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化学と生物 Vol. 52, No. 2, 2014
巻頭言
Top Columnアデノシン三リン酸の歴史から
二井將光
Top Column
人間社会では,何事も経済面から判断さ れる.科学は人間社会のためにあるのだか ら,基礎的な研究であっても,すぐに産業 技術に貢献しなければいけない.このよう な錯覚は,陥りやすい落とし穴ではないだ ろうか.
基礎科学と応用を目指す科学がバランス よく発展することが,社会にとって重要で ある.歴史をひもとくと,基礎的な疑問か ら始まった研究が,技術を生み出し,社会 に貢献した例は多い.逆に実用的な要請か ら始まった研究から,基礎的な原理が明ら かにされた例もある.
1995年に行われた,日本人の科学技術 イメージ「科学技術と社会に関する世論調 査」によれば,「科学的研究は,たとえ,
すぐに役立たなくても,新たな知識をもた らすという意味で不可欠である」という設 問に「全くそのとおりだと思う」と「その とおりだと思う」という答えがそれぞれ 40%である.基礎科学の価値を国民が認め ている,と考えてよいだろう.
さて,私は生物エネルギーの分野で仕事 をしてきた.誰でも知っているエネルギー 通貨ATPは,糖代謝の研究が盛んだった ドイツのマイヤーホフの研究室で,ローマ ンが「酸に不安定なアデニル酸を含む化合 物」として発見した.1929年のことであ る.同年に,ハーバード大学のフィスケと サバロウが,筋肉から同じ物質を発見して いる.論文はいずれも 誌に出 され,1929年の8月と10月が論文受付日 になっている.
次に,ATPの構造を決定する研究が重 要だった.アデニル酸の何処にリン酸がつ いているか,を明らかにしたのは日本の研 究者である.ありえないとされていた構 造,すなわち,3個のリン酸が一列にエス テル結合でつながった構造を証明したの
が,満州国の大連病院の医師(後に慈恵医 大教授),牧野 堅である.1935年に
誌に発表されている.ローマンも 同じ結論に達し,6カ月後に発表している.
牧野のATP研究と背景について松田 誠がまとめている(慈恵医大雑誌).その なかで「学術の深遠高尚に発達するは畢竟 学者の熱心,即ち道楽に在り,故に学術の 高尚深遠ならんことを望まば,宜しく学者 は楽しんで研究するの気風を養成するを要 す」という,牧野の上司である後藤新平
(当時満鉄総裁)の言葉を引用している.
後藤は経済面の利益ではなく,道楽,すな わち「道を楽しむ」さらに,「学者は楽し んで研究するの気風を養成するを要す」と 学者に求めている.牧野が世界的な仕事に 至った素地である.ATPの果たす役割が どれだけの広がりを示したか,広がりのな かで,疾病やクスリに結びついたか,読者 諸賢の知るとおりである.
この話を終える前に,ひと言つけ加えて おこう.ローマンは牧野の論文を読んだと 考えられるが,引用していない.科学にお けるフェアプレーとして疑問が残る.後 に,丸山工作が,ハーバード大学に保存さ れ て い る フ ィ ス ケ の ノ ー ト を 精 査 し,
ATPの化学構造を初めて明らかにしたの は,牧野 堅であることを示している(丸 山工作,『約束されぬ地の眺め』,学会出版 センター,2000参照).ノートが保存され ていたことには頭が下がるが,欧米で出版 されている教科書に牧野 堅の業績が引用 されていないのは残念である.
生物にとって最も基本的な物質ATPの 研究の歴史から,応用を目途とする場にお ける研究,研究の公的支援,発表と資料の 保存,研究の先取権,などを考えていただ ければ幸いである.