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seichi no shiso bunka to kodai chugoku : hakushi gakui seikyu ronbun

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Academic year: 2021

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論文概要書 谷中 信 本論文の構成は、序章・第一編東夷文化・第二編賓文化の形成・第三編番地の思想文化 ・終章・あとがき・参考文献目録・注である。 その内容は、序章では、第一節において文化の複合体としての ﹁中国﹂ と題して、﹁中 国﹂ とはそもそもいかなる歴史的地理的実態を備えた実在であるのか、また中国はいかな る歴史的経過を経て中国に成っていったのであるかと言う問題を提出する。これが本論を 草するに当たっての基本的命題である。次いで第二節において賓文化を概観すると題して、 西周の初めに建国された膏が古く東夷の地と呼びならわされていたことに着目し、それ故 に古い文化伝統を持つ一方で、中原を遠く離れた僻遠の地という先入観が災いして思想史 研究においても正当な位置づけを得てこなかったことを指摘し、改めて寒地の思想文化を 研究することの意義を明らかにした。第三節ではわが国における賓文化研究史と題して、 先秦思想史に少なくない役割を果たしてきた番地の思想文化がこれまで必ずしも等閑に付 されていたわけではなく、賓文化という視点に立ったものではないながら研究の蓄積があ ること、従って本論文においてもそれらを十分に活用しなければならないことを指摘した。 第一編では東夷文化と題して、主に以下のことを論じた。 本 論 文 で は 、 中 国 を ま る ご と 中 国 と し て 扱 う の で は な く 、 中 国 を ひ と ま ず い く つ か の 文 化圏に分けたうえで、それぞれの文化圏が持つ特色に留意することとし、特に替地のそれ を 専 ら 取 り 上 げ て 考 察 す る こ と と し た 。 そ し て こ の こ と を 通 じ て 、 総 体 と し て の 先 秦 思 想 史研究に些かなりとも寄与したいと考えた。その際、大きな手掛かりと拠り所を提供した のが、ここ数十年間に及ぶ中国考古学界のめざましい発展であった。従来、伝統的な文献 学 の 手 法 に よ る だ け で は 、 た と え こ う し た 視 点 を 取 り 入 れ た と し て も 、 そ れ を 実 証 す る こ とは比較的困難であった。しかし近年の中国考古学の成果は中国の地域性に着目して考察 することの意義をわれわれに示した。考古学の諸成果を積極的に援用し、もしくはそれを 文献学と組み合わせて活用することによって、従来までとは異なる視点から古代中国の実 像に迫ることができるようになったと言える。 そこで、プレ賓文化とも言うべき東夷文化に焦点を当てて考察したのが本第一編である。 東夷文化は近年の考古学研究によって、新石器時代に遡り中原文化とは異質な、しかしき わめて高度な文化を持っていたことが次々と明らかになってきた。 第一章では考古学から見た先史時代の ﹁東夷﹂ と題して、いわゆる ﹁東夷﹂ が独自の先 進文化を形成していたことを、新石器時代の后李文化から北辛文化、大牧口文化、山東龍 山文化、さらにはいまだ不明な部分の多い岳石文化などについて、主に中国の研究成果を ふまえて概観した。その結果、﹁ひがしのえびす﹂ として後世蔑視されることになるこの 地域の文化が、きわめて高度な文化を早くから有していたことを明らかになった。 第二章では﹃後漢書﹄東夷伝を通してみた夏般時代の ﹁東夷﹂ と題して、いわゆる夏夷 の長年にわたる対抗関係を検証した。﹃後漢書﹄東夷伝の序文に相当する部分では、尭舜 南の伝説時代から夏段周に至る東夷の動向を先行文献に依拠しっつ可能な限り客観的に論 述しようと試みており、その資料的価値は大きいと判断したからであった。そこから見え

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てきたことは、夏の勢力と夷の勢力があたかもシーソーゲームのように優勢と劣勢を繰り 返しっつ抗争と和平の歴史を刻んでいったことであった。 第三章では東夷文化から賓文化へと題して、夏夷の対抗関係において均衡が崩れ不可逆 的に ︵東︶ 夷文化が夏 ︵周︶ 文化に同化されていく過程を検証した。まず第一節では太公 望呂尚の活躍と賓の封建と題して、東夷の故地である賓国に封建された太公望呂尚の活躍 を中心に考察した。次に第二節では太公望呂尚が妻姓であることの意味を明らかにするた めに、番地における妾姓諸侯と東夷の歴史的関係について考察した。第三節では太公望が 股攻略に凝らした戦略と題して、太公望の戦略家としての側面を僅かな文献上の記載を手 がかりに明らかにしようと努めた。第三節では太公望の膏国封建と題して、太公望が番国 を治めるために取った政策がどのようであったか、そしてそれがその後の替地の思想文化 を大きく特色づけることにもなったことについて考察した。第五節では、大国化する香と 題して、太公望の治国政策が功を奏して、東夷の古国を次々と支配下に収め次第に大国化 していく過程を跡づけた。 第四章では魯の封建と周公の東征と題して、同じ東夷の地に封建された魯国の動向を跡 づ け る こ と に よ っ て 、 賓 の 治 世 の あ り 方 の 特 色 を 、 魯 と 対 比 さ せ る こ と で 際 立 た せ つ つ 明 らかにしようと試みた。まず第一節では周公の魯国封建とその統治方針と題して、魯は寮 とともに周王朝の与国として山東の地に封建されたにもかかわらず、その統治方針には大 き な 違 い が あ っ た と さ れ て い る こ と は よ く 知 ら れ て い る が 、 そ れ は と り も な お さ ず 外 来 の 支配勢力が土着の勢力をいかに確実に統治するかという当面する問題にとってきわめて重 要であったことを明らかにした。次いで第二節では周公の東征と題して、周王朝が股王朝 を滅亡させた後も、東夷の故地を容易に平定することができずに苦慮していたことを考察 した。周公且の東征の後ようやく東夷の地は平定され、夏夷の対抗関係に最終的決着がつ いたのであった。︵なお近年わが国弥生時代の始期について新説が出されており、これが 周公の東征とはぼその時期を同じくしていることに興味深いものを感じる。︶ 第五章では考古学から見た賓・魯文化中の東夷文化要素と題して、両国がともに東夷の 故地に建国されたにもかかわらず、辿ってきた歴史はそれぞれ異なるものであったことが、 考古学研究の成果からも確かめられることを明述べた。 第二編では寮文化の形成と題して、主に以下のことを論じた。 まず第二早では﹃左俸﹄ に見える脊とその周辺諸国と題して、主に﹃左侍﹄ の記事に依 拠しっつ春秋時代の賓国の動向を具体的に検証した。第一節では姫姓諸国と賓との関わり と題して、周王朝と同姓で魯に代表される姫姓の諸侯国が隣接する賓とどのような外交関 係 を 持 っ て い た か に つ い て 考 察 し た 。 賓 と の 関 わ り よ り も 魯 と の 関 わ り の 方 が 造 か に 緊 密 であったことが確かめられた。第二節では妾姓諸国と賓との関わりと題して、賓と同姓に 当たる妾姓諸侯と賓との外交関係を考察した。このことからこれら妾姓諸侯国は土着化が 進むとともにやがて賓に編入されていったことが明らかとなった。第三節では己姓の菖及 び 郷 と 賓 と の 関 わ り と 題 し て 、 と り わ け 東 夷 古 国 の 中 で は 春 秋 時 代 に お い て も な お 一 貫 し て諸侯としての地位を維持していた二大古国苗と郷と賓との関係を考察した。魯が東夷の 古国を夷秋として蔑む傾向が強かったのに対して、賓はそのようなことはなくむしろ良好 な 関 係 を 維 持 し て い た ら し い こ と が 明 ら か と な っ た 。 第 四 節 で は 曹 姓 の 郷 と 賓 と の 関 わ り

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と 題 し て 、 や は り 東 夷 古 国 の 一 つ で あ る 郷 と の 関 係 を 考 察 し た 。 こ こ で も 、 賓 と 郷 と の 関 係が比較的良好であったのに比べ、魯との関係が険悪であったことが明らかとなった。第 五節では姐姓の相国と賓との関わりと題して、夏の後南でありながら春秋時代にはすっか り 東 夷 の 礼 俗 に 馴 染 ん で し ま っ て い た こ と 、 そ し て そ の こ と が 魯 国 の 蔑 み を 買 う こ と に な ったことを明らかにした。その一方采にいったんは滅ぼされた杷国であったが、賓の庇護 を得て再興を果たしたことからも知られるように、賓にとつては相国が東夷の礼俗に染ま っていたとしても何ら問題ではなかったのであった。第六節では子姓の莱国と寮との関わ りと題して、東夷の故地にあって最も強大な勢力を張っていた莱国が賓に滅ぼされその版 図に組み込まれていく過程を考察した。この場合でも魯国は兼を夷秋として蔑むのであっ たが、賓にあってはそうした意識が表面化してこないことが明らかとなった。 次に第二章では﹃国語﹄に見える膏とその周辺古国と題して、賓と東夷古国との間に濃 密な交流が存在していたこと、またそれ故に東夷文化は賓文化と矛盾し衝突を繰り返すこ とをせず、むしろ時間をかけてじっくりと新来の賓文化に栄養を提供し続けてきたらしい ことを明らかにした。 第三章では﹃管子﹄に見える賓とその周辺古国との関係と題して、特に菜との関係を﹃管 子﹄中から抽出して可能な限り明らかにしようと努めた。兼は始め賓とは政治的にも経済 的にも独立していたのであったが、膏桓公の宰相管仲の術中にはまったためにその独立を 維持することができず経済的に大きく依存をすることを余儀なくされていき、賓は僅かな 軍事力を行使することで易々と菜を版図に組み込むことができたことを明らかにした。 第四章では秦漢時代における賓文化観と越して、﹃史記﹄や﹃漢書﹄また﹃呂氏春秋﹄ や﹃推南子﹄などの文献を通じて、当時の思想界における賓に対する見方がどのようなも のであったかを、魯文化と対比させつつ考察した。まず第一節では寮の ﹁尊賢上功﹂ と魯 の ﹁尊尊親親﹂ と題して、その建国の始めから統治方針の違いが互いに際立ったものであ ったと見られていたことを明らかにした。第二節では﹃史記﹄貨殖侍・﹃漢書﹄地理志に 見える寮魯観と題して、﹃史記﹄ は魯に対してよりはむしろ賓に高い評価を与えていたの に対し、﹃漢書﹄ ではその評価が逆転したことを明らかにし、その逆転が生じた理由を、 班固自身が魯に発祥した経学の素養を十分に備えていたことに求め、寮魯観の変遷が漢代 思想とりわけ経学の展開と密接に関わっていることを明らかにした。第三節では太公望と 管仲に対する評価と題して、魯における周公且と孔子と対比的に位置づけられていること に注目し、端的に言えば前者が現実主義的であり、後者が理想主義的であったと見られて いたことを明らかにした。 第五章では番地の現実主義思考と題して、戦国末に活躍した番人魯仲連と漢初に活躍し た同じく秀人劉敬とを取り上げて、寒地出身の思想家がおしなべて現実主義的発想を得意 としていたことを明らかにした。まず第一節では﹃史記﹄及び﹃漢書﹄重文志等に記載さ れた賓地出身の主要人物と題して、賓地ゆかりの人物をすべて取り上げそれらに共通して 見える特色は何かを考察した。魯地ゆかりの人物は多く儒家に分類されているのに対して、 替地ゆかりの人物は道家と縦横家に多いことが注目された。ここに戦国時代以来漢代に至 る ま で 薄 地 と 魯 地 の 文 化 風 土 の 違 い が 一 貫 し て 存 在 し て い た こ と を 知 る こ と が で き た 。 第 二節では﹃漢志﹄が儒家者流に分類している魯仲連を取り上げて、その巧みな弁論から替 地において特に発展を見た縦横家の言説に共通するものがあることを指摘した。第三節で

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は、劉敬を取り上げた。彼も﹃漠志﹄によると儒家者流に分類されているのであるが、魯 仲連に勝るとも劣らぬ弁士ぶりを発揮していること、また弁士として現実に直面する問題 をもっとも効率よく解決するための術策を講じて見せた彼らこそはまさしく寒地の伝統文 化を継承していたと言わなければならないことを明らかにした。 第三編では替地の思想と題して、替地において特に発展することとなった諸思想を分析 考察した。なお、本編が本論文の中心をなしており、全体のほぼ三分の二を占める。 まず第二早では軍事思想の伝統と題して、番地において発展を見た兵家思想を取り上げ て論じた。すなわち第一節で太公望呂尚と﹃逸周書﹄と題して、賓建国の祖たる太公望が 以後一貫して兵法家としての高い評価を得ていたことに着目して、般周革命時の古記録を 今日に伝えているとされる一方で兵家思想を多くその成分に持つとされている﹃逸周書﹄ に現れた太公望とその思想を検証した。その結果、﹃逸周書﹄が太公望の兵法思想を伝承 しているとの直接的な形跡は認められなかったが、後世の ﹁太公六轟﹂ などとの関連は少 なくなかったこ\とが明らかとなった。これらのことから太公望の兵法思想は古来伝承され ていたとしても太公望学派といった継承者がいたわけではなく、その伝承のされ方は至っ て断片的でしかなかったことが考えられた。そのことは孫子の兵法、管子の思想さらには 妻子の思想の伝承のされ方などと対比させるとより明白となる。第二節では替地兵法思想 の漢代への影響と題して、漢初に編纂された文献である﹃港南子﹄中専ら軍事思想を論じ ている兵略訓が、賓国の始祖太公望以来の現実主義的伝統に根ざしつつ優れた発達を見せ た兵法思想をほぼそのままに踏襲しっつもそこに新たな要素を加えて述作されたものであ ることを論証した。 第二章では外交思想の発達と題して、賓地において特に発展を見せた縦横家思想を取り 上 げ て 論 じ た 。 軍 事 と 外 交 が い つ の 時 代 に お い て も 一 国 の 政 治 に お い て 表 裏 一 体 を な し て いることはいうまでもない。すなわち第一節で ﹁権﹂ と応変思想と題して、﹃推南子﹄氾 論訓を主として取り上げ、﹃推南子﹄ の成立の頃までの思想界に少なからぬ地位を占めて いたにもかかわらず従来問題にされることの少なかった縦横家のいわゆる権変説などを取 り上げて論じた。加えて、この縦横家説が替地に由来を持ち、かの鬼谷子が蘇秦らに伝え たとされる ﹁周書陰符﹂、別名 ﹁太公陰符﹂ と強い結びつきのあることを立証した。第二 節では﹃准南子﹄人間訓を通して見た縦横家思想と題して、人間訓に説かれる特異な禍福 論が実は老子の一節や蘇秦の言葉、さらには鬼谷子の一篇などと少なからず関係のあるこ とを立証し、それが権謀偽辞の必要なことを説く氾論訓とも相通じる内容を持つ縦横家思 想であることを明らかにした。第三節では漠代縦横家と賓地の思想と題して、湊代に活躍 した縦横家とされる人物の多くが賓人であることを踏まえて、彼らの思想と行動を通して 替地に発達した縦横家思想が漢帝国成立後もなおしばらくは大きな役割を担っていたこと を明らかにした。 第三章では﹃管子﹄と管子学派の活動と題して、替地の思想を代表する﹃管子﹄ の思想 史的分析を行った。まず第一節では管子学派の聖人宰相論と題して、形勢解貨を中心に、 管子が桓公の宰相であったことから、宰相こそ聖人でなければならないとする管子学派の 政治思想がここに見事に展開されているとして、その政治思想の一環をなす天人論・国民 論・聖人論などを分析考察した。第二節では前期管子学派の法思想と題して、経言諸篇を

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中心にその法思想の特色を分析考察した。その結果それは伝統的礼規範と実定的法規範と のせめぎ合いの中で展開してきた法思想であったことが跡づけられた。かくして﹃韓非子﹄ に代表される三晋系法家とは大きくその性格を異にしていることから、番地において独自 の発展を見た法思想であることが明らかとなった。第三節では前節での考察を踏まえ、後 期管子学派の法思想と題して、解諸篇を中心に分析考察した。管子学派の自然法思想と三 晋系法家の法実証主義とはそもそも由来を異にしており、本来相容れない性格のものであ りながら、その両者が混在していることから前者は後者の影響を排除できなかったこと、 そうして南方の楚地の道家思想との出会いも自らの法思想を発展させていく上で重要な契 機となったことなどを論証した。第四節では今本﹃老子﹄ の形成と管子学派と題して、元 来は楚地に発祥した﹃老子﹄がテキストとしての最終的形成に番地の管子学派が大きく関 与したのではないかという仮説を立てて、これを可能な限り論証した。第五節では勢貨に 見る黄老思想の分析と題して、その軍事政治思想を分析考察した。その際最も注意すべき ことは、すでに先学が指摘しているように、本篇の内容が ﹃国語﹄越語下の蒋姦言や馬王 堆烏書と関連していることであった。そうしたことから本貨が、戦国中期以降政治と軍事 を二刀的に統合して思想的にも完成しっつあった黄老思想を受容した管子学派が、これを 勢篇の名のもとに再構成して述作したものであろうと結論した。第六節では正篇に見る黄 老思想の分析と題して、本篇中に散見する ﹁道徳﹂ と ﹁道法﹂ の概念を抽出してその特色 を分析考察した。その結果勢篇と正篇とでは等しく天下の統一を視野に入れつつ発展展開 した黄老思想の影響が窺えはするものの、両篇の差異としては正篇が天下統一に至るまで のきわめてダイナミックな軍事政治理論を説いているのに対し、正嘉は天下統一を果たし た後のある種スタティックな天下統治理論を説いていると考えられた。 第四章では﹃量子春秋﹄と貴子学派の活動と題して、番地を代表するもう一つの学派に よって編纂されたと考えられる﹃量子春秋﹄ の思想史的分析を行った。第一節では貴子と いう人物像についてその時代背景と関連させつつ概観した。その際特に強調したのは貴子 が東夷古国の兼に出自を持つことであった。第二節では﹃量子春秋﹄ の述作者とその成書 年代について分析考察した。従来﹃量子春秋﹄は①皐嬰自著説、②戦国時代成書説、③秦 漢時代成書説、④六朝偽作説などが入り乱れていたのであったが、①はそもそも根拠が弱 く、また④も銀雀山漢墓から﹃量子﹄が出土した結果退けられることとなったために、② か③に絞られた。また内容からみれば、これを﹃漢志﹄に従って儒家文献と見る説と、唐 代の柳宗元がこれに異を唱えて以来根強い支持者を得てきた墨家文献と見る説とが対立し ていたのであったが、こうした問題に分析を加えた結果、ひとまず戦国中期の稜下学宮に おいて一定の勢力を持っていた量子学派が述作編集したものであろうとの結論に達した。 それは管子学派の活動ともほぼ時を同じくしていたと考えられる。第三節では量子の思想 とその思想史的位置と題して、﹃貴子春秋﹄に見える思想的特色を、愛民思想、節倹思想、 重頑思想、合理思想、尊賢思想に分類して考察した結果、これを儒墨いずれかにきっぱり と分けることはおよそ無意味であること、それよりはむしろ現実的実践的な政治思想を説 い て い る と 見 る べ き で あ る が ゆ え に 、 儒 墨 の 立 場 を 超 越 し よ う と し た と こ ろ に そ の 特 色 が あると結論づけた。第四節では銀雀山漢墓竹簡﹃貴子﹄ の資料的価値についてと題して、 その概要をはじめに述べ、次いで伝世本﹃量子春秋﹄研究の現状を概説し、竹簡本﹃蜃子﹄ 出土の意義を主にテキスト校勘上の意義およびテキスト成立上の意義について分析考察し

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た。特にその際清朝考証学者として知られる王念孫らの校勘が正確であることなどが確か め ら れ た 。 第五章では番地の思想文化の展開と題して、その代表的な思想三つを取り上げて考察し た。すなわち、第一節では﹁大一統﹂ の思想の展開と題して、香草と伝えられる﹃公羊伝﹄ 中に見える ﹁大一統﹂ の用語が、やがて湊代公羊学の主要な概念のひとつとして確立する に至るのであるが、それまでに ﹃管子﹄や﹃筍子﹄などにおいて展開を見た後、﹃有子﹄ の教えを受けた秦の宰相李斯と彼を登用した始皇帝とによって実践されていくまでの過程 を跡づけた。第二節では天下統一の機運と値兵義兵論争と題して、候兵論と義兵論の論争 とその行方を分析考察した。﹁大一統﹂ の立場を取る者にとって、そのための武力行使を 正当化するのが正義のための戦争は許されるとする義兵論である。こうした立場に自らを 位置づけてこれを主張したが有子系の儒家やその後学の李斯らであった。対する値兵論者 は、大国の横暴な軍事力行使による天下統一機運に抗いつつ、積極的な外交努力で現在の 国際秩序を維持し、ひいて自国の保全を図ろうとする立場に立っていた。こうした戦争を 否定し平和を志向する立場を鮮明にしていたのが墨家であり名家であった。ところが彼ら の反戦平和主義は義兵論者によって徹底的に論破し尽くされ、ついにはその理論的根拠を 失ってしまったのである。このことを最も如実に知ることができるのは﹃呂氏春秋﹄ であ る。従って本節では替地の思想を代表するとは言い難い ﹃呂氏春秋﹄ に依りつつ考察する こととなった。第三節では天人思想の展開と題して、中国古代思想を特色づけている天人 思想について主に﹃管子﹄ の形勢解篇などをよりどころに、その構造的特色並びに歴史的 特色について考察した。その結果それは決して替地の思想文化として限定的に論じられる べき問題ではなく、広く中国伝統思想として理解されるべきであることを明らかにした。 しかしそれは同時に番地の思想文化の展開そのものであったとも言えるのである。 終章では、結論としておおむね以下のことが導き出されるとした。 すなわち、中国は、たとえ政治的には中央集権的な権力が全土を二刀的に支配下に置い ていたとしても、文化的に見れば多元的な文化の複合線である。そうであるからこそ、政 治権力に求められたのは、常にそれら多元的な文化を強力に束ねることのできるパワーで ありイデオロギーであった。考古学が立澄しているような異質で多様な文化圏が中国各地 でそのまま残って、それぞれが満目の国家形成をすることなく、今日見るような大﹁中国﹂ が形成されていったのは、﹁中国﹂ の歴史の中で、こうした複数の文化圏をひとつにまと めようとする力学が常にはたらいていたからなのである。文化的には相富に異質であろう とも、またたとえその異質さを完全に解消できなくとも、それらを強力に融合させ同化さ せてしまおうとする政治力撃である。つまり多元多様な文化から構成されている中国が、 二刀的な権力のもとで ﹁中国﹂ たろうとしたとき、換言すれば ﹁大一統 ︵一統を大ぶ︶﹂ したとき、中国ははじめて ﹁中国﹂ たり得てきたのである。 このように政治的には異質さが失われて同質化する方向にベクトルがはたらきつつも、 文化的にはむしろ異質なものを異質なまま受容し内側に取り込んできたのが中国なのであ り 、 そ う し た こ と を 可 能 に し て き た と い う こ と 自 倦 そ も そ も 驚 異 な の で あ る が 、 こ う し た 彼らの政治的豪腕と文化的寛容性は一朝一夕に獲得されたわけではなく、造かな太古の昔 から、長期に亘りかつ豊富な経験によって、次第次第に身に附けてきたことを同時に知る のである。そうしてそうした経験を通して彼らは政治的には一切の妥協を排した力の論理

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を推し進めてきた一方で、文化的には排除の論理ではない共存の論理が取られてきたので あ る 。

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