はじめに
北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)は、2004年に相次いで冷戦後最大の拡大を 行なった。NATOとEUは共に冷戦期初期にそのルーツをもつとはいえ、それぞれ独自の発 展を遂げてきた組織である。1949年に12ヵ国で北大西洋条約が締結されて以後、条約第10 条の加盟規定に従って52年にギリシャとトルコ、55年には西ドイツ、82年にはスペインが NATOに加入し、冷戦終結時には16ヵ国であった。他方EUは、6ヵ国で1952年に石炭鉄鋼 共同体がスタートし、58年のローマ条約もこの6ヵ国で締結された。その後73年にイギリ スがデンマーク、アイルランドと並んで加盟し、81年にギリシャ、86年にスペイン、ポル トガルが加盟して、冷戦終結時には12ヵ国であった。
冷戦終結後、EUにはまず1995年にフィンランド、スウェーデン、オーストリアが加入し た。ついで2004年に第5次拡大として、チェコ、スロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、
リトアニア、ラトヴィア、エストニア、スロヴェニア、キプロス、マルタの計10ヵ国が一 挙に加入し25ヵ国の組織となった。NATOのほうは、まず99年にポーランド、チェコ、ハ ンガリーが加盟し、2004年にはブルガリア、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ルー マニア、スロヴァキア、スロヴェニアの7ヵ国が加盟し26ヵ国の同盟となった。加盟国に多 少の食い違いがあるものの、おおむね冷戦期の分断は、EUとNATOの「二重の拡大」によ って克服され、「統一された自由なヨーロッパ」が実現したと言えるであろう。NATOとEU の拡大の範囲と時期がほぼ重なっているのは、90年代から2000年代初期の2つの組織の課 題がほぼ重なっていたからにほかならない(1)。これに対して、この第5次拡大以後の両組織 のさらなる拡大方針や、中心的課題は、それぞれ異なる展開をみせており、今後両組織が どのような方向に発展していくかをうかがわせている。
本稿では、まずこの拡大の評価をした後、EUとNATOのさらなる拡大にはどのような展 望があるのか、さらにはEUとNATOの今後の安全保障上の役割をどのように考えることが できるのか検討してみたい。
1 2004年までのNATO/EU拡大評価
アイゼンハワー米大統領はかつて、欧州統合の進展が東欧諸国への影響をもつことを期 待して、「西欧における手堅いパワー・グループが、最後にはソ連の全衛星国を魅了し、そ
NATO/EU
Iwama Yoko
の結果、平和への脅威が消滅するのでは」との期待を語った(2)。冷戦終了後にヨーロッパに 約15年かけて起こったことは、まさにこのようなことであると言えるのではないだろうか。
現在のEUもNATOも十分に多様な問題を抱えている。しかし、ヨーロッパ大陸にはかつて、
世界で最も緊張した対立線が走っていたが、そのような分断線はもはや今日のヨーロッパ にないことは認めざるをえないであろう。「鉄のカーテン」をより東に移動しているだけだ という批判の声は、しばしばEUの東側の境界線について聞かれる。しかし、かつての「鉄 のカーテン」はそれを挟んで世界的な核戦争の危険をはらんだ緊張関係が存在していたの であり、現在のヨーロッパにそのような境界線はない。
NATO/EUが拡大した現在、かつて欧州統合の出発点にあったドイツに対する周辺国の安
全保障問題は、もはや問題ではなくなってしまった。これをクーパーやレオナードといっ たヨーロッパの論者たちは、統合によって地域の政治の質が変わってしまったことに注目 して説明する(3)。冷戦終結時、ネオリアリズムの立場からは、NATOや
EU
はソ連という脅 威の消滅により求心力を失い、次第にバラバラになっていくことを予測するものもあった(4)。 しかし、現在までのところ、ドイツの脅威の復活ということは起こっていない。ドイツは 現在その兵力のあり方を、域外派遣を中心とするものに変えようとしている最中であるが、それによってドイツが再び脅威となるという声はまったく聞かれない。むしろ、ドイツが 欧州共通安全保障防衛政策(ESDP)を担う力をつけることを歓迎する声のほうが強い。拡
大EUと
NATOのなかで、ドイツは周囲をすべて友好国か同盟国に囲まれた状況になってい
る。そしてNATOとEUも、性格を変えつつも崩壊する兆しはない。
共産主義が崩壊した当時は不安定化が懸念された中・東欧の諸国も、それぞれ問題を抱 えてはいるものの、即座に安全保障上の脅威となるような状態にある国はない。しかし、
このような状態は15年前には決して自明のことではなかった。筆者自身、1989年当時、ベ ルリン自由大学のアーヌルフ・バーリング教授の講義に出ていた際に、教授が、「東ドイツ とポーランドの安定化までは私たちがやらなければならないだろうが、それ以上はとても 私たちの手に負えることではない」と語ったのを記憶している。現実には、15年かけて 中・東欧はほぼ安定化されたと言ってよいだろう。この期間中には、中・東欧への
EU/NATO拡大による安定化という側面と、実際に戦争となった旧ユーゴスラヴィア地帯の
安定化という2
つの課題があった。これらは同時並行して進行しながら、EUとNATOの役 割に影響を与えていった。(1) EUの拡大
EUの拡大は、共産主義が崩壊し、一から国造りを始めなければならなかった多くの国に、
方向性と安定性を与えることに成功した。ミルワードがかつて欧州石炭鉄鋼共同体とベル ギーの関係について語った言葉は、そのままEU新規加盟諸国の多くにとって
EU
が果たし た役割に当てはまるのではないだろうか。「それは国家外の権威の源であり、助けを求める こともでき、実際は政府にも責任があるのだが人気のない政策の責めを負わせることもで き、気が向けば、ベルギーの権利を踏みにじるテクノクラットな専制主義者として戯画化 することもできた」(5)。中・東欧諸国は、共産主義体制時代の経済・社会体制を解体し、あるいは改革し、市場主義経済に適ったものに変革していく必要があったが、これをやるに あたって、EUの「外圧」を国内での正当化事由として使うことができたのではないだろう か。そのことによって、危機に瀕していたそれぞれの「国家」を再生させることができた ことは、第2次大戦後、西欧の国家の再生が欧州統合と密接に関係していたことを思い起こ させる。
ベルリンの壁が落ちた当時、旧共産圏の経済を市場主義経済に転換していくことは、大 きなチャレンジとみられていた。しかし、現在、多くの中・東欧諸国の経済は西欧諸国と 同レベルあるいはそれ以上の成長をしている(第1表参照)。まだ
1
人当たりの国内総生産(GDP)は低い国が多いが、成長を続けていることは、人々が将来に希望をもって計画を立 てることができることを意味しており、冷戦終結直後の悲壮感はないであろう。むろん、
まだまだ課題は残っており、その最たるものは労働力の自由移動を阻む壁である。旧加盟
第1表 GDPの伸び率(季節調整済みデータに基づく)
前期比 前年同期比
2005 2006 2005 2006
Q3 Q4 Q1 Q2 Q3 Q4 Q1 Q2
ユーロ圏 0.6 0.3 0.6 0.9 1.6 1.7 2.0 2.4
EU加盟25ヵ国 0.6 0.4 0.7 0.9 1.8 1.9 2.2 2.6
加盟国
ベルギー 0.5 0.6 0.9 0.8 1.2 1.5 2.3 2.8
チェコ 1.6 2.0 2.0 : 6.2 6.9 7.4 :
デンマーク 0.6 0.1 0.2 : 4.1 3.3 2.6 : ドイツ 0.5 0.3 0.7 0.9 1.5 1.7 1.7 2.4 エストニア 2.7 2.1 2.0 : 10.4 11.5 11.1 : ギリシャ 1.8 −0.2 2.8 : 3.8 3.7 4.1 : スペイン 0.9 0.9 0.8 0.9 3.5 3.5 3.5 3.6 フランス 0.7 0.2 0.5 1.2 1.4 1.1 1.5 : アイルランド 0.4 2.1 1.1 : 6.1 6.5 5.7 : イタリア 0.3 0.0 0.7 0.5 0.1 0.5 1.6 1.5 キプロス 1.2 0.7 0.4 : 3.9 3.6 3.1 : ラトヴィア 2.8 2.8 2.8 : 11.4 10.6 13.1 : リトアニア 2.2 2.1 1.8 2.3 8.1 8.2 8.2 8.6
ルクセンブルク : : : : 5.3 7.5 7.3 :
ハンガリー 1.0 1.0 1.0 : 4.4 4.2 4.3 : マルタ 6.9 −3.0 −3.5 : 6.7 2.0 −1.3 : オランダ 0.7 0.6 0.3 1.0 2.0 1.9 2.9 2.4 オーストリア 0.7 0.7 0.6 1.0 1.7 2.2 2.6 3.1 ポーランド 1.7 1.5 1.2 : 3.6 4.7 4.6 : ポルトガル −1.0 0.3 0.5 : 0.3 0.8 1.0 : スロヴェニア 0.6 1.0 0.8 : 4.0 5.0 4.7 : スロヴァキア 1.7 2.1 1.2 : 6.3 7.4 6.3 : フィンランド 0.9 1.2 0.9 : 3.3 4.1 4.2 : スウェーデン 1.2 1.0 1.4 1.4 2.9 3.3 4.4 5.0 イギリス 0.4 0.7 0.7 0.8 1.8 1.8 2.3 2.6
(出所) Eurostat.
(注) Q=四半期 : =n.a
季節調整済みデータは以下の加盟国の労働日調整も含む。ベルギー、ドイツ、スペイン、フランス、イタリア、ハ ンガリー、オランダ、オーストリア、スロヴェニア、フィンランド、スウェーデン、イギリス。
前年同期比は季節調整せず。
諸国にとって、中・東欧諸国が加盟したことは、あらためてグローバリゼーションが自分 の門前まで押し寄せてきたことを意味した。労働力の自由移動を当初から認めれば、安価 な東欧の労働力が押し寄せてきて、自国民の雇用を奪われることを警戒した多くの西欧諸 国は、労働力の移動の自由に関しては、過渡的措置を設けた。東方拡大が実現した2004年 当初から労働力移動の自由を認めたのは、イギリス、アイルランド、スウェーデンの3ヵ国 のみであった。その他の国は、「2+
3
+2」と呼ばれる枠組みで、2年後、その3
年後、さら に2年後と見直しを行ない、計7
年間までは過渡的措置として制限を設けることができる仕 組みを使用した。今年の4月30日はその 2
年目の見直しの時期に当たっており、フィンラン ド、ギリシャ、ポルトガル、スペイン、イタリアが新たに自由移動を認めると発表した。その他に、ベルギー、デンマーク、フランス、オランダ、ルクセンブルクが次の期限であ る2009年までに徐々に規制を撤廃する意図を発表している。ドイツとオーストリアの
2国は、
これまでどおり制限を続けるとしている。
フランスでの憲法条約草案の国民投票の際、東欧、特にポーランドからの労働者がフラ ンス人の職を奪うということが反対理由のひとつに挙げられていたことはよく知られてい るが、実際に多くのポーランド人労働者が向かったのは、制限を設けていたフランスでは なく、イギリスであった。2002―03年にはイギリスに入国したポーランド人労働者は上位
10位内に入っていなかったが、これが 05― 06年になると、一挙に第 1
位になってしまった。その他、リトアニア、スロヴァキア、ラトヴィアなど新規加盟諸国が上位に入っており、
入国者の絶対数も急増している(第2表参照)。
2004年拡大以来、ポーランドを出て西側諸国へ職を求めて行った人々の数は、60
万とも100万とも言われている。ポーランドの失業率は 15.7%と EU25
ヵ国中最も高く、人口も多い のが、大規模な西方移動の最大の理由であろう(第3表参照)。ポーランド人がぬけた穴を、今度はウクライナ人の不法移民がさらに東から西へと移動して埋めるという現象まで起き ているらしい。イギリスは当初、新規加盟国の入国者数を年約1万
3000人程度と予測してい
たが、実際には04
年5
月から06
年6
月までにイギリス当局に登録した労働者の数は42
万7000
人であり、登録されていない自営業等を入れると実数は60万人近いと言われている。07年 1
月1
日にルーマニアとブルガリアが新たにEU
に加盟すると、さらに新規の労働者の第2表 イギリスにおける国民保険番号を与えられた 外国人入国者の数
2002―03年 2005―06年
イ ン ド 25.0 オーストラリア 18.9 南アフリカ 18.6 パキスタン 16.8
フランス 13.8
フィリピン 11.8
スペイン 11.7
ジンバブエ 10.3 イ ラ ク 10.1
ポルトガル 9.8
ポーランド 171.4 イ ン ド 46.0 リトアニア 30.5 スロヴァキア 26.4 南アフリカ 24.0 オーストラリア 23.8 パキスタン 22.3
フランス 17.2
ラトヴィア 14.2 ド イ ツ 13.3
(出所) Financial Times, July 22, 2006.
(単位 1000人)
波が押し寄せてくるのではと警戒し、これを制限すべきであるという意見もイギリス国内 で強まってきている。新たに入国する労働者の数は6万人から14万人と予測されており、英 国民の75%が何らかの制限措置を支持しているという世論調査結果が出ている(6)。
このような現象は、東西間の労働コストに格差があるからこそ生ずるのである。しかし 労働コストの格差は、西から東への生産拠点の移動を引き起こすことも考えられる。企業 は労働力の高い西側諸国を嫌い、安価で質の高い労働力のある中・東欧の国へ生産の拠点 を移すことが可能である。ドイツのような国で労働コスト削減の強い圧力が働いている理 由のひとつは、工場が高賃金を嫌って中・東欧へ逃げていくことを警戒しているためであ る。しかし、2005年度の
EU
内の直接投資の流れをみると、1位がイギリス(1154億ユーロ)で、以下ルクセンブルク(428億ユーロ)、オランダ(295億ユーロ)と続き、中・東欧諸国で は、8位にチェコ(83億ユーロ)、10位にポーランド(51億ユーロ)がやっと入ってくる程度 である(7)。経済の規模が違うので絶対額で単純な比較はできないが、この結果をみる限り、
お金と人はどちらもイギリスへと集まってきていることになる。中期的には人の移動への 制限も撤廃されることを考えると、EU内ではかなりダイナミックな動きが起こってくるこ とが予測できる。したがって、EU拡大は
2004
年5月に完了したというより、そこから始ま
ってまさに現在進行形であり、その影響が判明するのにまだ5年から10年はかかるとみなけ
ればならないであろう。(2) NATOの拡大と旧ユーゴ紛争
他方のNATOであるが、NATOにとって冷戦終焉とその後の中・東欧への
NATOの拡大は、
大成功であったと言ってよい。中・東欧諸国には少数民族問題を抱えている国が少なくな く、アダム・ミシュニクの「ユーゴスラヴィアはミニチュアの中欧だ」という言葉が示し ているように、民族紛争が旧ユーゴ地域以外に波及する可能性はあったが、それは幸いな ことに実現せずに終わった。民族問題、領土紛争が戦争を引き起こすのを防ぐことは、ユ ーゴ紛争が悪化するなかで、中・東欧諸国の加盟を考える際のNATOにとっての大きな要素 であった(8)。
その旧ユーゴ紛争は、1990年代中盤以降、NATOに大きな存在意義をもたらした。冷戦終 結直後のヨーロッパでは、NATOよりも
CSCE
(Conference on Security and Cooperation in Europe第3表 2006年6月時点における失業率(昇順)
オランダ 3.8 リトアニア
5.4 イタリア
7.7 マルタ
8.5
デンマーク 3.9 キプロス
5.6 フィンランド
7.7 フランス
8.7
アイルランド 4.4 スロヴェニア
6.5 ユーロ圏
7.8 ギリシャ
9.6
ルクセンブルク 4.7 チェコ
7.3 EU加盟25ヵ国
8.1 スロヴァキア
15.1
エストニア 4.9 ハンガリー
7.3 ドイツ
8.2 ポーランド
16.0
オーストリア 4.9 ポルトガル
7.4 スペイン
8.3
イギリス 5.3 ラトヴィア
7.6 ベルギー
8.4
(出所) Eurostat.
(注) *イギリスは2006年4月、イタリア、ギリシャは2005年第4四半期のデータ。
**最近のキプロスの統計は短期失業者に観光業に従事する労働者を含むことで改訂、更新された。基礎となる労 働力調査のデータは変更されていない。
*
**
*
*
〔全欧安保協力会議〕、1994年にOSCE〔欧州安保協力機構〕と改名)の安全保障機能に期待する 気分が強かった。
NATO
はあまりに冷戦と不可分な存在とみられていたからである。しかし、旧ユーゴ紛争が深刻化するなか、CSCE、EU、国際連合などが紛争を止めようとそれぞれに 努力して、成果を上げることができなかった。そのような状況のなかで、最終的にはクリ ントン米政権がNATOによるボスニア空爆に踏み切り、デイトン和平によってボスニア紛争 を終結させた。この件を機に、NATOは再びヨーロッパの安全保障の中心的存在となった(9)。
その後、ボスニアに展開した和平履行部隊(IFOR)/和平安定化部隊(SFOR)という平和 維持部隊は、NATOを中心として編成され、そこには多くの加盟候補諸国も参加した。この 共通体験は、加盟候補諸国の軍隊の透明性を高め、NATO諸国軍との相互運用性を高めるこ とによって、さらに
NATOの東方拡大を推し進めるという役割を果たした。1999年コソボ介
入は最後のバルカン半島介入となったが、その最中のワシントン首脳会議で、最初の3ヵ国、チェコ、ハンガリー、ポーランドの加盟が実現したのにはこのような背景があった。これ らの諸国とは、94年以来、PfP(Partnership for Peace:平和のためのパートナーシップ)の枠組 みを通じて、NATOとの関係を深め、軍の改革、民主的な政軍関係の構築、軍事計画や軍事 予算の透明化などが追究されてきていた。ワシントン首脳会議で採択された新戦略概念の なかで、安全保障、協議、抑止と並んで、危機管理とパートナーシップが「基本的安全保 障の課題」として挙げられていたことも、拡大とバルカン危機管理がこの時代のNATOの活 動の大きな柱であったことをうかがわせる(10)。90年代の
NATO
の存在意義は、ひとつは拡大 による中・東欧の安定化にあり、もうひとつはバルカンへの軍事介入を典型例とする危機 管理と、その後の平和維持活動にあった。軍事介入においては米欧間の能力格差が問題と なったが、平和維持活動においては、この点はそれほど問題にならなかった。NATO内で、軍事介入において米軍が大きな役割を果たし、新規加盟国や加盟候補国を含むヨーロッパ 側が平和維持活動においては多くを負担するという、ある種の役割分担がこの時代に定着 していった。
1999年拡大では加盟を果たせなかった諸国で加盟を希望していた、ブルガリア、ルーマ
ニア、スロヴァキア、スロヴェニアやバルト3国については、
99年のワシントン首脳会議で、
メンバーシップ・アクション・プラン(MAP: Membership Action Plan)が導入され、さらなる 拡大の可能性が確認された(11)。MAPでは、(1)政治経済問題、(2)防衛/軍事問題、(3)財源 問題、(4)安全保障問題、(5)法的問題の
5つの章にわたり、加盟候補国と NATO
が19+1の
形式で計画を作成し、毎年その進捗状況が検討された。このような過程を経て、懸念され ていたバルト3国の加盟も、ロシアとの関係を大きく害することなく実現した(12)。2 NATO/EUのさらなる拡大
2004年までの東方拡大を大きな問題なく消化したNATO
は、さらなる拡大へと準備を続け ている。現在アルバニア、クロアチア、マケドニアの3ヵ国が、NATOとの間に MAPを作成
しており、加盟への準備を行なっている。11月にリガ首脳会議を控え、新規加盟候補諸国 側からは、NATOに対して強い期待の表明が繰り返されている。また、すでに加盟を果たした中・東欧諸国から、さらに東方の諸国の加盟への支持が表明されている。ヨーロッパの 安全保障共同体の東の端になった国は、それをさらに東へ、南へと拡大しようとする。か つてドイツがいた位置に、今はポーランドやバルト諸国がいるのである。
南東欧の10ヵ国(アルバニア、ブルガリア、クロアチア、ギリシャ、マケドニア、ルーマニア、
セルビア、モンテネグロ、トルコ)が参加している南東欧協力プロセス(SEECP: South-East European Cooperation Process)の首脳たちは、
7
月に議長国クロアチアのドヴロヴニクに集まり、NATO
リガ首脳会議への強い期待を表明すると同時に、EUとNATO
への完全な統合が、こ れらの諸国での政治的進展と民主的変革の本質的な原動力である、との声明を発表した。クロアチア首相は、ウィーンからイスタンブールまでパスポートをみせることなしに旅す ることができるようになることが心からの願いである、と述べている(13)。7月
12日付のドイ
ツ紙に、リトアニアのアダムクス大統領とポーランドのカチンスキ大統領は連名で書簡を 寄せ、ウクライナからグルジアまでの諸国へEUが門戸を開放するように呼びかけた。「EU 拡大を後押しすることは、われわれの道義的責任である」とまで、この書簡では述べられ た。NATO拡大に関しても、「EU拡大同様に、NATOの拡大は、同盟をその軍事的能力にお いても、社会・経済的効力においても強化するであろう」と呼びかけた(14)。5月末にパリで 行なわれたNATO
議員会議は、アルバニア、クロアチア、マケドニアに、遅くとも2008年
までには加盟招聘をするべきであるとの見解を表明し、グルジアに対しても期限は設けな いが、将来の加盟を支持することを明確にした(15)。今後のNATO拡大の方向性は、ひとつには南東欧のバルカン諸国、もうひとつが東方のか つてのソ連の共和国であったグルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドヴァであ る。後者のグループは、今年の5月
23日にキエフで首脳会談を行ない、EU
やNATO
への加 盟の希望を表明している(16)。南東欧への拡大は、NATOと加盟国の双方の準備が整えば、順 次実現していくであろうが、旧ソ連の共和国のほうは、ロシアが反対を表明しており、政 治的にも不安定な国が多く、実現までにはまだまだ紆余曲折がありそうである。アメリカ がこれらの国の加盟に前向きであるひとつの理由に、カスピ海地方からの石油や天然ガス のパイプライン・ルートとしての重要性がある。今年6月にはBTCパイプラインと呼ばれる、
アゼルバイジャンのバクーからグルジアのトビリシを経由してトルコのセイハンに至る石 油パイプラインが開通している。年頭にロシアがウクライナ経由のパイプラインのガス供 給を一時的に低下させて以来、西欧諸国はロシアに依存しないルートの開発に強い関心を 示しており、それがこの地方への関心の高まりともなっている。ブッシュ大統領は6月
5日
にワシントンを訪問したサーカシヴィリ = グルジア大統領に対して、グルジアのNATO加盟 を支持することを伝えている。グルジアはイラクに850
名の兵士を出しており、アメリカと の関係強化に努めている(17)。もっとも、アブハジア、南オセチアという2
つの分離独立運動 の地域を抱えており、この点からグルジアのNATO加盟に対し難色を示すヨーロッパ人も少 なくない。これまでの拡大と違い、加盟候補国のほうにNATOに対する根強い抵抗感がある場合もあ る。クロアチア政府は2008年の
NATO
加盟を目指しているが、この計画を支持している国民は29%に過ぎず、54%は反対している(18)。ウクライナにおいては3月26日の選挙の後、い わゆる「オレンジ革命」派の連立交渉がうまくいかず、結局8月に入りユーシチェンコ大統 領の支持母体である「われわれのウクライナ」と親ロシア派のヤヌコーヴィッチ元大統領 率いる地域党、社会党、共産党の4党による大連立が成立し、ヤヌコーヴィチ首相が任命さ れることになった。この結果ウクライナが、「オレンジ革命」当時に予測されたような西側 寄りの外交を続けるか否かはわからなくなっている。今年の夏、黒海で予定されていた
「シー・ブリーズ」という、これまで数年続けられてきた多国籍の演習の準備のため、米海 兵隊がクリミア半島のフェオドシアという町に入ったところ、反
NATO
の住民の抗議デモの ため身動きがとれなくなるといった騒ぎもあった。ブッシュ大統領は、6月下旬にウクライ ナを訪問する予定であったが、政治の空白状態が続いていた最中であったため、これも取 りやめとなった。他方
EUであるが、フランスとオランダにおいて憲法条約草案が国民投票で否定された後、
EUではさらなる拡大に消極的な空気が支配している。2007
年はじめのルーマニアとブルガリアの加盟に関しては、9月26日に欧州委員会が、予定どおりに実現することを勧告する報 告書を出した。ただし、多くの
EU諸国が両国の加盟に対する懸念を表明していることを受
けて、改革が加盟後も継続されることを保証する過渡的措置が設けられることとなった。司法改革、汚職との闘いと組織犯罪との闘いに関して、欧州委員会により協力と監視のメ カニズムが設けられ、欧州議会と欧州理事会に対して定期的に報告が行なわれる。ベンチ マークに達しない場合は、一定のセーフガード措置が発動されることとなった。また、食 品の安全や補助金の使用に関してEUの基準に達しない場合、制裁が発動されうることも重 ねて強調された。
さらにバローゾ委員長は、ルーマニアとブルガリアの加盟発表の場で、さらなる拡大の 前に、EUの「制度的問題」を解決しなければならないという意見を述べた。現行のニース 条約は27ヵ国目の加盟の後、制度面の見直しなしにさらなる加盟国を取り込むことは予定 していない。したがって、現在交渉中のクロアチア、マケドニア、トルコの加盟に関して は、かなり時間がかかるであろう。トルコは、地理的にも半分はアジアに位置し、文化 的・宗教的にこれまでのヨーロッパとの相違点も指摘され、加盟に関しては賛否が分かれ ている。さらにアルバニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロなど が潜在的候補国となるが、具体的日程はあがっていない。セルビアは、旧ユーゴ紛争時の 戦犯引き渡し問題を抱えているし、NATOに近い将来加盟が検討されているアルバニアの1 人当たりの
GDP
はEU25ヵ国の平均の8%であり、このような国を取り込むだけの余力を EU
が蓄えるのはまだ相当先になると思われる。2004年までの NATO
とEUの拡大においても、交渉がより複雑で困難であったのはEU
の ほうであり、加盟後問題を抱えているのもEU
である。ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロヴァキアの4ヵ国は、2010年頃のユーロ導入を目標としてきたが、このところ対GDP 比の財政赤字が拡大し、インフレ率も上がり気味であり、ユーロ導入は予定より遅れそう な雲行きになってきている。軍事面のみのNATOは、実際上大きな能力格差があっても、そ
れぞれの能力に応じた役割を果たすことで、同盟の一員としての責任を果たすことができ る。しかし、経済力の格差、社会・経済・法制度の格差は、EU拡大にあたって大きな問題 となっている。2008年以後の拡大についても、EUのほうが時間がかかるであろう。
3 「イラク・ショック」後の米欧関係とNATO/EUの安全保障上の役割
中・東欧へのNATOの拡大はうまくいき、1990年代の西側同盟の中心的課題であったバル カン紛争も、21世紀に入る頃にはおおむね火種を押さえることができていた。このように ヨーロッパ内の安全保障で成功したが故に、
NATO
は次の課題を探すことを余儀なくされた。欧州の中に現実の紛争が残っていれば、NATOはヨーロッパ外まで手を広げる余裕も必要性 もなかったかもしれないが、欧州の紛争が収まった頃、9・11米同時多発テロが発生し、世 界の安全保障は新たな時代へと突入することになった。
「9・
11」後、NATO
は同盟史上初の5
条事態を認定したが、その後のアフガニスタン戦争 において、NATOはほとんど活用されなかった。アメリカがアフガニスタンにおいて「有志 連合」による戦争を行なったため、NATOはあらためてその存在意義を問われることとなっ た。この危機は実際には、コソヴォ介入の際に米欧間の能力格差が明白になった頃に遡る 危機であった(19)。加えて2003
年のイラク開戦に関して、アメリカとヨーロッパの多くの国 の判断が異なったことから、危機はさらに深刻化した。この危機から、2
つの帰結が生じた。ひとつは
NATOがヨーロッパ外へと活動の領域を拡大したこと、もうひとつはEU
の共通安全保障防衛政策がさらに進展したことであった。
2003年前後の危機から脱するため、NATO
は新しい存在意義を探さねばならなかった。そ してNATOに与えられた新しい役割のうち最も大きなものは、アフガニスタンの秩序維持で あった。このほかにも、イラクにおける治安維持部隊の訓練、地中海におけるアクティ ヴ・エンデヴァー作戦(Operation Active Endeavor)、スーダンのダルフールにおけるアフリカ 連合(AU)に対する支援活動、広域中東圏に対するイスタンブール協力イニシアチブ(ICI:Istanbul Cooperation Initiative)など、現在のNATOの活動は多岐にわたっているが、そのなかで もNATOの将来を大きく左右しうる活動と言えばアフガニスタンであろう。アフガニスタン における国際治安支援部隊(ISAF: International Security Assistance Force)は、暫定政権設立を決 めたボン合意を受けて国連安保理決議1386(2001年12月20日)により設立された。ISAFは 国連憲章7章下の活動であるが、国連の平和活動ではなく、国連安保理決議により授権され た多国籍の活動である。設立から
2002
年6
月まではイギリスがリード・ネーションとなり、ついで
2003
年1月まではトルコがリード・ネーションを務め、2003年2
月から8
月まではド イツとオランダがリード・ネーションを務めた。2003年8月になってNATOが恒常的に指揮 をとることとなった。2003年8月以降は、オランダにある NATO
のブルンサム司令部が戦略 レベルの指揮をとっており、現地司令官はカブールにおいてNATO各国が交代で務めている。ISAF
は当初カブールとその周辺のみの治安維持にあたっていたが、次第にその活動領域を 拡大してきた。決議1413(2002年5月23日)と決議1444
(2002年11月27日)はそれぞれ単純 にISAFの任務を延長したのみであったが、2003年10月 13
日の決議1510
は、ISAFの任務をカブールとその周辺より外部に拡大することを決めた。以後、決議
1563
(2004年9月17日)、 決議1623
(2005年9月13日)と引き継がれ、今日に至っている。NATOによって主導された ISAF
は、3段階にわたってその活動範囲を拡大してきた。第1
段階は、2004年10
月に北部へと拡大し、ここの地域司令部はドイツがリードネーションと なっている。第2段階は2005
年9月に西部への拡大を行ない、現在イタリアがリードネーシ ョンである。そして今年の7
月末に最も危険とされる第3
段階の南部への拡大を行なった。南部へはイギリス、オランダ、カナダが主として兵力を提供しているが、これで
ISAF
全体 では37ヵ国、約2万人が参加する作戦となった。南部での作戦を、米国を中心とする「不朽 の自由作戦」(OEF: Operation Enduring Freedom)からNATOが引き継ぐことは、2005年12月 8
日の新作戦計画(OPPLAN)の採択により決定された。当初は今までどおりISAFは安定化と
治安維持を担当し、OEFがテロとの闘いの中心であり続けると説明されていた。しかし、実 際には南部に拡大するにつれNATO軍はタリバンとの激しい闘いに遭遇しており、犠牲者も 急増している。アフガニスタンでは、当初はバルカン同様、米軍が戦闘を行ない、平和維 持、平和構築活動をヨーロッパが担うという役割分担が存在していたのであるが、ISAFの 範囲が拡大されるにつれ、作戦の性格が変質し、従来の役割分担は部分的に崩れかけてい る。9月28日にNATOは、さらに東部へと活動範囲を拡大することを決定した。今後南部や 東部での戦況がどのように展開するかまったく予断を許さないが、それによってまたNATO の将来も大きく左右されざるをえない状況となっている(20)。他方の
EUであるが、イラク開戦時に「古いヨーロッパと新しいヨーロッパ」の分裂とい
う深刻な事態を迎えたが、その後再び意思を統一させて、ソラナ・ドクトリンと呼ばれる 欧州安全保障戦略をまとめ、EUとしての安全保障活動を少しずつではあるが増加させてき ている(21)。依然としてバルカンの平和維持活動も継続させているが、最近ではヨーロッパ外 への派遣が目立ってきている。大きなものとしては、今年の7月
30日にコンゴ民主共和国で
行なわれた選挙の際に、国連のコンゴ民主共和国ミッション(MONUC: United Nations Organization Mission in the Democratic Republic of the Congo)を支援するために、約2000
人のEUFOR
(欧州連合部隊)-DRC
部隊が投入された。この部隊は、第1
回目の投票で過半数の得 票者が出なかったため、第2回目の投票を控え現在も展開中であるが、現地ではカビラ候補 とベンバ候補の支持者の間で対立があり、緊迫した情勢が続いている。この活動では初め てドイツがポツダムにある司令部を「作戦司令部」(Operational Headquarters)としてEU
のた めに提供し、ドイツのフィアエック将軍が指揮をとることになった(22)。コンゴ民主共和国 現地の「展開部隊司令部」(Force Headquarters)はフランスが担当することになり、まったくNATOとは独立した活動となっている。EU
のボスニアの平和維持活動(Operation Althea)は、NATO
とEU間のいわゆる「ベルリン・プラス」合意を活用した、NATOと密接な関係を保 った活動であるが、次第にEUは小規模ではあるが、独立して展開する能力をつけつつある。
EU
としての活動ではないが、国連レバノン暫定軍(UNIFIL)には新たにイタリア、フラン スを中心に多くの諸国が参加しようとしている。ここではNATOはあまりにアメリカ寄りと みられるため、使われる可能性は排除された。EUの活動のなかでは、今でもボスニアの平和維持部隊が
6800名と最も大きなものであるが、今後はおそらくヨーロッパ外の活動が増
えてくるであろう。もともと1990年代のESDPの発展は、旧ユーゴ紛争の際に当初アメリカ
の関心が薄く、ヨーロッパに能力が欠けていたことが痛切に意識されたことから、アメリ カが関心を抱かない地域紛争にヨーロッパが対応する能力をつけるために発展してきた。今や、そのようなケースが、中東やアフリカに出現して、ヨーロッパが介入の意義を認め る場合に
ESDPの枠組みが使われるようになりつつある。強いて言えば、現状では EU
の安 全保障政策は、地域紛争対応型の延長線上にあり、NATOはアメリカの対テロ戦争の延長線 上にあると言えるかもしれない。終わりに
NATO/EUの拡大は、中・東欧の安定化という観点からは大成功であった。そして、バル
カンの安定化も次第に達成されつつある。当分は平和維持部隊を必要とするであろうが、当面は戦争の再来の危険はない。このように、欧州大陸が平和になったのは大きな達成で あるが、それ故、NATO、EUともに、欧州外へと活動の場を移しつつある。これは、欧州 内の成功と、「9・11」以後の国際安全保障のあり方の要請の両者の帰結である。アメリカ は歴史的に欧州統合を支持してきたが、それは大西洋共同体の枠内に収まりうるものとし ての欧州統合であった。ここ数年、EUは独自の安全保障政策を発展させつつあり、NATO とはかなり独立して兵力の展開を行なうようになってきている。これはアメリカにとって は手放しで歓迎できることではないかもしれない。しかし、対テロ戦争とアフリカを中心 とした多くの地域紛争を抱えて、米欧の対応しなければならない問題は拡大している。そ の時々に参加できる諸国によって「連合」が組まれ、EU、NATO、国連などのなかから使わ れる枠組みが選ばれる状況が当面続くであろう。
(1) EU拡大については、東野篤子「EUの東方拡大政策―旧加盟国政府と欧州委員会の立場を中心 に」、羽場久 子、小森田秋夫、田中素香編『ヨーロッパの東方拡大』(岩波書店、2006年)、113―
132ページ、を参照。文末の参考文献が詳しい。NATO拡大については、Ronald D. Asmus, Opening NATO’s Door: How the Alliance Remade Itself for a New Era, New York: Columbia University Press, 2002, に 最も詳しい。
(2) ゲア・ルンデスタッド(河田潤一訳)『ヨーロッパの統合とアメリカの戦略―統合による「帝 国」への道』、NTT出版、2005年、21ページ。
(3) Robert Cooper, Breaking of Nations: Order and Chaos in the Twenty-first Century, Atlantic Books, 2004;
Mark Leonard, Why Europe Will Run the 21st Century, Fourth Estate, 2005.
(4) John J. Mearsheimer, “Back to the Future: Instability in Europe After the Cold War,” International Security, Vol. 15, No. 4, 1990, pp. 5―56; Kenneth Waltz, “The Emerging Structure of International Politics,” International Security, Vol. 18, No. 2, 1993, pp. 44―79など。
(5) Alan S. Milward, The European Rescue of Nation State, Berkeley: University of California Press, 1992, p. 116.
(6) “Second thoughts,” The Economist, August 24th, 2006; John Kay, “How the migration estimates turned out so wrong,” Financial Times, September 5th, 2006; “No open-door policy for Bulgarian and Romanian workers in UK”(http://www.euractiv.com/en/enlargement/open-door-policy-bulgarian-romanian-workers-uk/article- 157155 ).
(7) http://epp.eurostat.ec.europa.eu/pls/portal/docs/PAGE/PGP_PRD_CAT_PREREL/PGE_CAT_PREREL_
YEAR_2006/PGE_CAT_PREREL_YEAR_2006_MONTH_07/2-18072006-EN-BP.PDF
(8) Ronald D. Asmus, Opening NATO’s Door, p. 16に引用。広瀬佳一「NATO拡大と中・東欧」(前掲
『ヨーロッパの東方拡大』所収、135ページ)は、1995年のStudy on NATO Enlargementが、少数民族 問題や領土問題を近隣諸国との間で平和的に解決することを加盟のための前提条件としたことの 重要性を指摘する。
(9) この過程に関しては、Ivo H. Daalder, Getting to Dayton: The Making of America’s Bosnia Policy, Washington D.C.: Brookings Institution, 2000, 参照。
(10) The Alliance’s Strategic Concept, Approved by the Heads of State and Government participating in the meet- ing of the North Atlantic Council in Washington D.C. on 23rd and 24th April 1999(http://www.NATO.int/docu/
pr/1999/p99-065e.htm).
(11) Membership Action Plan approved by the Heads of State and Government participating in the meeting of the North Atlantic Council, Washington D.C., 23―24 April 1999(http://www.NATO.int/docu/pr/1999/p99- 066e.htm).
(12) 前掲広瀬論文は、「9・11」後の米ロ関係の改善、加盟候補国側の米国への政治的支持表明がこ れらの国への拡大を可能にしたと指摘している。
(13) “Balkan dringt auf NATO-Beitritt,” Frankfurter Allgemeine Zeitung, 12. 07. 2006.
(14) “Europa braucht eine solidarische Vision,” von Valdas Adamkus, Präsident der Republik Litauen, und Lech Kaczynski, Präsident der Republik Polen, Frankfurter Allgemeine Zeitung, 12. 07. 2006.
(15) Atlantic News, No, 3781, 1st June 2006.
(16) Atlantic News, No. 3779, 25th May 2006.
(17) “Bush für Aufnahme Georgiens in die NATO,” Frankfurter Allgemeine Zeitung, 07. 07. 2006.
(18) Atlantic News, No. 3792, 11 July 2006.
(19) 岩間陽子「米国の同盟システムの新しいかたち―『脅威基盤』から『能力基盤』へ」『外交フ ォーラム』第190号(2004年5月)、72―80ページ。Sten Rynning, NATO Renewed: the Power and Purpose of Transatlantic Cooperation, New York: Palgrave Macmillan, 2005, p. 122ffはNATOで実際に行な われた支援を詳細に叙述している。なお、Rynningの議論は、NATOは今や同盟ではなく「連合」
(coalition)になってしまったというものである。
(20) 2006年9月5日付Financial Times紙の社説は、「アフガニスタンの将来だけでなく、NATOの将来
がかかっているのである」と結んでいる(“Double or quits for NATO in Afghanistan,” Financial Times, September 5th, 2006)。
(21) 詳しくは、岩間陽子「NATO/EU拡大とドイツの安全保障政策」『国際問題』第537号(2004年12 月)、30―35ページを参照。
(22) ポツダムの「派遣部隊指揮司令部」(Einsatzführungskommando)は、2001年7月に、ドイツが連邦 軍変革のなかで、国外に派遣する部隊を指揮するための司令部として新設したものであったが、
これがEUのために使われたのであった。
いわま・ようこ 政策研究大学院大学助教授