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書 館 化学 生物

496 化学と生物 Vol. 51, No. 7, 2013

  応用微生物研究所設立当時

応用微生物研究所が日本学術会議の勧告により東京大学に 設置されたのは,戦後の余韻もまだ残る1953(昭和28)年7 月28日のことである.この際の目的は,「わが国の生産工業 の一大部門である微生物利用工業の推進を図る」ことであ り,「応用微生物の研究を行うとともに広く有用菌株の蒐集 保存および配布を図る」ことであった.設立にあたっての紆 余曲折を今は知る由もないが,小石川の東大植物園内に設置 する案もあったようである.また,各省庁に所属する多くの 関連研究所との密接な連携のうえに設立された経緯について は,初代所長となられた坂口謹一郎先生の遺された文献がい くつかあるのでそちらを参照されたい.応用微生物研究所の 設立直後(8月1日)に設置された研究部門は,分離分類

(第1研究部),遺伝・育種(第2研究部),生理(第4研究 部),酵素(第5研究部)の4研究室.当初は農学部2, 3号館 の地下などに間借りした状態であったが,新研究棟は1955 年度に第一期が完成,順次そちらに引っ越しながら現在の分 子細胞生物学研究所の本館の姿になっていった.また,研究 部門も1958年度までに第11研究部まで増設されている.本 稿はそのなかで主に遺伝・育種部門(第2研究部:2研)に ついて,当時の記録を交えて歴史をたどってみることにす る.

2研の創立スタッフとなったのは主任助教授・池田庸之助 先生(写真1,助手・齋藤日向先生(写真2)の2名の先生 であるが,発令は池田先生が1953年10月であるのに対し,

なぜか齋藤先生のほうが1953年8月と2カ月早かった.同年 9月には,武市(石谷)千代子氏,翌年1954年1月には大久保 節子氏を職員に,そして同年10月には大阪大学の吉川秀夫 教授の研究室から桐谷和文氏を助手に加え,2研のスタッフ 陣が完成した.微生物の遺伝を名称にした研究部門はこれが わが国では最初のものであった(1, 2).当時大阪大学では,吉 川教授の下で若手研究者が微生物遺伝学の研究に着手し始め たところであり,京大の木原門下の小関治男博士,由良隆博 士らは渡米して微生物遺伝の研究を始めつつあった.また,

東京の旧国立予防衛生研究所では水野伝一研究室の富沢純一 博士がファージの研究を始めようとしていたころで,日本に

は微生物遺伝学者と言える人材は皆無に近い状況であっ

(1, 2).1955年の新棟完成とともに2研は3階に研究室を構

えることとなった.応微研の設立委員長でもあった坂口先生 がこのような状況を鑑み,池田先生と相談されてアメリカか ら微生物遺伝学者を招聘することを決断された.そしてDe- merec博士はじめ二,三の研究者に紹介を依頼したところ,

Columbia大 学 動 物 学 科 のFrancis Ryan教 授 が 推 薦 さ れ,

1955年10月から1956年9月までの1年間,フルブライト交 換教授として2研に滞在されることとなった(1, 2)

応用微生物研究所と微生物遺伝学の誕生秘話

田中 寛 *

1

,吉川博文 *

2

,河村富士夫 *

3

*1東京工業大学資源化学研究所,*2東京農業大学応用生物科学部,*3立教大学理学部

写真1池田庸之助先生

写真2齋藤日向先生

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化学と生物 Vol. 51, No. 7, 2013

このRyan先生の招聘については,その後の国内における 微生物遺伝学,応用微生物学に大きな影響を与えた出来事で あるので少し詳しく述べる.Ryan先生はその生涯のほとん どをColumbia大学で過ごされているが,1年間をポスドク としてStanford大学で過ごした際にBeadle博士,Tatum博 士と出会い, を材料とした微生物遺伝学に傾倒 されていったようである.Columbia大学に帰られた頃のポ スドクにはJoshua Lederberg博士がおり,Lederberg博士 は後の1958年にBeadle & Tatumとともにノーベル賞を受 賞することになる.また来日された前後には

の遺伝学で有名なRuth Sager博士に研究室を提供し,後 に名高い細胞遺伝学の教科書 (Cell Heredity (1961) Sager 

& Ryan) を共同執筆しておられる.Ryan先生が来日された 経緯には,先生が大の日本贔屓であったことが大きな要因で あったとさまざまな文献にあり,夫人を伴って来日された当 時の様子が何枚かの写真に残されている(写真3:Ryan先 生とRyan夫人.本郷近くの滞在された住居かと思われる). 来日中のRyan先生の活動について,特に多くの日本人の印 象に残ったのは農学部1号館階段教室における週一回の講義 であったようだ(写真4:階段教室におけるRyan先生の講 義風景.黒板にBeadle & TatumのOne-to-one theoryの解

説が見える).この講義は東京大学の講義のため,本来は学 外には非公開のものである.しかし,講義の重要性を鑑みて 特に大学本部と交渉し,公開講座としたことを,後に池田庸 之助先生が懐古されている(2, 3).特に,アミノ酸発酵を専門 とする企業研究者には大きな刺激を与えていたことが,これ も木下祝郎先生の書かれた文章に見え,当時のインパクトの 大きさがうかがわれる.この講義に用いられたテキストは Ryan夫人がタイプ打ちされたものであり,そのコピーが2 研の戸棚に保存されていたので,ここにもそのページを載せ ておくことにしよう(図1.講義風景の写真で一番前列に 座られているのがRyan夫人であるが,これには面白いエピ ソードが後にRyan夫人本人により述懐されている.講義 中,Ryan先生は気づかないうちに英語が早口になってしま うので,夫人を白い札をもって一番前に座らせ,早口になる と札を挙げて先生に知らせるように頼んでいたとのことであ る.当時の情景が目に浮かぶように思われる.前述の教科書 

(Cell Heredity) はRyan教授が1959年に再度来日されたと き,伊豆の韮山に数カ月滞在され,この講義資料をもとに執 筆されたものとのことである(1)

Ryan先生は研究室でも,ガラスピペットの滅菌や使い方 から始めて,微生物遺伝学の基本的な技術の教育に務め,そ の教えは広く国内に広められていった.1956年9月に帰国さ れた後も,Columbia大学に多くの日本人研究者を迎えて研 究・教育に携わられていたが,誠に惜しまれることに1963 年7月,心臓発作で急死されてしまった.47歳の若さであっ た.最後に博士号を与えられたのが日本からの留学生である 柳澤桂子氏であったことなど,その間の様子は柳澤氏の著書 に詳しいので参照されたい(4)

Ryan先生の意見を聞きに多くの研究者が2研を訪れ,白 熱した議論が交わされたこともあったという.なかでも,細 菌の薬剤耐性菌の出現機構を巡って,東大細菌学教室の横田 健博士が適応説,一方,慶応大細菌学の渡辺力博士が突然変 異説を主張して白熱した議論を交わしたことが,齋藤先生の 写真4階段教室におけるRyan先生の講義風景

写真3Ryan先生とRyan夫人 図1東大で用いられたRyan先生の講義テキスト(表紙と目

次)

左下はSager博士と共著の教科書表紙,および2研教授室に掲げ られていたRyan先生肖像.

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498 化学と生物 Vol. 51, No. 7, 2013 記憶に鮮明に残っていると書かれている(1, 2)

  1958年前後

齋藤先生がYale大学のD. M. Bonner教授の研究室に留学 することになったのもRyan教授のおかげである.Ryan教 授とCal. Tech.での微生物遺伝学研究時代からの親友である Bonner教授が,Ryan教授のアメリカ帰国直前の1957年夏 に応微研に立ち寄られ,齋藤先生に留学を勧めて決意させた のである.Bonner研に留学していた1958年は微生物遺伝学 の完成期であり,前述の2件のノーベル賞のみならず,Ja- cob & Monodの「オペロン説」,F因子や λ  ファージなど,

細胞質因子状態と染色体組み込み状態の両状態をとれる「エ ピゾーム」(DNA因子)概念の提唱,「環状染色体」の発見,

Sinsheimerに よ る「一 本 鎖DNAを 遺 伝 物 質 と し て も つ ファージ ϕX174」の発見,Stahlの「DNAの半保存的複製 モデル」,Kornbergによる「DNAポリメラーゼの発見」な ど多くの画期的な報告・発見がなされた年である.帰国した 齋藤先生はほかの留学生より早く帰国したため,海外での微 生物学の目覚ましい進展に関するインタビューや執筆依頼に 応じることとなり,目立った存在になったと述懐されてい た.上智大学名誉教授の廣川秀夫博士は,帰国直後に開催さ れた「東京微生物遺伝学研究会」で「枯草菌 (

) の形質転換について」話をされた齋藤先生に,ものす ごくスマートで鮮烈な印象を受けたそうである.講演の前に 茶色の鞄を机の上に置き,その上にソフト帽を置くその立ち 居振る舞いは,まるで映画スターのようだったとのことであ る(写真2を見れば納得がいく).齋藤先生がBonner研で放 線菌や酵母での形質転換を試みるも失敗に終わっていたと き,Western Reserve  大学のJ. Spizizenが枯草菌で形質転 換に成功した.Bonner教授の勧めで枯草菌の形質転換実験 を始めたことがきっかけで,枯草菌の研究を終生行うことと なる(5).しかし,追試実験を行うもすべて失敗に終わり,

Bonner 教授に相談すると,すぐにSpizizenに電話し,直接 形質転換実験の発見者からノウハウを聞くことができたのは 幸運であった.枯草菌の形質転換実験には難しいところがあ り,時には細胞が溶菌したりして頻度が大きく振れるため,

円滑に実験を遂行するためには実験者の経験に負うところが 大であった.このようなこともあり,日本に帰国したときの 齋藤先生は「枯草菌形質転換の神様」と呼ばれるほど枯草菌 について熟知されていた(6)

  応微研の黄金時代

齋藤先生がアメリカから帰国された翌年の1960年から 1970年まで「応用微生物研究所シンポジウム」が開催され,

第1集から第11集が東京大学出版会から出版されている.2 研が関係したシンポジウムは第4集の「微生物の遺伝」と第

9集の「ウイルスとその宿主」である.第4集は1962年12月 12 〜13日に東京都神田駿河台の日仏会館で開催された.池 田庸之助先生は序で「微生物遺伝学は生物化学,生物物理学 と共同して,いまや分子生物学という新しい領域を生みだし つつあるが,また一方,微生物の遺伝学的研究から新しい応 用面の開拓,たとえば突然変異株を利用したアミノ酸発酵,

イノシン酸発酵という工業が生まれようとしている.本シン ポジウムは,このような状況を背景として企画されたもので ある」と述べられている(7).さらに第9集の序では,植村定 治郎先生が「シンポジウムは,昭和42年12月6 〜7日の間,

東京都神田駿河台の日仏会館で開かれたが,参加者は連日 300人を超え非常な盛会であった」と記している(8).参加者 の顔ぶれを見ても,その分野の日本を代表する研究者がほぼ すべて出席されていることから,当時の日本をリードする一 大シンポジウムであったことがうかがえる.このシンポジウ ムの後半の時代には,すでに大学紛争の影響が応微研にも及 んでいた.

  遺伝子工学の幕開けと発展期

Stanford大学のBerg教授らが,1972年,SV40DNAに大 腸菌の λdvgal DNAを人工的に結合して,異種生物の遺伝 子の増幅(クローニング)に成功した.翌年,Stanford大の Cohen 教授とUCSFのBoyer教授が,制限酵素による切断,

リガーゼによる再結合の方法を用いて,プラスミドベクター によるクローン化法が開発された.また,λファージを用い たクローン化法も1974年に報告され,どんな生物の遺伝子 

(DNA) も純化できる「組換えDNA技術」が開発された.

枯草菌でも遺伝子のクローン化ができるベクターの探索や,

クローン化法が開発された.「プロファージ形質転換 (pro- phage transformation) 法」は2研発の独自のクローン化法 として,日本国内ばかりでなく海外でも枯草菌の遺伝子の,

とりわけ胞子形成遺伝子のクローニングの際に利用された.

「プロファージ形質転換法」と命名したのは齋藤先生であっ

(6, 9).この時代は「遺伝子操作技術」を学ぶため,多くの

企業から研究生が2研にも派遣され,非常に活気があり楽し い時代でもあった.このような状況下で,理化学研究所の安 藤忠彦先生が委員長となり,筑波に「ライフサイエンスつく ば研究センター推進部」が1974年に設置された.齋藤先生 は安藤先生を献身的に援助し,長い時間をかけて周りの住民 への粘り強い説明を経て,10年後の1984年,日本で唯一,

組換えDNA実験のP4施設をもつ「ライフサイエンスつくば 研究センター」が開設された.このような「遺伝子工学」の 幕開けとともに1978年3月,池田先生が定年退官され,12 月に齋藤先生が2研の主任教授になられた.

齋藤先生は教授在任8年3カ月のうち2期半の5年間所長を 務め,この間に長く続いた応微研の紛争に終止符を打たれ た.1982年に池田先生が会長として開催された「第4回応用 微生物遺伝国際シンポジウム」でも協力され,「この分野に

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おける日本の研究水準の高いことを外国の研究者に印象づけ る」ことに成功した(10).また,日本の枯草菌研究の骨格と なった「枯草菌研究会(枯草菌シンポジウム)」をリーダー として長年牽引してこられた実績や世界のバチルス (

) 研究分野への貢献が認められ,第10回国際胞子会議で表 彰された.この会議は1988年3月に米国マサチューセッツ州 のウッヅホール海洋研究所で開かれ,バチルス属のほかに放 線菌,酵母などの研究を含め,世界から225名が参加し た(11).表彰された研究者は,齋藤先生以外に Joel Mandels- tam(イ ギ リ ス),Pierre Schaeffer(フ ラ ン ス),Jekezial  Szulmajster(フ ラ ン ス),Phillip Fitz-James(カ ナ ダ) で あった.当時のウッヅホール海洋研究所の所長はHarlyn O. 

Halversonで,パスツール研究所はRaymond Dedonderが所 長を,またFrank E. Youngは米国FDAの長官を務めてい た.齋藤先生は,冗談でよく「同じ枯草菌の研究者で世界を 代表する地位にいる彼らに比べると俺はしがない応微研の所 長だものな……」と少しの皮肉を込めて笑いながら言うと同 時に,そのように応微研を高めたいという強い意志が伝わっ てきた.その後,国立大学の附置研究所の整理が始まり,応 微研の改組についてずいぶんと悩まれていた.応微研の生み の親である坂口謹一郎先生に打診をし,ある夏の日1枚のは がきを見せ,「坂口先生から(応微研の名称が消えることを)

承諾していただいた」と時代の流れに感慨深そうにされてい た先生の姿が目に浮かぶ.

齋藤先生の50代を同じ研究室でともにした者にとって,

退官までの10年は怒濤のように階段を駆け上った時期で あった.企業の研究者を率いて欧米の先進的研究室を訪ねる ツアーを先導したことが,その後の先生の人生にとって多く の企業人との縁になったことは間違いない.また同時に通産 省(当時)や農水省の重要な仕事を担当し始め,文部省だけ でなく,わが国の重要な科学政策の推進役となっていったの である.超多忙の先生が,時折,夜の8時頃に研究室に戻っ てこられ,「おい一杯飲もう!」と付き合わされたことはしば しばであった.昼間の苦労を,気心の知れた仲間と飲んで癒 したい気分であったことは容易に想像でき,さっさと仕事を 止めてスケールの大きな先生の話を楽しんだものである.

応微研の誕生から終焉の決定まで2研のスタッフとして多 くの院生を指導され,応微研の発展のために寄与された,ま さに応微研の生き字引ともいうべき齋藤先生が2012年4月 15日に85歳で他界されました.謹んでご冥福をお祈り申し 上げます.

文献

  1)  齋藤日向:学内公報 No. 600, 東京大学広報委員会,1983.

  2)  齋藤日向:化学と生物,22, 560 (1984).

  3)  池田庸之助:私信(東大,理研の思い出).

  4)  柳澤桂子: 二重らせんの私 生命科学者の生まれるま で ,早川書房,1998.

  5)  齋藤日向:蛋白質 核酸 酵素,38, 2115 (1993).

  6)  河村富士夫:生物工学会誌,90, 499 (2012).

  7)  応用微生物研究所シンポジウム第4集:微生物の遺伝,

東京大学出版会,1963.

  8)  応用微生物研究所シンポジウム第9集:ウイルスとその 宿主,東京大学出版会,1968.

  9)  齋藤日向: , 58, 281 (1984).

  10)  池田庸之助: 農芸化学の100年 ,1987, pp. 143‒146.

  11)  千葉桜拓,河村富士夫:化学と生物,26, 829 (1988).

プロフィル

田 中  寛(Kan TANAKA)    

<略歴>1985年東京大学農学部農芸化学 科卒業/1990年同大学大学院農学系研究 科博士課程修了(農学博士)/同年日本 学術振興会特別研究員(応用微生物研究 所)/1991年東京大学助手(応用微生物研 究所)/1997年同大学助教授(分子細胞 生物学研究所)/2007年千葉大学教授(大 学院園芸学研究科)/2011年東京工業大学 教授(資源化学研究所),現在に至る<研 究テーマと抱負>細胞の増殖・代謝・環 境応答の統合プロセスについて,進化の 視点から理解すること.原核細胞と真核 細胞の研究を同じ土俵に乗せること<趣 味>軽登山,ジョギング,雑多な生物の 観察(元・虫屋),写真,ビール

吉川 博文(Hirofumi YOSHIKAWA)  

<略歴>1975年東京大学農学部農芸化学 科卒業/1983年同大学大学院農学系研究 科博士課程修了(農学博士)/1984年同大 学助手(応用微生物研究所)/1987 〜1989 年カリフォルニア大学デービス校 博士 研究員/1995年東京大学助教授(分子細 胞生物学研究所)/1997年東京農業大学教 授(農学部)/1998年同大学教授(応用生 物科学部),現在に至る<研究テーマと抱 負>細胞分裂と分化の制御,一塩基配列 の意味の探索,試験管内進化実験,合成 生物学手法による微生物育種,バクテリ アの種とは何か考えること<趣味>音楽 鑑賞(クラシックからメロスピまで),写 真,ドライブ,ゴルフ,美味しい地酒を 探すこと

河村富士夫(Fujio KAWAMURA)   

<略歴>1970年京都大学農学部農林生物 学科卒業/1978年東京大学大学院理学系 生物化学専攻博士課程修了(理学博士)/

1979年同大学助手(応用微生物研究所)/

1983 〜 1985年カリフォルニア大学デー ビス校博士研究員/1990年東京大学助教 授(分子細胞生物学研究所)/1995年立教 大学理学部教授/2013年東京農業大学客 員教授(立教大学名誉教授),現在に至る

<研究テーマと抱負>枯草菌の形質転換 技術の応用,リボソームと細胞分裂と細 胞分化<趣味>旅,美味しい酒をのむこ と

Referensi

Dokumen terkait

検査培地の開発 食品の微生物検査は,品質上問題となる微生物を検体から漏 れなく検出し,製品に対する危害度を正確に判定するのが基本 である.そのため,当該微生物を検査培地で確実に検出するこ とが微生物検査の要である.ところが,ビール品質事故の大半 を引き起こす乳酸菌は非常に検出が難しい.これは,従来型の 検査培地に生育しないビール混濁性乳酸菌が多いためである.