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Nihon toshi shakaigaku no keisei katei ni kansuru shakai chosashiteki kenkyu (yoyaku)

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(1)博士学位論文要約. 日本都市社会学. 形成過程. 関. 社会調査史的研究. 松尾浩一郎. 本論文は日本都市社会学という学問領域がいかに形成されていったのかを社会調査史研究 の視点から明らかにしようとするものである。目次構成は以下の通りである。 はじめに——本論文の構成 第1章. 学問形成過程からの再発見——視角と方法. 第1節. 近代社会の自己認識——都市研究と社会調査. 第2節. 日本都市社会学という問題. 第3節. 社会調査史の視点. 第4節. 学問の形成と再構築. 第2章. 日本都市社会学以前の都市社会調査——異質性への視点とその限界. 第1節. 欧米の都市研究と都市社会調査. 第2節. 近代日本の都市化と都市社会調査. 第3節. 社会調査と都市研究の組織化. 第4節. 小括. 第3章. 黎明期の日本都市社会学とその周辺——アカデミズムと社会調査の接点. 第1節. 社会学界の動向と都市研究. 第2節. 農村研究と社会調査. 第3節. 隣接領域での都市研究. 第4節. 最初期の都市社会学. 第5節. 小括. —1 —.

(2) 第4章. 社会的実験室としての東京——奥井復太郎の都市研究とその時代. 第1節. 奥井復太郎と東京. 第2節. 生活史と東京体験. 第3節. 大都市の境界——奥井都市社会学の形成と東京. 第4節. 都会人とは誰か——戦後奥井都市論への展開. 第5節. 変貌する東京と未来への夢. 第5章. 都市社会調査の戦前と戦後——奥井復太郎と近江哲男の鎌倉調査. 第1節. 社会調査と都市社会学研究の論理. 第2節. 社会調査と都市社会学の戦後への展開. 第3節. 奥井復太郎の鎌倉町調査. 第4節. 近江哲男の鎌倉市調査. 第5節. おわりに——発見の論理と方法のジ㆑ンマ. 第6章. 戦後の都市研究と総合調査——社会調査ブームと日本都市学会. 第1節. 戦後被占領期における社会調査. 第2節. 社会調査ブームのなかの都市調査. 第3節. 都市化の時代と日本都市学会. 第4節. 日本都市学会の調査活動. 第5節. 考察——総合調査の挫折. 第7章. 調査プログラムとしての人間生態学——磯村英一・矢崎武夫・鈴木栄太郎に. よる再解釈 第1節. シカゴ学派都市社会学と戦後日本. 第2節. 磯村英一と人間生態学. 第3節. 矢崎武夫と人間生態学. 第4節. 鈴木栄太郎と人間生態学. 第5節. 日本都市社会学への分水嶺. 第8章. 日本都市社会学の形成過程と市民——被調査者へのまなざしの転回とともに. 第1節. アーバニズム論への接近. —2 —.

(3) 第2節. 調査者と市民——都市社会学の原体験. 第3節. 日本都市社会学の 1959 年革命. 第4節. 市民意識研究としての都市社会学. 第5節. 考察——日本都市社会学の射程. 第9章. ありえたかもしれない都市社会学——湯崎稔の爆心地復元調査. 第1節. 1960 年代以降の日本都市社会学. 第2節. 社会踏査の系譜と湯崎稔. 第3節. 地図上にまちを復元する——調査者としての市民. 第4節. 爆心地復元調査の拡大と挫折. 第5節. 考察——社会踏査の可能性. 第 10 章. 日本都市社会学の確立とその後——市民・社会調査・ポジティビズムの変容. 第1節. 社会調査と学問形成. 第2節. 日本都市社会学は何をなしたのか. 第3節. さまざまなポジティビズム. 第4節. 展望と課題. 補論 1 「見る社会調査」の源流——フォトジャーナリズムと都市社会調査 第1節. はじめに. 第2節. 視覚的経験と社会を撮影する行為. 第3節. フォトジャーナリズムが見た都市社会と人間. 第4節. 月島調査が見た都市社会と人間. 第5節. 考察. 補論 2. 統合機関説と戦後日本の都市社会学の展開——シカゴから東京へ. 第1節. はじめに——都市社会学における戦前と戦後. 第2節. 統合機関説の理論構成. 第3節. 理論の源流. 第4節. 昭和 30 年代の都市問題と都市社会学. 第5節. おわりに. —3 —.

(4) 都市社会学はいわゆるシカゴ学派の研究から誕生し,長らくシカゴ学派の影響を強く 受けながら展開することで成り立ってきた学問である。日本における都市社会学研究に おいてもシカゴ学派の存在は欠くことのできないものとなってきた。しかし日本で都市 社会学が本格的に盛んになる 1960 年以降の諸研究をみると,実際にはシカゴ学派をは じめとする海外の都市社会学からはかなり独立した,独自の都市社会学が立ち上がって いることがわかる。これを日本都市社会学と呼ぶならば,それはなぜどのように形成さ れたのだろうか。 日本都市社会学の形成過程においてはさまざまな形で社会調査が大きな役割を果たし てきた。狭くシカゴ学派のみに限らず 19 世紀から数多く行われてきた都市社会調査の 伝統の上に日本都市社会学は形成されており,また,海外から輸入した理論に頼りきら ず,経験的研究を重視しそれに立脚した学問形成を志向してきた。そのなかでは,社会 調査の方法論の発展やその実践のあり方の変化に応じて,学問としての姿や性格にも大 きな影響が及ぶということも生じていた。社会調査史や社会調査論の視点なしに日本都 市社会学の成り立ちと性格を理解することは難しい。 とくに日本都市社会学の収斂と制度化が進む 1960 年頃までは,都市社会学をめぐる 社会調査活動は多様な立場から多様なかたちで行われていた。このような都市社会調査 の多様性は,さまざまな形の都市社会学がありうることを予期させるものであった。実 際に,こうした多様性と混沌のなかで,日本都市社会学の形成にいたるまでの歩みは紆 余曲折の道となっていた。近代大都市の発達とそれに伴って生まれた都市問題への対処, アメリカ都市社会学の受容と再解釈,アカデミズム内外での調査研究の併存と交錯,空 間的把握の退潮と意識調査の台頭,異文化探訪型調査から自己認識型調査への転換,学 際的な総合調査の試み,標準化調査法の導入,推測統計学の応用など。こうしたさまざ まな出来事や岐路をどのように経ることで,いかにして今日に連なる形の日本都市社会 学が形成されるに至ったのだろうか。 本論文では,従来の学説史では等閑視されてきたさまざまな調査活動にも眼を向けな がら,学問形成過程を解きほぐしその意味について考察する。日本都市社会学に至る試 行錯誤や大きな勢力を形成しえなかった系譜を把握するのに資する象徴的な調査活動と それを行った研究者・組織を事例としてとりあげ,それらの調査過程や,失敗をも含め た調査研究者たちの経験を追うことを軸として所期の目的にアプローチしていく。 直接の対象とする時期はおおむね 19 世紀末から 1960 年代末であり,なかでも 1930 年代後半から 1960 年前後に焦点をあわせる。各章ごとの概略は以下の通りである。. —4 —.

(5) 第1章. 学問形成過程からの再発見. 第 1 章は本論文の対象・視角・方法を定め,これから議論すべき問題の所在を確認 するための章である。 第 1 節と第 2 節では,日本都市社会学の形成過程を主題として取り上げる意義につ いて論じる。20 世紀前半を中心とする都市化の時代にあって,都市は社会学にとって の内なるフロンティアであった。社会学がこの内なるフロンティアにどのように向き合 い,どのように都市社会学が形成されていったのかを検証することは,社会学が眼前の 社会といかに関わりうるかを問い直すためにも重要である。しかし日本都市社会学に関 する従来の学説史的理解では,シカゴ学派の受容というストーリーを重視する一方で, それとは別の源流,とくにアカデミア以外も含めた多様な主体によって行われていた都 市社会調査に連なる系譜は,不十分にしか評価されないままでいた。日本都市社会学は こうした諸々の調査活動や社会調査方法論の発展などを背景として形成されていったと いう側面も持っている。これらを受けて本論文が目指すべきことは,実証研究の積み重 ねから一学問分野が形成されていく過程を跡づけ,それを通じて社会学がフロンティア に関わるための知恵,つまりポジティビズムのあり方を再検討することである。 以上ような目標を設定した場合,本論文で採るべきアプローチは社会調査史研究とい う方法である。第 3 節と第 4 節では,これまで内外で進められてきた社会調査史の先 行研究を概観し,そのなかにいくつかの異なる流れがあることを示す。それをふまえた 上で,調査過程論として社会調査史研究を展開していくという方向性こそが,社会調査 史という視点の独自性と意義をもっともよく発揮できる可能性があると主張する。本論 文でも調査過程論の立場をとることとし,日本都市社会学の形成に寄与した象徴的な 個々の調査事例を精査していく。また,そうすることを通じて,調査者の視座構造の転 換や調査方法の変化が学問形成に及ぼした影響や,調査活動の土台をなした経験主義の 思想が学問研究の根幹の次元にかかわるポジティビズムのあり方に影響を及ぼしていっ たさまを見いだすという,本論文全体を通じてのライトモチーフを提示する。 第2章. 日本都市社会学以前の都市社会調査. 第 2 章とつづく第 3 章は,日本都市社会学の前史・背景となるさまざまな都市社会 調査や,関連諸学界での議論の系譜について論じる章である。第 2 章「日本都市社会 学以前の都市社会調査——異質性への視点とその限界」では,19 世紀から 20 世紀初頭 にかけて行われた最初期の都市社会調査の歴史的展開を記述する。検討対象となるのは,. —5 —.

(6) ジャーナリストらによる原初的な調査活動をはじめ,内務省や東京市社会局などの行政 による調査活動,東京帝大セツルメント,協調会,大原社会問題研究所,東京市政調査 会などの民間の組織が担った調査活動などである。 これらの調査を支えるものが社会踏査と呼ばれる調査方法論であること,そこでは主 として異質性認識を念頭においた調査が行われていること,このような視点と方法に限 界が訪れていくことを論じる。また,都市社会調査の担い手の多くがアカデミズムと距 離のある存在であったことが,諸調査の成果を有機的に結びつける議論へと発展するこ とを遅らせる一因になっていることを指摘する。 第3章. 黎明期の日本都市社会学とその周辺. 第 3 章「黎明期の日本都市社会学とその周辺——アカデミズムと社会調査の接点」は, 前章に引き続き日本都市社会学の形成に至る背景について論じる章である。とくにアカ デミズムが都市研究に関わるようになる経緯に着目し,社会学界が都市研究に接近する 背景に,農村調査の経験や周辺諸領域の動向,さらには海外の社会学界からの影響が見 られることを論じる。 ここで主な検討対象となるのは,社会学界の主流を占める講壇社会学と周辺的地位に 置かれている経験的社会学の関係,柳田國男の民俗学とその影響を受けている農村社会 学の動向,都市地理学の動向,諸学問の交流をめざした都市学会の活動などである。ま た,こうした隣接領域からの刺激を受けつつ都市の社会学的研究にいちはやく取り組み 始めた米林富男,新明正道,奥井復太郎の都市社会学構想についても検討する。前章と 本章で論じた 1930 年代までの時点では,いまだ日本の都市社会学は誕生に至る前の段 階にあるといえるが,そのなかで日本都市社会学の形成過程の出発点となるのは,東京 大都市圏を舞台に数々の独自の調査活動を行った奥井復太郎であると位置づける。 第4章. 社会的実験室としての東京. 第 4 章「社会的実験室としての東京——奥井復太郎の都市研究とその時代」は,日 本における都市社会学の祖と位置づけられる奥井復太郎の人と学問について論じる章で ある。奥井の研究は既存の学説をなぞるものではなく,独自の社会調査を数多く行い, それに根拠づけられたユニークな学問体系を構想するものである。なぜ奥井はこのよう なパイオニアとしての仕事を成し遂げることができたのか。本章では調査者・研究者と しての奥井の生涯を跡づけ,それを背後から規定したものが彼の一生活者としての都市. —6 —.

(7) 体験であることを示す。都市化の時代の先頭を走る先鋭的な都市生活者であった奥井だ からこそ,近代都市という未踏のフロンティアに対して,社会調査という経験的な手法 を用いて探索的に挑むことができた。また,同じように個人的な都市体験のなかから生 まれた問題意識を育てることで, 「市民」の学として都市社会学を展開させる方向性を 示すことができた。これらのことをふまえて奥井が日本都市社会学の離陸を促す重要な 役割を果たしたのだと論じる。 第5章. 都市社会調査の戦前と戦後. 第 5 章「都市社会調査の戦前と戦後——奥井復太郎と近江哲男の鎌倉調査」では,戦 前期に奥井が先鞭をつけた都市の社会学的調査研究が戦後へとどうつながり,また,日 本都市社会学の形成過程のなかでどう断絶していったのかを,とくに調査方法論や調査 実践のあり方の変容に注目して探究する。検討対象とするのは奥井が 1930 年代に行っ た鎌倉町調査と近江哲男が 1950 年代に行った鎌倉市調査である。 近江は日本都市社会学の黎明期に大きな影響力を及ぼした研究者のひとりである。戦 前戦後の都市社会学研究の中心にいた二人が奇しくも鎌倉という同じ地域社会を舞台に して行ったふたつの社会調査活動を比較すると,戦前以来の黎明期の混沌の中から何を 取捨選択して日本都市社会学が形成されていったのかがわかる。なかでもよって立つ認 識論・方法論の変化や調査技法の精緻化は,研究活動を促進し多くの成果を生み出すこ とに大きく寄与した。日本都市社会学は戦後における社会調査の発展に負うかたちでそ の形成過程を加速させていったのである。 しかし,推測統計学の論理をその根幹に導入していった戦後の社会調査は,都市とい う地域社会を具体的な空間的広がりとして把握するための方法としては,必ずしも適合 しているとはいえない面も持っている。この方法上の制約は,日本都市社会学の学問的 性格を枠づけることにもなったと論じる。 第6章. 戦後の都市研究と総合調査. 第 6 章と第 7 章は,社会調査と都市研究が急速に進展する 1950 年代に,その後の日 本都市社会学とは異なる姿の多様な都市社会学の萌芽があったことを明らかにした上で, その中からひとつの系譜が勢力を固めていき,新しい学問分野の形成へとつなげていっ たことを論じる章である。 第 6 章「戦後の都市研究と総合調査——社会調査ブームと日本都市学会」では,戦. —7 —.

(8) 後の社会調査ブームの時期におこったさまざまな出来事のなかで,推測統計学にもとづ いたサーベイ調査の導入と,学際的でかつ政策志向を持った総合調査の流行が,日本都 市社会学への道を用意するのに大きく影響したことを論じる。 検討の対象とするのはこうした動向の中心にいた日本都市学会の調査活動である。日 本都市学会は戦後社会調査の勃興期である 1953 年に活動を始め,日本都市社会学がい まだ明確な形を確立していなかった 1950 年代後半に活発に多くの都市社会調査を実施 する。それまでの都市研究は,都市という巨大な対象に取り組むことの困難に直面して いたが,日本都市学会の調査活動は,サーベイ調査という方法を用いることで,こうし た困難を克服する道を切り開いていく。しかし,調査の規模を拡大することには一定の 成功をするものの,複雑な都市現象をすべて視野に入れた総合的な議論を展開すること には失敗している。こうした日本都市学会の経験,とくに総合的な議論の失敗という経 験は,反面教師としての役割を果たすという形で,逆説的に日本都市社会学の進むべき 方向性を規定することになっている。 第7章. 調査プログラムとしての人間生態学. 第 7 章「調査プログラムとしての人間生態学——磯村英一・矢崎武夫・鈴木栄太郎 による再解釈」では,日本都市社会学の形成過程の初期において大きな影響力をふるっ た人間生態学がどのように受容されていったのかを,とくに社会調査活動との関係に着 目して論じる。 シカゴ学派は日本都市社会学の重要な基盤となっているが,1960 年代以降はなかで もアーバニズム論の理論枠組をめぐる議論が展開しているのに対し,1950 年代はもっ ぱら人間生態学に関心が注がれている。本章で検討の対象とするのは,その主な担い手 となった磯村英一,矢崎武夫,鈴木栄太郎である。彼らによる人間生態学の使われ方は 多様であり,基礎的な理論枠組として見なすものから調査のプログラムとして使うもの まである。人間生態学はがんらい独立した理論体系の構築を目指す志向を持っていたが, 日本ではそのような側面よりむしろ,経験的調査の際にデータを解釈するための背後仮 説として活用されている。このような取り組み方をした代表例は磯村英一であり,彼の 人間生態学は自身の調査活動の次元に適合するよう自由にア㆑ンジされている。しかし 人間生態学の論理を深く突き詰めていくと,現実的には経験的調査研究の次元と相容れ ない要素が多々存在している。人間生態学に基づきつつ経験的調査を重ねて都市社会学 という新しい学問体系を構築するというのは,追求すればするほど困難や障害に直面す. —8 —.

(9) る課題であるといえる。そのためにこの方向性は当時期待されたほどの発展を見せない まま限界を迎えたのだと論じる。 第8章. 日本都市社会学の形成過程と市民. 第 8 章「日本都市社会学の形成過程と市民——被調査者へのまなざしの転回とともに」 は,日本都市社会学が明確な形を確立するに至る 1959 年以降の大きな変容を跡づけ, その経緯や背景を解き明かすことを試みる章である。 ここで鍵となるのは標準化されたサーベイ調査の導入,調査者-被調査者関係の転回, 市民という論点への接近といったできごとである。とくに日本都市社会学の確立に直接 的に大きく寄与したのは,アーバニズム論と標準化調査法に依拠した倉沢進の市民意識 アプローチである。市民意識アプローチは都市社会学研究の生産力を飛躍的に高めるこ とを可能にし,同時にそれが従前のさまざまな都市社会学的な営みを古いものとしてい くことになっている。倉沢のアプローチやそれに派生する研究は高い完成度を誇るもの であり,日本都市社会学が「市民意識と市民的連帯の学」 「市民の学」として世に受け 容れられることに大きな役割を果たしている。また,その後学問の制度化がさらに進む 過程では,ディシプリンとしてより純化されていってもいる。しかしそれは,地理的秩 序という「面」への関心を後景に退けるものであり,また都市研究の原点でもあった社 会踏査のような調査研究方法を捨てていることにも象徴されるように,対象・視点・方 法を大胆に,ときには過剰に絞り込むものである。その結果として,こうした学問とし ての確立と引き換えるように,都市の社会学としてのさまざまな展開可能性が狭められ ることになったと論じる。 第9章. ありえたかもしれない都市社会学. 日本都市社会学というパラダイムの確立は,都市社会学的研究をさらに活発化させる 起爆剤となる。しかし同時に,都市社会へのアプローチのあり方を狭く制限させること にもなっている。それを合わせ鏡のように示す象徴的な一事例として,第 9 章「あり えたかもしれない都市社会学——湯崎稔の爆心地復元調査」においては,日本都市社会 学とは遠い場所で都市社会学的な価値ある調査研究を行った湯崎稔の業績を検討する。 湯崎は 1960 年代なかばより,原爆被災を受け平和記念公園に整備された広島の爆心 地を対象として,被爆まで存在していたコミュニティを復元することを目指した調査研 究に取り組んでいる。そのなかで彼は集団参与評価法という独自の調査方法を考案し実. —9 —.

(10) 践している。集団参与評価法とは,市民を客体的な被調査者と位置づけず一種の共同調 査者とする方法である。それまでの多くの都市社会調査が内なるフロンティアである都 市と都市市民を研究対象として位置づけることに困難を抱えていたなかで,集団参与評 価法は従来にない都市市民の捉え方を可能にする自己認識型の調査の視座を持っている。 また,多くの当事者や関係者を巻き込みながら調査対象地のすべてを調べ上げようとす ることで,都市の地域社会を「面」で捉えることに成功している。このように湯崎の調 査活動と集団参与評価法という調査方法論は,伝統的な社会踏査の系譜を引き継ぎつつ,. 1960 年代の時点で都市社会学が満たしていなかった問題に鋭く切り込む可能性を持つ ものであるといえる。 日本都市社会学が地理空間的な要素を急速に捨象するなどの変化の渦中にあったなか で行われた湯崎の調査研究は,都市社会学研究と位置づけられることもなく,また,都 市社会学に影響を残すこともなかった。その後の日本都市社会学の展開のなかでも,こ のようなアプローチからの研究が試みられることはほとんどなかった。しかし,湯崎が 独自に成し遂げた成果は,方法の面でも内容の面でも,異なる形の都市社会学が可能で あったことを示す証左となるものであるといえる。 第 10 章. 日本都市社会学の確立とその後. 第 10 章「日本都市社会学の確立とその後——市民・社会調査・ポジティビズムの変容」 は,結論として,社会調査と学問形成の関係について論じ,日本都市社会学が何をなし たのかについて考察する章である。 日本都市社会学は社会調査と市民意識アプローチを武器に「市民意識と市民的連帯の 学」「市民の学」として成立し地歩を固めていった。とくに経験的調査に足場をおいて 市民を論じたことは,他のさまざまな分野に対して日本都市社会学がそのプ㆑ゼンスを 示す根拠となった。社会調査史の観点からみると,社会踏査からサーベイ調査への移行 に深く関わったことで学の体系を整えていったことも,日本都市社会学のとくに注目す べき点であった。古典的な社会調査は異文化探訪型の視点を基本としていたが,現代の 都市社会を対象とした場合,そのような視点からの調査では技術的にも実質的にも問題 が大きく,自己認識型の視点にもとづいた調査へと転換していく必要があった。また, そうした視点の転換とも関連して,データ収集の現場よりもデータ分析を重視する「見 えないものを見る調査」がより一層求められるようになった。こうした課題に対応する ように調査研究方法が模索され,それに適合するような学問体系が築き上げられていっ. — 10 —.

(11) た。このような社会踏査からサーベイ調査への移行や,データ収集に対するデータ分析 の優位は,日本都市社会学の飛躍を下支えする基盤となったが,それは調査研究のスタ イルを限定し固定させていく軛ともなった。都市社会学の主要な原点である社会踏査に 見られたような積極主義としてのポジティビズムは次第に後景に退き,経験主義という 面のみが前景に現われ出る趨勢も見出せた。日本都市社会学の形成過程とその後の趨勢 には,学問と社会との関わり方の変化にも伴って,社会学研究の重要な根幹をなしてい るポジティビズムが変質し,そのひとつの結果として学問形成の方向性が規定されて いったことを認めることができる。 補論 1 「見る社会調査」の源流 補論 1「『見る社会調査』の源流——フォトジャーナリズムと都市社会調査」では, 方法史の視点から都市社会調査史の一側面について論じる。初期の都市社会調査を特徴 づける積極的な写真利用に注目して,都市社会のビジュアルリサーチにどのような可能 性があるのかを探究する。事例として取り上げるのは世紀転換期アメリカにおけるフォ トジャーナリズムや社会学界周辺でのビジュアルリサーチ,20 世紀初頭の日本におけ る月島調査である。写真を介した調査者と被調査者の関わり方の特性を検討した上で, ビジュアルリサーチが都市社会調査に有効であること,それが都市社会学の制度化過程 のなかで排除されていったこと,今もなおビジュアルデータに一定の信頼性や妥当性を 認めることができることを論じる。 補論 2. 統合機関説と戦後日本の都市社会学の展開. 補論 2「統合機関説と戦後日本の都市社会学の展開——シカゴから東京へ」では,社 会調査史の視点からは離れて,学説史の視点から日本都市社会学の形成過程の一面を論 じる。題材とするのは矢崎武夫の統合機関説である。統合機関説はシカゴ大学で正統的 な人間生態学を学んだ矢崎によって生み出されたものであったにもかかわらず,日本都 市社会学における一般的なシカゴ学派理解とは全く異なり,時間的にも空間的にも壮大 な視野を持った議論へと展開していく。しかし統合機関説は単なる異端ではなく,むし ろその議論のなかにはシカゴ学派の本質を継承する部分も少なからず含んでいる。統合 機関説と日本都市社会学の間には大きな距離があるが,両者がともに強く意識していた シカゴ学派との関係に着目していくと,統合機関説の存在は日本都市社会学の性格を逆 照射するための重要な基準点として再評価することができる。. — 11 —.

(12) 本論文を通じて議論したことは,今日の日本都市社会学が直接参照したり継承するこ とのなかった研究の系譜や都市社会調査の事例のなかに,少なからぬさまざまな都市社 会学(とその萌芽)がかつて存在しており,それらが過去の歴史のなかに埋もれていっ たのは学問形成過程の微妙な岐路での軽微な差の帰結にすぎないものであったというこ とである。そしてこうした岐路での運命を左右したのは,都市社会の状況であるとか, 都市社会学研究者のあいだでの議論の展開だけでなく,その時点での社会調査活動をめ ぐる諸状況や社会調査方法論の変容といった,社会調査史のうねりとでもいうべき要素 が強く影響を及ぼしていた。本論文で取り上げてきたように,都市社会学史,都市社会 調査史のなかには,さまざまな「ありえたかもしれない都市社会学」を見いだすことが できる。それらがそのままの形で現在に力を発揮できるものではないとしても,拡散へ と向かっている今日の都市社会学を改めてより豊かなものにしていくための資源として, 今もなお参照し問い直し活用すべき価値がある。. — 12 —.

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