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戦後外交論 に お け る 酒井 哲哉 理想主義と現実主義
戦後日本の外交論を検討する際に、これまで恐らく最も頻
繁に用いられてきた議論の型は、理想主義と現実主義を対置
させる図式である。すなわち、この見解によれば、戦後の外
交論争をかたちづくってきたのは、日本国憲法の平和主義的
規定に依拠した理想主義と、日米安全保障条約に依拠した現
実主義との葛藤であった。こうした対立は、冷戦の本格化と
講和論争のなかで形成され、一九五〇年代後半の改憲論争の
過程において定着した。六〇年安保の教訓は、保守勢力に改
憲路線を実質的には放棄させたものの、このような理想主義
と現実主義の対立構造そのものは、論壇においては、米国の
リアリズム国際政治論を導入した現実主義者の登場によって、 はじめに
このような図式が、現実の政治過程とそれに照応した知識
人の言説の布置状況をかなりの程度まで的確に捉えているこ
とは、否定できない。しかしながら、戦後外交論における理
想主義と現実主義を、より広い思想的背景から突き詰めて考
察する試みは、これまで意外なまでになされてこなかったよ
うに思われる。このことは逆説的にも、立場の差異にかかわ
らず、戦後日本の外交論がきわめて特殊な前提と経験の上に
成り立っていた、という理解が論者に共有されていることを
裏から示している。 六〇年代以降、むしろ強まった。かくして、理想主義と現実
主義のいずれの立場をとるにせよ、両者の対立図式は、戦後
日本の外交論を特徴づける基本的構図として、多くの論者に
よって承認されてきたのである。 (
) 1
25 戦後外交論における理想主義と現実主義
だが、戦後日本の精神的世界は、それほどまでに世界の思
想界から切り離された知的孤島だったのであろうか。あるい
は、日本の知識人は、同時代の国際政治論になんらの示唆や
影響を受けなかったのであろうか。もしそうでないとすれば、
彼らは同時代の国際政治論にどのような影響を受け、どのよ
うな知的系譜を引いていたのであろうか。こうした問いに答
えることは、戦後外交論の知的背景のみならず日本外交の理
念的基礎を考えるうえでも、必要不可欠な作業のように思わ
れる。
本稿はこうした問題関心から、戦後外交論の形成過程を、
その知的背景に留意しながら考察するものである。以下の行
論では、まず国際政治論における理想主義と現実主義の原型
を探るために、戦間期の国際政治論が概観される。これを受
けて次に、戦後日本の外交論が、どのような意味で戦間期の
国際政治論を継承・発展させていったのかが論じられる。限
られた紙幅と著者の研究の現段階では、本稿はいずれにせよ
試論的な領域を出るものではないが、歴史からみた現在の日
本外交について一つの視座を提供することを本稿の目的と考
え、筆を進めることにしたい。
(1)なお、政府の現実主義と在野の理想主義の対立という視点から、明治維新以降の日本外交の思想的背景を考察した著作と しては、入江昭『日本の外交』、中公新書、一九六六年、を参照。戦後外交論の概観としては、とりあえず、北岡伸一「戦後日本の外交思想」、北岡伸一編『戦後日本外交論集』、中央公論社、一九九五年。
一原型としての戦間期
およそ政治理論において最も基本的な対立は、人間性につ
いての判断をめぐる対立である。国際政治論における理想主
義と現実主義との論争が、しばしばまず人間存在の理解をめ
ぐって開始されるのは、こうした事情と深くかかわっている。
すなわち、前者が概して、人間の生得の社会性や啓蒙による
自己完成能力の開花を主張する性善説的人間観に傾きやすい
のに対して、後者は、人間の支配欲や権力衝動の偏在性を強
調する性悪説的人間観に親和性をもちやすい。このような観
点に立てば、理想主義と現実主義は、相異なる人間観に基づ
いたあらゆる時代と場所において常に反復再生産される政治
論の型であり、その意味で両者の対立は、歴史を超えた性格
をもつものとみることもできる。 ()
しかしながら、二〇世紀の国際関係思想史のなかで両者の
位置づけを考察するためには、その原型を築いた戦間期の議
論を振り返る必要がある。第一次大戦の経験は、従来の国際
政治の準拠枠組みであった勢力均衡原理に基づく西欧国家体
1
26 系の自明性を喪失させるものであった。大戦末期から登場し
たウイルソン主義とレーニン主義は、国際政治におけるイデ
オロギー要因の比重を高めることで、こうした国際政治の構
造的変容を加速化するとともに、民族自決主義を掲げる非西
欧圏の反帝国主義ナショナリズム運動への影響力を強めてい
った。このような変化は、当然のことながら、国際政治論に
も大きな影響を与えずにはおれなかった。大戦前の主権的国
民国家を前提とした外交史・伝統的国際法学に代わり、大戦
後の知的世界を席巻したのが、新たに設立された国際機構を
中心とした普遍主義的国際政治学・国際法学だったことは、
そのことを物語っている。かくして、国際政治論における理
想主義は、このような大戦後の普遍主義的国際政治観の登場
と深くかかわりながら成立したのである。
このような議論は、第一次大戦後の日本の国際政治論にも
波及した。大正デモクラシーのイデオローグであった吉野作
造の国際政治論は、その代表的例である。吉野は、二〇世紀
の国際政治の特色を、一九世紀においては個人間において適
用されるにとどまった自由平等の原則が国際関係にも拡大適
用されるようになったところに求めたうえで、こうした変化
を「帝国主義」から「国際民主主義」への変化として捉えた。
交戦国の利害調整を中心とする従来の講和に代えて、非併 合・無賠償・民族自決を掲げた抽象的原則による講和の提唱
を米ソ両国が行なったことは、戦後の国際政治が、自由・平
等という普遍的原則に基づいて築かれることを予期させるも
のであった。吉野は、こうした観点から、国内政治における
民本主義の必然性を弁証するとともに、日本の対外政策が国
際民主主義の諸前提を満たすことを求めたのである。吉野の
ワシントン体制の支持や中国ナショナリズムヘの深い共感は、
このような吉野の国際政治認識から生まれたものであった。
(
) 2
吉野の議論で興味深いことの一つは、それが、同時代の英
米圏に支配的であった法律主義的な平和論の影響を著しく受
けていることである。吉野は国際連盟の設立を、これまで弱
小国の主張にすぎなかった国際法強制組織の樹立が実現した
点に、国際正義確立上の意義を見出す。国際社会の相互依存
の拡大は、共通の規範の下にその構成員が置かれ、国内社会
と同様に統一的制裁力が漸次国際社会にも及ぶことを意味す
る。こうした国際法共同体の進化が、統一的制裁力を保障す
る機構として国際連盟の設立をもたらしたのである。吉野は、
米国の対独参戦も、国際制裁力の行使として捉え、これを強
く肯定している。周知のように晩年の吉野は、明治文化研究
に専心することで時事的論説の執筆を控えるようになったが、
このような関心はその後も維持されたように思われる。吉野
27 戦後外交論における理想主義と現実主義
の明治文化研究の集大成である「我国近代史に於ける政治意
識の発生」は、幕末・維新期における「公道」観念、すなわ
ち普遍的規範観念の形成を扱ったものである。幕末における
万国公法の受容を克明に位置づけたこの論文が、吉野の大戦
後の国際法の転換への関心の延長上にあることは明らかであ
ろう。 ()
ところで、満州事変の勃発は、吉野が大正デモクラシーの
基礎に据えた普遍主義的国際政治観に対する挑戦であった。
満州事変と日本の国際連盟脱退は、普遍的国際機構による安
全保障体制の欠陥を露呈させたのである。日本政府は満州事
変に際して、現地軍の行動を自衛権の行使として正当化し、
不戦条約の適用を回避する法的構成をとることで現行の国際
法秩序との調整を図ろうとしたが、こうした試みは事態を糊
塗するものにすぎなかった。吉野とならんで満州事変を正面
から批判した数少ない知識人の一人が、ハンス・ケルゼンの
影響を受けた規範主義的国際法学を展開した横田喜三郎であ
ったことは、満州事変が従来の国際法秩序に与えた衝撃を裏
から示すものであると言えよう。かくして、日本の知識人は、
満州事変による普遍主義的国際政治観の動揺を受けて、新た
な国際政治観を提示する課題を迫られたのである。
満州事変以後、普遍主義的国際秩序に代わり日本の知識人 が主張したのは、地域主義的国際秩序であった。国民国家の
未形成な東アジアにおいては西欧の主権国家体系を前提とし
た一般的国際規範は妥当せず、東アジアには独自の国際秩序
の論理があるというこの主張は、当初は、満州事変による極東
の事態を例外的事例として処理することで、第一次大戦後の
国際秩序との正面衝突を避けようとしたものであったが、日
中戦争の長期化とともにやがてそれは、文字どおり新秩序論
として、九ヵ国条約に代表される現行の国際秩序の原則的批
判へと発展していった。こうして形成された東亜新秩序論が、
一方で、ドイツの広域圏理論の影響を受けた地域主義理論と
して、普遍的国際機構と個別国家の原子論的並立の双方を批
判する構成をとるとともに、他方で、従来の国際秩序を英米
の帝国主義的支配と等置し新秩序をそれを超克するものとし
て正当化することで、一部のマルクス主義者たちの関心を引
きつけたことは、よく知られている。それはきわめて屈折し
た形ではあるが、大戦後の普遍主義的国際政治観に対する当
時の日本の知識人の反応を知的に表現したものとも言えよう。
3
一般に一九三〇年代の日本外交は、元来現実主義的な対外
態度を示してきた日本の政策決定者が例外的にイデオロギー
化したものとして位置づけられているが、このようなイデオ
ロギー化は、逆説的にも当時の政策決定者や知識人によって、 (
) 4
(
) 5
28 ウイルソン主義ないしレーニン主義の挑戦がいかに重視され
ていたかを物語っている。この意味で、三〇年代における国
際政治論のイデオロギー化は、西欧国家体系の自明性が喪失
された第一次大戦後の精神世界の状況の反映であった。
こうして一九三〇年代の日本の知識界では、普遍主義的国
際政治論への批判は地域主義的国際政治論に結晶化されるこ
とになったが、このような普遍主義批判は、少なくとも潜在
的にはさまざまな国際政治論として分岐され表出されうるも
のであった。第二次大戦後の国際政治学を席巻したリアリズ
ム国際政治論は、実はこうした戦間期の思想状況に深く棹さ
しながら生まれたものである。
米国におけるリアリズム国際政治学の創始者として知られ
るハンス・モーゲンソーは、もともと亡命前は国際法学者で
あり、戦間期ドイツ国法学におけるケルゼニズム批判の文脈
のなかで学問的自己形成を行なった人物であった。一九二九
年に出版されたモーゲンソーの処女作『国際裁判――その本
質と限界』は、国際裁判における政治紛争の除外について緻
密な法理論的考察を行ないながら、国際紛争を司法的解決に
一元化することで国際平和の実現を図ろうとする規範主義的
国際法学への内在的批判を試みた著作である。モーゲンソー
は次いで、ケルゼンの主唱する純粋法学の認識論的基礎を提 供するものであった新カント派の法哲学の検討へと研究を進
め、規範とりわけ法規範の現実性についての探求に入ってい
った。処女作の発表から五年後に出版された『規範の現実性』
は、法規範と他の習俗規範・道徳規範との相互関係や、法規
範と非規範的社会力との関連を分析することで、純粋法学が
視野の外に置いた法規範の現実性を問い返した著作である。
きわめて錯綜した構成をもつこの著作は決して成功作とは言
いがたいが、モーゲンソーの問題関心が、一方ではケルゼン
による法現象の認識的統一の試みに触発されながらも、他方
では規範の現実性を問題にすることで、機能主義的国際法学
を樹立するための方法論を模索する点にあったことは、明瞭
にこの著作から読み取ることができる。
() ()
6
要するに、ワイマール期においてカール・シュミットやヘ
ルマン・ヘラーなどによって進められた政治的公法学の手法
を国際法学の領域に導入しつつ、純粋法学によっては把握し
がたい法規範の現実的基礎を対象化することで、国際社会の
規範構造を捉え直すことこそが、モーゲンソーの知的根底に
あった問題関心だったのである。
米国に亡命してからのモーゲンソーの国際政治論は、当時
の米国に根強く存在していた法律主義的な世界政府論との論
争的文脈に置かれたことも手伝って、こうした法学的構成が 7
29 戦後外交論における理想主義と現実主義
極度にまで薄められ、権力政治概念を核とした社会学的構成
が前面に出てくる結果になっている。だが、上述のような知
的系譜を念頭においてテキストを精読すれば、こうしたモー
ゲンソーの問題関心を読みとるのは決して困難ではない。こ
のことは何よりも、モーゲンソーの主著『諸国民間の政治』
を一読すれば明らかである。権力現象の偏在性の指摘から始
まるこの本は、ともすれば、ホッブズ的な国際社会の無政府
性と権力政治の必然性のみを主張した書と読まれがちである
が、そもそもモーゲンソーの思想形成過程に即して言えば、
この書物は冒頭の部分から書かれたものではない。 ()
モーゲンソーの思考過程は、この書で言えば、通常看過さ
れがちな第一三章「力の抑制要因としての倫理、習俗、法」
ないし第一六章「国際法の主要問題」のような国際法規範の
現実性についての考察から始まっており、このような規範と
非規範的社会力の分析が肥大化した形で有名な権力政治の分
析へと展開し、そのうえで今度はこうした社会学的分析を踏
まえたうえで、いかに国際法共同体の漸進的発展を促してい
くか、という問題構成を本来的にはとっているのである。モ
ーゲンソーは、しばしば意に反してマキャベリズムの徒とし
て非難されたが、それはモーゲンソー自身の論争的表現・態
度を別にすれば、およそドイツ国法学の知的文脈に不案内な 米国の読者が、モーゲンソーの政治的思考におけるケルゼニ
ズム問題の重要性を読み取ることができなかったことによる
ところが大きいように思われる。
8
モーゲンソーが、いわば保守主義的関心からリアリズム国
際政治論に辿り着いたとすれば、これとは逆に社会主義的関
心から、この問題に接したのが、E・H・カーであった。
カーの『危機の二十年』は、その痛烈なユートピア主義的
平和論批判から、リアリズム国際政治論の古典として学説史
上の位置づけを与えられている。だが、カーの場合も、その
国際政治論がいかなる知的文脈から生まれ、どのような歴史
意識を内包しているのかについて、内在的分析がなされるこ
とはこれまで比較的少なかったように思われる。カーの国際
政治論は、端的に言えば、社会主義的関心からの自由放任主
義批判を国際政治論に投影したものである。カーのウイルソ
ン主義像は「遅れてきたベンサム主義」とでも呼ぶべきもの
であり、第一次大戦を経た欧州諸国ではすでに克服されつつ
ある自由放任主義と利益の自動調節という神話を、これまで
比較的自由主義的観念の適用の外にあった国際政治領域に持
ち込んだところに、ウイルソン主義の特色があると捉えられ
ている。同書において、国際社会の平和的変革に最も近似し
た例として挙げられるのが、国内社会における労資協議体制
30 の制度化過程であったことは、この意味で象徴的である。カ
ーのリアリズムは、このような「持てる国」の主導する国際
秩序に対するイデオロギー批判と、方法的にも対象的にも分
かちがたく結びついている点を、まず念頭におく必要がある。
それでは、カーの奉ずる社会主義への展望は、その国際政
治論のなかでどのような位置づけを与えられるのか。カーの
議論で特徴的なのは、総力戦の社会変革作用に対する関心の
高さである。第一次大戦期の統制経済の経験は自由放任主義
の修正を必然化させたが、英米両国によって設計された第一
次大戦後の国際秩序は、この不可逆的過程を塞き止めようと
する守旧的なものにすぎなかった。かくして破綻した古典的
自由主義秩序に代わる選択肢を提示したのは枢軸国とソ連で
あり、一九三〇年代における彼らの魅力はまさにこの点にあ
った。このような枢軸国ならびにソ連の「新秩序」の提唱に
西側諸国がどのように答えるかが第二次大戦の帰趨を決する
鍵になるが、そのためには大戦によってもたらされた社会変
動を取り込む枠組みを西欧諸国が提示することが必要になる。
こうした前提のうえにカーは、戦時体制下での計画経済と
完全雇用の実現を戦後も維持していく一方で、こうした計画
経済を可能にするためにも、大戦後における金本位制と自由
貿易体制への復帰を阻止し、むしろ戦時下の国民国家を横断 した地域経済協力を基礎にした国際経済体制を樹立すること
を提唱したのである。カーは『危機の二十年』のなかで、リ
アリズムとユートピアニズムの相互補完性を強調しているが、
それは単に抽象的に語られた表現ではない。カーのユートピ
アとは、戦時下の統制経済と地域主義を基礎にした社会主義
の建設であり、形骸化した自由主義秩序のリアリスティック
な批判と表裏一体の関係にあったのである。 () (
) 9
モーゲンソーとカーの国際政治論は、普遍主義的国際機構
を基軸とした一九二〇年代の理想主義的国際政治論の批判と
いう点では共通性を有しているが、その基底的価値関心とい
う点ではかなり異なっており同一視することはできない。し
かしながら、両者の議論を知的文脈から検討したとき、それ
らが同時代の日本の知識人の関心と著しく重なりあうもので
あったことには、驚きを禁じえない。
カーの戦時統制経済への着目は、日中戦争下の統制経済の
導入を社会政策上の関心から支持した大河内一男などの議論
と基本的には重なるものであるし、またそもそも、一九二〇
年代の国際秩序を英米本位の平和主義としてイデオロギー批
判する議論の型自体が、日中戦争期の日本の知識人の議論に
著しく親和性をもつものであったことは否定できないであろ
う。またモーゲンソーの業績は、当時の日本における新進気
10
31 戦後外交論における理想主義と現実主義
鋭の国際法学者には、国際法学におけるポスト・ケルゼニズ
ムの動向を示す業績として、早くから注目されていた。一九
三〇年代における規範主義的国際法学の動揺を前に、新たな
方法論を模索していた彼らの眼には、モーゲンソーの機能主
義的アプローチは、きわめて魅力的なものとして映ったので
ある。要するに、モーゲンソーとカーの議論は、大正デモク
ラシーの哲学的支柱であった新カント派の哲学が、マルクス
とシュミットを拠り所に、規範の社会的・政治的現実性を問
い返されることで批判にさらされる三〇年代の日本の知的文
脈と、多くの点で共通する側面をもつものだったのである。
この限りにおいて、リアリズム国際政治論の生まれてくる知
的土壌は日本の知識人にも共有されていた、とみることがで
きよう。それでは、このような知的系譜は、第二次大戦後の
日本の外交論にどのように継承されていくのか、節を改めて
論じたい。 ()
(1)理想主義と現実主義の知的背景を知るためには、DavidLong and Peter Wilson, eds., Thinkers of Twenty Years’ Crisis: Inter-War Idealism Reassessed,Oxford: Clarendon Press: 1995, Michael Joseph Smith, Realist Thought fromWeber to Kissinger, LA: Louisiana State University Press, 1986. (2)酒井哲哉「吉野作造の国際民主主義論」『吉野作造選集』第 六巻解説、岩波書店、一九九六年。
11
(3)『吉野作造選集』第一一巻、岩波書店、一九九五年、二二三―二九〇ページ。(4)なお、満州事変以後の日本の知識界における地域主義的国際政治観の台頭については、三谷太一郎
「 国際
環境の変動と日本の知識人」、三谷太一郎『大正デモクラシー論』〔旧版〕、中央公論社、一九七四年、所収。(5)入江、前掲書、一三五ページ。(6) Hans Morgenthau, Die internationale Rechtspflege, ihrWesen und ihreGrenzen, Leipzig: Robert Noske, 1929.
( 7 ) Hans Morgenthau, La réalitédes normes,en particulier des normes du droit international, Paris: Librairie FelixAlcan, 1934. 響についbid., pp. 1-9. s ケルゼンからの影ては、i(8) Hans Morgenthau, PoliticAmong Nations, N. Y.:Alfred A. Knopf, 1948. (9)E・H・カー(井上茂訳)『危機の二十年』、岩波書店、一二年、二七九―二八二ページ。九五
(
tions of Peace, N. Y.: Macmillan, 1943を参照。なお、三谷太一 10) E. H. Carr, Condi-カーの総力戦観と戦後構想については、
郎
「 戦時
体制と戦後体制
」 『岩波
講座・近代日本と植民地』第八
巻、岩波書店、一九九三年、三一五―三一八ページ。
(
五年)、一一四―一二三ページ、安井郁 ――その現実的意味の考察」『法学論叢』第三三巻五号(一九三 11)田畑茂二郎「国際裁判に於ける政治的紛争の除外について
主義と機能主義――モーゲンソーの国際法学方法論の検討 国際法学における実証「
」 『法 学協会雑誌』第六一巻二・五号(一九四三年)、のちに安井郁『国際法学と弁証法』、法政大学出版局、一九七〇年、に再録。なお
32
戦後の回想としては、田畑茂二郎『国際社会の新しい流れの中
で――一国際法学徒の軌跡』、東信堂、一九八八年、二三ペー
ジ。
二戦後外交論の形成
終戦を迎えて日本の知識人がまず取り組んだのは、戦後憲
法体制の設計であった。すでにいくつかの先行研究が指摘す
るように、この過程で展開された議論は、戦中期の政治・経
済論の延長という側面があった。例えば、和辻哲郎・安倍能
成などによって主張された文化国家論は、戦中期の国民共同
体論を継承しながら、戦後の象徴天皇制を正当化しようとし
たものであった。また、当時の左翼知識人によって広く共有
されていた認識は、戦時統制経済の経験こそが戦後の経済再
建の礎になるという判断であった。片山哲内閣の傾斜生産方
式を始めとする経済復興計画が、このような判断の延長線上
にあることは言うまでもない。この意味で、終戦直後の知的
状況は、近衛新体制下で緊張をはらみつつも共存していた二
つの立場が、戦後の社会変動のなかで次第に保守自由主義と
社会主義とに分化・対立しつつあった状態と、みることがで
きよう。制憲時の争点は、天皇制をめぐる問題と社会経済問
題とに集約されるが、このことは当時の知識人の関心の忠実
な反映であった。 (
) 1
それでは制憲時においては、どのような国際政治論が展開
されていたのだろうか。当時の論壇では占領下の事情も反映
してか、国際政治ないし平和主義を正面から扱った論説は意
外なまでに少ないが、その例外的存在が横田喜三郎であった。
横田は新憲法の戦争放棄の規定を、第一次大戦後の戦争違
法化の流れを引くものとして捉え、従来から主張してきた集
団安全保障論の枠組みでこれを正当化した。すなわち新憲法
の平和主義は、横田の言う「国際法の革命」によって、ひと
まずは弁証されたのである。こうして終戦は、戦中期におい
ては満州事変批判ゆえに絶対的少数者の地位にとどまること
を余儀なくされた、横田の地位の復権をもたらした。横田に
よって援用された国際政治論は、エミリー・リーヴス『平和
の解剖』のような理想主義的世界政府論であり、終戦直後の
日本ではとりあえず、このような意味での理想主義的国際政
治論が正統的地位にあるものとされていた、と言えよう。 ()
しかしながら、このような横田の国際政治論は、終戦直後
においては直接的に表明されなかったものの、少なからぬ違
和感を同時代の知識人に与えたように思われる。実際、国際
政治論における戦前と戦後を媒介したのは、横田とは別の知
的系譜を引く言説であった。このことは、横田の規範主義的
国際法学に批判的立場をとっていた田畑茂二郎の終戦直後の
2
33 戦後外交論における理想主義と現実主義
議論をみるとき、明らかになる。一九四六年に出版された田
畑の『国家平等観念の転換』ば、戦中期の鬱屈とした精神状
況の下で執筆された国際法学史の古典的名著であるが、それ
は同時に、戦後日本の知識人が抱いていた国際社会像の原型
を考えるうえでも、きわめて示唆的な作品である。田畑は近
代国際法における国家平等観念の形成過程を辿りつつ、まず
近代国際法の諸原則がグロティウスにより定礎されたという
通念に疑問を呈する。グロティウスの普遍主義は、人間の社
会的志向性を生得のものとしてア・プリオリに措定したアリ
ストテレス=スコラ的な人間観に基づいており、またその自
然法論は、人間・神の合目的判断を超えてそれ自体において
客観的に妥当する超越的規範であり、中世的残滓をとどめた
ものにすぎない。こうした田畑の「前近代」的グロティウス
像の造形が、第一次大戦後の普遍主義的国際法学におけるグ
ロティウス復興への批判を内包している点に、まず注意する
必要がある。 ()
グロティウスに代わり近代国際法概念を産み出したものと
して、田畑が重視するのが、プーフェンドルフである。プー
フェンドルフにおいて初めて、自然状態における人間の平等
の観念を国際社会に類推適用した国家平等観念は成立した。
その意味でプーフェンドルフにおいては、ホッブズと同様に、 中世的普遍社会の解体を受けて、国家の擬人化による国際社
会の原子論的構成がとられている。だがプーフェンドルフの
自然状態論は、ホッブズのような自己保存の衝動にかられた
個人が互いに繰り広げる戦闘状態ではない。プーフェンドル
フにおける人間の自然的平等の承認は、何人も他者を傷つけ
ざること、といった規範的内容を含むものであり、ホッブズ
的な力の平等観に基づくものではないからである。
3
それ故プーフェンドルフの国家平等観は、人間の自然的自
由の承認と自然法上の義務との双方を含むものになるが、こ
の両者は必ずしも一致するとは限らない。実際、近代国際法
の歴史は、啓蒙期の個人理性へのオプティミズムによって統
一されていたこの調和が崩壊し、国際法の実定法化とともに、
もっぱら国家の自由・独立のみを意味する形式的国家平等観
念に国家平等観念が収束する過程であった。田畑はその原因
の一つを、啓蒙期の自然法論が、非歴史的・非社会的な、い
わば「国家一般」といった抽象的国際社会を設定したために、
現実の国際社会の動態を捉える枠組みを提供できなかった点
に求めている。ここには、規範の社会性・歴史性を重視する
戦前からの田畑の思考方法が、よく表われている。
だが田畑は、自然権に基づく国家平等観念を、すべて斥け
ていたのではない。上述の『国家平等観念の転換』の出版後、
34 田畑はさらに研究範囲を拡大し、第一次大戦後の普遍主義国
際法学によって、個別主権の絶対性を打ち出した原子論的国
際法の開祖として批判にさらされていたヴァッテルの再評価
を提唱した。ヴァッテルを個別国家に対する上位規範をいっ
さい認めない絶対主権説の代表とみなすのは、ヘーゲル以後
のドイツ国法学のイメージをヴァッテルに投影したものにす
ぎず、ヴァッテルにおいて主権概念は進歩的意味をもってい
る。ヴァッテルは、人民主権に基づく国民国家の形成を妨げ
る絶対主義国の干渉を排除するため、ことさらに対外的独立
を主張したのであり、単に主権概念を自己目的として主張し
たのではない。ヴァッテルにおいて主権の行使は、他国の完
全な権利を害しない限度において認められており、乱用は戒
められている。主権の担い手の性格により、大国の支配に対
する抗概念として、主権概念は今日においても進歩的役割を
果たしうるのである。 ()
田畑の議論は学問的禁欲に貫かれたものであるが、そうで
あるが故に、戦後知識人の国際政治論をその思惟様式から捉
える際に、きわめて興味深い視座を提供する。ここにはまず、
国際社会の現実を無視した抽象的規範の設定に対する批判に
裏づけられた、普遍主義的国際政治論に対する強い懐疑があ
る。こうした懐疑は、主権概念批判を展開した普遍主義への 反論として、主権概念の有効性を再評価する言説として表出
される。その限りにおいて、この議論は戦間期の普遍主義批
判を継承しており、リアリズム国際政治論と重複する内容と
知的系譜をもっていると言える。
4
だが第二に、このような主権概念の復権は、主権の担い手
論を媒介項として、市民社会的関心に接合されている。ヴァ
ッテルの復権と言っても、これを無差別戦争観の定礎者とし
て位置づけるか、人民主権論に基づく国際法論者として位置
づけるかは、むろん大きな違いがある。こうして戦後の民主
化関心は国際政治論における主権概念の復権と、結びつけら
れるのである。最後に、大国の支配に対する抗概念としての
主権概念は、脱植民地化を主張するアジア・アフリカ諸国と
の連帯に親和的な概念装置である。共栄圏の名の下に原子論
的国際政治論が批判される戦中期に、すべての国家の権利義
務の同一を意味する実質的国家平等の再評価を促す問題設定
自体が、大国の支配装置としての地域主義に対する一定の批
判的態度を示すものであることは、言うまでもない。この意
味で、マルクス主義的関心に基づく帝国主義批判とも、こう
した概念装置は接合する点をもっていたことは、忘れてはな
らないであろう。そもそも戦間期のソヴィエト国際法学にお
いて提唱された過渡期国際法論は、当時の西欧諸国の国際法
35 戦後外交論における理想主義と現実主義
学界の大勢に反して、主権概念の再興を図るものであった。
横田喜三郎が終戦直後の論壇における平和論を独占してい
た頃に、多くの知識人の心のなかで生まれつつあったのはこ
のような国際政治論であった。冷戦の本格化は、こうした潜
在的な対立関係を顕在化させた。横田は早くから、米ソ対立
の下で中ソとの良好な関係の確立は不可能との立場を鮮明に
打ち出し、全面講和論を批判した。しかも横田は朝鮮戦争が
始まると、従来からの主張である集団安全保障論に依拠して、
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対する国際連合の制裁へ
の確固たる支持と、全面講和論の中立主義への痛烈な批判を
展開したのである。かくして、冷戦の本格化を契機に、平和
論のイニシアティヴは横田から横田の批判者へと移行する。
こうした事態を象徴するかのように一九四九年六月号の『世
界』には、田畑茂二郎の「東京裁判の法理」が掲げられてい
る。全面講和論の中心母体となった平和問題談話会は異なっ
た世代を含む広範な知識人の結集した組織であるから、安易
な一般化は慎まねばならないが、その中核を担ったメンバー
には、暗黙のうちにも横田と横田に代表される集団安全保障
論への懐疑が、渦を巻いていたのではあるまいか。 ()
一九五〇年一二月に発表された有名な平和問題談話会の声
明「三たび平和について」も、このような知的背景を抜きに その含意を理解することはむずかしいように思われる。政治
学者丸山真男、憲法学者鵜飼信成、経済学者都留重人によっ
て執筆されたこの声明は、実は執筆者の専門と関心を反映し
てそれぞれの執筆部分に力点の置き方に微妙な差異があり、
その詳細な検討については、別の機会に譲らざるをえない。
6
(
) 5
ただここで一つだけ注意しておきたいのは、この声明中最
も有名な丸山真男の執筆部分は、文脈的には先に述べた横田
喜三郎の集団安全保障論への批判を含んでいる、ということ
である。丸山の議論を貫く危機感は、国連の地域的軍事紛争
への介入が、やがて大国に対する制裁へと発展し、第三次大
戦を招来するのではないか、という懸念である。多数決原理
の機械的適用による拒否権の制限論に対する丸山の拒絶的態
度も、
「 平
和のための結集決議
」 のよう
な総会主導型の反共十
字軍として国連が機能することへの憂慮を背景にもっている。
すなわち丸山はこの声明のなかで、実は、集団安全保障体制
と正戦の結びつきの根本的問題性を語っていたのである。こ
うして冷戦の本格化は、普遍主義批判と市民社会論と反帝国
主義論の三者を、下からのナショナリズムによって支えられ
た主権概念によって統合する、戦後外交論を形づくったので
ある。それは、ウイルソン主義の破綻した一九三〇年代に青
春を迎えた世代の、屈折した心情から生まれた「理想主義」 ()
) (
8
7
36 的平和論であった。
(1)米谷匡史「象徴天皇制の思想史的考察」『情況』一九九〇年一二月号、三谷太一郎「戦後日本における野党イデオロギーとしての自由主義」、犬童一男・山口定・馬場康雄・高橋進編『戦後デモクラシーの成立』、岩波書店、一九八八年、所収。
(2)横田喜三郎『世界国家の問題』、同文社、一九四八年、一三ページ。なお終戦直後の横田の平和論については、竹中佳彦『日本政治史の中の知識人』下巻、木鐸社、一九九五年、五〇一―五二六ページ。
(3)田畑茂二郎『国家平等観念の転換』、秋田屋、一九四六年。(4)田畑茂二郎『国家主権と国際法』、日本評論新社、一九五〇年、二四―三三ページ。(5)この点については、安井郁「マルクス主義国際法学の序論――コローヴィンの『過渡期国際法論』の検討
」 『法
学協会雑誌』五巻四号(一九三三年)、前掲『国際法学と弁証法』に再録。一(6)竹中、前掲書、五六七―五九四ページ。(7)丸山真男
「 サン
フランシスコ講和・朝鮮戦争・六〇年安保
」
『世界』一九九五年一一月号、三八―四一ペー。ジ(8)平和問題談話会声明
「 三たび
平和について
」 『世
界』一九五
〇年一二月号、三八ページ。
三結びに代えて
上述の検討が示唆するように、戦後外交論を理想主義と現
実主義との二項対立として描く従来の整理は、もはや単純に
は支持できないように思われる。戦後外交論は、これまで考 えられているよりはるかに複雑な織柄からなる構成物であり、
そのことの意味は、表面上の政策論にではなく、その背後に
ある知的系譜と思惟様式に着目するとき明らかになる。従来
の研究がともすればこうした側面を見落としてきたのは、戦
間期の知的文脈に親しみの薄い論者が、一九六〇年安保期の
党派対立のイメージを戦後外交論の形成期に逆投影すること
で、戦後外交論の複雑さを覆い隠してしまったからである。
このことは戦後の国際政治学の中枢にあったアメリカ国際政
治学が、初期の国際政治学の哲学的要素を脱色化した実証主
義的理論として純化する形で発展していったことによって、
さらに倍加されたように思われる。六〇年代以降は、このよ
うな二重の意味で、戦後日本の外交論に関する整理図式の単
純化が進行する過程であった、とも言えよう。
しかしながら、本来、戦後日本の国際政治論は、欧州思想
とりわけドイツ語圏の知的動向の著しい影響下にあった戦間
期日本の議論を継承・発展させることで、生まれたものであ
る。この意味で、亡命知識人によって移植された大陸思想圏
の問題設定を内包した人文主義的リアリズムは、その知的核
心についてみる限り、むしろ米国本国よりも日本の知識人に
とって馴染み深いものであった、と言えよう。一九六〇年安
保の後に、アメリカ国際政治学を導入したものとして論壇に
37 戦後外交論における理想主義と現実主義
華々しくデビューした現実主義者たちの議論も、実はこうし
た日本の知的伝統に棹さしていたのかもしれない。いずれに
せよ、理想主義と現実主義は両者ともに、主権的国民国家体
系がその自明性を喪失した二〇世紀の国際社会において権力
と倫理はいかなる関係をもつべきか、という規範的問いかけ
を内包した思想である。戦後外交論を、その知的背景抜きに、
理想主義と現実主義との不毛な二項対立として語ることは、
思想としての理想主義と現実主義との双方を矮小化するもの
にほかならない。
戦間期の国際政治思想は、いずれも西欧国家体系の歴史性
についての自覚をもっていた。この点については、戦間期の
欧州大陸における西欧文明批判を継承した現実主義者たちの
ほうがいっそう痛切な自覚をもっていた、と言うべきだろう。 モーゲンソーとカーにおいて、こうした意識が最も反映され
る箇所は、彼らの国民国家批判である。カーの国際政治論の
中核にあった意識が、国民国家の時代の終焉であったことは、
すでに第二次大戦期のカーの議論に明瞭に表われているが、
この点については、モーゲンソーも同様であった。ともすれ
ば、主権的国民国家を絶対化したと思われがちなモーゲンソ
ーであるが、モーゲンソーの準拠基準は西欧国家体系の一体
性を成り立たせた道義的紐帯にあり、この観点からすれば、
国民国家による原子論的国際秩序には常に留保が置かれざる
をえない。ナショナリズムに対する否定的な評価が、モーゲ
ンソーの議論全体を貫いている点に、より注意が払われる必
要があろう。かくして、両者の議論は、ヨーロッパ共同体の
形成へと収斂していくのである。この意味で、さまざまな型 () ()
2
1
38 の戦間期の西欧文明批判は、とりあえずは、もう一度西欧精
神の再生をヨーロッパ共同体の形成に託す国際政治論へと結
集していったのである。
彼らと日本の知識人との間に違いがあったとすれば、それ
は権力政治的政治観の有無と言うよりは、このようなナショ
ナリズムに対する評価の差である。このことは、西欧国家体
系の変容を、西欧社会の内側から捉えた西欧知識人と、非西
欧社会の側で迎えた日本の知識人の位相の差の表われとみな
しうる。
例えば、カーの戦後構想を検討したとき、その視点が著し
く西欧中心主義的偏向をもっていることには、驚きを禁じえ
ない。カーは、第一次大戦後の民族自決主義がヨーロッパに
のみ適用されアジア・アフリカ諸国はこの適用の外に置かれ
たことに対する非難を抗しがたいものとして認めつつも、イ
ンドのような自治能力を欠いた途上国を本国との軍事・経済
的紐帯から切り離すことは、事実上は反動的施策である、と
すら述べているのである。マルクス主義を知り抜いたカーに
して然りとすれば、日本の知識人が、アジアの反帝国主義ナ
ショナリズムヘの共鳴に傾斜していったのも、半ば当然と言
えよう。総じて戦後言説が、アジア・ナショナリズムの若さ
によって支えられていたことは否定できない。 (
) 3
しかるに、今日われわれの眼の前にあるのは、アジア諸国
の戦後五〇年史が、それぞれのかたちでナショナリズムの問
題性を露呈させた歴史であった、といういささか苦い真実で
ある。帝国秩序の解体した後で対等な主権国家により地域秩
序を構想する試みは、アジア太平洋地域においてはようやく
開始された、とみるべきであろう。この意味で、新秩序の理
想を各構成員が内面化した国家平等の原理は、いまなお問い
返される価値をもっている。戦後外交論における理想主義と
現実主義が新たな形で継承されるとすれば、そのような意味
においてであろう。 ()
(1)前掲『危機の二十年』、三〇二―三〇三ページ、Carr, op. cit., pp. 39-70. こうした議論は、戦後のNationalism and After(London, 1945)る。で全面的に展開されてい
(2) Morgenthau, Politics Among Nations, op. cit., pp. 184-196. (3) Carr, op. cit., p. 68. なおカーは後に、英国の歴史家の西欧中心主義的偏向を批判しつつ、新たな歴史学の可能性を示すものとして、科学史家ニーダムの『中国の科学と文明』を挙げている(E・H・カー〔清水幾太郎訳〕『歴史とは何か』、岩波新書、一九六二年、二二七ページ)。これはカーの自己批判とも、みることができよう。
(4)前掲『国家平等観念の転換』、三二五―三二八ページ。
(さかい・てつや東京大学助教授)
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