が多く残っている明治時代の考え方や習慣が続いていた。封建的な社会は
儒教の考えを中心にして、法律や様々な社会のしきたりが作られた。その
ため、女性の教育は良妻賢母主義の教育であり、教育は家父長制の社会を
支えるためであった。1945年、第二次世界大戦が終わって、新しい日
本の法律や考え方ができた。女性の社会的地位や生活もそれまでとは大い
に変わった。アメリカの法律を参考にして作られた法律は男女平等社会を
実現するためだった。また、女性も参政権を持ち、自分の考えや希望を表
せるようになった。その結果、文学の社会にも大きな変化があって、女性
が書いた作品の課題も広がった。時代の流れとともに、テーマや作品の背
景が変わっていく。文学作品には時代の社会、経済、政治などの状況が作
家の考え方とともに表れている。
文学作品の中には社会状況や作家の考えだけでなく、人間の姿も現れ
ている。その中で女性の姿もよく描かれている。明治時代から現代に至る
まで女性に関する社会問題が多くあり、その形も少しずつ変化してきてい
る。そのため、文学作品に登場する女性像も様々である。様々な作品でそ
れぞれの女性像が描かれている。
この論文では明治時代の女性を扱った清水紫琴の「こわれ指輪」、
戦前の女性の状況を描いた網野菊の「憑きもの」、戦後の現代的な女性像
を描きながら女性や夫婦の問題を扱った大庭みな子の「山姥の微笑」、
リウム」の6作品を取り上げて考察し、女性の視点から見た日本社会につ
いても考えていきたい。
本論
本論
本論
本論
清水紫琴の「こわれ指輪」は明治時代の社会を背景にして書かれた作品
である。作品には、明治の女性の姿や心が描かれている。当時“女大学”
や“三従” のような儒教の考えに縛られ、女性の立場は非常に弱かった。
それに対して、「こわれ指輪」の主人公は様々な苦しみを乗り越えた後、
強くなった。また、主人公は自分の気持ちを表せるようになった。「こわ
れ指輪」には独立して、自分の運命を決められる女性の姿が描かれている。
主人公は恋愛結婚のイデオロギーを持っている女性だと考えられる。恋愛
結婚の結果として実現された家庭も、決して理想的な家庭であるとは限ら
ない。しかし、恋愛結婚は女性の社会的解放を意味していると考えられる。
主人公の見たことや体験した辛い結婚生活を通して、作者は当時の愛のな
い、親の決めた結婚の悲劇を訴えたかったのだと考えられる。また、儒教
のような男性中心の教えに反対する作者の考えも感じられる。作者は「こ
われ指輪」という作品で、当時の女性を啓蒙したかったのである。
“女大学”は女子の修身・斉家の心得を仮名分で記した書。封建道徳で一貫し、江戸時代 に女子一般の修身書としてでく用いられた。享保(1716-1736)年間刊。貝原 益軒の著と云えるが、じつは益軒の「和俗童子訓」の一部を書肆が益軒没後に改竄・刊 行したものである。
網野菊の「憑きもの」は第二次世界大戦後に書かれた作品である。
しかし、物語は日本の戦前の社会が舞台となっている。全体的に「憑きも
の」は戦前の不平等な社会における、女性の生活の暗い面を抉り出した話
である。特に、“姦通罪”に対する主人公の気持ちや考えがはっきり描か
れている。作品には、不平等な法律や社会のしきたりに縛られた妻として
の女性たちが描かれている。主人公のヒロ、ヒロの実母、ヒロの継母には、
戦前の社会の暗いところにいる女性の姿が現れている。戦前の日本社会は
まだ女性が解放されていなかった社会で、全く男性中心の社会だった。
教育における 男女差別もその一例である。また、法律も男性のために作
られたものだった。一方、戦後に占領軍司命官マッカーサーは五大改革を
要求し、日本の社会は大きく変化した。「憑きもの」は戦後から見た戦前
の日本社会の話である。そして、当時の状況に対する主人公の気持ちや考
えも話の中に描かれている。主人公は夫に離婚された戦前の男性中心 社
会の犠牲者である。この作品を通して、作者は、女性にとって、明治・大
正・昭和初期の社会の暗い面を、女性の視点から描いたのである。
佐多稲子の「夫婦」には再婚した妻としての女性が描かれている。主人
公の清子は前のアル中の夫と別れて、栄次郎という男と再婚した。清子は
以前の夫との苦い体験があるので、再婚した後も時には不安になっている。
「夫婦」には夫と妻のいい関係を保っている夫婦が描かれている。同時に、
以前の失敗した結婚の心的外傷を持つ妻としての女性の姿も現れている。
に、清子には現代の“良妻”のイメージが重なっているのではないかと思
われる。
向田邦子の「かわうそ」は中年夫婦の関係や生活を背景にして、夫と妻
がそれぞれ違う考えを持っている夫婦の像が描かれている。主人公の厚子
は夫の宅次と考えが同じではなく、物事を決めるのに自分の気持ちや考え
しか大切にしない。厚子と宅次の夫婦には正反対の性格や違う夢を持って
いる夫婦のイメージが描かれている。一言で言えば、「かわうそ」には外
から見えない夫婦間にある恐ろしい面が描かれている。
大庭みな子の「山姥の微笑」にはアレゴリーとしての日常的な妻や母親
である中年女性のイメージが描かれている。「山姥の微笑」は女性の敏感
な感覚に注目する。この女性主人公は他人、特に男性の心と考えが分かっ
ているので、‘山姥’に例えられている。誰にも‘山姥’について本当の
ことははっきり分からないが、昔話を読むと、‘山姥’というのは悪魔の
女性として描かれている。自分の心や考えが他人に読まれるのが恐ろしい
ので、心を読める女性を‘山姥’と呼んでいるのだろう。「山姥の微笑」
には、‘山姥’が主人公の姿をとって現れる。主人公は他人の心が分かっ
ていて、他人の気持ちが感じられる女性である。同時に、‘山姥’に例え
られている主人公は、普通の妻としての女性であり、長所と短所を持って
いる。他人の心を知っていて、主人公は他人の気持ちを傷つけたくない
ので、いつも自分で気を付ける。結婚した後、感覚が鋭い主人公は夫の気
をしっかり実行する。つまり、主人公は男性の願望や夢を満たせる女性の
姿だと思われる。つまり、山姥に例えられている女性は単に感覚が鋭い
女性のことなのである。「山姥の微笑」には、感覚が鋭い普通の女性の
一生が描かれているのである。妻や母親として、主人公は夫や子供の気持
ちを大切にして、最後まで家族のことを思っている。主人公は男性との異
なる考えや気持ちを持っている女性であり、自分の気持ちを抑えて、他の
人の気持ちを大切にした女性の姿を表している。
干刈あがたの「プラネタリウム」は80年代の日本を背景に、モダンな
妻としての女性の姿を描いている。主人公は離婚していないが、夫との関
係はよくない。それに対して、二人の男の子の母親である主人公は、子供
と非常にいい 関係を持ち、暖かい母親として描かれている。「プラネタ
リウム」には夫婦関係に問題がある妻が描かれているが、暖かい母親とし
てモダンな女性の姿も描かれている。「プラネタリウム」の主人公を通し
て、サラリーマンの妻としての女性の姿が生き生きと描かれている。主人
公は夫がそばにいない心理的に抑圧された女性の姿として見られる。また、
不安で、夫を恋しがる妻の心や気持ちも作品に美しく描かれている。主人
公には、子供のために強くなる女性の姿も表れている。夫婦関係に問題が
あっても、いい母子関係が主人公の力となっている。結局、主人公は夫に
頼らずに、自立した女性になっていく。
以上、見てきたように、それぞれの作品には様々な女性の姿が描かれて
いる。そして、女主人公を通して作家の考えが表されている。清水紫琴の
「こわれ指輪」には独立して自分の運命を決められる女性の姿が描かれて
いる。網野菊の「憑きもの」では戦前の男性中心の法律や社会の犠牲者と
しての女性の姿が描かれている。また、“姦通罪”に対する主人公の気持
ちは作家の考えに違いない。干刈あがたの「プラネタリウム」には夫婦の
問題を かかえた “都会主婦”のイメージが描かれている。主人公は夫と
の関係が悪くなった不安な妻としての女性の姿である。しかし、作家の女
性解放という考えは自立した主人公に反映されている。佐多稲子の「夫
婦」には失敗した結婚の悪夢に取り付かれ再婚した女性の姿が描かれてい
る。主人公と夫の互いに愛し合う感情が主人公の不安をなくして、互いに
信頼関係を築いていく。逆に、向田邦子の「かわうそ」には、正反対の性
格や夢を持っている夫婦のイメージが描かれている。厚子と宅次の夫婦の
間には大きな距離があって、暗くて、冷たい夫婦の姿が感じられる。
「かわうそ」は外から見えない夫婦間にある問題を浮き彫りにしている。
大庭みな子の「山姥の微笑」には感覚が鋭い妻や母親としての女性の姿が
アレゴリーとして描かれている。
明治時代から現代までのそれぞれの作品の時代背景や社会の状況は異
なっている。しかし、いずれの作品でも、問題をかかえた女性が苦しみ悩
みながら自立し、困難に立ち向かう姿に込められた女性作家のより良い
みながら、日本女性の視点から見た日本社会は現在の私たちにも理解でき
1.1 Latar Belakang Masalah...1
1.2 Pembatasan Masalah...2
1.3 Tujuan Penelitian...5
1.4 Metode Penelitian Dan Pendekatan...5
1.5 Organisasi Penulisan...9
2.1 Sastrawan Wanita Jepang Sebagai Bagian Tak Terpisahkan Dari Dunia Kesusastraan Jepang...12
2.2 Mundurnya Kehidupan Wanita Jepang Pada Masa Pemerintahan Militer...13
2.3 Kebangkitan Pengarang Wanita Jepang...15
2.4 Latar Kehidupan Pengarang Wanita Jepang...18
2.4.1 Sekilas Latar Kehidupan Pengarang Wanita Jepang Pada Masa Sebelum Perang Dunia II Dan Pengaruhnya Pada Karya Sastra...20
!
" #
3.1 Melalui Tokoh Utama Wanita Dalam Cerita Pendek Sebelum Perang Dunia II...27
3.1.1 「こわれ指輪」(Koware Yubiwa) karya清水紫琴(Shimizu Shikin)..27
3.1.2 「憑きもの」(Tsukimono) karya網野菊(Ami no Kiku)...35
3.2 Melalui Tokoh Utama Wanita Dalam Cerita Pendek Setelah Perang Dunia II...42
3.2.1 「夫婦」(Fūfu) karya佐多稲子(Sata Ineko)...43
3.2.2 「かわうそ」(Kawauso) karya向田邦子(Mukōda Kuniko)...50
3.2.3 「山姥の微笑」(Yamamba no Bishō)
karya大庭みな子(Ōba Minako)...59
3.2.4 「プラネタリウム」(Planetarium)
karya干刈あがた(Hikari Agata)...66
$ ! ...76 "
!
1. Ringkasan Cerita:
1.1 Ringkasan Cerita “Koware Yubiwa” karya Shimizu Shikin 1.2 Ringkasan Cerita “Tsukimono” karya Amino Kiku
1.3 Ringkasan Cerita “Fūfu” karya Sata Ineko
2. Biografi Pengarang:
2.1 Biografi Shimizu Shikin (清水紫琴)
2.2 Biografi Ami no Kiku (網野菊)
2.3 Biografi Sata Ineko (佐多稲子)
2.4 Biografi Mukōda Kuniko (向田邦子)
2.5 Biografi Ōba Minako (大庭みな子)
Lampiran
1. Ringkasan Cerita
1.1 Ringkasan Cerita “Koware Yubiwa” karya Shimizu Shikin
“Koware Yubiwa” karya Shimizu Shikin menceritakan tentang kehidupan
seorang wanita pada pertengahan jaman Meiji. Tokoh utama wanita menderita
karena ketidaksetaraan pria dan wanita pada masa itu. Adat istiadat masyarakat
Jepang pada masa lampau mengharuskan ia menghabiskan sebagian besar
waktunya di dalam rumah. Dan keinginannya untuk meraih jenjang pendidikan
yang lebih tinggi ditentang oleh ayahnya.
Sosok ibu sebagai seorang pelindung bagi anak#anaknya juga tidak ia peroleh
dari ibunya. Ibunya terlalu tunduk pada ayahnya dan memegang teguh pemikiran
Jepang lampau yang mewajibkan seorang wanita untuk mendedikasikan hidup
sepenuhnya pada suami. Tekanan yang dihadapi tokoh utama wanita mencapai
puncaknya ketika ia dinikahkan secara paksa oleh orang tuanya, seperti halnya
wanita#wanita lain jaman itu. Pernikahan yang tidak dilandasi cinta dan kasih
sayang menyebabkan ia tidak bahagia. Penderitaan itu juga diperparah karena
ternyata suami tokoh utama memiliki wanita lain dalam hidupnya. Kenyataan
bahwa suaminya tidak mau menghentikan perselingkuhan tersebut tidak saja
menyakitkan perasaan tokoh utama. Ibu tokoh utama yang menjadi cerminan
wanita Jepang tempo dulu ternyata sangat tertekan dengan penderitaan anaknya.
Wafat ibunya menjadi sebuah pukulan yang luar biasa berat bagi tokoh utama.
Namun, hal itu juga sekaligus membuka pikiran dan mata hatinya. Tokoh utama
akhirnya berani mengambil keputusan untuk bercerai dari suaminya karena sikap
sang suami yang tidak menghargai dirinya dan tetap berselingkuh. Keputusan
untuk bercerai dan keteguhan hati tokoh utama juga akhirnya meluluhkan hati
ayah tokoh utama. Ia kemudian menyesali tindakannya terdahulu untuk memaksa
anaknya untuk menikah.
Tokoh utama yang banyak membaca tentang perkembangan gerakan
kewanitaan di Eropa dan Amerika semakin luas wawasannya. Setelah bercerai, ia
aktif dalam gerakan kewanitaan dan banyak menuliskan pemikiran#pemikirannya.
Ia tidak ingin wanita#wanita lain pada masanya terjerumus dalam masa depan
yang suram karena tekanan#tekanan adat istiadat lama. Singkatnya, tokoh utama
akhirnya menemukan pencerahan dalam hidup setelah perceraiannya.
1.2 Ringkasan Cerita “Tsukimono” karya Amino Kiku
Dalam cerita pendek “Tsukimono”, Amino Kiku menceritakan tentang
seorang wanita yang melihat dan merasakan sendiri penderitaan wanita pada masa
sebelum kekalahan Jepang pada Perang Dunia II. Sejak kecil hingga dewasa,
tokoh utama yang bernama Hiro melihat berbagai tekanan terhadap kaum wanita
lewat penderitaan ibu kandungnya sendiri, dan ketiga ibu tirinya.
Ibu kandung Hiro dituntut cerai oleh suaminya dengan tuduhan perzinahan.
Tanpa dapat membela diri, ibu kandung Hiro diusir dan harus meninggalkan Hiro
kandungnya yang hidup melarat. Selain itu, keluarga ayah Hiro juga selalu merasa
lebih tinggi derajatnya, dikarenakan adanya pembagian kelas#kelas sosial dalam
masyarakat pada masa itu.
Setelah menceraikan istri pertamanya, ayah Hiro kemudian menikah kembali.
Ibu tiri Hiro yang pertama juga banyak menderita akibat tekanan#tekanan dari
kaum pria. Suaminya yang terdahulu menceraikan ibu tiri Hiro karena dianggap
tidak tunduk pada perintah suami. Setelah menikah dengan ayah Hiro, ibu tiri
Hiro yang pertama selalu berusaha untuk mempertahankan pendapatnya di depan
suami dan ayah mertuanya. Hal ini menyebabkan banyak pertengkaran. Namun,
setelah ibu tiri Hiro yang pertama ini melahirkan anak, ia akhirnya memilih untuk
lebih banyak berdiam diri dan menerima keadaan. Ibu tiri Hiro yang tidak
menyetujui pernikahan dini mengemukakan pendapatnya ketika Hiro dijodohkan
pada usia muda. Ibu tirinya tidak bahagia dalam hidup, dan ia meninggal setelah
melahirkan adik tiri Hiro.
Belum lama ibu tirinya yang pertama meninggal, ayah Hiro kembali menikah.
Ibu tiri Hiro yang kedua juga pernah menikah sebelumnya. Bersama suaminya
yang terdahulu, ibu tiri Hiro yang kedua diangkat menjadi anak angkat sebuah
keluarga pedagang. Namun, karena ibu angkatnya menginvestasikan rumah
mereka pada perusahaan yan gsalah, akhirnya mereka bangkrut dan dililit hutang.
Kesulitan ekonomi ini menyebabkan ibu tiri Hiro yang kedua sakit#sakitan. Ia lalu
dikembalikan pada ibunya, dan sejak saat itu hanya bekerja mengurusi saudara#
saudaranya. Demikian pula setelah menikah dengan ayah Hiro, ia bertugas
Hiro yang kedua bertambah parah, dan akhirnya meninggal hanya selang beberapa
tahun setelah masuk ke dalam keluarga Hiro.
Ibu tiri Hiro yang ketiga berasal dari keluarga yang kedudukan sosialnya lebih
rendah daripada keluarga ayah Hiro. Demikianlah ia juga harus tunduk di bawah
perintah suaminya.
Setelah ayahnya menikah untuk yang ke#empat kalinya, Hiro yang telah
menikah pun dapat merasakan sendiri penderitaan wanita pada masa itu karena
ketidakadilan hukum dan adat istiadat. Pernikahan selama sembilan tahun
berakhir tanpa bekas setelah suami Hiro menceraikannya dengan alasan tidak
dapat memberikan keturunan. Namun, Hiro merasa lebi hbahagia setelah ia
diceraikan.
Pada tahun 1945, ketika Jepang kalah dalam Perang Dunia II, Hiro mendapat
kabar bahwa akan ada perubahan dalam kehidupan wanita. Kenyataan ini terbukti
karena pada akhirnya memang hukum#hukum dan peraturan di Jepang dirubah
secara total oleh Amerika Serikat. Pada saat itu, Hiro pun merasakan kebebasan
yang luar biasa. Beban berat yang selama bertahun#tahun berdiam di
punggungnya seperti kutukan hilang begitu saja seiring hembusan angin
kebebasan.
Sata ineko mengisahkan tentang seorang wanita yang menikah kedua kali
dalam cerita pendek “Fūfu”. Tokoh utama wanita yang bernama Kiyoko
mengalami kegagalan pada pernikahan pertamanya. Suami Kiyoko yang terdahulu
adalah seorang pecandu minuman keras sehingga menyebabkan masalah rumah
tangga yang berakhir dengan perceraian. Setelah bercerai dari suami pertamanya,
Kiyoko kemudian berkenalan dengan seorang pria yang usianya lebih muda empat
tahun. Eijirō ternyata memiliki karakteristik yang berlawanan dengan suami
Kiyoko yang pertama. Perkenalan Kiyoko dengan Eijirō kemudian berjalan mulus
dan berakhir di pelaminan.
Kehidupan rumah tangga Kiyoko dan Eijirō selalu diliputi kehangatan dan
kasih sayang. Walau demikian, Kiyoko selalu diliputi kecemasan dan
kebimbangan, karena ia khawatir dengan kelemahan#kelemahan Eijirō. Lebih lagi,
ia selalu dihantui trauma dari pernikahannya yang terdahulu. Usianya yang lebih
tua empat tahun dari Eijirō juga menjadi kekhawatiran tersendiri bagi Kiyoko.
Pada suatu hari, Kiyoko didiagnosa mengidap indikasi suatu penyakit.
Walaupun belum jelas dan masih dalam tahap pemeriksaan, Kiyoko menjadi
sangat khawatir dan tertekan. Kiyoko bingung akan keadaannya dan takut
menghadapi kenyataan. Ketika Kiyoko berada dalam kekalutan, Eijirō
menunjukkan kedewasaan dan pengertiannya pada Kiyoko. Ia membantu Kiyoko
mengerjakan pekerjaan rumah tangga dan menghibur Kiyoko. Sikap Eijirō
akhirnya meluluhkan hati Kiyoko. Kiyoko akhirnya sadar, bahwa selama ini
kekhawatirannya tidak beralasan, dan kehadiran Eijirō dalam hidupnya
1.4 Ringkasan Cerita “Kawauso” karya Mukōda Kuniko
Cerita pendek “Kawauso” karya Mukōda Kuniko menceritakan kehidupan
tokoh utama wanita Atsuko dengan suaminya Takuji. Atsuko adalah seorang
wanita enerjik yang cerdas. Selain itu, Atsuko juga pandai berkata#kata dan
bernegosiasi. Bertolak belakang dengan Atsuko, Takuji adalah seorang pendiam.
Ia menderita kelumpuhan akibat penyakit stroke yang menyerangnya.
Cerita ini dilatarbelakangi dengan perbedaan pendapat antara Atsuko dan
Takuji dalam mendirikan apartment di tanah mereka. Atsuko berpendapat bahwa
apartment akan menguntungkan karena perolehan uang sewa bulanan. Di lain
pihak, Takuji tidak sependapat dengan Atsuko. Namun, perbedaan pendapat
tersebut tidak mematahkan keinginan Atsuko untun mendirikan apartment. Ia
bergerak sendiri dan berhubungan dengan pihak#pihak yang berkaitan dengan
pembangunan apartment.
Takuji yang pendiam tidak dapat berbuat apa#apa menghadapi sikap Atsuko.
Takuji bahkan tidak dapat mengungkapkan perasaan pada sahabat terdekatnya.
Satu#satunya yang dirasakan oleh Takuji adalah kemarahan yang terpendam dan
perasaan bencinya melihat Atsuko. Sebenarnya, Takuji sudah tidak mempercayai
Atsuko ketika anak satu#satu mereka Hoshie meninggal bertahun#tahun yang lalu.
Demi mengutamakan kepentingannya sendiri, Atsuko lalai merawat Hoshie yang
sedang sakit sehingga berakibat fatal. Akan tetapi, Atsuko tidak mau mengakui
kesalahannya sendiri dan bahkan berbohong pada Takuji. Sikap Atsuko yang
cenderung ingin menonjolkan diri sendiri pun menanamkan kebencian pada diri
Sementara itu, Atsuko telah menghasilkan suatu kesepakatan dengan pihak
kontraktor dan bank mengenai pembangunan apartment. Takuji yang sedikitnya
mengetahui apa yang dilakukan oleh Atsuko menjadi semakin tertekan. Terutama,
ketika ia mengetahui bahwa buah semangka yang akan dimakannya adalah
kiriman dari pihak kontraktor setelah perjanjian diselesaikan. Namun, sampai
akhir cerita pun Atsuko dan Takuji tidak dapat berkomunikasi secara terbuka akan
perasaan masing#masing. Mereka hanya terpaku pada dunia mereka masing#
masing, seperti apa yang telah mereka jalani selama bertahun#tahun.
1.5 Ringkasan Cerita “Yamamba no Bishō” karya Ōba Minako
Kisah “Yamamba no Bishō” yang ditulis oleh Ōba Minako terfokus pada
kehidupan tokoh utama wanita dari kecil hingga meninggal. Tokoh utama
“Yamamba no Bishō” adalah seorang wanita setengah baya. Ia tinggal bersama
suaminya yang telah pensiun. Sementara kedua anaknya telah berkeluarga dan
bekerja di tempat lain.
Sejak kecil, tokoh utama telah peka akan perasaan orang lain. Ia dapat
merasakan apa yang dipikirkan oleh ibunya, bahkan melihat apa yang berada di
benak ibunya tersebut. Apa yang ia rasakan akan ia ucapkan kembali sehingga
menyebabkan ibunya terganggu. Lambat laun, tokoh utama menyadari bahwa
sikapnya membuat orang lain tidak nyaman. Ibunya sampai memberi julukan
“yamamba” atau “silumana wanita” pada tokoh utama. Akhirnya, masa remaja
mengurung diri dan berusaha untuk tidak peduli akan perasaan dan pikiran orang
lain.
Setelah menikah, tokoh utama belajar banyak akan hubungan sesama manusia,
terutama melalui hubungan dengan suaminya. Kepekaannya akan pikiran dan
perasaan orang lain memudahkan tokoh utama untuk memahami perasaan dan
keinginan suaminya. Di sisi lain, tokoh utama juga banyak mengorbankan
perasaannya demi menyenangkan sang suami. Dalam pergaulannya di lingkungan
luar, tokoh utama juga selalu berusaha untuk tidak mengecewakan dan melukai
perasaan orang lain. Sebagai akibatnya, tokoh utama kadang diolok#olok oleh
suaminya, atau makan kebanyakan karena tidak mau mengecewakan si pemberi
makanan.
Ketika suami tokoh utama memasuki masa pensiun dan banyak berada di
rumah, ia pun banyak mengeluh pada tokoh utama. Kebebasan tokoh utama
selama bertahun#tahun selama masa suaminya masih bekerja hilang begitu saja.
Lebih lagi, ia malah harus mengurusi suaminya. Akan tetapi, tokoh utama rela dan
melayani keinginan suaminya dengan senang hati.
Tokoh utama mulai merasakan keanehan pada tubuhnya ketika ia memasuki
usia 60#an. Oleh dokter, ia didiagnosa menderita sindrom post menopause. Tokoh
utama juga tidak terlalu peduli akan gangguan#gangguan tersebut dan
menjalankan aktifitas seperti biasanya. Tanpa terduga sebelumnya, tokoh utama
terkena serangan stroke yang berakibat kelumpuhan pada seluruh tubuh. Gejala#
gejala yang sebelumnya dianggap sindrom post menopause ternyata merupakan
Setelah ia dirawat di rumah sakit, memori tokoh utama seakan kembali
melayang ke masa#masa yang lalu di mana ia merasa terganggu dengan
kepekaannya akan perasaan orang lain. Namun, detik#detik terakhir tersebut justru
mencerahkan pikiran dan menerangi mata hati tokoh utama. Ia sadar, bahwa
kepekaannya akan perasaan orang lain menjadikan ia mampu memahami orang
lain dan menerima mereka apa adanya. Dan tokoh utama merasakan bahwa
kepekaan yang ia miliki mungkin terdapat dalam semua wanita lain sebagai
sebuah kodrat. Akhir cerita, arwah tokoh utama melayang ringan dalam
kebahagiaan sejati dan kepuasaan penuh dalam menjalani hidup.
1.6 Ringkasan Cerita “Planetarium” karya Hikari Agata
Tokoh utama cerpen “Planetarium” karya Hikari Agata adalah seorang wanita
dengan dua orang anak. Tokoh utama adalah seorang ibu rumah tangga modern.
Setting cerita di era 1980#an menggambarkan sosok tokoh utama sebagai ibu yang
dekat dengan anak#anaknya. Di waktu luang, tokoh utama mengisi waktunya
dengan membuat kue atau membaca buku tentang mengasuh anak. Demikian juga
jika anak#anaknya berada di rumah, ia banyak menghabiskan waktunya bersama
mereka.
Anak#anak tokoh utama tumbuh normal seperti halnya anak#anak sebaya
mereka. Mereka bergaul di sekolah dan di lingkungan tetangga. Selain itu, mereka
juga memiliki hobi dan kegemaran masing#masing. Dan layaknya seorang ibu,
tokoh utama mengikuti perkembangan anaknya dengan cermat, dengan bantuan
Di luar semua itu, ternyata tokoh utama menyimpan rasa cemas dan tidak
tenang. Suaminya yang mejauhkan diri dari keluarga menyebabkan tokoh utama
tertekan. Ketika kedua anaknya bertanya tentang ayah mereka, tokoh utama selalu
memberi jawaban klise, seperti bahwa ayah mereka sedang sibuk dan lain
sebagainya. Namun, di balik jawaban yang ia berikan, tokoh utama juga sangat
mengharapkan kehadiran suaminya di rumah. Ia bahkan bermimpi berjalan
bergandengan tangan hanya dengan kedua anaknya tanpa kehadiran sosok sang
suami di tengah#tengah mereka.
Penantian tokoh utama yang hampa akhirnya menyadarkan ia akan kenyataan
yang sesungguhnya. Ketika ia bercengkerama degan anak#anaknya yang membuat
tiruan planetarium di kamar mereka, tokoh utama merasakan suatu kebebasan
yang luar biasa, seakan#akan tubuhnya begitu ringan tanpa beban. Akhir cerita,
tokoh utama dapat merasakan kebebasan dan kebahagiaan dengan apa yang ia
miliki saat ini, yaitu dua orang anak yang sangat ia sayangi.
2. Biografi Pengarang
2.1 Biografi Shimizu Shikin (清水紫琴清水紫琴清水紫琴清水紫琴)
Shimizu Shikin dilahirkan pada 11 Januari 1868, tahun berlangsungnya
Restorasi Meiji dan jatuhnya kekuasaan keluarga militer Tokugawa di Jepang.
Nama aslinya adalah Shimizu Toyo. Sejak umur 13, Shimizu menempuh
pendidikan pada sekolah wanita di Kyoto. Di usia 17, oleh ayahnya Shimizu
dinikahkan dengan Okazaki Haremasa. Dan pada usia 19, Shimizu pertama kali
kegiatan rutin Shimizu. Essay Shimizu yang berjudul “Tōyō no Josei” (東洋之女
性) merupakan tulisan Shimizu yang pertama kali dipublikasikan.
Bulan Februari 1889, Shimizu memutuskan untuk bercerai dari Okazaki. Dan
4 bulan kemudian, Shimizu menerbitkan tulisannya tentang bentuk pernikahan
monogami. Bersamaan dengan itu, ia juga mulai aktif dan bergabung dalam
organisasi#organisasi kewanitaan. Bahkan, Shimizu akhirnya bergabung dengan
majalah wanita “Jogaku Zasshi” (女学雑誌) pada bulan Mei 1890. Ia bertindak
sebagai editor sekaligus menulis sendiri artikel#artikel yang berkaitan dengan
kewanitaan.
“Koware Yubiwa” (こわれ指輪) sebagai cerita pendek pertama Shimizu
diterbitkan pada Januari 1891 di usianya yang ke 23. 10 bulan kemudian, Shimizu
melahirkan putra pertamanya dari Ō no I Kentarō di luar pernikahan. Anak ini
kemudian diserahkan dan menjadi anak angkat kakak sulung Shimizu. Kehidupan
asmaranya yang berantakan menyebabkan Shimizu depresi dan sakit#sakitan.
Kakak sulung Shimizu kemudian memperkenalkan Shimizu dengan Furuari
Yoshichi (古 在 由 置 ), yang kemudian menjadi suami kedua Shimizu.
Pernikahannya yang dilandasi kasih sayang membuahkan 4 orang anak. Mulusnya
kehidupan Shimizu setelah menikah diikuti dengan ditugaskannya Furuari untuk
belajar ke luar negeri.
Tahun#tahun berikutnya, Shimizu menuliskan banyak karya, di antaranya
Ito” (もつれ糸). Shimizu meninggal pada tanggal 31 Juli 1933 di usianya yang ke
65 setelah terkena serangan stroke di rumahnya.
2.2 Biografi Amino Kiku (網野菊網野菊網野菊網野菊)
Amino Kiku dilahirkan pada tahun 33 Meiji atau 1900 di Tokyo sebagai putri
sulung keluarga Amino. Di usia 6 tahun, ia disekolahkan di sebuah sekolah dasar
di daerah Akasaka. Namun, baru setengah tahun bersekolah, Amino kecil sudah
harus merasakan salah satu pukulan terberat dalam hidupnya. Kurang lebih antara
bulan November atau Desember 1906, ibu kandungnya diusir dari keluarga
Amino. Dan satu tahun kemudian, seorang ibu tiri datang menggantikan
kedudukan ibu kandung Amino yang sudah diceraikan oleh ayahnya dengan
tuduhan perzinahan. Melalui ibu tirinya yang pertama, Amino memperoleh
seorang adik laki#laki pada tahun 1909.
Pada tahun 1913, di usianya yang ke 13 Amino diijinkan untuk melanjutkan
pendidikan ke sekolah menengah atas untuk wanita di daerah Chioda, Tokyo.
Namun, belum genap dua semester belajar, Amino terserang radang paru#paru dan
dirawat oleh seorang bibi dari pihak ayahnya. Setelah sembuh dan pulih dari
penyakitnya, Amino kembali melanjutkan sekolah dan berhasil lulus di usia 16.
Lulus dari sekolah menengah atas, Amino melanjutkan pendidikannya ke
perguruan tinggi untuk wanita di Tokyo (日本女子大学校) dan mengambil
jurusan Bahasa Inggris. Pada tahun tersebut, ia menulis karangan pertamanya
yang berjudul “Nigatsu”. Amino lulus dari perguruan tinggi pada tahun 1920, dan
Tulisan Amino yang pertama kali diterbitkan berjudul “Aki” (秋). “Aki”
diterbitkan pada tahun 1920 dengan menggunakan biaya pribadi. Pada bulan
Desember di tahun yang sama, ibu tiri Amino yang pertama meninggal akibat
penyakit tifus.
Sejak musim semi 1921 sampai tahun 1925, Amino menjadi mahasiswa
pendengar di jurusan Sastra Rusia Universitas Waseda. Dalam kurun waktu
tersebut ibu tirinya yang kedua dinikahi oleh ayah Amino. Setelah sempat
mengungsi ke Kyoto karena menjadi korban gempa bumi Tokyo pada tahun 1925,
Amino pergi ke Nara dan berguru pada Shiga Naoya. Sebelumnya, ia sempat
menghasilkan karangan#karangan yang berjudul “Ie” (家), “Koe” (声), dan
“Mitsuko” (光子). Pada tahun 1928, ia kehilangan ibu tirinya yang kedua karena
sakit, sekaligus juga ditinggalkan kakek dari pihak ayahnya. Bulan Mei tahun
berikutnya, ayahnya kembali menikah untuk ke#empat kalinya.
Amino menikah pada usia 30, dan ia langsung mengikuti suaminya yang
ditugaskan ke Manchuria. Ia kembali ke Jepang pada tahun 1936 dan tinggal
berpindah#pindah di rumah sewaan selama beberapa tahun. Bulan April 1938,
Amino diceraikan oleh suaminya secara resmi setelah pernikahan mereka selama
sembilan tahun tidak dikaruniai anak. Sejak usianya yang ke 40, berturut#turut
Amino menghasilkan karya#karyanya. Di antaranya: “Kisha no Naka de” (汽車 の中で), “Wakai Hi” (若い日), dan “Yuki no Yama” (雪の山). “Tsukimono” (憑
Pada tahun 1960, Amino mengekspresikan kesedihan atas kematian adik
perempuannya dalam karya “Sakura no Hana” (さ く ら の 花). Setelah
menghasilkan banyak karya, kumpulan tulisannya diterbitkan dengan judul
“Amino Kiku Zenshu” (網野菊全 集) pada tahun 1969. Amino masih aktif
menulis sampai tahun 1975. Ia wafat pada tanggal 15 Mei 1979 setelah dirawat
selama enam bulan di rumah sakit.
2.3 Biografi Sata Ineko (佐多稲子佐多稲子佐多稲子佐多稲子)
Sata Ineko dilahirkan pada tahun 1904 di Nagasaki dengan nama asli Ine.
Karena usia ayah dan ibunya yang masih terlalu muda, ia diserahkan pada adik
lelaki neneknya dari pihak ibu. Seiring dengan pernikahan adik lelaki neneknya,
Sata yang berusia dua tahun resmi diadopsi oleh keluarga tersebut. Namun, ketika
orang tua kandungnya menikah pada tahun 1908, status Sata berubah menjadi
anak angkat dalam kartu keluarga orang tua kandungnya.
Sata mulai bersekolah pada bukan April 1911 di usia 7 tahun. Namun, empat
bulan kemudian ibu kandungnya wafat karena TBC. Atas anjuran pamannya,
keluarga Sata pindah ke Tokyo pada tahun 1915. Biaya hidup yang tinggi
menyebabkan ia harus berhenti sekolah di usia 11 tahun. Dan pada bulan
Desember 1915, Sata sudah harus bekerja di sebuah pabrik permen karamel.
Pada tahun 1918, Sata pindah ke perfektur Hyogo karena pekerjaan ayahnya.
Dan di usianya yang ke 14 tersebut, ia pertama kali menghasilkan karangan
singkatnya yang berjudul “Shōjo no Tomo” (少女の友), dan “Jogaku Sekai” (女
mulai ditunjukkan pada masa itu. Dan pada usia 16 tahun, Sata bekerja sebagai
karyawan di sebuah toko buku. Pada usia 18, ia juga mulai menulis puisi dan
mengambil nama pena “Yashimi” (夜思美).
Sata menikah pada usia 20 dengan anak ketiga dari keluarga Kobori. Akan
tetapi, perjodohan paksa tersebut menyebabkan kegagalan dalam pernikahan
mereka. Hanya selang setahun setelah menikah, Sata dan suaminya bersama#sama
melakukan usaha bunuh diri yang gagal. Dan setelah melahirkan putri sulung
mereka, Sata resmi bercerai dengan suaminya tanpa pernah bertemu kembali.
Pada tahun 1926, Sata sekeluarga kembali ke Tokyo dan bekerja di sebuah
kafe. Di sana ia bertemu dan jatuh cinta dengan Kubogawa Tsurujirō. Mereka pun
menikah di tahun yang sama setelah berteman dekat selama enam bulan. Bulan
April 1928, karya Sata yang berjudul “Caramel no Kōjō Kara” (キャラメルの工
場から) diterbitkan dalam majalah kelompok proletariat dengan menggunakan
nama Kubogawa Ineko. Satu tahun kemudian, ia pun resmi termasuk ke dalam
kelompok pengarang proletariat. Dan tahun#tahun berikutnya, Sata aktif dalam
kelompok gerakan kewanitaan kaum proletariat.
Keaktifannya dalam menulis propaganda membuat Sata cukup dikenal. Bulan
Juni 1941, ia diundang oleh surat kabar Manchuria untuk berkunjung ke sana.
Tiga bulan kemudian, Sata memenuhi undangan surat kabar Chōnichi ke Korea.
Selanjutnya, Sata mengunjungi Singapore dan Sumatera yang merupakan koloni
Jepang pada waktu itu sebagai pembicara dalam beberapa seminar.
Bulan Mei 1945, Sata secara resmi bercerai dengan Kubogawa Tsurujirō.
sehari#hari. Pada tahun 1946, ia bergabung kembali dengan Partai Komunis
Jepang setelah sempat keluar sebelumnya. Sebagai salah seorang anggota gerakan
kewanitaan yang aktif, Sata diundang sebagai salah satu perwakilan Jepang dalam
peringatan Hari Wanita Internasional. Selain itu, Sata juga banyak bepergian ke
daerah#daerah di Jepang untuk melaksanakan tugas partai.
Lika#liku kehidupan Sata Ineko menorehkan banyak kenangan dalam
hidupnya dan berbagai warna dalam karyanya. Di luar kesibukannya, ia tetap
menjalankan perannya sebagai seorang ibu, seperti dalam pernikahan putri
sulungnya di tahun 1943. Berbagai karyanya banyak menceritakan kehidupan
masyarakat biasa dan wanita Jepang pada umumnya. Sata bahkan mengikuti demo
anti perang Vietnam pada tahun 1961 ketika Amerika menduduki Vietnam dengan
dalih melawan komunis. Sampai dengan usia 81, ia masih aktif sebagai anggota
organisasi kewanitaan sebelum akhirnya berhenti dengan alasan kesehatan. Sata
Ineko wafat dalam usia 94 tahun dan pemakamamnya dilaksanakan secara
tertutup.
2.4 Biografi Mukōda Kuniko (向田邦子向田邦子向田邦子向田邦子)
Mukōda Kuniko dilahirkan pada tahun 1929 di Tokyo. Karena pekerjaan
ayahnya, Mukōda harus pindah sekolah sebanyak enam kali. Setelah lulus dari
Sekolah Kejuruan Wanita Jisshō (実践女子専門学校), ia bekerja sebagai penulis
skenario. Keberhasilannya sebagai penulis skenario terlihat ketika skenario drama
panjang selama tujuh tahun, atau sebanyak 2448 kali. Dalam kurun waktu tersebut,
Mukōda juga mulai terjun ke bidang sandiwara televisi.
Pada tahun 1975, Mukōda terserang kanker payudara sehingga ia terpaksa
dioperasi. Selama masa penyembuhan, ia banyak menulis essai dan karya sastra
lainnya. “Chichi no Wabijō” (父の詫び状) adalah salah satu karya yang ditulis
pada saat itu. Mukōda Kuniko kemudian juga dikenal sebagai seorang penulis
essai.
Karya#karya Mukōda yang berbentuk skenario drama televisi di antaranya
adalah “Kazoku Netsu” (家族熱), “Asshura no Gotoku” (阿修羅のごとく), dan
“A Un” (あ・うん). Sedangkan 80 cerita pendek karangannya diterbitkan oleh
penerbit Sinshō (新潮) dalam album kumpulan “Omoide Trump” (想い出トラン
プ). Tiga di antaranya, yaitu “Hana no Namae” (花の名前), “Kawauso” (かわう
そ), dan “Inu Goya” (犬小屋) berhasil memenangkan penghargaan Naoki (直木
賞) yang ke 83.
Pada tahun 1971, di usianya yang ke 42, Mukōda memutuskan untuk memulai
perjalanan keliling dunianya. Namun, pada tanggal 22 Agustus 1981, pukul 10
pagi waktu Taiwan, pesawat Boeing 737 yang ditumpanginya dari Taipei menuju
Kaoshiung jatuh. Bersama 109 penumpang dan awak pesawat lainnya, Mukōda
menjadi korban dan jenazahnya tidak pernah ditemukan. Meninggalnya Mukōda
Kuniko dalam usia 52 tahun sekaligus menutup lembaran kisah kasihnya yang
tidak pernah dapat menjadi kenyataan karena ditentang oleh kedua orang tuanya.
yang berbunyi 「花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る」(Hana hiraki,
hana kaoru, hana kobore, nao kaoru).
2.5 Biografi Ōba Minako (大庭大庭みな大庭大庭みなみな子みな子子子)
Ōba Minako dilahirkan pada tanggal 11 November 1930 di Tokyo. Karena
pekerjaan ayahnya sebagai seorang dokter militer, tempat tinggalnya sering
berpindah#pindah. Usai kekalahan Jepang pada bulan Agustus 1945, Ōba
mengikuti ayahnya pergi ke Hiroshima untuk menolong para korban bom atom.
Di usianya yang baru menginjak 15, saat itu Ōba juga bergabung dengan regu
sukarelawan untuk menolong masyarakat Hiroshima.
Pada usia 17, Ōba lulus sekolah menengah atas wanita Iwakuni (岩国女高).
Tahun berikutnya keluarganya pindah ke Niigata, seiring dengan keluarnya ayah
Ōba dari dinas militer. Umur 19, Ōba masuk ke Universitas Tsudajuku (津田塾)
dan tinggal di asrama. Lulus dari perguruan tinggi pada tahun 1953, ia magang
sebagai asisten dosen. Namun, karena kondisi kesehatannya menurun, Ōba pulang
ke kampung halamannya.
Ōba Minako menikah pada usia 25 dengan Ōba Toshimasa (大庭利雅) dan
tinggal di Tokyo selama beberapa tahun. Bulan Oktober 1959, Ōba mengikuti
suaminya yang ditugaskan di Alaska, Amerika Serikat. Pada tahun 1962, di usia
yang telah menginjak 32, Ōba kembali ke perguruan tinggi dan mengambil S2 di
Universitas Negeri Winsconsin. Di usia 37, ia pergi ke Seattle dan masuk ke
Universitas Seattle sebagai mahasiswa pendengar. Pada tahun yang sama, ia juga
terinspirasi dari pengalamannya di Alaska. Setahun berikutnya, yakni tahun 1958,
“Sambiki no Kani” mendapat penghargaan Akutagawa (芥川賞) yang ke 59.
Setelah tinggal cukup lama di Amerika, Ōba sekeluarga akhirnya kembali ke
Tokyo pada tahun 1969 dan tinggal di daerah Meguro. Ōba aktif menulis dan
menghasilkan banyak karya. Di antaranya adalah “Ume no Yume” (梅の夢),
“Warau Sakana” (笑う魚), “Aoi Kitsune” (青い狐), “Aurora to Neko” (オーロラ と猫), dan “Hi no Onna” (火の女). Sebagian besar karyanya merupakan alegori
dan memiliki arti yang dalam di baliknya. Kepiawaiannya dalam merangkai kata#
kata membawa ia kembali ke Amerika. Pada tahun 1979, di usia 49 tahun, Ōba
diundang oleh Universitas Oregon untuk menjadi asisten dosen.
Karya#karya Ōba Minako yang lain di antaranya “Oregon Yume Jūya” (オレ
ゴン夢十夜), “Naku Tori no” (啼く鳥の), dan “Drama” (ドラマ). Salah satu
kumpulan cerita pendeknya adalah album “Sanmen Gawa” (三面川). Sedangkan
kumpulan essainya diterbitkan dalam album “Doku Onna no Danseiron” (読女の 男性論). Pada tahun 1991, seluruh kumpulan karyanya diterbitkan dalam 10 jilid
dengan judul “Ōba Minako Zenshū” (大庭みな子全集). Saat ini Ōba Minako
yang berusia 75 tahun terbaring sakit di kediamannya karena serangan stroke yang
dideritanya.
2.6 Biografi Hikari Agata (干刈干刈干刈干刈あがたあがたあがたあがた)
Hikari Agata dilahirkan di Tokyo pada tahun 1943 dengan nama asli Asai
Kazue (浅井和枝). Masa kecil Hikari tidak semulus masa kecil anak#anak pada
meninggalkan bekas yang dalam di hati Hikari. Bayangan yang kelam itu
kemudian banyak terefleksi dalam karya#karya Hikari.
Pendidikan tinggi Hikari Agata ditempuhnya di Universitas Tokyo. Akan
tetapi, ia tidak pernah menamatkan kuliahnya dan drop out dari kampus. Dua
orang kritikus sastra, yaitu Kimura Sadamu (村松定考) dan Watanabe Kumiko
(村松定考) mengemukakan pandangan mereka, bahwa karya#karya Hikari Agata
banyak yang mengambil sudut pandang anak#anak dalam melihat problem#
problem rumah tangga yang dialami oleh orang dewasa. Karya#karyanya banyak
yang menggambarkan problem yang dihadapi oleh wanita sebagai istri dari pria
yang mempunyai hubungan dengan wanita lain, sekaligus ibu yang terbatas
langkahnya dalam mengambil tindakan karena harus melindungi kepentingan
anak#anaknya. Nuansa#nuansa humor dan keceriaan yang mewarnai tulisan#
tulisannya dibayangi dengan kesediahan dan suramnya tekanan hidup. Dengan
kata lain, karya#karyanya dapat digolongkan sebagai salah satu aliran feminisme
gaya baru yang menyampaikan perasaan wanita.
Hikari Agata pertama kali menerbitkan karyanya pada tahun 1980. Karya yang
berjudul “Furimun Collection Shimauta” (ふりむんコレクション島唄) tersebut
diterbitkan dengan biaya pribadi. Pada tahun 1984, kumpulan cerita pendeknya
dalam album “Uhohho Tankentai” memenangkan pernghargaan Akutagawa yang
ke 90. Sejak pertama kali menerbitkan karyanya pada tahun 1980 sampai saat
terakhirnya, Hikari Agata adalah seorang penulis yang aktif. Beberapa hasil karya
Hikari Agata di antaranya adalah “Ki no Shita no Kazoku” (樹下の家族),
(ワンルーム), “Shizukani Watasu Kogane no Yubiwa” (), “Big Foot no Ōkina
Kutsu” (ビッグ・フットの大きな靴), dan “Last Scene” (ラスト・シーン).
Dua karya terakhirnya yang berhasil diterbitkan sesaat sebelum ia wafat adalah
“Nogiku to Beyer” (野菊とバイエル) dan “Nanokori no Cosmos” (名残りのコ スモス).
Setelah berjuang melawan kanker lambung selama beberapa tahun, Hikari
Agata tutup usia pada tanggal 6 September 1992. Abunya ditempatkan di kuil
Shūken di pinggiran Tokyo. Seiring dengan harapannya, Hikari Agata tetap tetap
1 Pada masa kebangkitan kembali para pengarang wanita Jepang, cerpen menjadi
salah satu genre karya sastra yang banyak dihasilkan dan memasyarakat.
Sastrawan wanita Jepang yang sempat melalui masa kegelapan selama masa
pemerintahan militer Jepang lampau atau Bakufu (幕府) mulai bangkit kembali
setelah Restorasi Meiji pada tahun 1868. Akhir abad 19 merupakan titik awal bagi
para wanita Jepang kebanyakan untuk terjun ke bidang kesusastraan. Cerpen
menjadi salah satu lahan untuk mengekspresikan pikiran dan perasaan para
pengarang wanita. Dalam perkembangannya, berbagai cerita pendek hasil karya
pengarang wanita Jepang sejak masa awal kebangkitan kembali sampai saat ini
merupakan cerminan ekspresi para pengarang wanita mengenai kehidupan.
Pemikiran dan pandangan mereka yang mewakili sebagian kaum wanita Jepang
pada masanya masing)masing tersirat di balik karya)karya tersebut. Karya)karya
para pengarang wanita Jepang modern, menarik untuk diteliti lebih dalam karena
2 ini, kehidupan wanita pada khususnya menjadi fokus dalam memandang
kehidupan masyarakat Jepang berdasarkan ruang dan waktunya masing)masing.
Daya tarik karya sastra para pengarang wanita terletak pada kedekatannya pada
realita dan kehidupan nyata. Sebagai contoh, karya)karya pengarang wanita jaman
Meiji sampai masa sebelum kekalahan Jepang pada Perang Dunia II banyak
mengangkat masalah ketidaksetaraan antara pria dan wanita. Sedangkan karya)
karya yang ditulis setelahnya mempunyai cakupan yang lebih luas, seperti
kehidupan perkawinan, masalah rumah tangga dan anak)anak, sampai dengan
pencarian jati diri wanita yang sesungguhnya. Secara singkat, dapat dikatakan
bahwa refleksi kehidupan masyarakat Jepang dari sudut pandang wanitanya
merupakan keistimewaan tersendiri.
渡 邊 澄 子 (Watanabe Kuniko), mengutip pendapat 与 那 覇 恵 子 (Yohana
Keiko), menegaskan bahwa dalam memberi batasan mengenai pengarang wanita
dan karya sastranya〈現代女性作家〉yang dikategorikan sebagai karya sastra
modern, sangat penting untuk memperhatikan dua hal. Kedua hal tersebut adalah
masa penulisan karya sastra dan syarat utama gaya penulisan karya sastra yang
tidak terpengaruh dengan sastra klasik. Dengan menitikberatkan dua hal tersebut,
maka akan lebih mudah untuk dapat menggolongkan apakah pengarang tersebut
3 「女性作家のなかで特に〈現代作家〉と限定した場合には、 〈現代〉が何を意味しているかが重要な問題となろう。近代 と現代の境界は常に移動していくものである以上、一つには 時間軸上の便宜的区分であり、一つには〈古典化〉されてい ない作品群ということになろう。」 (渡邊澄子 2000、192)
“Josei sakka no naka de toku ni (Gendai Sakka) to gentei shita baai ni wa, (Gendai) ga nani o imi shite iru ka ga jūyōna mondai to narō. Kindai to gendai no kyōkai wa tsune ni idō shite iku mono de aru ijō, hitotsu ni wa jikan jikujō no bengiteki kubun de ari, hitotsu ni wa (kodenka) sarete inai sakuhingun to iu koto ni narō.”
(Watanabe Kuniko 2000, 192)
“Dalam mendefinisikan pengertian [Pengarang Wanita Modern], sangat penting untuk menitikberatkan pemahaman [modern]. Pergeseran pengertian Kindai dan Gendai berujung pada satu kesimpulan, yakni pengkategorian karya sastra modern mengacu pada dua hal utama. Selain masa penulisan karya sastra, gaya penulisan karya sastra yang tidak terpengaruh dengan sastra klasik pun menjadi syarat yang mendasar. Dengan menitikberatkan dua hal tersebut, maka akan lebih mudah untuk dapat menggolongkan apakah pengarang tersebut termasuk dalam angkatan pengarang modern.”
(Watanabe Kuniko 2000, 192)
Di luar pendapat tersebut, kita juga harus melihat karya)karya pengarang wanita
Jepang dari awal kebangkitannya, yang terus menerus melalui perubahan dan
tahapan)tahapan dalam perkembangannya. Seiring dengan perkembangan jaman,
perkembangan dalam kesusastraan wanita di Jepang yang muncul pada
pertengahan jaman Meiji (sekitar abad 19) sampai saat ini dapat dilihat dari
berbagai aspek. Tema dan latar belakang yang muncul dalam karya)karya sastra
berubah seiring waktu dan dinamika masyarakat. Akan tetapi, bagaimanapun juga
4 Permasalahan yang akan dibahas pada penelitian ini dibatasi pada 6 buah karya
sastra para pengarang wanita yang memiliki latar kehidupan dan masa yang
berbeda. Karya)karya sastra dengan tokoh utama wanita tersebut merupakan
cerminan wanita dengan latar belakang kehidupan masyarakat Jepang dari masa
yang berbeda ruang dan waktunya. Melalui masing)masing tokoh utama, sesuai
dengan pengertiannya sebagai pelaku utama yang mengemban peristiwa dalam
cerita fiksi sehingga peristiwa itu mampu menjalin suatu cerita (Aminuddin, 1995:
79), akan menjadi fokus utama yang mengangkat berbagai masalah kehidupan
dalam masing)masing cerita pendek, sehingga setiap masalah sosial yang muncul
dapat dirasakan dan dipahami. Karya)karya sastra tersebut adalah 「こわれ指
輪 」(Koware Yubiwa) karya 清水 紫琴(Shimizu Shikin) yang menampilkan
wujud wanita dalam masyarakat jaman Meiji; 「憑きもの」(Tsukimono) karya
網野菊(Ami no Kiku) yang merefleksikan kehidupan wanita pada masa Taishō
dan masa Shōwa sebelum Perang Dunia II; dan lukisan kehidupan wanita melalui
tokoh)tokoh wanita dengan latar belakang masa setelah Perang Dunia II melalui
「プラネタリウム」(Planetarium) karya 干刈あがた(Hikari Agata), 「夫婦」
(Fūfu) karya 佐多稲子(Sata Ineko), 「かわうそ」(Kawauso) karya 向田邦子
(Mukōda Kuniko), dan 「山姥の微笑」(Yamamba no Bishō) karya大庭みな子
(Ōba Minako). Melalui karya)karya tersebut, kenyataan mengenai kehidupan
masyarakat Jepang dengan latar belakang yang berbeda)beda tercermin melalui
5
Penelitian ini diharapkan dapat menjadi pembuka jalan untuk meneliti lebih
dalam mengenai para pengarang wanita Jepang di era modern, termasuk juga
karya)karyanya yang merefleksikan kehidupan masyarakat Jepang dari sudut
pandang wanita. Selain itu, di balik karya)karya sastra tersebut terkandung makna
dan nilai sastra yang mencerminkan pemikiran pengarang. Berbagai cerita pendek
yang ditulis oleh para pengarang wanita Jepang modern menampilkan berbagai
permasalahan kehidupan wanita, rumah tangga, dan suami istri, sebagai masalah
sosial di masyarakat yang tidak berkesudahan. Masalah)masalah ini hanya akan
bermanifestasi, berubah)ubah bentuk sesuai dengan dinamika kehidupan
masyarakat. Melalui pandangan tokoh utama wanita akan dunia dari karya)karya
yang akan dibahas, diharapkan agar nuansa kehidupan masyarakat Jepang di
waktu yang berbeda dapat dirasakan dan dipahami. Demikian pula agar
perkembangan pola pemikiran sebagian wanita Jepang modern yang terwakili
dalam karya)karya sastra tersebut dapat dimengerti, dilihat dari sikap dan tingkah
laku tokoh utama wanita dalam 6 karya sastra yang akan dibahas.
! "# # #
Metode, atau yang seringkali disebut dengan istilah cara kerja, merupakan
prinsip dasar dalam menganalisis dan mengapresiasikan sebuah karya sastra.
Sebagaimana ditegaskan dalam pernyataan berikut:
“Metode merupakan cara untuk mencapai suatu tujuan. Misalnya untuk menguji serangkaian hipotesa dengan mempergunakan teknik serta alat) alat tertentu.”
6 Metode yang akan dipergunakan dalam penelitian ini adalah metode deskriptif
melalui pendekatan mimesis.
Prof. Dr. Partini Sardjono)Pr mengemukakan bahwa pendekatan mimesis
merupakan pendekatan yang menghubungkan karya sastra dengan alam semesta,
dan ‘alam semesta’ ini berkaitan dengan aspek dan masalah yang cukup luas dan
rumit, yang tidak hanya menyangkut masalah ilmu sastra, tetapi juga antara lain
filsafat, psikologi, dan sosiologi dengan segala aspeknya (Partini Sardjono, 1992:
66). Sedangkan menurut Drs. Aminuddin, Mpd., teori mimesis adalah teori yang
memiliki anggapan dasar bahwa teks sastra pada dasarnya merupakan
wakil/penggambaran dari realitas (Aminuddin, 1995: 57). Teori ini hadir dengan
berpangkal tolak dari kehadiran dan proses pemahaman suatu teks. Hal ini
ditegaskan oleh Prof. Drs. M. Atar Semi dengan pernyataan sebagai berikut:
“Sastra merupakan tiruan atau perpaduan antara kenyataan dengan imajinasi pengarang, atau hasil imajinasi pengarang yang bertolak dari suatu kenyataan.”
(Atar Semi, 1993: 43)
Sebagai contoh, kehidupan nyata dan pengalaman yang dialami oleh sebagian
wanita)wanita Jepang pada masa yang berbeda terefleksi dalam bentuk cerita
pendek atau pun novel. Tekanan)tekanan yang dialami oleh wanita Jepang muncul
dalam berbagai karya sastra pengarang wanita Jepang sebelum kekalahan Jepang
dalam Perang Dunia II. Namun setelah 1945, karya)karya sastra para pengarang
wanita tersebut mengambil tema dan topik yang berbeda dan lebih luas, seperti
7 kata lain, kenyataan dan imajinasi pengarang dapat dicurahkan dalam bentuk
cerita pendek.
Peniruan/mimesis dalam penganalisaan cerpen, bertujuan untuk memahami
dunia rekaan yang diceritakan dalam cerpen, di mana di dalamnya juga terdapat
kondisi sosial budaya yang utuh seperti yang terdapat dalam masyarakat. Oleh
karena itu, dalam menganalisis sastra dengan menggunakan pendekatan mimesis,
ada beberapa prinsip umum seperti yang dinyatakan oleh Drs. Hassanuddin W. S,
M. Hum (Atar Semi, 1993), yaitu:
a. Karya sastra sebagai sesuatu yang otonom tidaklah berarti tidak boleh
dihubungkan dengan realitas objektif. Namun penghubungan ini, tidak berarti
pencampuradukan antara kenyataan cerpen (imajinatif) dengan kenyataan
realitas objektif. Penghubungan ini dimaksudkan untuk memahami dunia
rekaan.
b. Hubungan rekaan dengan kenyataan tidak berlangsung secara keseluruhan,
tetapi berhubungan antara bagian rekaan dengan kenyataan. Imajinasi yang
muncul dalam proses penciptaan bertahap dan terputus)putus.
c. Kondisi kehidupan sosial budaya seperti dalam kenyataan realitas objektif
merupakan suatu kesatuan antara kondisi politik, agama, ekonomi, hankam, dll.
Besar atau kecilnya hubungan antara kenyataan dan cerpen tidak menjadi
tolak ukur berhasilnya atau gagalnya sebuah karya sastra. Kuantitas hubungan
tersebut hanya dapat digunakan sebagai dasar untuk memahami apakah sastra
8 kepada anggapan bahwa dunia rekaan merupakan tanda atau perlambang dari
realitas objektif.
Metode penulisan yang dipakai di sini adalah metode deskriptif. Adapun
pengertian metode deskriptif adalah metode yang digunakan untuk memecahkan
masalah dengan cara mengumpulkan data, menyusun, atau mengklasifikasikan
untuk kemudian dianalisis dan diapresiasikan dengan menggunakan teknik
penelitian tertentu. Dalam hal ini, yang pertama kali akan diteliti adalah sejarah
bangsa Jepang yang merupakan gambaran perkembangan kehidupan masyarakat
Jepang sejak awal mereka mengahasilkan karya sastra sampai pada masa modern.
Khususnya, perkembangan kehidupan kaum wanita Jepang dan sastrawan)
sastrawan wanita dalam kesusastraan Jepang yang merupakan acuan mutlak
sebagai sarana untuk memahami karya)karya yang akan dibahas.
Berbagai permasalahan dan tekanan yang dihadapi oleh setiap tokoh utama
dalam ke 6 cerita pendek akan menjadi jalan menuju analisa masalah)masalah
sosial pada masing)masing cerita pendek. Dan melalui pendekatan mimesis,
berbagai problem yang merupakan refleksi masalah)masalah sosial di masyarakat
itu akan tampak jelas sebagai kenyataan dalam kehidupan yang tidak dapat
dipungkiri kebenarannya. Pendekatan mimesis dipakai, karena dalam
kehidupannya manusia menghadapi berbagai masalah yang menyangkut harkat
dan martabat manusia, atau masalah mengenai manusia dengan manusia lain
sebagai bagian dari masyarakat, serta berbagai macam masalah yang ada kalanya
9 Teknik penelitian yang digunakan dalam penulisan ini adalah teknik studi
kepustakaan, atau yang disebut juga teknik literatur buku, yaitu teknik penulisan
dengan cara membaca dan mengumpulkan bahan berupa buku)buku, literatur, dan
referensi yang mempunyai relevansi dengan masalah yang diteliti.
$ %
Penelitian ini secara garis besar dibagi ke dalam 4 bab, di mana masing)
masing bab akan terbagi lagi ke dalam beberapa subbab.
#
Bab pertama merupakan pendahuluan yang terbagi ke dalam 5 subbab. Subbab
pada bab ini adalah latar belakang masalah, pembatasan masalah, tujuan
penelitian, metode penelitian dan pendekatan, dan yang terakhir adalah organisasi
penulisan.
# "
Bab kedua merupakan landasan teori yang mendasari penelitian ini. Bab ini
terbagi ke dalam 5 subbab. Subbab pertama merupakan penjelasan tentang sastra
dan cerita pendek sebagai genre dari sastra. Subbab kedua menjelaskan tentang
sastrawan wanita Jepang sebagai bagian yang tak terpisahkan dari dunia
kesusastraan Jepang. Dalam subbab ketiga, penjelasan sepintas mengenai
mundurnya kehidupan wanita Jepang pada masa pemerintahan militer atau Bakufu
akan ditampilkan. Subbab keempat akan berisi tentang kebangkitan pengarang
wanita Jepang, disertai tahapan perkembangan para pengarang wanita Jepang
10 wanita Jepang akan dibagi dua, menjadi kilasan tentang kehidupan pengarang
wanita Jepang pada masa sebelum Perang Dunia II dan kilasan tentang kehidupan
pengarang wanita Jepang pada masa setelah Perang Dunia II, disertai pengaruhnya
pada karya sastra.
& ' ( ) # * + , * - *
. # # /
Dalam bab ketiga, akan dianalisa cerminan kehidupan masyarakat Jepang
dilihat dari sudut pandang wanita. Perbedaan kehidupan masyarakat yang kentara
pada masa sebelum dan sesudah Perang Dunia II menyebabkan perbedaan
mencolok pada karya)karya di kedua masa tersebut. Refleksi kehidupan
masyarakat Jepang melalui tokoh utama wanita yang akan dianalisa pada bab
ketiga akan dibagi menjadi dua subbab, yaitu melalui tokoh utama wanita dalam
cerita pendek sebelum Perang Dunia II, dan melalui tokoh utama wanita dalam
cerita pendek masa setelah Perang Dunia II. Cerita pendek masa sebelum Perang
Dunia II yang akan dianalisa adalah 「こわれ指輪」(Koware Yubiwa) karya清
水紫琴(Shimizu Shikin) dan 「憑きもの」(Tsukimono) karya 網野菊(Ami no
Kiku). Sementara cerita pendek masa setelah Perang Dunia II yang akan dianalisa
adalah 「夫婦」(Fūfu) karya 佐多稲子(Sata Ineko), 「かわうそ」(Kawauso)
karya向田邦子(Mukōda Kuniko), 「山姥の微笑」(Yamamba no Bishō) karya
大庭みな子(Ōba Minako), dan 「プラネタリウム」(Planetarium) karya干刈あ
11
0 ) *
Bab keempat merupakan bab terakhir, yang berisi tentang kesimpulan.
Kesimpulan tersebut adalah hasil dari seluruh analisis dan penjabaran dari bab)
bab sebelumnya. Terutama, kesimpulan ini merupakan hasil akhir dari tujuan
penelitian. Dalam kesimpulan ini dapat dilihat sejauh mana tujuan penelitian ini
76 Setelah melihat lebih jauh akan makna yang tehkandung di balik ke 6 cehita
pendek kahya pengahang wanita Jepang yang diwakili oleh Shimizu Shikin,
Amino Kiku, Sata Ineko, Mukōda Kuniko, Ōba Minako dan Hikahi Agata, tampak
jelas bahwa pehbedaan$pehbedaan yang tehdapat dalam kahya$kahya tehsebut
sangat dipengahuhi oleh latah belakang waktu, sosial, dan kehidupan pengahang.
Situasi politik, keadaan ekonomi, jenjang pendidikan dan kehidupan pehkawinan
juga mehupakan elemen$elemen yang mewahnai setiap kahya sastha pengahang
wanita Jepang modehn.
Mengulang kembali pendapat yang dikemukakan oleh Phof. Dhs. M. Atah
Semi, bahwa “Sastha mehupakan tihuan atau pehpaduan antaha kenyataan dengan
imajinasi pengahang, atau hasil imajinasi pengahang yang behtolak dahi suatu
kenyataan” (Atah Semi, 1993: 43). Demikian pula bahwa sejak jaman Meiji
sampai saat ini, masalah$masalah sosial yang ditampilkan dalam cehpen$cehpen
77 di dalam kehidupan. Masalah$masalah tehsebut hanya behmanifestasi seihing
pehjalanan waktu dan dinamika kehidupan masyahakat.
Kahya$kahya sastha pengahang wanita Jepang pada masa sebelum kekalahan
Jepang pada Pehang Dunia II banyak menuliskan tentang pahitnya kehidupan
wanita dan tekanan$tekanan yang hahus dihadapi kahena ketidak$adilan dan
ketidak$setahaan hak antaha phia dan wanita masa itu. Melalui tokoh utama
Kowahe Yubiwa kahya Shimizu Shikin, tampak jelas hefleksi kehidupan wanita
Jepang jaman Meiji yang menjadi kohban akibat pehkawinan paksa dan adat
istiadat Jepang yang kolot. Di sisi lain, tokoh utama Kowahe Yubiwa juga
mempehlihatkan semangat sebagian wanita Jepang masa itu yang menentang
sistim kawin paksa yang feodal dan ketidaksetahaan hak antaha phia dan wanita
untuk mempeholeh pendidikan. Begitu pula dengan tokoh utama Tsukimono kahya
Amino Kiku, yang melihat dan mehasakan pendehitaan wanita Jepang pada masa
sebelum kekalahan Jepang pada Pehang Dunia II kahena ketidak$adilan hukum dan
undang$undang yang hanya memihak kaum phia saja.
Sedangkan melalui behbagai cehita pendek yang ditulis setelah kekalahan
Jepang pada tahun 1945, kehidupan wanita yang dimunculkan lebih kompleks dan
dinamis. Phoblem$phoblem yang dihadapi kaum wanita dalam kehidupan tidak
hanya tehbatas pada pehbedaan antaha phia dan wanita, namun juga mencakup
masalah kehidupan humah tangga dan anak$anak. Sebagai pehbandingan, sikap
tokoh utama dalam cehpen Fūfu yang mau behusaha memahami, menehima dan
menghahgai suaminya dapat membehi kehangatan dalam humah tangga meheka.
78 mementingkan pikihan dan keinginannya sendihi tanpa mempedulikan pehasaan
suaminya. Oleh kahena itu, baginya humah tangga tidak lain hanyalah mehupakan
sebuah kehampaan tanpa kasih sayang dan hasa saling pehcaya. Tokoh utama
cehpen Fūfu adalah cehminan wanita modehn yang dapat saling menghahgai
dengan suaminya kahena melandasi kehidupan humah tangga meheka dengan cinta
kasih yang sejati. Sedangkan tokoh utama cehpen Kawauso tidak lebih dahi
hefleksi sosok wanita egois yang tega mengohbankan anak sekaligus pehasaan
suaminya demi mendahulukan kepentingan phibadinya.
Cehpen Planetahium menampilkan sosok wanita yang behpehan sebagai isthi
dan ibu, dan menghadapi behbagai masalah dalam humah tangganya. Tokoh utama
Planetahium tidak memiliki kebebasan untuk menentukan keinginannya sendihi
dalam memutuskan langkah yang akan diambil, sehubungan dengan hetaknya
hubungan antaha ia dan suaminya. Ia tehjepit di antaha posisinya sebagai seohang
isthi dan seohang ibu. Walau ia behkeinginan untuk meninggalkan suaminya,
namun ia behtahan demi kedua anaknya yang membutuhkan figuh ayah, dan
memang masih menyayangi ayah meheka. Tokoh utama cehpen Planetahium
adalah cehminan wanita modehn yang mampu mengohbankan keinginan
phibadinya demi kebahagiaan anak$anak.
Melalui tokoh utamanya dalam cehpen Yamamba no Bishō, tehcehmin bahwa
wanita seutuhnya adalah wanita yang bukan saja mengehti pehasaan ohang lain.
Namun, ia hela dan sanggup menehima ohang tehsebut apa adanya. Ia mau
memahami kekuhangan ohang lain, walau kadang hahus mengohbankan
79 kepuasan hidup dan kebahagiaan sejati melalui pengohbanannya. Tokoh utama
cehpen Yamamba no Bishō mehupakan hefleksi wanita pada umumnya, yang peka
akan pehasaan ohang lain dan mau behusaha membahagiakan ohang$ohang yang
dikasihinya.
Ke 6 cehita pendek yang ditulis oleh pengahang$pengahang wanita Jepang pada
masa yang behbeda menohehkan makna dan kesan yang behbeda pula. Namun,
semua kahya tehsebut tidak lain mehupakan hefleksi kehidupan masyahakat Jepang
yang tampak dahi sisi wanita. Sebuah sisi di mana phia dapat melihat kehidupan
dahi sudut pandang yang behbeda, dengan pemahaman khusus yang membutuhkan
1. Tanaka, Yukiko. Women writers of Meiji and Taisho Japan: their limes, works and
critical reception, 1868!1926. McFarland & Company, Inc., Publishers, 2000.
2. Copeland, Rebecca L. Lost Leames: Women Writers of Meiji Japan. Unimersity of
Hawai’i Press, 1956.
3. Ōba, Minako; Miyake, Lynne. K; Ericson, Joan E.; etc (Edited by Paul Gordon
Schalow and Janet A. Walker). The Woman’s Hand – Gender and Theory in
Japanese Women’s Writing. Stanford Unimersity Press, 1996.
4. Ericson, Joan E. Be a Woman: Hayashi Fumiko and Modern Japanese Women’s
Literature. Unimersity of Hawai’i Press, 1997.
5. Watanabe, Kumiko. Josei Bungaku o Manabu Hito no Tame ni. Tokyo: Sekai
Sisōsha, 2000.
6. Kimura, Sadamu; Watanabe, Kumiko. Gendai Josei Bungaku Jiten. Tokyo:
Tōkyōdō Shuppan, 1990.
7. Tōgō Joseishi Kenkyūkai. Shiryō ni Miru Nihon Josei no Ayumi. Yoshigawa
Hiroshi Bunkan, 2000.
8. Shikano, Masanao. Gendai Nihon Joseishi – Feminism o Jiku toshite. Yūhikaku,
2000.
9. Akashi, Shizue; Yabuta, Nuki. Joseishi o Manabu Hito no tameni. Takashima
10.<