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“‚“ÛŒâ‚è No.562 - 日本国際問題研究所

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ルペン・ショックと移民社会の危機

フランスでは2002年5月の大統領選挙で、右翼国民戦線のルペンが社会党のジョスパンを 抑えて決選投票に進み、世界を驚かせた。さらに、2005年5月の国民投票で欧州憲法条約の 批准を否決して欧州統合に待ったをかけ、同年11月には大都市郊外で移民出身の若者たち が暴動を起こし、「花の都パリ」しか知らない人々を驚かせた。国内総生産(GDP)で世界5 位の経済大国フランスは、いま病んでいる。その病原は、10%に近い高どまりの失業率と社 会格差の拡大だ。そのしわ寄せは移民層、それも非ヨーロッパ系の移民層に集中している。

1990年代に進んだ市場統合でも通貨統合でも生活はよくならなかった。これ以上の欧州

連合(EU)拡大はごめんだという感情が中間層をとらえ、欧州憲法に「ノン」を突きつけ た。社会の脱工業化で労働者階級が分解し、共産圏の崩壊で1970年代までは20%以上の得 票を誇った共産党は弱小政党に転落、かつて共産党に投票した貧困層の票が移民排斥を叫 ぶ国民戦線に流れている。2007年5月の大統領選では社会党のマドンナ、ロワイヤル候補よ り、こわもての移民政策が売り物のサルコジ候補が終始リードしていたが、案の定サルコ ジの勝利に終わった。共産党の支持を得て社会党のミッテランが当選した1981年とも、「フ ランスはわれらの祖国、欧州こそわれらの未来」と訴えてミッテランが再選された1988年 とも、状況は明らかに変わっている。いや、「社会的亀裂」の修復を掲げて1995年に大統領 になったシラクの「社会派保守」にも幕を引く、正真正銘のネオリベラル保守が政権の座 についたのである。

本稿では、まずサルコジ革命の背景を「移民社会フランスの危機」のうちに跡付け、次 に大統領選でのサルコジ勝利に至る投票行動を分析し、最後に真性保守政権の誕生が、EU の共通移民政策にどのような影響を与えるかを見てみたい。

フランスの移民は6200万の人口の8%、500万人に近い。近隣諸国からの移民受け入れは 19世紀末にさかのぼる。労働力と兵士を確保するため、外国人の子どもでもフランスで生 まれればフランス人にする出生地主義が国籍法に取り入れられたのは、革命百周年にあた る1889年。第2次世界大戦後の経済成長は多くの移民労働者に支えられた。戦後の「栄光の 30年」にピリオドを打った石油危機のあと、1974年に新規の移民受け入れは停止されるが、

家族呼び寄せで移民の定住化が進む。ミッテラン政権は非正規移民を大量に正規化した。

しかし移民家庭は郊外の低家賃団地に集住するようになり、その子供たちは学校では落ち

Miura Nobutaka

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こぼれ、学業をまっとうしても就職で差別され、街ではしょっちゅう警察の尋問を受ける ようになる。最初の郊外暴動は1980年代初めにさかのぼり、1983年には反差別を訴える6 万人の移民2世たちがマルセーユからパリまで行進した(「ブールの行進」)。「差異への権利」

を求める「SOSラシズム」の運動が起こり、逆に移民排斥を叫ぶ国民戦線が選挙で多くの票 を集めるのは、ちょうどその頃からだ。革命二百周年の1989年には、公立学校でイスラム 系女生徒のスカーフ着用の是非をめぐって大論争が起こる。かつて国教だったカトリック に対抗して信教の自由を守るライシテ(非宗教性)原理が、イスラム系移民の統合原理とし ても有効か、逆にイスラム系の排除の原理にならないかが争われた。その後も事態が改善 されなかったことは、2004年に公立学校で宗教的表徴の着用を禁止する通称スカーフ禁止 法が制定されたことで明らかである。

フランスは出自や民族、宗教の違いを超えた、法の前に平等な市民の共同体という普遍 的理念で移民統合をはかってきた。「同化」という言葉も1990年頃を境に「統合」と言い換 えられ、伝統的に血統主義だけの民族国家的色彩が強いドイツに対し、民族や宗教の差を 超えた共和国的統合モデルが理論化された。19世紀半ばの奴隷解放後も長く人種隔離が行 なわれてきた多民族国家アメリカでは、エスニック集団の権利の承認を求める多文化主義 が1970年代から有力になったが、フランスでは「単一不可分の共和国」の名のもとに、ア ングロサクソンの多文化主義も、社会を分裂させる差異主義として忌避された。だがその フランスでも、権利上の形式的平等か、人種差別を修復する実質的平等かをめぐって議論 が進み、ミッテラン時代から「優先的教育地域」(ZEP)などの具体的施策が講じられてき た。『移民社会フランスの危機』(岩波書店、2006年)の著者・宮島喬は、形式的な「平等」

を修正する「友愛」原理に着目し、「エキテ」(配分的正義)による「エガリテ」(平等)概念 の修正が模索されてきたと整理する。しかし、負の差別に代えて「積極的差別是正策」を 掲げるのは改革派保守のサルコジであるだけに、議論はきわめて複雑だ。

真性保守政権の誕生

5月6日のフランス大統領選の決戦投票で、民衆運動連合(UMP)のニコラ・サルコジが 社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルを破って当選した。これで1995年から3回続けて社会党候 補が敗れたことになり、1981年に始まった左右の政権交代のサイクルに終止符が打たれた。

左右の政権交代とは、大統領の座が保守から革新に移り再び保守に移ったことだけを指し ているのではない。ミッテランは2期14年エリゼ宮(大統領官邸)の主だったが、その間に 社会党は下院にあたる国民議会選挙で破れ、2年ずつ2度の保革共存を経験している。1995

年に3度目の挑戦で大統領の座を勝ち取った保守のシラクも、1997年の国民議会選挙で破れ、

5年間社会党のジョスパンを首班とする「複数の左翼」内閣との保革共存を余儀なくされた。

今回の大統領選は順番からいくと左が勝ってもおかしくない選挙だった。2005年5月の国 民投票で欧州憲法条約の批准は大差で否決され、シラク大統領は国民の信任を失っていた。

同年10月末に始まった大都市郊外での「移民暴動」に続き、翌2006年3月に若者を対象と する初期雇用契約(CPE)への反対運動で、シラク政権最後の切り札として投入されたドヴ

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ィルパン首相も政権を支え切れなかった。欧州憲法への「ノン」でシラクの3選への望みは 断たれ、CPE導入の失敗でポスト・シラクのレースからドヴィルパンが脱落し、郊外暴動時 に内相として強硬な姿勢を貫いたサルコジが、シラク大統領の支持母体UMPの総裁として、

党の公認を受け立候補した。保守でありながらシラク体制との「断絶(rupture)」を謳い、フ ランス衰退論が流行するほど自信を喪失していた国民にカツを入れる精力的なキャンペー ンで、フランスの再生にはこの男しかないと思わせたのが勝因である。

一方のロワイヤル候補は、社会党内に基盤をもっていないにもかかわらず、初の女性大 統領への期待で人気が高く、サルコジに勝てる候補ということで、居並ぶ古株政治家を抑 えて社会党の公認を取りつけた。しかし欧州憲法条約をめぐる国民投票で賛成と反対に分 裂した社会党は、社会民主主義路線と、より左の社会主義路線が対立したまま大統領選に 臨んだため、党をあげてロワイヤルをもり立てるキャンペーンを張ったわけではない。そ のうえ、新鮮さが売りもののロワイヤルは選挙戦が進むにつれ政策に具体的裏付けを欠き、

頼りない印象を与えたため、社会党支持層のなかに、反サルコジ色を鮮明にした中道・フ ランス民主連合(UDF)のバイルーを支持する者が急増した。投票意図を問う世論調査で一 時はバイルーがロワイヤルに並びかけたこともある。しかしUDFは中道といっても保守政 権に参加してきた中道保守であり、ロカール元首相のように社会党内にバイルーとの同盟 を唱える者もいたが、革新と中道の反サルコジ連合は遂に成立しなかった。

第1回投票は右のサルコジ31.18%、左のロワイヤル25.87%、中道のバイルー18.57%、極 右のルペン10.44%の順で、上位2名で争われる決選投票では、バイルー票とルペン票がど ちらに流れるかが勝負の分かれ目だった。中道票はやや多くロワイヤルに流れた程度でほ ぼ等分され、ルペン票は大部分がサルコジに流れた。そのため第1回投票での差は縮まらず、

サルコジ53.06%、ロワイヤル46.94%で、6%以上の差をつけてサルコジが当選した。第1回 投票、決選投票とも投票率は84%近く、国民の関心はきわめて高い選挙だった。

2002年の大統領選では、第1回投票で国民戦線のルペンが社会党のジョスパンを上回り、

決選投票に進出してフランスに激震が走った。第1回投票で現職大統領としては史上最低の 20%以下の票しか獲得できなかったシラクが、決選投票では社会党支持者を含むルペン阻止 票を集め、80%以上の得票で再選された。社会党・共産党・緑の党など「複数の左翼」内閣 の首相として5年間着実に実績をあげたジョスパンが決戦投票に残れなかったのは、極左を 含む革新陣営から候補が乱立し、票が分散したためである。それに加え、前年の9月11日、

アメリカの中枢部を襲った同時多発テロを受けて、フランスでもテロ対策、治安対策が選 挙戦の争点になり、極右や保守の候補と比べ弱腰のジョスパンに不利にはたらいた。

移民・ナショナルアイデンティティー省の創設

それでは、2002年の16.86%から2007 年の10.44%と大きく後退したルペン票は、国民戦線 の終わりを意味するだろうか。それがそうとは言えないところに、今回のフランス大統領 選の問題がある。サルコジ候補の優位が決定的になったのは、3月に入り「移民・ナショナ ルアイデンティティー省」の創設を公約したときからだ。祖父母の代まで遡ればフランス

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人の3人に1人は移民出身と言われ、フランスのナショナルアイデンティティーは移民の歴 史なしには語れない。ところが「移民」と「ナショナルアイデンティティー」を結びつけ るサルコジ候補の主張には、ナショナルアイデンティティーをすでにでき上がった一枚岩 のものと考え、移民をそれに対する異物として捉える発想がある。これは「フランス人の フランス」を唱え移民の排斥を叫ぶルペンの主張に通底するということで、左からは批判 された。しかし、ナショナルアイデンティティーが選挙戦の焦点になったため、左のロワ イヤル候補も共和国のシンボルとして三色旗とラ・マルセイエーズを強調しだした。もと もとジャンヌ・ダルクを尊敬するというロワイヤルは自らを共和国の肖像マリアンヌにな ぞらえる手に出たのである。

フランスの政局は過去20年、移民の排斥を主張するルペンを負の焦点として回ってきた 面がある。かつては共産党に入れていた貧困層の票が雇用不安から国民戦線に流れる。そ うすると、ルペンの進出を食い止めるために保守もルペンの主張を取り入れざるをえない という「ルペン化現象」がじわじわと浸透したのである。ルペン票を引き寄せるために移 民問題とナショナルアイデンティティーの擁護を持ち出したサルコジの戦略は功を奏した。

2002年にルペンに入れた層のかなりの部分が今回は第1回投票からサルコジに入れた。その

結果ルペン票が後退したのであって、サルコジがルペンの息の根を止めたのではない。ル ペンは「反システム」を掲げ大衆の不満の受け皿になってきたが、政権をめざしてはこな かった。ところが、その主張はサルコジの政策に取り込まれ実現されるとの期待が一部に 生まれたのである。事実、サルコジ政権が誕生し、移民・ナショナルアイデンティティー 省が設置されると、これに抗議してパリの東、ポルト・ドレに近くオープンする「国立移 民の歴史博物館」構想に参加してきた第一線の移民史研究者8人が辞任している。ナショナ ルアイデンティティーを国が定めるのは筋違いだというのである。

同省の正式名称は「移民・統合・ナショナルアイデンティティー・共同開発省」で、移 民の統合と移民送り出し国の開発支援を任務に加えバランスをとってはいるが、移民流入 の制限と不法移民の送還に力点がおかれるのは明らかだ。サルコジは世界中の移民・難民 をフランスが受け入れるわけにはいかないとして、内相時代から役に立つ移民のみ受け入 れる「選択的移民(immigration choisie)」政策を掲げてきた。フランスは1974年から移民の新 規受け入れを停止しているが、家族の呼び寄せと不法移民の正規化や難民の受け入れは行 なってきた。サルコジ政権は家族呼び寄せの条件を、十分な住居と収入、それにフランス 語能力としているから、家族呼び寄せはかなり制限される。10年国内に住めば不法移民に も滞在許可を与える制度は廃止され、不法移民の本国ないし経由国への送還も増えるだろ う。ビザの発給も難民の認定基準も当然厳しくなる。これはルペンが掲げる「フランス人 のフランス」に限りなく近いが、サルコジ自身、父がハンガリーの下級貴族、母がユダヤ 系ギリシャ人の娘と移民二世の成功例であるだけに、努力すれば報われる「アメリカンド リーム」的発想がベースにあり、「選択的移民」政策は大衆の支持を受けやすい。

サルコジはルペンの考えを巧みに取り込んでいるがルペンとは一線を画している。「1968 年5月」(いわゆる「五月革命」)の異議申し立てを否定し、労働の価値と秩序と権威の回復を

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訴えるサルコジは、自殺や性倒錯を遺伝で説明する危険な優生学思想の持ち主だが、積極 的差別是正策を唱える現実主義者でもあり、社会党陣営のTSS(サルコジだけには入れるな)

のネガティヴキャンペーンは奏功しなかった。内相時代に「フランスのイスラム」を標榜 して国内のムスリム諸団体をひとつにまとめ、ムスリムの礼拝所建設に公費を支出できる ようにするため1905年の政教分離法の改正を提案するなど、共和国の非宗教性原理に手を つけることも厭わない柔軟さをもっている。積極的差別是正策とはアメリカ流のアファー マティヴ・アクションの仏訳discrimination positiveのことで、肌の色などで差別されてきた マイノリティーを逆に優遇する措置を指す。フィヨン内閣の閣僚15人のうち一挙に7人を女 性にして実行力を示し、法相にモロッコ系の女性を登用したのがその例だ。移民出身でも 共和国に同化する者は優遇して後進のモデルにする政策である。外相に社会党から「国境 なき医師団」の創設者クシュネールを引き抜いて人権外交をアピールする巧みさも備えて いる。中道政党からも閣僚に起用しており、これは超党派の内閣をつくって野党をさらに 分裂させる作戦である。ただし外交は大統領の専管事項であり、大統領府のスタッフに外 交国防政策のブレーンをおいて自ら采配をふるうだろうから、外相ポストはメディア向け のお飾りにすぎない。

これは1981年から14年続いたミッテラン時代はもちろん、1995年から12年続いたシラク 時代にも訣別を告げる、「コンプレックスなき保守」の大統領の登場である。「コンプレック スなき保守」とは、ドゴールの衣鉢を継ぐシラクまでは社会保障の充実に意を用いる社会 派の保守だったが、今や労働者の既得権を聖域視しないネオリベラル保守の誕生という意 味である。社会党内閣が制度化した「35時間制」を骨抜きにし、「もっと働いてもっと稼げ る」社会をスローガンにしている。国家財政の赤字を解決するためには、公務員の大幅削 減も辞さない。病めるフランスに思い切った荒療治を加え、活力を回復するという触れ込 みが人々の心をとらえたのである。四半世紀遅れてフランスにもサッチャー・レーガン流 の新保守革命が起こったとみるのはどうかと思うが、少なくともスペインのアスナールや イタリアのベルルスコーニに連なるタカ派の保守、それも改革派保守のエースの登場だと 言える。2003年のイラク戦争で冷えきったアメリカとの関係は改善されるだろうが、強い 愛国心で政治的野望を実現したナショナリストだから、アメリカに追随することはありえ ない。では対ヨーロッパはどうなるか。

EU共通移民政策への影響

サルコジは当選が決まった5月6日夜の勝利宣言で「フランスはヨーロッパに帰ってきた」

と述べ、最初に挨拶に行ったのは現EU議長国ドイツのメルケル首相である。2008年下半期 はフランスが議長国だから、それまでにはEU憲法の批准に決着をつけるだろう。サルコジ は憲法条約を単純化した新条約案をつくり、しかもそれを「憲法」ではなく単なる条約と し、国民投票ではなく議会の賛成多数で条約を批准する方針だ。すでにバローソEU委員長 の支持は取りつけている。シラク前大統領とは違って、トルコのEU加盟には以前から反対 を表明している。フランスはヨーロッパに復帰し、ソーシャル・ヨーロッパではなくリベ

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ラル・ヨーロッパを推進するだろう。EUの共通移民政策は、「選別的移民」の受け入れと不 法移民の送還、難民の認定基準の厳格化の方向が強まるだろう。

EUで移民問題を担当する部局は、1999年10月アムステルダム条約が発効すると同時にで

きた「司法、自由、治安」総局である。アムステルダム条約は、域内の国境検査を廃止し て移動の自由を保障した1985年のシェンゲン協定をEUの第一の柱である共同体分野に組み 入れた。その結果、域外第三国からの移民に対するビザ政策や難民受け入れ政策の共通化 が必要になった。1999年10月にフィンランドのタンペレで開かれた欧州理事会はEU共通移 民政策の構築に向けて「タンペレ・プログラム」を採択した。2004年までの5ヵ年間を対象 とする同プログラムの枠内で、家族呼び寄せなど移民受け入れに関する指令数本と不法移 民の送還に関する指令、さらには送還された移民の受け入れ義務を定めた再入国協定が整 備され、2004年11月に欧州理事会で採択された「ハーグ・プログラム」へと引き継がれた。

EUは2010年までに共通の移民・難民政策の確立をめざして法整備を進めているが、その方 向づけは域内経済の活性化に役に立つ移民は受け入れ、役に立たない移民・難民はお断り という路線であり、サルコジ新政権によるフランスのEU復帰は、さらにこの傾向を強める ことになるだろう。

■参考文献

宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』、岩波新書、2004年。

宮島喬『移民社会フランスの危機』、岩波書店、2006年。

内藤正典『ヨーロッパとイスラム』、岩波新書、2004年。

特集「フランス暴動―階級社会の行方」『現代思想』2006年2月増刊号。

C・ボルツマン、M・ブーシェ「ヨーロッパ諸国の移民政策の概況」『ル・モンド・ディプロマティー

ク』(日本語電子版http://www.diplo.jp/)、2006年6月号。

特集「EUの移民政策」Europe、Autumn 2006、駐日欧州委員会代表部。

『欧州における外国人労働者受入れ制度と社会統合』『労働政策研究報告書』No. 56、独立行政法人労 働政策研究・研修機構、2006)、特に第6章「欧州連合の共通移民政策」

庄司克宏「EU難民政策の理念と現実」『世界』2007年4月号。

「連載講座:EUの新たな挑戦」

*次号以降取り上げるテーマと執筆者は次のとおりである(印は既刊) 第1回 EUの安全保障・防衛政策の可能性と課題 (4月号)

広瀬佳一(防衛大学校教授)

第2回 EUの経済と単一通貨ユーロの現在(5月号) 田中素香(中央大学教授)

第4回 EUの機構改革と憲法条約(7・8月合併号)

小窪千早(日本国際問題研究所研究員)

第5回 トルコのEU加盟交渉(9月号)

八谷まち子(九州大学准教授)

みうら・のぶたか 中央大学教授

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