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東 アジアにおける の と伝

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(1)

東北 アジアにおける 支石墓 成立 の と 伝 播

( )

中村 大介 高 麗大

. 究目的

Ⅰ 研

支石墓 靑銅器時代は の中国東北地方から朝鮮半島を て経 、日本列島の 20

九州北部にまで分布することが られており その知 、 研究も 世紀初頭に .

開始 現在 型式分類 遷 年代 族 問題 多 は されている では、 、変 、 、 属 など 岐にわたる問題 議論が されており、東アジアの墓制でも重要な研 対究 象

. 特 北方式 卓子式 呼 型式 時 代 となっている に あるいは と ばれる は、当 の 表的 地上式墓な であり、遼東地域から西日本に がる広 地上式 墓制 原の の

( 20042007).

初的なものである 中村 ․ このため、支石墓の変遷 特質や

把握 支石墓 究 越 分布

を することは、単に そのものの研 を えて それが、 す .

地域 以後 墓制 基礎 究 意義 る の の に する対 研 としての がある

支石墓 分類の や変遷に する対 最初期の研究には、鳥居龍蔵による卓子 ( 1917)

式、碁盤式 分類の があり 鳥居 、その段階から分布地域における支

. 1960

石墓の南北差 意識が されている さらに 年代以降は、増加した朝鮮

( ) ( 1964 1967

半島の事例から無支石式 蓋石式 が えられ加 林 、 ․金尹 、金 1974)、支石墓はより多様 様な 相をもつことが認識された. 中国 研の 究

( 1985 1991 1991 ) 者 支石墓は という用語 使用を しないが 許 ․ 、陳 、他 、

. 究目的

. 編年並行

Ⅱ 関

. 分類

.遼東地域 支石墓

.朝鮮半島支石墓

.支石墓 展開

.

卓子式 石棚 大石蓋墓 朝鮮半島 蓋石式 上記 支

ね は 、 は の に する の

概 対応

石墓型式がどの順番 現で れ、変化していったかについても んに じら盛 論 . 現在 卓子式 蓋石式及 碁盤式 遷 主流 れている は から び へという変 観が と

( 1973 1980 199

逆 遷 甲元 河

なってきたものの、その の変 観もあり ․ 、 2、 、他) 見解 一致は していない. また、視点 異を にする研究として、朝 鮮民主主義人民共和国 研の 究者による墓室構造の変遷 着目に した最古型

( 1973 1979 )

式 提示の があり 石 ․ 、他 、卓支式や蓋石式などの型式に固 .

執せず、具体的な変化の過程 提示が されている 加えて、韓国 研の 究者 地上式 地下式 埋葬施設 構築位置 分類 究 によって、 、 という の から する研

( 1976 1998 2006 )

提示 任 鄭 李 李 他 現在 詳細

も されており 、 ․ 、 、 、 は な .

分類及び変遷案が各地 展開で されている

究 時間軸 並行 係 不明瞭 点

しかし これまでの、 研 では と 関 に な があり、 .

支石墓の変遷観に矛盾もみられる そこで、本論では土器編年 各地と の . 並行関係を整理しつつ、支石墓の起源 含も めた変遷観を再 討検 したい

他 墓葬 比較 地上式 地下式 墓室構築位置 また、 の とも するため、 、 という

. 分 墓室型式 組 合 方法 採用 の区 と を み わせる を する

. 編年 と 並行 係

Ⅱ 関

遼東地域の青銅器時代の編年については、許玉林 小川 夫、 静 、宮本一 ( 1982 1982 夫の研究を めとして くの始 多 研究がある 許 許․ 、小川 、宮本 1985 1991).․ 概 双砣ね 子3期から上馬石上層期が支石墓に関係する時

.

期である 近年では大貫静夫 牧羊城 再整理 行が の を い この、 時期の し新

( 2004 2006 2007)

編年案 提出 大貫 大貫 古澤 大貫編

い を しており 、 ․ 、 、

( 20062007b c).

私もこれを けて受 編年の細分 試を みている 中村 ․ ․ こ 卓子式 大石蓋墓 同一墓域 共存 唯一 事例 房 こでは、 と が で する の である双

2 .

遺跡の 号石棚出土壺 時期 考の を えてみたい

(2)

3

掘資料 密 考 子 期 資料 新

これまでの発 から厳 に え、双砣 の の しいもの 大嘴子出土資料 限定 上馬石上層文化 上限 遼寧省博物館

を に し、 の を など

.

掘資料 者 時間的乖離

による発 のみとするならば、両 にはまだ がある そ

3 (

澄田正一 上馬石貝塚 掘資料 加 子 期後半 大 こで、 による の発 も え、双砣

) 1 ( ) C

嘴子段階 、牧羊城下層古相、尹下村 期 牧羊城下層新相 、上馬石

B A A

上馬石 上馬石 下層 上馬石 上層という編年案 提示を

、 Ⅱ 、 、

区 区 区 区

. 上馬石C 遼寧省博物館他 掘 資料 時期 一 したい 区が、概ね が発 した と が 致し、遼寧式角剣の存在から ここが、 遼寧式銅剣出現期であると判断さ

( 1).

れる 図 なお、牧羊城下層は大貫静夫 提示が するように、二分した場

3 ( 2006).

合、古層が双砣子 期と上馬石上層期 間の にくる 大貫 古澤․ 新

< 1>  遼東半島 土器編年 房遺跡出土土器(S=1/12)

3 1

相は、本稿の細分案である双砣子 期後半 尹下村と 期 間の にくる可能性 ( 2007b c)

考 中村 点 大貫 夫 編年案

があると えられるが ․ 、この は 静 らの (大貫編2007)と なっている異 .

2

房 石棚出土 壺 許玉林 許明綱 徐光輝 さて、双 号 の については、 ․ 、 、

( 1983 1996 宮本一夫、華玉冰は上馬石上層期とし 許 許․ 、徐 、宮本 2 0 0 0、華2 0 0

6)、王洪峰は双 3

子 期まで る遡 砣

(王 と し て い る 1993 ).、 ま

王生成 時 た、 は 期にはふれず、 崗上墓資料との 類似性を指摘し ( 王 て い る 2003). 本稿で

資料 比較 も を し

再 討 ながら 検 し

( 1) てみたい 図

格子文が縦に 構成される土器 C 上 馬 石 貝 塚 は

斜 にもあり、 区

線文と列点文が 組み合わされる

B 土器 も Ⅱ区に

格 あるものの、 子文と列点文が 組み合わされる

< 2> 

(S=1/8 : C

遼寧式銅 及 把頭飾 石 小 石溝 上馬石

: : )

段階以前 金海漁防洞 無文土器時代前期後葉 浦項草谷里 前期末

(3)

.

事例は、大嘴子出土資料のみである さらに圏足が発達した は壺 、双砣

3 B

子 期の砣頭積石墓では められるものの認 、上馬石 Ⅱ区以降の墓域には

2 3 .

房 資料 子 期 近 相

ないため、双 号 は双砣 に い様 をもっている ただし、 2

房 資料には突起 で不明瞭 把手な がみられるが、把手のある は壺

双 号 状

3 . 3

子 期にはない 加えて、 子 期の の壺 頸部にみられる文

双砣 双砣 様区画

2 3

突線 本稿 房 時期 子 期末 尹

のための もないため、 では、双 号の を双砣 ~

1 ( 1). 2

下村 期 考と えておきたい 図 この双房 号墓出土壺 重要性の は年代の .

系統 点 重要

もさることながら その、 がどこにあるかという が である 帰属

. 支石墓 系譜 合 後述 これについては の と わせて する

一方、近藤喬一 把頭飾 模倣が の から遼西地域 遼寧式銅の 剣と朝鮮半島 ( 2000).

石 係 述 近藤 私 受

の 剣に関 があることを べている はこれを けて、 遼西地域よりも朝鮮半島 近に い、遼東半島と渾河 太子河流域 把頭․ の を

遼寧式銅 地域 係 朝鮮半島 石 把頭

もつ 剣 挙を げ これらの、 との関 で の 剣に ( 200 飾 脊柱と が転化した の樋 表現 取が り まれることを込 指摘した 中村 3 2005).․ そして このことをふまえると、 、朝鮮半島の無文土器時代 (青銅器時代)前期後半 遼東地域 遼寧式銅と の 剣成立期が並行することが

( 2).

理解される 図

. 分類

今回 朝鮮半島南部 支石墓は の について、詳細な検討 行を うことはでき 全体的 墓葬 影響 係 遷 把握 朝鮮半島南部 ないが、 な の 関 と変 を するため、

.

型式 含 分類 行 基本的 稿 分案 同 にしかない も めて を う には旧 での区 と じ

(中村2003 2005).

である ․ 1)

1) 地上式 地下式 くは任世が した 分類案である. 分名

( ) ( )

李盛周 墳丘地上施設 埋葬施設 墓室 構築順序 着目

なるがによる した

( 1999) .

によって その分方法 重要性 再認識 されたといえる 近年 ( 2006).

李相吉 筆者 分案 提示 に い している

上位 分区 として墓室の構築位置から支石墓 以下を のように三分類する ( 3).図

. 地上式……埋葬施設 地上を に構築するもの

. 半地上式 墓壙 掘… を るが、埋葬施設の くが多 地上 出に るもの

. 地下式……墓壙 掘を り、埋葬施設 地下を に構築するもの

  .

次にこれらの上位 分 組 合区 と み うものとして墓室 型式分類 示の を す 以下 埋葬施設分類の には石槨墓 石棺墓や にも適用され、後者にしかない

. 型式もある

a cm

板石石棺 …上石 厚の さに い近 数十 の板石を、小口と側板 一枚に ずつ使 .

用し、下部構造を構築するもの 片方 小口の は いか無 、短いものが多 .

b 20cm

板石石棺 … 以下 厚の さの板石で、小口と側板四周 下部構造の を構築 .

するもの c 20cm

板石石棺 … 以下 厚の さの板石を数枚使用して側板 作を り、下部構造

< 2>  従来墓室構築位置対応

< 1>  支石墓 石棺墓 における墓室型式 墓室位置 組 合 の み わせ

< 3>  墓室構築位置による支石墓分類

(4)

. . 構築 支石墓 埋葬施設 組 合 を するもの の には み わない

.

割石石棺…割石 用を いて長方形 下部構造の を構築するもの 大きさがそろ .

多 大小 礫 組 合 構築 うものもあるが、 くは の を み わせて する

割石積石棺…割石石棺との厳密な区別は しいが難 、比較的大きさのそろっ .

割石 高 積上 長方形 下部構造 構築 石槨 可能 た で く げ、 の を するもの の

. 性もあるものがあり この、 場合は「割石積石槨」となる

.

板石積石棺…板石の い を み げて広 面 積 上 下部構造を構築するもの 全てに 該当はしないが、内部 石棺に 、木棺などの められた納 可能性のある石

. .

槨を確実に む この含 場合は「板石積石槨」となる

土壙…二段土壙、石蓋土壙なども み に含 主 地面を り げて掘 下 下部構造を構

< 4>  地上式支石墓 凡例 S=1/150)

. .

築したもの 内部 木棺 納に が められていた可能性もある .

石式 楕円 円形 割石 配置… や に を し、上石 置を いたもの 最も簡略 形態な 囲 である.

< 5>  半地上式支石墓 凡例 S=1/150

< 6>  地下式支石墓 凡例 S=1/150

(5)

1 . 4 6

墓室の構築位置 型式 組 合と の み わせは表 に した示 図 ~ はその凡 .

例である また、本稿の分類 一般的 分類と な である卓子式、蓋石式、碁

2 .

盤式との関係を表 に した示 これをみると、卓子式 地上 半地上式板は ․

a .

石石棺 に限定され、極めて定型化したものである 従って、墓室構築位 . 置の区別 必要を としない場合は、本稿でも卓子式 用語 使用の を したい 大石蓋墓や碁盤式 墓室も は多様であるものの、全 地下式て であり その、

.

点では定型化した型式である 一方、蓋石式は多系統のものを んでお含 .

分類 念 適

り 概 として 当ではない

以上 分類の に づき基 、遼東地域 支石墓の の検討 始を めたい

. 遼東地域 支石墓 の

現在 支石墓 分布、 が するのは遼東半島中部から輝 河上流域発 であり、 ( 資料が増加した現在も遼西地域やより東方 北方․ には分布しない 三上 1961、他).2) 現在では同様の地域 地下式墓に である大石蓋墓 分布が す

( 1994).

明 許 卓子式 大型 小型

ることも となっている は、 から になるとい ( 1985 1991)

見解 提示 許 陳 墓室構造 討 長

う も されたが 、 、 の検 からは、 方形から方形に変遷すると推定されているため、結果的 中 小型 先に ․ が

( 2000 2006).

出現 宮本 華 大石蓋墓 卓子

に するようである 、 そして、 は

( 1991).

式に れて遅 出現することも指摘されている 許 3) また、宮本一夫 地域性 考慮 考察 行 大石蓋墓 成立 遼西地域 は を した を うなかで、 の を から

2) ここでは支石墓分布地域宮本一夫にならって遼東半島遼東陸部

(宮本2000). 遼東山地部 渾河流域 輝 河上流域

から の い であり

.

子河周西 山文化 石棺墓地 帯 挟に まれる また近年沿海州からも支石 (Brodianskii 2007)

されたようであるが時期容 判然 としない .

保留

ため しておきたい

3) この見解 遼東地域 朝鮮半島 支石墓差異 再 討 させる契機 (田村1996).

なったといえる

( 2000).

石槨 石棺 影響 推定 宮本 の 、 の によると している

以上の研究を参考としながら、卓子式と大石蓋墓 前後の 関係 各と 々の 期間を自己の編年にそって確認し、 者の系譜 係と 遷を えて考

継続 両 関 変

. 扱 資料 表3 5 集成 7 墓室規模 示 . みたい う は ~ に し、図 にそれらの を した

< 4>  遼東半島・内陸部 卓子式支石墓

< 3>  遼西 遼東地域 石棺墓 石槨墓 )

(6)

< 5>  遼東地域 大石蓋墓 (考資料として撫順山龍石棚价川墨房里 追加

< 7>  遼東地域とその周 地域 墓室規模 (cm)

(1)

時期の認定

卓子式からの出土遺物 少は なく その、 正確 出現時期な と継続期間はわ 2

確 最古級 先 討 房 石棚

からないが、 実なもので なのは に検 した双 号 であ

. 後 蓋州 家窩堡 ( 8-4) 出土

る それに 続するのが 伙 であり 図 、そこから し

C

二重口 罐 高麗寨出土資料 類似 上馬石 段階以降 考

た 縁 は に し、 区 と えら

. 事例 卓子式 少 子3期末 上馬石上 れる これらの から、 は なくとも双砣 から

< 8>  遼東地域 支石墓 墓葬 ( S=1/100遺物S=1/10)

(7)

.

層期にわたる継続が められる認 また、崗上墓や楼上墓 床石の を参考に B

大型卓子式 整 石材加工 上馬石 以降 現 すれば、 にみられる った は Ⅱ に れ

( るとため 図 8 1 0 )․ 、大 型 墓の出 現 は遅れ る と . 考えられる

大 た だ し、 型 墓に方 形 墓 室が多い と は い え、

2 房 墓を

双 号

起点と す る ( 7 限り 図 ․ 8)、単純に 墓 室が長 方 形か ら方 形

化 に変 す る

推 定 と い う

正 確 は で は

. ない

大石蓋墓 6 房 では、双

石蓋墓か 号

遼寧式銅 ら

房 類 剣 双と 型 壺が出 土

. し て い る

墓葬 遼寧式銅 形態 房類型壺 鞍 把手 痕跡 この は 剣の 、双 にみられる 状 の か

9 遼東地域 大石蓋墓 墓葬 ( S=1/100遺物S=1/10)

C 2

上馬石 段階並行期 考 先 討 石棚 時期 ら、 区 と えられ、 に検 した 号 よりは

.

下 鳳山東山大石蓋墓 房類型壺 馬城子文化 壺

が る また、 からも双 が の と

( 9). 6

出土 房 資料 形態的 差異

ともに している 図 双 号の と な があるが こ、 .

地域性 含 差異 理解 大石蓋墓 時

こでは を んだ と しておく そして、 の継続 期は、吉林省遼源高古村の加重器の型式から判断して、戦国期まで り下

( 9). 況 卓子式 大石蓋墓 上馬石C 段階 接

うる 図 こうした状 から、 と は 区 を .

点に併存すると えられる考

(2)

卓子式と大石蓋墓の関係

4 .

次 表に を参考に卓子式、大石蓋墓などの関係 考察を したい 大石蓋 b

墓 遼東半島中部は の双房では板石石棺 の墓室があり、卓子式 違と い、 .

薄 板石 使用い を している 東山大石蓋墓では土壙 多が く、石槨 近に い墓

. ( 9).

室 混が じる その には中 墓室 一部地上 出が に るものが まれる含 図 遼 東内陸部の大石蓋墓には、火葬は共通するものの、多数埋葬 深 墓壙や い

.

存在 半島部 差異 大石蓋墓 呼

が し、 とは がある と 称されていても その、 .

墓室構造は に実 多様といえる  

( 2000).

一方、内陸部 卓子式の には積石 伴を うものがみられる 宮本 そ

1 2

中 撫順山龍石棚 墓 側板 上石 間 段程度 石 積 の の 号 では、 と の に の を んで

( 5). M9

石槨状にしている墓室があり 図 東山大石蓋墓 などに い近 様相を . 加 山龍石棚 地面 掘 窪 墓室 構築 半地上式( もつ えて、 は を り めたのちに を

a) .

板石石棺 しており、大石蓋墓との関係を想起させる そこで さらに、 ( 係 明瞭 各墓葬 墓室 規模 比較

この関 を にするため、 の の を してみたい 図 7).

7をみると、長軸 差異に があるものの、石棺は に して さの幅 長 比

図 対

.

率が く高 、人 一人納が められるのに した適 形態をしている 石槨は合葬 . 例 混が じるため、幅が い広 場合もあるが、多くは石棺に た似 比率である 一方 卓子式 石棺 近、 は に い形態もあるが、幅に する さの対 長 比率 比較が

.

的小さい 遼東の半島部と内陸部で きな大 差異はないものの、半島部の .

方形 近 墓室 多 傾向 認 大石蓋墓 ほうに に い がより い が められる そして、

(8)

長 幅 は、 さに対する

比率 小 石 の が さく、 棺墓や石槨よりも卓

. 子式に い近

以上のような検討 大石蓋墓 基 から、 は 本的に卓子式の系統

引 理解 を くと できよ

. 遼東地域 遼寧

う の

式銅剣の出土が、大 6 石蓋墓からは双房

岫岩太老墳のみ

、 号

石 であるのに対し、 棺からは数多く出土

(宮本 していることも 2000)、卓子式にみ

土着性 大石 られる を 蓋墓が引き継いでい

. 示

ることを している 大石蓋墓が地下式で あることについては

. 後述する

卓子式 大 さて、 と 石蓋墓の墓室を中心

考察

に してきたが、 者 伴 副 ここで両 に う 葬品の差異に注目し

. 罐 伴 てみたい が う 点は両者に共通する

< 10>  遼東半島 積石墓

. 2 房遺跡 卓支式 大石蓋墓 壺 系譜 異 石 が、双 では、 と の の が なっている 号 棚から出土した台付短頸壺 遼東半島先端部 文化は の に系譜をもち、同系

( 10).

統の い古 土器は旅順砣頭積石塚墓にみられる 図 また、先述したよ (

崗上墓 文 化 系統 壺 出土

うに などからも、 様 変の したこの の が しており 図 1)、遼東半島の積石墓 伴 頻度 高に う が い. そして、積石墓は、小珠山上 層期には出現していることから遼東半島先端部 在地的 墓制の な であり、

.

埋葬施設 地上を に構築する地上式 墓制の の代表的なものである 従って 遼東半島先端より北方にある新金双房 卓子式支石墓の で、積石墓 伴に う 壺 確認が される事実は、地上式という共通性 含を め、卓子式 積石墓が の

.

系統 引を くことを示唆している 先述した崗上墓などの床面に加工した . 大きな板石 使用が されていることも、技術面 接点 示で を している 両者

埋葬施設 構築石材 形態 差異 周

には の の に があるが これは、 、 囲でとれる .

石材に関連するのであろう 実際に、双房のある では丘 、板石をとるの ( 11).

適 層 石 基盤層 存在 に した 状の が として する 図

大石蓋墓 それに して対

房類型壺 伴 は双 が うこと

.

多 房類型壺 遼 が い 双 は 東半島の鞍状把手や弦 文 瀋陽地、 区と太子河流 域 壺 形態 整形方法の の や

融合 成立 が して するの

地域 交流 示 で、両 の を す

.

ものである4) 従って双房2号の とは壺 系譜 異が なる5). また、太子河を 中心 分布に する石棺墓には双房類型壺 遼寧式銅と 剣が く多 副葬されるこ 4) 金美京太子河流域 資料 整理 良好房類型遷案 提示 している ( 2006). ただし、双房類型 成立 については遼東半島と り して えてお切 離

. (

本稿 理解 異 出現期 資料 位置付 筆者 中村 と なる また けも の え 2007b)とは なっている

5) 東山大石蓋墓 土器 から太子河 馬城子文化 範疇 にある文化 判 .

陸部的 き より をもつ

< 11>  房遺址 基盤層 筆者撮影 ( )

(9)

大石蓋墓 成立 卓支式 基礎 石棺石槨 とから、 の に しては関 を として、 ․ から

( 2000) .

影響 宮本 認 卓支式 地下式自体 影響 認

の も められる の にこの を め

. 妥

る は 当で あ ろ う 房遺址 って、 から

従 双

東山大石蓋墓 所在の す 地域 遼東地域 る は、 の 南北 文化 接の が する地 域であることが理解さ

( 12) 房類型 れ 図 、双 や 大石蓋墓はその交流の

.

産物といえる さらに 支石墓 成立 含の も めれ

3 子 期 ば、双砣 から継

全体的 交流 する な

続 関

係と社会変化 墓葬を が . 表象していると理解できよう

次項では、以上のような遼東地域での動態を まえ踏 、多様な支石墓の .

展開する朝鮮半島の分析 試を みることとする

. 朝鮮半島 の 支石墓

.

朝鮮半島には に実 多様な支石墓がみられる この地域では くの多 研究 .

蓄積 究 象 多岐 本稿 紙面 都合上 全 の があり、研 対 も にわたる では の 、 て

遼東地域 支石墓 討 系 にふれることはできないので、 での の検 をふまえ、

. 統と変遷について北部、南部 分に けて検討したい

(1)

朝鮮半島北部の

地域 卓子式 多 中 小型 北倉大坪里 江東文興里

この では が く、 ․ は や など

< 12>  遼東地域各墓葬分布

< 13>  朝鮮半島北部 支石墓 遺構 ( :S=1/150遺物:S=1/10)

(10)

( 13-3)

例 大型 殷栗冠山里 例 遼東地

の があり 図 、 は などの があるように、 .

域とほぼ類似した様相をもっている 差異 積石 敷石 伴 例は や が う が い多 五 里坪村 卓支式 南部 通 積石 墓 ことであり、 徳 では ながらも に じる による

( 13-1).

域表示 認が められる 図 また かつて、 石光濬 指摘が したように、 ( 1973 1979).

基本的にこの地域 支石墓 全 地上式の は て である 石 ․ そし 沈村里

て、 긴洞( 13-2)図 などの地上式板石石棺bが最古型式と えられ考 ( 1979石 、甲元1973 1980․ 、他)、そこから五 里型 卓子式徳 ( )が派生す

. 見解 遼東地域

るとされている しかし これらの、 は これまでみてきた、

. .

卓支式 出現 相反 考

の の と する まずはこれについて えてみよう b

板石石棺 で構成される沈村里긴洞は有 式石茎 剣の型式から判断して 古いとされたが これは、 南部 無文土器時代中期の まで存続する型式であ 共伴 石鏃 前期末 中期 並行 型式 最古型式 り、 する も ~ に する であるので、

.

支石墓 確 卓子式 新 型式 石鏃 出土 の とはいえない かに からも しい の が す

場里特大形支石墓

るが、 のよ

新 有 式石鏃 うに しい 茎 ととも

古 無 式石鏃 出土 に い 茎 が する

( 14).

事例もある 図 卓子式特 有の納骨などの使用法のため ( 2002)李 、副葬品 追加可能も . 注意

であったことに したい 近年刊行された各地支石墓調

( 200 査発掘報告をみても 石 3)、卓子式には い古 時期の副 葬品 有を するものが散見され 遼東地域 同 板 るため、 と 様に

a .

石石棺 の卓子式 先行が したと えられる また考 、石棺墓 無文土器時代は b

前期後葉には存在しているので、地上式板石石棺 はそこからの影響で ( 15).

あろう 図

一方 朝鮮半島北部、 には として主 地上 積石 石槨 構築に で を し、上石を

< 14> 場里特大支石墓 在日本朝鮮 史考古( 1995朝鮮民族 源流より)

( ) ( 13-4 5).

墨房里型支石墓 板石積石棺 墨房里 石岩

のせる がある 図 ․ と

( 野営所からは双房類型の系譜を引く墨房里式土器が出土しており 図 13-5)、この では点 墨房里型と大石蓋墓に関係が められる認 . 加えて、

( 7).

墓室規模 卓子式も と大石蓋墓 類似に している 図 しかし、墨房里型の 墓室 地下式は もあるものの、大半 地上式が であり、地下式 主体が の大石

.

蓋墓とは きく なる大 異 先にみた撫順山龍石棚に、積石墓 報告と されて ( 9-2)

半地上式割石積石棺 含 考慮 墨房里

いる が まれることを すれば 図 、 型 遼東は 内陸部 山龍支石墓の のようなものの影響、もしくは同様 変の 化

.

方向をもつことで成立することが えられる考 朝鮮半島北部には積石を .

伴 卓子式う は い多 なお、朝鮮半島北部では石槨墓は発見されておら .

支石墓 融合 方向 展 ず それが、 と する には発 しない

5 b

北倉大坪里 号支石墓 地上式板石石棺は であるが そこには、 双房類型 ( 13-3)

壺の変形したものが まれ含 図 、同様の時期には遼東内陸部 類似と 副葬土器 銅釦 江界豊龍洞石棺墓 遼寧式銅 銅鏃 含

した と をもつ 、 剣や が ま

< 15>  遼東地域及 朝鮮半島北部 石棺墓 (石棺:S=1/100土器:S=1/10石器・青銅器:S=1/8)

(11)

( 15).

白川大雅里石棺墓 墓葬 副葬品 土器

れる がみられる 図 こうした 、 、

式の 相から、この時期 共通に した動向が遼東地域の半島部と 陸

様 様 内

.

部、そして朝鮮半島北部にあったことが理解できる その意味 墨房里で 型は大石蓋墓と同系列のものであり、朝鮮半島北部での変容形態なので

. 視点 朝鮮半島 支石墓 相 複

あろう また、 を えれば変 、 の の様 が 雑である

化 型式 前 型式 並 起因

のは、変 した とその の が んで継続することに すると .

考えられる そして こ、 傾向 南部 著 の は でより顕

. になる

(2)

朝鮮半島南部 朝鮮半島南部では、今 回提示した編年に うと従

C

上馬石 区並行期である 無文土器時代前期後半か

. 支石墓 現 二段 ら が れる 有柄式石剣や無 式石鏃茎

判 大田比來 から 断して、

1

洞 号支石墓、鎮安顔子 1 9

洞 号、 号支石墓などが ( 該

そ れ に 当す る 図 16-1). いずれも割石積 石棺であるが、それぞ

地上式 半地上式

れ、 、 、

. 地下式となっている ま

時期 支石墓 だ この、 の が 全国で確認されてはいな 同時期 石棺墓及 いが、 の

周溝石棺墓 地

び、 は い広 < 16>  朝鮮半島南部 無文土器時代前期墓葬

( 16-2).

域 確認で されるようになってきた 図 6) 特 周溝石棺墓に は、土で 墳丘を った作 可能性があり、支石墓導入期の地上式墳墓として注目され . 積石 周溝及 盛土 差異 墓域範 表示 意 る と、 び という はあるものの、 囲 の 識は両者に共通しており、二段有柄式石剣、先端部 厚が くなる無 式石茎

.

鏃 遼寧式銅、 剣が出土することも共通する そのため、周溝石棺墓は、 支石墓導入以前 墓制の ではなく、支石墓からの変容あるいは その、 模倣

.

形態であると えられるだろう考 地下式 石棺墓の とほぼ同時に、支石墓 .

含 地上式 墓 導入 注意 も めた の が されていることに したい

無文土器時代中期からは支石 墓が急増し、様々な地域的展開

. 認

が められる これについて、 ( 幾度か論じたことがあるが 中

2 0 0 3 a 2 0 0 5 2 0 0 7 a

村 ․ ․ ․

b)、詳細 資料 追加は を し、別稿 .

用意 結論 述

を したい のみを べ 朝鮮半島 地上式 全 ると、 には が 体的 分布に するものの、地域に

主体 墓室 構築位 よって となる の 置が異なる傾向が認められる ( 17図 、中村2005).

朝鮮半島北部では卓子式 含も 地上式 支石墓 主体 め、 の がその

.

占 確認

を めることはすでに した 朝鮮半島南部でも北側に いほ近

傾向 漢江流域 どこの をみせ、 、 嶺西地域 嶺東地域、 では地上式

.

主体 錦江流域

が となる よりも

6) 忠 文化財 究院2006舒川烏石里烏石山遺跡』、江原文化財究所2006

2003 8 .

川牛頭洞遺跡』、昌原文化財究所晋州玉房 地 先史遺跡など

< 17> 朝鮮半島における墓葬 地域性 (中村2004)

(12)

南方 沿海部の でも、高敞地域周辺など、地上式 中心的が になる地域もあ . 地域 山地側 安望 遺跡 卓子式 地上式石棺 る また この、 や の鎮 徳 では、 や

( 18).

墓 墓域 中心が の となり、地下式 石棺の が周囲に配置される 図 納骨 .

施設 象 化が 徴 されたのだろう 近年、平澤土津里遺跡で、小型石棺墓か 火葬人骨 痕跡 確認

ら の が されたので7)、卓支式などが統合のための納骨 .

施設であった可能性は くなったといえる高

一方 注意、 すべきは、錦江流域では支石墓 認も められるものの、板石

c ( 2003).

石棺 を中心とする石棺墓 主体が となる墓域が いことである多 金 墓室構築位置 地域 南江及 洛東江下流域 そして、 をみると この、 と、 び を

1m .

中心とする地域で、 以上 深 墓壙の い の地下式 盛行が する 後者 支石は 墓でありながらも、地下深くに埋葬施設を構築し、埋葬施設自体も堅固 . 碁盤式 成立 動態 連動 上石 なものをつくる の はこの に したものであり、

立 下部構造 深 意識 生

を独 させ、 は くするという のもとに まれたのであろ . 地域 石棺 型式 異 天河石製曲玉 碧玉製管 う また、両 では の は なるが、 や

玉 流通の をみると、交流関係は確実にあり、墓壙の深化にも関係がある .

推測 同時期 遼東地域 朝鮮半島北部 深 墓壙 事

と される の と には い をもつ

例 少が ないため、具体的な伝播の様相 明は らかにはできないが、朝鮮半 . 島 南部 深 墓壙の の い は遼西地域 石棺の と石槨 起源を とすると えられる考

東南部 嶺南地方の では、李秀鴻の研究によって、範 的囲 には地上式の ( 2006).

支石墓 分布が していることが らかにされている明 李 この地域の .

陸部でも西側では規模の きなものが い大 多 そして そこでは、 墓域の 内

中心 地上式が のものと地下式のものの両方があり、混在した様相が わ窺

( 18). 地上式 南沿海部 近 墓域 中心

れる 図 ただし、 は に づくほど、 の から .

傾向 はずれる がある

.

西南部 最 支石墓は も が く かつ多 、 複雑な地域である この地域の東部 沿海地域 洛東江下流域 近 相 大 東方 の は に い様 をもつように、 きくは にい

地下式 志向 蟾津江 城江流域 諸遺跡 くほど を するようであるが、 、宝 の の

7) 畿甸文化財究員2006平澤土津里遺跡.

. 墓壙 半地上式 主体 地域 ように い浅 や が となる もある

朝鮮半島南部 支石墓の は、卓子式 石棺墓と の伝播 始を めとして、朝鮮 b

半島北部で変遷した積石 伴 地上式板石石棺を う の流入 石材、 の変換に

割石石棺 出現 要因 多 性

よる の など、様々な によってその 様 を していっ増 ( 19).

考 銅器時代前期後半 支石墓 地上式 多

たと えられる 図 青 の は が かっ

< 18>  墓域における地上式 地下式 配置 tone地上式

(13)

過程 地下式 問題

たことから どのような、 で に わったが変 になるが これ、

石棺墓 相互作用 化 場合 卓

については、 との で変 していった と もともと、 子式支石墓の導入されない地域では葬制 地上式 埋葬に の がなかったこと

.

作用 考 卓子式 地域 地上 埋葬施

が すると えられる つまり、 のある では に 設を構築する行為を維持し それがない、 地域ではすぐに地下式 埋葬施へ

.

設の構築位置を転換させたと理解される 逆に えれば考 、卓子式のある 地域は、遼東地域 朝鮮半島北部や に い近 葬制 他界や 観を共有していたと

. いえよう

. 支石墓 展開 の

 

討 支石墓 初現 地上式 視

これまで検 してきたように、 の が であるという 点からみると その、 系譜 遼東半島は の伝統的 墓葬な である積石墓に め求

. 後 遼東山地 積石 付加 出現 石棺 られる その 、 で が されるものが し、 など

. 影響 大石蓋墓 成立

の で が する

< 19>  支石墓系統

一方 朝鮮半島、 へは、遼東地域において地上式 地下式と の両方 支石の 墓 成立が した状況で伝播するので、地上式が いものの多 、朝鮮半島でど

.

先 受容 明 朝鮮

ちらが に されたかを らかにすることはできない しかし、 半島北部では、石棺墓 地下が に構築されるのとは対照的に、大部分 支の

.

石墓 地上 半地上は 、 に構築される 遼東地域では地下式である石棺と石 槨の影響 受を け、地上及び半地上式 支石墓の から地下式の大石蓋墓 派が

a 生したが、朝鮮半島北部では墓室の構築位置は変化せず、板石石棺 か

b .

板石石棺 墓室構築材 化 影響 先 討

ら という の変 にその がみられる に検 し

墨房里式 地上及 半地上 保持 卓子

た も、 び を く強 することから、継続する .

式 含も め この、 地域は く強 地上式 墓 志向の を している そのため個人が 納められる程度の石棺 規模の になっても、支石墓 地上は に構築されたと

.

考えられる ただし、石棺墓からの影響 受 方 違の け は なるものの、遼寧 式銅剣などは遼東地域と同様に石棺墓から出土するので この、 部分では

. 地域に共通性 認が められる 両

一方 卓子式、 がほぼみられなくなる朝鮮半島南部 沿海部の において、 .

最 支石墓も の機能が変容していることが指摘できる すなわち、血 集縁 間 紐の を 化する共同作業の 象 築造が だけでなく、納骨などの統

団 帯 強 対

合 場 含の も んでいた卓子式を代表とする地上式墓から、築造自体にその 目的 集中が する個人用 墓の である碁盤式などの地下式へ変化しているの . 加 碁盤式 東南部地域 地上式 場合 である えて、 のみられる では、 がある

墓域 中心 場合 多 指摘

でも の ではない が いことから、従来から されてきた 北方と南方 支石墓 類型差の の は、死生観や埋葬習俗 至 深 部分に る い での

. 差異であったと理解できる

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(한글요약)

의 과

支石墓 系統 展 開

中村 大介

는 중국 동북지방에서 한반도를 거쳐 일본의, 북부까지

支石墓 九州

분포되어 있는 것으로 알려져 있다 그것에 대한 연구는. 20세기 초두 부터 시작되었다 초기 연구에는. 鳥居龍蔵에 의한 卓子式、碁盤式의 가 있었다( 1917). 이 단계에서 분포지역에 있어서 의

分類 鳥居 支石墓

차이가 파악되었다. 1960년대 이래로 한반도의 늘어나는 사례를 南北

연구하여, 無支石式(蓋石式)이 증가되어( 1964林 、金・尹1967、金 는 보다 다양한 양상을 가진 것으로 연구되었다

1974) 支石墓 .

중국의 연구자는 支石墓라는 용어를 사용하지 않지만( 1985許 ・

대략 이 에 이 한반도의

1991、陳1991、他), 卓子式 石棚 , 大石蓋墓 蓋 에 해당한다 그래서 현재도. 의 분류 변천 연대 계통 등의, , ,

石式 型式

문제에서 다양한 문제점이 논의되고 있다 위에서 언급한. 支石墓 型式 이 어떤 순서로 나타나고 변화하고 있었는지에 대해서도 활발한 논의 가 전개되고 있다.

현재는 卓子式에서 蓋石式 및 碁盤式으로 변천하였다는 것이 주류 가 되고 있으나 그 반대로 변천하였다는 시각도 있어서, (甲元1973・ 의견의 일치는 보지 못하고 있다 또한 시각을

1980、河1992、他), .

달리하는 연구로서 북한의 연구자에 의한, 墓室 구조의 변천에 주목한 최고형식의 제시가 있는데( 1973 1979石 ・ 、他), 탁지식이나 개석식 등의 형식을 고집하지 않고 구체적인 변화의 과정을 제시하고 있다, . 특히 한국의 연구자에 의해서 지상식 지하식이라는 매장시설의 구축、 위치에서 분류하는 연구도 있어서( 1976任 、鄭 李・ 1998、他), 현재 상세한 분류 및 변천 과정에 대한 논의가 각지에서 전개되고 있다.

그러나 지금까지의 연구에서는 시간축과 병형 관계에서 불명확한

(16)

점이 있고 지석묘의 변천관에 모순도 보여 진다 이에 본론에서는 토, . 기 편년과 각지의 병행 관계를 정리하면서 지석묘의 기원을 포함한, 변천 과정을 재검토하였다 또 다른 묘장과 비교하면서 지상식 지하. 、 식이라는 묘실구축위치의 구분과 묘실형식을 아우르는 방법을 채택하 였다.

이와 같이 본고에서 검토한 바 지석묘의 첫 출현은 지상식이었다는, 시각에서 볼 때 그 계보는, 遼東半島의 전통적인 墓葬인 적석묘에서 찾을 수 있다 그 후 요동 산악지에서 적석이 첨가되어 나타나서 석. , 관 등의 영향으로 대석개묘가 성립하였다.

한편 한반도에는 遼東地域에 있어서 지상식과 지하식의 두 형태의 지석묘가 성립한 상황에서 볼 때 지상식이 많았지만 한반도에서 어느, 것이 먼저 수용되었는가를 명확히 하기는 어렵다.

한반도 북부에서는 석관묘가 지하에 구축되었던 것이 비해서 대부, 분의 지석묘는 지상 반지하로 구축되었다 요동지역에서는 지하식인, . 과 의 영향을 받아서 지하 및 반지상 식의 지석묘에서 지하식 石棺 石槨

의 大石蓋墓가 파생되었는데 한반도 북부에서는, 墓室의 構築位置는 변화하지 않았고, 板石石棺a에서 板石石棺b로 라는 墓室構築材의 변 화에 그 영향을 찾을 수 있다 앞서 검토하였던. 墨房里式도 지상 및 반지상을 강하게 유지하면서도 뒤의 탁자식까지 포함하여 그 지역은, , 강한 지상식의 묘를 지향하고 있다 석관묘에서의 영향을 받은 것은. 분명하지만 요녕식 동검 등은 요동지역과 마찬가지로 석관묘에서 출, 토된 것으로 이 부분에서는 양자에 공통점을 찾아 볼 수 있다.

한편 탁자식을 거의 찾아 볼 수 없는 한반도 남부의 연해지역에 있, 어서도 지석묘의 기능이 변용되어 나타나고 있다는 것을 지적할 수, 있다 즉 혈연집단 간의 유대를 강화하는 공동 작업의 대상이 구조만. 이 아니라 납골 등을 포함하는 탁자식을 대표로 하는 지상식묘에서, 축조 자체에 그 목적이 집중되어 있는 개인용 묘인 기반식 등이 지하 식으로 변화하고 있는 것이다 특히. 碁盤式이 나타나는 동남부 지역에 서는 지상식인 경우에도 묘역의 중심이 아닌 것에서 종래부터 지적되、

어 온 북방과 남방의 지석묘의 유형의 차이는 사생관이나 매장습속에 이르는 깊은 부분에 차이가 있는 것으로 이해할 수 있다.

주제어 : 청동기 청동기시대 지석묘, ,  

: , ,

關鍵詞 靑銅器 青銅器時代 支石墓 Keywords : Bronze Age, dolmen

원고접수 년 월 일 심사완료 년 월 일 ( : 2007 12 22 , : 2008 2 12 )

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