小 舎 人 童 考 ︱
平 安 時 代 の 王 族 ・ 貴 族 の 従 者 ︱
前 田 禎 彦 は じ め に
本稿 は︑ 摂関 期︵ 一〇
~一 一世 紀中 期︶ を中 心に
︑王 族・ 貴族 に付 き従 う少 年の 従者 とし て平 安京 社会 で活 躍 した 小こ 舎人
ど ね り
童わらわ の存 在形 態お よび 活動 状況 を明 らか にす るこ とを 目的 とす る︒ 摂関 期の 平安 京支 配の ベー スは 京職
・検 非違 使庁 によ る公 的・ 国家 的支 配に あっ たが︵︶1
︑平 安京 社会 を構 成す る 要素 とし て︑ 王族
・貴 族の イエ とい った 中間 的な 政治
・社 会権 力の 作用 に対 する 評価 も重 要な 課題 であ る︒ 王 族・ 貴族 のイ エに つい ては
︑① 親族 の組 織・ 形態 に関 する 研究
︑② 邸宅 と居 住に 関す る研 究︑
③家 政機 関お よび その 職員 に関 する 研究 など 様々 なア プロ ーチ が試 みら れて いる が︑ 本稿 では
︑特 に③ の側 面に 注目 する
︒ 王族
・貴 族の イエ は︑ 政所
・侍 所を はじ め多 様な 家政 機関 を擁 し︑ 家司
・侍
・随 身・ 小舎 人・ 雑色
・馬 舎人
・ 牛飼 童な どか ら下 人・ 下女 に至 るま で多 数の 構成 員を 抱え てい た︵︶2
︒こ のう ち︑ 今回 取り 上げ る小 舎人 童は
︑例 え ば︑
﹁① 公家 や武 家に つか われ て︑ 身辺 の雑 用を つと めた 少年
︑② 特に 平安 時代
︑近 衛の 中将
・少 将な どが 召し
使っ た童 子﹂
︵﹃ 日本 国語 大辞 典﹄
︶と 説明 され るよ うに
︑王 族・ 貴族 に仕 えた 少年 の従 者を さし てい る︒ 多様 な 従者 の一 類型 に過 ぎな いが
︑の ちに 述べ るよ うに
︑常 に主 人に 付き 従っ て様 々な 活躍 を見 せる 興味 深い 存在 であ る︒
﹃枕 草子
﹄第 五二 段は
︑ 小舎 人童
︑小 さく て︑ 髪︑ いと うる わし きが
︑筋 さわ らか に︑ すこ し色 なる が︑ 声お かし うて
︑か しこ まり て物 など 言い たる ぞ︑ ろう ろう じき
︒ と記 し︑ 髪が 整っ て美 しい 小柄 な小 舎人 童が
︑か しこ まっ て礼 儀正 しく 主人 に向 かっ て何 かい って いる 様子 が物 慣れ て利 発な 感じ がす ると
︑そ の姿 を描 写し てい る︵︶3
︒従 来︑ 小舎 人童 に関 して は部 分的 に触 れら れる こと があ る 程度 で︑ 専門 に扱 った 論文 は存 在し ない よう であ るが
︑そ の原 因は
︑小 舎人 童が 私的 な従 者で ある ため
︑公 務に 関す る内 容を 中心 とし た記 録・ 文書 など 一次 史料 に記 述が か しか 残っ てい ない こと によ るの であ ろう
︒し た がっ て︑ その 実態 を明 らか にす るに は︑ 物語
・説 話な ど文 学作 品の 記述 も積 極的 に活 用し てゆ く必 要が ある
︒現 時点 で︑ なお 史料 の検 索が 不十 分で ある ため
︑思 わぬ 過誤 を犯 して いる かも しれ ない が︑ 以下
︑小 舎人 童の 存在 形態
・活 動状 況と 王族
・貴 族の イエ およ び平 安京 社会 との 関わ りに つい て考 察し てゆ きた いと 思う︵︶4
︒
一 王 族
・ 貴 族 と 小 舎 人 童
まず
︑蔵 人所 の小 舎人 およ び殿 上童 との 違い を簡 単に 確認 して おこ う︒ 天皇 の家 政機 関で ある 蔵人 所に は︑ 蔵 人頭
・蔵 人︵ 五位
・六 位︶ のも とに 所衆
・出 納・ 小舎 人・ 滝口 など の下 級職 員が 置か れて いた
︒詳 細は 省か ざる
を得 ない が︑ この うち 小舎 人は
︑第 一に
︑判 明す る人 名が 例外 なく 成人 のも ので
︑童 でな いこ と︑ 第二 に︑ その 業務 は︑ 基本 的に 公@ の召 喚や 召物 の徴 収・ 譴責 の使 者な ど蔵 人所 の業 務が 中心 で︑ 蔵人 頭・ 蔵人 各人 に個 人的 に奉 仕す るも ので なか った と見 られ るこ とか ら︑ 同じ 小舎 人の 名称 をも つと はい え︑ 制度 的に 別の 存在 であ った こと は明 らか であ る︒ また
︑殿 上童 につ いて も︑ 服藤 早苗
・古 谷紋 子の 研究 によ り︑ 昇殿 を許 され る殿 上童 は︑ 祖父 が四 位以 上の 蔭孫 か︑ 父が 四位 以上 の蔭 子の いず れか で︑ 公@ 予備 軍で あっ た殿 上人 の子 弟の みに 許さ れた 特権 であ った こと が明 らか にな って いる︵︶5
︒し たが って
︑王 族・ 貴族 の小 舎人 童と 蔵人 所の 小舎 人お よび 殿上 童は まっ たく 別の 存在 であ った こと が確 認で きる と思 う︒ 以上 を踏 まえ
︑摂 関期 の記 録・ 文書 から
︑蔵 人所 の小 舎人
・殿 上童 と思 われ る者 を除 き︑ 王族
・貴 族に 仕え る 小舎 人・ 小舎 人男
・小 舎人 童を 抽出 する と表 の1 よう にな る︒ この うち
※を 付し たも のが 小舎 人童 であ る︒ ここ から
︑小 舎人 には
﹁小 舎人 童﹂ と﹁ 小舎 人男おのこ
﹂の 区別 があ り︑ 元服 前の 少年
=﹁ 童﹂ の小 舎人 と︑ 成人
=﹁ 男﹂ の小 舎人 の二 種類 が存 在し てい たこ とが 分か る︒ 同じ 小舎 人の 範疇 に属 する もの であ るか ら︑ 自然 に考 えれ ば︑ 小舎 人童 が成 人す ると 小舎 人男 と呼 ばれ るよ うに なる と推 測す るこ とが でき るだ ろう
︒こ のう ち︑ 小舎 人男 ある いは 単に 小舎 人と ある もの の主 人は
︑上 皇︵
№1
︶・ 女院
︵№
︶2
・皇 太后
︵№ 10︶
︑皇 太子
︵№
︶8 など の王 族 と︑ 大臣
︵№
︑9 12︑ 13︶
・納 言︵
№7
︶な どの 公@ であ る︒ これ に対 し︑ 小舎 人童 の主 人は 蔵人 頭︵
№3
︑4
︑
︑5 16︑ 17︑ 18︶
︑近 衛中 将・ 少将
︵№ 14︑ 15︑ 19︑ 20︑ 21︶ がほ とん どで
︑そ の他 には 参議
︵№
︶6
・大 炊頭
︵№ 11︶ が見 える
︒小 舎人 の中 にも 小舎 人童 の含 まれ る可 能性 はあ るが
︑現 れ方 には
︑だ いぶ 違い があ るよ うに 一見 思わ れる
︒
表1 小舎人・小舎人男・小舎人童の主人(記録・文書)
No. 年(西暦)月・日 小舎人・小舎人男
・小舎人童 主人 典拠
1 正暦 4(993) 2 ・23 「小舎*[人]」 冷泉院 権 2 長保 2(1000)正・ 1 「東三条院小舎人」 東三条院(藤原子) 権 3 2(1000)8 ・20 「苔雄丸」※ 蔵人頭右大弁藤原行成 権 4 2(1000)9 ・10 「小舎人童苔雄丸」※ 蔵人頭右大弁藤原行成 権 5 2(1000)12・19 「苔雄丸」※ 蔵人頭右大弁藤原行成 権 6 4(1002)9 ・24「筥[苔]雄丸」※ 参議右大弁侍従藤原行成 権 7 5(1003)正・11 「小舎人所内蔵有満」 中納言左衛門督藤原公任 北 8 長和 2(1013)4 ・10 「彼宮小舎人」 東宮(敦成親王) 小 9 2(1013)8 ・15 「小舎人」 左大臣藤原道長 小 10 5(1016)3 ・ 7 「少舎人男」「小舎人」 皇太后宮(藤原彰子) 御 11 寛仁 2(1018)4 ・28 「小舎人童」※ 大炊頭(菅原)為職朝臣 左 12 長元元(1028)11・23 「侍所小舎*[人]男」
「小舎人男」
右大臣右近衛大将藤原実 資
小
13 4(1031)3 ・25 「侍所小舎人男」「小 舎人男」
右大臣右近衛大将藤原実 資
小
14 4(1031)7 ・ 9 「小舎人童」※ 左近衛中将藤原兼頼 小・左 15 5(1032)4 ・21 「小舎人童八人」※ 左近衛少将藤原俊家 小 16 長久元(1040)4 ・19 「小舎人童二人」「観
寿丸・薬犬丸」※
蔵人頭左近衛中将藤原資 房
春
17 元(1040)6 ・ 6 「小舎人童観寿丸」※ 蔵人頭左近衛中将藤原資 房
春
18 元(1040)6 ・14 「小舎人童金丸」「薬 犬丸」※
蔵人頭左近衛中将藤原資 房
春
19 永承 3(1048)4 ・12 「小舎人童二人」※ 左近衛中将源俊房 春
「小舎人童二人」※ 左近衛少将藤原基家
「小舎人童一人」※ 右近衛少将藤原良基
〔典拠〕 権:『権記』 北:『北山抄』紙背文書 小:『小右記』 御:『御堂関白記』
左:『左経記』 春:『春記』
説話
・物 語で はど うで あろ うか
︒小 舎人 童に 絞っ て 見て みる と︑
﹃今 昔物 語集
﹄に は小 舎人 童の 登場 する 説話 が一 四話 存在 し︑ その 主人 をま とめ たも のが 表2 であ る︒
﹃今 昔﹄ でも
︑近 衛中 将・ 少将
︵№
︑2
︑6 10︑ 12︑ 13︶ が目 立つ が︑ 加え て蔵 人︵
№3
︶・ 殿上 人︵
№5
︑7
︶・ 受領
︵№
︑9 14︶ など も見 える
︒さ らに
︑そ の他 から 拾っ てゆ くと
︑例 えば
︑﹃ 大和 物 語﹄
・﹃ うつ ほ物 語﹄ など に近 衛大 将・ 少将
︑﹃ 源氏 物 語﹄ に上 達部
︵公
@︶
・頭 中将
︑﹃ 堤中 納言 物語
﹄に 頭 中将
・蔵 人少 将︑ また
︑﹃ 和泉 式部 日記
﹄か らは 為 尊・ 敦道 の両 親王 とい った 例を 加え るこ とが でき る︵︶6
︒ 以上 から
︑全 体と して
︑王 家︵ 上皇
・女 院・ 三后
︿皇 后・ 皇太 后・ 太皇 太后
﹀・ 皇太 子・ 親王
︶︑ 公@
・ 殿上 人︑ 蔵人 頭・ 蔵人
︑近 衛大 将・ 中将
・少 将︑ 受 領・ 諸司 官人 など の王 族・ 貴族 は一 般に 小舎 人童 また は小 舎人 男と 呼ば れる 従者 を抱 えて いた と判 断し てよ いと 思わ れる
︒摂 関家 をは じめ 左大 臣藤 原道 兼・ 右大
No. 氏名・身分 官職・備考 巻 ― 語
1 藤原常行 「童」(右大臣藤原良相男) 14 ― 42 2 藤原義孝 「左近少将」(摂政太政大臣藤原伊尹男) 15 ― 42 3 橘 則光 「未ダ若カリケル時」「衛府ノ蔵人」 23 ― 15
4橘 季通 「若カリケル時」 23 ― 16
5 源 博雅 「殿上人」 24 ― 24
6 在原業平 「中将」 24 ― 36
7 殿上人 28 ― 3
8 □ノ□ト云フ人 29 ― 4
9 源章家 「肥後守」 29 ― 27
10 家高キ君達 「年若ク」「近衛ノ中将ナドニテ有ケルニヤ」 29 ― 28
11 □ノ□ト云ケル人 「近江守」 30 ― 4
12 □ノ□ト云ケル人 「右近少将」「年若ク」 30 ― 6
13 □ノ□ト云フ人 「右近少将」 30 ― 7
14品不賤ヌ君達受領 「年若キ」 30 ― 11
表2『今昔物語集』における小舎人童の主人
臣藤 原実 資・ 中納 言藤 原公 任な どの 家政 機関 には
﹁小 舎人 所﹂ が見 え︑ 有力 な王 族・ 貴族 の家 政機 関に は彼 らを 管理 する 部署 や彼 らの 詰め 所と して 小舎 人所 が置 かれ てい た︵︶7
︒こ のう ち︑ 物語
・説 話で は︑ 近衛 中将
・少 将に 付 き従 う小 舎人 童の 姿や 活躍 が描 かれ るの が目 立っ た特 徴で ある が︑ 主人 がそ れだ けに 限ら ない こと もま た確 かで ある
︒理 解の 難し い問 題で ある が︑ 例え ば︑ 表2
№1 は藤 原常 行︵ 右大 臣藤 原良 相男
︶が
﹁未 だ童 にて
︑勢 長の 時ま で︑ 冠を も着 けず して ぞ御おわ
しけ る﹂ 時の 話で
︑№ は3 陸奥 前司 橘則 光の
︑№ は4 駿河 前司 橘季 通の
︑と もに
﹁若 かり ける 時﹂ の話 であ った こと が示 すよ うに
︑主 人が 一見 限ら れて 見え るの は︑ 小舎 人童 の直 接の 奉仕 対象 が︑ 近衛 中将
・少 将を 代表 に︑ 将来
︑あ る程 度の 地位 を約 束さ れた 比較 的若 い青 年の 王族
・貴 族=
﹁家 高き 君 達﹂
︵﹃ 今昔
﹄二 九︱ 二八
︶で ある こと が多 かっ たた めで あろ うと 考え る︵︶8
︒そ のた め︑ のち に述 べる よう な平 安京 の闇 夜に くり 広げ られ る冒 険の 主人 公に 最も 相応 しい 存在 とし て︑ 物語
・説 話で は行 動的 な青 年貴 族と 機智 に富 む少 年従 者の 組合 せが 選び 取ら れた ので はな かろ うか
︒ さて
︑小 舎人 童と して 実際 に名 が知 られ るの は︑ 蔵人 頭・ 右大 弁藤 原行 成の 苔雄 丸︵ 表1
№3
~6︵︶9
︶︑ 蔵人 頭・ 左近 衛中 将藤 原資 房の 観寿 丸・ 薬犬 丸・ 金丸
︵№ 16~ 18︶
︑そ れと 架空 の人 物で ある が﹃ 大鏡
﹄で 歴史 の語 り手 とさ れて いる 蔵人 少将 藤原 忠平 の大 犬丸
︵夏 山繁 樹︶ の五 名で ある
︒い ずれ も﹁
︱丸
﹂と いう 童名 をも ち︑ 彼ら が元 服前 の少 年= 童で あっ たこ とが 分か る︒ この うち
︑簡 略な がら ライ フス トー リー を描 き出 せる のが
︑大 犬丸
︵夏 山繁 樹︶ のケ ース であ る︒ 周知 のよ うに
︑﹃ 大鏡
﹄は
︑万 寿二 年︵ 一〇 二五
︶の 雲林 院の 菩提 講に 参集 した 大宅 世継
︵一 九〇 歳︶ と夏 山 繁樹
︵一 八〇 歳︶ とい う二 人の 老人 に若 侍が 加わ って
︑そ れぞ れの 見聞 をも とに 歴史 を語 り合 う座 談形 式を とる
︒
この うち
︑夏 山繁 樹は
︑﹁ 太政 のお とど 貞信 公︵
=藤 原忠 平︶
︑蔵 人少 将と 申し し折 りの 小舎 人童 大犬 丸﹂
︵一 四 頁︶ であ った とい う設 定に なっ てい る︵10︶
︒繁 樹の 語り によ ると
︑乳 児の 頃︑ 子の いな かっ た養 父に 市で 買わ れて 養 われ たあ と︑ 一三 歳で 忠平 に小 舎人 童と して 仕え るこ とに なり
︑そ の後
︑忠 平家 で元 服し た時 に︑ 夏山 とい うウ ジ名 にち なん で繁 樹と いう 名を 授け られ たと いう
︵一 五~ 一七 頁︶
︒途 中︑ 大宅 世継 の語 りが 忠平 にお よぶ と︑ 繁樹 は得 意げ にあ たり を見 まわ し︑
﹁そ れは
︑い わゆ るこ の翁 が宝 の君
︑貞 信公 にお わし ます
﹂︵ 七二
︑七 三頁
︶ と︑ その つな がり を誇 って いる
︒天 暦三 年︵ 九四 九︶ 八月 に忠 平が 七〇 歳で 亡く なっ たあ とは
︑そ の男 師輔 に仕 えた らし く︑ 同八 年一
〇月
︑師 輔が 比叡 山延 暦寺 の飯 室僧 正良 源の もと を訪 れた 折は
﹁御 供﹂ とし て付 き従 った
︵三 五二 頁︶
︒そ して
︑現 在︑ たと え衣 食が 乏し くな って も︑
﹁末 の家 の子
﹂に 当た る﹁ 入道 殿下
﹂= 藤原 道長
︵忠 平曾 孫︑ 師輔 孫︶ に申 文を した ため れば
︑生 活に 困る こと はな いだ ろう と豪 語す る︵ 二五 五頁
︶︒
﹁わ が宝 の 君﹂ の忠 平に 先立 たれ たこ とを 今も 悲し み︑ 亡く なっ た八 月が くる たび に往 事を 思い 出す と語 られ てい るよ うに
︵三 五四
︑三 五五 頁︶
︑夏 山繁 樹は 主人 藤原 忠平 と心 から 強く 結び 付い た存 在と して 描き 出さ れて いる
︒ 繁樹 が何 をき っか けに 忠平 に仕 える よう にな った か記 述は 見え ない が︑ 蔵人 頭・ 左近 衛中 将藤 原資 房の 小舎 人 童観 寿丸 の場 合に ヒン トが ある
︵表
№1 17︶
︒あ とで 取り 上げ る長 久元 年︵ 一〇 四〇
︶の 観寿 丸逃 亡事 件に 際し
︑ 観寿 丸は 資房 に仕 えて 七︑ 八年 にお よぶ とあ るの で︵
﹃春 記﹄ 長久 元年 六月 六日 条︶
︑観 寿丸 が資 房の 小舎 人童 に なっ たの は長 元五 年︵ 一〇 三二
︶︑ 六年 頃︒ 当時
︑資 房は 二六
︑七 歳で
︑左 近衛 少将 の地 位に ある 青年 貴族 で あっ た︒ 一方
︑観 寿丸 は︑ 仮に 大犬 丸︵ 夏山 繁樹
︶と 同様 に一 三歳 から 仕え たと すれ ば︑ 七︑ 八年 後の 長久 元年 には 二〇
︑一 歳︒ 通常 であ れば
︑す でに 元服 して いて 当然 の年 齢に 達し てい る︒ 他に うか がう に足 る史 料が 見当
たら ない ため
︑こ のあ たり が貴 族と 小舎 人童 の年 齢的 組合 せの 一つ の目 安に なる かも しれ ない
︒こ の事 件の 過程 では
︑逃 亡し た観 寿丸 をお びき 出す ため に母 が囮 に禁 獄さ れて いる が︑ 数日 後︑ 資房 の父 権中 納言 藤原 資平 から の申 し入 れに より
︑﹁ 腫物
﹂を 理由 に釈 放さ れて おり
︵﹃ 春記
﹄長 久元 年六 月一 三日 条︶
︑資 平が 観寿 丸母 の庇 護 者と して 振る 舞っ てい るこ とが 分か る︒ おそ らく
︑母 が︑ すで に父 資平 に仕 えて いた こと をき っか けに
︑観 寿丸 は資 房の 小舎 人童 に採 用さ れた ので はな かろ うか
︒ま た︑
﹃和 泉式 部日 記﹄ 冒頭 には
︑亡 き愛 人為 尊親 王に 仕え てい た小 舎人 童が 久し ぶり に和 泉式 部の もと を訪 れる 場面 が描 かれ てい る︒ 無沙 汰を とが める 式部 に対 し︑ 小舎 人童 は﹁ 日ご ろは 山寺 にま かり 歩き てな む︑ いと たよ りな く︑ つれ づれ に思 いた まう らる れば
︑御 かわ りに も見 たて まつ らむ とて なむ
︑帥 宮︵
=敦 道親 王︶ に参 りて さぶ らふ
﹂と
︑旧 主為 尊親 王の 追善 のた め山 寺に 参詣 する うち に︑ その
﹁御 かわ り﹂ に同 母弟 の大 宰帥 敦道 親王 に仕 える こと にな った 事情 を告 げて いる
︵一 七頁
︶︒ 要す るに
︑小 舎人 童は
︑い つも とは 限ら ない であ ろう が︑ 親子
・兄 弟と いっ た近 親相 互の 関係 者の 中か ら︑ 容貌
・才 智に すぐ れた 適齢 期の 少年 が選 ばれ てい たも のと 想像 でき るの であ る︒ 以上 のよ うな ケー スか ら見 て︑ 小舎 人童 は︑ 近親 間の ネッ トワ ーク を中 心に 相応 しい 少年 が選 抜さ れ︑ その 後 は︑ 主人 に献 身的 に奉 仕し
︑そ の見 返り とし て給 養を うけ る存 在で あっ たこ とが 分か る︒ しか も︑ その 関係 は主 人だ けで なく
︑そ の子 孫に 対し ても 継続 ない しは 継続 を期 待で きる もの であ った
︒そ こか ら︑ 小舎 人童 と主 家
︵主 人と その 子孫
︶と の間 の精 神的
・経 済的 な結 び付 きの 強さ を看 取す るこ とが でき るで あろ う︒
二 小 舎 人 童 の 奉 仕 内 容
次に
︑小 舎人 童の 奉仕 のあ りさ まを 具体 的に 見て ゆこ う︒ 小舎 人童 は主 人の 家政 機関 に属 する 者な ので
︑そ の 活動 とし ては イエ 内部 にお ける
︑い わば
〝内 向き
〟の 様々 な業 務が 想定 でき る︒ しか し︑ 現実 には
︑そ うし た活 動の 分か る史 料は 残っ てお らず
︑実 態は 不明 と言 わざ るを 得な い︒ 史料 から 判明 する とこ ろで は︑ 小舎 人童 の活 動は
︑む しろ 外出 する 主人 に付 き従 った り︑ その 使者 にな った りす ると いっ た〝 外向 き〟 の働 きが 中心 だっ たと 思わ れる
︒ 第一 は︑ 主人 の参 内・ 宿直 のお 供で ある
︒﹃ 枕草 子﹄ 第四 四段
︵一
〇二 頁︶ に︑ 次の よう な記 述が 見え る︒ 細ほそ
殿どの
に人 あま たい て︑ やす から ず物 など 言う に︑ 清げ なる 男︑ 小舎 人童 など
︑よ き包 み︑ 袋な どに
︑衣 など 包み て︑ 指さし 貫ぬき のく くり など ぞ見 えた る︑ 弓・ 矢・ 楯な ど持 てあ りく に︑
﹁誰 がぞ
﹂と 問え ば︑
﹁な にが し殿 の﹂ とて 行く 者は よし
︒け しき ばみ やさ しが りて
︑﹁ 知ら ず﹂ とも 言い
︑物 も言 わで もい ぬる 者は
︑い みじ うに くし
︒ 女房 たち が内 裏殿 舎の 細殿
︵渡 殿ま たは 廂間
︶で 雑談 して いる とこ ろに
︑き れい な様 子の 男や 小舎 人童 が︑ 主 人の 衣装 や武 器・ 武具 など を立 派な 包み や袋 に入 れて 通り かか る︒ 女房 たち が﹁ どな たの
﹂と 問う と︑
﹁な にが し殿 の﹂ と答 えて 行く 者は よい
︒気 取っ て恥 ずか しげ に﹁ 知り ませ ん﹂ と言 った り︑ 何も 言わ なか った りし て 去っ て行 くの はに くら しい
︑と ある
︒後 宮の 日常 生活 の一 コマ をめ ぐる 清少 納言 の観 察で ある
︒こ こか ら︑ 小舎
人童 が内 裏の 奥深 くま で主 人に 付き 従い
︑衣 装や 武器
・武 具な どの 包み
・袋 を持 って 控え
︑そ の用 命に 備え てい た様 子が うか がえ る︒ 長保 二年
︵一
〇〇
〇︶ 八月
︑御み 匣くしげ 殿どの 別当 藤原 尊子
︵藤 原道 兼女
︶が 一条 天皇 の女 御に 立て られ たと き︑ 女御 の母 藤原 繁子 が︑ 内裏 で蔵 人頭
・右 大弁 藤原 行成 に纏 頭︵ 被かずけ 物もの
︶を 授け よう とし た︒ 行成 は︑ 蔵人 頭の 地位 に 相応 しく ない と考 え︑ これ を無 視し たが
︑繁 子は 気に とめ ず︑ さら に従 女に 命じ て行 成の 小舎 人童 苔雄 丸を 召そ うと した
︒し かし
︑苔 雄丸 も︑ これ を無 視し たた め︑ 繁子 は見 る者 のã りを うけ たと いう エピ ソー ドが 見え る
︵﹃ 権記
﹄長 保二 年八 月二
〇日 条︑ 表1
№2
︶︒ 内裏 にお ける 藤原 行成 の身 辺に は小 舎人 童苔 雄丸 が日 常的 に付 き 添い
︑行 動を とも にし てい たの であ る︒ 以上 のよ うに
︑小 舎人 童は
︑主 人の 参内
・宿 直な どに 身の 回り の日 用品 を携 えて 付き 従い
︑内 裏の 奥深 くに 祗 候す るこ とを 主要 な任 務と して いた
︒主 人の 天皇 への 奉仕 を手 助け する
︑い わば 公的 側面 につ なが る役 割を 担っ てい たと いえ るだ ろう
︒し たが って
︑内 裏の 中に は公
@・ 殿上 人・ 蔵人 など の貴 族に 仕え る小 舎人 童が 大勢 たむ ろし てい たは ずで ある
︒そ の内 裏に おけ る詰 め所 にな った のは 蔵人 所町 屋で あっ たと 思わ れる
︒蔵 人所 町屋 は︑ 内裏 の後 涼殿 南︑ 蔵人 所の 置か れた 校きょう 書しょ 殿でん
西に 設け られ た蔵 人頭
・蔵 人の 宿所 であ る︵11︶
︒の ちに
﹁蔵 人町 の童 部﹂
︵﹃ 水左 記﹄ 承暦 四年 六月 一四 日条
︶︑
﹁内 蔵人 町の 童部
﹂︵
﹃中 右記
﹄永 長元 年六 月一 四日 条︶ など と呼 ばれ たよ う に︑ 蔵人 所町 屋は
︑同 時に 小舎 人童 らの 詰め 所・ 宿所 とし ても 用い られ てい たと 考え られ る︒ 次に
︑小 舎人 童の 活動 の第 二の 局面 とし て挙 げら れる のは
︑主 人の プラ イヴ ェー トな 領域 との 関わ りで
︑物 語・ 説話 に描 かれ る小 舎人 童の 姿は
︑こ の側 面が 中心 にな る︒
﹃今 昔物 語集
﹄の 説話 では
︑ 女性 のも とを 訪れ るな ど夜 の忍 び歩 きに 際し
︑﹁ 窃か に﹂
・﹁ 忍 びて
﹂出 かけ る貴 族の 姿が 描き 出さ れて いる
︵表
︶3
︒例 えば
︑
﹁東 の京 に愛 念す る女 有り けれ ば︑
⁝⁝ 窃か に︑ 人に も知 らし めず して
︑侍 の馬 を召 して
︑小 舎人 童・ 馬舎 人 許ばかり を具 して
﹂
︵№ 藤1 原常 行︶
︑﹁ 内の 宿所 よ り忍 びて 女の 許もと
へ行 きけ るに
︑ 夜漸 く深 更ふ くる 程に
︑太 刀許 を 提げ て︑ 歩かち にて 小舎 人童 一人 許 を具 して
﹂︵
№3 橘則 光︶
︑﹁ 人 にも 告げ ずし て︑ 襴のうし 姿に て︑ 只一 人沓 許を 履き て︑ 小舎 人童 一人 を具 して
﹂︵
№5 源博 雅︶
表3『今昔物語集』における貴族の忍び歩き
No. 氏名 内容 巻 ― 語
1 藤原常行 ……東ノ京ニ愛念スル女有ケレバ、常ニ行キケルヲ、父 母夜行ヲ恐レテ強ニ制シ給ヒケレバ、窃ニ、人ニモ不令 知ズシテ、侍ノ馬ヲ召テ、小舎人童・馬ノ舎人許ヲ具シ テ、大宮ニ登リニ出デヽ東ザマニ行キケルニ……
14 ― 42
2 藤原義孝 ……夜漸ク深更ヌレバ、少将北様ヘ行ヌ。共ニハ小舎人 童只一人ゾ有ケル。……
15 ― 42
3 橘 則光 ……内ノ宿所ヨリ忍テ女ノ許ヘ行ケルニ、夜漸ク深更ル 程ニ、太刀許ヲ提テ、歩ニテ、小舎人童一人許ヲ具シテ、
御門ヨリ出テ大宮ヘ下ニ行ケレバ……
23 ― 15
4 橘 季通 ……参仕マツル所ニモ非ズ止事無キ所ニ有ケル女房ヲ語 テ、忍テ通ケルヲ、……小舎人童一人許ヲ具シテ、歩ヨ リ行テ、忍テ局ニ入ニケリ……
23 ― 16
5 源 博雅 ……人ニモ不告シテ、襴姿ニテ、只一人沓許ヲ履テ、小 舎人童一人ヲ具シテ、衛門ノ陳[陣]ヲ出テ、南様ニ行 クニ……
24 ― 24
6 近衛中将某 ……中将、女ノ見マ欲カリケル余ニ、喜ビ乍ラ、侍二人 許、此ノ小舎人童、馬ノ舎人許ヲ具シテ、馬ニ乗テ、京 ヲ暗ク成ル程ニ出テ、忍テ行ニケリ。……
29 ― 28
7 右近少将某 ……「然云ラム所ヘ行カムハヤ」ト思フ心深ク付テ、使 也シ小舎人童ト、大和ノ辺知タリケル侍一人ト、舎人男 一人許シテ、馬ニ乗テ忍テ出立テ、大和ヘ行ケル。……
30 ― 6
8 右近少将某 ……忍テ窃ニ出立テ、鎮西ヘ下ケルニ、随身一人、小舎 人童一人、馬舎人許ニテ、只行着ク所ヲ泊ニテ、此ノ者 共ニ被養テ行ケル程ニ……
30 ― 7
とい った 記述 であ る︒ 騎馬 の場 合に 馬舎 人が 付き 添っ たり
︑侍
・随 身な ど他 の従 者も 加わ った りし て様 々だ が︑ 表3 を通 して 見れ ば︑ 忍び 歩き の性 格を 最も 端的 に表 して いる のは
﹁小 舎人 童一 人許 を具 して
﹂と いう 描写 であ ろう
︒同 様の 表現 は︑ 例え ば︑
﹃堤 中納 言物 語﹄ など にも 見え てお り︵12︶
︑物 語・ 説話 にお ける 忍び 歩き の定 型的 表 現で あっ たこ とが 分か る︒ 小舎 人童 は︑ 昼の 外出 はも ちろ ん︑ 夜の 忍び 歩き に際 して も主 人に 常に 付き 従う 従者 とし て存 在し てお り︑ それ が︑ こう した 物語
・説 話の 定型 的表 現に 反映 して いる ので ある
︒ 同様 に︑ 主人 のプ ライ ヴェ ート に関 わる 側面 とし て︑ 手紙 や贈 り物 の使 者と して の役 割が ある
︒﹃ 権記
﹄に は︑ 長保 二年
︵一
〇〇
〇︶ 一二 月︑ 蔵人 頭・ 右大 弁藤 原行 成が
︑左 近衛 少将 藤原 成房 が突 然出 家し たこ とを 悲し み︑ 世の 無常 を嘆 く和 歌︵
﹁世 の中 を如 何に せま しと 思い つつ
︑起 き臥 す程 に明 け昏くら すか な﹂
︶を 記し た書 状を 小舎 人 童苔 雄丸 に託 して 送っ たこ とが 見え てい る︵
﹃権 記﹄ 長保 二年 一二 月一 九日 条︑ 表1
№5
︶︒ また
︑物 語・ 説話 に おい ても
︑例 えば
︑﹃ 浜松 中納 言物 語﹄
︵三 八六 頁︶ に︑
﹁小 舎人
﹂が
﹁大 い殿 の三 位の 中将 の御 文﹂ をも って
﹁小 中将 の君
﹂の もと に通 う様 子が 描か れて いる
︒ 特に
︑物 語・ 説話 では
︑小 舎人 童に 男女 の仲 をと りも つ役 割が 与え られ てい る点 に目 立っ た特 徴が ある よう に 思う
︒﹃ 今昔 物語 集﹄ には
︑主 人が
︑外 出中 に見 初め た女 の行 方を 小舎 人童 に追 わせ
︑そ の住 所を 突き 止め
︑通 うよ うに なっ たと いう 話が いく つも ある が︵13︶
︑次 のよ うな 話も 見え る︒ ある
﹁品しな
賤し から ぬ君きん
達だち
受ず 領りょう
﹂が 摂津 国 にあ る所 領に 赴く 途中
︑難 波の 浜辺 で﹁ 蛤の 小さ やか なる に海 松
み る
の房 やか にて 生い 出た りけ る﹂
︵= 蛤の 小ぶ り の貝 殻に 海藻 がふ さふ さと 生え てい る︶ のを 見付 けた
︒男 は興 趣を 覚え
︑妻 にプ レゼ ント しよ うと
﹁然さ 様よう
の方 に 心得 て仕 いけ る﹂
︵= 妻へ の手 紙や 物の 贈答 など の方 面に 手慣 れた 者と して 召し 使っ てい る︶ 小舎 人童 を使 者と
して 遣わ した が︑ 童は 間違 って
︑現 在の 妻で なく 前妻 のも とに 貝殻 を送 り届 けて しま った
︒や がて
︑こ れを 知っ た男 が童 を前 妻の もと に遣 わす と︑ 前妻 は優 美な 和歌
︵﹁ 海人
あ ま
の土 産つと 思わ ぬ方 にあ りけ れば
︑見 る甲 斐な くも 返 しつ るか な︵14︶
﹂︶ を添 えて 貝殻 を送 り返 して きた
︒男 は︑ 風雅 を解 する 心根 に打 たれ
︑こ の小 舎人 童の 勘違 いを きっ かけ に︑ 前妻 とよ りを 戻す こと にな った とい う︵
﹃今 昔﹄ 三〇
︱一 一︑ 表2
№4
︶︒
﹃和 泉式 部日 記﹄ は︑ 亡 き愛 人為 尊親 王の 小舎 人童 で︑ 今は その 同母 弟敦 道親 王に 仕え る小 舎人 童が 和泉 式部 のも とを 久し ぶり に訪 れる 場面 を冒 頭に 置き
︑こ こか ら和 泉式 部と 敦道 親王 との 新し い恋 が説 き起 こさ れる
︒ま た︑
﹃堤 中納 言物 語﹄
﹁ほ ど ほど の懸 想﹂ は︑ 賀茂 祭の 華や かな 気分 から 生ま れた 小舎 人童 と女めの 童わらわ との 恋に 始ま り︑ 若い 男と 女房
︑彼 ら・ 彼女 らの 主人 であ る頭 中将 と故 式部
@の 姫君 とい う身 分の 異な る三 組の 男女 の恋 がく り広 げら れて ゆく
︒男 女の 仲を 媒介 する 小舎 人童 とい うプ ロッ ト上 の仕 掛け は︑ 物語
・説 話の そこ かし こに 見出 すこ とが でき る︒ それ は︑ 女性 関係 をは じめ 主人 の最 もプ ライ ヴェ ート な領 域で 駆使 され る現 実の 活動 がも たら した もの なの であ ろう
︒ 以上 のよ うに
︑小 舎人 童は
︑お そら く他 の従 者以 上に 主人 の日 常に 密着 した 存在 であ った と考 えら れる
︒そ の ため
︑時 に主 人と 生死 を共 にす るよ うな 危険 な目 にあ うこ とも あっ た︒ 例え ば︑ 長保 二年
︵一
〇〇
〇︶ 九月
︑京 郊外 の白 河か らの 帰途
︑蔵 人頭
・右 大弁 藤原 行成 は近 衛大 路末 の鴨 川河 原で 突然 盗賊 から 矢を 射か けら れ︑ 付き 従っ てい た雑 色為 弘と 小舎 人童 苔雄 丸が 負傷 した
︵﹃ 権記
﹄長 保二 年九 月一
〇日 条︑ 表1
№4
︶︒
﹃今 昔物 語集
﹄ には
︑そ うし た危 機に 際し
︑小 舎人 童の 機転 が主 人や 自身 を救 った 話が 見え る︒ 一つ 目は
︑﹁ 駿河 前司 橘季 通構 えて 逃ぐ る語こと
﹂︵
﹃今 昔﹄ 二三
︱一 六︑ 表2
№4
︶︒ 駿河 前司 橘季 通が 若か った 頃︑ さる
﹁止 む事 無き 所﹂
︵= 身分 の高 い人 の家
︶に 仕え る女 房の もと に忍 び通 って いた
︒邸 宅の 侍た ちは
︑そ れを
不快 に思 い︑ ある 夜︑ 帰り を襲 って 折檻 しよ うと 邸宅 を厳 重に 固め
︑待 ち伏 せた
︒そ のた め︑ 季通 は女 房の 局か ら出 るに 出ら れず
︑困 って いた が︑ 明け 方に なっ て迎 えに 来た 小舎 人童 が不 審な 様子 を察 知し た︒ 童は 邸宅 外で 騒ぎ を起 こし
︑侍 たち の気 を引 いた
︒そ の隙 を見 て季 通は 何と か邸 宅を 脱出 する こと がで きた
︑と いう 話で ある
︒
﹃今 昔﹄ 編者 は︑ 小舎 人童 の機 転を 評し て﹁ 童部 なれ ども
︑此 く賢 く︵き︶ 奴は 有り 難き 者也
﹂と 述べ てい る︒ 二つ 目は
︑﹁ 清水 の南 辺り に住 む乞 食︑ 女を 以て 人を 謀り 入れ て殺 す語
﹂︵
﹃今 昔﹄ 二九
︱二 八︑ 表2
№10
︶︒ あ る﹁ 家高 き君 達﹂ が清 水寺 で見 初め た女 と文 を交 わし
︑思 い叶 って 京郊 外の 山里 にあ る女 の家 に通 うこ とに なっ た︒ とこ ろが
︑女 の様 子が どう もお かし い︒ 問い 詰め てみ ると
︑女 は﹁ この 家の 主あるじ は乞 食で
︑私 に懸 想す る男 た ちを 引き 入れ ては 従者 とも ども 殺害 し︑ 物を 奪い 取っ てい ます
﹂と 泣き なが らに 告白 した
︒男 は驚 き︑ 家か ら逃 げ出 した が︑ その あと を追 って 来る 者が いる
︒見 てみ ると
︑そ れは 自分 に付 き従 って いた 小舎 人童 であ った
︒童 が言 うに は﹁ 様子 が変 なの で私 は家 から 逃げ 出し まし たが
︑他 の従 者た ち︵ 侍二 人・ 馬舎 人一 人︶ は殺 害さ れて しま った よう です
︒殿 の身 を案 じて 藪に 隠れ て様 子を うか がっ てお りま した とこ ろ︑ 家か ら走 り出 てき た者 がい ます
︒も しや と思 って あと を追 って 参り まし た﹂ との こと であ った
︒平 安京 の暗 部を 印象 的に 描き 出し た何 とも 奇怪 な話 であ るが
︑﹃ 今昔
﹄編 者は
︑そ の行 動を
﹁童 の心 いと 賢か りけ り﹂ と評 して いる
︒ 以上 をも とに
︑小 舎人 童の 奉仕 の内 容・ 性格 をま とめ てお こう
︒一 般的 にい って
︑小 舎人 童は
︑主 人の 身辺 の 様々 な面 にわ たっ て奉 仕し てい たと 想像 でき るが
︑昼 の外 出は もち ろん
︑夜 の忍 び歩 きに 際し ても 常に 主人 に付 き従 い︑ 女性 関係 をは じめ
︑最 もプ ライ ヴェ ート な領 域で 駆使 され た点 に特 色が ある
︒物 語・ 説話 で︑ 男女 の仲 をと りも つ役 割や
︑機 転に より 危機 を回 避す る役 割が 与え られ てい るの は︑ そう した 小舎 人童 の奉 仕の 内容
・性
格に もと づく もの であ った
︒要 する に︑ 小舎 人童 は︑ 様々 な従 者の 中で も主 人に 最も 密着 した 存在 だっ たと 考え られ る︒ その ため か︑ 小舎 人童 の逃 亡は
︑主 人の 追跡 の対 象に なっ た︒
三 長 久 元 年 の 小 舎 人 童 観 寿 丸 逃 亡 事 件
長久 元年
︵一
〇四
〇︶
︑蔵 人頭
・左 近衛 中将 藤原 資房 に仕 えて いた 小舎 人童 観寿 丸が 逃亡 する とい う事 件が 起 きた
︵表
№1 17︶
︒資 房の 日記
﹃春 記﹄ 長久 元年 六月 六日 条は
︑次 のよ うに 事件 の発 端を 伝え てい る︵15︶
︒ 右衛 門督 殿に 参る
︒尉 季任 朝臣 に参 会す
︒予
︑仰 せて 云わ く︑
﹁予 に年とし 来ごろ 服仕 する 所の 小舎 人童 観寿 丸︿ 七︑ 八年 に及 ぶ﹀
︑四 月 日の 比ころおい より 見来 せず
︒其 の由 緒を 尋ぬ るに
︑天 台濫 僧の 為に 誘因 せら れ︑ 山上 を往 反 すと 云々
︒仍 って 彼の 童の 母女 を召 し︑ 尋ね 進む べき の由
︑之これ を仰 す︒ 件の 女︑ 申し て云 わく
︑﹃ 日ひ 来ごろ 住所 に来 向せ ず︒ 其れ 疑う 所は 殿辺 に候 う歟
︒而しか
るに 此の 仰せ 有り
︒驚 き畏 まり 少な から ず︒ 一切 知ら ざる 事 也﹄ てえ り︒ 両・ 三日 を経 て又 来た りて 云わ く︑
﹃件 の童
︑円 意阿 闍梨 の御おん
許もと
に在 るの 由︑ 之を 承る
︒粟 田 に罷 り向 かい
︑返 給す べし と申 す︒ 随っ て則 ち返 給す
︒仍 って 将来 せん と欲 する の処
︑件 の童
︑途 中よ り逃 去す
︒数 多
あ ま
のた
濫僧 出しゅっ 来たい し︑ 相引 きて 山上 に罷 り上 り了おわ んぬ
﹄て えり
︒予
︑使 を差 して 彼の 闍梨 の許 に問 い に遣 わす
︒其 の返 事詳 らか なら ず︒ 是かく の如 きは 許さ ざる 也︒ 事の 旨︑ 太はなは だ非 常也
︒件 の闍 梨︑ 其の 性稟 悪逆
︑ 濫吹 を以 て宗 と為 す︒ 非常 第一 也︒ 今に 至り ては 計
はか りご
をと
為す 無し
︒早 く彼 の母 女を 召し 搦め 獄所 に禁 ずべ し︒ 然しか
れば 彼の 童︑ 自ず から 出来 せん 歟﹂
︒此 の由 を以 って 別当 に申 すべ きの 由︑ 季任 朝臣 に含 め了 んぬ
︒
観寿 丸は
︑七
︑八 年に わた って 藤原 資房 に﹁ 服仕
﹂し てき た小 舎人 童で あっ たが
︑四 月終 わり 頃か ら姿 を見 せ なく なっ た︒ 天台 濫僧 に誘 われ
︑比 叡山 上を 行き 来し てい ると いう Äで ある
︒そ こで
︑資 房は
︑観 寿丸 の母 を召 して 行方 を捜 すよ う命 じた
︒数 日後
︑母 から 報告 があ った
︒観 寿丸 が粟 田に 住む 円意 阿闍 梨の もと にい ると いう Äを 聞き
︑身 柄を 返し ても らっ たが 途中 で逃 亡し
︑数 多の 濫僧 が現 れて 山上 に連 れ去 って しま った とい う︒ その ため
︑六 月六 日︑ 資房 は︑ 観寿 丸を 出頭 させ るた め母 を囮 にす るこ とと し︑ その 禁獄 を検 非違 使橘 季任 に命 じ︑ 検非 違使 別当 藤原 公成 に報 告さ せた ので ある
︒ その 後︑ 比叡 山上 に連 れ去 られ た観 寿丸 は︑ 観日 とい う僧 侶と 一緒 に山 上を 渡り 歩く 毎日 を送 って いた らし い︒ とこ ろが
︑六 月一 九日 にな って 事態 は急 転し た︒ この 夜︑ 賴能 とい う僧 侶が 資房 のも とを 訪れ
︑観 寿丸 が︑ 母に 会う ため 下山 して いる と告 げた
︒資 房は 検非 違使 橘季 任に 命じ て捕 らえ よう とす るが
︑あ いに く連 絡が つか ない
︒ その うち
︑頼 能が 再び 訪れ
︑観 寿丸 は捕 まる のを 恐れ
︑連 れの 観日 とと もに 山上 に引 き返 そう とし たが
︑途 中︑ 修学 院辺 りで 僧侶 らに 盗賊 の疑 いを かけ られ
︑観 日は 射殺 され
︑観 寿丸 は捕 らえ られ てし まっ たと 報告 して きた
︒ 事件 は僧 侶ら から 関白 藤原 頼通 に通 報さ れ︑ 検非 違使 が派 遣さ れる こと とな り︑ 資房 の手 を離 れた
︒ しば らく して
︑資 房は
︑結 局︑ 罪に 問わ れな いこ とが 決ま った 観寿 丸を 引き 取る こと にし たが
︑﹁ 件の 童︑ 心 性調 わず
︒凶 党に 類す べし
︒又 高こう 名みょう
を以 て叙 用す べか らざ る歟
︒一 定思 い得 ず﹂
︵﹃ 春記
﹄長 久元 年六 月三
〇日 条︶ と︑ この まま 観寿 丸を 使い 続け るか 思い 悩ん でい る︒ その 後︑ 観寿 丸が どう なっ たか は分 から ない
︒ 以上 が小 舎人 童観 寿丸 逃亡 事件 の経 緯で ある が︑ ここ から
︑小 舎人 童を めぐ る平 安京 の社 会関 係の 断面 が浮 か び上 がっ てく る︒
すで に述 べた よう に︑ 観寿 丸は 藤原 資房 に仕 えて 七︑ 八年 にな る小 舎人 童で
︑母 が資 房の 父資 平に 仕え てい た こと をき っか けに 採用 され たと 考え られ る︒ また
︑逃 亡直 前の 四月 上卯 の稲 荷祭 の神 幸行 列で は同 僚の 薬犬 丸と とも に馬うま
長おさ を務 めて おり
︵﹃ 春記
﹄長 久元 年四 月一 九日 条︶
︑平 安京 社会 にそ の名 を知 られ た﹁ 高名
﹂の 小舎 人童 の一 人で もあ った
︒ さて
︑こ の事 件は
︑小 舎人 童の 逃亡 とそ の追 跡を 内容 とす る︒ よく 似た 話と して
︑﹃ 今昔 物語 集﹄ に︑ 九世 紀 の著 名な 絵師 百済 河成 が︑
﹁従 者の 童﹂ が逃 亡し た際
︑﹁ 或高 家の 下しも 部べ を雇 い語 ら﹂ って 行方 を追 わせ たと いう 話 が見 える
︵﹃ 今昔
﹄二 四︱ 五︶
︒下 部が
﹁行 方を 捜す のは 容易 です が︑ 童の 顔を 知ら なく ては 捕ら えら れま せん
﹂ と答 えた とこ ろ︑ 河成 は紙 を取 り出 して 顔を 描き
︑﹁ これ に似 た童 を捕 らえ よ︒ 東西 市いち は人 の集 まる 所で ある か ら︑ その 辺り を捜 索せ よ﹂ と命 じた
︒下 部が 市に 行く と︑ 果た して そっ くり の童 が見 つか り︑ 連れ 戻す こと がで きた とい う︒ 河成 のす ぐれ た技 倆を 称え た説 話で ある が︑ その 原型 と思 われ るエ ピソ ード が︑
﹃日 本文 徳天 皇実 録﹄ 仁寿 三年
︵八 五三
︶八 月壬 午︵ 二四 日︶ 条の 百済 河成 卒伝 に見 えて いる
︒そ こで は︑
﹁昔
︑宮 中に 在り て︑ 或人 をし て従 者を 喚さ しむ るに
︑或 人辞 する に未 だ顔 容を 見ざ るを 以て す︒ 河成 即ち 一紙 を取 りて
︑其 の形 体を 図えが く︒ 或人 遂に 験得 す︒ 其の 機妙 の類
︑此かく の如 し﹂ とあ り︑ 宮中 で河 成が ある 人に 命じ て﹁ 従者
﹂を 召し た時 の 話に なっ てい る︒ それ が︑
﹃今 昔物 語集
﹄で は﹁ 従者 の童
﹂の 逃亡 とそ の追 跡に 書き 換え られ てい るの であ る︒
﹃今 昔物 語集
﹄が
︑過 去の 説話 の設 定を 編纂 時の 社会 状況 に合 わせ て翻 案す るこ とは
︑よ く知 られ てい るが
︑こ れは
︑﹁ 従者 の童
﹂の 逃亡 とそ の追 跡と いう モチ ーフ が︑ 当時 の人 びと にな じみ やす く︑ 理解 しや すい もの で あっ たこ とを 示し てい る︒
﹃今 昔物 語集
﹄な どに
︑主 家の 経済 状態 が傾 くに つれ
︑従 者が 離散 する あり さま を描
く説 話が しば しば 見出 され るが︵16︶
︑そ うし た場 合︑ どの 程度 従者 の追 跡が 行わ れた もの なの かは よく 分か らな い︒ ただ
︑た また ま残 る二 つの 事例 が﹁ 従者 の童
﹂・
﹁小 舎人 童﹂ を追 跡対 象と する 点は 示唆 的で
︑そ れは
︑こ れま で 述べ てき たよ うに
︑﹁ 童﹂ が従 者の 中で も主 人と 最も 日常 的に 密着 した 存在 であ った こと の反 映で はな かっ たか と思 われ る︒ 藤原 資房 と小 舎人 童観 寿丸 との 関係 を示 す﹁ 服仕
﹂と いう 語に は︑ 両者 の間 にあ る強 固な 人格 的隷 属関 係が 示さ れて いる
︒ 一方
︑観 寿丸 逃亡 の背 後に は延 暦寺 僧と のつ なが りが 存在 した
︒長 暦二 年︵ 一〇 三八
︶一
〇月
︑翌 三年 二月 と 続い た慈 覚︵ 山門
︶・ 智証
︵寺 門︶ 両門 徒の 対立 に発 した 強訴 の影 響に より
︑当 時︑ 朝廷 では
﹁濫 悪の 法師
﹂の 取締 りが 課題 とな って いた
︒関 白藤 原頼 通は
︑そ の状 況を
﹁件 の僧 等︑ 群党 を成 し︑ 刀釼 を顕 わし
︑京 中を 横行 し︑ 殺害 を宗 と為 す﹂ と述 べ︑ これ らは 主に
﹁止 むご と無 き僧 綱等 の従 類の 所為 なり
﹂と 指弾 して いる
︵﹃ 春記
﹄ 長久 元年 四月 二九 日条
︶︒ 僧綱 に任 じら れる よう な延 暦寺 の高 僧は
︑朝 廷や 貴族 のイ エの 仏事 に参 加す るた め山 上と 京中 を頻 繁に 行き 来し てお り︑ 中に は京 近辺 に里 房を 構え たり
︑京 中に
﹁車 宿﹂
︵車 庫︶ と称 して 宅を 設け たり する 者も いた
︒そ うし た高 僧に 付き 従う 従者 たち が平 安京 の治 安を 乱す 一要 因で あっ た︒ 僧侶 の従 者と 貴族 の従 者は
︑基 本的 には 同一 の身 分・ 階層 に属 する と思 われ
︑そ れぞ れの 主人 の統 制の およ ばな いと ころ で︑ 様々 な機 会を 通じ て親 密な 交流
=ヨ コの つな がり が生 まれ てい たの では ない かと 思わ れる
︒観 寿丸 と延 暦寺 僧と の関 係は
︑そ うし た社 会関 係を 具体 的に 示す 貴重 な事 例と いえ るだ ろう
︒
四 平 安 京 社 会 と 小 舎 人 童
1
小舎 人童 の社 会的 地位・立 場 ここ では
︑こ れま で述 べて きた こと も踏 まえ た上 で︑ 貴族 のイ エお よび 平安 京社 会と の関 わり を通 して
︑小 舎 人童 の社 会的 地位
・立 場に つい て言 及し てみ たい
︒手 がか りと して
︑三 条家 本﹃ 北山 抄﹄ 紙背 文書 に見 える 長保 五年
︵一
〇〇 三︶ 正月 一一 日小 舎人 所内 蔵有 満解 を取 り上 げて みよ う︵ 表1
№7︵17︶
︶︒ 小舎 人所 内蔵 有満
︑解 し申 し請 う政 所恩 裁の 事 特に 哀! を蒙 り︑ 恪かく 勤ごん の労 に依 り︑ 諸国 目さかん の欠 に拝 任せ られ んと 請う 状 右︑ 有満
︑殿 下に 参仕 して 以来
︑奔 営の 役︑ 昼夜 を論 ずる 無し
︒其 の勤 節を 謂う に︑ 等倫 に劣 らず
︒方 今︑ つら つら 所底 傍輩 の間 を見 るに
︑或 いは 衆圧 に依 りて 参仕 する 者有 るも
︑有 満に
□︵至︶ りて は︑ 偏に 深誠 を企 て︑ 忝く も拙 身を 献ささ
ぐ︒ 若し 微労 を優 さば
︑盍なん ぞ哀 矜きょう を蒙 らざ る︒ 望み 請う らく は︑ 政所 恩裁
︒恪 勤の 労に 依 り︑ 諸国 目の 欠に 拝任 せら れん こと を︒ 且つ うは いよ いよ 中丹 を竭つく
し︑ 且つ うは 将に 後進 を励 まさ ん︒ 仍っ て事 状を 勒し て謹 んで 解す
︒ 長保 五年 正月 十一 日
小舎 人所 内蔵 有満 この 文書 は︑ 小舎 人所 に属 する 内蔵 有満 が主 人の 中納 言・ 左衛 門督 藤原 公任 家の 政所 に提 出し た申 請書 で︑ 処 理が 終わ った あと
︑そ の紙 背を 利用 して 公任 が儀 式書
﹃北 山抄
﹄を 書き 記し たた め︑ 今日 まで 伝来 した
︒﹃ 大日
本史 料﹄ にだ け収 めら れて いる ため か︑ あま り知 られ てい ない よう であ るが
︑こ のよ うな 貴族 のイ エ内 部で 完結 する 文書 が残 るの はた いへ ん珍 しく
︑紙 背文 書な らで はの 内容 を示 して いる
︒ 冒頭 に﹁ 殿下 に参 仕し て以 来︑ 奔営 の役
︑昼 夜を 論ず る無 し﹂ とあ るが
︑﹁ 殿下
﹂と は︑ 一般 に三 后・ 皇太 子・ 摂関 の尊 称を 意味 する から
︑こ こで は︑ 公任 の父 関白
・太 政大 臣藤 原頼 忠︵ 九八 九年 没︶ を指 して いる と考 えら れる
︒内 蔵有 満は
︑藤 原頼 忠・ 公任 の親 子二 代に わた って
︑最 初は おそ らく 小舎 人童 とし て︑ そし て成 人後 は小 舎人 男と して 奉仕 をつ づけ てき た人 物で あっ たと 思わ れる︵18︶
︒有 満は
﹁望 み請 うら くは
︑⁝
⁝恪 勤の 労に 依り
︑ 諸国 目の 欠に 拝任 せら れん こと を﹂ と記 し︑
﹁諸 国目
﹂へ の任 官を 望ん でい る︒ 当時
︑叙 位・ 除目 に際 し︑ 王 族・ 公@ には 年爵
・年 官︵ 年給
︶と いう 位階
・官 職の 推薦 権が 認め られ てい た︵19︶
︒こ のう ち年 官は 主に 任用 国司
︵介
・掾
・目
︶と 国司 史生 を対 象と し︑ 例え ば︑ 公任 のよ うな 納言
︵大 納言
・中 納言
︶の 場合 は目 一人
︑史 生一 人の 計二 名を 推挙 する 権限 が与 えら れて いた
︒国 司と いっ ても
︑実 際に 任地 に赴 き国 務に 関与 する わけ でな かっ たか ら︑ 年官 は︑ 王族
・公
@に 奉仕 する 者た ち︵ 侍・ 雑色 など
︶が
︑そ の見 返り に朝 廷の 官職 とそ れに とも なう 給与 を得 るた めの 仕組 みで あっ たと 考え られ てい る︵20︶
︒つ まり
︑こ の文 書は
︑正 月終 わり に行 われ る恒 例の 除目 を 目前 に︑ 有満 が︑ 長年 にわ たる
﹁恪 勤︵
=精 勤︶ の労
﹂を
!れ んで
︑年 官に より
﹁諸 国目
﹂に 任命 され るよ う推 挙し てほ しい
︑と 主人 藤原 公任 に訴 えた もの なの であ る︵21︶
︒ 内蔵 有満 が任 官を 希望 した 任用 国司 とは
︑平 安京 社会 の中 でど のよ うな 地位 を占 める ので あろ うか
︒よ く知 ら れた 文書 であ るが
︑九 条家 本﹃ 延喜 式﹄ 紙背 文書 には
︑検 非違 使庁 に提 出さ れた
︑長 元八 年︵ 一〇 三五
︶一 二月 から 翌九 年正 月に かけ ての 日付 をも つ左 京保 刀D 請文 が一 六通 伝来 して いる︵22︶
︒こ れら は︑ 平安 京の 行政 単位 であ
る保 に置 かれ た保 刀D たち が︑ 博奕 の禁 止を 命じ た長 元八 年一 二月 一三 日付 けの 検非 違使 庁符 の 施行 を約 した 文書 群で
︑こ こに は計 四五 名の 保刀 D・ 行事 の名 が見 えて いる
︒そ のう ち一 六名 が 官職 をも って いる が︑ それ らは いず れも 下級 官職 で︑
①在 京官 司︵ 官人 代・ 史生
・内 竪・ 長上
︶ と︑
②任 用国 司︵ 掾・ 目︶ とに 大別 でき る︵ 表4
︶︒ つま り︑ 任用 国司 は保 刀D
︑す なわ ち︑ 平 安京 の行 政の 末端 を担 うと とも に︑ 都市 住人 を代 表す る町 の顔 役た ち=
﹁其 の町 に住 みけ る長おとな し き人 びと
﹂︵
﹃今 昔﹄ 二九
︱一 一︶ が帯 びて いる よう な官 職で あっ た︵23︶
︒任 用国 司へ の任 官は
︑王 族・ 貴族 への 奉仕 だけ でな く︑ 官司 に対 する 奉仕 によ るも のも 存在 する から 一概 にい えな いが
︑ 任用 国司 の肩 書き をも つ保 刀D の中 には
︑小 舎人 内蔵 有満 のよ うに
︵有 満が 嘆願 通り 推挙 をう け られ たか どう かは 不明 だが
︶︑ 有力 貴族 に仕 え︑ 家政 機関 に身 を置 きな がら 奉仕 を重 ね︑ その 地 位を 得た 者も
︑お そら く含 まれ てい たで あろ う︒ 以上 から
︑小 舎人 童の 社会 的地 位・ 立場 につ いて まと めて みる と︑ 第一 に︑ 小舎 人童 は︑ 主人 の家 で元 服し て成 人し たあ とも
︑小 舎人 男そ の他 の身 分を イエ 内部 に得 て︑ 主家
︵主 人と その 子 孫︶ に奉 仕し つづ ける こと がで きた と思 われ る︒ また
︑父 母か ら小 舎人 童へ
︑そ の成 人後 は︑ さ らに 子女 へと
︑代 々主 家に 奉仕 しつ づけ た可 能性 も想 定は 許さ れる だろ う︒ 第二 に︑ 小舎 人童 は︑ 成人 後も 主家 への 奉仕 を重 ねる こと によ り︑ その 推挙 を得 て朝 廷の 下級 官職
︵任 用国 司︶ に補 任 され るこ とが 期待 でき る立 場に あっ た︒ 年官 にも とづ く任 用国 司に 限ら ず︑ 有力 な主 家と のコ ネ を背 景に
︑そ の他 の下 級官 職を 得る こと も当 然あ り得 たで あろ う︒ そし て第 三に
︑小 舎人 童は
︑
表4 保刀Fの官職(『平安遺文』2―554〜569による)
① 掃部官人代、大膳官人代、右京官人代、左*[京]職史生、内竪、木工長上。
② 河内掾、摂津掾、出羽掾、因幡掾、因幡掾、播磨掾。
近江目、丹波目、出雲目、播磨大目。
将来
︑平 安京 の保 刀D
=﹁ 其の 町に 住み ける 長し き人 びと
﹂と して 都市 行政 の末 端に 連な るこ とが でき るよ うな 階層 にあ った
︒も ちろ ん人 生に 浮沈 は付 きも ので
︑現 実の 小舎 人童 の生 涯は 様々 であ った に違 いな いが
︑総 じて いえ ば︑ 小舎 人童 は︑ 保刀 Dの よう な都 市中 間層 を生 み出 す母 体の 一つ にな った と思 われ る︒ その 地位
・立 場の 前提 には
︑主 人で ある 貴族 に対 する 献身 的な 奉仕 と︑ その 見返 りと して の貴 族に よる 様々 な面 にお よぶ 手厚 い庇 護︑ つま り貴 族の イエ との つな がり があ った と考 えら れる ので ある
︒
2
御霊 会と 小舎 人童 一方
︑小 舎人 童は
︑京 童わらわ 部べ
︵京 童︶ との 密接 な関 わり が想 定さ れ︑ 社会 集団 とし て側 面も 垣間 見え る︒ 京童 部︵ 京童
︶は
︑﹁ 京都 市中 の口 さが ない 無頼 の者 たち
︒﹃ わら はべ
﹄に は元 服も しな い無 頼の 徒と いう 意味 が生 じ てお り︑
﹃き ょう わら はべ
﹄は 京と いう 都会 にお ける 無頼 の民 衆を いう
﹂︵
﹃日 本国 語大 辞典
﹄︶ と説 明さ れ︑ 童か 否か に関 わら ず︑
﹁平 安京 の無 頼漢
﹂と いっ た超 歴史 的で 匿名 性を もっ たニ ュア ンス が感 じら れる が︑ 黒田 紘一 郎は
︑﹃ うつ ほ物 語﹄
・﹃ 栄花 物語
﹄な ど文 学作 品の 記述 から
︑京 童部
︵京 童︶ を︑ より 歴史 的・ 具体 的に 把握 し よう と試 み︑ その 属性 とし て︑
①権 門︵ 権門 勢家
︶と 何ら かの 関わ りを もつ 都市 住人 層で ある こと
︑② 武力 をも ち︑ 集団 とし て存 在し てい るこ と︑
③貴 族社 会の 情報 に通 じて いる こと
︑④ 都市 にお ける 祭礼 の方 法を 具体 的に 知っ てい るこ と︑
⑤都 市に おけ るう わさ
︵妖 言︶ の担 い手 であ るこ と︑ とい った 特徴 を挙 げた︵24︶
︒黒 田が 指摘 した 諸点 のう ち︑ 特に
①︑
③︑
⑤は
︑こ れま で述 べて きた 小舎 人童 の存 在形 態や 活動 状況 とき わめ て適 合的 で︑ 京童 部︵ 京童
︶の 概念 の中 核に 貴族 のイ エの 小舎 人童 たち の存 在が あっ たこ とを 示唆 して いる
︒さ らに
︑④ 都市 祭礼