プロダクト イノベーション
清酒醸造と白髪染め
月桂冠株式会社総合研究所
中村幸宏
日本の食文化の特徴のひとつは,醤油,味噌,みり ん,焼酎,清酒といった実に多くの,麹を利用した食品 があることだろう.麹の起源は,東アジアの大陸部にあ るといわれている.興味深いのは,日本の麹が単に大陸 から伝来したものではなく,独自の発展を経て現在に 至っている点だ.大陸の麹は,生の穀物を砕いて水を加 え,それを練って成形し,クモノスカビ ( sp.)
やケカビ ( sp.) を生育させたものが主流だ.一 方,日本の麹は,蒸した穀物を成形せず,ばらばらの状 態のままコウジカビ ( sp.) を生育させたも のである(1).こうした麹を利用する文化は今日の日本に もしっかり浸透し,しかも決して古風なわけではなく,
最近では塩麹が若者に流行する現象も見られる.本稿で はこのような日本の麹をつくるコウジカビの一種で,清 酒醸造において活躍する麹菌 ( ) に関 する話題を取り上げる.
清酒醸造には「一,コウジ(麹).二,モト(酛).三,
ツクリ(造り)」という言葉がある.清酒醸造において 大切なものが3つ列挙されており,一番目のコウジは蒸 した白米に麹菌を生育させたものである.清酒ラベルの 原材料表示では「米麹」と記されている.麹菌は生育の 過程でさまざまな酵素を生産する.それらの中で最も重 要なものは,デンプンを糖化するアミラーゼ系酵素群で ある.コウジを造る工程はアルコール発酵でないにもか かわらず,非常に大切だと認識されているのである.
なお,二番目のモトとは,アルコール発酵を健全に行 うための清酒酵母 ( ) を高純度 で生育させたものである.無菌培養に対応した近代工業 の発酵槽が生まれるはるか昔より受け継がれてきたモト 造り技術により,開放容器を使用しながら微生物の特性 を巧みに利用し,安全に製造される.三番目のツクリと は,コウジとモトに仕込水と蒸した白米を加えて,デン
プンを糖化し,生じたブドウ糖をアルコールに変換する 主発酵工程である.
米麹において麹菌が生産する酵素には,デンプン分解 酵素やタンパク質分解酵素をはじめ,多様な種類があ る.当然のことながら清酒醸造において有益な酵素と,
可能な限り低減したい酵素があり,前者の代表は α-ア ミラーゼとグルコアミラーゼ,後者には酸性カルボキシ ペプチダーゼやチロシナーゼなどがある.酸性カルボキ シペプチダーゼが強いと清酒の雑味が増し,チロシナー ゼは後述する「黒粕」を引き起こす.
麹菌チロシナーゼと「黒粕」
チロシナーゼ活性が高い麹菌により製造された米麹 は,通常のものが白色であるのに対して,茶褐色に変色 することがあり,褐変麹と呼ばれる.また,このような 米麹を用いて清酒を醸造すると,変色した酒粕,いわゆ る「黒粕」が生じてしまう.酒粕は清酒もろみを搾って 得られる白色板状の固形物で,原料米由来の不溶性タン パク質や,未利用デンプン,酵母細胞,麹菌細胞,各種 酵素などが含まれている.酒粕自体を食用にしたり,漬 物にも利用され価値あるものだが,「黒粕」は空気に触 れると黒い斑点を生じたり,全体が灰色に変化して,商 品価値が損なわれてしまう(図1).
「黒粕」現象は古くから知られていたようだが,科学 的に原因が探究されたのは昭和30年代で,麹菌が生産 したフェノールオキシダーゼの作用で生じたメラニン色 素が,酒粕を黒く変色させることがわかった(2).後に,
このフェノールオキシダーゼはチロシナーゼであること が明らかにされた.チロシナーゼは,アミノ酸のチロシ ンを基質としてメラニン色素を生じる反応を触媒する.
しかしそれだけではなく,基質特異性が低く,フェノー
ル性水酸基を有する種々の化合物や,タンパク質やペプ チドを構成するチロシン残基に対しても反応性を示すた め,基質を除去して「黒粕」を防止することは現実的に 難しい.
そうであれば,米麹を製造する際にチロシナーゼ活性 を抑える制御をかければよいのだが,チロシナーゼと醸 造に必要なグルコアミラーゼの発現プロファイルが似て いる.どちらも,米麹の温度が上昇し乾燥が進む,麹造 りプロセスの後半で生産されるため,十分なグルコアミ ラーゼ活性を維持しながらチロシナーゼ活性を抑えるの は現在の培養制御技術では達成できていない.
現実的な解決策として,清酒醸造現場では低チロシ ナーゼ活性麹菌が使用されている.優良麹菌を育種する 際はチロシナーゼ活性が常に念頭に置かれ,ほかの形質 が良好であっても,チロシナーゼ活性が高い場合はなか なか実用に供されることがない.
近年,黒粕の原因となるチロシナーゼをコードする遺 伝子 が同定され(3),麹菌育種法の幅が広がった.
しかしながら,チロシナーゼ活性を確実に抑える実用技 術はいまだ完成されていない.なお,麹菌には複数のチ ロシナーゼが存在するが,ここではMelBを麹菌チロシ ナーゼと呼ぶ.
このような事情で,清酒醸造業界は古くから麹菌チロ シナーゼに関心を抱いている.ところで,チロシナーゼ という名称は,酵素の専門家でない一般の人々にとって もなじみがあるものかもしれない.おそらくそれは,日 焼けやシミの原因であるメラニン生成に関与するからで あろう.化粧品にチロシナーゼ阻害剤を配合する例があ るのは有名である.このように,チロシナーゼに対して 世間でも清酒醸造業界でも好ましくない印象が定着して いる.
毛髪とメラニン
メラニンは皮膚や毛髪に存在する色素である.毛髪の 場合,毛根にあるメラノサイトでメラニン色素がつくら れる.アジア人に見られる黒色メラニンはユーメラニ ン,ヨーロッパ人に見られる赤褐色メラニンはフェオメ ラニンと呼ばれ,構成成分が若干異なるが,いずれも生 成にはチロシナーゼが関与している.そして,加齢など によりメラニン生成量が減少すると白髪になる.
白髪を元の髪色に染めて若々しくなりたい,という需 要に対して,大別すると二通りの染毛方法が一般的であ る.ひとつは酸性染料を用いたヘアマニキュアで,色素 が毛髪タンパク質に吸着する性質を利用している.もう ひとつは,酸化型染料を用いたヘアカラーで,染料前駆 体を毛髪に塗布し,酸化剤の作用で毛髪内に染料を生成 させるものである.それぞれにメリットとデメリットが あり,合成染料や天然染料など,さまざまな染料が利用 されているが,意外なことに本来の毛髪色素であるメラ ニンを利用したものはあまり知られていない.
では,なぜメラニン色素は白髪染めに広く利用されて いないのか.メラニンは高分子化合物で,水に対する溶 解性は低い.水溶性メラニンを調製したり,アルカリ条 件で可溶化させるといった工夫は可能だが,高分子化合 物である点に変わりはなく,それらを毛髪に浸透させる のは難しい.毛髪に強く吸着する酸性染料のような性質 も備えていないため,シャンプーで洗えば流れ落ちてし まう.
そこで,低分子量のメラニン前駆体を白髪に塗布し,
毛髪内でメラニン色素を生じさせれば,流れ落ちにく く,自然の髪色に近い状態を再現できると期待できる.
しかしながら,メラニン前駆体は空気中でたいへん不安 図1■褐変麹と黒粕
通常の清酒醸造用麹菌を用いて製造した米麹と酒粕は白色である(左).一方,チロシナーゼ活性が高い麹菌を用いると褐変麹と「黒粕」が 得られる(右).
定であり,確実に工業生産できる方法の開発と,生産し た後の安定性が課題となる(4).
化学合成法によるメラニン前駆体生産は実験室で十分 可能だが,事業に見合うコストで安定的に工業生産する のは容易ではない.欧州の一部の国では化学合成メラニ ン前駆体を配合した白髪染めが上市されているものの,
広く世界に普及する段階には至っていない.
そこで,メラニン生成に関与する麹菌チロシナーゼを 利用し,酵素法で白髪染め用のメラニン前駆体を生産す る研究が開始された.この研究には3つの要素がある.
まず,麹菌チロシナーゼを工業生産する技術.そして,
麹菌チロシナーゼを用いてメラニン前駆体を工業生産す る技術.最後に,メラニン前駆体を用いて優れた白髪染 めを完成させることである.なお,今回研究対象とした メラニン前駆体とは,日本人に多い黒色色素をつくる ユーメラニン前駆体である.
麹菌チロシナーゼの工業生産
産業用のチロシナーゼ酵素剤はあまり知られていな い.おそらく需要が乏しいからであろうが,チロシナー ゼ特有の扱いにくさも原因に挙げられるだろう.一般に チロシナーゼは,タンパク質が完成した時点で活性を示 さない.麹菌チロシナーゼも同様で,活性中心にCu2+
イオンを取り込み,さらに何らかの立体構造変化を伴う
「活性化」処理を経て,活性型チロシナーゼになる.「活 性化」処理は,基質が活性中心に接近する際の立体障害 を解消する効果があると考えられており,チロシナーゼ の種類により有効な方法が異なる.麹菌チロシナーゼの 場合は,いったん酸性条件にさらす酸処理,あるいは,
Trypsinにより一部配列を除去するプロテアーゼ処理が 有効である.工業生産においても,タンパク質の大量生 産に続いて,Cu2+ イオンを取り込ませ,「活性化」処 理を施すことで活性型チロシナーゼが得られた.
ところで,清酒醸造を振り返ってみると,図2に示す
ように「黒粕」の生成にもチロシナーゼの活性型への変 換プロセスが関与していた.メラニン生成には,基質と 酸素と活性型チロシナーゼの三者が揃っている必要があ る.米麹に含まれるチロシナーゼは大半が未活性化状態 で,基質を加えてもメラニン生成速度は遅い.チロシ ナーゼは弱酸性の清酒もろみ中で活性化されるが,もろ みの溶存酸素はゼロに近くメラニンは生成しない.最後 に,酒粕に移行した活性型チロシナーゼが空気に触れて メラニンが生成,すなわち,「黒粕」が生まれるのであ る.
麹菌チロシナーゼを利用した メラニン前駆体の工業生産
メラニン生合成経路を図3に模式的に示す.チロシン や β-(3,4-ジヒドロキシフェニル)アラニン (DOPA) を 出発物質として,複数の酸化反応を含む多段階反応を経 てメラニンに至る.チロシンとDOPAは空気中では容 易にメラニン色素を生じないため白髪染めに適さず,最 終産物のメラニンも,前述のとおり白髪染めに適さない 副生成物である.それに対して,メラニン前駆体は空気 中で容易にメラニン色素を生じる性質を備え,白髪染め の成分として有効である.
メラニン前駆体を蓄積させるため,原料にDOPAを 用い,麹菌チロシナーゼを反応触媒として加え反応条件 を検討した.反応中間体であるメラニン前駆体を高収率 で得るのは容易ではなかった.酸素を供給して反応を進 行させれば,大半が副生成物メラニンに変換されてしま う.逆に酸素を制限したり酸化防止剤を使用すれば,反 応2が妨げられメラニン前駆体が生成しない.試行錯誤 の中で,反応5が条件によって比較的低速に制御できる ことがわかり,それを利用して短時間の酸化反応でドー パクロムを一時的に蓄積させた.ただちに反応系内の酸 素を除去して反応6を遮断し,5,6-ジヒドロキシイン ドールを主成分とするメラニン前駆体溶液が得られ 図2■清酒醸造におけるチロシナー ゼの活性型への変換
麹菌が生産したチロシナーゼは自発 的に環境中のCu2+ イオンを取り込 む.その後,酸処理やプロテアーゼ 処理により活性型に変換され,基質 と酸素が存在するとメラニンが生成 する.
た(5).このメラニン前駆体は空気との接触で劣化するも のの,それを避ければ室温で安定保存できる.
メラニン前駆体を配合した白髪染め
こうして得られたメラニン前駆体を配合し,白髪染め の商品開発を行った.使用時まで空気との接触を避けら れるようエアゾール容器に充填し,使用感を良好にする ための増粘剤や酸化防止剤の配合などを検討し,自宅で 比較的簡単に使用できる白髪染めが完成した(4).
この白髪染めの染色性は一般的なヘアカラーと比較し て穏やかで,1回の使用でわずかに髪色が濃くなる程度 である.繰り返し使用し,3 〜 5回で白髪が黒っぽく なってきたと感じられる(図4).1回で確実に黒く染め たいユーザーには適さず,むしろ急激な変化を望まず,
気づくと何となく若々しくなっていたいユーザー向けだ といえよう.
一般的なヘアカラーは,染料前駆体と酸化剤を使用時 に混合して染料色素を生成させる2剤式が主流である.
一方,メラニン前駆体の場合は空気に触れることで徐々 にメラニン色素を生じるため,酸化剤を使用する必要が なく,簡便な1剤式とすることができた.また,酸化剤 による毛髪ダメージを回避できる利点もあった.
このように,メラニン前駆体を配合した白髪染めは,
従来の白髪染めと異なる特徴をいくつか有し,それを選 ぶかどうかはユーザーの嗜好次第である.清酒醸造では 困りものだった麹菌チロシナーゼを逆に利用して,ユー ザーの選択の幅を広げるような白髪染めを社会に提供で きたことが,今回の研究開発の意義だったのだろう.
新技術を生んだ異分野交流
さて,麹菌チロシナーゼで製造したメラニン前駆体に よる白髪染めが完成したわけだが,これは異分野交流研 究の一事例と見ることもできる.メラニンを活用する技 術を研究していた白髪染めメーカーと,「黒粕」の色素 であるメラニンを抑える技術を研究していた清酒メー カーが出会い,新技術が生まれたわけである.
企業の異分野交流といえば,地方自治体が地域の産業 振興の目的で,あるいは,銀行が顧客の事業拡大支援の 目的で開催する「ビジネスマッチングフェア」がまず思 い浮かぶ.また,民間企業が企画する展示会などのイベ ントも異分野交流のきっかけとなりうる.一方,学術系 の学会も異分野交流に一役買っており,こちらは産学官 の交流に焦点が当てられていると感じる.
ここで紹介した白髪染めの事例は,実は「ビジネス マッチングフェア」でも展示会でもなく,農芸化学会で 両社の研究者が巡り会ったことが発端である.具体的に は,2001年3月の日本農芸化学会大会一般講演におい て,小畑らが 麹菌の固体培養特異的に発現するチロシ ナーゼ遺伝子のクローニングと機能解析 という発表を 行い,これをきっかけに研究レベルの企業間交流が開始 図3■メラニン生合成経路
実線矢印は麹菌チロシナーゼが触媒する反応で,酸素を遮断すると停止させることができる.ただし,反応6はチロシナーゼが存在しなく ても比較的高速で進行する.点線矢印は非酵素反応で,酵素反応に適する温和な条件下では停止させられない.数字は本文中の反応番号に 対応.
図4■白髪トレス(束)の染色試験
メラニン前駆体を配合した白髪染めに5分間浸してからシャン プーする.これを1回の染毛操作とし,繰り返すと黒色が濃く なっていく.(資料提供:花王株式会社ビューティーケア研究セン ター)
された.
企業同士のビジネスマッチングが成立するためには,
技術の完成度がある程度求められる.仮に,清酒メー カーが麹菌チロシナーゼの工業生産,あるいは,メラニ ン前駆体の工業生産技術を確立した段階で技術紹介を行 えば,その技術を活用する企業と巡り会う可能性が十分 にある.しかし,清酒メーカーはチロシナーゼ活性を下 げることが念頭にあり,そもそも単独でメラニン前駆体 製造を手掛けることはなかったであろう.
今回のように,意外な分野の組み合わせや,基礎的な 研究からスタートしなければ実現できないような異分野 交流は,たとえ企業と企業であっても学術系の学会が大 切な出会いの場になる.今後とも,農芸化学会の産学官 学術交流の取り組みを含め,学会があらゆる立場の研究
者の交流する場としても活用され,そこから豊かな社会 に結びつく成果物が生まれてほしいと願っている.
謝辞:本稿で紹介した麹菌チロシナーゼで製造したメラニン前駆体配合 白髪染めの研究開発は,2001年から2008年にかけて花王株式会社と月桂 冠株式会社が共同で行ったものです.両社の研究グループのみなさま,
ならびに,お力添えくださった多くのみなさまに,心より御礼申し上げ ます.
文献
1) 村上英也,他: 麴学 , 財団法人日本醸造協会, 1986, p. 1.
2) 村上英也,河合美登利:醸協,53, 88 (1958).
3) H. Obata, H. Ishida, Y. Hata, A. Kawato, Y. Abe, T. Akao, O. Akita & E. Ichishima : , 97, 400
(2004).
4) 小池謙造,秦 洋二:フレグランスジャーナル,38, 16
(2010).
5) 中村幸宏,山中寛之,秦 洋二,江波戸厚子,小池謙造:
生物工学会誌,90, 115 (2012).