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プラハ滞在記ーヘイロフスキー研究所の一年

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Academic year: 2025

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プラハ滞在記 ーヘイロフスキー研究所の 一年‑*

1 .

はじめ に

20004月2日から 1年間、チェコ共和 国のプラハにあるヘイロフスキー物理化 学研究所で液液界面電気化学に関する研 究を行う機会を得た。

チェコ共和国は、人口 1千余万人、面積 は北海道の約9 5 %、周りをドイツ、ポーラ ンド、スロヴァキア、オーストリアに囲ま れてヨーロッパのほぼ中央に位置する 。 首都プラハは、東経15度北緯50度 、パリ の北、ロンドンの南、アジアではサハリン の中央あたりである。大抵の人にはまだ

前 田 耕 治**

いま 、東欧時代のチェコはたかだか30年 の歴史に過ぎないということもあって、

自国を東欧と呼ばれることを快く思わな い人も多い。

妻と3人の子どもとともに過ごした 1年 は、研究生活だけでなく、日常生活におい ても新鮮な経験であった。遠くの日本か らでは感じ得ないチェコの日常を以下に 紹介したい。

2 .

チ ェ コ と 電 気 化 学

ヘイロフスキー物理化学研究所の前身 チェコスロヴ ァキアの方がなじみがある は、

J.

H eyrovskyを所長として1950年に設 かも知れないが、チェコとスロヴ ァキア 立されたポーラログラフ研究所と、水銀 は1993年に平和裡に分裂した。 言葉や文 電 極 の 接 触 水 素 波 で 有 名 な 研 究 者 R.

化は近いようにみえるが、食品袋には チェコ語とスロヴァキア語の両方で調理 法が書かれている。ボヘ ミアとして発展 してきたチェコと、ハンガリーの影響を 受けてきたスロヴァキアとは互いに相容

Brdiそkaを所長として1955年に設立された 物理化学研究所である。 1972年、両研究所 は合併し、

J.

Heyrovsky (1959年度ノーベ ル化学賞受賞者)の名を冠したヘイロフ スキー物理化学及び電気化学研究所とな れないものがあるらしい 。私がオースト り、 1993年以降今日の名称に替わった。科 リアヘの旅行許可を求めたとき、研究所 学アカデミーが主宰する 60研究所 のうち 長が認めてくれた許可証には、「オースト 人名のつくものは、この他にもう 一つT.

リアの文化、歴史を知ることは、同じ中欧 Masaryk研究所(チェコスロヴ ァキア初代 に位置するチェコで研究を行うものに必 大統領、哲学者)があるだけである 。 ず恩恵をもたらすだろう」と記してあっ 設立当時のヘイロフスキー物理化学研 た。私たちが現代史で知るチェコは米ソ

の対立の下で東欧に分類されてきたが 、 中世からの長い歴史の中では中欧として 位置付けられてきた。旧体制が崩壊した

究所は電気化学の色彩が濃いものであっ たが、現在では化学物理学、触媒化学、超 分子化学の 3部門が加わっている 。約20 人のスタッフを擁する電気化学部門はさ

*第133回京都化学者クラプ例会(2001年76]講演

**京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科 606‑8585 京都市左京区松ヶ崎

(44)  海 洋 化 学 研 究 第 14 巻第 2号 平 成 1312

(2)

らに4つの分野に分かれていて、私は液液 しい視点と手法を与えることになった。

界面および膜電気化学分野に加わった。 当時若手だったMarecek とSamec両博士 隣接の分野では、

J.

Heyrovsky以来の水銀 は今では研究所のリーダー的存在である。

ポーラログラフを用いた研究が脈々と続 近年、液液界面の研究にもレーザー分光、

けられていた。昨年9月、ここでヘイロフ スキー記念シンポジウムが10年ぶりに開 かれ、 100余人のポーラログラファーが一 同に会した。プラハは水銀電極と切って も切れない関係である。

多くの日本人が、「なぜチェコに研究を しに行ったのか」と語しげに尋ねる。チェ コは旧東欧であり、科学技術先進国では ないという理由からであろう。チェコの 日本大使館員に「研究で在留とは珍しい ですね」と言われたように、電気化学に限 らず 、研究のためにチェコに来る日本人 は多くない。日本人会の名簿にも、留学生 の数は10人程度、そ の他の多くは公務員 と企業関係者とその家族である。

ポーラログラフィーは、 1920年代に志 方益三 (後に京都大学農学部教授)と

J.

H eyrovskyが共同開発したものであるが 、 1980年代からは、日本とチェコは液液並 びに液膜界面電気化

学の分野の先導役で あった。水銀や白金 などの金属電極と溶 液との界面だけでな く、互いに混じり合 わない2つの溶液間 の界面も、同じく電 気化学の理論と方法 論の対象になりえた のである。そして今 日、この研究は分離 化学、分析化学、生化 学 ・薬学の分野に新

マイクロ 電極 、計算機化学が導入されて いて、世界的規模の研究分野を形成して いる。経済的には決して恵まれていない チェコの研究環境であるが、 100年にもお よぶ長い歴史とともに電気化学・物理化 学の基礎を重んじるチェコの伝統を実感 することになった。

3.

家族のような研究室

私の属した研究グループは、 Marecek教 授と2人のベテラン研究員、そして週に 一 度来るカレル大学の学生l人からなる小世 帯である。ただ 一人の非喫煙者である私 は居室と実験室を兼ねた個室を認められ、

1 日の大半をそこで過ごした。新しい研 究テーマは、「液液界面での槻密膜の形 成」であった。界面張力の測定はビデオイ メージ法で行われ、手作りのセルや装置 を用いても測定の精密さに重点を岡くと

R. Brdicka  教授(左)

J.

H eyi・ovsky教授

(3)

いうこの研究グループの特徴を身近に習 うこととなった。

Janchenova女史、通称ハンカは、私の求

めに応じて試薬や器具をチェコ語のおま じないを唱えながら雑然とした棚から即 座に取り出してくれる。彼女の器具や溶 液に手を触れると厳しい顔をするが、そ れ以外は優しいチェコのお母さんである。

サーシャという顔中ひげだらけのLhotsky 博士は、回路の配線など細かいことをす

た私たちのアパートは4階建ての石造り、

築3 40

 

年と思われた。もっと古いもの も多く、外壁を補修したりペンキを塗り 直すことで長持ちさせている。私たちの 住居は 3 L D K、各部屋は広々とし、高い天 井と 真っ白の壁が印象に残る。ガラスの 2重窓と各部屋に2 5 3 0℃の適温の水が 1 日中循環するので、冬でも家の中では 1 日中半袖で過ごすことができる。

4月の後半には、街のあちこちでリンゴ るので、片目にルーペをはさんで独眼流 やサクランボの白い花が咲く。陽差しが になることが多い。ある日、 10 m lのビー 暖かな日には、半袖やノースリーブが目 カーが欲しいと頼んだら、彼は30分後に 立つようになる。朝夕はまだジャンパー 手作りのビ ーカー を持ってやってきた。

質素倹約もこのグループの特徴である。

朝からの実験は夕方の教授とのディス カッションに続く 。単調な毎日の繰り返 しであったが、週末のディスカッション は時折ビールパブで行われた。前触れは、

Marecek教授が4 時頃にっこり笑いながら

近づいて来ることである。後から分かっ たが、私の方からもっと頻繁に誘うのが よかったらしい。ビールパブというのは、

あまり食事をとらず、むしろ安いビール

(0.51、50円ほど)でひたすら議論を楽し

むのである。ただ、注意しないといけない のは、グラスが7分目ほど空くと、知らな いうちに次のビールが置かれることであ る。

4 .

プラハの春 一太陽の恵みを感じ る季節一

プラハ空港に降り立った 4 月2 日のプラ ハは予想していたほど寒くはなかった。

例年になく少雨で穏やかな4月とのことで あった。

Marecek教授が直ちに連れてい ってくれ

(46) 

が手放せない気候だと思うが、街のレス トランのほとんどがオープンテラスに テープルを出している。

5月半ばを過ぎた頃 、30℃近くまで気温 の上がる日が続いて、研究所の同僚は「こ んな天気は大歓迎!」と 喜んでい た。プラ ハは、大雨も地震もなく穏やかであるが、

天候の急変に は注意がいる 。1 日で 10℃ の変化は 当たり 前である 。「プラハの春 (Prazky 

J

如o)」には2 つの意味がある 。そ の一つは 、1968年の8 月、ワルシャワ 軍の 侵攻により終息させられたチェコスロ ヴァキアの民主化運動を指しているので、

それ以降の20年間「春」が来なかったと いうもの悲しい響きが残る。もう 一つの

「春」は、 5月半ばから 6月初旬にかけて 開かれる春の音楽祭の名称である 。市内 全域が音楽に包まれ、一気に春の到来を 感じさせてくれる。そしてこの春は、スメ タナの「我が祖国」で始まり、ベートーベ ンの「第 9 」で終わる。

5.

夏はヴァケーション...

学校は6月が卒業シーズンである。学 校の修了式の日、多くの子どもはリボン

海 洋 化 学 研 究 第14巻第2号 平 成1312

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の付いた証書に一輪の花を添えて歩く。

その後、子どもたちは2ヶ月間の夏休みに 入る。国際列車の発駅であるプラハ本駅 やホレショヴィッチェ駅に大きなリ ュッ クを背負った旅姿の学生が目立つのも、

この季節である。

このころを境にして、研究は「リン脂質 を用いた桐密膜の生成実験」から「電解重 合を用いた液液界面で重合反応」へと進 んだ。 7月17日、ようやく界面イオンの移 動を示す電流が目立って小さくなるのが 観測された。成功である。界面で緻密な膜

れている。

6. 黄金のプラハ

プラハは、神聖ローマ帝国皇帝カレル4 世の時代に隆盛を極めた。クトゥナホー ラ町は銀で栄え、チェコはヨーロッパ中 に銀貨を供給した。プラハは歴史的に黄 金の町と呼ばれた。しかし 、いま、建物と 芸術にその歴史は継がれているが、経済 的に黄金の町は残っていない。

九月の後半、木々は黄色に色づく。紅葉 ではなく黄葉である。町の中心を南北に が生成したという確かな証拠である。プ 流れるヴルタヴァ川より対岸に屹立する ラハに来て初めて、実験結果に小躍りし プラハ城を 眺め ると、その左側か らペト

た。 Marecek教授からも祝福を受けた、" シーン森の黄葉が眼に飛び込んでくる。

Perfect !"と。 黄金のプラハはいまも健在である。

夏休の研究所は閑散とする。職員レス チェコでもっとも気に入ったものを一 トランもメニューが減り、縮小営業とな つあげよと言われれば、私は迷わず晩秋

る。 M arecek教授は「非常勤ながら公務員 のビールをあげる。僅かな人口でもビー

としての君には6週間の有給休暇がある。 ルの消費量は日本の3倍という。鼻につか これを使うのは義務だ。」と勧められ、前 ない、まろやかなのどごしが最高である。

田家は鉄道による3つの国内旅行を計画し

た。その第 1は、チェコ南西部にあるブラ 7. クリスマスと鯉

ンスコ鍾乳洞、目玉は地底を流れる 川の クリスマスが近づくと、 2つの光景をよ ボート遊覧である。第2は、ドイツ国境の くみかけた。 一つは 、大 きい荷物を抱え ヘプという町、有名なカルロヴィヴァリ て、帰省してくる若者の群である。もう 一 温泉保養地である。この町はカラフルな つは、 20 日過ぎに街角に現れる鯉のいけ バロック様式の建物で囲まれた広場が美 すである。ほとんどの家庭では、クリスマ

しい。最後は、神戸大から短期研修にきて いた0 先生と義妹を交えた南ボヘミアへ の旅行。チェスケー・ブデヨヴィッチェと いう街は、大噴水を取り巻く大広場の夜 景が美しい。ブデヨヴィッキー・ブド ヴァールというここのビールは、バドワ イザーの本家である。もちろん、チェコの 方が数段おいしい。隣接するチェスキー・

クルムロフ 町の、蛇行する 川と 赤い屋根 瓦とお城の調和は世界文化遺産に指定さ

スイヴに2c m位の厚さの輪切りにした鯉 をフライにして食べる。日本のお正月の お雑煮のようなものである。料理した鯉 のうろこがお守りとなるそうである。

鯉のいけすからあふれる水はすぐに凍 る。最低気温はマイナス10℃、暖かい日 中でも零℃前後である。この陰鬱とした 冬があるから、春の陽気がとても待ち遠

しいのである。

1年のチェコ生活の途で 、21世紀 の初日

(5)

の出をマイナス10℃のプラハ城で迎えた。

チェコ人は大晦日の大騒ぎがメインで あって、初日を寿いだのは私たち(http://

www.asahi.com/20‑2  lc/tobira/)だけだった。

8 .

む す び

3月23 日、グループの定例セミナーで

「液液界面での電解重合による高分子膜の 生成とその膜によるイオン移動制御」と 題して最後の研究報告をした。ほとんど ぶつつけ本番であったが、活発な質疑が あって胸をなでおろした。歓送会を兼ね たランチは、「日本のG N Pは上がり続ける のか」、「ロシアではキリル文字がラテン 文字表記に変わりつつあるが、日本では ひらがな ・漢字表記がまだ続くのか」、「日 本のパソコンでは、英字キーボードでど うやって漢字を表現するのか」などなど の議論を含んで午後7時まで続いた。

チェコ人と同じ店で行列を作り、同じ

電車に乗り、同じ幼稚園へ子供を通わせ、

チェコ人の家族に混じって映画館にも 行った。アパートの住民、チェコ語や空手 の先生など、何人かのチェコ人とも知り 合いになった。そういう中で、異なる生 活・文化を知ったことと、それらにわずか ではあるが順応した経験の 一つひとつが かけがえのない財産となった。

チェコの生活の中で特に印象に残った ことは、自転車が無いこと(公共交通機関 が市民の足)、市民がいつも買い物袋を持 ち歩くこと(過剰なサービスはない)、電 車の中のマナーが優れて良いこと(席を ゆずりあわないのが奇異に感じる)、であ る。今、経済自由化の波を受け入れて変貌 しつつある中世の都市のプラハであるが、

百塔に代表される歴史の重厚さとビール パブで会話を楽しむ市民の素朴さは簡単 には変わらないような気がする 。

(48)  海 洋 化 学 研 究 第 14 巻第 2 号 平 成 1312

Referensi

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