In, Against, and Beyond Liberalism ──
ジャパニーズ・ポピュラー・ソングと 新自由主義の文化
髙 田 英 和
1. は じ め に
昭和の時代が間もなく終わりを向かえ,平成と いう新しい時代が始まりを待つ,そのような時に,
尾崎豊が「卒業」(1985)という歌のなかで「こ の支配からの卒業」と声高に叫んでいたことは,
新たな令和の時代に入った現在でも記憶に新しい だろう。尾崎の歌とほぼ同じ時期に,渡辺美里は
「My Revolution」(1986)において「自分だけの 生き方 誰にも決められない」と綺麗でしかも力 強い歌声で歌っている。尾崎と渡辺の歌から約
15
年後には,SMAPの「世界に一つだけの花」(2003)が空前の大ヒットを記録している。その 歌の始まりと終わりでは「NO. 1にならなくても いい もともと特別な
Only One」と歌われ,多
くの人びとがこの歌詞に魅了されたことだろう。「卒業」,「My Revolution」,「世界に一つだけの花」
にはある共通したキーワードが存在している。そ のキーワードとは「自由」である。この自由とい う言葉とその概念は,これらの歌において,縛ら れ封じられた物事から解放され,あるがままにあ りのままに好きなように行動し活動すること,す なわち,そのように生きることの良さと正しさを 表している。換言すれば,尾崎,渡辺,そして
SMAP
の歌は,新自由主義(Neoliberalism)と密 接な関係にある。というよりは,新自由主義の思 潮と文化をなくしてこれらの曲は存在不可能で あった,という方がより正確であるだろう。日本における新自由主義とは,端的に述べれば,
1980
年代の後半に現れた新しい政治経済およびそれに関連した人間生活全般に関わる枠組みであ ると一応は説明されよう。1 その特徴は,大きく 分けて,三つのかたちとして現れたとまとめるこ とができるだろう。それは,
1)「民営化」, 2)「官
僚制批判」,3)
「小さな政府」となる。一つめの「民 営化」とは,それまでの国策として行っていた鉄 道や電話などの事業を一手に民間の企業に請け負 わせたことであり,二つめの「官僚制批判」とは,「民営化」とも関連していて,国が中心となって 担ってきた種々の国民生活の基盤整備とその維持 ならびにその運営の大部分を,民間だけでなく 各々の国民にもその責任として負わせることで,
それまでの国すなわち官僚中心の政治および政策 からの脱却を図ったことであり,2 そして,三つ めの「小さな政府」とは,「民営化」と「官僚制 批判」の点からもわかるように,国つまり政府が これまで受け持ってきた国民生活全般の裁量を極 力小さく抑え,それによって,国民一人一人がそ れぞれ個人として適切に振る舞うように奨励させ たことである。要するに,このような特徴を有す る新自由主義下の日本において,その国民は,そ れまでのある意味国によって管理された社会とは 異なる新しい「社会」での生活を送ることを余儀 なくされ,それは,たとえば,物事などの判断は 個々で行うが,その対価(代価)として自由が各々 の国民に与えられることに表れている。これはす なわち選択の自由であるが,同時に,その自由の 意志による選択,その失敗および間違いなどの際 には,自己の責任として処理することを強要され るものでもある。これらが新自由主義のすがたで
ある。(詰まるところ,新自由主義は,福祉国家 の伝統と社会政策を徹底的に批判し否定すること に,その意義はあることになる。3)
本論は,1980年代から
2000
年代に至る時代に 創造された代表的な日本のポップス(「卒業」,「MyRevolution」,「世界に一つだけの花」)に焦点を
当てることで,4それらの曲が新自由主義とその 文化と親密な関わりにあることを論じ,そして,これらの曲がまた同時に新自由主義の文化に抗い 反し瓦解させる要素を含み持っている点を示して みたい。5
2.
尾崎豊「卒業」尾崎豊の「卒業」は,1985年に世に出された ことからおよびその歌詞に「ひとつだけ 解って いたこと この支配からの 卒業」と端的に書か れていることからわかるように,1985年時点す なわち
1985
年以前に構築され構造化された(日 本の)社会とその制度を批判している。その社会とは,一言で言うならば,それは「終身雇用」の 社会ということになるだろう。これは,良い高校 に入り,良い大学に入学し,良い職に就き,そし て,女性の場合は結婚と同時に(早期退職し)専 業主婦になり子を産み育て夫を生涯に渡って支 え,男性の場合なら結婚し,家族を養い,家を購 入し,定年退職し,年金で老後を過ごすという,
当時の人間生活の典型的なモデル・ケースとその 一連の流れをさしていう。自己の意志や意向を押 し殺してでも,この流れに一生乗り続け,そこか ら決して落ちないでいることこそが,人間として の正しい生活様式であるという時代の雰囲気であ り,モードであったのだ。この,機械のような,レー ルに乗ることだけが,この世(日本)の人間とし て正しい生き方,成長であるというメタ物語を否 定,拒否することの(新しい)「正しさ」を,尾 崎の「卒業」は示している。
尾崎の繰り返す「この支配からの 卒業」はこ の「正しさ」のことを言っている。それだからこ
図版1. 歌詞(出典: 尾崎).
そ,当時の社会の多くの人びとから,この「歌詞
(メッセージ)」は受け入れられたのだ。尾崎は「行 儀よくまじめなんて クソくらえと思った 夜の 校舎 窓ガラス壊してまわった 逆らい続け あが き続けた 早く自由になりたかった」と歌う。既 存の社会秩序から自由になると同時に,人間が一 人一人,各々の生き方を自由に選択することの正 当性が,特に,尾崎と同世代の若者たちのあいだ で,共有されたのであるだろう。真人間になるこ とだけが人間としての正しい生き方ではないとい うことを,尾崎の歌は「チャイムが鳴り 教室の いつもの席に座り 何に従い 従うべきか考えて いた ざわめく心 今 俺にあるもの 意味なく思 えて とまどっていた」と,学校という時空間を 強烈に拒否,否定することで,その正当性を主張 する。同様に,正しい大人になるための学校とそ の教育の無意味さは「放課後 街ふらつき 俺達は 風の中 孤独 瞳にうかべ 寂しく歩いた」と歌わ れる箇所にも表れている。ここには,日々の学校 での生活が充実したもの,身になるものでは決し てないことが示され,学校とその制度が痛烈に批 判されている。これらの歌詞からもわかるように,
尾崎の歌の根底には,人間の成長の疎外としての 学校教育,学校制度という見方,見解が確固とし てある。だからこそ「信じられぬ大人との争いの 中で 許しあい いったい何 解りあえただろう うんざりしながら それでも過した」とまるで嘔 吐のように口から溢れ出てしまうのだろう。ここ には「大人」の教師とのあいだには絶対的に埋め られぬ溝,差異が存在し,それは世代間の違いに よる事物の考え方と物事の捉え方の根本的な相違 というものによって引き起こされている。
尾崎の歌が示す新たな「生き方」とは,人間の 身体がこれまでのある意味国家の下での身体から 個々人の下での身体へとその意義つまり人間観,
主体観が変わったことを,意味している。但し,
21
世紀に生きるわれわれから見れば,「この支配 からの卒業」すなわちそれまでの社会によって管 理された画一的な生き方からの解放と選択の自由 という正当性には,実のところ,コインの裏表の関係のように,(当時はまだ可視化されていなかっ たのだろう,そのため良くはわからなかったのだ が)「自己責任」ならびにその自己の責任を回避 するために新たに自己を自己で管理しなければな らない「リスクマネージメント」という概念(否,
むしろ暴力と言った方が正しいだろう)が付随し ていたことは明らかであろう。
3. 渡辺美里「My Revolution」
尾崎の「卒業」における,新しい自由の概念と その正当性は,同時期に同様にヒットした渡辺美 里の「My Revolution」(1986)にも見られるもの である。(小室哲哉が作曲した)この渡辺の歌も また,尾崎の歌と同じように,当時の社会情況を 裏書きして成り立っている。渡辺の「My Revolu-
tion」のポイントは,端的に言えば,そのタイト
ルにもあるように,「私(自己)の改革(革命)」という点にこそある。
渡辺の言う
my revolution
とは,詰まるところ,社会の改革および革命は,もはや,期待できるも の,希望がもてるものではなくなったことを意味 している。それは,人間生活の向上が,これまで のように社会によって成されるのではなく,「文 化」すなわち「個人」によって成されなくてはい けなくなったということである。戦後の日本にお いて,全ての人間,国民が十全に生きるために豊 かさが追求されてきたが,その基本にあったのが,
社会,その全体による改革であった。たとえば,
国鉄,電電公社,郵政などの国営・国策事業は,言っ てみれば,その豊かさの追求のための社会改革で あったのである。そして,その社会革命を拒否,
否定しているのが,渡辺の「My Revolution」と いうことになる。この曲がヒットした時点におけ る日本とは,言うなれば,ほとんど全ての国民が 均一的に豊かさを謳歌し,ある意味皆が中産階級 に属していながらも,他方,そのような生活様式 の維持に陰りが見え始めていた時代であったこと が非常に大事な点になる。その(言うなれば上か らの主導により形成され構造化された)生活様式 を根本から変えるために,国民一人一人が自ら自
己を変革するということ,換言すれば,(これま でのような)社会ではなく(新しく)文化,より 正確にはその文化の主体となる個人,その変革,
改革,これこそが重要であるということを,渡辺 の「My Revolution」は示している。
この曲の言う
my revolution
は,詰まるところ,社会のない「社会」すなわち文化,そこにおける 私という一個人の(individual)revolutionの優位 と正当性,つまり
“cultural revolution”(文化の改
革),その正しさ・同意として存在している。6渡 辺は次のように歌う。「さよならSweet Pain 頬
づえついていた夜は昨日で終わるよ」と,そして「わかりはじめた
My Revolution 明日を乱すこと
さ」と。ここには,尾崎の歌と同様に,これまで の国家とその社会によって抑圧,管理されてきた 己の身体を解放し,個としての身体とその自由を 手にすること,その正当性が主張されている。こ れはまた「求めていたいMy Revolution 明日を
変えることさ」という歌詞にも示されている。新 しい「社会」における個人の主体性の重視とその 権利の妥当性は,「壁の落書き見上げているよ」および「教科書のすき間に書いてた言葉 動き出 すよ」と渡辺の歌の歌詞にしっかりと書かれてい るように,既存の画一的で強制的な学校内外の教 育制度の否定,拒否のうえに成り立っている。但,
個人の自由という権利の収得その代償としての
「自己責任」および「リスクマネージメント」と いう概念(より正確には暴力)が,尾崎の歌には なかったが,渡辺の歌にはそれぞれ「きっと本当 の悲しみなんて 自分ひとりで癒すものさ」およ び「たったひとりを感じる強さ」ときちんと表さ れていることは非常に興味深い点であるだろう。
このように,渡辺の歌もまた,個人とその自由を 獲得することの正しさを述べている。「夢を追い かけるなら たやすく泣いちゃだめさ」の「夢」
とは正に,自由のことだろう。私/個人の夢/自 由を手にすること,それは
“my revolution”
すな わち「自己の変革」によってこそ可能であること を,渡辺の歌は言っている。74. SMAP「世界に一つだけの花」
SMAPの「世界に一つだけの花」(2003)もま
図版2.歌詞(出典: 渡辺).
た,8 尾 崎 お よ び 渡 辺 の 曲 と 相 関 関 係 に あ る。
SMAP
の「世界に一つだけの花」において主張さ れるのは,そのタイトルにもあるように,「世界 に一つだけの花」であることの「正しさ」である。この「正しさ」は,尾崎と渡辺の曲と同様に,そ れまでの生活様式の正しさを拒否,否定したうえ で成り立っているという点がここでも重要とな る。SMAPの言う「正しさ」とは,尾崎の言うの と同じで,学歴と学業ならびに経歴等,すべてに おいて,一番になることこそが人間の生活と成長 にとって唯一の正しい指針であることの拒否・否 定という新しい「正しさ」である。それ故に,
SMAP
の曲は「NO. 1(ナンバー・ワン)になら なくてもいい」と繰り返し言うのである。と同時 に,その代わりに「もともと特別なOnly one」と
言い,新たに「オンリー・ワン」であることの「正 しさ」を提示する。これは言うなれば,アイデン ティティ主義(個人主義の変奏と言った方が理解 し易くより適切であるだろうか)に裏打ちされた 概念である。SMAPの歌のなかでは「一人一人違 う種を持つ」と,そして「その花を咲かせることだけに 一生懸命なればいい」と歌われ,これま での正しい「ナンバー・ワン」というゴールを目 指さない,「オンリー・ワン」という新しい生き 方の「正しさ」を主張している。この点にこそ,
SMAP
の歌が21
世紀のはじめに大ヒットした理 由がある。また,この曲が平成という時代におい て日本で一番売れた(シングル)曲であるという ことも,この時代(ここでは特に市場原理の重視)に合い反映した曲であったという証になるであろ う。9
この
SMAP
の歌において注目すべき点はもう 一つあり,それは,「花屋」が舞台の話であると いう点にある。歌のなかでは,ある花が他の花と 比べて特徴があり,それによって花屋の主人に選 定され,店先に置かれ,そして,客にも選ばれる(すなわち買われ消費される)という物語になっ ている。「花屋の店先に並んだ いろんな花を見 ていた」,「ずっと迷っている人がいる」,「やっと 店から出てきた その人が抱えていた 色とりど りの花束」。そして,人間もこの花々に倣って,
言わば「商品」として生きることこそが良いこと
図版3.歌詞(出典: SMAP).
であると言う。(ここでのポイントは,人間の生 活様式より花のそれの方が良い,と言っている,
そのレトリックにある。これは,この後に論じる ように「ナンバー・ワン」を否定して「オンリー・
ワン」を肯定するレトリックと同じものである。)
「僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?」,「そ うさ僕らは 世界に一つだけの花」,「その花を咲 かせることだけに 一生懸命になればいい」。
SMAP
の歌のなかで表象される花は「名前も知ら なかったけど あの日僕に笑顔をくれた 誰も気 づかないような場所で 咲いていた花」である。ここにも,先ほど説明したのと同じ原理が働いて いることはわかろう。「ナンバー・ワン」ではな く「オンリー・ワン」という特徴すなわち個性を 磨くことこそ良いことであり,それを必ずや誰か が見ていてくれていて評価してくれる,すなわち,
承認してくれるということを言っている。特に,
ここでは,花イコール商品とその価値・消費とも 関連していて,「市場」(market)における話になっ ているという点が,この曲の大きな特徴でもあり,
それは同時に市場こそがわれわれの日常の生活に おいて最も重要な「場」(時空間)であることを 裏書きしている。10
SMAPの歌が世に出たのは
2003
年であり,こ の市場の重要性(それは現在へと続いている)は,大手の金融機関の救済・優遇(公的資金の投入)
ならびにベンチャー企業の活況に表れているだけ でなく,たとえば(昨今の経済的な言説のレベル において),1)日本で一番良いと見做されている 大学,その学生の就職希望先に挙げられるのは,
以前のような官僚等の仕事,職種は減少し,新た に金融やベンチャーなどの民間企業が多くなって いる(らしい)という点,および,2)大学入試 センター試験の廃止に伴う,民間の教育会社によ る英語試験の導入と活用,すなわち英語入試の民 営化(への流れとその過程)という点からも,現 代の生活における市場の意義とその重要性がわか るかもしれない。11このように
SMAP
の歌が個人 とその個性(言い換えれば,個人とその自己実現 と自助努力)に重きが置かれていることは,市場こそが人間生活の中心の場所・空間であること,
ならびに,市場における商品とその価値・消費と いう概念(すなわち欲望の政治学)こそが人間の 中心的なものの考え方・捉え方であること(別の ことばで述べるなら,過度の承認欲求の常態化と でも言おうか)と密接に関連している。それゆえ に,そのような文化においてこそ,この歌が大ヒッ トしたことになるだろう。
そして,最後に指摘しておきたい点は,SMAP の歌のレトリックにある。それは,「ナンバー・
ワン」を否定して,「オンリー・ワン」を肯定する,
という点にある。この「ナンバー・ワン」の否定 は,先ほど述べたように,すべての人びとが学業 や学歴などで一番になること,目指すこと(たと えば,中学,高校で成績が一番になること,およ び,日本で一番の大学に入学すること)の否定で あり,それに対して,「オンリー・ワン」の肯定は,
大きいとか小さいとか,良いとか悪いとかにかか わらず,個々の興味,関心のある分野で,各々一 生懸命に取り組むということ,そのことの正当性 を言っている。但し,ここでのポイントは,「オン リー・ワン」とは詰まるところ「一番」になる/
であるということであり,それは「ナンバー・ワン」
になる/であるということを意味しよう。12
SMAP
の歌の凄いところは,「ナンバー・ワン」を否定 していながら,「ナンバー・ワン」を維持,強化 している点にこそある。このレトリックによって,この歌が成り立っていることは,非常に興味深い と同時に重要な点である。(蛇足でもないが,こ の歌は「オンリー・ワン」で良いと歌っているも のの,先ほど言及したように,セールスにおいて はきちんと「ナンバー・ワン」になっているとい うこの皮肉にも似た自己矛盾を自ら産出してし まっていること事態がこのレトリックの(不)整 合性(矛盾の極まりとでも言おうか)を現に証明 しているかもしれない。)
繰り返すが,SMAPの歌は,尾崎の歌と同様に これまでの社会の構造を否定し,それに変わって,
渡辺の歌が示すのと同じで新しく文化の価値に重 きを置いている。そして,その文化とは,私すな
わち個人の変革,改革によってこそ成立する文化 である。SMAPの曲は,言うなれば,それまでの 社会を否定する素振りを示しながらも,実はその 社会を隠蔽し温存させそして新たな社会なき「社 会」に接続していることになる。尾崎と渡辺の歌 がそれぞれに拒否した点を,SMAPの歌は,肯定 はしないが(否定感は示すが)否定もせず,受け 入れ許容することの適切さを表している。社会な き「社会」とその文化は,実のところ,それまで の社会とその構造をなくして成り立たず,むしろ そのうえに成立しているということを,SMAPの 歌(特にそのレトリック)は述べている。
5. お わ り に
以上のように,尾崎の「卒業」,渡辺の「My
Revolution」,そして SMAP
の「世界に一つだけの花」は,新自由主義の文化のなかでこそ制作とヒッ トが可能であったのであり,と同時に,そこで創 られ受け入れられたからこそ新自由主義の文化の 歌としての意義があったのだ,ということになる。
尾崎と渡辺の歌は,それまでの社会とその制度,
言うなれば,それまでの(冷戦期の)リベラリズ ムを批判した歌であったという点にこそ力点が あったのであり,そして
SMAP
の歌は,新しい社 会のない「社会」とその正当性と有能性をさらに 推し進めたことに意味があったのである。13これ らの楽曲が新自由主義と表裏一体の関係にあった という点は,ここまで繰り返し述べてきたように,重要であることは間違いないが,それだけではな く,それらの曲には新自由主義の綻びに連なるよ うな要素や視点,すなわちその崩壊への萌芽が同 時に示されている点にもある。最後に,この点に ついて述べたい。
尾崎の歌に関して言えば,その歌の歌詞にも表 れているように,尾崎自身の生き様というのか,
彼の生(life)に対する本気度,熱量が尋常でな い点にこそ表れている。「ざわめく心 今 俺にある もの 意味なく思えて とまどっていた」と,「大 切なのは何 愛することと 生きる為にすること の区別迷った」と,「俺たちの怒り どこへ向かう
べきなのか」と,人間の悶々とした様と素の人間 味が非常にリアルに描写されていると同時に,「従 うことは負けることと言いきかした」と,社会と 大人たちに対して抗う大いなる気持ちと熱い思い がしっかりと述べられている。己の生を全うする ために,己の命をかけても厭わないというそのよ うな心意気が尾崎の歌には充満している。尾崎は
「これからは 何が俺を縛りつけるだろう あと何 度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつ けるだろう」とも歌う。これを言い換えれば,そ れは,たとえ自由を得たとしても,そこで決して 安住することなく,絶えず自由の意義とその価値 を吟味し見定めることを怠らず,「真の」自由を 手に入れるまで探求し続けなければならないとい うことになるだろう。14 それゆえに,尾崎の歌の 最後は「闘いからの卒業」というフレーズで締め くくられているのだ。尾崎の歌う歌は,個人の生 にとって自由の永続・永遠性こそが正に最重要事 項であることを示している。だが,それは同時に,
何時当然に異端に反転するのか誰もわからない非 常に危険な資質でもある。そのようなある意味二 律背反的なものを尾崎の歌は常に既に孕んでい る。
渡辺の歌については,特に女性の「社会」での 地位の向上と「社会」への進出に大いに寄与した という点が挙げられる。当時の女性の地位と立場 は,家庭と仕事の内外において,男性のそれと比 較して,非常に低いものであった。この点を改善,
好転することに一役買っていたのが,渡辺の歌の 最大の功績と貢献であるし,それは,彼女の歌が 声高に主張していたにもかかわらず,この男女平 等の問題が(「男女雇用機会均等法」が
1985
年に 制定,翌86
年に施行された後の)現在において も依然として重要な問題であり続けていることか らも示されている。15渡辺が女性の歌い手として この歌を歌ったということもまた,非常に重要な 点である。女性の渡辺が歌うことで,女性の視点 からの問題提示というかたちになり,それは必然 的にそれまでの男性中心主義とその社会に対する 異議申し立てとなっている。女性の渡辺が歌う歌は抑圧された女性の解放の歌となり,女性の地位 と立場が向上される切っ掛けを提供したことにな るだろう。「非常階段 急ぐくつ音 眠る世界に 響 かせたい」と渡辺の歌にあるように,それまで閉 ざされていた扉が開かれようとしている様子が,
ここには,鮮明に表れている。これまでの男社会
(においてだけでなく新たな「社会」においても 依然として変わらずに)その影に隠されている,
闇と裏の部分とでも言うべき,偽りと矛盾(たと えば男は女性よりも頭が良く偉いという妄想や幻 想など)を暴くことに繋がっている。
そして,SMAPの歌について述べれば,それは 花を中心とした物語にしている点にこそある。人 間ではなく花を前景化することで,人間世界にお ける軋轢や不和ならびに差異,差別といったもの を消し,そのうえで,そのような事象や問題その ものの是非を問わない「社会」すなわち文化を構 築することの健全さと重要性の提示が行われてい る。これが可能なのは,言い換えれば,人間を後 景化し,花を主体化しているその手法,方法にあ る。あらゆる差異,たとえば人種,出自,ジェン ダー・セクシュアリティなどを互いが互いに認め 合い,きちんと認識することの良さと正しさ,な らびに,そのような差異をそもそも問題として扱 うこと自体の空しさと無意味さを
SMAP
の歌は 示している。社会なき「社会」は,実のところ,このような差異を差別化すなわち階級(階層)化 して成り立っている。(それは,この「社会」が,
選択の自由・自己責任と関連して,格差・二極化 と呼ばれることにも表れていよう。)16にもかかわ らず,この「社会」は,個人の自由/自由な個人 という画一的な一面だけを全面に打ち出して(そ の差異の階級化を隠蔽,不可視化し)それが自明 のごとく構成されているかのように装っている。
だが,裏を返せば,これらの差異は多様性の普遍 性とでもいうべきものであり,それが必然的に付 随されているこの「社会」とその文化は,この多 様性の普及が詰まるところ矛盾の極まりとして機 能するという構造にもなっている。個人とその(選 択の)自由に裏付けられた,この文化内での生活
は,その文化内でのみ通用するものである。しか し,SMAPの歌が提示する多様性は同時に,その 文化内に軋轢を生じさせ,その文化の外に出て行 こうとする要素を常に保持し,既に発動している。
このことからもわかるように,SMAPの歌は,新 しい社会なき「社会」とその文化には,実際のと ころ,一貫した道理や原理などあってないような ものだということを,明らかにしてくれている。
このように,尾崎,渡辺,SMAPの歌には,わ れわれが新自由主義の向こう側を想像する際に非 常に有益で重要な観点が含まれている。そして,
尾崎,渡辺,SMAPの歌に,本論/私が強く引か れるのは,それらの歌が発する力にある。その力 とは,われわれ人間の社会をより良い方向すなわ ちさまざまな生/性(sexuality)をベースとする
(アイデンティティ主義ではない)社会(そこで は右派左派等々と区別もしない)を希求し想像す るそのような力のことである。言うなれば,「階 級」の問題に,きちんと取り組むことの重要性を,
これらの歌は,示している。17一方,現在のわれ われからすれば,確かに,尾崎および渡辺の歌は,
新自由主義の思想と思潮の流れに(意識,無意識 にかかわらず)乗りおよび飲まれた感は否めない し,SMAPの歌は,新自由主義の下だからこそ大 ヒットしたのであるだろう。但,それでも,否,
それだからこそ,彼ら/彼女らの歌に耳を傾ける 意義と価値があるはずだ。と言うのも,これらの 歌詞には間違いなく,新自由主義の下に生きるわ れわれが,現在の「社会」と文化の状況を知り,
改善するための規範となるものが書き示されてい るはずなのだから。(それを言えば,尾崎の歌は,
もしかしたら(不在の原因としての)新自由主義,
その萌芽・兆しを感じ,それを批判しているのか もしれない。)そして,尾崎と渡辺の歌に表象さ れている(1980年代の)事象・問題を,ナショ ナルの問題としてではなく,トランスナショナル の問題としてとらえる,ということが非常に重要 であるし,そのように理解することが肝要となる
─たとえば
17
世紀の「名誉革命」(GloriousRevolution)がそうであった/あるように。尾崎
と渡辺の歌には,一見すると,トランスナショナ ルの,言い換えれば,グローバル化の,問題は,
目には見えない/可視化されていない,かもしれ ない。だが,それらの歌には,確かに,新自由主 義に繋がる要素が芽生えているし,不在のかたち として/不可視化された状態で存在している。新 自由主義の時代に生きるわれわれにとって迚も大 事で大切なのは,尾崎と渡辺と
SMAP
の歌が,17
世紀からの「モダニティ」(modernity)の問 題と,きっとどこかで繋がっていると想像し且つ その繋がりを批判的にとらえることにある。18註
1. 新自由主義に関しては,たとえば,Harvey,および,
渡辺の論稿を参照。
2. 官僚制に関しては,実のところ,新自由主義の時代 においての方が,より官僚制に重きが置かれ,強化 されているという指摘もある。これについては,た とえば,Graeberを参照。因みに,日本における官 僚制批判のポイントは,実際のところ,官僚制,そ の内実を変えているという点,この転換点にこそあ り,それは,すなわち(特に中央省庁再編後の)財 務省と経済産業省の二大省(庁)への権力の集中と いう構図となって表れているということに重点があ るのだろう。
3. 小泉純一郎が(2001年に)「自民党をぶっこわす」と,
「聖域なき構造改革」と声高らかに述べたそのポイン トは,詰まるところ,それまでの日本の政治経済お よび社会の構造,すなわち,田中角栄の構築したそ の構造をぶっこわし,改革することにあったのであ り,この点が非常に重要である。これに関しては,
たとえば,早野を参照。(そして吉田も参照しておい ても良いかもしれない。)また,田中内閣が1973年 を「福祉元年」と呼んでいたという点も押さえてお きたい。
4. J-popについては,たとえば,Stevensを参照。
5. ボブ・ディランが「ノーベル文学賞」(2016年)を 受賞したことは,逆に言えば,現代の文学,言い換 えれば「グローバル化の文学」は,(作詞としての)
歌詞も,文学作品の一部として存在し,価値を有し ていることを意味することになるだろう。因みに,
小説と帝国主義(本論に沿って言い換えれば,文学 とリベラリズム)の密接な関連性については,たと えば,次の一節を挙げておく。
I am not trying to say that the novel-or the culture
in the broad sense-“caused” imperialism, but that the novel, as a cultural artefact of bourgeois society, and imperialism are unthinkable without each oth- er. Of all the major literary forms, the novel is the most recent, its emergence the most datable, its oc- currence the most Western, its normative pattern of social authority the most structured; imperialism and the novel fortified each other to such a degree that it is impossible, I would argue, to read one with- out in some way dealing with the other. (Said 70- 71,下線は引用者)
6. 社会なき「社会」に関してはThatcherを,ならびに,
文化/個人の改革に関しては髙田の「リベラリズム と帝国主義」を参照。
7. 宮沢りえ主演の映画『ぼくらの七日間戦争』(1988),
そ の 主 題 歌 の,TM NETWORKの「SEVEN DAYS WAR」(1988)もまた,この時期の,この時代を象 徴する,重要な歌の一つであることは間違いない。
この歌の出だしは「“Revolution” ノートに書きとめ た言葉 明日をさえぎる壁 のり越えてゆくこと」と 歌われている。ここにも「管理社会」の否定と「自由」
の称揚と相関関係にあることがわかろう。歌の五行 目では「すべてを壊すのではなく 何かを捜したいだ け」と歌われ,これは,渡辺の歌と共鳴していて,
社会の変革の無意味さと,それに代わる個人の改革 の正しさの,裏書きである。(因みに「Seven Days War」の作曲は「My Revolution」と同じ小室哲哉の 担当である。)そして,歌の七行目からには「Seven days war 闘うよ 僕たちの場所 この手でつかむまで Seven days war Get Place to live ただ素直に生きる ために」とあり,誰にも縛られずあるがままに日々 を生きていくこと,その意義と正当性が主張されて いる。また,この,宮沢主演映画は,フェミニズム の点からも,重要となる。宮沢の演じる少女は軽や かに活動するリーダー的な人物で,そのことは,同 時期に『極道の妻たち』(1986)が公開されたことと,
密接な関係があるだろう。そして,これらの映画/
女性たちは,渡辺の歌とも,フェミニズムの観点を 通せば,根底で繋がっている。さらに,『東京ラブス トーリー』(1991年,テレビドラマ)において「セッ クスしよう」とさらりと言う赤名リカや,『やまとな でしこ』(2000年,テレビドラマ)の「幸せにして くれるのはお金」と主張する神野桜子といったヒロ インたちを,上記の映画の女性たちの系譜に位置づ けて考察することは意義があるだろう。(因みに,こ のラインに「ホイチョイ三部作」(『私をスキーに連 れてって』(1987年),『彼女が水着にきがえたら』
(1989年),『波の数だけ抱きしめて』(1991年))を
足してみても,良いし,面白いかもしれない。)
8. 「世界に一つだけの花」(その作詞と作曲を槇原敬之 が担当している)は,SMAPが歌ったからこそ大ヒッ トしたという点が非常に重要であることは間違いな い。因みに,「世界に一つだけの花」は,はじめは,
2002年に,アルバムに収録され,その後,シングル としてリリースされるに至っている。平成という時 代において,SMAPが興隆(人気)し,また衰退(解 散)したことは,新自由主義を考察する際の,重要 なポイントであるのかもしれない。
9. 「世界に一つだけの花」のセールスに関しては,「平 成シングル売上ランキングTOP10」を参照。「世界 に一つだけの花」はまた,平成の音楽著作権料の第 1位となっている。これについては,「「平成」期に おける著作物使用料分配額TOP100」を参照。
10. このSMAPの歌(CD)のジャケットは,次のよう になっている(図版5)。ここからも,市場の重要性 がわかるし,同時に,(田舎よりも/ではなく)都会・
都市の,さらに言えば,「アントレプレナーシップ/
起業家(企業家)精神」(entrepreneurship)の,重 要さが謳われている。
11. 日本で一番良いと見做されている大学の学生の就職 希望先の変化については「文系エリートの財務省離 れ」を,および,大学入試センター試験の廃止に伴 う英語入試の民営化については江利川を参照。
12. これは,政治のレベルで言うなら,政治家にとって,
国会議員になるのではなくて,知事になることの方 が良いし偉い,ということになるだろう。別の言い 方をすれば,これは,個人主義を否定してアイデン ティティ主義を肯定するということ,あるいは,フ ランシス・フクヤマの議論を否定するサミュエル・
ハンチントンのそれと根底で通じているということ である。要するに,これは,(レトリックと言ってお いて,あれだが)実のところ,レトリックでも何で もなく,解釈レベルの変化,変容の問題ということ である。この問題はまた,小泉政権下において,(PKO の意義とその捉え方とも関連していて,)憲法を解釈 して,自衛隊の(戦時下のイラクへの)派遣を可能 にしたこととも,根底で繋がっている。これについ ては「小泉内閣総理大臣記者会見」を参照。
13. 尾崎の歌と渡辺の歌には「ロール・バック ネオリベ ラリズム」(roll-back neoliberalism)と呼ばれえるも のと,対して,SMAPの歌には「ロール・アウト ネ オリベラリズム」(roll-out neoliberalism)あるいは「ア
図版4. 歌詞(出典: TM NETWORK).
図版5. ジャケット(出典: SMAP).
ドバンスト リベラリズム」(advanced liberalism)と 呼ばれえるものと,共犯関係にあると整理してみて も良いだろう。前者二つのネオリベラリズムについ てはPeck and Tickellを,後者のリベラリズムについ てはRoseを参照。
14. 別の言い方をすれば,尾崎の歌の主張は,スーザン・
バック=モースの言うところの「大衆ユートピア」,
その夢を夢見ていた,ということになるのかもしれ ない。但し,ここでのポイントは,この夢は常に既 に不可能であったという点にある。というのも,東 側の夢見た大衆ユートピアは,西側のそれと,表現 の仕方や表れ方に違いはあるものの,実のところ,
構造的には同じであったがゆえに,失敗した,のだ から。尾崎の歌に戻れば,自由への逃避という,大 衆の夢,その実現の可能性は,その時点で,どこに も無かったし,いや,無かったからこそ,声をあげて,
歌っていたという,この点が,実際のところ,非常 に重要なのであるだろう。それは,失敗の美学,そ の痕跡というかたち・すがたで,表れている。
15. 現代の男女平等の問題について,たとえば,上野に よる東京大学入学式(2019年度)における祝辞は,
この問題が未だ解決していない,依然として重要な 問題であることを示していよう(但し,上野のフェ ミニズム/ジェンダー観については,ここでは,一 先ずおいておいて)。
16. 日本社会の階級(階層)化に関して言えば,「ゆとり 教育」とそのポイントは,実のところ,それまでの 社会を,格差・二極化の「社会」に変えるため,そ のための(新しい)「教育」だったという点にこそあ るだろう。たとえば,尾崎の歌に引きつけて見れば,
ゆとり教育は,彼の言う「夜の校舎 窓ガラス 壊して まわった」と,これは,すなわち,それまでの教育,
詰め込み教育の拒否,否定との強い繋がりのうえに 成立,存在している,と言っても良いであろう。つ まり,「ゆとり教育」は,(これまでの教育とその内 実を変えはするが)「落ちこぼれ」を(その子の「個 性」と翻訳し)一定数以上(否,それ以上か),引き 続き産出し続けるためにこそ,力点があったという ことだろう。しかし,裏を返せば,家計に「ゆとり」
のある子どもは塾に行き,ない子どもは(行きたく ても)行けず,両者のあいだの学力(の格差)は二 極化されるという,そのような仕組みになっている。
これは,同様に,小学校外国語(英語)教育の教科 化への流れと連動している。それは(繰り返すが)
暮らし向きの良い家庭の子(端的には良家の子女)
は(英語)塾に行き,その子の学力は行けない子よ りも高いという構図となって表れる。この点からは,
「ゆとり教育」が市場に重きを置いていることがわか ろう。それは,公教育の(意義の)縮小・削減/否定・
拒否であり,その代わりの,塾の重要性である。(塾 に行ったからといって,学力が必ずしも向上すると は限らないし,学力があるから,人として優れてい るというのも一概には言えないが,但,子の学力は,
親のそれに比例するという点,換言すると,両親が 裕福であり且つ学がある子どもの能力は,ない子ど ものそれと比べて,高くなる(傾向にある)という ことは,もうそろそろきちんと理解しておいた方が 良いかもしれない。)小学生・英語教育(の功罪)に ついては,たとえば,江利川他(『学校英語教育は何 のため?』)を参照。ゆとり教育と英語(教育)と新 自由主義の関係については,別の機会にあらためて 論じてみたい。
17. あるいは,非常にラディカルに逆説的に,ネオリベ ラリズムのネオリベラル的な推進と完遂こそがネオ リベラリズムを越える真の革命・ユートピアすなわ ちソーシャリズム/コミュニズムに達するのだ,と 上記の歌はひょっとすると述べているのかもしれな い。序でに言っておくと,21世紀のゼロ年代後半あ たりからの世界の流れ,言い換えると「世界金融危 機(Global Financial Crisis)」(「リーマン・ショック」)
以降の,よりはっきりしてくるのは10年代に入って か ら で, た と え ばKeir MilburnのGeneration Left
(2019)や Aaron Bastani のFully Automated Luxury Communism(2019)など(でもどこかポピュリズム 的でなんかあれだが)のようなものが世に出てきて いることも,一応,知っていても良いだろう。これ については,The Economist(その“The threat from the illiberal left”に関する記事)も参照しておくのが 良い。
18. 因みに,「ネオリベラリズム」の文化的論理を,20 世紀はじめの「ニューリベラリズム」のそれとの脈 絡で批判的に検討したのが,髙田の「リベラリズム と帝国主義」と「スコットランドと都市計画者の20 世紀」である。さらに,補足的にはなるが,日本に おける新自由主義に関して,第一期のレーガン(米国)
とサッチャー(英国)の新自由主義と,第二期のク リントンとブレアの新自由主義,それらにあたる,
日本のアイコンとして,それぞれ,中曽根,小泉が 挙げられるのは確かだが,但,渡辺の論稿が指摘し ているように,日本の場合は,米国と英国のそれと は異なり,そこにはずれや隔たりが生じている,こ の点も重要であるのだろう。本論に引きつけて言え ば,「失われた10年」と形容される1990年代,その 時代の日本のポップス,たとえば,ユニコーンを解 散してソロおよびプロデューサーとして活動をはじ めた奥田民生や,TMNを休止してプロデュース活動 に力を入れた小室哲哉,彼らの音楽が要点となるの かもしれない。この点については,紙面の関係上,
指摘するに留めておく。
* 本論は,2019年の5月に初稿が出来上がり,2020年9 月に再稿し,そして,2021年の3月と8月・9月に微調整 して,完成に至ったことを,ここに記しておきたい。
引用・参考文献
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渡辺美里「My Revolution」EPICソニー,1986年.
(2021年
10
月8
日受理)In, Against, and Beyond Liberalism: Japanese Popular Songs and the Culture of Neoliberalism
TAKADA Hidekazu
This article argues that Japanese popular songs (by Yutaka Ozaki, Misato Watanabe, and SMAP, respec-
tively) reveal an intimate relationship with neoliberalism and its surrounding culture. Specifically, it focuses
on the cultural logic of neoliberalism, in the era in which the First World was evolving toward globalization in
its cultural discourse, between the late 20th and early 21st centuries. Thus, the above songs, which are cen-
tered on freedom, culturally represent the workings of late
-capitalism. In this respect, the concept and image
of individualism, or its entire way of life, are shrewdly regulated and reorganized in liberal discourses and in-
stitutions in post
-Cold War Japan. Meanwhile, I insist that both the literary form, including song lyrics, and