもよいのだろうが。そ れは古き良きヴィクトリア朝時代の終焉を記念するといってもよいものだろう。「古 き良き」というのはフォースターにとってである。彼が77歳という年齢で,幼い頃 のわずかな記憶を掘り起こし,一族の遺産として残る様々な資料を丹念に整理しよ うと思いついたのは,家系の歴史に強いこだわりを持つ英国人気質とともに,失わ れつつある彼の子供時代に対する郷愁の念であろう。さらに,フォースターが人生 の締めくくりに近づいた年齢に近づき,彼の文人としてのアイデンティティ,ヒュ ーマニストとしての立脚点を再確認したかったのではないかと思われる。

マリアンの伝記は,彼女の命ともいえる家,バタシー・ライズ,そしてその土地,

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ロンドン南西の郊外にあるクラッパムの由来から始まる。フォースターの代表作の ひとつである『ハワーズ・エンド』が,そのタイトルを作品中の家の名前からとり,

その家が作品中の精神的象徴として重要な意味を持っていたように,バタシー・ラ イズという家はフォースターの属する家系一族にとって,物理的にも精神的にも象 徴的な中心地であった。その歴史の始まりは,マリアンの曽祖父ロバートが1735年 に当地に移り住んだことにさかのぼる。彼はイングランド銀行の頭取で,ロシア貿 易で財をなした商人であった。その息子,マリアンの祖父ジョンも同銀行の頭取と なり,父ヘンリー(1760-1815)もまたそのあとを継いでいる。つまり代々成功し た商人の家系というわけである。

フォースターは1939年,60歳のときに「ニューステイツマン・アンド・ネイショ ン」という週刊誌に「ヘンリー・ソーントン」という,彼の曽祖父,そして彼の生 きた時代を紹介するエッセイを書いている。彼に言わせると,一族の長であったヘ ンリーは,「単なる成功した銀行家,大々的な慈善事業家,敬虔なクリスチャン,愛 情あふれる夫,思慮分別のある父親,誠実な友,正直な市民,腐敗などありえない 代議士」という,お手本にでもなるような人物であったらしい1。しかしこれほど立 派な御先祖様であるにもかかわらず,フォースターは「単なる」というやや否定的 な形容詞をつけている。

続けてフォースターは,ヘンリーの遺した祈祷書を紹介する。これは1834年から 20年あまりの間だけで31版を重ねた,隠れたベストセラーである。驚くことに,3 世代を経たフォースターの生まれた時代でも印税が入っていたらしい。それはヘン リーがバタシー・ライズで朝晩食事の前に,家族に向かって読みあげた個人的なお 祈りの書である。この内容について,フォースターは「なぜこのようなものが19世 紀半ばに,真の福音主義の卓越したしるしとなりえたのか理解に苦しむ」と言って いる2。彼はそこにヴィクトリア朝末期の,今や消え去った古き良き時代の雰囲気,

贅沢に暮らす人々が厳かに跪いている姿を想像させる以外に意味はないと言いきっ ているのである。ここでそのお祈りの内容を考察してみよう。

34もの寝室があり,数多くの使用人が働くバタシー・ライズ。ソーントン一家全 員が食卓に集まり,皆が静まったところで一族の長,ヘンリーが厳かに祈りの言葉 を読み上げる。「全能なる永遠に神聖なる神よ」で始まり,「いと高き天の」,「不死 なる」,「偉大なる」,「祝福された」などといった賛美の単語の繰り返しである。そ して一方で「我々」は「迷い」や「間違った道」に陥りやすく,ひたすら謙虚に「善 なる神」に救いと導きを願う。似たような決まり文句の繰り返し。これを毎日聞か

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される家族や使用人たちはうんざりしていたか思考を停止していたか,しかしこれ がベストセラーになるほど需要があったということは,たしかに19世紀の英国上流 階級の生活の雰囲気を知る歴史的資料とはなるだろう。

現代の読者であれば,当然繰り返される神の賛美以外のところに注目するだろう。

例えば時に海外の状況にも言及がなされる。

外国の地に,はりつけになったあがない主の知識を広めようと努める者に,特 別な天恩を授けたまえ。彼らが偶像崇拝や迷信に対してよく闘うことが出来る よう,その摂理と恩寵によって助けたまえ3

西欧諸国から見た,西欧以外の地域に対する極度に単純化された認識,それに付 随する蔑視,そしてそこから導き出される帝国主義による植民地政策の正当化を,

20世紀になってパレスチナ出身の文学者サイードは,その著作『オリエンタリズム』

によって厳しく指摘した。それを参照するまでもなく,このヘンリーの思考方法に は絶対的なキリスト教中心主義,そしてそれ以外の文明,宗教は間違いであり,正 すべきであるという傲慢さが見てとれる。ここで忘れてはならないことは,ソーン トン一族は代々大手銀行の経営に携わり,さらに海外事業への投資によって莫大な 財をなしているということだ。18世紀から19世紀にかけての英国金融業は,植民地 政策による商業活動の上に成り立っていたといってもよい。「合法的な」事実上の略 奪と搾取の裏には,このようなキリスト教中心主義による正当化があったことを忘 れてはならないだろう。

しかしヘンリー本人はひたすら「謙虚さ」を求め,「傲慢さから逃れられるように」

と祈り続けるのである。

我々が謙虚さをまとうことが出来ますように。すべての良俗に反するもの,世 俗的な欲望を否定し,我々がこの現世において,落ちついて良く正しく生活す ることが出来ますように。それぞれが適切な義務を果たし,よくとらわれがち になる怒り,悪意,憎しみ,嫉妬,そしてその他すべての悪しき性質に十分注 意を向けながら,我々は持っているものだけで満足出来ますように4

金融業によって莫大な財産を築き,多くの使用人がいる大邸宅で豊かに暮らす 人々が,毎日このような謙虚さと節制を説いているのである。繰り返し「貧しい人

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びとに目を向けるように」と自戒しているのである。「それぞれが適切な義務を果た し」というのは,「子供は親に従順であり」,「妻は夫に尽くして家をとりしきり」,

「使用人は正直に働き」,ヘンリー本人は「できるだけ稼ぐ」ことになる。「大金持 ちになること」と,「現世の欲望を打ち消し,節制を守ること」を両立させるのは難 しそうだ。キリストも,「金持ちが天国に入るのは難しい。金持ちが神の国に入るよ り,ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしいことだ」と言っているではないか。

この撞着する問題を説明するのに,マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティ ズムの倫理と資本主義の精神』(1904~5)を参照しよう。ドイツの社会学者ヴェー バーは,米国や英国など,プロテスタントの中でも特にカルヴィニズムの流れを汲 む国では資本主義の発達が顕著で,カトリックの国々や,プロテスタントのなかで もルター派の流れを汲む国ではその発達が遅かったことに注目し,そこには因果関 係があると考えた。

一般的に,カトリック信徒が教会で懺悔し,赦免を受けて罪の決済をするという ような構図を,教会の権威を批判するプロテスタントであるカルヴァン派は特に否 定し,日常生活全般のなかでの禁欲と節制を内面化しようとした。つまりあらゆる キリスト教信者が修道士のような生活を送ることを理想とするようになったのだ。

そしてプロテスタント特有の教義,世俗的な日常の労働における義務の遂行のなか に,宗教的意義を認める思想が生まれる。各人が各々の持ち場で精一杯働くことが,

神の栄光を増すことになるのだ5

「職業」を意味するドイツ語の“Beruf”,英語の“calling”という単語には,「神 から与えられた使命」という意味がこめられている。このような表現は,カトリッ クが優勢な諸民族には見られず,プロテスタントの優勢な諸民族には必ず存在する こと,そしてその違いは聖書の翻訳者の精神に由来しているということをヴェーバ ーは指摘している6。そしてプロテスタントのなかでも,特にカルヴァン派から発生 した英国のピューリタニズムが,この「天職理念」のもっとも首尾一貫した基礎づ けを示していると考察している7。再びヘンリーの祈祷書を引用しよう。

神は我々それぞれに生活のなかでの仕事を定めた。おお神よ,我々がそれぞれ の義務を勤勉に果たすことができるようにさせたまえ。願わくば我々が無益に,

怠惰に時間を無駄にすることがないように。また我々に委ねられた信用に対し て不誠実なことがなからんことを。そしてつまらない善の装いなどをまとうこ とのないよう。そして周りのあらゆる人々を騙そうとなど少しも考えないよう。

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そして神の目が我々を常に見ているということを覚えておきますよう。…8

実はこの文と段落はまだまだ続くのであるが,ヴェーバーの指摘する英国ピュー リタニズムの特徴を指摘するには十分だろう。このようにヘンリーは日常生活のな かで(食事ごとに)不断の反省,節制,それぞれの持ち場での努力を唱え続ける。

しかし英国国教会の司祭で,欧米を中心に大きな勢力となるメソジスト派の開祖で あるジョン・ウェズリーが懸念するように,ひたすら勤勉で質素・節制を重んじて いれば,当然金持ちになってしまう。すると豊さを謳歌し,現世への執着心も強く なりがちだ。それは望ましいことではない。そこをどうやって理屈をつけるかが問 題だ。

富の獲得は,合法的な経済活動のなかの職業である限り,それは推奨されるどこ ろか宗教上求められる義務であると考えられた。「カトリシズムでは条件つきで許容 されえたことがらが,プロテスタンティズムでは積極的に道徳的に善いこととなっ た」のである9。問題になるのは,富を築くこと自体を目的にしないこと(つまり金 儲け自体を目的にしろ,ということです)。そして富が物質的欲求を満たす手段とな ってしまうこと(貨幣を消費の手段としてはいけないのです),そしてさらに稼ぐこ とを休んでしまったり,怠惰や安逸な生活にふけってしまうことだ。金がたまった ら贅沢をしたいとか,早く優雅な隠居生活をしたい,というのはもってのほかなの である。神の目はいつでも見ているのだ。

宗教的情熱に支えられて,休むことなく稼ぎ続けて節制をし,金持ちになった信 者に対してウェズリーは,「天国に宝を積むために,できる限り他者に与えねばなら ぬ」と勧告する10。ヘンリーのお祈りも,この教えに忠実に沿って唱えられる。

我々に自制する勇気を与えたまえ。そして他者に親切で寛大である心を与えた まえ。いつでも受け取るよりも与えるほうが素晴らしいことであると心にとめ ながら。… 我々は富,名声,尊敬,豊かさを求めはしない。ただ静かで,平 和な心を,聖なる生活をおくる機会だけを祈るのみです11

というわけで,ヘンリーは金融業で熱心に働くと同時に,片時も休むことなく慈 善事業に精を出した。当時クラッパム・コモンには裕福な福音派の人々や,志を同 じくする高潔な代議士たちが集まり始めており,それはクラッパム派と呼ばれるよ うになった。そのなかのひとりが,ひとつ年上のいとこである代議士のウィリアム・

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ウィルバーフォース(1759-1833)である。ヘンリーとウィルバーフォースは気が 合った友人というよりは,ほとんど神の名のもとに結ばれた同士である。

二人が中心になって手がけたクラッパム派の慈善事業には,教育関係では「日曜 学校協会」ほかに子供のための数々の慈善学校,宗教にかかわるものとして「ロン ドン伝道者協会」「宗教パンフレット協会」「若者宗教教育促進協会」「英国内外聖書 協会」,社会的な使命感を帯びたものとして「貧しく障害を持つ子供たちのための施 設」「孤児の少女のための避難所」「貧乏人の生活環境を改善し慰安を増加させる協 会」「産業関係労働者慰安協会」「英国軍人・水夫の孤児のための協会」「非行防止協 会」「貧乏・虚弱・年老いた未亡人・性格の良いひとり者・かつては裕福だった人た ちなどの慰めとなる女性共済会」「煙突掃除少年の仕事をなくす協会」,また海外で は「アイルランド慈善学校」「アフリカ教育協会」「西インド諸島の黒人への伝道協 会」などがある。まだまだあるのだが,とにかく常に「弱者はいないか」と目を光 らせ,目に止まるやいなや救済の手を差し伸べるという,休むことのない人生であ った。なかでももっとも歴史に残る有名な活動が,奴隷解放運動である。

ヘンリーとウィルバーフォースを中心とするクラッパム派は,奴隷制度に対して,

強い反対を受けながらも宗教的信念から粘り強い活動を続け,20年にも及ぶ苦労の 末,ついに1807年に奴隷貿易を違法とする法律を制定させた。この世界に先駆ける 快挙は,「黒人と白人が平等に共に仲良く暮らすことのできる地」を作ろうとする理 念を持ったものであった12。これは一般的な国益に反することだけに,「良心の勝利」

とも言えるものであろう。この法案が通った後,ウィルバーフォースは「さてヘン リー,次は何を廃止させてやろうか?」と尋ね,ヘンリーは「宝くじがいいと思う よ」と答えたそうである13。なるほど彼らの宗教的信念には,一攫千金を夢みる宝 くじは許し難いものであったろう。

ここまでヘンリーを中心とするクラッパム派の活動を見てきたが,ここでフォー スターがそれをどのように見ていたかを考察しよう。

クラッパムの人々は(ヘンリーの祈祷を)聞き,跪くのを終えると食事をし,

それからできるだけ沢山稼いだのである。そしてまたできるだけを施した。ど ちらにしても大変な額だった。当時の経済状況のおかげで,富はこういった立 派な人々に朝から晩まで流れ込んできており,心理学者でもなかった彼らは,

すぐさま使って身を清めてしまえば,多額の金は彼らの魂に何の影響もない,

と考えていたのである14

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身内に対して,辛辣な批評である。この「ヘンリー・ソーントン」というエッセ イを発表する4年前にも,フォースターは「バタシー・ライズ」というエッセイを 雑誌に投稿している。そこでもクラッパム派の特性を,「富,福音派の信仰心,純粋 な善,偏狭さ,自己満足,誠実さ,あら探しをしたがる性質,党派性,気高い公共 心,こういったものがお互いに調和を乱すことなく,その広い胸のなかに生き生き としていたのだ」と評している15。どれだけ慈善事業に精を出しても,その一族は みな大変裕福であったし,フォースター自身もいくらかはその財産を受け継いでい るということを彼は認識しているのである。その上で,フォースターは「見えざる 存在に対する無関心が,曽祖父の一派の大きな欠点であったように思える」と指摘 する16

奴隷制度が産業労働者のことである場合には,彼らは何もしなかったし,何か しようとなど考えもしなかった。彼らはそれを何か「自然なもの」と見なして おり,それに遭遇することは,ものを学ぶ経験になるくらいのことか,独善的 に自分たちの境遇をありがたいことだと思う機会になるくらいだった17

なるほど「信仰,勤勉,節制」がすべてといってよいクラッパム派の人々にとっ て,労働者たちは憐みの対象にはなっても,決して対等の権利を持つ人間とは思い もよらなかったのである。また当時英国の資本主義経済の発展(=植民地を土台に した帝国主義の繁栄)は凄まじい勢いの成長を示しており,骨の髄から保守的な彼 らは,例えば労働者に対する「団結禁止法」を支持しているし,ヴィクトリア朝の 階級社会は永遠に続くものと考えていたに違いない。資本主義および帝国主義のひ ずみが顕著になり,マルキシズムの登場を待つまでにはまだしばらくの時間があっ たのである。

フォースターは,このようなクラッパム派の限界に対する批判には同意するが,

時にそのような批判に伴う道徳的憤りは共有しない,と言う。商業主義が勢いを増 して広がる世界で,手段を選ばずに蓄財に専念する者,合法であれば問題ないと金 儲けに熱心になる者たちが圧倒的多数であるなか,彼らは常に「善なるもの」を意 識しながら生きていたからである。確かにクラッパム派が活躍した時代から,人類 は社会主義,共産主義,全体主義,資本主義に民主主義など,様々な社会制度を考 え試し,200年の月日が過ぎた現代でさえも,慈善事業,富の分配,生産手段・経

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済活動の公平化など,制度的・道徳的に,どれだけの改善がなされたものだろうか。

次にクラッパム派の女性たちを見てみよう。休むことのない精力的な人生を送っ たヘンリーは50歳の若さで病死し,その妻も後を追うように同年に他界した。バタ シー・ライズには,当時18歳の長女マリアンと15歳の長男ヘンリーを筆頭に(長男・

長女はそれぞれ両親と同じ名前なのでまぎらわしい),9人の子供たちが残された。

クラッパム派の親しい友人たち,多くの親戚と十分な財産はあったが,子供たちは 当然後見人を必要として様々な人々の世話にならねばならなかった。長女のマリア ンにとって,精神的支えとなったのは父の同士であるウィルバーフォース,そして 彼女の名付け親で,クラッパム派と志を同じくする活動家,ハナ・モアであった。

この女性についても,フォースターは「ミセス・ハナ・モア」というエッセイを 書いている。ハナは5人姉妹の4番目で,姉妹揃って戦闘的でよくしゃべり,奴隷 貿易に反対で,貧しい人びとを向上させようとした。彼女もクラッパム派と同じよ うに,常に不幸な環境にある人々に目を向け,慈善事業に熱心だったのである。

彼女が貧しい人びとと交わりたいという願いは,心からの憐れみと愛情が入り 混じっていた。そしてある意味で,貧しい人びとに敬意を持って近づこうとす る人々よりも近づくことができたのである。彼女の生徒たちが農民の息子でな い限り,彼女は書くことを許さなかった。そして歴史や科学を学ぶべきだ,な どという提案を受けようものなら,ぞっとするほどの反感を持った。また逆に 子供たちから何かを学ぶ,などという考えなど聞こうものなら,彼女の精神に はフランス革命でも起こったようになったことだろう。それにもかかわらず,

彼女は「この世で私が何か少しでも知っているとすれば,それは貧しい人たち のことなのです」と言ったのだ18

もちろんこのような考え方に,人は度し難い高慢な姿勢,根っからの貴族意識を 見るかもしれない。フォースターは後に引き剥がされるその偽善性を認識しながら も,「彼女は田舎で,姉妹に囲まれてショックを受けたり,忙しくしていたほうが彼 女らしい」と好意を持っているのである19

若くしてソーントン家の長とならねばならなかった長女マリアンも,クラッパム 派の精神を引き継いだ。彼女も父ヘンリーと同じように,カルヴァンの流れを汲む 福音派の教義を当然のこととし,儀式だとか他の宗派のことなど頭になかったらし い。そして家庭内ではオースティンの小説のように,一族の縁組や財産の問題など

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に頭を悩ませていた。そして対外的には慈善事業,特に教育事業に熱心であった。

その動機について,フォースターは伝記のなかで二つを挙げている。

一番真っ先にくるのが,無知への嫌悪,そして18世紀的な理性への信仰であっ た。子供たちは,知識が増えるほど,より幸せで,より健康的に,そしてより 役に立つようになるだろう。「より多くを知る」ということは,「人生から最良 のものを得ること」という意味においてだった。ふたつ目の動機になるが,子 供たちは身分に応じた教育を受けるべきということだ。ハナ・モアのように,

彼女は現存の社会組織は満足すべきもので,これからも続くだろうと思ってい た。彼女の属する階級には召使いや住み込みの女家庭教師が必要だったので,

彼女は良質なそういった人材を教育が輩出できるか気になっていたのである20

フォースターは,この指摘のあとで,個人的には「第一の動機のほうを強調した い」と述べている。たしかに善意の一般市民の,特に裕福な人間の保守的な考え方 の特徴を指摘はしても,感情的な批判をしてもしかたのないことだろう。現在の日 本の教育制度を鑑みても,「実用」だの「実践」が重視され,「格差」が広がる社会 制度の根本的問題を考察することよりも,現存の商業システムのなかの「有能な働 き手」の養成が叫ばれているではないか。

ここまでフォースターがクラッパム派をどのように評価したのかを見てきたが,

ここで「英国民の特性」というエッセイを取り上げ,フォースターによる英国の国 民的気質についての考察を追ってみよう。

英国民の特質は,本質的に中産階級的である。… 堅実で用心深く,清廉で能 率的。想像力の欠如。偽善性21

このくだりを読めば,フォースターが見たクラッパム派の特質は,その多くの部 分が英国民の特質と重なるということがわかるだろう。彼は英国民の本質が中産階 級にあるならば,その中産階級の本質にあるものは,義務的な集団行動,礼儀と団 体精神を重視するパブリックスクール・システムだという。

次の考察は,これまで繰り返し引用されてきたくだりである。

(均質化されたパブリック・スクールの卒業生たちは)この世界へ,まったく

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パブリック・スクールの卒業生でないどころか,アングロ・サクソンでさえも ない,浜辺の砂ぐらいに多種多様な人々で満ち溢れた,彼らには考えも及ばな い豊さと精妙さを持ったこの世界に出てゆくのだ。彼らはよく発達した肉体,

素晴らしく発達した知性,そして未発達の心を持って出てゆくのだ。そしてこ の未発達の心が,英国民が海外でやっかいごとを起こす大きな原因になってい るのである。未発達な心ということで,冷たいのではない22

この「未発達の心」こそ,冷たくはないが想像力に乏しいという,クラッパム派 の思考の限界につながることは言うまでもないだろう。それがフォースターの厳し い結論を導く。「常にわれわれ英国民が受ける第一の告発は偽善性だ。… 聖書を片 手,ピストルを片手,両のポケットには経済的利権がたんまりの帝国を築いた国民 なのだ」23

続けてフォースターは英国民の宗教感覚について考察する。

正しい行いというのが英国民の目的なのだ。宗教には,日常生活において良き 人間にしてくれることを求める。より親切に,より正しく,より慈悲深く,悪 しきものに闘いを挑み,良きものを守れるようにと。誰もこれを低級な考え方 だと言えはしないだろう。これもまあ,精神的なものだ。しかし,これは―国 民の典型的な性質だと思うのだが―宗教的概念の半分でしかない。宗教という ものは,神によって認められた道徳律だけではない。それはまた,神聖なるも のに直接関わるための手段でもあるだろう24

マックス・ヴェーバーが指摘したように,カルヴァンの流れを組む英国人の宗教 に対する姿勢は世俗的な日常生活の重視であり,非現世的なカトリシズムと,その 意味で対照的である。フォースターはクラッパム派の宗教的慈善行為を評価しなが らも,それが「冷たさ」ではなく「未発達」ゆえの限界を持つのは,上記のように 欠けている部分があるのだ,と考えるのである。

ここまでフォースターの,父方の家系であるクラッパム派に対する考察―それは 英国民の特質を代表するものであるが―を見てきたが,その総括的な評価の言葉を 拾い上げてみると,フォースターが志向したひとつの展望が見えてくる。

(クラッパム派については)二つの点が顕著である。ひとつはその一様性だ。

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マコーレー家を除いて,そのメンバー全員が裕福で,また全員が例外なく慈善 事業に熱心で,芸術的というよりは知的であった25

つまりクラッパム派の人々に欠けている点は,「芸術性」ということになる。フォ ースターは他のエッセイでも,ヘンリー・ソーントンにとっては「詩,神秘,熱情,

恍惚感,音楽などは問題にならなかった」26と指摘し,またバタシー・ライズの人々 は「芸術的感覚がなかったことは言うまでもなく,文学にも,知的なもので人格形 成に役立つもの以外は関心がなかった」27と繰り返し述べている。ではその「芸術 的感性」というものがどのように必要とされるのだろうか。

フォースターは「我々の時代の難題」というエッセイで,「自分はヴィクトリア朝 的自由主義の末端に属する人間だ」とし,その古き良き時代の教育は自分を穏和に 育て,それで良かったと言っている。しかしその教育は人道的ではあっても,自分 たちの経済的立場を理解させるには不十分であったと認めている。そして「我々の 時代の難題にうまく答えるには,この新しい経済と古い道徳をなんとか結びつけな いといけない」という28

ここでフォースターは「創造にたずさわる芸術家(作家)としての見解」と前置 きをしつつ,新しい経済世界のなかで,しばしば軽蔑される芸術というものにも,

活動する余地があるのではないかという。

(作家・芸術家は)簡単に言えば,自分の望むことを言えばいいのであり,計 画を立てる権威筋によって言わされるべきではない。外から言われたことを受 け入れるのではなく,自分に課した規律を置くべきである。そしてその規律は,

社会的だとか道徳的なものではなく,美的なものになるだろう。芸術のための 芸術を実践しようとするのです。この言葉は馬鹿げた使いかたをされたり,よ く失笑を買ったりします。しかしそれには深い意味がある。芸術には自立した 調和があるということです。芸術に価値があるのは,教育的であるということ でもなく(そういうこともあるが),創造的であるということでもなく(そうい うこともあるが),誰もが楽しむからでもなく(誰もがということでもないだろ う),美と関わるからなのです。それが価値あるのは,秩序と関わっているから であり,この混乱した惑星のなかで,内的な調和を持つ独自の小世界を作り出 すからなのです29

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クラッパム派が熱心であった社会に対する宗教的慈善行為は,もはや弱肉強食の 資本主義経済のなかでは力を失った30。そこでフォースターが打ちだすのは「芸術 の必要性」である。確かに現代においても,この世界の混乱に対する治癒策として,

芸術の効用を持ち出せば失笑を買うかもしれない。しかしそれはもちろん宗教にと ってかわる万能薬のようなものとしてではない。フォースターは,「芸術のための芸 術」というエッセイで,「社会というものは,人間精神のひとつの断片をあらわして いるにすぎない。また別の断片は,芸術を通してしかあらわすことができない」と 述べている31。つまりフォースターは,クラッパム派についても英国民の特性につ いてもそうであるが,その特徴を指摘しながら批判一辺倒になるのではなく,評価 すべきところは評価し,常に足りない部分を補足しようと論を進めているのがわか る。この二者択一的姿勢ではなく,また対照的な性質を持つものを並べて単なる妥 協や間をとるといった姿勢でもなく,その違いを持った複数の範疇を一歩下がった 位置から考察し,それを総合的に受け入れ,その上で秩序や調和を求めようとする のがフォースターの姿勢であった。

フォースターは,父方の家系について多くを語っているが,はるかに貧しく,従 ってほとんど資料が残っていない母方の家系については多くを語ってはいない。し かしマリアンの伝記のなかで,ソーントン家に嫁いだ母についての言及があり,そ こで母方になるウィッチェロー家についての言及がある。それによると,「私の祖父 は,絵描きだった。彼は創造的芸術家の繊細さと気質を持っていた。… 誰から聞 いても,彼は感じの良い人だった―自己中心的ではなく思いやりがあり,感受性豊 かでハンサムで陽気で,景色や建築物の美しさに敏感だった」という32。また祖母 は「愛らしい生き生きとした女性で,とても愉快で機知に富み,楽しいことが好き で寛大で,先のことをよく考えず,決して試練を天から受けたありがたいものだ,

などとは考えなかった」とある33。また母のリリーについては「陽気で魅力に満ち ていた」とあり,ソーントン家とは全く対照的である34

フォースターの批評においてストーンは,ジョン・スチュワート・ミルの「すべ ての英国人は,ベンサム派かコウルリッジ派かのどちらかである」という言葉を引 用し,単純化を恐れずに言えば,フォースターの小説に登場する人物はこの2種類,

すなわち功利主義者的かロマン派詩人的のどちらかである,と述べている35。もち ろん厳密にあてはめられるものではないが,主要登場人物について,その傾向が強 く出ていることは間違いないだろう。処女作の『天使が踏むのも恐れるところ』に 登場するリリアは,明るく奔放で因習的な英国の家族から飛び出して,旅行先で年

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下のイタリア人と子供を作ってしまう。また最後の小説『インドへの道』では,敬 虔なクリスチャンで,やや気難しいが広い心の持ち主のムア夫人が登場するが,そ れぞれが母のリリーと,クラッパム派に深いつながりを持つハナ・モアを連想させ るのは偶然ではなかろう。

この対照的なソーントン家とウィッチェロー家の特徴を見て,フォースターが最 終的に後者をとるといった姿勢ではないことに注意しなければならない。もちろん 小説のなかでは前者の狭量な部分が指摘され,後者が好意的にとられる印象がある。

しかしどちらにおいても長所と短所が描かれ,その出会いによるそれぞれの成長が テーマになっているのである。冷たい功利主義者の商人と,芸術を愛するリベラル な女性の結婚を描いた小説『ハワ―ズ・エンド』で語られる言葉を思い出そう。「た だ散文と情熱を結びつけるのだ。そうすればどちらも高められ,人間の愛は一番の 高みに達することだろう。もう断片のなかに生きてはならない。36

ストーンはフォースターが,上記の対照的なふたつの傾向のどちらにも強い傾倒 を持っており,「芸術家でもあると同時にモラリストでもあり,詩人でもありながら 散文家でもあり,小説家でもありながら社会批評家でもあった」と述べている37。 そしてフォースターにとっての芸術は,力を失った宗教の代わりになるもので,別 の言い方をすれば,それは「ヒューマニズム」であると言っている38

ここでマンハイムの知識人論を参照したい。彼によれば,政治や世界観が対立す る場合,ひとつの階級に属する党派的な見方は解決をもたらさない。そこで総合的 な視野をもたらすものは,比較的階級色をもたない「社会的に浮動するインテリ層」

だとする39。限られた生活圏の世界観を受け入れた人間は,その中だけの価値観で 判断をするが,社会的な絆から自由に浮動する知識人はそれを突き抜ける。

教養を身につけることによって,個人の身分上,階級上の束縛がまったく捨て 去られることはない。しかし,この新しい結合の基盤の独自性は,次の点にあ る。つまり,教養を通じて,ある共通の土俵がつくりだされ,抗争しあう諸勢 力は,それを目安にして優劣を争うことができる。それは,いわば対位法形式 のうちに諸要素の多声音が保持されるのに似ている40

このような知識人というものは,ひとつの信念,世界観を受け入れる党派的立場 から離れるため,「どっちつかず」や「非行動的」といった否定的な批判を受けがち である。マンハイムはこのような浮動する知識層が進む道はふたつあるという。ひ

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とつは対立する階級へ自ら加担する道であり,もうひとつは「自己の根底への自己 省察の道,いいかえれば,全体がもっている精神的関心の代理人として運命づけら れている自分の使命をたずねることである。41」後者の道は,知識人のなかでも「ヒ ューマニスト」という人種のことになるだろう。つまりフォースターの選んだ生き 方であった。

ソーントン家とウィッチェロー家という対照的な家柄の出自を経て,フォースタ ーは大伯母マリアンのはからいによってケンブリッジ大学へ進学する。因習的で偽 善的なソーントン家の財力によって,彼は進学も可能になり卒業後も職につかずに 済んだ。彼は最晩年に書いたマリアンの伝記の終章でこう語っている。

私はマニ―大伯母様があまり好きではなかった―年をとり過ぎていたし,私に くれたプレゼントの山は,私の小さな胸には届かなかった。私が(マリアンの 死で)泣いたのは,簡単だったし私の母が望んでいただろうからで,人が死ぬ ということだったからだ。年月が過ぎ,私は大伯母様がもっと好きになった―

彼女の良き人生をたどり語ろうとするいま,一番に愛している42

ストーンの図式を使えば,ベンサム派であるソーントン家のおかげで進学したフ ォースターは,ケンブリッジ大学,そしてその後深いつながりを持つブルームズベ リー・グループなどでコウルリッジ派の洗礼を受けることになる。おそらくその成 長期にクラッパム派に対する距離を持つことになったのだろう。その考察は稿を改 めることになるが,晩年になって作家の人生を歩んできた道のりを振り返り,知識 人,そしてヒューマニストとしてのアイデンティティを再確認するにあたり,フォ ースターはクラッパム派を再評価しようとしたのではないだろうか。

1 E. M. Forster, “Henry Thornton” (1939) in Two Cheers for Democracy, (London:

Edward Arnold, 1951), 185.

2 “Henry Thornton”, 186.

3 Henry Thornton, Family Prayers, (London: Hatchard & Son, Piccadilly, 1842), 5.

4 Family Prayers, 116.

5 マックス・ヴェーバー,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久 雄訳,(岩波文庫,1989年),166.

6 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,95.

7 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,289.

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8 Family Prayers, 18.

9 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,316.

10『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,353.

11 Family Prayers, 134-5.

12 William Hague, William Wilberforce: The Life of the Great Anti-Slave Trade Campaigner, (London: Harper Press, 2007), 222.

13 William Wilberforce, 354.

14 “Henry Thornton”, 187.

15 E. M. Forster, “Battersea Rise” (1935), in Abinger Harvest and England’s Pleasant Land, (London: Andre Dewtsch, 1996[1936]), 238-9.

16 “Henry Thornton”, 188.

17 E. M. Forster, Marianne Thornton, (London: Andre Dewtsch, 2000[1956]), 54.

18 E. M. Forster, “Mrs. Hannah More” (1926), in Abinger Harvest, 234.

19 “Mrs. Hannah More”, 234.

20 Marianne Thornton, 224-5.

21 E. M. Forster, “Notes on the English Character”(1926), in Abinger Harvest, 3.

ちなみにこの「英国民の特性」と「ハナ・モア」のふたつのエッセイは同年に書か れている。

22 “Notes on the English Character”, 4-5.

23 “Notes on the English Character”, 10.

24 “Notes on the English Character”, 9.

25 Marianne Thornton, 45.

26 “Henry Thornton”, 188.

27 “Battersea Rise”, 239.

28 E. M. Forster, “The Challenge of our Time” (1946), in Two Cheers for Democracy, 54-55.

29 “The Challenge of our Time”, 57.

30 フォースターは以下のように述べている。「この世界は,ヘンリー・ソーントン が望んだようには発展しなかった。彼には認識できた人間性にひそむ悪と,彼には 認識できなかった商業主義にひそむ悪が,結合して世界を打ち壊し,彼が企てた宗 教的救済策は,今日ではうわべだけの些細なものにすぎなくなったようだ。」“Henry Thornton”, 188-9.

31 E. M. Forster, “Art for Art’s Sake” (1949), in Two Cheers for Democracy, 92.

32 Marianne Thornton, 249.

33 Marianne Thornton, 250.

34 Marianne Thornton, 251.

35 Wilfred Stone, The Cave and the Mountain: A Study of E. M. Forster, (London: Oxford University Press, 1966), 5.

36 E. M. Forster, Howards End, (London: Hodder & Stoughton, 1992 [1910]), 183-4. “Only connect . . .” という言葉は,この本の扉にも書かれている。

37 The Cave and the Mountain, 8.

38 The Cave and the Mountain, 19.

39 カール・マンハイム,『イデオロギーとユートピア』高橋徹・徳永恂訳,中公ク ラシックス,(中央公論新社,2006年),277.

40 『イデオロギーとユートピア』,279.

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41 『イデオロギーとユートピア』,282.

42 Marianne Thornton, 287.

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