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教育社会学レジュメ 2008.11.10.Mon. 文責

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教育社会学レジュメ 2008.11.10.Mon. 文責:薄葉([email protected]

A. 前回の復習とみんなのレポートから 1. 前回の復習

2. みんなのレポートから a. 通っていた幼稚園

1) 関係重視型

 「この講義を受けて自分の通っていたのは、一番初めに<まとめ>であげた『関係重視型』の保育園であった。(部 分的には子供重視型のような気もするが)当時は課外活動など、みんなで手を繋いで出かけることやピアノによる挨拶 が盛んに行われたことを記憶している。特に思い出深いのは、グラウンドに班別に分かれて「基地」を作ったことであ る。基地といっても茣蓙やベニヤ板をロープで固定して遊具にくくりつけたりするだけの簡単なものであったが、それ を通じて今まで話したことのなかった班員とのコミュニケーションを行い、様々な影響を受けた。完成した後にその基 地の中で弁当を食べたのを今でも覚えている。

 また遊びの面で『ごっこ』遊びなど、一人ではできない遊びを教師が勧めることが多かった。当時はもちろんただ楽 しんでやっていただけだったが、この講義を受けてから考えてみると、これも集団の中に子供を馴染ませるためのもの であると気づいた。

 私が泣いていると『なぜ泣いているのか』を、誰かが喧嘩していると『なぜ喧嘩になったのか』を聞く教師が多かっ た点で、言葉を重んじる『子供重視型』の部分も併せ持っているのではないかと感じた。

 この講義を受けるまで、保育園の区別といえば『公立』『私立』『仏教』『キリスト教』などという考えしか持ち合 わせていなかったが、このような3つの分類をすることができると知り、自分が親になったときにはこれを基準にして 保育園を選ぼうと思う。」(『日本の代表的な保育形式』)

2) 役割重視型

 「筆者は私立の宗教的な基盤の無い、大規模な保育園で幼児時代を過ごしたが、Hollwayの挙げる3つのタイプから選 ぶとすると、「役割重視型」の強い保育園であったのではないかと考えた。振り返ってみると、毎日のように体操やリ トミック、習字、英語の授業があり、英才教育に近い教育を受けていたという思い出がある。ちなみに筆者は発達が少 し遅れていたのか、進度についていけなくて、毎回教師に叱られていた。今になって分かるようになったが、その当時 はなぜ叱られているのかが全く分かっていなかった。

 また、年長の時の体育大会には笛やタンバリン、大太鼓、小太鼓を1人1つずつ持たされ、全員がリズムに合わせて叩 きながら、マスゲームのような複雑な行進をした思い出がある。また、学芸会では保護者が作った衣装を身にまとって 劇をした。余談であるが、この体育大会や学芸会のために1ヶ月以上毎日練習を強いられ、しかも筆者は与えられた課 題を上手くこなせないタイプの子どもであったため、保育園に行くことが嫌で、不登園をしていた時期があった。

 家から一番近いからという理由で親はこの保育園を選んだが、結果的に筆者には役割重視型の保育園は向いていな かったのではないかと今になって思う。将来、親になって、子どもを幼稚園や保育園に入れるときには、子どもの個性 や性格に合った理念を持つところを選びたいと思った」(『日本の幼児教育の多様性』)。

 「私は幼稚園で自由遊びをした記憶はほとんどない。自由遊びの時間はあったことは覚えているが内容はほとんど覚 えていない。自由遊びをした記憶は薄いが、書きかたのレッスン、英語のレッスン、水泳のレッスンを受けていたこと は明確に覚えている。なぜなら苦痛を感じていたものもあったからである。特に書きかたの先生はとても厳しくて、間 違ったことをすればすぐに怒られたのである。今でこそあの時に学んで良かったと思えるし、小さい頃に習って役に 立っていると思ったことは多くあるが、当時の私は怒られることが怖くて書きかたのレッスンがある曜日は幼稚園に行 くことを苦痛にさえ感じていた。

 また私は幼稚園に通っていた当時は左利きであった。しかし左利きを右利きに直させられたのである。「左利きとい うのは個性であるから、直さないで欲しい」と両親は言ったのだか、幼稚園側は受け入れてくれなかった。「将来左利 きだと困ることになるから直しなさい」と言われたことをはっきり覚えているし、自分を否定された感じを覚え、

ショックを受けたことも覚えている。今考えると確かに右利きの方が何事においても便利であるから、直してもらって 良かったと思うが、個人の個性を生かしてあげることも良いことではないかと思う。

 私はこのことから役割重視型の幼稚園はあまり賛成できない。確かに小さい頃から学習したことは身に付くかもしれ ないが、幼稚園というまだ小さい頃は、周りの子ども達とのコミュニケーションや、自由に学ぶことの楽しさを教える ことの方が重要であるように感じる。そして子供たちに学ぶということが苦痛であるというようなことを思わせては絶 対にいけないと思う。また子ども達の個性を尊重していくべきでもあると思う。子ども達が伸び伸びしながら学ぶこと ができる環境を私たちは作っていくべきなのである。そうすることが日本の幼児教育に必要なことではないかと私は思 う。」(『日本の幼児教育』)

3) 子ども重視型

(2)

 「私の通っていた幼稚園は私立のプロテスタントだったのだが(そもそも地元に公立の幼稚園自体ほとんどない)、

一学年一クラスだけで、人数も少なく男子に関しては5・6人しかいなかった。よって幼稚園内にいた園児たちの顔と名 前はみんな把握していたし、クラスメートに関してはかなり細かいところまでお互い知り尽くしていた。また地元には 付属の小学校を除けば私立などの名門小学校をお受験するなどいった風習はなく読み書きや計算などを徹底的に叩き込 まれることはなかった。

 しかし園児と教師の関係がとても密で一人一人がどの先生とも仲良しといったとてもアットホーム的な幼稚園だっ た。一人でも何か疑問に思ったことがあったりすれば、先生方は納得いくまで説明して下った。季節に合わせて工作や 料理を作ったり、夏には夕涼みを兼ねたお泊まり会をしたり小さいうちからそういった行事を実体験として学ぶことが できたし、キリスト教のプロテスタントで幼稚園に教会がつながっており、牧師さんとも交流があった。必ず大切な行 事のときはお祈りをしたし、食事の前にもお祈りをし、必ずイエス様と食事を与えてくださった全ての方に感謝をして いた。正直子どものときなのでむずかしいことはよくわかっていなかったが、わたしたちがこうして食べ物を食べられ ているのはいろんな人や命の支えがあってこそなのだという意識をしっかりともてたのは自分にとってとてもよいこと だったと今でも思う。

 しかし幼稚園児同士のトラブルは起こらないわけがない。そうなった場合先生たちはいきなり一方を叱ったり責めた りするようなことは決してせず、お互いしっかりと話し合いをさせ、最後には誤って仲直りの握手をさせみんなの輪の 中戻すということが定番であった。これがあったから人間関係において悩んだとき、また今では教える側の立場に立つ のだとしたらという場合の大きな参考になった。もうひとつよかったことは朝顔などの植物栽培以外にも幼稚園ではウ サギを飼っていた。よく脱走してしまう困りものであったが、園児たちの中には家庭でペットを飼いたくとも様々な理 由で飼えない子どもたちもいたので、餌やり、水やりやゲージの掃除など皆かいがいしく世話をした。小さいうちから 生きものに触れ、実際に自分たちの手で世話をするということは非常によい体験であったと思う。」(『幼児教育の実 践について』)

b. 関係重視型の落とし穴

 「この関係重視型が日本には多いということなのだが、我々が小学校時代から高校を卒業するあたりまで、仲間はずれ にされることを「いじめ」と呼び、それによって不登校になったり心に大きな傷を負ったりすることは、こうした幼児期の 教育もなんらかの関係をしているのだろうか。集団に所属していたいという日本人的な社会観が大きな理由であるという ことはなんとなく考えられるのだが、幼児期に集団でいることの「正しさ」をインプットされることによって、更に集団か ら離れることを苦痛に感じてしまうという関係があっても不思議ではないと今回の講義を聞き感じた」

c. 子ども重視型(イギリス型)の落とし穴

 「今回のレジュメから、日本と他国との幼児教育の違いなどを学び、私はイギリスの幼児教育より日本の幼児教育の方 針のほうが良いと考える。たしかにイギリスのように教師と子どもとの1対1の相互交渉を重視し子供と深くかかわってい き、園内の環境も「ごっこ遊び」をするときに着替えられるように衣装を用意したり、本物のパスタや野菜を置いていた りなど、なるべく実物を用意しているのは手間とお金をかけていてそれが良い実践教育へとつながって良いとは思うが、

たとえば「ごっこ遊び」をするときに衣装が用意されていれば役柄が限定されてしまい、子供たちの自由思考の妨げに なったりするのではないかと考える。なぜならば、衣装がなければ子どもたちはその場で自分がなりたい者へといつでも 変身でき想像力も豊かになると考えるからである。それに、あまりにも子供の活動の自由を尊重しすぎていては集団との 協調性などが欠けていくのではないだろうか。

 それに比べ日本の幼児教育は自由遊びをさしているが、基本的な1日の生活スケジュールが決まっていて集団で協力し て何かをやるとか、子供同士の協調性をはぐくむ活動がイギリスよりされていると考えるので私は良いと思う。実際に、

日本で地震が起きて狭い施設のなかで何百人もの人が生活をともにし、食べ物が少なくなって配給に頼らなくてはならな くなっても、日本の人たちは周りの人たちを気遣い、そして助け合ってどれだけおなかがすいても順番にならんでいる姿 は、やはり小さいときからの幼児教育で集団での生活の中で協調性を学んだ結果ともいえると考える。その点、他国では 日本より協調性が欠けて自我が強いので、地震など災害が起きたときに暴動がおこったりしてさらに人々が苦しい思いを するのは、昔からの教育の違いからであると考えるので、私はこれからも日本の幼児教育の方針などが変わらないでほし いと考える。

d. 役割重視型の落とし穴

 「教育心理学の言葉にはレディネスという言葉がある。これは児童・生徒が困難なく学習できる状態になっているとい うことである。すなわち教育を受ける心身の準備が整っていることであり、無理に早くから学習するよりも、きちんと成 長してからの方が飲み込みが早く無駄な負担をかけずに、効率よく学習できるということである。私は何事も早くから勉 強をするというのは、間違っていると感じる。早くやればよいというものではないと思う。もっとこの幼児期には友達と の関係を大事にしたりすることで、社会での集団生活を生きる力を身につけるのだと思う。漢字がかけても社会で集団生 活ができない、コミュニケーションがとれない子どもを育ててしまうのであれば、早期教育の意味がないと私は思うので ある。年齢には年齢にあったことを子どもたちにさせてあげるのが私は望ましいと思うのだ。」(『望ましい幼稚園教

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育』)

e. 小一プロブレム

1)  「「小1プロブレム」という問題がある。小学校に入学した1年生が幼稚園生活との違いに戸惑い、教室を出て 行ってしまったりと所謂問題行動を起こすものだ。これは、あまりにも幼稚園がバラエティーに富んでしまったが故 に、小学校で画一的な指導が困難になってしまったのではいかと考えた。様々な経験をそれぞれの幼稚園でしてきた 子どもが、いきなり同じ活動、勉強をするのは大変だろう。私が行っているボランティア先の小学校は、これは私の 出身小学校でもあるが、1年生は各クラスに先生が常に2人いる。この13年程で何が変わったのだろう。もっと深 く探ってみたいと思った。」(『関係重視・役割重視・子ども重視の幼稚園の違い』)

2)  「私は実際に役割重視型の幼稚園に通っていないため、良し悪しの判断は難しいが、私の経験上、また上記の要約 から幼稚園の段階で学習に入るのは少し早すぎるのではないかと思う。幼稚園という人生初めての家族以外の社会集 団と出会い、そこで学ぶことはその社会集団の中でどのようにすれば上手に生きていくことが出来るのか、といった スキルであると私は思うからである。頭が良いからと言って、社会を上手く生きていくことは簡単ではない。だが、

役割重視型を非難するわけではない。やはり早期教育によって三つ子の魂百までといった学習技能を身に付けるのも 将来のためである。ゆえに私の意見としては2つあり、1つ目は、幼稚園では関係重視型や子ども重視型を推奨す る。小学校に上がれば役割重視型に切り替わるのだから、幼稚園では友達と遊ぶことで、個性に気付き、社会のルー ルを守ることの大切さなど、学習よりも重点を置いて学んで欲しい、そしてたくさんの思い出を作って欲しいと思う からである。2つ目は、「いきなり小学校から役割重視型に変わるのは少ししんどいのではないのだろうか?(私はあ まりしんどいといった記憶がないが)」という視点から幼稚園の年少で関係重視型または子ども重視型を行い、年長か ら役割重視型を行うことである。このようにすれば、小学校に上がってもいきなりの環境の変化に戸惑うことが少な くなるのではないか、と考えられないだろうか。」(『S.Hollwayの研究から見る、幼稚園の分類 』)

B. クラス・ルームの社会学(1)

1. 「学級」と「一斉授業方式」という「新奇な」システム

 今日、学級(クラス)といえば、1人の教師が数十人の生徒を前にして一斉に授業をする、といった光景をすぐに思い 浮かべることができる。しかし、このような「学級」や「一斉授業」が成立するのは、歴史的にみればそれほど古いこと ではない。ヨーロッパにおいても近代になって初めて登場したものである。日本においてこのシステムが導入されたのは 言うまでもなく明治時代以降。現在、我々が自明視している教室の風景は、実はたかだか100年くらいしかその歴史を持 たない「新奇な」類のものなのである。

a. 江戸時代の「学習」

1) 手習塾(寺子屋)

・ 手習塾とは?

 文字通り、こどもに「手習い」(文字を書くこと、筆道)を教えるための塾。「寺子屋」という呼称がよく知られ ているが、「寺子屋」は近畿圏で偏って使われていた。近畿圏は歴史的に寺院が多く、そうした寺院で庶民教育がな されていたからである。したがって、事実をより正確に表現する「手習塾」の方が学術的には使用されるようになっ ている。

 江戸時代に入ると、行政が徹底した「文書主義」になった。庶民への通達、お上への訴訟・申請・陳情などは全て

「文書」の形にしなければならなくなった。また、年貢の割付や計算、貨幣経済の浸透など、高度な計算能力も要求 されるようになっていた。このため、庶民は「読み書きそろばん」を学習するよう、方向付けられたのである。

・ 入門

 子どもは普通、7,8歳で手習い師匠に入門する。師匠の許しさえもらえれば、いつでも何歳の子どもでも入門でき た。

注:習慣として「二月の初午の日」を選んで弟子入りすることが多かったという。

 母親が当人を伴い、正装して白扇一対と「束脩(そくしゅう)」という入門料(その他、赤飯・酒肴・菓子折など の贈り物を加えることもあった)を持参して、入門の挨拶をすることで師弟関係に入った。

注:束脩は一応の相場はあったらしいが、その家の経済力や身分に相応した額となる。また、退塾の年齢や時期も 自由であった。

・ 手習い塾の日常

 子どもたちが朝何時に塾に行くかは定まっていなかった。それぞれの家の生活時間のなかで、朝食が終わるとめい めいが登校してくる。江戸時代ではそれぞれの家の生活時間こそが基本であり、それが優先されていた。

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 登校した子どもたちは、前日の終業時に部屋の隅に逆さまに積んでおいた自分の学習机を運んできて、各自が適当 な位置に置き、そこを自分の席とする。逆さまにしておいた「天神机」の脚のあいだに置いていた筆や硯をいれた文 庫を取り出し、思い思いに手習いを始めることとなる。

 子どもたちの学習は、師匠から与えられたり指示されたりした手本を机の左側に置いて、朝からひたすらそれを真 似て書く「臨書」が一般的だった。

注:手習塾の初歩の段階では、一人一人に師匠が自ら「手本」を書いて与えた。一枚の用紙に2字とか4字とかの大 きな文字で書かれた手本から次第に小さな文字の多い手本に移っていく。やがて、印刷・製本された教材が使用さ れるようになる。こうした教材は「往来物」と呼ばれ、商人の子どもには『商売往来』、農民の子には『農民往 来』のように、それぞれの子どもにあった教材が準備された。

 師匠は手本を与える時、手本に書いてある文字の読みと意味も同時に教えた。子どもたちはその意味を念頭に置 き、あるいはその読みを口に唱えながら手本を手習い、稽古した。学習の重点は「文字を美しく上手に書くこと」に あったが、こうした学習を繰り返す中で、その文字(テキスト)の読みと意味もおのずから覚えることができたわけ である。

注:話し言葉が地方差が大きかったのに対し、「文字」で書かれた江戸時代の文章は、その書法から文体・文書の 形式にいたるまで、地方差がほとんどなかった。こうした「文化の共有」が日本の近代化の成功に大きく寄与した と説く研究者もいる。

 子どもたちの学習は、ひたすら個別の自学自習に任されていた。飽きれば勝手に休んだり遊んだりしてまた始め る、という調子だった。

・ 師匠の役割

・ 子ども一人一人に適切な手本を書いて与えたり、選択してやること

・ 子どもがそれぞれ手習塾中に席を巡回などしながら、子どもたちの文字の悪い部分を矯正したり、あるいは子ど もの手を取って一緒に運筆を指導したりすること

・ ある程度の時間をかけて手習い稽古をした時点で子どもたちに清書をうながしそれを提出させたり、提出させた 作品を点検・指導すること

・ 手習塾の光景

 机の並び方は、「コの字型」が多く、現在のように、教師と生徒が対面する形は少なかった。師匠が2人の子ども を叱っている様子が描かれているが、他の子どもはそれには無関心に自分の学習?に励んでいる。この時代の「個別 主義」的な学習行為をうかがわせる。

2) 学問塾(私塾)

・ 儒学の学習

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 多くの庶民は手習塾で「読み書きそろばん」の基本的な学習をすますと、家業を手伝ったり丁稚奉公に就いて、仕 事に必要な技能や知識を現場で習得していった(OJT=On the Job Training)。

 一方、武家の子弟は、「藩校」や「学問塾(私塾)」で学習していた。手習塾との違いは、それが「学問のための 学問」つまり「儒学」を教える場であった点である。

注:藩校が広く普及し始めるのは18世紀後半以降のことである。また、「武士は勉強するのが当たり前」という考 え方が武士たちの間に浸透するのは、ようやく19世紀に入ってからのことだった。それまでの強固な「身分制度」

が崩れだし、「能力主義」の考え方が少しずつ拡がってきた時代である。

・ 素読

 儒学の学習は、経書(儒学のテキスト)を「読む」ことから始まる。経書を声を出して正確に読み、ひたすら繰り 返すことで、そのテキストの全文を完全に暗唱してしまうのである。これを「素読」と呼んだ。

注:素読の段階では、テキストの意味はごく大まかにしか教えず、あくまで「暗唱」させることが重視された。

 ただし、ここでも教授法は「個別指導」であった。師匠がまずテキストの漢字一字一字を「字突き(字指し)棒」

という3,40センチの木製の棒で指し示しながら声を出して呼んでいく。それを子どもが鸚鵡返しに復唱する。これを

「付け読み」と言う。後は、師匠のリードなしに読めるまで何度も繰り返し音読する。これを「温習」と呼んだ。

注:生徒の人数が多い場合は、複数の教師が生徒の素読を指導した。これを「句読師」と呼び、教師のなかでも もっとも格下の身分である。成績の優秀な上級生が句読師を努めることもあった。

 生徒は出席順に「句読師」の前に進み出て、自分のテキストと進度に応じて素読の指導を受け、その後、別に控え ている上級の教師のもとで今教わった箇所を「復読」して、正確に暗唱できるかどうかの点検(試験)を受ける。合 格すれば下校できるが、不合格ならば再び句読師の下に戻され、指導を受ける。合格するまでそれが繰り返されるわ けである。

 ここでも手習塾と動揺、短時間の個別指導と、その間の比較的長時間の自習活動が基本であった。

 7,8歳で始められる経書の素読は、早ければ10歳くらい、遅くても13,4歳くらいまでに終えられるのが普通で あった。この時点で漢籍を読みこなす力は十分ついており、以後は師から直接の指導を受けないで、自力で自由に読 み進んでいく段階となる。ただし、それもやはり大きな声を出して読む「音読」によってなされる読書である。これ を一般に「自読」と称し、不明な箇所は質問を交えつつ読み進め、時に教師による点検を受けることが多かった。

注:江戸時代で読書といえば「音読」することであった。現在の意味での読書、つまり「黙読」は「じっと書を看 る」という意味で「看書」と呼ばれた。これは自在に「自読」できるようになってから以後の段階で、できるだけ 多くの書を読む方法と考えられた。

・ 講義

 素読を終えた次の課程は「講義」である。ただし、これは現在でいう「レクチャー」と同義ではない。学生(学習 者)がテキストの意味内容を学習することである(それまでは、あまり深く意味を考えずに暗唱してきた)。

 講義には、学生一人一人に対して、経書テキストに即して一字一句の意味を教えていく「講授」と、師匠が注釈書 に基づきながら学生たちの前でテキストを解釈してみせる「講釈」に分かれていた。

注:ただし、講釈は講師の個人的な意見を開陳する場ではない。教師個人の独創的な意見よりも、「正しい」テキ ストの解釈が求められた。

 一斉教授の形をとる「講釈」は、一般にある特定の決まった日に、通常もっとも序列の高い教師によってなされ た。その意味で、教授の権威を示すための「パフォーマンス」としての性格が強かった。

・ 会業

 会業とは、学生が集まって集団で行う学習形態のこと。数人から10人くらいのほぼ同程度の学力の者がグループで 行う共同学習を指す。「講授」を終えた段階の学生が取り組む学習である。

 会業とは輪番で当番を決め、順番にテキストを読み進め、それについて共同で質疑応答をする、現在の「ゼミナー ル」のようなものである。進行役は「会頭」と呼ばれ、学力の高い上級生や教師が勤めた。質疑応答や議論が紛糾し た時などに正しい判断を示し、さらに学習者の成績の判定も行った。

 会業に際しては、一人一人がテキストの「読み」や「解釈」をめぐって十分な下調べが必要であった。こうして朋 友との切磋琢磨を経て、儒学者として本格的な力をつけてゆくことになる。

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b. 明治の教育改革

1) 土着的な学習から近代的な「教育」へ

 このように江戸時代には、庶民階層も武家階層も、それぞれの身分に適合的な学習をしていた。事実、江戸時代の識 字率は、同時代の他のどの地域よりも高かったと推測する研究もある。

 しかし、江戸幕府が崩壊し明治時代に入ると、政府は早急に人々の生活をそれまでの「土着的な(vernacular)」もの から、「近代」に相応しい生活に転換しなければならなかった。そうした「文化変容」を促すための重要な装置として

「教育」や「学校」が重視されることとなった。

2) 近代日本の学級

 わが国において、近代的な学校教育制度が確立したのは、1872(明治5)年の「学事奨励に関する被仰出書(おおせ いだされしょ)」、いわゆる「学制発布」である。当初の学級では「等級制」が採用された。子どもの学習進度によっ て半年ごとに進級させるもので、いわゆる「飛び級」や「臨時進級」もある能力主義的な仕組みであった。

 「等級制」が今日のような「学級制」にかわったのは、1891(明治24)年の文部省令「学級編成等に関する規則の 事」である。しかし、当時の小学校への就学率は約50%にとどまっており、しかも、1学級70年を基準としていたた め、実際には複式学級の形態が多かった。今日のように、学年制による学級編成(1学級を同年齢の児童生徒で構成す る)へと移行したのは、1900(明治33)年の「小学校令」以降のことである。

 この頃、小学校の就学率はようやく80%を超え、制度としての学校教育は安定的に動き始めるとともに、また、大量 の子ども達を抱え込むこととなった。ここに至って、ひとりの教師が、年齢を同じくする数十人の児童生徒を、ひとつ の教室で指導するという、今日の私たちにも馴染み深い「学級」が成立したのである。

3) 「一斉授業形式」の採用と普及

 学級は、限られた期間に一定量の知識・技能を、大量の児童生徒に効率よく伝達することを目的として、人為的に作 られた「装置」である。この目的にかなう教授法として採用されたのが「一斉授業(一斉指導)形式」であった。

 日本に一斉授業の様式を導入したのはアメリカ人教師のスコット(M.Scott)である。彼は1871(明治4)年に来日し、

大学南校・東京英語学校などの教師を務めた後、1872年から2年間、東京師範学校(教員養成のための学校)の教師と して活躍した。当時の師範学校では、小学校の教科を教材にして小学教則・授業法を教授し、さらに小学教則や教科書 の作成を行っていた。 その教授法の概要を記録した初代師範学校長・諸葛信澄(もろくずのぶすみ)の著書『小学教 師必携』(1873)によると、スコットはペスタロッチ主義(開発教授)の教授法を、「事物の提示」と「問答法」によっ ておこなっていたことが分かる。

 その内容は、極めて具体的な手順にまで及んでいた。たとえば、「教師は始業の5分前に廊下まで出向き生徒の来る のを待つ」「1,2,3の号令で本を出させる。生徒は号令を聞くと両手を机の上に置き、1で机のふたを開き、2で 本を出し、3で閉じさせる」等々である(別紙資料を参照)。スコットは師範学校での授業を通して、このような教師 の行動様式・授業展開の方法・授業中に望ましい児童生徒の態度・教科書や掛け図・板書や石盤の使い方などの教具の 使用法に至るまで、一斉授業の展開を支える方法を伝えた。

  こう し た 一 斉 授 業 の 様 式 は 、 1 8 8 9 ( 明 治 2 2 ) 年 に 東 京 帝 国 大 学 に 招 聘 さ れ た ド イ ツ 人 教 師 ハ ウ ス ク ネ ヒ ト (E.Hausknecht)によって、さらに定型化されることになる。これを支えたのは、彼が紹介したヘルバルト派の教授理論 であった。

 今日、私たちが慣れ親しんでいる学習指導案の「導入・展開・まとめ」という形式の原型は、ヘルバルトの高弟、チ ラー(T.Ziller)が考案した「5段階教授法(予備・提示・比較・概括・応用)」にあるといってよいだろう。明治20年 代にハウスクネヒトが導入したこの教授理論は、伝達と記憶を中心とする授業の様式と技術の定型化をうながし、当時 の日本の教育界に深く浸透することになった。

 すなわち、1時間の授業を組み上げ、その内容を分かりやすく教える「手続き」として、あらゆる授業はこの5段階を 踏まえねばならず、すべての教材研究や教材解釈をこの形式に当てはめねばならないと、多くの教師たちは考えていた のである。その結果、当時の教育界には「五段五段で汗水流し今日もおなかがヘルバルト」という川柳まで生まれたほ どであったという。

2. 学級の隠れたカリキュラム a. 「隠れたカリキュラム」とは?

 学校には、教えられるべき教育内容の体系、いわゆる「カリキュラム」というものがある。幼稚園・小学校・中学校・

高等学校の場合、文科省が定める学習指導要領に従って、カリキュラムが編成されている。公的に定められたカリキュラ ムの下に、子ども達は知識や技術を学び、理解力や思考力・社会的な価値観を身につけていく。

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 しかし、学校には公的なカリキュラム以外に、ある種の「隠れたカリキュラム(hidden curriculum)」が存在する。

「隠れたカリキュラム」とは、学校生活を支えているものの中で見えてはいるが気付かれない、暗黙の事柄やルールのこ とである。例えば、学校の建物や校庭、教室の空間配置のような物理的環境や、クラスの人数、教師や生徒の服装や外 見、授業や仲間内でのルールなどは、学校生活に馴染んでいく過程で次第に当たり前になっていく。それらは、学校らし さや学校生活を構成する基本的な要素であるが、ごく当然の環境として自明化されているため、ふだんはなかなか気付か れることがない。

  「 隠 れ た カ リ キ ュラ ム 」 に つ い て 最 初 に 言 及 し た 教 育 学 者 の ジ ャ ク ソ ン ( P . W . J a c k s o n ) は 、 教 科 内 容 の 3 R's(Reading,wRiting,aRithmetic)に対して、学校に適応していくための「隠れたカリキュラム」として、規制 (regulations)、規則(rules)、慣例(routines)の三つを挙げている。さらにより具体的な場面の分析から、この3R'sを 柱として学校生活を特徴付けている三つの要素、すなわち、集団(crowds)、賞賛(praise)、権力(power)を取り出してい る。

 まず、教室とは、数十人の子どもたちが「群れ(crowds)」として生活している場所である。そのなかで子ども達は、他 の子どもとの関わりの中で、自分勝手な振る舞いをしないことや、与えられた課題に専念すること、時間をきちんと守る ことなどの「忍耐」や「辛抱」「あきらめ」を学ばねばならない。

 また、教師は授業の場面に限らず、たえず子ども達を「評価」にさらす場でもある(注)。評価する主体はなにも教師 に限らない。子ども達が互いに親しい仲間を作っているその背後には、常にお互いの行動や態度に対する評価が隠れてい るし、なによりも「そのように他者から見られているかもしれない自分」を自分自身で評価することが、一人ひとりの子 どもの中で繰り返されている。

注:ジャクソンは「賞賛(praise)」という言葉を使っている。

 そして教室は、教師という「大人」の権力(power)が統制する場所である。親の権力が子どもにとって無条件の承認に 基づく人格的なものであるのに対して、教師の権力は、子ども達自身、なんら承認した覚えのないところで、社会的な役 割関係のなかに現れる非人格的なものである。生徒が教室でうまくやっていくためには、こうした教師の非人格的な権威 に従う必要があるのだ。

b. 授業のIRE(隠れたカリキュラムその1)

 イギリスの教育学者メーハン(H.Mehan)は、その著書『授業を学ぶ』(Lerning Lesson,1979)のなかで、会話分析の手法 を用い、授業のコミュニケーションの構造やその秩序がつくられる様態を分析した。

 メーハンによると、教室における授業のコミュニケーションは、私たちが日常的に行っている会話とは著しく異なる構 造を持っている。それは、「教師の主導(Initiative)」で始まり、「子どもたちの応答(Response)」を受けて、さらに

「教師がその応答を評価(Evaluation)する」という「IRE」の構造を為している。例えば、「そうですね、よくわかりま したね」とか「そうかな?もう少し考えてみようね」といった教師の言葉は、それ自体、子どもにとって「評価」の意味 合いを持つ言葉である。しかも多くの場合、教師は自ら発する問いの答えを知ったうえで、それを知らない子どもたちに 発問するのである。

 また、会話の主導権を終始一貫して教師が握っていることからも明らかなように、授業のコミュニケーションは、教師 が子どもたちを統制する「権力関係」を内包している。子どもたちが教室での学習に向き合い、意欲的に参加するために は、まずこのような授業の「文法」に適応することが必要なのである。

c. 教室の空間配置(隠れたカリキュラムその2)

 教室の空間配置のあり方は、教師-生徒関係やそこでの学習のパターンを規定し、枠づけるものである。教室の前にあ る教卓に、黒板を背にして教師が立ち、生徒がそれに向き合う形で机が配置された一斉授業の空間配置と教授・学習スタ イルは、教師が生徒を管理・評価する権威者であり生徒はその受容者であるという関係や、教師が教室で伝達する知識が

「「正統な知識」であることを暗黙のうちに学習させる。

注:教壇が一段高くなっているのも、もちろん生徒側から見えやすいようにという面もあるだろうが、それ以上に教師 が生徒を監視しやすいこと、そして、教師と生徒の上下関係が象徴されていると考えることができるだろう。また、黒 板が教室に2箇所設置されている場合もしばしばあるが、その場合、前面の黒板には授業のような公的な知識に関する 記載がなされるのに対して、それ以外の黒板には私的な記載(連絡事項とか落書きとか)が為されることが多い。こう した黒板の配置とその利用法にも、「正統な知識・情報」をめぐる力関係が作動していると見なすことができるかもし れない。

 このような学校生活や授業を構成する様々なルールや規範を習得し学校に適応していくことは、まずそうした教師-生 徒関係や前提を受容することであり、学校で成功するためには、教師の意図や期待を理解し、それに応えることが重要で ある。このような教師-生徒関係や学校の権威や規律の学習は、カリキュラムのなかに明示されているわけではなく、教

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室の空間配置やそこでの具体的な相互行為のなかで暗黙のうちに学習されていくのである。

d. 近代社会に適合的な心性や身体

 生徒達は隠れたカリキュラムを習得することで学校に適応することだけを学んでいるのではない。近代社会で生活して いくためのルールも同時に学んでいるのである。サラリーマンや工場労働者としてやっていくためには、勤勉であること や時間などの規則を遵守すること、上司に対して従順であることなどが求められる。こうしたルールはまさに生徒達が学 校で学ぶ「隠れたカリキュラム」と適合的だ。まさに「学校は社会の縮図」というわけである

 こうした面から考えると、なぜ明治政府があれほど「(西欧的な)教育」を普及させることに躍起になっていたのか、

その理由も見えてくる。(手習い塾で行われていたような)従来の「土着的な学習」では、近代社会に適合的な心身を形 成することは難しい。自分の来たい時に来て、帰りたいときに帰るような(寺子屋的な)身体では、会社員や工場労働者 としてはやっていけないだろうし、雇う側も困る。西欧諸国に比べて遅れていた近代化(産業化)を推し進めるために は、そうした社会にふさわしい人材を早急に育成する必要があった。そして、「学級」という空間配置や「一斉授業」と いう教育形態は、そうした人材を効率よく育成するために相応しい装置だったと考えられるわけである。

 そして、社会が産業社会からポスト産業社会と呼ばれる新たな段階に入っている現在、要請される人間のモデルも変 わってきている。ポスト産業社会では、高度な知識や情報を扱う知識労働や対人サービスを行う専門職の仕事が労働市場 で大きなシェアを占めるようになる。しかも、それらの労働に必要な知識や技術は流動化し変化し続ける定めにある。

人々は、学校で学び続けるだけでなく、生涯に渡って学び続けることを余儀なくされるのである。

 このような社会に適応的な人材は、従来のように単に従順で勤勉なだけでは不十分である。自ら進んで課題を発見し、

それを解決したり、人々と協力しながら問題を解決するような新たな能力が要求されることになる。そして、こうした人 材を育成する場としての学校のあり方も、当然のことながら変容を余儀なくされることになるだろう。

C. 参考文献

1) 稲垣恭子 2007「教師・生徒・カリキュラム」岩永雅也・稲垣恭子編『新版 教育社会学』放送大学教育振興会、第6 章

2) 佐藤学 2004『改訂版 教育の方法』放送大学教育振興会

3) 高旗浩志 2007「学習指導の社会学」加野芳正・藤村正司・浦田広朗編著『新説 教育社会学』玉川大学出版部、第3 章

4) 辻本雅史 1999『「学び」の復権』角川書店

5) 森重雄 1993『モダンのアンスタンス』ハーベスト社 D. 「教育社会学」ホームページ

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Takeshi.Usuba/

Referensi

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