化学の 窓
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化学と生物 Vol. 51, No. 11, 2013
アイソトープからアイ ソトポマーへ
一酸化二窒素発生源解析の高精度解析ツール
はじめに
温室効果ガスの一種である一酸化二窒素(亜酸化窒 素,N2O)は大気中の濃度が約320 ppbと低いものの,
1800年代から上昇を続けており,100年あたりの地球温 暖化係数は二酸化炭素の約300倍程度強力であり,京都 議定書により削減が義務づけられている(1).さらに,
N2Oは成層圏オゾンの破壊物質であり,Ravishankara ら(2) は,N2Oは21世紀の最大規模の成層圏オゾンの破 壊物質になりうると述べている.そのため,N2Oの発生 機構の解明および発生抑制技術の開発が求められてお り,その一つとして安定同位体比分析の一種であるアイ ソトポマー(isotopomer;同位体分子種)を用いたN2O の発生機構解析が期待されている.これまでN2Oアイ ソトポマー分析は特殊な装置を用いたごく一部の専門家 だけに可能な特殊技術であったが,近年の分析装置の発 展により徐々に一般化しつつある.今回は,質量分析法 とレーザー分光法という異なる2つのN2Oアイソトポ マー分析手法とその発展について紹介する.
自然生態系からのN2O生成経路
N2Oの人為的発生源のうち最大のものは農業であ り(3),N2Oは農耕地に施用された窒素肥料が微生物の酵 素反応によって生成される.N2O生成に関与する酵素反 応には,好気的条件下で硝化過程としてアンモニウムが ヒドロキシルアミン,亜硝酸イオンを経て硝酸イオンま で酸化される際にNOが副産物として生成され,さらに 副次的反応としてN2Oが生成される反応と,嫌気的条 件下で脱窒過程として硝酸イオンが亜硝酸イオン,NO, N2Oを経てN2まで還元される際の中間反応によるもの などが挙げられる(4).これらの反応は基質が異なるのは 言うまでもなく,湛水・非湛水などによる土壌中の酸素
の有無,土壌中の炭素含量の違いなど反応が起こる環境 も異なるため,どの反応をターゲットとするかでN2O 発生抑制策も全く異なったものになりうる.そのため,
効率的なN2O発生抑制策を議論するためには,農耕地 でN2Oがどのような反応によって生じているかを知る ことが極めて重要となってくる.
安定同位体比とは
同位体とは,同じ元素で,原子核中の陽子数が同じで 中性子数が異なるもの,すなわち同じ元素で重さ(原子 量)が異なるものを指す.同位体の中でも,長期にわた り安定で自然界に普遍的に存在するものを安定同位体と いう.安定同位体自然存在比とその変動は小さいため,
標準物質との千分率偏差という特有の表示法を用いるの が便利である.単位は(‰;パーミル)を使用する.窒 素原子を例にとると,標準物質は大気中の窒素分子N2 であり,
δ
15N試料(‰)=[(R試料/R標準物質)−1]×1000 R=15N/14Nとなる.したがって,試料の同位体比 (15N/14N) が大気 中のN2より高い場合は
δ
15Nは正の値を,低い場合は負 の値をとる.15Nと14Nは電子状態は同じなので化学的性質がほぼ 同一であるが,15Nは14Nに比べて重いため,分子拡散 や酵素反応において環境中での挙動がわずかに異なる.
これは同位体効果あるいは同位体分別と呼ばれ,その効 果は反応経路や反応の程度によって異なってくる.ま た,化学反応の結果できる生成物の同位体比は反応前の 基質の同位体比を反映したものとなる.つまり,生成物 の同位体比は基質の同位体比と反応経路の両方について の情報を併せ持つことになり,同位体比を知ることによ
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り起源物質や生成プロセスを推測することが可能とな る.
N2Oの生成プロセスを議論する場合,N2Oの同位体比 の結果のみから生成プロセスを解析するのは困難であ る.たとえば,
δ
15N=−30‰のアンモニウムが硝化に よって+30‰の同位体分別が起こった場合と,δ
15N=−10‰の硝酸イオンが脱窒によって10‰の同位体分別 が起こった場合を比較すると,両者とも生成したN2O の
δ
15Nは0‰となり,区別がつけられない(図1a).こ のため,基質となりうる物質の同位体比や濃度など,ターゲットとするN2O以外の情報を収集する必要があ る.
アイソトポマーとは
同位体 (isotope) が原子を対象とした概念であるのに 対して,アイソトポマー(isotopomer;同位体分子種)
は同位体組成が異なる分子を対象とした概念である.こ れは,これまで問題にされなかった原子の分子内での配 置がアイソトポマーの議論では区別されることを意味す
る.N2Oの場合,図2に示した5種類のアイソトポマー が主に存在する.N2OはN‒N‒Oの順番で並ぶ非対称の 直線分子であるため,中央(
α
位)の窒素原子と末端(
β
位)の窒素原子は区別可能である.このN2O分子内 の2つの異なる窒素原子の同位体比の差δ
15Nα−δ
15Nβ を サイトプレファランス (site preference ; SP) と定義す る.N2Oの2つの窒素原子はどちらも同じ基質を起源と する一方,SP値は生成プロセスに固有の値をとるため,N2Oの同位体比のみから生成プロセスを議論することが 可能となる(5).前述した硝化と脱窒では,硝化によって 生成したN2OのSP値はおよそ33‰となるのに対し,脱 窒によって生成したN2OのSP値はおよそ0‰となるた め,N2OのSP値を測定することで,生成プロセスのみ を議論することが可能となる(図1b).
N2Oアイソトポマー分析の実際
1. 質量分析法
N2Oの窒素・酸素安定同位体の測定方法としては,こ れまで質量分析法が主流であった.質量分析法は,まず 液体窒素でN2Oが濃縮された後,ガスクロマトグラ
N O
α β
酵素反応による
同位体分別 +30
N
N N O
N N O
N N O
+10 基質のδ15N(‰) -30 -10
N2O のδ15Nbulk(‰) -30+30 = 0 -10+10 = 0 区別できない NH4+
NH4+ NO3-
+46.5 +10
基質のδ15N(‰) NH4+ -30 NO3- -10 酵素反応による
同位体分別
α β
+13.5 +10
N2O のδ15Nα(‰) -30+46.5 = 16.5 -10+10 = 0
区別できる N2O のδ15Nβ(‰) -30+13.5 = -16.5 -10+10 = 0 N2O の SP(‰) 16.5-(-16.5) = 33 0-0 = 0
硝化 脱窒
(a)N2O のα位とβ位を区別できない場合
(b)N2O のα位とβ位を区別できる場合
図1■硝化と脱窒で生成されるN2Oの同位体比の例
(a) N2Oの α 位と β 位を区別できない場合は,δ15Nbulk(平均値)
の情報しか得られないため,硝化由来のN2Oと脱窒由来のN2Oを 区別できない.(b) N2Oの α 位と β 位を区別できる場合は,α 位 と β 位の δ15N値を区別可能なため,硝化由来のN2Oと脱窒由来の N2Oを区別できる.
14
N
14
N
16O
15
N
15
N
14N
16O
14
N
16O
14
N
14
N
17O
14
N
14
N
18O
β α
図2■5種類のN2Oアイソトポマー
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フィー (GC) で同じ質量をもつCO2と分離され,質量 分析機に導入される.N2Oが真空中でイオン化される と,電荷数あたりの質量の比 / が 44, 45, 46 の5つの イオン(14N14N16O+, 14N15N16O+, 15N14N16O+, 14N14N17O+,
14N14N18O+) が生成される.これらのイオンに一定の電 圧をかけて加速したのち適切な強さの磁場をかけること により,各イオンはそれぞれの / に応じた曲率半径 の弧を描く.分離したイオンを適切な位置に設置された イオンコレクタでイオン強度を測定することにより各イ オンの存在比を求めることができる(図3).ここでは,
46/44の比から
δ
18Oが,また45/44の比からδ
15Nbulk(2 つの窒素原子の同位体比の平均値)が求められる.δ
17O は 18O/16O比と一定の関係にあることが多く,46/44の 比から求められる.また,N2Oがイオン化される際に一 定の割合で末端のβ
位にある窒素原子が取り除かれ,NO+フラグメントが生成される.このときに生成される イオンは / が30, 31, 32の(14N16O+, 15N16O+, 14N17O+,
14N18O+) であり,31/30の比から
δ
15Nα が求められる.SP=2 (
δ
15Nα−δ
15Nbulk) の関係があるので,先に求め たδ
15Nbulkとδ
15Nα からSPが求められる.これまでN2O アイソトポマー質量分析には / が30, 31, 32, 44, 45, 46のそれぞれの質量に応じた位置に設置されたイオン コレクタを用意する必要があり,N2Oアイソトポマー質 量分析に特化した高額な質量分析機を要したが,筆者らが開発したトラップ温度コントローラーで微妙な温度調 整を行い,N2, O2などのN2O分子またはNO+ フラグメ ントと重複する成分を取り除くことにより,比較的安価 な質量分析機に採用されるさまざまな質量に対応可能な ユニバーサルコレクタでもN2Oアイソトポマーの高精 度分析に対応できるようになってきている.
2. レーザー分光法
一方,レーザー分光法では,アイソトポマー分子ごと に特有の赤外線吸収波長をもつことを利用する.N2Oは 赤外線領域に分子内振動に起因する特性吸収をもち,そ の吸収波長は質量や原子の並び順でそれぞれ異なるの で,N2Oの5種類のアイソトポマーはそれぞれ特有の吸 収波長をもつことになる.反射鏡を有するフローセル内 に試料を連続的に導入し,セル内に赤外線レーザー光を 照射すると,セル内でレーザー光が繰り返し反射する.
その間に特定の波長が吸収され,アイソトポマー分子ご とに異なる吸収波長をもつ赤外線吸収スペクトルが得ら れる.その吸収強度を測定することによって安定同位体 比を測定する.レーザー分光法はこれまでCO2 濃度や 同位体比の測定など,比較的高濃度の気体を測定するた めに使われてきたが,最近になってN2O同位体のよう な低濃度の気体を測定するための技術が飛躍的に発展し つつある.レーザー分光法には使用する波長帯や吸収強 度の測定方式の違いによってCDRS方式,QCL方式,
Off-Axis ICOS法などが存在するが,ここでは割愛す る.
N2Oアイソトポマー測定技術のこれから
同位体分析のための質量分析機については高精度の機 器が数十年前から実用化されており完成度が高い技術で ある.しかしながら試料を質量分析機に導入するための 前処理が煩雑であったため,近年は試料前処理技術の簡 素化,自動化など,簡単かつ多量に測るための技術が発 達してきており,今後もこのような流れが続くと思われ る.一方,レーザー分光法によるN2Oの同位体分析は ごく最近になって急速に発展しつつある手法で,温度依 存性や長時間測定時に測定値が安定しないなど,装置と しては未完成の部分も多いが,今後の改善が期待され る.質量分析法は精度が高いが,サンプリングは基本的 に手動で,かつ1点の分析に数十分から2時間程度要す るため,分析点数が稼げないというデメリットがある.
一方,レーザー分光法は低濃度域での精度は低いもの の,時間分解能が高く,サンプルガスを連続的に流すこ
44 45 46 N2O+
30 31 32 NO+
イオンコレクタ イオンソース
e- N2O+
NO+ GC
N2O
液体窒素 N2O 試料
図3■GC-IRMSの概略図
GCでN2O成分を精製・分離した後,イオンソース部でイオン化 し,磁力によって質量の異なるイオンを分離し,各イオンコレク タで検出する.N2Oアイソトポマー分析の場合,まず / が45 のN2O+イオンが中央のイオンコレクタで補足されるよう磁場の 強さを調整し, / が44, 45, 46のイオンの存在比を求める.次に
/ が31のNO+フラグメントイオンが中央のイオンコレクタで 補足されるよう磁場の強さを変えて / が30, 31, 32のイオンの 存在比を求める.両端のイオンコレクタは広範囲の / に対応で きるよう幅が広い構造になっている.
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とによって秒単位での変化を観察することが可能であ る.またレーザー分光法の装置は比較的コンパクトで,
圃場などの野外や船舶などでの測定が可能な設計がなさ れている.このように両者の利点,欠点はそれぞれ異な るため,大気サンプルや圃場などの比較的濃度が低い フィールド上のサンプルについては質量分析法で,また 微生物や土壌の培養実験などの濃度が高く,同位体比が 急激に変動するようなサンプルについてはレーザー分光 法で測定するなど,用途に応じて使い分ける,あるいは 組み合わせて使う方法が主流となってくると思われる.
土壌圏からのN2Oの発生経路は前述のように多様で あるため,N2O発生経路を把握することが重要である.
そのために,より正確に発生経路を把握できるN2Oア イソトポマーの分析技術の発展と普及が期待される.
文献
1) P. Forster & V. Ramaswamy :“Climate Change 2007 : The Physical Science Basis. Fourth Assessment Report of the Intergovernmental Panel on Climate Change,”
Cambridge University Press, 2007, p. 131.
2) A. R. Ravishankara, J. S. Daniel & R. W. Portmann : , 326, 123 (2009).
3) P. Smith & D. Martino :“Climate Change 2007 : Mitiga- tion. Fourth Assessment Report of the Intergovernmen- tal Panel on Climate Change,” Cambridge University Press, 2007, p. 499.
4) M. Hayatsu, K. Tago & M. Saito : , 54, 33 (2008).
5) 木庭啓介: 流域環境評価と安定同位体 ,永田 俊,宮
島利宏編,京都大学学術出版会,2008, p. 388.
(中島泰弘,農業環境技術研究所)
プロフィル
中島 泰弘(Yasuhiro NAKAJIMA)
<略歴>1993年東京工業大学理学部生命 理学科卒業/1998年同大学大学院生命理 工学研究科バイオサイエンス専攻博士課 程修了/同年農林水産省(現 農業環境技 術研究所),現在に至る<研究テーマと抱 負>安定同位体を用いた生態系における窒 素循環過程の解析,安定同位体分析技術の 開発・改良<趣味>スキー,アウトドア,
音楽,ポタリング(自転車で散歩),ゲー ム