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nakamura keiu kenkyu : meiji keimo shiso to riso shugi

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(1)Cyan Greeコ. Yellow. Mageコー ’くく7一︷Φ. jドーー’−1.1. 吋Q,・・. O Kodak。2T 0M 0: 7Kodak. Black. 17 18 19. O Kodak。20T 0M 7: Kf3dak. ω`○○一〇﹁. 1o 11 12 13 14 15 B. j. KodakColC oo rntP ra ot lches Blue. KodakGra Sy cale A 1 2 3 4 5 6 一’、一 8 9. J rD Q..

(2) 一一 一一一一. へ 、 =W=・=・ ■■ ■㎜-・・・II一・■.

(3) 一一. こと 換 義務から際刊へ と巻 比倫 二八︶ ト体内規約. 7 ̄ ̄‘'2接. 山然的引接. 1. 貼 活 と’已tら. 吠一. −. 明治敗︰蒙田心想と規範の観念. .谷の. ︰勝弘. と文明の睨念. 範. ljl:. ,. −. ..規範. にこ 元. 阿︰ /−j. /. ︲∼ノ. 愉い. 山猫牡と埋け︵、.. !j. 図 炭. − jX. 一灰掻と歴大八ご. こ伝統的. ・i. E伝統的山笠法思用言作ご. 規. 八. 田定︵四. t︲ /r. 叫. 内. ﹂八︰蒙概念. 一. | |. 敬宇文塙. 心乙. μLI ハ il. 力 目 −−. 弘 い. ヽ一. 目 然 的 規 範. 転. 藤. ㈲. 近 代 的 自 然 法 思 想 目 然 法 思 想. 代 拙 足. '/. 加 1. 四. い引. Iノ‘ 7. ■I. `戸じ一. 又 鯛 元 価. -. 範 -. 中 吋 敬 宇. −−. 心. 四 を の. l. 倖. li川] 1. 研 究 の 目 的 規. 周 射. 西・ -│ l. Iノj. 削. 1. | l. 1]j. :・/.、.

(4) 弟. l!丿 函y︰. l. 大脳. 大脳’﹃. りド川. 副ず刻. り.ら︵ハこ︶. 政︰蒙知と道徳知. レ副片︰とし〃’ 法︵九. ∩即. こい.一︶. ∩学問の付喩︵穴︶. ー. 1E −︱. /ll. I;7. 一I’X. Lj じ jt ぷg. 11j. べ仁政の田. 治. /7ゝ. ノし /1.. 西汀え明の摂受と学. 成︰蒙知と道徳知⋮⋮⋮. 道徳と政治=・⋮⋮⋮⋮⋮⋮. 内容︵. 削片時代の道徳政と仁政の思想 睨と道徳. j Ij −︱ ︱. むける にに統≒近. .ら −. 道徳的. 政治政の展問⋮⋮⋮⋮. /Lヽ II. 涵比. − 7り. 道治政における伝統と近. 4叩. 利1. 附. じ /し. ・政治政と即の片遍. 川原. ]. 汽 学 川. こして. 古. 衛と石州 防. 川水ヤyJ幌 ・. 万・. z已ゝ. ..川家..1。1にy㈹一心服戌・﹃、にと ・│. /し t. 代 .ji.. ヽ一. 勺.貼︲削卜義︵. 家. 目一句ヽド ー4. 服. Lj t. メL. .〃j¶1 ・J. 財. ll=. 靫一二心 J. 渋. 冨田作’ドヒ辺. 1j. 節収. 〃−. 一. jI ﹃﹃I. メL. JL. ビt ●J. ド義. j‘→ J. 11政. 政. 睨恋心ひ帽言言・. 一. 'j tJ. 1こし. 11・t.・. 」'I11. の − ノゝ ノ、. 後万円際. .リ. −. ㈹こ⋮⋮一一 /・ij. j㈹. |. 経歴. りぐ.L. 〃6. 出京胆−. リド義 界. スト教受容. ノリ. |ご│. い 理. 乍 変 化 -. 解 -. 洋. 一. 生. 仲. 門 ●I..‘. Xだ.1. −︱ − /﹃. q肺. ふlj い・リ. 一. 尚貼賎いよ教睨 仏教但州. │・. む 〃.. 対. 入 レ Iとして. /I. .へ 久 lj9. 認 識 の. 貼 印 一. f口. ノ. 彼 岸 ヒ 此 門. ゝ jl.. 〃. .. 象 りJ. 儒 吋 の キ リ. C. の 特 徴 R − 入. !浪. │/ /心1. 秘法E泄j.目方 slJjy. ■一. の 胎 成 敬 札. │「リ. uり. Cノ〕. 後ヤ示教幌 儒教とキリスト教. 坤 行. メL S. 1. の 牛. ぴ). 認 識 理. 万 頃. /j 宇 V. 7`t. 成. 問. Q 一. 1. い 方 j’ 問 一. 教 しO. キリスト教受容. -. 〕. 問 観 の 変 化 学. ぴJ. 時 代 の 学 問 一. り 入. 面 「. (. 八 r ̄ゝ. 代. C. 道 徳 ?. jゝ. 図 に 侍 代 の 国 際 認 .へ. 仙 新 j・● jパ. |. 敬 リノ. 折 折 昌. |. IIF. l l. , l. 弟 問 /. 11. コニy、.

(5) 一一→︱ が. h 一台. 論 中付敬宇と明治啓蒙思想 規範における伝統≒近代・自然とド体 ・:⋮⋮⋮四 ︷丁とJ・・S・ミル. 価値・円︰山・心ト呼をめぐる両者の思想についヴ. 中 村 敬. 礼’已. 儒者・販府かつt師範学校摂理・東京大学教授・元老院議官・貴族院議員という経暦、大ベストセラー・、西国な志. 違う。目﹂燧がその生涯を丁俘の田舎医者として終えたのに対し、敬宇は堂々たる中央の学者であった。昌平嵩御. 年︶は、多少ともy﹄の感のする人物である。もっとも、これは安藤日﹂訪がそう坪ばれているのとは意味がかなり. ﹁忘れられた思想家﹂という汀妬があるが、参府が取りLげようとする敬宇中村正直︵天保三年’明治二凹︰. 序論 研究の目的. 八八素. 孔とかxご⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮. ぢぢゲヘ献⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮. 録 中村敬宇著作目録. j・/ゝ. これにはいろいろな理由が考えられる。一つには、敬宇の経営していた同人吐が良微してしまったため、福沢. に比べるとはるかに少ない。福沢諭占や西周や森打社や西忖茂樹の場合のような全渠・著作集も則行されていな. が県をなしていた。しかし、今日ではやや匠人に忘れ去られたところがあり、研究の蓄積も福沢諭占や的葎弘之. る。特に政庁︵翻訳ご教育を通しての社会に対する啓蒙的影響力という点て敬宇は福沢諭占とともに明六社中の. た明六社団人としての々−︰声、慶応義塾と並び称された同人吐の経営者としての活動は、まさに入学費のそれであ. りL. 編︵目的論二{S.Sml}es.S。=W&@]859.︶やご﹃自由之理H﹄. /S j. &M 。l tl .l 1. 8r 5M 9jの翻訳者としてのあるいはま. Lj. ri囲 |. 諭占とは 違つ てその汝の顕彰・研究が不振であったy﹄とがあげられる、また、彼の著作は翻訳を除くとすべてが. ご……………-. 付.

(6) 短いむのであって、研究しにくいもしくは興味をそそらないこともあろう。さらに、これは日本思想史研究の方 法論の問題にかかわるが、近代性ないしは作為性の思想が伝統性ないしは自然性の思想よりも高く評価される傾 向が存在していることも関係があるように思われる。 本ね︰かこれまであまり顧みられなかった敬宇の思想を収り・にげようとするのは、たんに研究の不足を哺うとす る意㈲からではなく、それが紹介するに足る高い意義を明治の思想史において備えていると考えるからである。 本れ︰は、敬宇の思想のすぐれた意義をその問題性や弱点を含めて明らかにしようと試みるものである。もちろん、 この研究がその目的を充分に達成しているかどうかについては厳しいご批判を仰ぎたい。 宛行業績についてごく簡胆に触れると、伝記としては、石井民司︵研堂︶﹃ツルシ紅中村正直伝に︵明治四〇年︶ か最も占いものであり、比較的新しいものとして高橋昌郎﹃中村敬宇﹄︵昭和四︲︲年︶がある。石井書は豊富な エピソードを集めて敬宇のすぐれた人間味を伝えようとしたものであり、高橋書ではことに石柱占の収りヒげな かった敬宇とキリスト教の関係についての論及がなされている。いずれも力作であり、本研究も伝記的にはこの 。μ︰によるところが多ヤあった。とはいえ敬宇の生涯に関しては不明な個所も少なくなく、伝記的にはいまだ完 全に整備されているとは、dえないであろう。 またその思想については、最近では、波のミルの受容の特色、波が留学した乾田吐公に対する理解の仕方、ま. 4i︲. を合わせたも・のであり、貨体像を明らかにしたものではない。. た波とキリスト教との関係等々に関するすぐれた研究がいくつかある。しかし、いずれも敬宇の思想のある部分 、j ︱−lf. そこて本研究ではいに記としては前述ヤ石︰に依拠しながら、第一に敬宇の思想の全体像を描くことを目的とし い。とりわけ維新以前の思想についてはほとんどf0︲かすの状態なので、敏才文隔。凹︰を等を活用しながら、. この開の忠則−をも要約一紹介しておくことにする。 第一。に、その際に敬宇が明治啓蒙思想の中でどのような位置を占めるか、ことに彼の末T学的な理の思想︵伝 枕的自然法思想︶が明治啓蒙思想の中で持つ意味について考えることにしたい、波は明六什の同人であったこと から啓蒙思想︵、啓蒙一の概念については第一慨の終りで論及する︶のごロということになっているが、その思想 の核心にある理の観念は、その内容からも存在形態からも伝統的な規範︵価値︶である。この伝統的規範は、明 六汁のより近代的な人々の価値観念に対置していかなる強さと弱さを持つであろうか。彼の思想の全体像を描き ながら、この点を明らかにすることがこの研究の目的である。 私研究では、まず第∵感でこの第一。の点を収りトげ、明治啓蒙思想における規範観念を規範の内容︰と存在形態 の両面から考察し、その申における敬宇の位置を明らかにしておく、次に第一八ぃで 敬才文隔 四巻の年代推定 をし、その後で第﹃、一ひから第六びまで敬宇のマ問観、道徳こ奴治政、国原認識、宗教諭等を収り扱いつつ、彼の. 1. 王. 斤意識がそ’一にどのような特徴をゾえているかについて論述することにする。. 鍛近の敬宇研究については、水滴で触れる池、巻末こ。括して掲械する。 萌究い目的 縦 3. た.

(7) 第 ▽草. 明治啓蒙思想と規範の観念. 明治啓蒙思想において、国家ないし社会の形成のされ方、また統治のあり方というような問題に関しては様々 な不完全性を残しながらも、主体性︵作為性︶の論理がある程度展開されていった。たとえば田家︵社会︶は人々 が社会契約を結んで意識的に作り出したものとは言われなかったが、もはや自然的なものというよりむしろ歴史 的に作られていったものとされた。また統治の基本姿勢は、為政者の心構えの正しさによって大衆を無為のうち に威服せしめることにではなく、為政者が状況に応じて適宜法制度を制定・改変することに求められた。こうし て田家や統治というような政治の領域においてはL体性の論即がある程度打ち出されていった、しかし、政治や 田家の正当性を窮極的に保証すべき価値という・ことになると、福沢の文明論の中に窺われるようなれ体的価値を. う、. 除けば、依然としてそれは自然性に根拠を置くむのであった。まず、’︸の点を。四周と加藤弘之の天賦人権論︵近. 久. 代内山然法思想︶の中に検討する’﹄とにしよう。そして、次に福沢諭占の文明治を収りトけ、︰取後にこれらと対 比しながら、歌才の理の観念の特徴を考察する、. j︲りI. ″﹄. jxJ. へ I久.

(8) 西固・加佐弘之と近代的自然法思想−自然的規範−. 規範内容の転換︲L義務から権利ヘー 周と加俸弘之の思想は、近代的自然法思想、より厳密には︵近代的︶自然権思想として形成された。自然権 もしくは入試人権の理論では、規範の内容の中心を構成するものは権利であり、伝統的な朱f学的自然法の規範 ︵理︶の内容は貝体的には711常瓦倫という道徳的義務であるから、価値の内容に関する限り明治啓蒙の自然法思 想は大きな転換を遂げたのである﹁これは末f学が人の本性の中心に道徳性を置くのに対し、。四や加藤がそれを ∩︰。︰﹂保存の欲望とみなすという人間の自然性についての解釈の大き、な変化に対応している︶。これはもちろん明 治啓蒙思想において、道徳的義務が論じられなくなったということではない。自然権は人間の欲望をL台として いるが、しかし皆利かどこまでも権利であってたんなる欲望でないのは、それが義務を伴うからであり、函︰や㈲ 訃も義務の遵守の服要件を承知していた。しかし、宋f学的自然法では道徳的義務はそれ自体として人問に課さ れだらのであるのに対し、明治旅︰蒙思想では義務は権利という文脈を離れてはもはや俘配意味を持だなくなりだ、 たとえば加藤は 八日ハ政人意 ︵明治ミ年︶のをLで、西は︲1111入ほ︰ミーフ混一︵明治八年︶の一一で次のように。。﹃︰っている、 ヤ様ナ訳故、今日ノ交際ニハ、必ス此権利ト義務ノー。ッカ、実二欠カレヌモノデ、廃刊義務几二椙頃テ、百 ノ権利ニモナリ義務ニモナル。︵中略︶兎角茲が六ケ敷所デ、勣モスルト人ダ42二几本分夕陽シテ、人ノ権. 目交際ノ追カ立タヌ時ニハ、. 利ソ敬服スル心フ火テ、独り一︺‘ダ心︲鸚自y/盾ヲ恣ニスル隊ニナリ易で。な様ナリテハ強ハ常二弱ヲ凌キ、. リ﹄一. 一価ヲ岡スコトニナリテ、今目交際ノ道ト云フモノハ決シテ立 ヌ. 人々付加ブ求メテ、几牛ヲ安スルコトハ決シテ出来ヌデゴザル、. 務. 故二個々人々ノ躬行ハ自dノニ人宝ヲ貴重シ、勉メテニ禍鬼ヲ除キ、面テ叉勉メテ他ノサ悪魔ヲ防クヘシ、之 メ法陣ノ五万Tア権利トムヒ、叉他人ノ三人宝ヲ肖重シ我ノ三悪魔ヲ制シ毫モ之ヲ犯スコトナキ之ヲ義. ト副フ、此如ク晰義椙にげチ挟間二分テ萄モ犯スコトナケレハ、人道ノ人本立チ徳行ノ基礎備ハル、然レドモ 孔タ片丸ヲペヽセリトぶフ円ラス、桟尚美ヲリスハ則チ他人ノベ大宝ヲ賀重シテ昇三禍鬼ヲ除クニ在リ、是即. IりI. チ人、タ愛スル一﹂ノ如クシ、一﹂達セムト欲シテ人ヲ達スルノ例規ニシテ、人世至人至高至美ヤ善ノ徳タリ、蓋 シ此徳ヤ入ノ性中二根サシ蕩然タル至情ヨリ発ス、 ’ここIヽは義姉を果たすことの巾要件が述べられていて、西はそれこそレハ叫︰至高。ヤ美﹂の徳てあるとこ。︰っている けれともノ義務は権利を前提とすることによってはじめて考察の対象となるものになっている。義務が権利のr 段とされていると評すると少し。︰いすきかも知れないが、人々の自ご保存の権利︵安寧・幸炉ごをいかにして達成 していくかというど場から義務が収りトけられるところに朱.L学的自然法との決定的差異がある。ただし、明治 心︰蒙思想の場八日、権利が義務に優越すると言っても、それか人問の合理的思惟︵打算とか功利計算と呼んでもよ い︶の結果であるとは考えられていなかった’一とに注意しておく必要かおる。一蓋シ此徳ヤ人ノ竹中二根サシ蕩 然タルヤ情ヨリ兌ス﹂と先の引用で西が述べていたように、欲望を調整する道徳の作用は、思惟によってー算さ. “?t. /x /. れたものとしててはなく、あくまでも白然忖の発露として・認識されていたのである、そして、人問の白︰然性に欲. y. 常. ヅたけでなく道徳性をも想定するところに儒教的田心行との連続性が残っている。 の令 フ. i. .JS. ところて価値の内容︰が義務から廃刊へと変化を遂けたことは、明治啓蒙思想が︵あるいはこれは近代思. 一一. │-= ペニ. /μ. 観 1則?lijt−り.I.j』リ4,1範J l,07. 四叶j. 入. 想. ー^≒,. T)ヽ.

(9) 体的な潮流に関して相当妥当するのではないかと児われるが︶やがて弱肉強食主義や野政則な国庫七義に到る第 8 .集を痢したものと考えることができる。もちろん明治啓蒙の近代的自然法思想は廃刊をヽF張しながらも同時に 義務を忘れなかったから、牧縦な欲望肯定の思想とは明白な相違がある。けれどもいったん圈刊が優先的にL張 され、義隋がそれに従属するものとされてしまうならば、やがては義務が放棄され、庫刊のみが︵そうなればも はや廃刊は庫利たり得ず、たんなる欲望と同義になってしまうが︶要求される危険性も高まっていくであろう。 明治啓蒙思想は確実にこのような道を歩んでほった。近代思想はその内部に普遍的原理が定立されている時です. ニに近代的規範の抱える徹大な問題のIつがある。これに対し、中村政宇のように道徳的義隋を権利. ら、原理の内容を道徳に置く伝統思想に比すれば、距離的には欲望の自然主義により接近していると言わざるを 川目まい. に優先させる伝統的規範意識の持ちLは、弱肉強食判義とは全く無縁であった。この点はいずれ詳しく論ずる。 一︺ 規範形態の自然性 こうして、末ド学的臼然法の規範の内容が道徳的義務であったとすれば、西や加藤の近代自然法の中心に位置 Jるのは隆刊てあり、価値の内容に関する限り、明治啓蒙思想は大きな転換を遂げた。しかし、伝統的な宋r学 の白︰然法においても明治啓蒙の大獄人極論においても、.つの溶遍的規範が存在し、それが様々な意味で自然性 を行するところに規範の形態Lの顕著な共通点がある。すなわら、第。に両μ︰の規範は外的自然によって斌リさ. て。︰及する︶、第一。に両酋の規範は、それにもかかわらず、また同時に人間の自然的本性︵人間の奏. れたものであること︵ただし、明治啓蒙思想の入試人権の場忿は、限定された意味においてであるIIIすぐ淡で の占一. けゐ従え方が未了学の場ぺ四は道徳け、天賦人降論の場aは欲望というように逆であるが︶に服差すこと、従って、 幌範が好悪の感情や本能、あるいは無意識の傾向と合致すること、第一二に両者の規範は時間と空問を超えた絶対. 的完八L件をすでに備えていること、従って、人の理性は’‘れを鳶口tするだけでよく、規範の内容にfを油える必 巷は皆無であること、こういった様々な点て、宋.L学の自然法思想と明治啓蒙の天賦人権思想は、形態トの連続 川を行している。これらの点を順に見ながら、説明しておく。 第一に朱f学の道理にせよ、明治啓蒙の天賦人権とそこに付随する義務にせよ、外的自然に眼拠を置くもので あると述べた。ただし、末乙学の理はこれでよいとしても、明治啓蒙思想における権利・義務をこう考えておく ’ここにはおそらく異論があるであろう。というのは、明治啓蒙思想の段階になると、科学的な自然観がかなり深 まっているから、臼然と入間︵社会︶の分離が進行しており、かつてのようにこの両者を貫いて統轄するような 引接を想定することが困難になってきているからである。源r円氏は﹃徳川合理田心想の系譜﹄︵昭和四七年︶の. 一1﹄. 二即の観念の転回 四周における徳川田心想と明治思想の連続・非連続︲]と題する一節で、西周が朱子学的理の 小休を物即と心理の二つに区分したことを諭じた。この源氏の論を踏まえているのであろう、碩f通有氏は、目 本心代思想の形成﹂︵昭和四九年︶のHぃの﹁明治啓蒙思想の形成とその脆弱性。西周と加藤弘之を中心として ’一 て、明治啓蒙の自然法思想では、自然と人間︵社会︶が区別され、従って、規範は自然と人間性の両者にではな ノヘもフぱら人間性に基礎を置くようになったと論じている。 こうしこ啓蒙の自然法においては、人間性にかんする解釈の転換を基礎として、社会の秩序と宇宙自然の秩 序、汁海規範と自然法則とが区別され、精神と内然、規範と法開との椙、な独自性が明かにされると同時に、. ︵中略︶したがって、歴史的にいうならば、啓蒙の自然法思想は、胆陳孚を通じて朱f学を批判し. 汁海獣庁と人間との関係についての見方が逆転され、社会株序にたいする人間のド体的能動性の観念が打出 された. つべ近代.西洋や目山・権利の観念を導入しながら、普遍的道理が存在するという観念、およひ道理を人間. 1: Illl禰‘!1・)知加 lり1治・j,'Jf匈'.I,',.',lt! i,・la 9. に つ. "一'へ. ¶ ・-kia.J-a-.

(10) 哨yk︰はとらに巾越しか研究書であり、多大の示唆を受けた。この問題についての理解にも大筋として. 件によって駄礎づける坊礎づけ方の二点て、朱子学の考え方をうけついだものであるということができる。 に 仰け. は全く賛成である。ただ、より詳しく見ると、進化論の受容以前の明治啓蒙思想では、自然が完全に脱規範化さ れてはおらず、自然は一方で物理的邑界として理解されながらも、他方で規範的世界とみなされるような二眠性 を帯びていたと考えておくほうがよいと思う。。西の﹁教門論﹂︵明治L年︶と加藤の、国体新声‘︵明治八年︶か ら順に引用する。 浙請フ諭夕転シ大大ノ字義夕闇ハム、ソレ天ト云フハ地二対スルノ名カハタ只芥︰々タル処ヲ指スカ、カノ 僕ヤタル者ハ気卜光トノ為ス所ナリ、ハタ目月口犬宿等夕指スカ、日月眼宿ハ物ナリ、凡テ此等夕指シ大大卜 川いに九回意アリト謂ハンヤ、持’y意無クハ焉ソ汝ノ性ト形骸トヲ賦スルヲ附ムヤ、︵中略︶置シ大卜云 フハ比泣夕指スノ辞ニシテ、ヤ高村ナキヲ云フノミ、︵中略︶人間ノ帝二嫌ヒアルヲ以テ之ヲーL帝ト云ヒ、. 一、’い﹄. 面テ枕功徳ノ不測不可思議ナルヲ以テ之ヲ神ト云フ、故二天理ト云フハ神理ニシテ吾人ノ性雲形体悉ク神ノ 試射スル所トシ、耽語数よ命ハ吾人ノ心裏二銘スル所テンテ、 故二国家れ民成にげノ原因ハ実子人意二出ルトムフテ吋ナリト雖モ波第一説ノ如ク天神直二勅ヲ下シテ君民ヲ 定メドヒシカ如キコトニハアラズ、天陶︰特二人性二北原囚トナルベキ種rヲ賦興シ玉ヒシノミナリ ことに。西︰は・﹁天一を説明するのに大変河心しているのであるが、その片心の中に意味的匝界としての自然が次. ﹄とはできなかっかこここでは自然の万物万象の中に︵天︶理が内政しているとする朱fT的な汎呻論. 第に解体する味斤があざやかに出ていて興味深い。西は一物一草・目川星宿のような自然の個々の事物をもはや .ドヘと呼 E. はすでに解体しているのてある、ただそれにもかかわらず、日月四大宿とは別に天といラー.・︰葉が使われ、それが神. でありト帝であると説明され、いねば自然の万物のLに︵あるいは万物を超越して︶大が想定され、外的自然は 全体としてはかろうじて附和的意味を帯びた世界としてふみとどまっているのである。 固体新論、における加藤の自然観も純然たる法則的それというよりも、西と同様にあやうく意味的伊界とし てとどまっているものと考えておいたほうがよい。この解択の妥当性は彼のいわゆる転向のいきさつがはっきり と叫占きしてくれる。彼は 卯藤弘之自叙伝︲︲、︵人出四年︶の中で、転向の頃情について次のように詰ってくれ ていろ。 泉のド義の一変したといふのは、却々如何なる訳である乎といふに、余は英国の開化史の人家バックルの著 日︰を読んで、所扇形面L学なるものの、殆ど荒唐無限なることを初めて知り、専ら自然科学に依拠せざれば、 回雅をも論究する能はざることを感じて、それからダーヰンの進化論や、スペンサーや、ヘッケル其他の進 化析︰掌の類を読むこととなって、宇宙観、人生観が、全く変化したためである。そこで先づ吾人の権利なる. fトパ. ものが、決して犬献杯いふものではなく、全く進化に依って漸次に出来たものであるといふことを論ぜんが ために、前掲︲1人権新説]を箕︰述しかものである、 加藤は進化哲学を受容してはじめて完全な自然法則ノ瓦論の世界観に立脚して形。㈲ト学を捨てたのである。従っ て、逆にご︰えば、切開の波の自然咬はいまだ価値性をとどめたものであったと考えざるを得ない。その自然睨が はじめから全く脱規範化されていたとすれば、そもそも転向する根本的な理由がなくなってしまうではないか、 要するに啓蒙朋の西や加藤において、意味的財界としての自然は完全に解体していたのではない。この解体は、. 一﹃一一. f1。1.  ̄ち気曳. 加藤に最もよく現れているように、明治▽☆年代における進化論の受容のようなさらなる実証的認識の深化を. 侍ってほわれたと理解すべきであろう、従って、これ以前の彼らの自然観は、従来の儒教的自然阪と、進化論の ︰. z 一. H』1泊」,作・砧思想と唄範j)観念 □j l. へ. 二二た・ヽ.

(11) ﹁緋マド義`的円然観との中間に位置し、天賦人権諭の﹁天﹂は規範的と物理的の二屯の性格を帯びていたと考 えてむくぽうが妥当であろう。また、そうであるとするならば、明治啓蒙の自然隆も人間性のみならず、︵かな り限定された意味ではあるが︶同特に外的自然にも依拠することになる。 またこれは順子氏の場合であるが、人間性のみから引き出される規範を言葉の本末の意味で自然法と呼んでよ いかどうかという問題もあると考えられる。自然法とは元来、自然と人間性の両者に跨がって存在する硯範であ oへさらに外厚にある規範が人間の本性を仙礎付けるという意味あいにおいて、外界が内在に優位を占めるよう な田範であろう。従って、人間性にのみ根差す価値を自然的規範≒ヴっことは一向に差支えないが、自然法と呼 んてよいかどうかは問題の残るところであろう。ただし、明治啓蒙思想では、物理と心理の区別が論じられ、犬 人出関説が。ふ四定されている以︲に、外的自然に根拠を置く確固たる規範という考え方が明らかに動揺を開始したこ とは問違いない。科学的自然観の深まりとともに、このような考え方がuぃ・晩完全に解体することは充分にf想が. 弟︱に、即ち心目然権も外界によって賦ヅされたものであるが、両者はまた入間の本性︵自然性︶にも根拠を置. g1. き、そこからも導出することができるものであると述べた。この点でも、末f学と明治啓蒙思想は、規範の自然 性という連続性を行す。もっとも末f学の.dう入問の本性︵自然性︶とはどこまでも道徳性であり、啓蒙的自然 権が依拠する入間の本性は第一義的には欲望であり、道徳性が諭じられるにしてもそれは前者に付随するもので ある以L、入間の自然性の意味内容は対照的であるが、いずれの規範も人間の内的自然からも帰結されうるもの である。 ところで、⋮呪範が入間の本性に眼差すということは、規範が人間の意ぷの問題ではなく無意識のそれになって. しょこっtこいう’一とでもある。まずkry的自然法から見てみよう。 末r学の駄本的図式が、絡物 致知 誠意 雨心 修身 斉家 治国・半天ドであることはよく知られていろ 今’のうらの﹁誠意一を収りLげてみる。この﹁誠意一について、島川虔次氏は、誠意とは道徳的意識があたか も感覚的・収︲能的意識もしくは快・不快の意識のようになってしまうことであると説明しているが、末f学の規 範が人間の自然性に依拠するものであることをそえれば、このような説明は充分に納碍のいくものである。もち ろん、tf学においては人は笏を保ら・悪を除くべく、自覚的に努力せねばならぬと尋えられていたはずである。 しかし、理がもともと人のおのずからなる性の中に存在したものである以ト、もはや人がなんら意志せずにびた りと汚にかなう境地が、到達点として目指されるのはごく自然である。なお、さらに同氏によれば、このような ﹁。悪臭を憎むが如く悪を憎み、好色を好むが如く尨︰を好む︲︲という道徳意識と本能的・感情的意識の﹂致を最も 強調したのは、利陽明であったそうであるが、ド陽明か朱f以トに人間の本性的湾を強調していることを思い起 こザは、これもまたよくr解できる。 硯箱の球。礎が無意識的なものであることは、明示啓蒙思想においても同じである。西周は、人間と自然とを区 別づるものとして人問の意志というf一とを≒︰っているが、その西にしても権利や道徳・義務の問題について次の ように述べている。 今迄ヅ人ガアツテ我ヲ突然二打ツカ或ハ我レヲWリ殺サント汁タリ、或ハ聖マデナクトモ窓口旨で︰ヲ汀掛ケ ラレテ法シク兄トゲラレタナラベ我タル酋ハ之ヲ嬉イト思フベキヤ、又ハ憎イト思フベキヤ、必ス悪イトに 巴フテゴサラウガ、此情ノ起ルハ禽獣マデモ同ジコトテ、ヨモヤ医界二打タレタリ蹴ラレタリシテ有カタイ ト思フ入勺コサルマイデズザル、︰七レ入間テリド臼ベノ晦ノ俘スル根源デ、ふI略︶又入アツ犬心︲意ノ厄難 り. 一 -……………. ず」. 12. 1明治i,9jt,j討!り:MJ.l!=1・1脚ひ.

(12) 二遭ヒ、成ハ水二溺ルヽトカ、溝ニハマルトカ、或ハ故アツテ飲食衣服が欠乏スルトカ、或八阿暮ラシテ宿 14 削ガナイトカムフ時、知ラヌ人デモ知ツタ人デモ之ヲ救ツテ呉レタリ或ハ宿ヲ借シテ呉レタリ致シタナラバ、 之ヲ受タ人ニマアドノ隊ナ情が起ルデゴザラウカ、復逞タシイカ、救ツテ呉レタ友が憎イカ、絞殺シテモ仕 マヒタイカ、極メテ嬉シイ有ガタイトイフ情ガ起ルデゴザラウガ、爰が亦東デモ西デモ同一ナ性ノアルモノ デゴザツテ、ヤガテ仁道ノ根元トナル所デゴザル、. 西の場合、権利も道徳義務も、もともとは人間の感情の自然な発露、すなわち無意識にその基盤を置いていた ∵ぺたとえばルソーやカントのような哲学者は、入間の性善性を決して否定しなかったが、しかし、彼らは、 百の意味で道徳的であるとは、入が跨遍的原理に向かって自己を自覚的に強制していくことであると考えた。こ のような道徳を意志の問題として把握する思想と、自然法︵朱r学のであれ明治啓蒙思想のであれ︶の道徳理論 とは根本的に立場が違っている。 吊二に、即ち自然権も時代と場所とを超越して妥当し、完全な内容を持っていること、また、人間の理性はこ れらの規範を発見し認識することはできるが、喫範の内容を昨︰り変えることができないと︵暗黙のうちにせよ︶ 考えられているところに、伝統的自然法と近代的自然法の形態トの連続性がある。そして、時空を超越して一安当 する完全な内容を特つ価値は、理性の機能を狭く限定してしまっている。 圭ずこの点を朱f学から見ることにする。宋r学の基本的図式は格物︲︲致知 修身−斉家︲︲︲治国二心︲犬ドであ り、政治や道徳を論ずるだけでなく、洛物 致知という理の認識の問題を取り卜げたところに従来の匯教とは異 なる末f学の一つの特徴がある。そして、家f学においては、理はあくまでも入間の理性的能力によって認識可 能なものとされたのである。このような考え方が、たとえば陣の認識を人間の側からは断念し、冲の啓示に帰す. るキリスト教に比する場合に、よりいっそう人間のL知的能力を高く評価したものであることは・E︰うまでらない しかし、・一のような末r学的知性・理性にはなお大きな限界がある。なぜならば、それはあらかじめ完全な姿で 俘配する価値を認識し、もしくは定日九するような入間の観念能力を指しているのであって、根本的価値を作りま た変えていく理性を吐昧しているのではないからである。価値はどこまでも所リのものとして完璧であり、人間 はせいぜいそれを認識するにとどまる。 このよう々巾情は明治浪︰蒙思想にもあてはまる。加藤は 国体新論・、︵明治八年︶の﹁総論一と題する冒頭の. 筆者︶ヲ悟ラザルガ故二Iとか、﹁仙南等開化末分イ国々ニテハ、占末末ダ曾テ国家μ. 部分で、﹁凡ソ文明開化未分ノ国々子アハ末ダ官テ国家君民ノ真理︵政治の根本は人民の天賦人権を保護するこ とであるという白煙. 民ノ汽理明カナうザリシガ故二此ノ如キ野鄙肺劣ノ固体ヲ以テ実二道理二協ハザル者ト思ヒシ輩ハ絶テナキノミ リラズーとか、︲1娩近人文知識漸夕闇クルニ随ヒ旧家君民ノ真理始メテ瞭然トナル平ヤり二と述へている、西は 一削某氏れ︰こ︵明治ミ圧︶の中で﹁邑レにより四足を椎しかするに胆気家の理リを以てし、性理の疸兜を究極し人 牛の大本を知る、足を性理の道理となんいふなる、仕才。は即ち致知学、心性学、院教学、性法学、政法学、旧 法学、刑法学、商法学、公法政学、公法通学なとなり、︵中略︶萄も実理をし講しなハ、誰かは此道理を離れ得 へき、こは皆収西川州の賢哲放下裁の久きを経て皆を肌ね巧を晴て口貨柁きぬる所なれハ、唯故人の私論に出てた るに弁才﹂とμ︰いている。西にしても加藤にしても原理について﹁知るI﹁悟る・﹁明らかになる﹁定見する一と. 5. いうような。。︰低を使っているように、人の観念的能力は道理を発見し、認識する役割は持っていても、炭水的価ド 値を削造し変えていく慟きは持っていない。規範は超時問的ふ詣。に問的に妥当する完脂性をあらかじめ廂えてい ると考えられているからである、. 明治・啓蒙思想ヒ叫範ヅ)映.汗. 二万.

(13) ということは、波らに歴史意識がないということではないじ茜︰や加藤は啓蒙思想家として進歩史観という歴史 む L義・時間の観念を有している、しかし、先の引用から了承されると思うが、波らの言う進歩には、進歩とは根 本的価値が﹁顕現﹂﹁問示﹂されていくことであるという意味あいが強く含まれている。原理が次第に明らかに されることによって、またその原理に従って巨の中が変えられることにより、政治や社会は進歩していくが、し かし綴本的規範そのものははじめから世界の中に存在したと考えられているのであQ‘‘ ’jれは。見歴史的と映る であろうが、暦史を貫く不変不動の道理の潜在を仮定している点では明らかに自然法的である、これに刻し、退 歩を論ずるにしても、それは最初から存在した理が明らかになるというよりも、理そのものが無から創造され、 変化・発展していく過程であるという考え力があるはずてある。むしろこちらの力が良の意味の歴史意識であろ う犬伺沢の文明観はこのような歴史意識のみ明であるが、それは後述する。. さて以ト述べたとおり、に統的白︰然法と近代的自然法では規範の内宮︰その・ものには大きな変化が牛しか。しか し、砥二に規範が︵明治啓蒙思想の自然法はかなり限定された意味においてではあるが︶外的自然に根拠を持つ こと、弟︱に規範はまた同時に人間性に根差す’一と、従って、規範への志向が好悪の感情や本能、つまり無意識 の傾向と合致し6いこと、第二に規範が時空を超えて妥当する完全性を備えて⋮財︰⋮抒に潜在していること、従って 八開の理性の課題はこれの琵目九に図ヽきること、このような様々な点て、出回︰の規範は形態レの自然性という連続 性を仙している。 犀 規範の解体 加藤弘之と進化論 蝉り返すが、明治啓蒙の天賦人権論はその規範の内容においては大きな転回を遂けた、しかし、規範の形態ト. の随々な山然性という点て、伝統的な朱子学の自然法と近代的な明治啓蒙の自然法とは共通性を有していた。け れども、共通性の第一点、つまり、外的自然に基盤を置く規範という観念は、明治啓蒙思想の場合、自然科学的 認識の進行とあいまって、はじめから動揺をきたしていた。そして、それは明治一〇年代からの︵徹頭徹尾一科 字的︶な︶進化論との接触とともに解体することになる、その時、これは多かれ少なかれ明治啓蒙思想全体につ いて。。︰えることであるが、自然⋮抒に存改する規範という観念の解体を契機として、規範を新たな根拠のLに再構 成・。匝︰構築しようとするきわめて大切な作業がなされずじまいに終ってしまい、全く逆に規範そのものを否定し ようとする態度が顕片に出てくるシ1!!Zsっまでもなく、この顛向か最も典聖的に出てきたのが加藤弘之である。 明治∇三年から一四年にかけて思想転換を行い、それまでの。大獄人権論を清算して進化論者となった加藤は、 出然の中に価値ではなく法則だけを想定することによって、意味的秩序としての自然を解体せしめた。そして加 体の思想では、この法則がたんに自然界のみならず、同時に完全に人間社会にも適用されることによって天賦人 権はが定され、ここに自然と人間とを貫く法則で几的な伊界観が生じてきた。その法開かいわゆる適者生存・弱 肉強食を内容としていることは周知のとおりであり、かくして臼然の匪界からも人間の社会からも普遍的価値は 完貨に放逐されてし圭った。 けれども、ここで収容なことは、進化論によって解体されたのは自然権の持つ規箭竹であって、自然竹ではな かったということである、すなわち、天賦大晦が自然竹︵存在性︶に基礎を置いていたように、加藤の進化の法 側らまた白︰然昨︵俘改作︶に依拠する度八日が著しく強く、両者は価値か法則かで内容が這うが形態トの自然性と いう点て構造連関を持つ・この点を念頭に置きながら加藤の進化論の特色を咎えてみよう。 ます弟。に、加藤の進化の法則は自然を分析するために理性が構成するものではなく、白︰然と人間の存在性に.  ̄_こ___・.?ヽ ¬ ・,J,・4●4ii.・・φ●・・.・aa− ・h・. a峠− JSふ ●適・. .き・=●−……… `IV. 1卵白,りーご.ljリ・りりり.・j,ilJQ湘,│急 jljレ.I.. ご. 一. -.

(14) あらかしめ没定されており、人々がその中に発見すべきものであった。もちろん、我々が法則、特に自然法則に 8 月して持つイメージとはふつうこのようなものであろう。しかし、一方では、法則を外界に本当に実配するかど -. うかはさておいて、かりにあると仮定すれば事象をより適切に説明しうるような、七体の側で構成した認識際組 !●II■ ・"‘:. とぢえることもできる。おそらく一般に、自然法則は実在原理的な性格を佳く有するであろうし、社会法則はこ れに比すれば構成伜組的な性格を相当に混じえていると思われるが、加藤の進化の法則 これは自然法則兼仕合 法則である は、構成伜絹的な性格を全く欠いており、自然に実配しこちら側の発見を防つものであるというげ 格をきわめて強く帯びている。 は﹁人権新説﹂萌巾五年︶の中で、﹁次デVや目年以来拉摩屯氏言汗氏寸来埃拓氏よ貳氏回社他ノ ン、亦辱ラ実験ヲ以テ研究ヲナセシヨリ能ク地球L万物ノ進化ノ実理ヲ発見シテ始テ従来ノ妄想七義ヲ. 脱却スルヲ碍タリシカバーと進化の実理の発見を称え、﹁泉が見ヲ以テスレバ瓦試太衝ナルモノ八本末決シテ実 ハロスルイよアルニ非ズシテ、貨ク学者ノ友加二生ジタルモノナルコトハ敢テ疑フ吋ラザルナリ﹂と双紙人権のが 想を罵っている。鳶口mされたものを吟屯し、人の隅句心を排斥しているところに、㈲藤の法則の俘ルにに依拠すろ 度八日の人きさがよくλれている。そして、俘在に根差し・定日九されるのを待っているものであることが︵伝統的と 近代的とを問わず︶自然法のJつの特色であった。加藤の進化の法則は、まずこの点で波が論難しているはずの 入試人権論と思想構造トの連関性を有している。 第︱に、加藤の。、︰う進化の法則︵この法則はたんなる自然法問にとどまらず、価値を侵触しその機能をも代旨 すろような特殊な法則である︶は、理性によって削出されたという側面を。岡持たず、兪く俘改作から導出され たものである以ト、当然の帰結であるが、この法則はあらかじめ外側に定まったものとして絶対・完璧な内宮︰を. 特らゝそれは白欽法の規範が超時間的完令性を有していたのと共通する。ヱハ権新説﹂の中で加藤は繰り返し述 べている。 此剌タル実白水巨不易ナル万物法ノ。太定規卜云フペキナリ、故二此優勝劣敗ノ作用ハ阿人々順野蛮未開ノ. I・. 太占ヨリ遂二文明開化ノ今日子至ル迄末ダ曾テ滅スルコトアラザルノヽこナラズ、恐クハ。故人が此地球トニ存 在スル限り八億万歳ト雖決シテ滅スルノ開ハアラザルベシト信ズ. ︰心二山テ之ヲ睨レババ人々煩&優劣ノ等差アリテ為メニΓ万無︰一Qナル優勝劣敗ノ作用起ルハ足レ万物法ノー 入定⋮呪テンテ実行水匪不変不易ノモノタレバ 法則や原理が多少なりとも理性によって構成されたという性格を備えているならば、それらは様々な不完全性を 特つことになる。しかし、こう考えられればこそ、また一方で、法則は人の理性の向トとともに誤謬を削されな がら粘度を増していくのであるという法則に対する歴史的な物の見方も成立するはずである。このような法則・ 原理観は、歴史的であるばかりでなく、法則に対する人の能動的態度を示している点て主体的でもある。けれど も、㈲藤の進化の法則は、全く存在から引き出されたものであるために、法則を歴史発展的に捉えることができ ていない。加藤の法則といえども、歴史のある段階で人によって発見されたものではあるが、しかし、太が宛日に しようとしまいと、法則・原理は絶対不変の内容を持って、匪界と入間の自然の中に最初から潜在していたもの なのである。このような進化の法則の超時間的・非歴史的な絶対性は、明らかに自然法の規範の非歴史的な完全 性と全く同じである、. 八. 吊五に、適者宅配の法則が人間の自然性に根拠を置く以L、これも必然的な帰結であるが人々の弱肉強食のげ 勤か無意識的なものと咎えられる傾向が強く出てくるノ九人醒新説 にこ。︰う。﹁几ソ動植物ハ各其生存ヲ保チ長育. 心−,. d6・Qll・kφ..._.  ̄1`=“゛`、 ・一一. 八. 明示啓蒙I,リ烈ト規範.の砂,こ T Iφ‘ 9. 加 藤. 碩 宇 摩 出. 一一. 一一.

(15) ヲ遂ゲン万為メニ終始他物ト競争シテ互二捷ヲ己二占有セント欲スルモノナリ、但シ此嘔タルヤ固ヨリ無心二出 丿 ルモノ多シト雖、社鏡石ノ猛烈ナルハ実二驚クニ堪ヘタルモノニシテ白 ﹂、また﹁随テ咎生存ヲ保チ長育ヲ遂ゲン ガ鳥メニ。俘二競争ヲ起シ、優者常二捷ヲ簿テ劣者ヲ倒シ々訴言と。適者生存の競聊はいかに激烈であろうとも、 競雅行動それ自体はもともと無意識の指示するところである。 自。に保存の衝動のみならず、道徳もまた無意識の所産とされている︵もっとも、加藤のけう道徳は、強者の自 d刊芯に参仕する道腿にすぎず、力関係を硯剔する原理・原則ではないから、もはや本来の意味で道徳とは呼び 難いが、かりにこの々−︰をドしておく︶。波によれば、道徳的規範は、人間の本性にはじめから昌行されていたの ではない。入の自然性に最初から存をするのは利d心だけであり、道徳はどこまでも後天的所産であるとされた これに討し、明治啓蒙思想も人間性を快楽的に捉えるが、同時にその快楽性とづフンスをとる道徳心が入間の本 性にあらかじめ想定されていた。従って、利。︰’]心が本源的なもので、道徳︵利他心︶は後丸的なものにすぎない という加藤の道徳理論は、朱子学のそれとは巾すまでもなく、明治啓蒙思想のそれとも一つの大きな違いがある 従来の臼然法的な道徳理論は、加藤の進化論の中ではじめてはっきりと西定されたのである。しかし、加藤はこ の道徳︵刊他心︶について、次のように討いている。 以︲に説白所の友然人為諸種の利他心は大切より無数の風霜を経るに仙ひ斤々孫々匪々伝承するの間道伝と応 化との昨用役ひ宅配競争自然淘汰の結緊によりて次第に進歩発達し遂に最後に至りては殆ど本能的の性質を 帯ふるものとなりしかは今日昌︲への利他心は大抵無意識的に発動することゝなり 心徳なるものは決して超自然妁に宇市人L宰より。ぴ防人問に風眼ハされたものでは、なくして単細胞洛が帽渠 防して始めて複細胞体を組成するときに既に萌⋮4を生じ、︵中略T訪。片大同が斑斑細胞洛中の辰高等なる国. 。. 家を組成するにヤて非常に進化発展したのであるから、乃ち道徳なるものは全く自然的に囚果的に生起発展 しだちのとせねばならぬのであか。 ここでは道徳が歴史的・後天的なものと考えられ、その点では伝統及び近代の自然法とは違う道徳観が提示さ. に. れた。が、退治の形成が生物的有機体の発生・生成・進化に類比されるような無意識的・必然的プロセスとして 論じられ、また道他の行使もそれはすでに後天的な本能、ないしは習性となった利他心の作田と考えられている 加佐の道徳はきわめて杓樟的なものであるが、その打算性は思惟の給田ぺというよりも習性の結果であり、道徳が 無意識的習性という意味での自然性と結ハ目しているところに、加藤の進化論と自然法思想とのまた︲1つの連続が にられる、もっとち加藤は、たとえば 道徳法律進化の理 ︵明治ザ三年︶では、利他心を感情的利他心、知略 的利他心、教養的利他心の︲︲︲つに分け、感情的利他と教養的利他を無意識的に発動し、知略的利他を意識的に起 ’︸るちのと説明している。﹁感情的及び教養的愛他心にありては愛ごの意思が多くは無意識的なるに知略的愛他ぺむ‘ ・。 拓し ・かし、また波はソ目然と倫理﹁︵明治四。五年︶では、意識的な川 心にありては之に反し全く意識的なるに在るI 知略的利他といえども長年の習慣になってしまえば本能的に生ずる’万一があるとも一之︰っている。﹁又知略的利他叫 抑 は前述の如く其性質が感情的利他とは天に賢なって居るけれども併し、それが債年のが滸となりvへは父艇からのツ 遺伝となると遂には全く感情的利他と同じような性行となって殆ど全く無意識的に起ることもあらう乙。もとも心︰ と、人の行動様式を遺伝と応化という生物字的次元て説明している以1︲に、知略的愛他心だけを已識的なものとす田 ることに無理を感じたから、こう修削したのであろう 面体が意志の白︰山を。ふ︰定し、弱肉強食という太一の駄本的い 行ハは烈心に出るものという前提にyって議論を展開していろ限り、こ・のような行心から・発生する利他心もまた. 歌体として無意識的顛向か濃くなるのぱ当然の屈結てある.. 21.

(16) 以ト、面体の進化論の特徴を要約しておくと、研一に法開か全く外⋮坏に存在するものとされ、卜体の則で構成 したものという性恪が皆無であること、第二に法則の内吝か超時間性・非歴史性を行すること、価ぺに入間の引 水的行動。原理が無意識の所産とされていること、従って、その道徳理論では道徳が後天的なものとされながらも、 々むかつ無意識のうちに発生するという自然性を持っていたこと、少なくともこの一二点を詐げることができる。 そして、この二点はいずれも自然法の屯要な特徴になっていた湛柄であった。そうしてほると、加藤の進化論は、 自然権思想の規範性を解体するようには機能したが、その自然性はこれをほとんどそのまま残してしまったもの と解釈することができる。 白︰然法思想の規範意識を受け継ぎながら、これを入間のド体性と結び付けようとする考え方は、福沢の申に窺 われるものであるが︵とはいえ福沢自身も加藤と同じように進比論の影響を受け、しばしばこのような考え方を 破綻させているのは︲︲。。。︰うまでもない︶、それを次に検討しよう。. 隔旧ヅヤ︰と文明の観念 ヽL体的規範︲. 明治政︰蒙の近代的自然法思想は田範の内容という点で伝統的自然法思想と異なり、また、規範か法則かという 点で進化論とも違うが、しかし、その形態トの自然性において、宋斤量とも進化論とも共通の構造を打していかこ けれども明治海︰蒙思想には、ゝ﹄のような自然的価値ぽかりではなく、L体的な雨値もひ場してくる。これが熊沢 いわ・ゆる﹁見開﹂であるとぢえられる。切開の福沢の田心想もまた近代的自然法思想の影響をとどめ、そこには. 八・理・ハ斌大序というような自然的価値の観念がほられる。しかし、彼の申には、このような価値とは形態を 賢にする仁体的出師︵之明︶の思想がいっそう強く展開されていった。この文明という画師の特徴を要約するな らば、圭ず第。に、それははじめから超時間的完全性をに㈲するものではなく、暦史の中で生成・展開・宛達し ていくものであった。my.に、それは人々の理性によって発見されるというよりも、理性によって削造されてい くらのであった。第ぐに、それは人々の無已識の問題であると同時に、またなかんずく人々の意志・目的意識に よって選択・決定されていくものであった。福沢の文明観の申に、明治啓蒙思想のうちでは形態的に腿る限り最 も新しい規範の観念が展開されているが、それを今掲げた特徴の順に検討する。 なお周知のこととは田心うが、福沢の文明の咳心に据えられたものは、第︷義的には扁目︸であって﹁徳`では ない。しかも、㈲沢の智は計算能力や囚梁関係把捉の能力を指しているのであって、儒教的知のように道理だけ. Jっとも福沢の思想の中では皆と徳とが原理ト区別され、しかも、彼は智と徳が常にが. をその対象にしているのではない。けれども 文割譲之概略︸一︵明治八年︶の中て述べられているように、印は 徳を伴うものであっWy. げすると目心でいたのではなく、この両者の矛盾的関係、すなわち即の発展とは逆に徳の堕落・停滞がが起される ことをよく承知していた。。とはいえ、福沢はこの両者を原理的に区別し、特には両者の背反性を指摘しながらも、 加目が徳を随伴してきたことを認め、さらに汽の文明を智徳の完全なる両立としているから、やはり福沢の文明は 価値と坪ぶにふさわしい・︰四度の規範性を持っている.なおまた、福沢が徳という場旨、それはいわゆる道徳的義 務の八に限定されず、もっと広く、昨利ヅ白山・嘔冷・削義・分溜等々の多種多様な価値を包括している、そし て、権利とか分配のような価値が文明の徳の重要な.要素を成すと’一ろに、睨極力内容の近代性︵換..︰すれば快 楽椚︶かあるわけである、. lul治・,り蒙思想と賊諌│・り〕咄.戈 l e −「 り. 23. の.

(17) ト 規範と歴史 まず福沢の文明は暦史の中で発展・展開を遂げていくものであった。 目に文明は死物に非ず、勣て進むものなり。勣て進むものは必ず順序階級を経ざる吋らず。即ち野蛮は乍聞に 進み、乍問は文明に進み、其丈明石ぺ/ぷLに進歩の時なり。欧羅巴と雖どもぽ子へ明の由来を尋れば必ずこの順 庁階級を経て以て今日の行様に至りしものなれば、今の欧羅巴の文明は即ち今の肝︰賜の人智を以て備に達し 円たる頂Lの地位と。ムふ吋さのみ。 文明は野蛮 乍開 文明の順で発達してきたが、現んにの文明といえども完へL性には程遠い。白︰然法の心理が、附 図から艇一謬の汚遍性を臼しているのに吋し、福沢の文明はその発展段階に応じて様々な時間的あるいは地理的川 約を受けるものであった。にもかかわらず、文明は多くの誤りや’t︲完全性を心服しながら前進していくものであ. 一の潤沢の文明の持つが史性は、二足の理が開示・顕現されていくという意昧とは違う。文明論こ. り、ここに規範の観念の中に歴史性が取り込まれていった。 だし. Q 一. 法を面従として、なおかつ進歩を論じ上うとするとこのLうな史観が生じやすいのであるが、たとえば、宋ry 的大坪を最後まで信じていた中吋敬宇の進歩史観はこの典明である。波はこうーっている。︵学術敲々進歩スル ニ従ヒ教法ノ良理モ亦諮々澄明セラルー一至ルコトナリ こ開点原之︶。﹁俗物宇目二開明二進ミタリ、俗物宇マ. 間の流れの申でその存在を明らかにしていくだけであって、訴たな内吝かそこに付け加えられ. スぐ精微ニゲルニシタガヒャヤ甘ドノル田子か乍・訃い⊃傍点丿片︶。ここにも強い進歩の睨念が出ているが、. 力L. I f r・. つれて次第にハL貌を現していくというような摂理史観的な進歩史観とは資なるのである。前述したとおり、円吠⋮. 元方は、理がはじめから歴史に︵あるいは臼然でも八問性の内でもよいが︶完貨な姿をとって淋y比し、待の経過に. 概略 を通読すればf解できろと思うが、欠月は無から誕生し、生成・変化・宛展していくものである。この吟. た. そ の 理 は 時. わけではない、丁こ﹄に福沢的進歩史睨との差賢の。つがある。末f学にあっては入問は理そのものの内容 へ. 如回ん。︵中略︶哺︵サ. 判沢︰︶問叱と祢するものは回剌なるや。椎北島の野民が人肉を食ふの悪剌を削め、よく. 心向月る陶雑な観念となっている. 内包していることを理解していた 従って波リ。︰う進歩は値︰力内に乞を胚胎させながら、なむかつ窮極的なn︰争. 福沢は、文明の進歩が、たとえは帝国i義によって代ムされるような、幾多の悲惨・堕落y悪徳をその火面に. ∩入力奴隷に適したるを指して云ふのみ。. ントウイッチ八. 保つもめありや。ヘルシヤ は如回ん、印度は如回ん、渥雀は如回ん、いい水菰珪は. I々ヽ役ひ人汀州諸島の有様は如回ん、収入の触るゝ処にてよく枕本川の権義と列盾とを全ふして以の辿にげを. にしたるに非才や、故に今の顛末利㈲のえ明は白人の文明なりで亜未利加の文明と云ふ吋ら才。北欧亜洋の. 今の亜未刊佃は足と誰力川なるや。植田のド人たる﹁インヂヤン﹂は、白人のために逐はれて、七よ各処を賢. い場旨に、福沢は肌純な進歩の㈲式を文明の展開にあてはめたのではない。. 原理が姿を現していく治郎というよりも、原理の内容自体の生成・変化・拡大のそれなのである。とはいえ、そ. 。八。、福沢の文明は無から出発し次第に新たな内容を付け佃えてげくものであった。文明の発達とは、言疋の. の進歩史観に付いてまわっている。. るだけてあったが、このような宋乙丿学の限曝、つまり張本的価値に対する大問のL体性の限界は、そのまま敬宇. に踏み込むことはできず、ただ悪を払拭することによってアプリオリに内在する善性︵理︶を輝かすことができ. ∼. い句れにしても福沢のえ明睨の申では、価帥が歴史的なちのとされることによってら口然よ的規範の招待問匪か. li・;い.91L一睨a,・!Iり4,夕. 明 1らI. 巧. い. し 乙7゛. iT. か。__。_. I'気胞. -・−、. ■㎜ ●』.

(18) 東り越えられていった。けれども規範が歴史性を持つということは、ある価値は。定の時代的・地理的限⋮坏を打 6 するということに池ならない。そしてこ’﹄からは、歴史的川村仁義、ないしは川村L義からの作目遍的原理・の、μ定 もまた当然出てくることがp想される。 福沢はとりあえず当時の西洋文明を目本の目漂と定めた。歴史が、挙に完貨な価値の段階に飛躍できないもの てある以ト≒これもまたやむを吋ない。しかし、ご几匪紀未の西汀文明か幾多の欠陥を内包するものであること は、福沢白身が充分に認めていることであった。西洋文明は、四目の進歩や白山・心r倅・直列のような輝かしい成⋮⋮` を達成したが、同時にそこには侵略や杵困が歴然として俘配している。90で・福沢は、このような隆々な石能義 牛にしつつ、より高い文明を志向することをL張するのではあるが、一万で次のような。︰い万もすることになる 西汀諸国の文明は以て満足するに凪らず。然ば開ちこれを捨てゝ採らざる珊。これを採らざるときは何れの 地位に居て安んずるf。申︰︲開も安んず可き地位に非ず、況んや野蛮の地位に砂てをや。此この地位を棄れば 別に叉帰する所を求めざる吋らず。へ/より数F.白弟の後を関して彼の瓦が安楽の極度を時たんとするも、椎 昆れ人の想像のみ。︵中略︶されば勺匪県中の諸岡に於て、仮令ひ随行ぼは野蛮なるも或は乍問なろも、萄 も.国文明の進歩を謀るものは欧羅巴の文明を目的として議論の本位を定め、y﹄の本位に懸て利物の利害吋 夫を談せざる可らず。 福沢のよく便う八現である。ここには、段階を追って発展するしかない価値の暦史的制約や欠陥を認めながらな おもそれを屯服する・形で前へ進もうとする考えぢと、その欠陥を所詮人為によってはいかんともし難い時代の流 れのなせるわざとして、許容し弁護するような思想とが微妙な形で混んにし交錯していることがよく分かると思う。. 四年の 時事小バの申で、﹁石は天然の内山民権の正論にして、濾に 此論を聞き心を一にして唯一方に思想I“QkJs9 i gM i∼ ∼ll u I Z. そしてノ戌哭︰のような抒え万が、やがて福沢がカの論理に身を胞ねた時に、その。つの服拠となっていた。明. ︱︱ム. を陽げば毫も不ぷの点を見ず。入間財界は斯くありてこそ始めて頁の入閣員界なれと思はるヽが如し。︵中略︶. んれば前の。︲に論、片田は問ち。出ならんと雖ども、無限の末末を開して枕成跡を侍つ可し。之を侍てfに目年の後に 特節到末す可きや、我輩は之を保讃するを碍ざるなり と.J︰って、波は民権論を捨てて、国権論に加州した。福 沢の交刺史観は歴史性を持った価値を登場させたことで、自然法の超字間的・超時間的な価値理論を粟り越えて いったが、それはまた出師に対する相対卜義あるいはが附加論を内に胚胎させてしまった。 肢はまたことに道徳の問題について次のような言い方をしている。 律とムひ、国吉と云ひ、定款と云ひ、尚一歩進めて道徳の如きも、牡︰心とする所、非とする所、占今に賢な 、片田に回しからず。喉。天然を梢する術、即ち化マ器械学の如きは、拝刊害占今万円に同じ。. の論者が勣もすれば天理入道なぞとて議論のスタンドアルドにすれども、仕実はだかいもなきことなり。. 兜臣ミハ︰に伴へず百掃圃犬に見へずとは天理人道なりこ管仲が削公に伴へ甲州武卜が徳川瞎他に仕て慟たろ も大仰人道に行きたるに非ず。持き後家が直︰縁するも亦同じ、︰。七等の大仰人心は占今沁︰国にて。様ならず。 ︵中略︶皆︰叱れコンヂショナルダードの部に鴇す吋し。 はじめから絶対不変の内容を侍つ﹃大理がが定されている点では、岑前北てある、しかし、道徳とは所詮﹁たわい カ々いもの`とか﹁コンディショナル’グッドーである≒づっにとどめてしまえば、結局のところそれは。歴史的 田村ド義からの作目遍的原理の。心︰定に他ならない、. ≒. ’﹂のような帽対L義が福沢に﹁。尽忠報国一という徳目を選ばせるy一とになった、たとえば﹁徳教の説一の中で、. 浅. り. 匝. 厄酌の位は咎入叉防呼吸の人の心乍に従て防守る所をづ昧にせす一とかー昨趣向は同じからされども、以て. ー│'-− j. 明治・,匂袋I,?.‘,想・-:硯雛・j抵1.7 i.1研 27. を yぺ. へ.

(19) 人々の道徳心を維持して安寧を保つの点に至ては人なる差違あることなし一とご吊ぶ引 Iす %るよ 9うなことを述べて メ いるがで要づるに道徳は改良の刊害の那八一匹次第である点では絶えず変化する状況的なものであり、しかも変化す るように目心えながら体制の安寧に参仕するy一とでは一向にその賎能が変わらないとされているのである。かかる ご識のIににぺって、福沢は体割の安寧や1.1除の拡張には沢口のよい一万ヽ吉報国’を図説道徳として持ち出してくる そして﹁リ吉報国一が唱導される時には、﹁報国の心は殆ど人類の天性にか︰するものにして、哺尾素は何等の頃 情丿変に遭ふも、或は厚割拠剖等の働を用るも、決して消滅す可きものに非ず一と、この他日 yが人の心情に削ぎ す自然性・右可変性が強調され、自然性・非時間作という点では福沢が西定したはずの儒学の伝統的道徳限に似 てきてしまっている、 福沢は価値や道徳の理論に歴史の観念を導入することによって、自然法的な規範の超時間・超空間的絶対性を 県服していっかこしかし、この歴史性は価値の動揺を促進する要囚ともなり吋るものであった。歴史が、硯箱が その中で自。︰’]の誤謬を出しつつさらなる発展を巾ねる時間的過程と考えられているうちはよい。しかし、歴史に. 限がなく、到達すべき末末も無限の波方にあるとすれば、史明を宛展させようとする人々の努勺にも諦急が. ぶに. 生じてくる。福沢は進歩を心強く掲げながらも、。万では、永遠のい目徳が筒弔には人ff︲可能なこと、現状のや 盾や悪弊にも我慢すべきことをあわせて論じ置いた。こうなればで歴史仁義は削対ド義や不可知論と紙。屯の所 にある、そして、福沢の相対L義は、ただらにI刀の論理と歯石を開始していくのである、。 H 規範と理性 福沢の文明は暦史の中で生成・変化・発展を遂げていくものであった。そして、UUUあ劃かるのは、人々の ︵々かんずく知識入力︶理性であり、即心であっかこ伝統的と近代的とを問わず白︰然法の規範が外的宇市とIペ問. 心内︰感性に柱礎を置いていたとすれば、福沢の文明は人の理性に根拠を持つ。もちろん、自然法理論の申でも入 問い理性・睨念能勾は弔要な役割を田`だしていた。しかし、それは原理を宛μし明らかにするだけでよいという. 認蔵前賎能においてである。福沢の文刺と知性こ睨念能勺との関係はこれとはかなり違う。すなわち、文明の諸 諸 I原理は、理性によって認識・宛にされるというよりら、むしろ理性によって作り出されていくものなのであ ににぼ、仲仕と睨範との関係についての所しいぢえ万がある。たとえば、支明論之概略 面戻八年︶の. 弟。・似い聖巾ご低を目mられたい。. 。﹁ガリレヲ が池勣の諭を唱へしときは賢瑞. 試に目心よ、占壮え明の進歩、枕詞は竹所ぷ毀端女説に起らざるものなし、﹁アダム・スミス が始て経済の 論を悦きしときは1117犬侍これを邸説として駁したるに非ずや. 学者宜しく肝︰諭の喧しきを憚らず、賢瑞. 沌は 託⋮⋮一の通説なり、作目の奇説は今日の常談. リ。粍目︶と題する論説である。. Mlij・.j)観r・. と弥して罪せらわたるに非ずや。へ中略︶故に片年の賢司が. 友説の該を恐るさ一となく、俯を振て秋思ふ所の説を叶く吋し。 W、端が心ごという。。。︰低がくり返し登場しているように、福沢が肌削したのは、たん々る推理的・認識的理叶 てはなく、扇情的こ回想的理性であった。自然法思想における認識能・句としての理性をかりに静態的理性とても 坪ぶとすれぱ、福沢の文明論には乙っと卜体的︵作為的︶即性が登場してきている。. %i. ’一 I点をもう少しはっきりさせよう。、撃に掲げたのは 家庭叢談一第間︰六︰リに枝った﹁過去現が末末力関係・ ls りヱ. は俄にげはれ難しとムふの我なり Tm’略゛試に分力胆力中は片人力財の中なQ4’将だI悪人力匪力申なる 29. .︰ふ司くして阿ふ吋ら・ずとは、理を以て論ずれば差支なく間近もなき議論なれどら当時の叶︰の中の百味にて. り. 明 治・衆41曳I.加.I-. ノゝ、. り. る.

(20) 話. 乃か・によ。旨くら乞及⋮匹浮と云はざるを叫ざる可し。ぶI略︶然らば云︰悪や削義に関して. 判者︰︶現八に. にいて︰収も汪意す可きものは唯に︰︰︰ふ可きの一雅に配てクマ︰ふ可きものは敢て顧るに足らざるfを問 決して然らざるなり。︵中略︶仰文明の進捗とは如何なるものぞと問ふに、fもなく次第に空理を実に︰︰子るの. −. −. 特右折服 に掲械されたむので、福沢が﹁転向・を遂げた後の片作であるが、し. の巾で、まれ、入念入L八道というような円然に淵源する硯範をが定し宇宙を悦価値叱. のみ。物カ俘ルにするが故にとて大厄特に吋なるにあらが。物を兄て故さらに庇蔭すろ. に今の人問万物はハに配す吋らず、西な地球その物も現配の行ぼに白る吋らざる筈なり。左れば。入道可な. るか故に物の俘かにするあるカ. が帽きは人間μの沙汰にこそあれ、開る弔碩を以て大.Lを測るは未だ凡人機関の人を翔らざるものなり﹂と。 入尨犬に吋々り・とは、要するに円然が人間や万物の物理的生存を可能にさせるような囚吸障を支配している というご昧にすぎ々いー宇宙の内部にぴ況する道理にはきわめて懐疑的であり、大息による囚田べ応報は強く。ふ︰定 されている、. ︲ぺ心に仁和仁はあり阿︰ず、ひっきょうそれは人間の無知日不徳のいたすところである。﹁yれば今日の. 隔沢は目映一を悦規範化させたが、少なくともここでは進比論とは違って、大洲の肝に界に規範の作況を認めた。 戊t・.’1’j7= Q︲︲ ︲‘S. ハ︰々は問問匍々の此地球に生れ、八洲悍は栢も熊智不他の梁窟にして万嘔低の如くならずと雖も、げ不如意は瓦 硲に非才人の罪々り▽福沢は臼然を悦規程化するバベ笠︰悪を貨く人の酉汪へと帰属させることによって、白 茫と人問とヤ。足偏向匪⋮侈を成yさせかこ価値は純然たる人の頷城の問題となったのである。 しかし、さらに汗び才べきことは、進化論とは追って人の領域の申に価値が残されたというだけでなく、価値 い⋮⋮い帽として持ら出されてきたちのが人の自然性にとどまらず、とりわけ構想・消遣能︲刀としての人の理性であ √こという’乙子ある.采...話..犬旧人に可なりI、第四話﹁前途の望へ弟一門話﹁ヤ心︰を想像して之に達せん ’てこ今勉≒ニ、采六...ぶ﹁空想に実旨の原素なり 等・の巾で、福沢は文明の進歩とは人の想像力・空想︲句の内に. 卜ることを力強く説いた、ヤに第。四話Tヤ笠︰を想像して之に達せんことを勉む﹁の二即を引子っ。 入四四の想像は限りなくして宇に目の区域はμだ侠し。︵中略︶既に有形の物に於て然りとすれば、無形の道徳 に皆てち亦然らさるを吋ず n︰を£︰とし包を悪とするの心は人々に俘する所なれども、吽入力皆愚に従で尨︰ 悪のが像に深浅あるは免かる吋らず、作目能面県なる匹夫匹婦は眼前に見易きものを以て直に尨︰と悪とを個所 し、小犬を沢とし小包を悪として区域の侠きのみならず、μだしきは枕個所を誤ることさへなきに非ざれど. し. ︲9で、亦. されているのではなく、なか. jl−−−︱ −. 行ぼなり。之を約言すれば空理実践の帽ひ連続せるものなり。旧説を変じて所説に侈るの謂なり。注目は。。︰ ふ円くして阿ふ可らず≒ムひし空即ち、終に汀ふ吋く行ふ吋きの説となり、尚叉進で空理を実践し、実践 ては空理に侈り、ヅ即に降りては実践する、足れ之を・。又明の進捗と弥するなり。 副沁や片を表す概念として伝統的な即といラ。口個が池田されている。しかし、﹁空理として討われ出す・と述. 陥翁百託. こ心打︰には価値としての文明という田心想がなおいきいきと八明されている。. は、明治︱九 l.&.sl. 満州ご削造能万としての・知性という吟えぢが︰服らよく出ているのは 厄翁百話。である。この 一周回回目. 々認識能力にとどまらず、価値そのものを次ヤに構想していく能勺となっているのである。. ハずく、人間の観念の力が生み出して いくむのであった。そして、及の理性は、 践と思考の反庵治㈹を通す中 で、文明の価値を次第に降雨・定収させていく。従って、ここで。。︰われる人の知性は、内然渋理論におけるよう. れているように、見開は内然の内兜や入問の俘改作の巾に最陶から淵源し刻 印. 実. 。弟六話のの︲1謝巴の.念茫超L可きやがや一に、ごう.﹁.入道拉し人に可ならずして物に不適当ならんには. ー − 力. かし 波. に. − の は. “6. I. ぃ. T-`ヽ、. 匙. 財i'i・・カ軸,lrタ. tl,!,Iは!!. 明 3. L 此. = ■ ■ ■ ■ ■ ・ - ・ ・・ - ■ = -.

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