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カッザーフィー政権崩壊後の混乱要因と背景
――ベンガージを中心としたリビア東部地域に着目して――
九州大学比較社会文化学府博士後期 田中 友紀
2014年中盤のリビアは、2011年にムアンマル・カッザーフィー体制が崩壊してから、最 悪の治安状況に陥っている。特に、リビア東部地域の中心都市ベンガージでは、2012年に 在リビア米国大使殺害事件が発生し、それ以降、民間人の誘拐や殺害、民兵同士の衝突が 急激に増加した。その頻度は他の地域と比べても高い。
本報告では、リビア東部地域を拠点とするイスラーム主義組織の系譜を辿ることでこの 地域の不安定化の背景を説明した。現在のリビア東部地域では、カッザーフィー体制以前 のリビア王政初期に布かれていた連邦制を要求する武装組織と、サラフィー・ジハード主 義の武装組織が混在している。初めに、リビア東部地域で再興した連邦主義について考察 し、1969年のカッザーフィーによる軍事クーデタによって崩壊したリビア王国について概 観した。次に、当該地域を発祥または拠点とするイスラーム主義組織やその歴史について 述べた。そして、それらの組織の発展過程と、現代に至る勢力関係を考察した。
リビア東部地域は「キレナイカ」及び「バルガ」と呼ばれ、オスマン帝国支配下ではス ーフィー教団の一派であるサヌースィー教団が、内陸部のオアシスを中心にザーウィヤを 建設し、キレナイカ地域の支配を強めた。1911年、オスマン帝国がイタリア軍に敗れたた め、キレナイカ地域は他のリビアの地域(トリポリタニア及びフェザーン)と共にイタリ ア植民地領となった。第二次世界大戦後、キレナイカは首都トリポリ含むトリポリタニア 地域と共に英国の軍事統治下に入った。サヌースィー教団と同盟関係であった英国は、1949 年にキレナイカのみを独立させようと画策した。しかし、この計画は国際連合に阻まれ、
最終的に1951年にキレナイカ地域とその他2地域、トリポリタニアとフェザーンは一国に 統合され、サヌースィー教団の指導者であるイドリース一世を王に頂く、立憲君主制の「リ ビア連邦王国」として成立した。
このキレナイカ中心主義とも呼べる連邦王国統治に影響を受け、カッザーフィー政権崩 壊後に表出した「連邦主義者」は2つのグループに分けられる1。一つ目はイドリース1世 の甥にあたるアフマド・ズバイル・サヌースィーを中心とする「伝統的」な連邦主義権威 を標榜するグループである。アフマドは1970年から2001年まで長期にわたって投獄され ており、カッザーフィー体制期の反体制派を代表するリーダーの一人と言える。二つ目は、
武力を用いて連邦主義を達成しようとする「急進的」連邦主義グループである。このグル
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ープの中心であるイブラーヒーム・ジャドゥラーンはサヌースィー王家との関係はない。
カッザーフィー政権崩壊後に、シドラ湾を警備する石油施設警備隊のリーダーとなったジ ャドラーンは、連邦制を求めて同施設を長期にわたって占拠して石油の輸出を停止し、リ ビア経済に打撃を与えた。
次に、リビア東部地域を拠点とするイスラーム主義組織を概観した。エジプトと国境を 接するキレナイカ地域には、1950 年代から 60 年にかけて多数のムスリム同胞団関係者が 流入した。1968年にはリビア・ムスリム同胞団が設立され、1980年代には同団体の援助で リビア救国戦線が組織された。どちらの団体もイスラーム主義者の結社を認めないカッザ ーフィー政権下では厳しい弾圧に晒されたが、新しい政府では公正建設党、国民戦線党と して政治参加を果たした。
他方、カッザーフィー時代にリビアで武力行使を肯定したジハード主義者の組織は、リ ビア・イスラーム闘争グループ(LIFG:Libyan Fighting Group)である。この組織は1990 年に設立され、アル・カーイダやターリバーンと関係があったことによりテロ組織と認定 された2。同組織は、リビア東部地域やパキスタン、アフガニスタンを主な活動拠点とした。
またLIFGは1990年代にカッザーフィーの暗殺を複数回試みたため、激しい弾圧を受けた。
しかし、2000年に入ってカッザーフィーの息子であるセーイフ・イスラームがLIFGとカッ
ザーフィーとの間を取り持ち両者の関係が改善した。それゆえ2011年の動乱当初、LIFGは 反カッザーフィーか否かの旗色を明確に示すことができなかった。最終的にLIFGは新政府 に包摂されたが、時局に乗り遅れたことが否めず、2012年の国民議会選挙では、国民党と 中道ウンマ党合わせて1議席しか獲得することができなかった。
カッザーフィー時代に成立した同胞団系とジハード系の組織は、概ね新政府に包摂され た。しかし、現代のリビア東部地域で台頭しているのは、2011年以降に設立された新規の イスラーム武装組織である。「リビアの盾」、「ラーフッラー・サハーティー旅団」、「2 月17日殉教旅団」、「ウマル・ムフタール旅団」等いくつか存在するが、その中でも一番 過激な武闘派グループは「アンサール・シャリーア」である。同組織は、アル・カーイダ やチュニジアの同名グループとの関係を否定しているが、その真偽は不明である。アンサ ール・シャリーアは、ベンガージの米大使殺害事件や、外国政府関係者や一般市民の誘拐・
殺害などに関与したことが疑われている。
これまで見てきたとおり、ベンガージを中心とするリビア東部地域は伝統的にスーフィ ー(連邦主義者)、同胞団、サラフィー等、イスラーム主義者の揺籃の地であった。いず れのイスラーム主義組織もカッザーフィー時代には激しい弾圧を経験したが、2011年以降
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はその同列の序列に変化が生じた。つまり、新しい政府に包摂されたイスラーム主義組織 と、そうでない組織に分かれることとなった。カッザーフィー政権崩壊からもうすでに 3 年近くの月日が経つにもかかわらず、新政府は未だ脆弱で、国内は分裂状態であり、国軍 を再編するどころの段階ではない。その結果、リビア東部地域では政府の力が及ばない期 間が長期化し、新しい政府と繋がりのない新興のイスラーム武装勢力が伸張した。
このような無法状態のリビア東部地域に、2014年の5月中旬よりカッザーフィー時代の 将官であるハリーファ・ハフタル率いる「リビア国民軍」という名の非公式軍事組織が、
イスラーム過激主義者を掃討することを目的として「尊厳作戦」と呼ばれる軍事行動を開 始した。しかし、本稿執筆中に(2011年7月末現在)アンサール・シャリーアは、ハフタ ル指揮下のサーイカ部隊ベンガージ本部を占拠することに成功し、「尊厳作戦」に勝利し た旨の宣言をした。サーイカ部隊はカッザーフィー時代より LIFG 等のイスラーム武装組 織弾圧の経験もあり、現況でもリビアで最も統率が取れた重装備の部隊だと言われていた。
このサーイカ部隊を敗走に追い込むまでの力を、アンサール・シャリーアが持つようにな った背景やその要因は、新政府の脆弱性のみで語るのは難しいと思われる。今後、アンサ ール・シャリーアへの武器や資金の流れ、国内外のイスラーム組織の同盟関係、人的資源 確保の方法等をこれまで以上に注視し、分析する必要があるだろう。
1 報告者はこれら二つのグループは連邦制を求めているが、武力行使に関する考えが全く 異なること、また独自の内閣を設置していることを鑑みてこのような区分を用いて説明を した。この二つのグループが共になぜ利権の集中するキレナイカ地域の完全な独立ではな く連邦制を志向しているのかについては、今後の研究の課題としたい。
2 対ターリバーン、アル・カーイダ制裁委員会(国連安保理決議第1267号に拠り設置)
でテロ組織に指定された。