一、黄表紙とは (1) 』にまとめられており、本作はその基 安 永 四 年 刊 行 の『 金 々 先 生 栄 花 夢 』( 恋 川 春 町 作 ) は、 の黒本・青本とは一線を画した内容であり、これ以降草双紙の作風 が一変した。そして、これを嚆矢として黄表紙時代の到来とすると いうのが通説となっていることは周知の如くである。 黄表紙を語る際にしばしば用いられるのが、 〈うがち〉 〈むだ〉 落〉 〈滑稽〉 〈諧謔〉 〈荒唐無稽〉 などといった用語であり、 「『 金 々 先 生 栄 花 夢 』 以 来、 そ れ ま で の 草 双 紙 か ら 飛 躍 し、 代の時事雑話に取材し、あるいは非現実的な構想をもって、当時の 洒落本と接近したうがちと茶化しに終始し、機知に富んだ軽妙洒脱 な 笑 い を 提 供 す べ く 大 人 向 け の 大 衆 文 芸 に 成 長 し た 」( 本 頁)ものであると述べている。つまり、荒唐無稽かつ非現実的な世 界を作り上げることによって、現実世界を茶化すというのが黄表紙
(一九九七年)
( 1997 ) SUZUKI 本稿は、 棚橋正博氏の著書 『黄表紙の研究』 (若草書房、 一九九七年、 四一四頁、 ISBN4-948755-11-7 ) の書評である。 黄表紙とは、 『黄表紙総覧』の著者でもあり、の常套手段なのであった。社会情勢や流行などを取り込む当意即妙 こ そ が 求 め ら れ る 要 素 で あ り、 「 大 体 に お い て 思 い 付 き の 趣 向 そ の も の が 生 命 で、 そ れ に 即 興 の ア イ デ ア を 盛 り 込 ん だ 代 物 」( 本 書 三四九頁)とも表されている。 と こ ろ が、 現 代 の 我 々 に と っ て み れ ば、 「 思 い 付 き 」 や「 即 興 」 という要素こそが、テキストの解釈を困難たらしめているとも謂え るのである。黄表紙作品の注釈書等は少なくない。が、未だに等閑 に付された作品も多々みられることの一因は、この点にあるのだろ う。 本書では、そのような「思い付き」や「即興のアイデア」によっ て構築された世界を、原資料に基づいた丁寧な分析によって解き明 か し て ゆ く。 本 書 は、 『 黄 表 紙 総 覧 』 と い う 精 緻 な 書 誌 調 査 を 踏 ま えた基礎研究の上に立ち、さらに新知見を加えたものであった。 また、黄表紙研究においては、内容の変化についても多く論じら れてきた。黄表紙は、前述した特色を全期通じて保持していたわけ ではなく、寛政の改革以降、教訓を絵によって分かり易く示すとい う内容の作で占められていくようになる。寛政改革は、武士作者か ら町人作者への移行の契機ともなった。さらにその後、敵討ものの 流行によって長編化したことで、二~三冊を合冊するという形態が 生まれた。これにより、草双紙は合巻という形態に移行していった のである。 黄表紙が刊行されたのは僅か三十年余りの間であり、個々の作品 は十五丁の瑣末なものに過ぎない。しかしながらその変遷の中に、 近世期を通じての戯作の在り方を考える上で、重要な局面を含んで いることは言うを俟たない。むろん本書に収載された論考も個々の 作品や作家の問題には留まらず、個々の作品分析の蓄積である膨大 なデータを、より広くかつ多様な観点へ敷衍させることで、黄表紙 史ひいては草双紙・戯作史全体を俯瞰することが試まれているので ある。 二、本書の構成と内容 本書の構成は以下のようになっている。 (一)山東京伝処女作考 (二 ) 山東京伝の黄表紙 『鐘は上野哉』 考―その成立と刊年につ いて― (三 )寛政元年板黄表紙雑考―『鸚鵡返文武二道』 『天下一面鏡 梅鉢』 『黒白水鏡』 『孔子縞于時藍染』をめぐって― (四)寛政改革と山東京伝 (五)黄表紙集『絵本東土産』について (六 ) 森島中良と初代坂東善次―築地善交と中良 ・ 京伝の確執を めぐって― (七)再説 森島中良と初代坂東善次 (八)歌舞伎俳優追善黄表紙序説―『 盆 踊 籬の菊』など― これら八つの論考は、山東京伝の黄表紙、寛政改革前後の黄表紙 および出板状況、黄表紙の再板、築地善交という作者と作品、歌舞 伎役者追善黄表紙について論じたものに大別される。各章について の内容を次にまとめてみたい。 冒頭「山東京伝処女作考」では、長いこと論じられてきた安永七
年刊行『開帳利益札遊合』が京伝の処女作であるか否かという点に ついて論じる。 まず本作が、 北尾政演が関与した初作であることを、 画 風 や 後 代 に お け る 記 述( 墓 碑 に 記 さ れ た「 自 十 九 始 稗 史 之 」、 文 化元年刊行の京伝作黄表紙『作者胎内十月図』における「おれもこ としで廿七ねんけさくをするから」など)を通じて確認する。その 上で、 作者 「者張堂少通辺人」 が京伝であるか否かを精査してゆく。 著者は、従来問題視されて来なかった「者張堂少通辺人」の訓み に着目し、天明元年刊行の黄表紙『白拍子富民静鼓音』にみられる 「 者 しや 張 ばり 」 の 用 例 か ら、 「 シ ャ バ リ ド ウ シ ョ ウ ツ ウ ヘ ン ジ ン 」 で あ る と確定する。加えて、 『開帳利益札遊合』は洒落本『咲分論』 (竹窓 作、安永年間刊)から趣向や文辞を借用しているが、このような方 法 は、 安 永 九 年 刊 行 の『 笑 語 於 臍 茶 』( 臍 下 辺 人 作、 北 尾 政 演 画。 棚橋氏は京伝作とする) にも見られることに触れる。 この作品は 『臍 隠 居 』( 手 島 墸 庵 作、 安 永 四 年 刊 ) を ほ ぼ 丸 取 り し た 作 品 で あ り、 明らかに作柄に由来する戯号である「臍下辺人」を使用し名を秘し たところに京伝の含羞があったと述べる。このような例を踏まえた 上 で「 者 張 堂 少 通 辺 人 」 は、 「 少 々 他 人 の 作 か ら( こ の 場 合 は『 咲 分 論 』) か ら 頂 く と こ ろ が あ っ た が、 黄 表 紙 作 者 の 一 人 と し て こ こ にシャシャリ出た少通辺人といった意味だろう」 (本書四一頁) とし、 『開帳利益札遊合』が京伝自画自作の処女作であったと結論付けて いる。 第 二 論 文「 山 東 京 伝 の 黄 表 紙『 鐘 は 上 野 哉 』 考 」 で は、 『 戯 作 外 題鑑』 ・『増補青本年表』にて天明三年刊行とされるが、その後の多 くの年表類にて看過されてきた『鐘は上野哉』の刊年について再検 討を加えている。天明二年刊行の京伝作『御存商売物』が大田南畝 による黄表紙評判記『岡目八目』において高く評価されたことは、 戯作者京伝としてその立場を変えていく上で大きな出来事であった とされる。しかし、翌天明三年の京伝自作の黄表紙は、 『客人女郎』 一作が確認されるのみであり、著者は高評価を得た翌年における活 動が沈静化していることは疑問であるとする。 つまり、 『鐘は上野哉』 が天明三年の刊行であるか否かは、この天明三年の活動状況に大き く関わる問題であり、慎重を期して再検討を加える所以はここにあ る。 著者は、安永・天明期の助六劇との関連、作者・画工の落款、板 元、内容に登場する人事、内容に見る遊興論という点に着目して考 証 を 行 っ た 上 で、 『 鐘 は 上 野 哉 』 の 刊 行 を 天 明 六 年 前 後 と ている。よって、天明三年の小休止然とした活動状況については、 依然として疑問が残されることには変わりないとするが、考察はこ こで終わらず、刊行を天明六年前後と想定することで浮かび上がっ てくる本作の意義についても言及する。 第三論文「寛政元年板黄表紙雑考」では、寛政改革の遺事に取材 した黄表紙である『鸚鵡返文武二道』 (恋川春町作、北尾政美画) 『天下一面鏡梅鉢』 (唐来参和作、栄松斎長喜画) ・『黒白水鏡』 部 琴 好 作、 北 尾 政 演 画 )・ 『 孔 子 縞 于 時 藍 染 』( 山 東 京 伝 作 して、改めてその成立、刊行経緯の検討を行う。いずれの作品も寛 政元年刊行と見做せることを確認した上で、この四作に相互に類似 する趣向のあることに着目する。その影響関係の分析から、従来の 説 と は 逆 に、 『 鸚 鵡 返 文 武 二 道 』・ 『 孔 子 縞 于 時 藍 染 』 の 趣 する形で『天下一面鏡梅鉢』が成立した可能性を提示する。 第四論文「寛政改革と山東京伝」は、寛政改革前後の京伝につい
て、板元蔦屋重三郎の戦略という観点から分析したものである。ま ず、 天明年間から寛政三年における蔦屋の新板広告 ・ 目録を概観し、 そこにおける京伝の位置付けの変化から、寛政三年に至っては京伝 を蔦屋の専属作家の如く待遇しようとしていたことを確認する。そ して、その背景に、寛政改革によって武士作者たちが退場したこと で、洒落本・黄表紙は京伝独歩という状況があったことを指摘して いる。このような状況が洒落本三作を「教訓読本」として刊行する という所業を引き出し、 結果として筆禍を蒙ることになるのである。 とはいえ、筆禍の累が旧版までに及ばないとなるや、蔦重は早速京 伝作の黄表紙・洒落本等を求板し再摺再板を行う。また、榎本屋よ り『心学早染草』 (寛政二年大和田安兵衛初板)を求板して再板し、 これを蔦屋板の続編『人間一生胸算用』 (寛政三年) 、三編『堪忍袋 緒 〆 善 玉 』( 寛 政 五 年 ) と 合 わ せ て 善 玉 悪 玉 シ リ ー ズ と し て 展 開 す るという企画も試みている。この考察により、蔦重という板元の戦 略に沿った形で存在した寛政改革前後の京伝の姿が浮かび上がって くるのである。 第五論文「黄表紙集『絵本東土産』について」では、享和元年か ら文化元年にかけて刊行された黄表紙集 『絵本東土産』 (全四編) と、 享 和 三 年 に こ れ と 同 体 裁 に て 刊 行 さ れ た『 絵 本 東 大 全 』( 初 編 ) を 取り上げる。前者の中心板元であった伊勢治(三編以降撤退)の消 長を辿り、これが伊勢治板黄表紙の板木の放出に伴う旧板再利用で あり、伊勢治の没落を契機となったことを指摘する。また後者も、 二代目蔦重が蔦屋の旧板再利用を図った作品集であるとする。いず れの場合も上方書肆と連携した出板であり、旧板の再利用という商 業 的 意 図 の 所 産 が、 結 果 と し て 江 戸 文 芸 の 地 方 伝 播 を 担 う こ と に なったと述べる。 第 六 論 文「 森 島 中 良 と 初 代 坂 東 善 次 」・ 第 七 論 文「 再 説 森 島 中 良 と 初 代 坂 東 善 次 」 で は、 曲 亭 馬 琴 の『 伊 波 伝 毛 乃 記 』『 近 世 物 之 本江戸作者部類』での記述に端を発す築地善交(好)=森島中良説 について検討を試みる。この問題については多くの論考が出され論 じられてきたが、いずれも結果的には定説を踏襲することで決着し ている。本論考では、この善交(好)=中良説に対して、諸資料を 用いた精緻な分析によって反証を加えていき、最終的に、築地善交 (好)が歌舞伎役者初代坂東善次であることを導き出す。善交(好) を善次とすることで明らかになる善交(好)作品の新たな解釈も提 示し、さらに馬琴の記述に疑義をはさむことで、従来論議されてき た中良と京伝との確執についても、その解釈に対する異議を提出し ている。 最後の「歌舞伎俳優追善黄表紙序説」では、安永・天明・寛政期 の歌舞伎役者追善黄表紙について整理し、考察を行う。追善黄表紙 の 先 蹤 は 安 永 二 年 頃 の 刊 行 と み ら れ る 二 代 目 瀬 川 菊 之 丞 の 追 善 作 『籬の菊』に求められ、以降この作品に用いられた型が継承されて いくことが指摘される。また、作者の柳川桂子にも焦点を当てる。 三、本書の成果と問題点 前 述 し た よ う に、 棚 橋 氏 の 黄 表 紙 研 究 の 成 果 と し て は、 『 黄 表 紙 総覧』 が備わる。 周知の如く、 これは現存する黄表紙作品を博捜し、 書誌事項や異板関係、問題点などについて記した大作であった。そ の『黄表紙総覧』における綿密かつ慎重を期した分析姿勢は、本書 においても見られる一貫した実証主義的な方法である。
本書所収の諸論考では、通説が定まらず揺れている論点、あるい は既に定説化している事柄について、あえて再度採り上げて検討が 加えられている。その結果、京伝の処女作、京伝作『鐘は上野哉』 の刊年、寛政元年刊行黄表紙の成立関係、築地善交(好)などに関 して、新たな説を提示している。 例えば既述した通り、 「山東京伝の黄表紙『鐘は上野哉』考」は、 天明三年における京伝の著作活動の沈静化への疑問に端を発し、通 説で天明三年刊とされてきた『鐘は上野哉』について再検討したも の で あ っ た。 結 果 と し て、 『 鐘 は 上 野 哉 』 は 天 明 六 年 前 後 の 刊 行 と 判断されるため、天明三年の活動状況を紐解く材料とはなっていな い。しかしここで終わらずに、著者は『鐘は上野哉』を天明六年前 後の刊行とした際に、京伝の著作活動においてどのような意義をも つのかという点についても考えを及ばせる。そして、 「『息子部屋』 以来、つまり天明五年頃を契機に、洒落本作者としての意識を強め て行く過程において、遊里そのものが題材となる助六劇に構想を求 めて黄表紙を創ろうとしたところに、この『鐘は上野哉』の成立が あ っ た 」( 本 書 六 七 頁 ) と 指 摘 す る の で あ る。 天 明 期 の 京 伝 作 黄 表 紙に洒落本的手法が採られていることは、先行研究において言及さ れてきたことであり、本論考はその様相の一端を知る上でも有意義 なものとなっている。 通説に対して批判的な眼差しを持ち、諸資料の分析に基づいた多 角的な観点から徹頭徹尾洗い出していく。著書が用いるのは文学研 究の王道とも謂える方法であるが、その緻密さによって大きな説得 力が与えられているのである。 また、本書の特色として、その論証過程が順を追って丁寧に記述 されている点が指摘出来る。 言い換えれば、 枝葉部分におけるまで、 その分析過程が惜しみなく示されているということである。そして そのような部分部分にも、重要であると思われる指摘が多分に含ま れている。 前項で掲げた各章の梗概からはもれてしまっているので、 以下に一例を挙げておきたい。 「山東京伝処女作考」 では、 『開帳利益札遊合』 が洒落本 から趣向や文辞を借用した作品であることを踏まえて、 「閑話休題」 として京伝作品における他作から文章・趣向を求めた例と自作を焼 き直した例とを列挙してみせている。これは京伝作品における構成 方法を検討する上で重要な資料となり得、改めて検討する余地があ ると思われる。 さて、それらの緻密な論証姿勢に加えて特筆すべきは、論じる範 囲の広さである。例えば「黄表紙集『絵本東土産』について」にお い て、 『 絵 本 東 土 産 』・ 『 絵 本 東 大 全 』 は 上 方 書 肆 と 連 携 し 再利用の所産であったが、結果として江戸文芸の地方伝播を担うこ とになったことが指摘されていた。が、さらに著者は以下のような 考察を加える。 こうした上方書肆の動向は、地方読者の開拓という新たな刺 激を江戸の草双紙板元に与えずにはおかなかったはずである。 それはまた黄表紙作者とても同様であったろう。それまでの江 戸の地に限定された読者層から、より広範に、地方読者へも黄 表紙の提供を意識した板元と、その板元の意向を受けて著作す る作者といった図式は、大衆文芸に課せられた宿命であり、こ うした情況は、江戸の作者に照準を合わせた遊戯的内容を急速
に退縮させて、仇討物という普遍的テーマへと、黄表紙の変遷 を一段と加速させたとも考えられる。 (本書一九一頁) つまり、合巻成立の要因の一つをここに見ているのである。この ように、黄表紙の流通・享受の問題に留まらず、草双紙の変容にま で展開させたことで、草双紙史に関わる大きな問題を孕んだ論考と なっているのである。 さらに、話は黄表紙論に留まらない。築地善交(好)=歌舞伎役 者 初 代 坂 東 善 次 で あ る と 考 証 し た 著 者 は、 「 再 説 森 島 中 良 と 初 代 坂 東 善 次 」 の 結 語 と し て、 「 そ ろ そ ろ『 作 者 部 類 』 に 寄 り か か っ て 発想の出発点とすることは曲り角に来ているのではないだろうか。 」 (本書三七一頁)と述べるのである。これも戯作研究全体に関わる 示唆に富んだ提言であったと思われる。 このような大枠に関わる問題が示される一方で、 本書を通じては、 黄表紙作品の読解の難しさについても改めて考えさせられる。享和 二年刊行の黄表紙『通 つ き じ の ぜ ん こ う き 気智銭光記』 (京伝作)は先行研究において、 善 交( 好 ) を 中 良 の 別 号 と 見 做 す こ と か ら 万 象 亭 の 別 号 利 用 で あ る (2) 、あるいはそれとは逆に内容において万象亭と何の関わりもない (3) などとされて来た。 しかし著者は、 善交 (好) =善次とすることで、 こ の 書 名 は 前 年 の 享 和 元 年 に 中 村 座 に て 初 代 善 次 が 彦 左 衛 門 を 襲 名・市村座にて息子桃太郎が二代目善次を襲名したという出来事を 当て込んだものであることを指摘している。 このような事例は、 「即 興のアイデア」を解き明かすことの困難さを物語っており、黄表紙 の注釈に際しては多角的な知識が要請されることが示されている。 綿密な論証からなる本書であるが、なお検討の余地が残されてい ると思われる箇所があるので指摘しておきたい。 著 者 は、 『 開 帳 利 益 札 遊 合 』 が 京 伝 自 画 自 作 の 処 女 作 で あ る と 指 摘する。が、これが自作であった場合とそうではない場合とでは、 京伝の戯作壇デビューという出来事の評価に何らかの違いが生じる の で あ ろ う か。 以 下、 『 開 帳 利 益 札 遊 合 』 が 自 画 自 作 で あ る と い う 立場に立って、この問題について少しく考えてみたい。 小 池 正 胤 氏 が 本 書 の 書 評 に て、 「 此 の 作 が 絵 師 と し て の 処 女 作 で あるならば、当然その腕を買われての執筆であろう。ならば絵柄に もそれまでと違った個性があるはずである (4) 」と述べている。この指 摘の通りむろん画風の検討も必要であろうが、むしろ北尾重政門下 の絵師である政演が自作 4 4 したという点の方が気掛かりである。 ここで、重政を師とする北尾派の当時の状況について確認してお く。同門の北尾政美は、安永九年に四作の黄表紙の挿絵でもって戯 作壇に登場した。同じく窪春満は、自作の黄表紙が安永八年にある が、作画の早い例は翌九年の『玉菊燈籠辨』で、これは春満の戯作 号南陀伽紫蘭の自画自作となっている。要するに、京伝の登場はこ の二人に先駆けたものであり、かつ二人とは異なり自画自作の初作 であったと言える。また京伝の処女作について論じるに際して看過 されて来たことであるが、師である北尾重政が黄表紙の挿絵を手掛 けるのは安永九年になってからのことであり、京伝の黄表紙への関 与は重政よりも早かったということになる。なお重政は、安永の中 頃から安永九年の間は、浮世絵・板本ともに僅かな数の作品しか残 していない。この寡作ぶりには何らかの理由があったものと窺え、 京 伝 の デ ビ ュ ー が こ の 間 に な さ れ て い る こ と は 注 目 す べ き で あ ろ う 。 既 述 し た 通 り 京 伝 は 北 尾 派 の 誰 よ り も 早 く 黄 表 紙 に 関 与 し て お
り、加えて、絵師であったのにも関わらず自画自作の機会が与えら れている。この点についての見解はまだ持ち合わせていないが、京 伝の処女作を論じる際には、北尾派の状況という観点も視野に入れ た検討が必要なのではないかということを提言しておきたい (5) 。また、 翌安永八年には自作はなく、次に自画自作の作品が刊行されるのは 安永九年になってからである点についても、今一度検討する余地が あると思われる。 処女作問題からは離れるが、京伝の初期の活動を考える際には、 小池氏の指摘する通り画風の分析も看過出来ない要素である。残念 な が ら、 『 山 東 京 傳 全 集 』 に は 他 作 者 の 挿 絵 を 担 当 し た 黄 表 紙 に つ いては収録されていない。しかし、京伝=政演である以上、それら の作品群の検討は欠かせないであろう。さらに板本のみならず、政 演としては浮世絵を制作していたことも念頭におく必要があると考 えられる。 最 後 に、 「 森 島 中 良 と 初 代 坂 東 善 次 」・ 「 再 説 森 島 中 良 と 初 代 坂 東善次」において触れられていた京伝と中良の絶交説について補足 を 加 え て お き た い。 こ の 説 は『 伊 波 伝 毛 乃 記 』『 作 者 部 類 』 の 記 述 に端を発し、その真偽についてしばしば議論がなされてきた。棚橋 氏は、馬琴の記述には脚色された部分があり、これを鵜呑みにする わ け に は い か な い と す る。 そ の 上 で 両 者 の 関 係 に つ い て、 「 寛 政 期 以降、以前程には京伝と中良の間には交流がなく、疎遠になってい ただろうことは想像に難くない。寛政改革を挟んだ時代がそうさせ たと云う側面も見逃せまい。しかしそれでも、以前と比較してのこ とであって、北尾政美や大小の会などを通じ、少しく交際はあった ものと考えられ」 (本書三六九頁)ると述べている。 この問題について近時、有澤知世氏によって以下のような報告が な さ れ て い る (6) 。 文 化 五 ・ 六 年 に 刊 行 さ れ た 京 伝 作 の 合 巻 挿 中良編の貼り込み帖である『惜字帖』の意匠を利用した例が見られ る。京伝が『惜字帖』を利用し得た事実から、天明七年以降も、両 者の間に直接的な交流がある時期が存在する可能性が高いのではな いか、と有澤氏は指摘しており、傾聴すべきである。 この報告は、 棚橋氏が主張する 『作者部類』 (及び 『伊波伝毛乃記』 への疑義を証明する一端となり、今後も引き続きこのような事例が 発見されることが期待される。 ( 1 )『 黄 表 紙 総 覧 』 前・ 中・ 後・ 索 引・ 図 録 編( 「 日 本 書 誌 学 大 系 ~ 48( 5) 、青裳堂書店、一九八六~二〇〇四年) (2)小池藤五郎『山東京伝の研究』 (岩波書店、一九三五年) (3)石上敏『万象亭森島中良の文事』 (翰林書房、一九九五年) ( 4 )「 書 評 棚 橋 正 博 著『 黄 表 紙 の 研 究 』」 (『 国 文 学 研 究 』 一 三 二、 年十月) ( 5 ) 当 時 の 浮 世 絵・ 戯 作 界 に お け る 北 尾 派 の 位 置 に つ い て は、 鈴 伝と絵画」 (『絵本と浮世絵』美術出版社、一九七九年)に詳しい。 (6) 絵入本ワークショップⅧ (二〇一五年十二月十三日、 於 実践女子大学) に お け る 口 頭 発 表「 山 東 京 伝 と 森 島 中 良 ― 京 伝 作 品 に お け る 異 国 かりに―」 (『絵入本ワークショップⅧ資料集』 、 実践女子大学文芸試料研究所、 二〇一五年)