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hokusoshi kenkyu : shitaifuso no bungaku

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Academic year: 2021

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内 山 精 也 學 位 論 文

︱ 士 大 夫 層 の 文 學 ︱

本 論 文 は 、 「 Ⅰ 序 論 」 、 「 Ⅱ 北 宋 中 期 士 大 夫 と 詩 歌 」 、 「 Ⅲ 東 坡 烏 臺 詩 案 考 」 、 「 Ⅳ 北 宋 後 期 士 大 夫 と 詩 歌 」 、 「 Ⅴ 蘇 軾 と 詩 歌 」 、 「 Ⅵ 宋 代 士 大 夫 と 文 藝 」 と い う 六 つ の 柱 、 計 十 七 の 章 に よ っ て 構 成 さ れ る 。 本 論 文 に お け る 「 士 大 夫 」 と は 、 科 擧 も し く は そ れ に 準 じ る 方 法 ( 恩 蔭 、 推 擧 等 ) に よ っ て 官 職 を 得 た 官 僚 を 指 す 。 ま た 、 本 論 文 に お い て 主 た る 研 究 對 象 と し た の は 、 北 宋 の 中 ・ 後 期 の 士 大 夫 文 學 で あ る 。 「 北 宋 中 期 」 と は 、 仁 宗 と 英 宗 の 在 位 期 ( 一 ○ 二 二 ― 六 七 ) の 約 四 十 五 年 間 、 「 北 宋 後 期 」 は 、 神 宗 ・ 哲 宗 ・ 徽 宗 ・ 欽 宗 四 代 の 在 位 期 ( 一 ○ 六 七 ― 一 一 二 六 ) の 約 六 十 年 間 を 指 す ( 「 後 期 」 を さ ら に 細 分 し 、 神 宗 と 哲 宗 二 代 約 三 十 五 年 を 「 後 期 」 、 徽 宗 と 欽 宗 二 代 約 二 十 五 年 を 「 末 期 」 と 稱 し た 場 合 も あ る ) 。 以 下 、 六 つ の 柱 ご と に 、 本 論 文 各 章 の 梗 概 を 記 す 。

ま ず 「 前 言 」 に お い て 、 二 十 世 紀 の 中 國 に お け る 研 究 實 態 を 踏 ま え な が ら 、 宋 代 詩 文 研 究 の 問 題 點 と 課 題 に つ い て 論 述 し た 。 二 十 世 紀 の 中 國 古 典 文 學 研 究 に お い て 、 日 本 は も と よ り 中 國 に お い て も 、 宋 代 詩 文 の 研 究 は 一 部 の 大 作 家 を 除 く と 、 目 立 っ た 成 果 を 上 げ ら れ な か っ た 。 宋 代 詩 文 研 究 が 全 面 的 か つ 本 格 的 に 開 始 さ れ た の は 、 二 十 世 紀 の 末 、 一 九 九 ○ 年 代 に 入 っ て か ら で あ る 。 研 究 の 進 展 を 阻 ん だ 最 大 の 要 因 と し て 、 総 集 ・ 別 集 等 基 礎 資 料 の 未 整 理 を 擧 げ る こ と が で き る が 、 整 理 が 加 え ら れ な か っ た と い う 事 實 が 、 む し ろ も っ と も 的 確 に 二 十 世 紀 の 宋 代 詩 文 に 對 す る 評 價 を 表 現 し て い る 。 し か し 、 こ の 低 評 價 は 元 明 以 來 の 傳 統 的 評 價 を 忠 實 に 反 映 し た 結 果 な の で は な く 、 淸 末 民 國 初 に 、 中 國 に 輸 入 さ れ た 西 歐 起 源 の 近 代 的 文 學 史 觀 や 國 語 運 動 に よ っ て 意 圖 的 に 創 り 出 さ れ た 、 價 値 觀 の 「 革 命 的 」 變 轉 に よ る も の で あ る 。 そ れ に よ り 、 宋 代 文 學 を 代 表 す る ジ ャ ン ル は 詞 で あ り 、 宋 詞 を 研 究 す る こ と が 先 進 的 で あ る と す る 價 値 觀 が 二 十 世 紀 の 中 國 學 術 界 を 覆 い つ く し た 。 こ の 價 値 觀 に よ っ て 、 宋 詞 の 研

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究 は む ろ ん 大 い に 進 展 し た が 、 そ れ に よ っ て 宋 代 文 學 、 さ ら に は 宋 代 文 化 の 内 實 や 實 相 が 、 ど れ ほ ど 豐 か に 發 掘 さ れ た か と い え ば 、 そ れ は き わ め て 限 定 的 な 範 圍 に 止 ま っ た 、 と い わ ざ る を 得 な い 。 な ぜ な ら ば 、 詞 は 歌 辭 文 學 特 有 の 表 現 特 性 ― ― 抒 情 の 客 體 化 ― ― と 獨 特 の 傳 統 的 發 表 形 態 ― ― 酒 宴 の 席 で 妓 女 に よ っ て 歌 唱 さ れ る ― ― を 有 す る 樣 式 だ か ら で あ る 。 こ の 樣 式 特 性 、 樣 式 傳 統 ゆ え に 、 詞 の 主 題 、 題 材 、 お よ び 表 現 の 選 擇 に は 、 そ も そ も 大 き な 制 約 が あ り 、 結 果 的 に 詞 の 作 品 内 部 か ら 窺 い う る 宋 代 文 化 の 實 相 も き わ め て 狹 小 な 世 界 に 止 ま る 。 宋 代 文 學 や 宋 代 文 化 の 全 體 像 を 知 ろ う と す る 時 、 詞 に 對 す る 詩 文 の 優 位 性 は 質 量 と も に 壓 倒 的 で あ る 。 東 洋 史 學 の 領 域 に お い て 宋 代 は 、 つ と に 「 唐 宋 變 革 」 ま た は 「 中 國 の ル ネ サ ン ス 」 等 の キ イ ・ ワ ー ド に よ っ て 注 目 さ れ 、 個 別 の 成 果 が 蓄 積 さ れ て き て い る が 、 宋 代 文 學 研 究 の 領 域 で は 、 こ の 課 題 に 對 す る 考 究 は い ま だ に 十 全 に な さ れ た と は い い が た い 。 『 全 宋 詩 』 『 全 宋 文 』 が 全 卷 完 結 し た 今 、 宋 代 詩 文 の 総 合 的 研 究 の 基 礎 は 整 っ た 。 詩 文 の 研 究 を 強 化 す る こ と に よ り 、 一 九 二 〇 年 代 以 來 の 宋 詞 偏 重 に よ っ て 生 じ た ア ン バ ラ ン ス を 修 正 し 、 宋 代 の 價 値 觀 を 適 正 に 反 映 し た 宋 代 文 學 史 研 究 が 速 や か に 再 構 築 さ れ る べ き で あ る 。 そ れ は 、 ト ー タ ル な 宋 代 文 學 研 究 に 近 づ く こ と を 意 味 し 、 し か も 中 國 近 世 文 學 の 内 實 を そ れ ぞ れ の 時 代 的 價 値 に 即 應 し て 正 確 に 意 味 づ け る こ と に 直 結 し て い る 。 今 後 の 宋 代 詩 文 研 究 の も つ 最 大 の 價 値 と 意 義 は こ の 點 に 求 め ら れ る 。 本 論 文 を そ の た め の 第 一 歩 と 位 置 づ け た い 。

第 一 章 「 宋 代 士 大 夫 の 詩 歌 觀 」 は 、 序 説 で あ る と 同 時 に 本 論 文 全 體 を 総 括 す る 意 味 合 い を も つ 章 で も あ る 。 宋 代 文 學 の も っ と も 中 心 的 な 擔 い 手 は 士 大 夫 で あ っ た 。 そ し て 、 そ の 中 核 を な し た の は 、 科 擧 、 と く に 進 士 に 及 第 し た 官 人 で あ っ た 。 そ こ で 、 本 章 で は 、 進 士 科 の 試 驗 科 目 に 着 目 し つ つ 、 宋 代 士 大 夫 の 知 的 構 造 を モ デ ル 化 し 、 「 官 人 ― 學 者 ― 詩 人 」 の 相 互 關 係 の 中 か ら 、 宋 代 士 大 夫 の 詩 歌 觀 を 抽 出 し た 。 一 言 で い え ば 、 彼 ら の 詩 歌 觀 の 中 に は 、 詩 人 以 外 の 要 素 、 す な わ ち 官 人 お よ び 學 者 と し て の 側 面 が 、 つ ね に 分 か ち が た く 潛 在 し て お り 、 そ の 三 者 の バ ラ ン ス の 上 に 詩 歌 觀 が 成 立 し て い る 。 官 と し て の 視 點 、 學 問 の 素 養 、 詩 人 と し て の 力 量 お よ び セ ン ス 、 そ の 何 れ が 缺 け て も 、 士 大 夫 が 理 想 と す る 詩 歌 觀 は 成 立 し な い 。 本 章 で は 、 從 來 、 主 に 文 學 の 自 律 的 發 展 と い う 形 で 説 明 さ れ る こ と の 多 か っ た 宋 代 詩 歌 史 の 諸 現 象 に つ い て 、 士 大 夫 の 複 合 的 な 詩 歌 觀 の 有 り 樣 に 照 ら し 、 文 學 外 の 要 因 に も 着 目 し つ つ 新 た な 解 釋 を 試 み た 。 蘇 軾 が 白 居 易 の 詩 を 「 白 俗 」 と 酷 評 し た こ と の 背 後 に 潛 む 詩 歌 觀 の 解 析

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を 手 始 め と し 、 蘇 軾 ・ 黄 庭 堅 の 詩 風 の 異 同 が 生 ま れ た 要 因 、 江 西 派 隆 盛 の 背 景 、 南 宋 三 大 家 の 闊 達 な 詩 風 が 江 西 派 に 取 っ て 代 わ っ た 理 由 、 南 宋 後 期 に 流 行 し た 江 湖 派 の 詩 風 が 意 味 す る こ と 等 に つ い て 、 士 大 夫 の 詩 歌 觀 を 尺 度 と し て 、 從 來 と は 異 な る 解 釋 を 加 え た 。

北 宋 中 期 、 仁 宗 の 親 政 期 は 、 い わ ゆ る 宋 の 士 大 夫 文 化 が 開 花 し た 時 代 で あ る 。 宋 代 は 原 則 と し て 唐 代 の 諸 制 度 を 踏 襲 し た が 、 そ の 「 古 い 皮 囊 」 に 「 新 し い 酒 」 が 醸 さ れ た 時 代 が 仁 宗 朝 で あ る 。 よ り 具 體 的 に 表 現 す れ ば 、 中 唐 期 に 萌 芽 し た 社 會 ・ 文 化 の 新 し い 變 化 を 、 全 面 的 に 促 進 さ せ た 時 期 で あ っ た 。 北 宋 の 中 期 、 新 興 の 士 大 夫 た ち は 變 革 を リ ー ド し 、 彼 ら に 相 應 し い 新 た な 規 範 を 次 々 と 打 ち 立 て た 。 こ の よ う な 氣 運 の 中 、 言 語 藝 術 の 領 域 で 士 大 夫 た ち は い っ た い 何 を ど の よ う に 表 現 し た の か に つ い て 、 本 論 文 で は 古 今 體 詩 と 詞 を そ れ ぞ れ 一 例 ず つ 採 り 上 げ て 分 析 を 加 え 、 具 體 例 に 即 し て 實 相 を 浮 き 彫 り に し た 。 古 今 體 詩 の 例 と し て は 、 王 安 石 の 「 明 妃 曲 」 二 首 と 同 時 代 士 大 夫 に よ る 唱 和 詩 を 採 り 上 げ 、 詞 の 例 と し て は 、 張 先 の 和 韻 詞 を 採 り 上 げ た 。 唱 和 詩 も 和 韻 詞 も 、 と も に 一 個 人 で 自 己 完 結 す る 作 詩 技 法 で は な い 。 い ず れ も 原 則 と し て 同 時 代 の 他 者 と の 關 わ り の な か で 産 出 さ れ る 。 し た が っ て 、 こ の よ う な 詩 歌 形 態 に は よ り 濃 厚 に 時 代 觀 が 反 映 さ れ る 。 こ の よ う な 觀 點 か ら 、 本 論 文 で は 、 「 點 」 的 考 察 に 終 始 せ ず 、 唱 和 に 關 與 し た 詩 人 相 互 の 關 係 や 背 景 を 考 慮 に 入 れ つ つ 、 つ と め て 「 面 」 と し て の 考 察 を 心 が け て い る 。 王 安 石 の 「 明 妃 曲 」 二 首 は 、 仁 宗 朝 末 期 に 製 作 さ れ 、 同 時 代 詩 人 に よ る 唱 和 作 品 を 多 數 生 ん だ 話 題 作 で あ る 。 し か し 、 こ の 作 品 に は 解 釋 次 第 で は 儒 教 倫 理 に 抵 觸 す る 翻 案 句 が 含 ま れ 、 實 際 に 宋 以 降 淸 朝 に 至 る ま で 痛 烈 な 批 判 が 浴 び せ ら れ て い る 。 第 二 章 で は 、 王 安 石 の 「 明 妃 曲 」 が 歴 代 の 王 昭 君 詩 歌 の 系 譜 に あ っ て ど の よ う な 特 徴 と 意 義 を も つ 作 品 で あ る の か と い う 文 學 史 的 評 價 の 問 題 を 主 と し て 論 じ た 。 王 昭 君 を 詠 じ た 詩 は 、 西 晉 の 石 崇 を 嚆 矢 と し て 今 日 に 至 る ま で 連 綿 と 製 作 さ れ 續 け て い る が 、 そ の 中 で 王 安 石 「 明 妃 曲 」 は 、 翻 案 句 の 存 在 ゆ え に 際 だ っ た 地 位 に あ り 、 傳 統 の 繼 承 と 發 展 と い う 點 で 獨 自 の 突 出 し た 文 學 的 價 値 を も っ て い る 。 に も か か わ ら ず 、 そ れ が 後 世 の 批 判 を 招 く こ と に な っ た の は な ぜ か と い う 問 題 を 、 歴 代 の 批 判 を 一 つ 一 つ 檢 討 し 整 理 分 類 す る こ と に よ っ て 洗 い 出 し た 。 そ の 結 果 、 批 判 の よ り 本 質 的 原 因 は 、 批 判 し た 側 に と い う よ り も 、 む し ろ ― ― 翻 案 と い う 技 法 を 意 圖 的 に 運 用 し 、 し か も 全 編 の 詩 意 が 翻 案 句 に 収 斂 す る よ う に 構 成 し た ― ― 王 安 石 の 側 に あ る 、 と 結 論 し た 。

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第 三 章 で は 、 第 二 章 の 内 容 を 踏 ま え 、 王 安 石 が な ぜ 後 世 の 批 判 を 招 く よ う な 詩 句 を 作 っ た の か と い う 表 現 意 圖 の 問 題 、 同 時 代 の 士 大 夫 詩 人 は な ぜ そ の よ う な 詩 に 唱 和 し た の か と い う 同 時 代 の 言 論 意 識 、 言 論 環 境 の 問 題 、 さ ら に は 一 度 好 評 を 博 し た 「 明 妃 曲 」 が な ぜ 後 世 批 判 を 浴 び せ ら れ る に 至 っ た か と い う 詩 歌 を 取 り 卷 く 意 識 變 化 の 問 題 等 々 に つ い て 、 私 見 を 述 べ た 。 ま ず 、 表 現 意 圖 に つ い て は 、 王 安 石 が 二 度 に わ た っ て 上 呈 し た 建 白 書 ( 「 上 仁 宗 皇 帝 言 事 書 」 「 上 時 政 疏 」 ) が 仁 宗 お よ び 朝 廷 に 完 全 に 無 視 さ れ た こ と に 對 す る 失 意 と 憤 慨 が 根 底 に あ り 、 契 丹 の 使 者 を 國 境 ま で 送 る と い う 實 體 驗 が 製 作 の 契 機 と な っ た 、 と 結 論 し た 。 同 時 代 の 言 論 意 識 に つ い て は 、 當 時 、 儒 學 復 興 の 氣 運 が 高 ま り 、 そ の 中 で 士 大 夫 は 傳 統 的 解 釋 に と ら わ れ な い 獨 自 の 經 典 解 釋 を 打 ち 出 し 、 さ ら に は 「 疑 經 」 の 風 さ え 起 こ っ て い た 。 こ の よ う な 自 由 な 言 論 環 境 の 中 で 、 當 時 の 士 大 夫 た ち は 新 奇 の 言 説 を 好 み 、 個 性 的 な 主 張 を 尊 ん だ 。 そ れ が 、 王 安 石 の 翻 案 句 を 可 能 に さ せ 、 多 數 の 唱 和 作 品 を 生 ん だ 要 因 に な っ て い る 。 後 世 の 不 評 に つ い て は 、 印 刷 メ デ ィ ア の 普 及 を 契 機 と す る 言 論 環 境 の 變 化 と 民 族 意 識 の 昂 揚 が 影 響 を 及 ぼ し て い る 、 と 結 論 し た 。 第 四 章 で は 、 張 先 の 和 韻 詞 二 首 の 製 作 時 期 を 考 證 し 、 先 行 研 究 で あ る 夏 承 燾 「 張 子 野 年 譜 」 の 補 正 を 試 み た 。 詞 に お い て 和 韻 の 各 技 巧 が 用 い ら れ 始 め た の は 、 現 存 資 料 に よ れ ば 、 北 宋 中 期 、 仁 宗 の 時 代 で あ り 、 張 先 の 作 例 が も っ と も 早 い 。 本 來 、 古 今 體 詩 に お い て 用 い ら れ て い た 和 韻 が 詞 に お い て も 用 い ら れ 始 め た こ と は 、 士 大 夫 詩 人 と い う 媒 介 に よ っ て 、 詩 と 詞 が 接 近 し た こ と を 示 唆 し て い る 。 し か し 、 張 先 の 經 歴 に は 不 明 な 點 が 多 く 、 し か も 詞 は 古 今 體 詩 と 比 べ 、 作 詩 の 背 景 を 特 定 し に く い 表 現 特 性 を 持 っ て お り 、 編 年 に は 大 き な 困 難 が 伴 う 。 本 章 で は 、 一 つ の ケ ー ス ス タ デ ィ ー と し て 、 張 先 の 限 ら れ た 官 歴 情 報 と 作 品 内 部 の 各 表 現 と を 結 び つ け 、 さ ら に 唱 和 し た 相 手 詩 人 ( 鄭 獬 ) の 經 歴 を も 視 野 に 入 れ つ つ 、 も っ と も 蓋 然 性 の 高 い 時 期 を 特 定 し た 。 本 章 に お け る 考 證 の 對 象 は 、 張 先 の 和 韻 詞 二 首 に 過 ぎ な い が 、 論 述 の 過 程 で 、 詞 が 同 時 代 の 士 大 夫 間 の 交 遊 に お い て ど の よ う な 機 能 を 果 た し て い た か に つ い て も 具 體 的 に 論 述 し た 。 な お 、 張 先 次 韻 の 詞 は 、 熙 寧 年 間 に 製 作 さ れ 、 本 論 文 の 基 づ く 時 代 區 分 法 に 遵 え ば 、 北 宋 後 期 の 作 例 と な る が 、 張 先 は 仁 宗 の 嘉 祐 四 年 ( 一 ○ 五 九 ) に は 致 仕 し て お り 、 次 韻 詞 が 製 作 さ れ た 當 時 す で に 八 十 歳 の 高 齢 で あ っ た 。 張 先 は 明 ら か に 仁 宗 朝 ( = 北 宋 中 期 ) の 士 大 夫 で あ る の で 、 本 章 を 「 Ⅱ 」 の 中 に 收 め る 。

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Ⅲ で は 、 有 宋 最 初 の 大 き な 筆 禍 事 件 、 東 坡 烏 臺 詩 案 を 採 り 上 げ 、 士 大 夫 と 政 治 、 士 大 夫 と 言 論 お よ び 詩 歌 の 關 係 を 探 っ た 。 宋 代 の 中 央 政 權 に よ る 言 論 統 制 は 烏 臺 詩 案 を 境 と し て 著 し く 強 化 さ れ 、 そ れ に と も な い 言 論 環 境 も 惡 化 し た 。 近 世 初 期 に 起 き た こ の 筆 禍 事 件 が 前 例 と な っ て 、 政 權 主 導 の メ デ ィ ア 編 制 は 清 に 至 る ま で 強 化 さ れ た と い わ れ る 。 そ こ で 、 本 論 文 で は 、 烏 臺 詩 案 を 偶 發 的 な 政 爭 劇 の 一 齣 と し て と ら え る の で は な く 、「 近 世 士 大 夫 と 政 治 」 、「 士 大 夫 と 言 論 ・ 詩 歌 」 、 「 政 治 と メ デ ィ ア 」 、 「 メ デ ィ ア と 士 大 夫 」 等 々 の 、 よ り 普 遍 的 な 觀 點 か ら 照 射 し 、 從 來 、 小 人 が 捏 造 し た 筆 禍 事 件 と 論 斷 さ れ る こ と の 多 か っ た こ の 事 件 を 、 異 な る 視 點 か ら 意 味 づ け る 。 ま ず 、 第 五 章 「 東 坡 烏 臺 詩 案 考 ( 上 ) 」 で は 、 宋 代 の 文 獻 を 批 判 的 に 用 い な が ら 、 な る べ く 克 明 に こ の 事 件 の 再 現 を 試 み 、 そ の 上 で 、 こ の 事 件 が 士 大 夫 社 會 に も た ら し た 波 紋 と 、 詩 歌 が 原 因 で 起 こ さ れ た 歴 代 の 筆 禍 事 件 と の 異 同 に つ い て 論 述 し た 。 明 確 に 詩 歌 を 對 象 と し て 起 こ さ れ た 疑 獄 の な か で 、 烏 臺 詩 案 は 、 審 議 の プ ロ セ ス ( 投 獄 さ れ 三 ヶ 月 に 亘 っ て 嚴 し く 取 り 調 べ ら れ た ) と い い 、 判 決 ( 流 罪 ) と い い 、 被 疑 者 に 對 し も っ と も 重 い 處 罰 が 下 さ れ た 空 前 の 詩 禍 事 件 と 見 な さ れ る 。 第 六 章 「 東 坡 烏 臺 詩 案 考 ( 下 ) 」 で は 、 ま ず 北 宋 中 後 期 の 朝 廷 に お け る 御 史 臺 ( お よ び 諫 官 ) が 果 た し た 言 事 官 と し て の 象 徴 的 意 味 に つ い て 整 理 し た 上 で 、 熙 寧 ・ 元 豐 の 新 法 政 權 期 に 御 史 臺 が ど の よ う に 變 質 し て い っ た か 、 さ ら に は そ の 變 質 の 意 味 に つ い て 考 察 し た 。 輿 論 が 味 方 し な い 、 政 治 基 盤 の 脆 弱 な 革 新 政 權 が 、 皇 帝 の 信 任 を 唯 一 の 據 り 所 に し て 、 新 し い 税 法 を 斷 行 し て い っ た が 、 そ の 過 程 で 「 臺 諫 」 か ら 批 判 勢 力 を 排 除 し 、 か わ っ て 親 新 法 官 人 を 配 置 し て 、 朝 廷 内 部 の 監 察 ・ 彈 劾 機 能 を 高 め 、 そ れ に よ っ て 朝 廷 に 向 け ら れ る 批 判 を 押 し 込 め た 。 そ の 結 果 、 言 論 は 制 度 的 に 抑 壓 さ れ 、 官 界 は 重 々 し い 空 氣 に 包 ま れ る 。 「 烏 臺 詩 案 」 は こ う い う 政 治 状 況 の 中 、 勃 發 し た 。 と は い え 、 こ の 疑 獄 が 起 こ さ れ た の は 、 政 權 の 基 盤 が ま だ 脆 弱 で あ っ た 熙 寧 年 間 で は な く 、 す で に 一 定 の 實 績 を 作 り 、 安 定 期 に 入 っ た 元 豐 年 間 の こ と で あ る 。 し か も 、 蘇 軾 は 地 方 官 と し て 久 し く 中 央 か ら 離 れ て お り 、 御 史 臺 が わ ざ わ ざ 疑 獄 を 起 こ し 打 撃 を 與 え る 必 要 性 に も 乏 し か っ た よ う に 見 え る 。 に も か か わ ら ず 、「 烏 臺 詩 案 」 が 起 こ さ れ た の は 、 當 時 、 蘇 軾 の 詩 文 が 各 種 メ デ ィ ア に 載 っ て 巷 間 に 流 布 し た か ら だ と 本 論 で は 解 釋 す る 。 と く に 民 間 の 出 版 業 が 急 速 に 發 展 し 、 彼 の 詩 文 は 好 ん で 印 刷 さ れ 巷 間 に 流 布 し た 。 そ の た め 、 蘇 軾 は 當 時 、 未 曾 有 の 言 葉 の 力 を 持 っ た 。 そ れ に 危 機 感 を 抱 い た 御 史 臺 が そ の 力 を 抑 制 し よ う と し た 疑 獄 、 そ れ が 「 烏 臺 詩 案 」 で は な い か と 推 論 す る 。 つ ま り 、 印 刷 メ デ ィ ア に よ っ て 、 詩 が か つ て な く 同 時 代 的 に 大 き な 社 會 的 影 響 力 を 持 つ よ う に な っ た こ と

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が 、 「 言 之 者 無 罪 」 の 傳 統 的 詩 歌 觀 を 崩 壞 さ せ た 、 と 本 論 は 解 釋 す る 。 ま た 、 「 烏 臺 詩 案 」 に よ っ て 、 ひ と た び 「 言 之 者 無 罪 」 の 禁 忌 が 破 ら れ る と 、 今 度 は 「 烏 臺 詩 案 」 が 先 例 と な っ て 、 詩 歌 に 關 わ る 疑 獄 が 起 こ さ れ る よ う に な っ た 。 蔡 確 「 車 蓋 亭 詩 案 」 が そ れ で あ る 。 本 章 で は 、 「 烏 臺 詩 案 」 の 後 果 と し て 「 車 蓋 亭 詩 案 」 に つ い て も 論 述 し た 。 第 七 章 「 東 坡 烏 臺 詩 案 流 傳 考 」 で は 、 機 密 文 書 で あ る は ず の 「 烏 臺 詩 案 」 が な ぜ 今 日 に 傳 え ら れ た の か 、 と い う 流 傳 の 問 題 を 解 明 し た 。 北 宋 末 か ら 南 宋 初 の 士 大 夫 社 會 に お い て 、 蘇 軾 の 文 藝 作 品 に 對 す る 蒐 集 熱 が 過 熱 し 、 そ れ が 御 史 臺 秘 藏 の 文 書 「 烏 臺 詩 案 」 を 外 部 に 流 出 さ せ 傳 播 さ せ る 力 と し て 働 い た こ と を 、 當 時 の 筆 記 史 料 、 歴 史 資 料 等 を 用 い つ つ 明 ら か に し た 。 ま た 、 南 宋 初 期 に お け る 言 論 環 境 の 變 化 と 蘇 軾 ブ ー ム の 一 層 の 過 熱 化 が 、 公 文 書 の 刊 行 と い う 違 法 出 版 を 可 能 に さ せ た こ と を 指 摘 し た 。 あ わ せ て 、 「 烏 臺 詩 案 」 の 現 存 テ キ ス ト の 系 譜 と 問 題 點 に つ い て も 整 理 し た 。

北 宋 の 後 期 に お い て 、 士 大 夫 詩 人 を 取 り 巻 く 言 論 環 境 は 、 中 期 に 比 べ 明 ら か に 惡 化 し た 。 前 半 期 に 發 生 し た 「 東 坡 烏 臺 詩 案 」 や 蔡 確 「 車 蓋 亭 詩 案 」 が そ の 象 徴 で あ る 。 こ の よ う な 環 境 の 中 で 、 詩 人 は ど の よ う に 詩 作 に 向 き 合 い 、 自 己 を 表 現 し た の だ ろ う か 。 Ⅳ で は 、 蘇 軾 、 郭 祥 正 、 黄 庭 堅 と い う 三 名 の 詩 人 を 採 り 上 げ 、 彼 ら に お け る 詩 作 の 意 味 に つ い て 問 う 。 三 者 の う ち 、 こ の 時 代 の 言 論 環 境 に も っ と も 大 き な 實 害 を 被 っ た の は 蘇 軾 で あ る 。 Ⅲ の 各 章 で す で に 論 じ た よ う に 、 彼 は 作 っ た 詩 が 原 因 で 投 獄 さ れ 、 極 刑 を 求 刑 さ れ た 。 そ れ に 對 し 、 當 時 の 言 論 環 境 か ら も っ と も 自 由 で あ っ た の が 、 郭 祥 正 で あ る 。 彼 は 棄 官 と 仕 宦 を 繰 り 返 し 、 大 半 の 時 間 を 故 郷 の 當 塗 で 過 ご し た 。 そ し て 、 蘇 軾 と 郭 祥 正 の 中 間 に 位 置 す る の が 黄 庭 堅 で あ る 。 彼 が 進 士 に 及 第 し 官 途 を 歩 み 始 め た の は 、 新 舊 兩 黨 の 熾 烈 な 政 治 抗 爭 が 始 ま っ た 時 で あ り 、 官 歴 を 積 む に つ れ 、 彼 も そ の 渦 中 に 取 り 込 ま れ て い っ た 。 こ の よ う に 、 こ の 三 人 の 士 大 夫 詩 人 に は 三 者 三 樣 の 樣 態 が 認 め ら れ る 。 Ⅳ で は 、 三 者 そ れ ぞ れ の 相 異 な る 立 場 を く っ き り 映 し 出 す 事 象 を 採 り 上 げ 、 そ の 中 か ら 、 北 宋 後 期 士 大 夫 に お け る 詩 作 の 意 味 を 問 い 返 す 。 第 八 章 「 蘇 軾 の 文 學 と 印 刷 メ デ ィ ア 」 で は 、 民 間 の 書 肆 が 蘇 軾 の 意 志 に 反 し て 彼 の 著 作 を こ ぞ っ て 出 版 し よ う と し て い た 當 時 の 社 會 現 象 を 手 が か り と し て 、 當 時 の 印 刷 メ デ ィ ア の 發 達 が 士 大 夫 の 詩 歌 創 作 に 與 え た 影 響 に つ い て 論 じ た 。 「 烏 臺 詩 案 」 に よ っ て 蘇 軾 へ の 注 目 度 は 一 層 高 ま り 、 一 方 、 熙 寧 、 元 豐 、 元 祐 と 時 代 が 下 る に つ れ 、 民 間 の 出 版 業 も ま す ま す 繁 榮

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し た 。 か く て 、 「 烏 臺 詩 案 」 の 後 も 、 蘇 軾 の 詩 文 は 書 肆 の 恰 好 の 出 版 對 象 と な り 、 折 に 触 れ 詩 文 集 が 刊 行 さ れ た 。「 烏 臺 詩 案 」 に よ っ て 苦 湯 を 飲 ま さ れ た 蘇 軾 は 、 こ の よ う な 世 情 の 中 、 文 學 創 作 に 慎 重 に な っ た で あ ろ う が 、 注 意 深 く 彼 の 作 品 を 觀 察 す る と 、 そ う い う マ イ ナ ス の 影 響 ば か り で は な く 、 そ れ を プ ラ ス に 轉 じ て 文 學 創 作 を 展 開 し た こ と が 分 か る 。 自 作 を 典 故 と し て 作 詩 し た り 、 自 作 に 次 韻 し て 作 詩 し た 作 例 が そ の 痕 跡 で あ る 。 蘇 軾 以 前 に あ っ て は 多 見 で き な い 用 法 を 可 能 に さ せ た 要 因 が 、 作 者 と 不 特 定 多 數 の 同 時 代 讀 者 の 間 に 介 在 し た 印 刷 メ デ ィ ア の 力 で あ る と 論 じ た 。 第 九 章 「 郭 祥 正 と 和 李 詩 」 は 、 蘇 軾 と 同 世 代 の 郭 祥 正 に お け る 詩 作 の 意 味 を 、 李 白 の 詩 に 次 韻 し た 「 和 李 詩 」 を 中 心 に 考 察 し た も の で あ る 。 郭 祥 正 は 蘇 軾 よ り 四 年 早 く 進 士 に 及 第 し た が 、 彼 の 歩 ん だ 官 途 は 、 蘇 軾 と は 相 異 な る 意 味 で 平 坦 で は な か っ た 。 彼 に は 中 央 官 に 就 い た 經 歴 が ほ と ん ど な く 、 中 小 規 模 の 地 方 都 市 の 長 官 ・ 次 官 の 經 歴 し か な い 。 し か も 、 二 度 に わ た っ て 棄 官 し 、 神 宗 ~ 哲 宗 の 時 代 の 大 半 を 故 郷 の 當 塗 で 過 ご し て い る 。 蘇 軾 が 高 級 官 僚 ゆ え の 激 し い 浮 沈 を 體 驗 し た の だ と す れ ば 、 郭 祥 正 は 中 ・ 下 級 官 僚 ゆ え の 不 如 意 の 官 歴 を 體 驗 し た と い え る だ ろ う 。 彼 の 詩 は 、 今 日 の 文 學 史 で 採 り 上 げ ら れ る こ と が ほ と ん ど な い が 、 千 四 百 首 餘 の 詩 が 現 在 に 傳 わ る 。 そ の 數 は 、 北 宋 詩 人 の な か で 最 多 の 十 名 の な か に 入 る 。 に も か か わ ら ず 、 彼 の 詩 が 不 評 を 買 っ た の は 、 つ き つ め て ゆ く と 、 彼 が 「 李 白 の 後 身 」 と し て 華 々 し く 詩 壇 に 登 場 し 、 終 生 そ の 役 柄 を 演 じ つ づ け た と い う 一 點 に 集 約 で き る 。 北 宋 の 後 期 は 、 李 白 ・ 杜 甫 と い う 雙 璧 の う ち 、 杜 甫 の 地 位 が 一 方 的 に 向 上 し 、 詩 聖 と し て の 地 位 が 固 ま っ た 時 代 で あ る 。 こ う い う 時 代 に 、 「 李 白 の 後 身 」 た る 彼 は 選 擇 の 餘 地 な く 、 李 白 を 演 じ ざ る を 得 な か っ た 。 ま た 、 黨 爭 等 に よ っ て 士 大 夫 の 官 人 と し て の 側 面 が 突 出 し て く る 時 代 に あ っ て 、 そ の ア ン チ ・ テ ー ゼ と し て 歸 田 思 想 の 實 踐 者 ・ 陶 淵 明 も 廣 範 に 尊 崇 さ れ 愛 讀 さ れ た が 、 「 李 白 の 後 身 」 た る 彼 は 、 陶 同 樣 に 故 郷 に 歸 隱 し 、 か つ ま た 作 品 の 中 で 陶 へ の 深 い 憧 憬 を 示 し つ つ も 、 生 涯 漂 泊 の 旅 に あ っ た 李 白 を 演 じ な け れ ば な ら な か っ た 。 第 九 章 で は 郭 祥 正 の 李 白 關 連 の 作 例 を 分 析 し な が ら 、 「 李 白 の 後 身 」 と い う 運 命 を 擔 っ た が ゆ え の 郭 祥 正 の 苦 惱 に つ い て 論 じ た 。 第 十 章 「 黄 庭 堅 と 王 安 石 」 は 、 北 宋 後 期 を 代 表 す る 詩 人 ・ 黄 庭 堅 の 師 承 關 係 を 考 察 す る も の で 、 「 蘇 黄 」 、 す な わ ち 蘇 軾 と の 關 係 の 他 に 、 王 安 石 と の 關 係 が 存 在 す る こ と を 檢 證 す る 。 黄 庭 堅 が 進 士 に 及 第 し た の は 、 英 宗 治 世 の 末 年 ( 治 平 四 年 ) で 、 翌 年 の 熙 寧 元 年 に 王 安 石 が 參 知 政 事 に 抜 擢 さ れ 、 新 法 が 施 行 さ れ 始 め る 。 し た が っ て 、 彼 の 官 僚 人 生 は 新 法 舊 法 の 熾 烈 な 黨 爭 期 と 完 全 に 重 な る 。 そ の た め 、 彼 の 言 説 は 樣 々 な レ ベ ル で 屈 折 し て 表 現 さ れ る 。 本 章

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で は 、 從 來 、 餘 り 注 意 さ れ て こ な か っ た 黄 庭 堅 と 王 安 石 の 關 係 を 、 黄 庭 堅 の 文 集 の な か か ら 捜 し 出 し 、 黄 庭 堅 が 王 安 石 の 何 に 共 鳴 し 、 何 を 引 き 繼 い だ の か を 論 じ た 。 黨 爭 に よ っ て 黄 庭 堅 の 各 種 表 現 は 屈 折 し て い る が 、 文 集 に し ば し ば 登 場 す る 王 安 石 關 連 の 言 説 を 注 意 深 く 吟 味 す る と 、 そ こ に 王 安 石 と 黄 庭 堅 の 文 學 的 ラ イ ン が く っ き り 浮 き 上 が っ て く る 。 そ し て 、 黄 庭 堅 と 彼 を リ ー ダ ー と す る 江 西 派 の 表 現 傾 向 を 加 味 す る と 、「 蘇 黄 」 と い う 繼 承 關 係 よ り も 「 王 黄 」 と い う 繼 承 の 方 が 、 宋 代 詩 歌 史 の 實 態 に お い て は 、 よ り 重 要 な 繋 が り で あ る こ と を 論 じ た 。

Ⅴ に お い て は 、 も っ ぱ ら 北 宋 第 一 の 詩 人 ・ 蘇 軾 を 採 り 上 げ 、 彼 の 詩 歌 を 主 と し て 二 つ の 側 面 か ら 論 じ る 。 一 つ は 、 作 詩 技 法 の 側 面 か ら ア プ ロ ー チ し た も の で 、 「 次 韻 」 と 「 櫽 括 」 に つ い て 論 じ た 第 十 一 ~ 第 十 三 章 で あ る 。 他 の 一 つ は 、 彼 の 傳 記 的 側 面 か ら ア プ ロ ー チ し た も の で 、 第 十 四 章 と 第 十 五 章 で あ る 。 樣 々 に あ る 作 詩 技 法 の な か か ら 「 次 韻 」 と 「 櫽 括 」 を 採 り 上 げ た の は 、 そ れ ぞ れ 蘇 軾 が 獨 自 の 用 法 を 驅 使 し た り 、 實 質 的 な 創 始 者 で あ っ た り す る か ら で あ る 。 そ し て 、 い ず れ も が 同 時 代 的 に 大 き な 規 範 力 を も っ た も の で あ っ た か ら で あ る 。 ま ず 、 第 十 一 章 で は 、 蘇 軾 の 古 今 體 詩 に お け る 次 韻 の 諸 相 を 整 理 ・ 分 析 し 、 蘇 軾 が 從 來 と 異 な る 二 つ の 形 態 で 次 韻 を 系 統 的 に 使 用 し て い る 現 象 を 指 摘 し た 。 「 次 韻 」 と は 、 原 篇 の 韻 字 を 使 用 さ れ た 順 序 通 り に 用 い て 和 篇 を 作 成 す る 技 法 で 、 中 唐 の 元 稹 と 白 居 易 の 間 で 多 用 さ れ 一 般 化 し た 。 通 常 、 同 時 代 の 複 數 の 詩 人 間 で 用 い ら れ る 。 蘇 軾 は 中 唐 以 來 の 傳 統 的 形 態 に よ っ て 次 韻 詩 を 多 數 製 作 し た が 、 そ の 他 に 過 去 の 自 作 に 次 韻 し た り 、 古 人 の 作 に 次 韻 す る 非 一 般 的 な 形 態 で 次 韻 を 用 い て い る 。 本 章 で は 彼 が こ の よ う な 獨 自 の 形 態 の 次 韻 を 多 用 す る に 至 っ た 要 因 を 、 彼 の 傳 記 に 卽 し て 考 察 し た 。 第 十 二 章 で は 、 も と も と 古 今 體 詩 に お い て の み 用 い ら れ て い た 次 韻 が 、 蘇 軾 を 境 に し て 、 詞 に お い て も 多 用 さ れ 始 め る 現 象 に 着 目 し 、 蘇 軾 の 古 今 體 詩 と 詞 に お け る 次 韻 使 用 の 異 同 と 、 異 同 が 示 唆 す る 内 容 、 さ ら に は 詞 に 次 韻 が 導 入 さ れ た こ と の 意 味 に つ い て 論 じ た 。 ま ず 、 詞 に お い て は 古 人 の 作 に 次 韻 し た 作 例 が ほ と ん ど な く 、 古 今 體 詩 に 和 陶 詩 が あ る の と 大 き な 相 違 を 見 せ る が 、 そ の 理 由 と し て 、 詞 が 新 興 の ジ ャ ン ル ゆ え に 古 典 的 な 先 行 例 に 乏 し い こ と を 指 摘 し た 。 南 宋 に な る と 、 蘇 軾 や 周 邦 彦 等 北 宋 の 詞 に 次 韻 し た 作 例 が 生 ま れ る こ と か ら 、 こ

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の 點 が 傍 證 さ れ る 。 詞 に 次 韻 が 導 入 さ れ た こ と は 、 宴 席 以 外 に お い て も 詞 が 製 作 さ れ る よ う に な っ た こ と を 端 的 に 示 し 、 ジ ャ ン ル と し て の 詩 と 詞 の 距 離 が 接 近 し た こ と を 意 味 し て い る 。 さ ら に 、 蘇 軾 は 酒 宴 の 席 に お い て も 次 韻 を 使 用 し 填 詞 し て い る こ と か ら 、 宴 席 と い う 傳 統 的 な 詞 作 の 場 面 に お い て さ え 、 聽 覺 よ り 視 覺 を 重 視 す る 鑑 賞 形 態 が 用 い ら れ た 可 能 性 を 示 し て い る 。 な ぜ な ら ば 、 次 韻 は 韻 字 そ の も の の 使 用 を 義 務 づ け る 技 法 で あ り 、 き わ め て 視 覺 的 な 技 法 だ か ら で あ る 。 第 十 三 章 で は 、 「 櫽 括 」 と い う 作 詞 技 法 に 着 目 す る 。 蘇 軾 以 前 に も 、 こ の 技 法 を 用 い て 作 詞 し た 詞 人 は 存 在 す る が 、 系 統 的 、 自 覺 的 に 運 用 し た 詞 人 は 蘇 軾 が 初 め て で あ る 。 「 櫽 括 」 は 、 詞 以 外 の 文 體 の 作 品 を 、 既 存 の メ ロ デ ィ ー に 適 合 す る よ う に 改 編 し 、 詞 に 書 き 換 え る 技 法 を い う 。 本 章 で は 、 蘇 軾 の 「 櫽 括 」 詞 諸 篇 の う ち 、 と く に 彼 が 黄 州 に 謫 居 し た 頃 に 製 作 し た 、 陶 淵 明 の 「 歸 去 來 の 辭 」 の 「 櫽 括 」 詞 を 採 り 上 げ 、 こ の 詞 が 彼 の 陶 淵 明 關 連 作 品 全 體 に 占 め る 位 置 と 意 味 に つ い て 論 じ た 。 蘇 軾 の 陶 淵 明 に 對 す る 敬 慕 は 、 晩 年 の 惠 州 お よ び 儋 州 謫 居 に お い て 「 和 陶 詩 」 と い う 形 で も っ と も 集 中 的 に 表 現 さ れ る が 、 黄 州 謫 居 期 に お け る 「 櫽 括 」 の 作 例 が そ の 魁 と し て 重 要 な 意 味 を も つ こ と を 論 じ た 。 第 十 四 、 第 十 五 章 は 、 蘇 軾 の 四 十 年 餘 に お よ ぶ 宦 遊 人 生 の 一 時 期 を 切 り 抜 き 、 人 生 の 脈 絡 を 踏 ま え な が ら 、 具 體 的 に 彼 と 詩 作 の 關 わ り を 考 察 し た も の で あ る 。 第 十 四 章 は 、 熙 寧 年 間 と 元 祐 年 間 の 二 度 に わ た る 杭 州 在 任 期 の 詩 を 比 較 し 、 異 同 の 要 因 を 考 察 し た 。 約 十 五 年 と い う 時 を 隔 て 、 再 び 杭 州 西 湖 の 美 景 に 接 し た 蘇 軾 で あ っ た が 、 政 治 環 境 の 變 化 、 職 責 上 の 變 化 、 さ ら に は 十 五 年 間 の 體 驗 が も た ら し た 彼 自 身 の 變 化 と に よ っ て 、 元 祐 期 の 蘇 軾 は 作 詩 姿 勢 が 受 動 的 に な り 、 熙 寧 年 間 の よ う に は 佳 作 を 量 産 で き な か っ た 。 蘇 軾 の 二 度 の 杭 州 在 任 期 に 見 ら れ る こ の よ う な 變 化 は 、 北 宋 士 大 夫 の 誰 に で も 一 定 程 度 認 め ら れ る 現 象 で あ り 、 第 一 章 「 序 説 」 で 整 理 し た 士 大 夫 詩 人 の 詩 風 變 化 の メ カ ニ ズ ム を こ の 具 體 例 か ら も 補 強 で き る 。 第 十 五 章 は 、 蘇 軾 の 七 絕 の 代 表 作 「 題 西 林 壁 」 の 、 新 し い 解 釋 を 提 示 し た も の で あ る 。「 題 西 林 壁 」 は 、 元 豐 七 年 、 蘇 軾 四 十 九 歳 の 時 、 廬 山 の 古 刹 西 林 寺 に お い て 作 ら れ た 。 烏 臺 詩 案 後 、 流 さ れ た 配 所 の 地 ・ 黄 州 を 離 れ 、 最 初 に 向 か っ た 先 が 廬 山 で あ っ た 。 本 章 で は 、 廬 山 が 、 六 朝 以 來 、 詩 人 墨 客 を 惹 き つ け て や ま な い 景 勝 地 ( 詩 跡 ) で あ る と 同 時 に 、 南 宗 禪 の 聖 地 で も あ っ た こ と に 照 ら し て 、 蘇 軾 の 廬 山 尋 訪 を 二 つ の 觀 點 か ら 意 味 づ け た 。 一 つ は 宗 教 ( 佛 教 も し く は 禪 ) 的 關 心 、 他 の 一 つ は 文 學 、 と く に 陶 淵 明 文 學 へ の 關 心 と い う 觀 點 で あ る 。 こ の 二 つ の 關 心 は 、 い ず れ も 足 か け 五 年 に 及 ぶ 黄 州 に お い て 深 化 し た 。 こ れ ま で 、 「 題 西 林 壁 」

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は 、 製 作 地 點 ( 西 林 寺 ) と の 關 わ り か ら 、 禪 趣 に 富 む 哲 理 の 詩 と 見 な さ れ る こ と が 多 か っ た が 、 本 論 で は 、 こ の 詩 を 蘇 軾 の 人 生 の 時 間 軸 に 戻 し 、 黄 州 謫 居 時 代 か ら の 流 れ を 重 視 し 、 陶 淵 明 と の 對 話 と い う 觀 點 か ら 、 從 來 と は 異 な る 見 方 を 提 示 し た 。 す な わ ち 、 「 題 西 林 壁 」 の 轉 句 「 廬 山 眞 面 目 」 に 込 め ら れ た 含 意 は 、 陶 淵 明 の 「 飲 酒 二 十 首 」 其 の 五 、 「 辨 ぜ ん と 欲 し て 已 に 言 を 忘 」 れ た と い う 「 眞 意 」 を 、 蘇 軾 が 廬 山 の 旅 の 最 中 に 自 問 し つ づ け 、 旅 の 終 わ り に 出 し た 回 答 で あ る 、 と 解 釋 し た 。

Ⅵ で は 、 北 宋 後 期 に 起 源 の あ る 文 學 ・ 藝 術 の 現 象 を 一 つ ず つ 採 り 上 げ 、 北 宋 後 期 士 大 夫 文 化 の 近 世 社 會 に お け る 影 響 力 の 大 き さ を 瞥 見 す る 。 第 十 六 章 で は 、 第 十 三 章 で 論 じ た 「 櫽 括 」 詞 の 、 南 宋 末 ま で の 展 開 と 系 譜 を 辿 る 。 蘇 軾 が 創 始 し た こ の 技 法 は 、 南 宋 に 入 る と 、 士 大 夫 詩 人 の 間 で 愛 好 さ れ 流 行 し た 。 と く に 南 宋 末 期 の 林 正 大 は 『 風 雅 遺 音 』 と い う 櫽 括 詞 集 を 自 ら 編 み 、 計 十 八 名 の 詩 人 に 四 十 一 篇 の 詩 文 を 原 作 と し た 櫽 括 詞 を 收 錄 し て い る 。 こ の よ う に 、 「 櫽 括 」 は 填 詞 の 一 技 法 と し て 普 遍 化 し 、 樣 々 な 古 典 的 文 學 作 品 が 「 櫽 括 」 さ れ 詞 に 改 編 さ れ た が 、 そ の 一 方 で 創 始 者 ・ 蘇 軾 に 對 す る 敬 慕 も 減 じ る こ と が な か っ た 。 前 後 「 赤 壁 賦 」 を 櫽 括 し た 作 例 が 南 宋 中 期 以 後 、 系 統 的 に 製 作 さ れ た こ と に よ っ て そ れ が 知 ら れ る 。 ま た 、 後 世 、 「 櫽 括 」 詞 は 詞 學 の 領 域 で は ほ と ん ど 無 視 さ れ 顧 み ら れ な く な っ た が 、 本 論 で は そ の 要 因 と し て 、 宋 末 以 來 、 專 業 詞 人 の 作 品 や 理 論 書 が 手 本 と さ れ て 求 心 力 を 高 め た 一 方 で 、 士 大 夫 の 、 と く に 「 以 詩 爲 詞 」 型 の 詞 が 傍 流 と し て 排 除 さ れ た こ と と 深 い 關 係 の あ る こ と を 指 摘 し た 。 し か し 、 詞 樂 が ま だ 巷 間 に 流 通 し 詞 が 社 交 的 機 能 を 果 た し て い た 頃 、 櫽 括 詞 も 士 大 夫 に よ る 士 大 夫 の た め の 技 法 と し て 十 分 な 存 在 意 義 を 有 し て い た は ず で あ る 。 ま た 、 新 興 ジ ャ ン ル ゆ え に 詞 の 評 價 基 盤 が 不 安 定 で あ っ た 頃 に 、 士 大 夫 が 積 極 的 に 詞 作 に 打 ち 込 む 環 境 を 創 り 出 す 動 機 を 與 え た と い う 點 で 、 こ の 技 法 が 創 始 さ れ た こ と の 意 味 は け っ し て 小 さ く は な い 。 第 十 七 章 で は 、 繪 畫 と 詩 歌 の 文 化 的 融 合 で あ る 「 八 景 現 象 」 を 採 り 上 げ る 。 「 八 景 現 象 」 と は 、 あ る 地 域 の 景 勝 地 を 八 つ 前 後 選 び 取 り 、 そ れ ぞ れ の 景 觀 に 漢 字 四 字 か ら な る 標 題 を 與 え 、 繪 畫 も し く は 詩 歌 に よ っ て 描 寫 す る 現 象 で 、 北 宋 後 期 の 士 大 夫 、 宋 迪 が 「 瀟 湘 八 景 圖 」 を 描 い た こ と に 端 を 發 す る 。 「 瀟 湘 八 景 圖 」 が 流 行 の 起 點 で あ る こ と が 示 す よ う に 、 こ の 文 化 現 象 は ま ず 繪 畫 領 域 か ら 始 ま っ た 。 や が て 「 有 聲 之 畫 」 た る 詩 歌 が そ れ に 參 入 し 、 基 本 型

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が で き 上 が る 。 こ の 基 本 型 は 現 存 文 獻 に 據 れ ば 遲 く と も 北 宋 末 期 に は で き 上 が っ て い た 。 本 論 で は 、 こ の 現 象 が ま ず 繪 畫 領 域 に お い て 起 こ っ た こ と に 着 目 し 、 北 宋 後 期 の 士 大 夫 と 繪 畫 の 關 わ り を 考 察 し 、 こ の 時 期 に 、 理 論 と 實 踐 の 兩 面 に お い て 中 國 繪 畫 に 小 さ か ら ぬ 變 化 が 生 じ て い た こ と を 指 摘 し た 。 す な わ ち 、 水 墨 畫 法 の 普 及 に よ っ て 繪 畫 が 專 業 畫 家 の 專 有 物 で は な く な り 、 業 餘 畫 家 で あ る 士 大 夫 に も 十 分 實 踐 可 能 に な っ た こ と や 、 寫 實 よ り 寫 意 を 尊 ぶ 理 論 的 枠 組 み が 蘇 軾 に よ っ て 打 ち 立 て ら れ 、 技 巧 に 劣 る 士 大 夫 が 畫 工 と 伍 し て 繪 畫 制 作 で き る 環 境 が 整 備 さ れ た こ と 等 に よ り 、 繪 畫 が 士 大 夫 に と っ て 非 常 に 身 近 な 存 在 と な っ た こ と で あ る 。 つ づ い て 、 な ぜ 「 八 景 」 な の か 、 と い う 問 題 を 、 文 學 の 傳 統 に 照 ら し て 考 察 し た 。 沈 約 の 「 八 詠 詩 」 以 來 、 士 大 夫 詩 人 が あ る 土 地 の 妙 處 を 組 詩 に よ っ て 歌 頌 す る 傳 統 が 生 ま れ 、 唐 代 に は 王 維 「 輞 川 集 」 型 と 李 白 「 姑 孰 十 詠 」 型 の 二 つ の 類 型 が 生 ま れ た 。 宋 代 八 景 現 象 は 後 者 の 類 型 を 引 き 繼 ぐ 。 宋 代 八 景 現 象 の 流 行 は 、 宋 迪 と い う 士 大 夫 畫 家 に よ っ て 、 繪 畫 領 域 に 詩 歌 の 傳 統 が 融 合 さ れ た こ と に 大 き な 要 因 が あ る 。 士 大 夫 文 化 の な か で 詩 畫 の 融 合 が 達 成 さ れ た こ と に よ り 、 各 地 へ の 宦 游 を 常 と す る 士 大 夫 た ち は 「 瀟 湘 」 以 外 の 土 地 に も 「 八 景 」 の 發 想 を 運 用 し 、 南 宋 以 降 、 各 地 に 八 景 が 生 ま れ て い っ た 。 こ れ に 旅 游 文 化 が 加 わ り 、 元 明 以 後 の さ ら な る 流 行 が 實 現 す る の で あ る 。 本 論 で は 末 尾 に 「 西 湖 十 景 」 を 採 り 上 げ 、 八 景 現 象 が 旅 游 と 緊 密 に 結 び つ い た 形 を 紹 介 し 、 併 せ て こ の 現 象 が 朝 鮮 、 日 本 へ と 波 及 し た 要 因 を 考 察 し た 。 ( 以 上 )

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