Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/
Title 占領下に誕生した新しい歯科医学教育制度 第6編
GHQ/SCAP リッジリー歯科軍医中佐の歯学教育認識(1) Author(s) 金子, 譲; 石塚, 順子; 阿部, 潤也; 辻村, 育郎; 上田,
祥士; 福田, 謙一
Journal 歯科学報, 123(2): 145‑170
URL http://doi.org/10.15041/tdcgakuho.123.145 Right
Description
はじめに
1945(昭和20)年8月に大日本帝国は4回目の戦 争で初めて敗戦を喫した。それも完膚なきまでの負 け方であった。直ちに日本は連合国の占領下におか れ,国家のあり方は帝国主義から民主主義に変換さ せられた。しかし,国民は元来民主社会を求めてい たのか驚くほどの速さで帝国主義意識は払拭され た。占領行政は1951(昭和26)の日本独立(サンフ ランシスコ平和条約:9月8日)まで継続したが,
ポツダム宣言に記された占領目的は1948(昭和23)
年にはほぼ完了したと占領の最高責任者であるマッ カーサー元帥が述べたほど占領政策は迅速に効果的 に進んだ1,2)。歯科医学教育体制はわが国の教育全体 と医療福祉における一部分として改革された。この 時の改革が今日に継続している基本制度となってい る。歯科医学教育は大学レベルとしてしかも修学期 間は6年間となり,さらに卒後に歯科医師国家試験 が一律に課されることが戦前とは異なったその主た る事柄である3)。そして民主的な思想が規範となっ て制度が運営されることとなった。日本の歯科は教 育のみならず歯科医師会の役割,また公衆衛生にお ける歯科のあり方,このための歯科衛生士の誕生な ど歯科の社会的な医療としての性格をより具体的に
実行できる体系に変革された。
連 合 軍 総 司 令 部(GHQ)/連 合 国 軍 最 高 司 令 官
(SCAP)の占領行政として医療福祉を担当したの はサムス陸軍軍医大佐を局長する公衆衛生福祉局
(PHW)であり,同部が医学・歯学・薬学・看護 学・獣医学の教育改革案の作成を主導した3)。歯科 課の責任者である課長はリッジリー(Ridgely DB)
陸軍歯科軍医中佐であった。リッジリー中佐には上 記の改革とともに日本の歯科医療に欠かせない歯科 機材の復興にも大きな責任が課せられていた。
彼は現代日本の歯科のエポック・メーカーであ り,3年間という短期間で極めて強力な影響を日本 の歯科界に与えた。しかし占領軍軍務の遂行者とい う立場によるのか当時の関係者によったリッジリー 中佐の人物等を語った記述は少なく,また軍歴も管 見のかぎり不明である。彼は占領行政官でありいっ とき極めて濃密に大仕事を協働した日本人教育者ら が存在したが,彼の帰国後に個人的な関係が生まれ ていた話も聞かない。
リッジリー中佐の命題は米国の歯科教育,歯科医 療の形態を日本へ民主的に移入することであった。
広範な成果は改革内容として記録され,また制度と して維持継続されている。そこで本項ではリッジ リー中佐の限られた履歴と彼の歯科医師時代におけ る米国の歯科教育,また陸軍歯科軍医将校への軍の 教育を見ることで彼が持っていたであろう歯科教育 認識とともに彼の離日に際しての報告書から日本の 歯科への改革意識を探ってみたい。
解 説
占領下に誕生した新しい歯科医学教育制度
第6編 GHQ/SCAP リッジリー歯科軍医中佐の歯学教育認識 ⑴
金子 譲1) 石塚順子2) 阿部潤也2) 辻村育郎3) 上田祥士4) 福田謙一5)
1)東京歯科大学名誉教授,2)東京歯科大学図書館,3)歯科医院開業 横浜,
4)歯科医院開業 東京,5)東京歯科大学口腔科学健康学講座
キーワード:GHQ/SCAP·PHW,歯 科 教 育 改 革,リ ッ ジ リー陸軍軍医中佐,米国歯学教育,米国陸軍 軍医学校,セントルイス大学歯学部
(2023年5月15日受付,2023年5月30日受理)
http : //doi.org/10.15041/tdcgakuho.123.145 連絡先:〒150‐0013 東京都渋谷区恵比寿4
金子 譲
145
― 73 ―
セントルイス大学歯学部卒業とインターン 1.17歳の入隊4,5)
リッジリーは1900(明治33)年3月8日にイリノ イ州リッチランド郡オルニー(Olney)に生まれ た。7歳の時に父親が逝去したために少年時代から 農業を手伝って過ごした。彼は17歳で陸軍に入隊し た。最小年齢での入隊は家計が配慮されていたと思 われる。
2.セントルイス大学歯学部(Saint Louis Univer- sity, College of Dentistry)と入学
リッジリーはセントルイス大学歯学部に1922(大 正11)年に入学し6),1926(大正15)年に卒業した7)。 入隊から歯学部入学までの5年間のことは不明であ る。なお,同歯学部が高等学校卒業後に1年間の前 教育を要求するのは1926(大正15)年9月の入学生 からであった8)。セントルイス大学学生のアーカイ ブ9)などから当時の歯学部の様子をみてみる。
同 大 学 は1818年(11月16日)に 始 ま っ た Saint Louis Academy が 起 源 と さ れ る。創 立 者 は Louis William Valentine DuBourg 司祭でミズーリ川の近 くの住宅が学校であった。同大学はミズーリ川西側 では最古の大学であり,ローマカトリック系大学で ある。医学部は1836(天保7)年に設置され,同川 西側では最初の大学医学部であった。現在の同大学 は学部学生約8,100名,大学院生約4,700名,教員約 2,200名,職員約6,000名の総合大学であり10),サム ス大佐の卒業したセントルイス・ワシントン大学と 並んで米国中西部きっての私立名門大学である。
リッジリーが学んだセントルイス大学歯学部は,
1908(明治41)年(6月1日)にセントルイス大学 に 併 合 さ れ た Alarion-Sims Dental College が 起 源 とされる。同歯科医学校は James P Harper が1894
(明治27)年に設立し,最初の学生は28名であっ た11)。リッジリーが入学した1922(大正11)年には Harper が学部長であった12)。
セントルイスは1904(明治37)年に万国博覧会と 第3回オリンピックが開催されたほど,20世紀初頭 に最も栄えた都市であった。このときに Interna- tional Dental Congress が開かれ日本からは血脇守 之助,榎本積一,藤島太麻夫が紙上発表した13)。血
脇は日本の歯科の現状を報告し,これを Dental Cos- mos(1905)に改めて論文として掲載した14)。筆者 らにはセントルイス交響楽団あるいはセントルイ ス・ブルースなどによって馴染みとなっているセン トルイスは,1970(昭和45)年代から市街地老朽化 と産業不振により治安環境が悪化し,急激な人口流 出が始まった。この状態は1990(平成2)年代末ま で続いた15)。
1970(昭和45)年にセントルイス大学歯学部は閉鎖 した16)。米国の歯学部約60校への志望者総数がピー クから1970(昭和45)年代半ばには減少が始まり1980
(昭和55)年代に激減した。志願者の減少が定員不足 をもたらせば学納金の不足という財政を直撃し,な お学生の質の低下が招来される。このため歯学部の 閉鎖という対応をとった大学は下記の私立9大学と なった。Saint Louis 大学(St. Louis, Missouri):
197016),Loyola 大学(New Orleans, Louisiana):
1970,Oral Roberts 大学(Tulsa, Oklahoma):1986,
Emory 大学(Atlanta, Georgia):1988,Georgetown 大学(Washington D.C.):1990,Fairleigh Dickin- son 大学(Rutherford, New Jersey):1990,Wash- ington 大学 St. Louis(St. Louis, Missouri):1991,
Loyola 大学(Chicago, Illinois):1993,North West- ern 大 学(Evanston, Illinois):200117,18)な ど で あ っ た。閉鎖は1985(昭和60)年から1993(平成5)年 までの9年間に6校が集中している。
Loyola 大学歯学部(Chicago)ではその前身であ る Chicago Dental College に東京歯科医専から矢崎 正方(1915−1917)と堀江銈一(1918−1919)が留 学した。1925(大正14)年6月10日にロヨラ大学第 55回 学 位 授 与 式 で 血 脇 守 之 助 を 含 む4名 が ア グ ニュー総長から名誉法学博士(Doctor of Laws, Le- gum Doctor : LLD)の学位記が授与された。後日 華麗な授与式(6.25)が帝国ホテルで開催されバン クロフト駐日米国大使から同学位記は血脇に渡され た。受章は米国歯科医師会会長 Johnson GN が血脇 を同総長に推薦したことによった19)。また,North Western 大 学 か ら は1933(昭 和8)年6月3日 に 奥村鶴吉が Doctor of Science の学位記を受領した。
この時はシカゴ100周年歯科医学大会が開催され North Western 大学講堂で9名の近代歯科医学貢 献者への顕彰式典が厳粛盛大に行われた。血脇守之
146 金子,他:占領下歯科教育改革とリッジリー陸軍軍医中佐
― 74 ―
助は Pierre Fauchard などとその栄に浴した。式典 には顕彰者の胸像が壇上に置かれることから列席し なかった血脇の胸像は日本から送られていた13)。こ の胸像は式典後に奥村から North Western 大学に 寄贈され,そのレプリカは現在東京歯科大学新館の 血脇記念ホールのフロアに置かれている。日本の一 歯科医学校にあってもこのように閉鎖した歯学部と の関係が古くに存在していた。
セントルイス大学歯学部閉鎖は1970(昭和45)年 という早い時期であった。同大学理事会が閉鎖を決 定した1967(昭和42)年には歯学部は4学年までの 学生350名を有していたので,彼らが全て卒業した 1970(昭和45)年の翌年(1971年)から歯学部は存 在しなくなった16)。歯学部閉鎖は名門とされていた 大学に多いが,閉鎖理由として歯学部の質低下が私 立大学の頼りにしている名声への悪影響を他学部に 脅かしかねないこともその1つとして挙げられてい る。また,一部の大学では歯学部が孤立化していて 仲間の学部が少なく大学理事会の「ダウンサイズ」
提案に対抗できるだけの力を持っていなかったとも いわれている20)。
米国の私立大学運営は日本と異なるところが多 く,特に財務の収入では寄付金の占める割合が大き いため,この集金には大学の質と社会への貢献の果 実が重要な提示要因となっている。大学の質とは大 学が目的とする果実によって評価される。教育に関 しては,教職員の質と施設設備の質が一体となった 学生への教育成果を挙げることができる。その基盤 にあるのは学生と教員の質であり,供給側の明確な 教育目標は教員の教授力と学生の習得能力が相互依 存して達成されるところが大である。学生と教員は 互いに刺激的な存在となり,この関係が火力となっ て目標達成に向かって回転することが理想的であ る。歯学部であれば教育成果とともに教員の研究業 績,そして歯学部では先進的な担保された歯科医 療,さらにそうした知的集団が施設とともにいかに 社会貢献しているかなどといった常になされる各種 の評価結果が寄付金額を左右している。20世紀末に 起きた米国の歯学部低迷期はすでに脱却し,現在で は生命科学の一分野としての口腔の健康に寄与する 専門職として,また高額所得者として若者の人気は 高い。ちなみに US News and World Report が毎
年発表している職業100種のランキングでは2023年 が10位21)であり,2017年には1位となっていた22)。 なお,歯学部閉鎖期に一部重なりあいながらその後 の2012年までに7校の歯学部が新設され,4校が 2015年まで設立が計画されていた23)。現在では Com- mission on Dental Accreditation(CODA)に よ っ て 認 定 さ れ た 歯 学 部 は71校 で2021年 の 卒 業 生 は 6,665名となっていて過去最多数であったと米国歯
科医師会は報告している24)。
現在のセントルイス 大 学 に お け る 歯 科 部 門 は Center for advanced dental education として医 学部キャンパスの中で歯科センターにおける診療と 卒後研修機関として活動している。卒後研修では歯 内療法学,矯正歯科学,歯周病学,小児歯科学にお ける各 Master of science の称号と専門医資格の取 得が目的とされている25)。
3.リッジリー在学時の同大歯学部11)
歯 学 部 は1923(大 正12)年 に 新 し く 完 成 し た チューダーゴシック様式の印象的なモダンな建物と なっていてグランド大通り(Grand Boulevard)近 くのキャロライン通り(Caroline Street)に位置し ていた。建物全体が歯学部用の単独の建物であり米 国歯科教育審議会(The Dental Education Council of America)の要件に従って設備されていた。病院 の手術室は1階にあり,133台の歯科用治療椅子は 広いスペースが確保された場所に収まっていた。診 療室の横が検査室,抜歯室(Extraction),レント ゲン室,待合室となっていた。リッジリーはこの新 しい施設を在学途中から使用したことになる。1学 年約70名の集合写真が各学年で毎年掲載されていて Freshman(1学年)6),Sophomore(2学年),Junior
(3学年),Senior(4学年)7)と彼の進級は名簿か ら確認できる。また背広姿から白衣に変わった姿で 写っている Junior, Senior で彼らは位置で名前の確 定ができる(図1)。
277名の歯学部学生全員が予備士官訓練隊に属し ていてさる陸軍大尉の指揮下にあった。学部長は米 国陸軍予備将校として大佐の階級を受けた最初の歯 科医師であった(下線は著者による)。同学部は米 国歯科審議会によった A クラスに分類されてい た。A クラスは歯学部48校のうち20校のみであっ
歯科学報 Vol.123,No.2(2023) 147
― 75 ―
た。また,英国の王立外科医協会(Royal College of Surgeons of England)によって認められた米国の 5つの歯学部(ハーバード大学,ペンシルベニア大 学,ミシガン大学,イリノイ大学,セントルイス大 学)の1つでもあった。リッジリーは1926(大正15)
年にセントルイス大学歯学部を卒業した。
大学の週刊誌である「Varsity Breeze」で歯学部 の活動状況が知らされ,歯学部学生は陸上競技が優 れていて,全学陸上競技部マネージャーは歯学部学 生であった。リッジリーが1学年の時の学生88名は 卒業時には73名と集合写真ではなっていた。
4.リッジリーとガイス報告
20世紀に入ると米国の医学教育と歯学教育の改革 が順次 行 わ れ た。改 革 は 前 者 が フ レ ク ス ナ ー 報 告26),後者がガイス報告27)によりそれらの示唆・主
張に準拠させることを目標として漸次完成した。そ してこれらの改革が20世紀に米国が医学と歯学にお いて世界で確たる地位を築くに至る出発点となっ た。占領下において日本の医学教育は PHW の軍医 であるサムス大佐が,歯学教育では歯科軍医である リッジリー中佐が米国改革に倣うことで今日の医育 の骨格を構成した。したがって,リッジリー中佐と ガイス報告との関係をみておきたい。米国において 現在単科の歯科大学は存在していない。1925−26
(大正14−15)年時には44校の歯科医学校のうち大 学歯学部が36校,医科大学歯学部が3校,そして歯 科が単科として独立運営されているのが5校の状態 であった。カナダではすでに5校全てが大学歯学部 となっていた28)。
歯学教育改革を先導したガイスが全米とカナダの 歯科医学校を調査した時期とリッジリーの在学時期 とは合致する。ガイスはセントルイス大学歯学部に 1921(大正10)年11月,1922(大正11)年5月,そ して1923(大正12)年1月と3回の調査訪問8)をし たが,まさしく第3回目の1923(大正12)年はリッ ジリーの在学中であった。
既述の歯学部のランク分類は1909(明治42)年に 米国歯科医師会が The Dental Educational Council of America(DECA)設立の提案をしたことに始ま り,DECA が実際に評価結果を発表したのは1918
(大正7)年からであった。1920(大正9)年にガ イ ス は カ ー ネ ギ ー 教 育 振 興 財 団 理 事 長 の HS.
Prichett(プリチェット)から指名され,ガイスの 報告書が同財団から公表されたのが1926(大正15)
年であった27)。プリチェットによった緒言が同年1 月13日と記されていることから同書の発刊時期は同 年初期と推定される。つまり,リッジリーはガイス 報告によった全米の歯学部教育改革が端緒につく年 に卒業したことになる。しかし,その大きな改革潮 流 以 前 に 上 述 し た 米 国 歯 科 医 師 会 が 設 立 し た DECA によった歯科医育機関のランク付け(ABC の3段階)がフレクスナー報告によった医学部改革 の影響を受けてすでに開始されていた。セントルイ ス大学歯学部は直近の1923(大正12)年では A ク ラスであり,また1920(大正9)年も同様であっ た8)。ちなみにワシントン大学セントルイス校のそ れは1918(大正7)年には B クラスであったが,
図1 セントルイス大学歯学部4学年の Mr. DB.リッ ジリー
前方3列の右から3人目。Senior class, School of Den- tistry p.97(archive p.105),Saint Louis University Li- braries Digital Collections, year book,1926.からの1 部。
148 金子,他:占領下歯科教育改革とリッジリー陸軍軍医中佐
― 76 ―
1923(大正12)年には A クラスに昇格した29)。 セトルイス大学歯学部は優良校として教育改革へ の対応に心掛けていたと思われるが,学生はこの種 の内容にほとんど関心がないし,また理解が行き届 かないのは通常である。教育の改革は新しい人材を 旧界へ注入することによって斯界の大きなステップ アップを期することは1つの主要な目的である。
リッジリーは歯学部評価分類という教育改革の端緒 に教育を受けた。米軍の第二次世界大戦への参戦は 太平洋戦争の開戦となった1921(昭和16)年12月8 日の日本の真珠湾攻撃からであったのでガイス報告 から16年を経ていて,それは同時にリッジリーの卒 後16年となる。ガイス報告によった歯科医学・歯科 医療の理念,そしてその追及のための教育は歯学教 育機関のみならず軍隊の歯科軍医を含めた歯科界に 漸次普及と定着を進展させた。リッジリー中佐の日 本上陸の時期には米国歯科医育機関は総合大学の学 部であり,学部入学前に2年間の前教育が定着して いた。リッジリーはガイス報告によった歯科の改革 過程を彼の歯科軍医のキャリアーとともに歩んだこ とになる。
さて,1946(昭和21)年1月25日の東京歯科医専 評議員会において大学設立が可決されたことを奥村 が翌朝リッジリー中佐を訪ねて報告したおりに,
リッジリー中佐は「それでよい。ただ一つ希望する のは医科と歯科を重ねないで欲しい」とアドバイス したと記述されている30)。その意味するところを筆 者には分からないが,ガイス報告によればリッジ リーが学んだ時の歯科学生への医学教育は「医学部 との関係」とされた小項目において以下のように記 されている。
「セントルイス大学歯学部では医学部病院棟に歯 科学生の指導専用に床面積で12,000平方フィートが 用意され,医学系の科目は医学部研究室で歯学部学 生に医学部教員が教え,臨床医学では医学部教員が 実習指導を行っていた(1924−1925)。また,歯科 学生が臨床実習指導を受けた外部の診療所と病院が Covent of Good Shepherd(グッドシェパード修道 院)(3マイル),St. Josephʼs Orphan Home(セン トジョセフ孤児院)(2マイル),St. Louis City In- firmary(セントルイス市立病院)(2マイル)など と計6施設があげられている。新築の歯科棟と隣接
した医学部棟とは密に連携し,さらに0.5マイル離 れた他学部とも連携して教授科目が有効な条件下で 歯科学生に教えられていた。臨床歯科と臨床医学と の相互関係における歯科学生への指導は改善されつ つある。一方経験豊富な教員への学部側の措置は不 十分であり,研究は積極的に進められていなく,学 部の努力は学生の仕事に限定されている。」8)以上の ように歯科学生への医学教育に対しては授業と臨床 実習に良好な評価(A クラス)をガイスは与えた。ま た医学部管理委員会メンバー4人のうちの1人が歯 学部長であるという組織的な構成を記していて,こ れが歯科学生へ良好な教育に繋がっていることをガ イスは示唆している。ガイスは歯科のアイデンティ ティは medicine に mechanics と art が重なったも のとしているので,歯学教育への医学的内容の教授 を学部の評価対象として重要視していた。ちなみに ワシントン大学歯学部における医学的教育の形骸化 を彼は批判している29)。リッジリーは医学との関係 を不足ない教育環境で育てられていたと思われる。
5.卒後のインターン
リッジリーは卒後直ちにサンフランシスコの Let- terman Army Hospital(レターマン陸軍病院)のイ ンターンとなり陸軍での本格的なキャリアを開始
(1926(大正15))した31)。また彼はその後に同病 院歯科の主任であったと同記述内にあるが,時期は 不明である。米国陸軍は第一次世界大戦時に84病院
(48総合病院,33基地病院,3その他)を展開して いて,1929(昭和4)年にはレターマン陸軍病院は 1,000床を有し豊富な医師,歯科医師,看護師など を擁して重症患者を受け入れていた良質の病院で あ っ た。1960(昭 和35)年 代 に Letterman Army Medical Center(レターマン陸軍医療センター)と して3,500床の総合病院,病院,診療所,保養所な どを有した施設に拡大された32)。病院名の Letter- man は 南 北 戦 争 時 の Jonathan Letterman 少 佐
(1824.12.11−1872.3.15)を記念して命名された。
彼は米国南北戦争の北軍軍医として傷病兵を組織的 な体系での治療をすることで多数の回復例を得た。
このため「戦陣医学の父 Father of Battlefield Medi- cine」として顕彰されている33)。リッジリーがイン ターンを行い,そしてその後(時期は不明)に歯科
歯科学報 Vol.123,No.2(2023) 149
― 77 ―
主任として勤務したレターマン陸軍病院は陸軍の主 要な病院であった。
陸軍歯科軍医学校と歯科軍医将校の教育 1.ガイス報告による陸軍歯科軍医学校
リッジリーのレターマン陸軍病院インターン終了 後の動向は不明であるが,ガイス報告によった当時 の Army dental school(陸軍歯科軍医学校)34)につ いてみてみる。リッジリーが准将として退役した軍 歴から彼が陸軍歯科軍医学校を経た確率は高いから である。
「陸軍歯科軍医学校はコロンビア特別区(ワシン トン D.C.)にある陸軍医療部門として1921(大正 10)年に設立された。看護学校は卒前の学部である が医学,歯科医学,獣医学の学校は大学院(graduate school)となっている。歯科医学校は現役,予備役
(national guard を含む)の歯科将校の卒後の高度 な研修機関であり,入学は最低限の学術的,専門 的,さらに軍事的要件が求められている。C クラス 以上の歯学部卒業生の現役兵で卒後に最低2年間の 法的に認められた歯科臨床(legal practice of den- tistry)に従事し,身体的道徳的に適切であると判 明した者の中で一般教養と専門職習熟の試験に合格 した者が入学を許可された。
教員数は1924−25(大正13−14)年には24名で教 員の肩書は陸軍の階級だけが使用されていた。大学 院生のカリキュラムは9月から2月までの5か月間 は基礎科目のカリキュラムとなっていた。科目は一 般歯科学,口腔外科学,予防医学と臨床病理学,歯 科補綴学,放射線学,そして特別講義に分けられ,
それぞれの時間割が講義(試験を含む),臨床基礎 実習と臨床実習,そして講義と臨床基礎実習となっ ていて総時間数が710時間となっていた。最多時間 の科目は予防医学と臨床病理学が300時間,歯科補 綴が249時間で全時間数の77.3%を占めていた。歯 科疾患の予防策や臨床歯科と臨床医学の相互関係を 歯科診療に生かせるようにカリキュラムは設計され ていた。このコースを通過した後に2−6月までの 指導コースの一つに参加した。彼らは現場での歯科 医師として,または管理職として,または緊急時の 軍医の補助ができるように効率的に機能するよう教 育された。
1925(大正14)年4月には73名の志願者のうち試 験合格者は32名に絞られ,そのうち4名が歯科軍医 学校への入学許可を与えられたにすぎなかった。歯 科軍医と軍医との割合は1:886となっていて公衆 衛生局長官はこの不均衡の改善を公表していた。
歯科細菌学の研究所は医学研究との密接な連携が なされていて,陸軍病院では患者の健康に悪影響を 与える全ての病巣感染の除去に歯科医官の協力が日 常的に行われている。陸軍の方針に従って歯科軍医 将校は隊外で歯科の指導者と交流し,歯科学会に出 席し,歯学部を訪問して歯科の発展に遅れないよう にすることが奨励されている。また予備役将校の訓 練隊(the Reserve Officers Training Corps)が8 校にあってセントルイス大学歯学部はそのうちの一 つとなっている。1925(大正14)年ではこれらの歯 科学生の1,365名が予備役将校訓練隊に入隊した。
彼らの160名が予備役の歯科軍医中尉として任命さ れた。」
リッジリーが歯学部としてワシントン大学セント ルイス校ではなくセントルイス大学を選択した理由 は学部内に将校訓練隊が存在していた11)ことによっ たと思われる。また彼の卒業は上記の1年後となる が同様の状況であったとすれば陸軍歯科軍医学校は 示されたようにエリートコースである。
2.陸軍 Dental Corps の記録による歯科軍医将 校の教育
1)Dental Corps(歯科医療隊)の構成
米国の参戦(1941.12.8)は日本の真珠湾攻撃か らであり,欧州と太平洋が戦線となった。ドイツが ポーランドに侵攻し,これにより英仏がドイツに宣 戦布告(1939.9.3)した直後では米国は中立を宣言
(9.5)したが戦争に備えて軍備を拡張された。こ れに伴って陸軍の Dental Corps は拡充した。1938
(昭和13)年には歯科医師の募集を停止していたの で Dental Corps は1941(昭和16)年6月には4,428 人まで減少していたが,その年には2,000人以上の 予備役歯科軍医将校を動員した。米国は第二次世界 大戦に突入し,316名の正規軍と2,589名の予備役将 校からなる現役合計2,905名の Dental Corps が編成 さ れ た。そ し て1944(昭 和19)年11月1日,Dental Corps の現役将校は15,292名と最高レベルに達し
150 金子,他:占領下歯科教育改革とリッジリー陸軍軍医中佐
― 78 ―
た。1945(昭和20)年5月31日までに,これらの将 校のうち7,103人が海外にいた35)。
Dental Corps は以下の5種類から構成されてい た。人数は V-E day(ドイツ降伏日:著者註)の時 点である。すなわち,正規軍(regular army:266名,
1.7%,以下同),市民予備兵(national guard:117 名,0.8%),予備役隊(organized reserve corps:
3,106名,20.3%),志 願 兵(AUS-ASTP 修 了 者:
1,802名,11.8%),志願兵(ASU-開業歯科医:10,011 名,65.4%)となっていた36)。
正規軍の歯科将校は,歯科学と軍事学の科目にお いて非常に競争の激しい試験で選ばれ,徹底的な訓 練を受けることから一般的に彼らは業務の幅広い面 で十分な資格があった。約250名の正規軍の歯科将 校のうち,数名は気質やその他の欠陥により高度な 管理業務に不適格であったが,大部分はその分野で 十分に訓練されており,重要な役職に功績が認めら れて就任していた。しかし,戦前の歯科臨床のト レーニングは,熟練した専門医育成を促進するもの ではなかった。ポストの割合が少なかった時代の平 均的な陸軍の歯科医師は,歯周病や下顎骨骨折を治 療し,義歯を作成し,検査室の監督をすることがで きなければならず,総合的な仕事に重点が置かれて いた。専門的な治療は,多くが予備役将校または元 開業医に依存していた。
1943(昭和18)年10月21日に歯科将校は専門性に 関して以下の名称に分類された。すなわち Oral sur- geon(口腔外科医:65名,0.4%),Exodontist(抜 歯 医:325名,2.1%),Periodontist(歯 周 病 医:20 名,0.1%),Staff dentist(170名,1.1%),No spe- cialty(一 般 医:14,467名,94.6%)。Staff dentist とは既に軍隊経験者であって歯科医療の運営につい て主要な担当部署に助言する資格を持っていた。
1942(昭和17)年4月の時点で正規軍に勤務して いた269人の歯科軍医将校のうち,102人は大佐また は中佐の階級にあり100人近くが24年以上の勤務者 であった。ちなみに1945(昭和20)年4月30日時点 での Dental Corps の中尉以上の階級分布(%)は 以下のようになっていた。括弧内は軍医に関する割 合である。将軍0%(Medical Corps(以下同):
0%),大佐0.83%(2.35%),中佐2.71%(7.34%),
少佐10.38%(21.61%),大尉67.25%(56.50%),
中尉18.83%(12.20)%であった。なお,同年8月 には少将1名(Medical Corps:9名),准将1名(同 46名)が誕生した37)。
2)第二次世界大戦前の正規歯科軍医将校の教 育38)
第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の期間の Dental Corps の正規歯科軍医候補者は,認定され た民間の歯学部卒業生であり,少なくとも2年間の 歯科診療の経験が必要とされた。しかし,その多く は軍隊経験がなく,キャンプやポストにおける歯科 医療の責任を負う資格を得る前に,基本的な軍事訓 練と専門的な技量の両方が必要とされた。成績が上 がるにつれ,歯科軍医将校はより大きな責任を負う 役職に就けるよう,追加のトレーニングも必要と なった。したがって,陸軍は軍事と専門の両方で初 歩から最高度に至るまでのあらゆる種類の大学院教 育が求められた。
⑴ Army Dental School(陸軍歯科軍医学校)
における Basic Graduate Course(大学院基礎 コース)
新任歯科軍医将校の最初のステップは,孤立した 立場で歯科医療運営を引き継ぐように求められた場 合に特に熟練が必要とされる科目である口腔外科 学,歯科保存学,および歯科補綴学に関する以前の 教育を補足することであった。新任将校はワシント ンの陸軍歯科軍医学校で4か月の基本コース(post- graduate 卒後研修のみ)においてこれらの専門分 野の訓練を受け,歯学部を卒業して以来忘れていた 可能性のある科目の再教育を受けた。残念なことに 将校の慢性的な不足により,これらのコースを定期 的に実施することが不可能になり,1935(昭和10)
年が最後のクラスとなった。1930(昭和5)年から 1935(昭和10)年の間に,毎年平均7人の将校がこ
のコースを受講した。
⑵ Medical Field Service School(野戦軍医学 校)における Officers Basic Course(将校基本 コース)
新任歯科将校は上記の陸軍歯科軍医学校の研修後 にさらに5か月の基本的な軍事教育を Carlisle 兵舎 の Medical Field Service School(野戦軍医学校:
MFSS)で受けた。医師,獣医,Medical Administra- tive Corps(医療行政部隊)の将校とともに,彼ら
歯科学報 Vol.123,No.2(2023) 151
― 79 ―
は軍隊機構,医療分野の部隊の機構と機能,予防医 学,応急処置,負傷者の避難,記録と提出,補給手 段,および軍法を学んだ。また軍規と医療の慣習に ついて学び段階的に厳しい訓練が行われた。2週間 の野戦演習では教室で学んだ基礎を実践し,大隊救 援基地,収容所,および医療部隊のスタッフの一員 として働いた。また歯科医師のための別クラスで野 戦時の歯科機器と歯科医療の管理を徹底して学ん だ。1921(大正10)年にこの学校が設立されてから 1939(昭 和14)年 ま で に141人 の 歯 科 医 師 が こ の
コースを卒業した。
⑶ Advanced Graduate Course, Army Dental School(陸軍歯科軍医学校における大学院上級 コース)
陸軍歯科軍医将校が佐官(fieldgrade)に近づく と,彼らは陸軍歯科学校の大学院上級コースに送ら れ,そこで口腔外科,エックス線撮影技術,歯科補 綴,歯科保存,予防歯科,および歯周病に関する4 か月の指導を受ける。このコースは,専門医制資格 を期待されていなかったが,より大きなポストまた は病院の歯科責任者として行動するために必要な総 合的力をつけさせた。民間の専門家が特別講義し,
陸軍軍医学校,ウォルター・リード総合病院,歯科 研究所,陸軍病理学研究所,および中央歯科研究所 などのすべての施設が,この訓練を最も効果的なも のにするために可能な限り利用された。しかし,こ の価値あるコースは残念なことに参加できる将校数 が限定されていて1930(昭和5)年から1940(昭和 15)年までの11年間で卒業したのは僅かに27人で
あった。
1936(昭和11)年に,陸軍歯科軍医学校は4人の 将校を専門医に育成するためのコースを設けたが,
1つの例外を除いて歯科専門分野の資格につながる 広範な指導を提供することはなかった。
⑷ Advanced Officers Course, Medical Field ServiceSchool(野戦軍医学校における将校上 級コース)
佐官に到達した後,通常は中佐への昇進試験前に 歯科医師は MFSS の3か月の上級コースに送られ る場合がある。このコースは,職員としての職務と 大規模施設の歯科診療の管理者に適したように設計 されている。しかし,コースを受講できる資格のあ
る将校は比較的少数であり,1933(昭和8)年から 1939(昭和14)年までの修了生はわずか21人であっ た。そして上級将校の大部分が MFSS の特別延長 コースを受講した。このコースは,本質的に同じ内 容をカバーしていて,中佐への昇進試験ではフィー ルド問題は果されなかった。
⑸ 民間施設での研修
数週間から1年間,民間の施設で指導を受けるこ とを許可された歯科医は限られていた。1930(昭和 5)年から1940(昭和15)年までの11年間に32人が そのような研修を受けたが,1937(昭和12)年から 1940(昭和15)年までに認可されたのは3つのコー
スだけであった。
⑹ 非医療系の陸軍学校
歯科軍医将校は理論的には,司令部や総軍の将校 などの拡大教育コース(Command and General Staff extension courses)の対象者ではあった。実 際には,彼らは第二次世界大戦が始まるまでこれら の学校での修学を命じられなかったし,その後はほ とんど無視できる人数が受講したに過ぎなかった。
⑺ 拡大教育コース
歯科医師は,キャリアのどの時点でも,MFSS が発刊する通信講座を受講する資格があった。ただ し,これらは主に予備役将校向けに設計されている ことから正規軍の数は少なかった。司令部や総軍の 将校などの拡大教育コースも資格を持つ歯科軍医将 校に開かれていたが登録者数は限られており,平時 では一般的な司令部の手順に従って高度なトレーニ ングを受ける歯科医師はほとんどいなかった。
⑻ 歯科インターンシップ
歯科インターンシップは1939(昭和14)年2月に 初めて認可された。1939年6月のクラスには8人の 卒業生が選ばれ,6つの主要な病院のうちの1つで 1年間研修を受けた。(Walter Reed General Hospi- tal, Letterman General Hospital, Fitzsimons Gen- eral Hospital, Army-Navy General Hospital, Wil- liam Beaumont General Hospital, and the Station Hospital, Fort Sam Houston.ウォルター・リード 総合病院,レターマン総合病院,フィッツシモンズ 総合病院,陸軍海軍総合病院,ウィリアム・ボーモ ント総合病院,およびステーション・ホスピタル,
フォート・サム・ヒューストン)。
152 金子,他:占領下歯科教育改革とリッジリー陸軍軍医中佐
― 80 ―
インターン生は,正規陸軍歯科医療隊の潜在的な 候補者と見なされ,学問,体力,兵役への適応性に 基づいて選ばれた。彼らは,他の志願者に要求され る2年間の個人開業医での経験や厳しい試験なし で,Dental Corps に任命される資格があった。彼 らは毎月60ドルに加えて食と住が与えられた。全応 募者の約5分の1しか受け入れられず,合格者の資 格は高かった。1940(昭和15)年から1942(昭和17)
年の間の28名のインターンのうち,合計27名のイン ターンが Dental Corps に採用された。9名のイン ターンの最後のクラスは1943(昭和18)年6月に卒 業したが,戦時下にすべての正規軍の調達が停止さ れたため,このグループは恒久的立場に組み込まれ ることはなかった。SGO(surgeon Generalʼs of- fice:軍医総監室)の歯科部門は,終戦にあったっ てこれらの歯科医師が任命されるように真剣な努力 をしたが,その要求はより高い当局によって拒否さ れた。戦後,歯科インターン・プログラムを再開す るための暫定的な計画では,受け入れられた候補者 には予備役嘱託を付与し,必要な訓練期間中はその 等級に応じた給与と手当で現役に就くことが求めら れた。
そして,正規軍歯科将校の戦前の訓練は概して効 果的だったが,第二次世界大戦の開始時に常設の Dental Corps に約260人の将校しかいないという事 実は,歯科診療として必要な15,000人の将校に対し てはごくわずかな人数に過ぎなくこの源泉が主要な 人員しか供給できなかったことを意味した,と纒め られている。
リッジリー中佐の日本上陸
リッジリー中佐の日本上陸の期日と場所を記した 一次資料は管見では見当たらない。しかし,サムス 准将の占領期回想録39)と竹前栄治によったその解 説40),そしてリッジリー中佐の報告41)から推測する とリッジリー中佐はサムス大佐が乗船してきた司令 艦である駆逐艦「スタージョン号」で同道してきた と結論される。マニラを出港した同艦は開戦以来日 本の桟橋に接岸した最初のアメリカ船となったと記 されている。サムス大佐,竹前,そしてリッジリー 中佐によった以下の記述からは PHW の設置前後の 状況と合わせてリッジリー中佐の日本上陸を見てみ
たい。
「米国は太平洋戦争終結のかなり前からワシント ン D.C.の民事課が担当して日本占領における具体 的な計画を立てていた。ここでサムス大佐は公衆衛 生部門を組織し,同時に同部門の敵地における今後 の作戦について課長たちを対象としたオリエンテー ションを1か月間行った。このグループは1945年8 月にワシントン D.C.から飛行機でマニラに行き,
同地の市庁舎に事務所を開設し,追加の人員を募集 した。」42)とのちに東京日比谷の GHQ/SCAP・PHW となる組織作りの経緯をリッジリー中佐は記してい る。
竹前はリッジリー中佐の自伝の解説で以下のよう に記している。「サムス大佐は中東戦線で戦闘に参 加していたが1943(昭和18)年にシシリー作戦(ハ スキー作戦:著者註)が終結すると本国に戻った。
しかし,1944(昭和19)年から1945(昭和20)年に かけて欧州戦線に赴き,アルデンヌの戦い(バルジ の戦い:著者註)に参加し帰国した。帰国後は参謀 部第4課企画係長となり日本本土侵攻作戦計画に関 わった。1945(昭和20)年5月にドイツの降伏で欧 州の戦闘に終止符が打たれるとサムス大佐は米太平 洋陸軍総司令部軍政局の衛生教育福祉主任としてい まだ戦闘の続いているマニラのマッカーサー司令部 に赴任するよう陸軍民生部長のさる少将から依頼さ れた。マニラの軍政局は1945(昭和20)年8月5日 に同地に設置されていた。ワシントンのサムス大佐 は占領地域で活動する軍政局所属の衛生班の結成に 取り掛かった。編成した衛生班は部隊レベルの大規 模となった。サムスを長とする衛生班はマニラに向 かった。」40)としている。
以下はマニラから日本へ向かうときのサムス大佐 の回想である。「乗船の将校らは,秋に予定された 九州上陸の史上最大の陸海空軍作戦の準備に携わっ ていた。日本の敗戦によって自分は太平洋方面陸軍 総 司 令 部 軍 政 局(局 長:W.ク リ ス ト 准 将)の 衛 生・教育・福祉部長として日本の軍民の死傷者の程 度を調査する任務と占領軍将兵の医療管理を帯びて 横浜港に上陸した。日本が必要としている医療品・
食糧・衣料・毛布その他の救済物資は既に予測値で 本国に提出してあったが実際に調査した結果は予測 値を修正した適正な要求となるので早急な再検討が
歯科学報 Vol.123,No.2(2023) 153
― 81 ―
必要であった。」そして,「モントレーからの看護将 校とその部下数名がマニラに未着であったが彼女ら を残して日本に向かって出港した。」39)。つまり衛生 班は看護関係者数名とは別行動となりその他は衛生 班の集団としてマニラから船で日本に向かったと理 解される。
リッジリー中佐は彼の文面からサムス大佐にワシ ントン DC に呼ばれ初期からこの計画に参加してい たと推測される。そして,ワシントン DC に集結し たサムス大佐の衛生班員は空路マニラに向かった。
その後マニラから一行を乗せた駆逐艦「スタージョ ン号」が横浜桟橋に接岸したのが8月30日であっ た。
8月30日にマッカーサー元帥は厚木飛行場に降り 立ったが,リッジリー中佐はマッカーサー元帥一行 ではなくサムス大佐の衛生班の一員として横浜港で 上陸したと結論される。
横浜はゴーストタウンとなっていて上陸直後の宿 泊はニュー・グランドホテルか「スタージョン号」
が使われた。無傷の横浜税関がサムス大佐の所属し ていた米太平洋陸軍前進総司令部として選ばれ,
ニュー・グランドホテルには第八軍司令部(司令官 は R アイケルバーガー中将 1944.1.1−1948.8.4:
著者註)が設置された。サムス大佐はマニラでは
「フィリピン諸島民事援助班」に所属していたが,
日本に移動する直前に総司令部軍政局となった。サ ムス大佐上陸の数日後には東京にまだ存在していた 日本陸軍大本営がサムス大佐の連絡将校として軍医 部の平賀 稔中佐を送った。9月17日(月曜日)に は前進司令部は横浜税関ビルから東京日比谷の接収 した第一生命保険会社ビルなど幾つかのビルに移っ たが,サムス大佐の所属する前進司令部軍政局は最 初,農林中金ビルが割り当てられた。そして「自分 は土曜日に移った。翌日にはフィリピンから移動し てくる陸軍病院としてどの病院を接収するか平賀中 佐と厚生省渉外担当官に新たに任命された真鍋満太 博士の3人で東京の病院視察に出かけた。その結 果,聖路加国際病院,同愛記念病院と築地海軍病院 を接収するよう勧告することにした。」とサムス大 佐回想録42)にある。竹前によった年表43)では病院視 察は9月12日(水曜日:著者註)とされていてサム ス大佐によった上記の視察とされた日曜日(著者
註:9月9日か16日)とは合わないが,ここでは真 鍋満太が記録に初めて登場することと,彼が早期か ら後の PHW に厚生省から送られていたことを示し ておきたい。なお真鍋満太の厚生省嘱託としての辞 令は昭和20年9月18日の日付となっていて,辞令は
「大臣官房事務取扱ヲ嘱託ス 総務課勤務ヲ命ス」
とされている44)。
10月2日には連合国最高司令官総司令部(GHQ/
SCAP)が新たに設置され,サムス大佐は公衆衛生 福祉局(PHW)の局長に任命されて第一生命ビル に移った。彼の宿舎は帝国ホテルを当てがわれた。
1年後には彼の家族が来日して家族で帝国ホテル住 まいとなったが後に一軒家に越した40)。
GHQ/SCAP は連合軍最高司令官マッカーサー元 帥を長として参謀長・副参謀長の下にサムス大佐ら が所属する12局の幕僚部が組織された。PHW(図 2)はサムス大佐を局長として次長そして13課が置 かれ,そこに病院管理課,歯科課,予防医学課,看 護課,獣医課などが所属した。リッジリー中佐の署 名によった Memorandum(記録)の最初は9月28 日付けの厚生省との会 合 で あ り Military Govern- ment Section, Public Health and Welfare Division, Chief Dental Affaires Section となっている45)。1948
(昭和23)年夏にリッジリー中佐が離日して空白に なった歯科課は,新設の医療課によって所轄された のに加えて課数の縮小に伴って課の編成替えがなさ れた。1950(昭和25)年には10課の編成となってい たことが記されている40)。
サムス大佐はワシントンで軍医総監カーク将軍か ら日本占領地で活動する軍政局所属の衛生班結成を 命じられ,その人選を委任された40)。サムス大佐が なぜ日本占領政策における歯科担当官としてリッジ リー中佐を選んだのか不明であるが,サムスとリッ ジリーはセントルイスが同郷であり,子供の頃から サムスはゴミ拾いや新聞配達をし40),リッジリーは 農場の手伝いという貧しい家庭環境の共通項があっ た。サムスは1902(明治35)年4月1日にセントル イスに誕生した後からセントルイス高校を卒業する まで同地で生活をした。カリフォルニア大学理学部 の修学後に医学部(Washington University in St.
Louis School of Medicine)に入学したことで再度 セントルイスに戻ってきた。1929(昭和4)年の医
154 金子,他:占領下歯科教育改革とリッジリー陸軍軍医中佐
― 82 ―
学部卒業後にリッターマン陸軍病院でインターンを 行ったが40),リッジリーよりも3年遅いので同病院 で同じ時期があったかどうかは分からない。
日本占領軍におけるリッジリー中佐の職務 1947(昭和22)年に Journal of American College of Dentistry が「歯学教育の方針と目的」としたシ リーズを始めて翌年には Journal of Dental Educa- tion がこの企画を引き継いだ46)。後者の雑誌に日本 の歯科医学校7校の校長とリッジリー中佐の声明が 短く掲載されている47)。
「私の使命は,日本の歯科に関連するすべてのこ と,すなわち,歯科教育,歯科機材製造,歯科医師 会,公衆衛生および公立学校歯科,爆撃された歯科 医師のリハビリ,歯科用の貴金属の割り当てなどを 処理することである。民主的かつ非軍事的な方針に 沿った日本歯科医師会の官僚的介入のない改革は,
早期に完了するであろう。これは,アメリカの歯科 が征服された国の専門職政策を形成する上で非常に 重要な役割を果たしているという特殊な状況であ り,将来的に両国間の関係がより緊密になるのに役 立つことは間違いない。」としている。
GHQ/SCAP 文書(国立国会図書館所蔵)にリッ ジリー中佐の memorandum と日本側が提出した各 種の歯科関係資料が残されている48)。また,リッジ リー中佐の講演要旨あるいは執筆文書などが彼の指 向やその具体的な実施を彼の側から知ることができ ると思われる。本項ではその一端に過ぎないが日本 の商業雑誌への掲載文書と彼が日本での職責を離れ るに際して日本歯科界の事柄を纏めて PHW に提出 した GHQ/SCAP 文書を紹介しておきたい。
1.業務と途中経過
下記は1947(昭和22)年の商業雑誌(日本歯科評 論)の新年号にリッジリー中佐の挨拶として掲載さ れたものである49)。歯科教育審議会の報告書(其 一)が纏められた後の数か月以内に記された文章に は具体的な事項が以下のように記されていて,彼の 仕事の対象を知らせている。
「歯科教育審議会において決められた結果はここ 数年間では効果が現れないかもしれないが将来にお いて患者が大いなる恩恵を蒙ることは疑いない。審 議会委員に対して深く感謝する。
戦時から今日までに歯科界に積み残されたことは 図2 GHQ/SCAP·PHW のメンバー。局長のサムス大佐は前列右から6人目。
歯科課のリッジリー中佐は同左から2人目。1946(昭和21)年 GHQ ビル(接収 された日比谷の第一生命ビル)の前で。(追記1参照)
歯科学報 Vol.123,No.2(2023) 155
― 83 ―
以下である。
①歯科医学校と附属医院が損害を蒙つたか,また 破壊されたこと。
②歯科資材が実質的に無くなつたこと。
③歯科医療用のすべての貴金属が凍結されたこ と。
④戦争の結果として6,000人の歯科医師が転居し たこと。
⑤歯科医学校の教職員が離散したこと。
⑥歯科医学校の修業年限が短縮されたこと。
⑦歯科医学生が戦争中に工場で多くの時間を浪費 したこと。
⑧軍国主義が歯科医学校内で盛んであったこと。
⑨歯科医業が知性と遊離したこと。
⑩水道とガスとが停まつたこと。
⑪誰もが混乱に陥り,希望がなく,刺戟がないよ うになったこと。
以上の悲惨な状況からの脱却のために以下を改善 した。
①歯科医学教育水準の向上
②学科課程の改正と改善
③500人の戦災歯科医師の復興
④歯科医学校から軍国主義の抹殺
⑤男女共学制度の制定
⑥視学制度の確立
⑦国家試験制度の制定
⑧歯科資材製造の一部復旧
⑨開業許可制の撤廃
⑩学校歯科衛生計画の改善
⑪歯科医学校の大学への昇格
しかし,なお以下の事柄が負債として残ってい る。負債の解消は歯科医師の責任と義務であり,そ の困難な仕事は協力と心からの奉仕によってのみ解 消される。それは要望されている国民の保健医療の 改善につながる。
①未だ残っている戦災歯科医師の復興。
②日本歯科医師会の再組織化。
③改善された歯科医学教育標準に間違いなく忠実 に準拠すること。
④教授団の改革による教授法と技術の近代化。
⑤歯科材料の質と量を向上させる必要があるこ と。
⑥金冠を用いて修復する代りに歯の欠損の予防を 強調することの必要。
⑦病巣感染と全身的疾患との関連を強調するこ と。
⑧厳格な国家試験の方法が必要であること。
これらが義務と責任によって解消されるまでは上 述の改革の成果は得られなく,それには今後数か年 を要するのであろう。しかし,下り坂の方向にあつ た日本の歯科医界は昭和21年を分岐点として永久に 注目されるであろう。道は切り開かれ,道路は舗装 された。それは歯科医業の進路である。(ママなら ず)」
離日するリッジリー中佐によった サムス PHW 局長への報告書50)
リッジリー中佐は1948(昭和23)年7月10日付け で歯科課長としての報告書を記した。報告書は1945
(昭和20)年9月から1948(昭和23)年7月までの 事柄の報告であるとされているので彼の在日期間の 業務をまとめたものである。この業務報告書は14項 目に分かれていて,日本の歯科改革の目標と結果を 彼自身が語っていることから占領政策の一端として 貴重な史料であるので全文和訳(筆者による)を紹 介したい。なお,国立国会図書館に所蔵されている マイクロフィッシュによった該報告書は比較的読み やすいのであるがそれでも判読が難しい箇所が所々 存在する(例えば Dental Association の項ほか)が 幸に樋口資料51)は全てがタイプでリライトされてい るので和訳の原文は全てを樋口資料に頼った。また 原書と樋口資料の全文照合は行っていない。和暦は 筆者らが付した。
1.序と背景
戦争が終結した V-J デー(Victory over Japan Day:著者註)のかなり以前から,ワシントン DC の民事課は,日本占領のための具体的な計画を立て ていた。この計画は占領状況に基づいており,占領 軍の活動作戦(in the wakeup of)に合わせて運用 されることになっていた。クロフォード・F・サム ス准将,当時のサムス大佐は,計画の規定に基づい て市民に対する公衆衛生部門を組織し,同時にワシ ントン DC で同部門の敵地における今後の作戦につ
156 金子,他:占領下歯科教育改革とリッジリー陸軍軍医中佐
― 84 ―
いて課長向けの1か月のオリエンテーションを行っ た。
このグループは1945(昭和20)年8月にワシント ンから飛行機に乗り込み,1週間後にマニラの市庁 舎に事務所を開設し,そこで追加の人員を募集し た。1945(昭和20)年8月30日,マッカーサー将軍 は厚木飛行場に上陸し,戦時司令部を置いて2つの 指令を次のように出した。日本軍の降伏と武装解 除,および指定地域おける占領軍拠点の迅速な設置 であった。
9月に同部門は東京に移転し,第一ビルに事務所 を開設した。
降伏により当初の計画の修正が必要となった。そ の結果,1945(昭和20)年10月2日には日本の状況 は連合軍の復興政策を進めるのに十分な制御下にあ ると見なされた。同日,連合国最高司令官総司令部
(GHQ/SCAP と呼ばれた)が設置された。一般命 令第1号は,日本の暫定軍事政権を廃止し,SCAP に置き換えることであった。その後の一般命令(gen- eral order)に よ り,日 本 と 韓 国 の 政 策 に 関 す る マッカーサー将軍の顧問として機能する14(原文マ マ)の特別参謀部(Special staff section)が設置さ れた。
公衆衛生福祉部(Public Health and Welfare Sec- tion : PHW)は,1945(昭和20)年10月2日付の一 般命令第7号によって設置され,日本と韓国におけ る公衆衛生と福祉の問題に関する政策について連合 国最高司令官に助言を与えた。
1945(昭和20)年10月6日付の無番号セクション 覚書によって12の部門が設置され,その機能と使命 が概説された。すなわち,福祉,看護,歯科,獣 医,病院管理,資材供給,予防医学,管理および翻 訳,人口動態統計,麻薬取締および社会保障などの 課である。
歯科課の使命と機能は次のとおりである。
・市民の歯科医療に関するあらゆる事柄を部門長 へアドバイスする。
・開業医の資格と分布に関する情報入手,被曝歯 科医師とその復業の程度に関するデータを収集 する。
・すべての歯科医学校を調査し,入学者数,教 員,床面積,教科書,設備,図書館,研究所,
診療所,臨床指導の量と質,収入と支出に関す るすべてのデータを取得する。
・教育基準の引き上げ,教科書改訂,カリキュラ ム改善に関する歯科教育審議会(CDE)のす べての審議を指揮し導く。
・文部省の視学官選定に助力し,彼らの職務を指 示する。
・歯科医師国家試験委員会の選考と役割への助 力。
・歯科医師会を自由で民主的な路線に沿って運営 できるように直接改造する。
・国内の歯科用品の不足または偏在について供給 部門の責任者に助言し,歯科用品および機器の 輸入要件を見積もる。
・製品の量と品質を左右する歯科製造状況を調査 する。歯科用の金,銀,プラチナを四半期ごと に割り当てることを推奨する。
・歯科医療に関する法律改正を監督する。
言葉の問題と国土の地理的な孤立により,日本の 歯科は世界にあまり知られていない。
経済が破壊され,資源が枯渇し,人々が完全に意 気消沈し,変化に抵抗している敗戦国において国家 規模で専門職を再建する際に直面する困難と問題を 十分に理解するためには,われわれが1945(昭和 20)年9月に日本で彼らに会ったときに覚えた状況
を明確に理解しておく必要がある。
戦争中には軍事関係以外の建物や施設が破壊され ることがよくある。日本では特にそうであった。歯 科医院,学校,工場は,木,紙,茅葺き屋根で建て られた密集地域への激しい焼夷弾攻撃は,火山に襲 われたような地獄の被害をしばしばもたらした。
B-29の定期的な爆撃が日本の生活様式を変え始め る前には11校の歯科医学校が存在した。現在,無傷 で残っているのは2校だけである。東京女子歯科医 専は,1945(昭和20)年5月のホロコーストで完全 に焼失した。空襲により約6,000人の歯科医師が火 災の酷い被害を受けたかまたは疎開した。140社の 歯科製造関係のうち,残ったのは11社だけであっ た。各種の記録は存在しなかったか火事で焼失し た。
10年間の戦争経済の結果,学校の衛生プログラム
歯科学報 Vol.123,No.2(2023) 157
― 85 ―
は削減された。10年間の戦争は食糧,燃料,その他 の物資の不足をもたらした。それは併せて私たちの 困難も増やすこととなった。
しかし,混乱を助長した最大の要因はラジオに よった天皇の詔勅であった。人々はこれまで天皇の 声を聞いたことがなく,完全に呆然とした。天皇に 勝利をもたらすことができなかったことが,封建主 義にある人々の士気にどのような影響を与えたかを 想像することは困難である。
いかなる国においても専門職の見直しと復活に対 しては多方面から反対が起こるために困難を伴う作 業である。混乱が支配し政府への信頼が薄れている 現状にあって,人々はアメリカの指導に従う機会を 掴んだという実感が,私たちの仕事をより容易に進 ませた。
2.日本の歯科の発展
初期の日本では中国で生まれた方法に倣って治療 技術が通常パターン化されていた。これらの方法 は,徳川幕府時代に口中医(stomatologists)とし て分類された開業医が口の病気を治療する一方で,
「入れ歯師(technical dentists)」が歯を抜いて義 歯を作った。西洋文化は大きな弾みを与え,外国人 歯科医師の紹介によって学習が進んだ。アメリカ人 初の歯科医師,Dr. Wm. Clark Eastlake(イースト レイク)は,横浜で歯科医院を8年間開設した。Eliot
(エリオット),Polkins(ポーキンス),その他が 彼らの後に続き,彼らはこの地の年長の歯科医に早 くから影響を及ぼしたのは明らかであった。
ハーバード大学卒業後に帰国した伊沢(信平:著 者註)は,教科書の出版や科学的な講義を行い,歯 科の発展に貢献した。
もう一人の日本の歯科医である高山(紀斎:著者 註)は,サンフランシスコで学んだ後に故郷に戻 り,1890(明治23)年にこの国で最初の歯科医学校 を設立した。
政府は初期に確定的な政策を(歯科に関して:著 者註)持たなかった。つまり,イタリアやオースト リアの学校のように口腔科として医科の一科である べきか,あるいは独立した職業としての歯科治療を 行う米国制度を採用するか迷っていた。1903(明治 36)年に政府は最終的に前者の方法を選択し,ある
医学校に歯科の部署(東京帝国大学医科大学・内科 病室の一隅で歯科診療開始,石原 久:著者註)52)
を設置した。政府認可の学校を卒業した古くの医師 は依然として歯科診療が許可されていたが,将来の 開業医は,正規に認可された歯科医学校を卒業した 者だけ免許が与えられることとなった。
その後はドイツ人講師の招聘と専門用語としての ドイツ語の採用によって専門教育が行われた。多く の学生がその教育を受けるためにドイツに送られ た。
アメリカで修学した後に日本に帰国した開業医 は,例外を除いて経済的な競争のために高い診療水 準を維持できなかった。
国家主義という偏狭で閉じ込められた年月を通し て個人指導と見習いで始まった後はドイツの影響を 強く受けた歯科教育と診療体制が徐々に力を増し,
われわれの軍隊が日本を占領するまで継続した。
3.歯科行政
1872(明治5年)に文部省に設置された医務課は 1873(明治6年)に医務局に昇格した。1875(明治 8)年に医務局は内務省に移された。一般的な医療 管理は医務局が管掌したが,医学教育は文部省に留 め置かれた。歯科は1883(明治16)年に医学から分 離され,長年内務省の中央衛生局の管轄下にあっ た。政府機関の多くの再編後,歯科教育は依然とし て文部省の技術教育局(bureau of technical educa- tion)の責任として残っており,学校口腔衛生事業 は同じ省の体育局に残っていた。
登 録 と 免 許 は 現 在 厚 生 省 の 医 務 局(bureau of medical treatment)に属している。最近まで,両 省庁の局の多くは素人や弁護士によって率いられて いたため,医療問題に対する明確な理解が欠けてい ることがしばしば起きた。
不公平な策略によって,政府は日本歯科医師会(日 歯医師会)に深く関与するようになり,この組織を 準政府として利用して,政策や事業の多くを管理し た。この慣行を廃止するために,SCAP は日歯医師 会の再編成を必要とした。
DBR/pb3June 1948
158 金子,他:占領下歯科教育改革とリッジリー陸軍軍医中佐
― 86 ―