ERROR ANALYSISと学習者の論理
士・ 田
孝
In error analysis, error has a positive import with a function in leaming strategy.
En ors constitute a valuable feedback in the teaching process.We might say that it isン at least partly,by loc呂ting errors that pupils leam to leam and teachers leam to teach. (Jan Svartvik)
0.英語教授法の視点を,教授者の側から,学習
者の側に移した場合に,ERROR ANALySISは
どのような示唆を英語教育に与えることが出来る かを,次の4点に亘って考察する。
1.学習者のrことば」としてのERROR
2.「言語の知識」及び「言語についての知識」とERROR
3。「評価」とERROR
4.個人としての学習者とERROR
〔註〕
・本稿でくERROR ANALYSIS>と称した場合は,具 体的な,学習者の個々の誤りの分析を指すのではな く,第1節で述べられている応用言語学の一分野とし てのr誤答分析論」を意味する。
・文中< >,r 」,( )内に示した用語は・そ れぞれ,英語教育,誤答分析論,言語学で,その概念 がおおむね規定されているものである。用語中,訳語 が末だ一定していないものは,英語のまま示すことに
した。
・引用文の末尾に付したベージは参考文献として掲げ た文献中のベージである。
・引用文中の下線は筆者が施こしたものである。
1.1 Contrastive(Ermr)Analysis(以下 CAと略)は,学習の結果を,教授者の視点から 分析するのに対し,Error Analysis(以下EAと 略)は,学習の過程を,学習者の視点から分析す
るという違いがあるという議論をまず展開する。
この違いはCAが依拠する言語理論と,EAが依 拠する言語理論の根本的な違いから導くことが可 能である。
CAはアメリカ構造言語学の応用科学のひとつ であるr対照言語学」の英語教育への適用であ る。このことを表現しているアメリカ構造言語学 者の発言を見つけることは容易であるが,ここで は最も典型的な,CA信奉者達にとって公理とし て受けとられた発言を,Fries(1945)とLado
(1960)より挙げておこう。
The most efficient materials are those that are based upon a scientぜic description of the language も。 be learned, carefuny compared with a paralel description of the native language of the learner. (Fries(19 45),P.9)
...individuals tend to transfer the.forms and meanings,and the distribution of forms and meanings of their native la㎎uage and culture to the foreign language and cu1−
ture−both productively when attempting to speak the language and to act hl the culture,and receptively when attempting to grasp and unders惚nd the lan即age and the culture as practiced by natives。 (Lado
(1960), p. 2)
アメリカ構造言語学における言語分析者(比 喩的には言語習得者)の用いる「言語資料」
(corpus)は発話行為の結果として現れた,従っ て,観察可能な音声であった。本論との関係で重 要なことは,r言語行動の結果として発せられた 資料を,観察者の側から 「分折」 (segmenta−
tion),「分類」(classification)し,文法を「帰 納的」に取り出す,という面である。更に,先に 引用したFries(1945)に指摘されているよう
に,導き出された学習者の母国語(NativeLan−
guage:以下Nしと略)の文法と,学習の対象 となる外国語(Target Language:以下T しと 略)の文法を対照(contrast)させ重なり合わな いところを外国語教授の際に重点的にたたく,と いう「アプローチ」は,2言語間の干渉から生ず る誤りの分析に続くr治療としての教授法」その ものの内容である。
EAの理論上の支えば変形生成文法及びその 言語習得への適用である「知的言語習得理論」
(cognitive code leaming theory)に求めるこ とが可能である。変形生成文法では,言語習得と 使用の装置を<black box>とし,言語を習得し,
「文法的な文」の全てを,又r文法的な文」のみ を発するという経験的事実を説明しうるメカニズ ムを「モデル」として構築し,それを<black box>の内容であると考える。Chomsky(1957):
The fmdamental盛m i且 the linguistic
analysis of a language I,is to separate the gη1 2 !σ ∫oσ∫ sequences which are the sen−
tences of L from the観8ワη翅吻σ 加1se−
quences which are not sentences of L and to study the stnlcture of the grammatical sequences.The grammar of L win thus
be a device that generates all of the gram−
matical sequences of L and none of the mgrammatical ones.(p.13)言語理論的に は,規則の集合としての文法モデルを用いて言語 事実を説明して行くという「演繹的」な仕組みと なる。これを言語使用者の点から述べ直すと,言 語使用者は,r先天的で普遍的な言語習得のメカ
ニズム」を用いて,言語についての仮説をたて,
その仮説を,言語使用の際に現われる言語事実(そ の中にはすでに仮説の一部が投映されている)に
よって検証して行きながら仮説を修正し,終局的 にはr最も妥当な仮説」を造りあげて行くわけで ある。Richards(1975)は次のように述べてい る。hlchildren,itapPears that thepτocess of fonnulating language is an active and creative pr㏄ess,yet a process that follows s㎞Uar patterns in ch皿dren across quite d廷fering learning circums惚nces. (p.115)
即ち,そのような過程は,言語の違いを超えた 普遍的なものであるという。この言語理論の枠の 中でEAを考えると,学習者は,言語習得の際に,
言語の習得と,言語についてのその都度有効と考 えられる仮説をたてていることになる。この仮説 が,EAにおいてしばしば言及されるr学習者の 習得方策」(1eamer s strategy)を指している
と考えて間違いはないであろう。するとERROR は,学習者が彼の仮説を用いて言語を使用する過 程で表層的に現わす構造の一種と考えることが出
来る。
1.2 rERRORは,教授者が最も注意して耳
を傾けるべき学習者のことばである」というのが 本論の基調であるが,このことは結局,ERROR を分析すれば,学習者がそのERRORを創り出 した時点においてどのような習得上の論理や方策 を用いているのか,又,Tしに対してどのような 仮説一「中間文法」,又はr中間言語」一を持つ に至っているのかが読みとれること,つまり学習 者のERRORは,彼のr中間的言語能力」(tran−sitional linguistic competence)について語 っていることになるであろう。ある一定期間に亘 る(10ngitudina1)実に様々な種類のERRORの 分析によって学習者の仮説検証の過程が把握出来 るという点を考えると,学習の到達点として現れ る単一の正解よりも ERRORの方が重要である ことが理解されよう。r学習者のERRORに対し て寛容であれ」というEA以来のスローガンを,
我々は教育的なものとしてのみ受けとる必要はな いと考える。学習者のERRORを重要視し,そし てそれを十分に分析した結果明らかにされた学習 者の,その時点での言語習得の仮説や言語に関す る仮説を明確に取り出し,学習者の方策に沿って それを活性化させ,正しい仮説作リヘと教師が協 力するということが教師の学習者の誤りに対する 寛容の中身と考えるべきではないか。
1.3 Corder(1973)は,学習者が内蔵して いる仮説作りのための装置が<dynamic〉で
<transitiona1>なものであることを指摘してい る。ダイナミックで中間的であるということは 又,その全貌を固定的に把え記述することが困難 であるということにもつながる。Corder(1973)
は,現段階で記述説明出来ない部分に対しては,
教授者の直感と洞察をもってこれにあたる以外は ないと説く。そしてこのことは,He has...
at some point i且his career actually b㏄n a
native speakel』of his pupi1 s interlanguage.
(P.39)故,可能なことである,と述べている。
この場合の he は外国語としての英語の教師の ことであり, his pupi1 s hterlanguage とは,
彼自身が英語学習の途中にくぐり抜けた幾つかの 段階の彼の英語のことに他ならない。EAは,教 授者に絶えず,自分自身が英語学習の際に体験し た困難を内省させ,学習者の立場に立戻ることを 要求する。先に述べたr寛容」は,そのような内 容も含んでいることに留意すべきであろう。EA には,教授者の論理から,学習者の論理に,教授 法の視点を移らせるという作用のあることはCA には求められない特徴であろう。
2.1 学習者が英語を学習する場合に彼等が必 要とする学習上の方策(1eaming strategy)作
りの拠り所となるもの(source)は何か,又,英 語についての<tentative>で<tmnsitiona1〉な 仮説作りの拠り所になっているものは何かについ て,EAの観点から次に考えてみょう。
D》ughty and Thorton(1973)は言語知識に 2つの種類を認めている。 Knowledge OF a
la且guage derives solely from the process of
leaming language,while knowledge ABOUT
a language embraces the intt直tion of folk−
Hnguistic and an ki且ds of knowledge about that are conscious and expHcit. (P.24)
r言語の知識」とは言語使用者が,言語が用い られる場面や文脈において,どのような文を用い るのが適切か,又使用された文に対してどのよう に反応するのが適切かという習得の過程を通して 無意識的に身につけた直感がその内容であり,そ れに対して「言語についての知識」とは,言語使 用者にその使用する言語についてある程度意識的 かつ,客観的に記述することを可能にする知識を 指す。前者を,工bughty and Thorton(1973)は
<operational knowledge〉と呼んでいるカ㍉そ れは,Fゴes(1957)の know in the sense of respond to (p.64)に該当するものであろ う。後者は,変形生成文法におけるr言語直感」
(言語使用者がその使用する言語について示す,
r文法的」,r非文法的」,あるいはそのr度合 い」,といった種々の反応の基礎となる知識)に 近いが,この方は,純粋に内省(introspection)
のみに基づく反応と,ある程度の文法を学習した
後に,文法用語(metalanguage)(恥ughty and Thorton(1973)の<folk−1inguistic〉もこれに 含まれる)を使用して示す反応とに分けられるで
あろう。
このような言語についてのレベルの異なる2種 類の知識は,英語学習者が英語を学習する際にた てる「方策」と英語についての仮説作りにどのよ
うに関係して来るであろうか。本稿ではERROR がなにがしかの,既習されたr言語材料」から生 ずることを考慮し,学習者がある程度の英語を習 得した段階にあるものとして論を進めることにし
ょう。
この場合,英語についての2種類の知識の存在 を前提とすることが必要となる。即ち,英語学習 者は,英語を,極めて限られた,それも学習上の 場面においてではあるが,適切に使用する知識を ある程度身につけており,又彼は,学習場面にお ける教授者の英語文法の説明によって,英語につ いてかなりに意識的な知識を所有していると考え られる。更に,英語学習者は,母国語である日本 語に関しても当然同じ種類の知識を<source>
としてすでに持っていると考えられるので,都合 4種類の知識が学習方策及び英語についての仮説 形成に関係していることを本論では主張している
ことになる。以上を整理すると,
Native Language:i)knowledge OF NL 五)1mowledge ABOUT NL
Target Language:i)knowledge OF TL
遜)knowledgeABOUT
TL2.2 <source>からの好ましい作用を正の作 用と呼び,好ましくない作用を負の作用と呼んで 区別するなら,本論における誤答とは,負の作用 の結果として現れる学習者の反応を指しているこ とになる。外国語学習者の学習過程を通じて,<
knowledge OF NL>は<knowledge OF TL>
に作用し,その負の影響の結果は,一般に<
inerference>とか<transference>と呼ばれる ものにあたる。H㏄king(1975):Inte㎡erence is the adverse effect of feahlres of a known language on the acquisition or use of a且一
〇ther language. (p. 87)
ERRORの<source>を<k且owledge OF NL,
TL>にだけ求める誤答分析はCA論者の基調
になっていることは明らかであり,EAの枠内で はそれを<interHngual error〉として位置づけ ることが出来るが(Selinker,1972;Richards,1975他)本節では<knowledge OF NL>は,と りわけ言語使用のレベルに関係していることがそ の特徴であることを指摘し,その点からEAを考
えてみたい。
学習者中心にこのレベルのERRORをながめ
ると,彼は,NLをいろいろな場面や文脈で適 切な用い方をするという過程を通じて<knowl−edge OF NL〉を身につけている。そのような
<knowledge OF NL>に依存してT Lを用い,
その結果が負のものであった場合にERRORが 発生する。そこで,本論では従来のCAにおける
<inte㎡erence>の概念を限定し,r言語使用の 際に<knowledge QF NL〉を言語学習者が負的 (adversely,negatively)に用いた結果生ずる
ERROR」という考え方を提案する。この考え方 は,Johanssonの議論によっても支持されるで あろう。Johansson(1973)は,外国語教育の目 的を<comprehensibility>と<co㎡o㎡ty>に 分け,〈confom丘ty>とは,言語を社:会的場面 で適切に用いることによって,その社会に適応し たり,その一員として正しく受入れられるように 使用することと説き,このレベルにおける言語使 用の失敗(ERROR)の影響を次のように述べて いる。 They could affect the relationship betw㏄n the speaker歌nd the Hstener...and thus have sedous effects on communica−
tion,even though the message is compre−
hensible.(P.105)〈knowledgeOFNL〉の
<knowledgeOF TL>への負の作用は,Corder
(1974)の<errorsintheuseofthe:code>
にほぼ相当し,<knowledge ABOUT NL〉の
<knowledge ABOUT TL>への負の作用とは 異質のものであることになる。学習者は,日本語 の<pragmatic〉な言語使用上の規則をもととし て,英語が用いられる場面と,そこで用いられる 言語に関して適切ではない仮説をたて,又,場面 と言語の相関関係(interaction)を習得するため の方策作りにも日本語のそれを持込んでしまうの がこのレベルのERRORである。つまり<know−
1edge OF NL,TL>間のERRORiは,吉田
(1978)が論じたコミュニカティヴ・コンビタン
スのレベルのものということになる。学習者は,
文法的には正しい文を作ることが出来ても,その 文が場面的に適切でない場合には,聞き手との間 にいろいろな問題を発生させる。Corder(1974 a)は, The problem is to what extent we should aim at achieving a native−1虫e ability h this area of communicative com−
pete且ce.This is tied up with the problem of what the social role of a 曜foreigner is in any s㏄iety.(p.124)と指摘しているが,
引用文中の 曜foreigner は外国社会に於けるT L使用者のことであり,本論ではT L学習場面に 於ける学習者を指す。教師は学習者に,学習活動 の際に言語材料を与えるが,その際,言語材料に よって学習者に自動的に付与される役害L学習場 面で学習者が位置づけられる社会的位置及び地 位,それらに付随してくる言語材料のr使用領 域」(register)を十分に配慮し,<㎞owledge OF NL〉からの持込みの結果生ずる<ERROR in the use of the code>を絶えず点検する必 要がある。Corder(1974a)はSbcial and reg−
ister en ors are concemed with a different aspect of communication,e.9.interpersonal relationships.(P.124)と述べ,又Wilkinson
(1979)も The kind of English that gives rise to血sunderstanding is not broke且En−
glish,which the native speaker automat−
ically adjusts in his own mind,but E 8傭h
方∫oh soz4 4s oo r80∫δμ云40θs o∫ 2εα zσhα
h8sρ8αたθ〆∫h痂々s髭卿θαπs! (The Japan
Times,August9,1979)という観察を行なっ ているが,我々はこの種のERROR<functional en or type>の持つ特殊な性格に充分留意すべ
きであると考える。その分析によって,学習者が T L社会に於てどの程度のr社会化」が可能か,
又,不可能かを知る手がかりを得ることが出来る からである。この観点からの誤答の分析は従来程 んどなされていないが,学習者に視点を置いた,
コミュニカティヴ・コンビタンスを目途とする外 国語教育を押し進めるならば,落してはならない 重要な観点であろう。
2、3 <knowledge二〇F NLンTL>は<know1−
edge ABOUT NL,TL〉とは異なるものであ り,そのERRORは〈social e∬ors>やくre一
gister errors>艮口ち<functional error1聯>
として取扱われるべきものである。本節では更に 詳しく<knowledgeOFL〉の内容と,それが起 因するERRORを論じてみたい。
言語の〈social function>と<register〉がそ の内容である<knowledge OF NL,TL>の具 体的な記述として,Quirkε α1.(1972)で示
されたThe Common Core of Englishの図式 中の変種(vaheties)の組合せの型のようなもの を想定することが出来るのではないか。
ことである。彼等は上の組合せに加えて更に外国 人としてふさわしい話し方が外国社会では期待さ れていることを考えていると思われる。このよう な考え方は,CripPer and Widdowso亘(1975)
に極めて端的に表明されている。 Again,how
acceptable is it that foreigners should leam to speak English with a pe㎡ect RP accent?
It may wen be that on the whole native speakers wish foreigners to speak with a foreign accent thus indent圭fying themeselves in pubHc as be血g foreign and so outside the1㏄al status hierarchy.(p.170)これに対
THE COMMON CORE OF ENGLISH VARIETY CLASSES
Region:
Education and social standing:
Subject matter:
Medium:
Attitude:
Interference:
VARIETIES WITHIN
EACH CLASSR1,R2,R3,R4,_
E1,E2,E3,E4,_.
S1,S2,S3,S4,.
へ
M1,M2,...
一
A、,A2,A3,A4,。_
1・,12,13,14,...
(P.13)
一
N L使用者は,その出身地(R)にふさわし く,彼が置かれた教育的・地会的地位(E)に合 い,話題(S)に適切で,かつ,言語の媒体(M)
に沿って,しかも,話題とされている内容に対す る話者の態度(A)を表現するのに最もかなった ことばを無意識に選択して使用するのである。例 を挙げると,東京出身(R1)の,医師(E2)
が,彼の患者の癌(S3)について,書面(M2)
で,同情的(A4)に家族の者に伝える場合の文
(RrE2−S3−M2−A4)は,彼が彼のゴルフの戦 果(S2)について友人に誇らしげ(A3)に,話 す(M1)際の文(R1−E2ぺ32−M2−A3)とは<re−
gister>が異なるであろう。
2.4 Quirk4α1.(1972)は,上の諸変種 に更に干渉(inte㎡erence)を加えているが,そ の中身は,外国人なまり(foreign accent)の
するEAの議論は2つに分れなければならない。
Quirkθ oJ.(1972) のいう<inte㎡erence>
をERRORと考える立場に立つか,それとも,
CripPer and Widdowon(1975)のようにNL 使用者がT L社会で生活するためのいわば<
marker>として必要なもの故ERRORとは扱わ
ないとする立場の2つである。いくつかの種類の ERRORに,その重要さに応じて段階を設け,一重 要度の高いERRORにその治療法も考えるというのがEAの教授法と結びついた考え方であるか ら,上記いずれの立場に立つかを決めることは必 要なことであり,又,我国の英語教育の目的論,
更には,最近取挙げられている, Englic 論にも 敷衍する面があると思われるので詳しく論じてみ
たい。
Selinker(1972)はLenneberg(1967)の
<1atent language structure〉を支持しながら 次のような報告を行なっている。This abgolute success(ニachievement of native−speaker competence )in a second language affects,
as we know from observation, a small percentage of leamers−perhaps a mere 5
%.(pp.33−34)即ち,英語を外国語として学 習しようとする者がいわゆるr先天的言語習得能 力」を再活性化させて英語をN L使用者のレベル まで習得達成することはほぼ不可能なことであ
り,Nしからのくinterfemce〉は,例外的な5
%の者を除いて,それを防ぐことは出来ない,と いうことである。この現実的な観察が彼の「中間 言語説」(interlanguage)の基礎となっている
と思われる。そして,このr中間言語」を積極的 に「化石化」(fossilization)し,それを Eng1−
ish に代るものとして英語教育に登場させようと
いうのがいわゆる Englic 運動であろう。その 立場は,いわば,外国語学習者にとって言語習得論 的にも避け難い<interference〉をERRORとし て認めながらも,むしろそのERRORを<com−
prehensibility>を犠牲にしない限り肯定的に 受止め,体系化して学習文法化し教室に持込もう というものである。加えて,我々はこのEnglic
運動の底流に,TL社会への<confo血ty〉
に対する限界の認識があると考える。Johansson
(1973)は社会学的観点から,There is no doubt that confom丘ty is extremely important for a person to be accep励in aぬnguage com−
munity.However,most leamers of foreign languages do not aspire to become fu11−
fledged members of the foreign language community.(P.105)と指摘しているが,それ は正しい観察であろう。Johanssonの<con−
fomlity〉は Brumfit(1978)の<assimila−
tion>の概念と重なるがBrumfitはこの概念と 対立するものとして<contact>(我々の把握と しては<co㎡rontation>の方が適当ではないか と思う)を挙げていることは非常に興味深い。彼 は<contact〉の主張を<production>のレベル で行ないながら一方<assimilation>の主張を
<comprehension〉のレベルで行なっている。
In fact,surely,the aim of most foreign learners is not assin五lateion but contact.
To協48短α裾a wide mnge of communica−
tion patterns typical of native speakers is clearly desirable;to become indistinguish−
able from any type of native吻θ々8r might well be embalTassing,but−much more ser−
iously−would hlvolve a repudiation of one s own orighls and persona五ty which few stu−
dents would want to undert欲e. The stu−
dent must be left fr㏄to be himself and コ this means bei㎎clear about the difference betw㏄n comprehenion and production.(p.
41)Nしの影響(hlterfere且ce)の全く無い英語 で話したり,例えば文学作品を書くなどというこ
とは不可能であろうし,又,そのこと自体望まれ てもいないことである。それに対して,Tしとし ての英語をほぼ完全に聴きとり,相手の意味する ことを理解することは必要であり,又可能なこと である。更に書かれた英語を読みとり,それが例一
えば文学作品の場合など,その作品の世界に自分 自身を入り込ませる(assimilate)ことも可能で あり,望ましいことである。
以上の考えは,我国の英語教育に対して,ひと つの重要な提案と,新しい仮説を認めることを主 張していることになろう。即ち,<confronta−
tion>としての英語教育と<assimnation〉とし ての英語教育の目標は違うこと,及び<produc−
tion〉の英語の能力と<comprehension>の英 語の能力とは異なるという仮説を受入れることで ある。そのことは,Richards and Sampson
(1974)も気付いているが,Assuming the leamer hears and understands standard EngHsh but produces a significant number of deviant sente且ces, the disthlctio且 be−
tw㏄n his receptive competence(the nlles he understands)and his pmductive competence
(the nlles he uses)may be usefu1.(p.21)
この主張と仮説はEAにどのような影響を及ぼ
すであろうか。
もし,学習者が<confrontation〉を要求して いるとするならば,EAの記述(e∬or descrip−
tion)は,学習者の<production〉の結果として の英語に向けられ,彼等の限定された英語習得能 力から考えられる<comprehensibility>を害う 英語のみをERRORとして認定(error identifi−
cation)する必要がある。その場合, r英語教 材は日本人の手によって作成された英語によるも のを用いる」(西村(1978))ことも非現実的な提 案ではなかろう。E且gHc は結局Selinker(19 72)が挙げた学習者の<strategies of commu−
nication>の結果現れる,英語を化石化したもの と考えてよいであろうし,それは又,Richards
(1975)の次の考え方にも含まれているものであ る。 U且der communication strategies we may include errors that derive from the fact that heavy commmication dem包nds may be made on the second ㎞guage,
forcing the leamer to mold whatever he has asshnilated of the second language intD a means of saying what he wants to say,
or of getting done what he wants to get done.(P.127)これに対して,もし学習者の論 理が<assimnation>に立つとするならば,EA の記述は,学習者の<comprehension>の結果
としての英語の読解能力に向けられ,例えば作家 の創作体験に近ずかせるという目標のもとで,英 語社会への<co㎡o血ty>の擬似体験を指向す ることになろう。その場合ERRORとして認定 されるのは,例えば作品の中で描かれた様々な英 語的な価値の不完全な把握や,英語的社会の様々
な関係の理解が不充分なため生ずるERRORとい うことになる。その場合の教材は最も<authen−
tic>な English でなければならない。
以上を整理すると:
a.co㎡rontation−production−comprehen−
sib皿ty−Englic (as non−error)
b.ass㎞ilation−comprehension−co江for−
mity−EngliC COmprehenSiO且(a.S errOr)
3.1 r評価」の機能として,現れた結果を用 いて学習者のr達成度」を測定すること,及びそ の結果を教授方法にフィードバックして,その反 省と改善に役立てることが一般に指摘されてい る。しかし,個々の学習者の,学習段階に於ける
r中間言語」の発見という角度からr評価」のあ り方を考えることは従来から程んどなされていな かったのではないか。選択肢形式のテストを例に 挙げると,その問題項目は,Nしからの「干渉」の 有無を発見するという意図で作成されているもの が多い。この傾向は,CAの原理と我国で実施さ れている教授法(0圃Approach)の結びつき を考えると理解出来るが,しかしEAには,誤答 は必ずしもNしから生ずるものとは限らず,むし ろr普遍的」なr学習方策」やT L言語について の仮説作りの結果生ずるものが多くあるという調 査報告がある。(Richards and Sampson,1974,
p.5他) これらの報告は,選択肢形式の場 合に,テスト作成者が準備する<distractors〉
には,N しにとらわれず,学習者のr中間言語」
やr学習方策」をきめこまかくつきとめ得るよう な選択肢を混入させておくことの必要性を示唆す るであろう。Corder(1973)も,母国語を習得 する際の幼児の,大人が与える文に対する反応に ついて興味深い観察を行なっている。…i㎡ants have been found to reject adult fo㎜s of−
fered for imitation because their grammar would not generate them.(p.41)幼児は,大 人の与える文が,大人の「文法」にとって正しい
ものであれ,正しくないものであれ,自分自身の
r中間言語」の文法に照し合せて,それに合致し ていないものはすべて彼等にとって<ungram−
matica1〉なものとしてしりぞけることがあると いう。この事実は,上述した外国語学習者のr中 間言語」の存在と大いに関係していると思われる が,我々は,その場合,ひとつの条件を前提とし て付加しておく必要があると考える。即ち,「<
commu面cative needs〉が満されている限りに おいて」という条件である。そうすれば,学習者 や幼児が示した一見誤りであると思われる文は,
いわゆる<strategies of commmication>の結 果現れたものという位置づけが可能となろう。
3.2 r構造的」にコントロールされた言語材 料だけが与えられるr学習活動」(典型的なもの
としては(㎞1ApProachに.おける variation のドリル)の際に学習者が示す,ERROR若しく は,そのようなr学習活動」に基づく場合のr評 価」と,それと対立的な,r内容」又はトピック だけがコントロールされ,言語材料の選択は自由 な,いわゆるr言語活動」に接近したr学習活 動」 (Oral ApProachにおける selection ) の際に学習者が示すERROR,及びそれに対する
r評価」とは区別されなければならない。前者 は,自由な伝達行為から独立して成立し得ること が特徴で,その点後者と異なる。前者は,r構造 上の対立」とr意味上の対立」のr融合」を定着 させるのがねらいであるのに対して,後者は,言 語構造やr型」の制約からは一応独立させて,ど のような意味内容を伝達するかがねらいとなって いる。(山家,1966)Enkvist(1973)のERROR の定義What does not satisfy a goa1−deter−
mined requirement is by definition an e∬or.(p.18)に従うと,r学習活動」と「言 語活動」はr目標」(ゴール)が異なるのである から,それら2種類の活動の際に学習者が示す反 応に対する「評価」もそれぞれに対応して,2種 類無ければならない。その結果一方の活動におい てERRORと判定された文が他方の活動におい
てはNON−ERRORとなり又その逆もあり得る
であろう。学習者の側の論理に立ってr評価」を 考えるならば,このような評価の2面性を認識し ておくことがどうしても必要となる。具体的な例 を挙げると,我国の英語教育は,a.This is a pen.
b. a dancing gir1
などは,実際のr言語活動」では現れることは無 い,従って極めて非現実的な英語であり,その意 味で正に誤りだから(検定)教科書からは削除す べきであり,教えてはならない,という議論があ る。しかし,教科書での扱い(r学習活動」)と
しては,aは this 対 that のr機能」及び r意味」の上の「対立」(コントラスト)を教え るというゴール達成のための必要な(中間的)構 文であり,bも,例えば agirldancingin the ha11 という構文に移行する際に必要な,従って
ドリルで使用しなければならない(中間的)構文 のひとつなのである。 (⇒successive small steps of contrast) 従ってa,bとも一種の
<interlanguage>と考えるべきものであり,そ
れらをERRORと判定してしまうことは,r学
習活動」のゴールとr言語活動」のゴールを区別 しないばかりか,後者の基準で前者を判定すると いう評価上の誤りを犯していることになるであろう。前者によって後者を判定するという逆のケー スも容易に考えられるが,ここでは例文のみ挙げ ておく。いずれも Richards and Sampson
(1974)より得たものである。
a.When you come?
b.When you s coming?
c.Me Tarzan,you Jane.
d.I not Hke that. (P.11)
以上のような,学習者の活動のゴールと学習者 の反応(テストのr結果」)を結びつけ,その延 長線上でr評価」を行うやり方は,Enkvist(19
73) the goal oriented view of the func−
tion貧l relativity of en℃rs (p.22)と呼んでい るものであり,又Nicke1(1973)が objectifi−
ed tests (p.26)と呼んでいるものに相当する と考えられる。
4.シラバスが作られ,教案が準備されるのは 集団としての学習者を念頭においてのことであ る。誤答分析も学習者集団を対象とし,統計的処
理を加えるのが普通のやり方であるがその場合,
統計操作上集団が〈homogeneous〉であること が必要とされる。しかし,よく考えてみると,我 国で最もコンスタントに<homogeneous〉であ る点は,学習者全員が同一のN Lを背景としてい るという事実だけでは無いであろうか。Nしであ る日本語が<source〉となって,学習者集団に
共通に見出されるERRORがCAの主な対象と
なっているわけであるがこのことは2つの点で注 意すべぎ面を含んでいると考えられる。第1点 は,教授者の側に,学習するのは個人ではなく集 団であるという錯覚が生じ易くCorder(1974a)が適確に言い現した,We teach groups but it isindividualswholeam.(P.125)という単 純ではあるが大事な視点がともすれば忘れられる 恐れがあること。第2点は,学習者間のN しが起 源的に異なる(genetically different)場合でも
共通のERRORが生じているというデータが数
多く挙げられており,NLを<source〉の主たるものとして考えるCAの信頼性に疑問が投げかけ られている(Richards and Sampson,1975,
p,5,P、11)という点である。又,r学習する のは個人である」という観点は次の論点とも結び つく。 COrder(1973) は,._ the languagβ leamer at all poi皿ts of his leaming career has a language , in the sense that his behaviour is rule govemed.(p.36)と述べ,
学習者一人一人は,それぞれの学習の段階でT し についての,その段階毎の言語(intralanguage)
を持っていることを主張しているが,我々はこの 主張から,学習者の言語の記述はN しによって記 述すべきでも,又Tしによって記述すべきでも無 く,正に,学習者個人の<intralanguage〉によっ て(in itsown terms)なされるべきであると いうこと,及び学習者個人の言語は規則によって 支配されているものであるから,その限りに於
て,彼のERRORは,学習者にとってERROR
ではあり得ない,という重要な示唆を得るべきで あろう。 (1979年8月31日)
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ERROR ANALYSTS AND FOCUS ON THE LEARNER
Takashi YOSHIDA
The purpose of the present article is to examine new and previously established
ideas on research into eITor analysis,in the hope that such examinations might stim−
ulat£ teachers and researchers ahke to a greater awareness of the impDrtance of leame凹riented teaching over and訊bove teacher刃riented teaching.Section l deals with theoretical issues underlying Contrastive An&1ysis and Error Analysis:Section2 attempts to make the distinction betw㏄n the leamer s knowledge OF L and his knowledge ABOUT L and explores what socioHnguistic relevance such a distinctio且may have for the class三fication of errors:Section3takes up goal oriented learning and the evaluation of errors:Section5proposes the n㏄d to investigate the leameゼs errors in their own t℃nns.
1・1Contrastive Analysis is theoreticaHy based on American Structural Linguistics and EITor Analysis finds its rationale in Transformational Generative Grammar.
1.2 1且identifying and investigating errors it is feasible for the investigabDr bD rely on his ow且intro$p㏄tion and intuition as he has at some point in his career actually been a native speaker of his pupi1,s inter】anguage.
2,11t is n㏄essary to look at the sources of the leamer s strategies from two angles:(i)knowledge OF language,(ii)knowledge ABOUT la且guage、
2。2 Negative eff㏄t of the knowledge OF NL upon the knowledge OF TL on the Ievel of breaches in the use of the code resu1捻in adverse sociolinguistic relationship between the speaker and the Hstener even though the message is pe㎡ectly comprehensible.We propose to can errors under this categPry social and register en70r type.,
2.3 The deschption of social and register en℃rs can be given within the framework of The Common Core of English designed by Q面rk8∫α」.(1972).
2、4 Foreign accent,though often c㎞ified as one of the interHngual errors,is not an ermr in itself,when conceived of段s a marker which the TL members often require from a foreigner trying to be part of a TL s㏄iety.This b㏄omes all the more true if we keep the distinction between assin五1ation and confron捻tion on the one hand,and that betw㏄n receptive competence and productive competence on the other.The argument for and against so−called・Englic should be made with these distinctions in mind。
3.11n the event that many of the errors committed by the leamer are not native language specific but systematicany dehvable from universal latent leaming and communication strategies(i且this respect they are not errors),it is necessa可to conthve dist田ctors in the test i且a way to discover the leamer s interlanguage.
3.2 The goa1−oriented view of the fmctional relativity of errors gives twofold clas−
sification to the learner s response. Errors in selection drin can be 且on−errors in variation drill and erros in variation drin can be non−errors in selection drin.
Me Tarzen,you Jane type sentence can be functional and will be treated as non−
eπor in the exercise where communication is the main thing but not so with This is a pen type sentence.The second type,however,will be instnlctionally useful in the structure−centered contrastive pattem drin and can therefore be integrated into part of the objectified interlanguage of the leamer.
4・ In analyzing leamers en ors it is important to remember that we teach groups but it is individuals who leam and that each individual leamer at an points of his leaming career has a language ,in the sense that his behavior is rule governed.