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化学と生物 Vol. 52, No. 8, 2014
学界の 動き
『此の花会』を閉じるにあ たって
高橋信孝
日本農芸化学会に関係の深い方々が開催していた『此 の花会』という小集会を,昨年,閉じることになり,そ の歴史のような物を書くように日本農芸化学会から依頼 された.この会の性格などについて,よくご存じだった 方々もほとんど他界されてしまい,運悪くこの大役が私 に回ってきてしまったようである.
まず,『此の花会』がどのような集会であったかを説 明する必要があると感じている.私も十分に齢を重ねて 記憶も定かではなく,また,会の運営法やこれまでのプ ログラムなどを記録した書類なども一切ないので,私の 記憶をたどりながら,この一文をしたためさせていただ くことにする.
昭和何年だったかの記憶も定かではないのだが,おそ らく40年位前だったのでないだろうか.日本農芸化学 会の大会が,駒場の東大教養学部キャンパスで開催され たことがあった.その際,故・坂口謹一郎先生のお声掛 かりで,活発に微生物学関係の研究を展開している若い 研究者たちが集まり,渋谷の道玄坂にある「此の花」と いう料理屋で,お酒を飲みながら,今後の研究の新しい 方向について大いに論じたそうである.この会は,料理 屋の名に因んで『此の花会』と名づけられた.その後も この会は続けられ,論じる内容も新しい生命科学の発展 と連動して進化していったと聞いている.
古くから農芸化学のシンボル的存在だった微生物学 も,分子遺伝学などの新しい学問分野の出現により,め ざましい変化を遂げることとなったのは,皆の知るとこ ろである.一方,有機化学分野の研究も,物質の単離,
構造決定などの天然物質化学から,生命現象を物質のレ ベルで捉える方向へと大きく発展していた.そして,生 化学,微生物学の研究者が中心だった『此の花会』に
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も,有機化学領域の研究者も加わるようになった.この ように,新しい生命科学の進歩の議論の場として,この 会は成長していったのである.
長い年月の間に,『此の花会』の形や,会場,参加者 の顔ぶれも大きく変化していった.会場も,渋谷の「此 の花」から,東大近くに移動し,「岡埜寿司」
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「魚善」などがよく使われるようになった.この会の参加者は 10名前後のことが多く,幹事が場所の選定や講師の依 頼などを担当した.故・坂口謹一郎先生のご長男の健二 氏が,幹事を長い間務めてくれた.彼と私は,農芸化学 の学生時代の同級生で,そのような関係から,私がこの 会に深くかかわるようになった.健二氏も数年前に他界 されたが,この文章を書いている間にも,彼のことがし きりと思い出されて,寂しさに耐えられないこともしば しばであった.『此の花会』は,彼の方針で,講師の方 には謝礼のようなものはお払いしない,ただ,講師の方 の飲み代は出席者が分担してお払いするするいう,たい へん大まかでユニークなものであった.出席者は,一杯 やりながら,講師の貴重な研究上の経験談を拝聴すると いう形で進められてきた.すなわち,お酒も楽しめ,し かも新しい研究の展開に接することができる,一石二鳥 の会であったと言えよう.
劇的とまで言える自然科学分野での研究の進歩や変化 に,私たち研究者が対応していくためには,研究を支え るために必要な優秀な人材と高額の研究費を集めること
が必須であることは論を待たない.しかし少人数の研究 者仲間が集まり,打ち解けた雰囲気で,さまざまな異な る視点から議論ができることも,大切なことである.何 といっても,その意味で,故・坂口謹一郎先生のお声掛 かりでスタートした『此の花会』が果たしてきた役割は たいへん大きかったのではないかと私は考えている.
私が大学における研究生活を退いてから,すでに4半 世紀の年月が経っており,そろそろ『此の花会』に出席 するのも,たいへんになってきた.私自身,この会の成 長過程に深く関係してきた者として,会に強い愛着を感 じつつも,この際,この会の幕を引く時期に来たのでは ないかと考えるようになり,今回の決断となった.今 後,『此の花会』の精神を受け継いだ若手研究者の新し い形での勉強会,研究会の開催,展開を心から期待する ところである.
プロフィル
高橋 信孝(Nobutaka TAKAHASHI)
<略歴>1952年東京大学農学部農芸化学 科卒業/東京大学農学部助手,助教授,教 授,名誉教授/日本農芸化学会名誉会員/
植物化学調節学会名誉会員/Correspond- ing Member of American Society of Plant Biologists<研究テーマと抱負>天然生理 活性物質の科学<趣味>植物の栽培