はじめに
これまで4回の連載を通じて,生物多様性条約(CBD: The Convention on Biological Diversity)と科学のかかわりを,
CBDでの合成生物学の議論を中心に説明してきた.日頃こ のような世界に接しない研究者には,実験室の外で行われて いるこのような国際会議での議論は当事者不在の寝耳に水の 話に聞こえるであろう.
最終回では,2014年10月に韓国で開催されたCOP12終了 後から2015年9月にCBDの事務局があるカナダのモントリ オールで開催された専門家会議(AHTEG: Techni- cal Expert Group)までの約1年間にわたって行われた本件 に係る国際間の議論の内容を中心に紹介したい.特に注目す べきは,本年9月に開催されたAHTEG会議にて,合成生物 学で利用されるすべてのデジタル電子情報が途上国の利益を 損ねているとして,その電子情報を名古屋議定書で定められ た遺伝資源と関連づけ,その情報の利用から生じた利益を途 上国へ公平かつ衡平に配分することを求めようとするケニア やフィリピン代表の提案に関しての議論である.今回は,そ れらの議論へ至った経緯を紹介し,本年12月5日よりメキシ コで開催が予定されているCBDの締約国会議であるCOP13 において,この「合成生物学」が今後どのような議論の方向 に進むのかについても考察したい.
CBDでの合成生物学の議論の推移
本稿の第1回(「化学と生物」2015年10月号「バイオサイ エンススコープ」の稿を参照)でも説明したように,CBD は1993年12月29日に発効した世界194の国および欧州委員 会(EU)とパレスチナが参加する国際条約であり,日本も 1993年5月に本条約を批准している.CBDの主目的は,生 物多様性の保全と生物多様性の構成成分の持続可能な利用で ある.さらにこの条約の第19条には,「バイオテクノロジー による利益の配分」が規定され,同条第3項にある「改変さ れた生物」の項により,2000年1月に遺伝子改変生物に関す る国際的な条約であるカルタヘナ議定書(CPB)が採択さ
れ,2003年に発効した.CPBは,遺伝子組換え技術により 改変された生物(living modified organism; LMO)の規制 と主に途上国でのリスク評価とリスク管理の確立を目指した 国際条約であるため,その効力は,LMOから生じる生産物 には及ばない.一方,2014年10月に発効した「名古屋議定 書」は,各国に存在する遺伝資源と伝統的知識の取り扱いに 関して,それら使用によって生じる利益の公平かつ衡平な配 分をルール化し,各国内でのモニタリング制度と罰則規定の 制定を促進させる目的で制定されたもので,CPBとはその 取り扱う対象が異なる(図1).
CPBでは,LMOがその提供国から利用国へ国境を越えて 移動した際に,利用国で生じる生物多様性(ヒトの健康を考 慮しつつ)への悪影響によって生じた損害と,利用国の地域 社会の社会経済学的な配慮を,LMOの提供国に求めること ができると規定されている.しかし実際は,植物を遺伝子改 変 し て 作 製 さ れ たGMO(genetically modified organism)
を除き,ほとんどのLMO(特に微生物)は,閉鎖系のタン クの中で培養されるのが一般的であるため,環境中に放出さ れることはまずありえない.主に国境を越えて取引されるの は,LMOによって製造された食品や医薬品,化学品などで あって,CPBにはそれらの生産物を規制する条文はない.
またCBDは,LMOの国境を越える移動に伴う損害発生の責 任と救済を規定した「名古屋̶クアランプール補足議定書」
を2010年に採択し,CPBで定められた提供国の義務の履行 を明確にしているが,2015年時点で加盟国はまだ32カ国と 欧州連合にとどまり,国際条約としては発効していない.そ してこの補足議定書制定の議論の過程で,責任と救済の範囲 をLMOに 限 ら ずLMOか ら 生 産 さ れ た 派 生 物(product thereof)まで広げるかどうかで,先進国と途上国の間で激 しいやり取りがあった.結論としては,最終の合意文書では 派生物(product thereof)という言葉は,その補足議定書 から削除された経緯がある.
一方,CBDの第15条「遺伝資源の取得の機会」ならびに 第19条第2項には,「締約国は,他の締約国(特に開発途上 国)が提供する遺伝資源を基礎とするバイオテクノロジーか ら生ずる成果および利益について,当該他の締約国が公正か つ衡平な条件で優先的に取得する機会を与えられることを促 進しおよび推進するため,あらゆる実行可能な措置をとる.」
生物多様性条約と科学のかかわり
(第5回)今後の生物多様性条約での合成生物学に対する規制のゆくへ
白江英之
一般財団法人バイオインダストリー協会
日本農芸化学会 ● 化学 と 生物
バイオサイエンススコープ
という記載があり,これらの条文が名古屋議定書の制定を促 し,途上国が先進国にその利益配分を求める根拠となってい る(1).
途上国としては,先進国が途上国に存在する遺伝資源の 情報を基に,モダンバイオテクノロジーを活用して,安価で 大量に農作物や加工品,バイオ関連医薬品などを生産し,利 益をあげていることを快く思っていない.何としても,その 利益の分配を求めたいと考えていた.その格好の材料として 合成生物学という,その科学領域が明確でなく,またあらゆ る分野にまたがる広い領域をカバーする学問分野に目をつけ たのであろう.
CBDで合成生物学の議論に至る経緯
第1回の本稿で示したように,2010年のJ Craig Venter研 究所による人工合成したゲノム遺伝子をマイコプラズマとい う微生物の中に組み入れ,新たな人工生物の創生に成功した という発表を機に,合成生物学もCPBで定めたLMOとは別 の新たな規制の対象にすべきという国際的な動きが生まれた.
そして2014年10月に開催されたCOP12(韓国)では,議題 24にいきなり「合成生物学」という議題が掲げられ,その議 論の冒頭から検討すべき構成要素として, 生物 , 成分 ,
生産物 という定義のない3つの要素がCBD事務局によっ て設定されていた.そして合成生物学に係るこれら3つの要 素に関し,新たな規制を制定して,各国,地域あるいは国際 的に規制していくべきという強い主張が,途上国や各国の非 政府団体(NGO)からCOP12の本会議上で執拗に繰り返さ れた.そのCOP12の結論は,以下のとおりである.
今後合成生物学の専門家,生態学者,社会経済学者,各 国の環境リスク管理者などを交えた専門家によるオンライン 会議を開催し,上記の3つの要素と合成生物学の議論を進め るために必要な操作的な定義(operational definition)につ いて議論を深める.そしてオンライン会議の議論をもとに,
さらにメンバーを絞り込んだ専門家会議(AHTEG)を2015
年9月にCBDの事務局があるモントリオールで開催し,合 成生物学や3要素の定義の設定とそれに基づく合成生物学の 技術範囲,そして合成生物学が生物多様性にどのような正お よび負の効果をもたらすのかについて議論することとなっ た.
合成生物学に関するオンライン会議
CBDのオンライン会議は,2015年4月27日から7月6日ま での間に断続的に3回開催された.主な議題は7つである.
第1回の会議(4月27日〜5月11日)では議題1〜3を,第2回
(5月25日〜6月8日) は 議 題4と5を,第3回(6月22日〜
7月6日)は議題6と7に関して,締約国,非締約国の代表と アカデミアや企業,科学団体,NGOの代表が参加して,活 発な意見交換が行われた(2, 3)(表1).
この会議の参加者の内訳は,40の締約国から68名が参加 し,計245の発言(日本からは6名,発言数32)を,非締約 国である米国からは2名参加し,計8の発言を,オブザー バーは49名参加し,計147の発言がなされた.この会議で提 言された意見は,それぞれの立場を踏まえたものであるた め,その内容や範囲,分野はさまざまであり,簡単にまとめ ることは困難だが,筆者もこの会議に参加し,各意見に接し て感じた会議の方向性は以下のように考える.
1. 合成生物学の定義
EUの3つの科学委員会が提供した操作的な定義の案(「化 学と生物」2015年10月号に掲載の第1回の記述を参照)を ベースに,さまざまな意見が出されたが,誰もが納得する統 一した定義の設定はできなかった.いずれの提案もこれまで の現代バイオテクノロジーの技術を包括的に含む定義であっ て,CPBとの二重規制の議論に発展する可能性がある.一 方,曖昧な定義を決めずとも,CPBでカバーされない範囲 を特定して,その技術領域のみを議論するのはどうかという 提案もあった.この場合,既存のCPBに含まれない技術と 図1■生物多様性条約およびそれから別れ た各議定書の一覧図
日本農芸化学会 ● 化学 と 生物 日本農芸化学会 ● 化学 と 生物
して,ゲノム編集やエピゲノムが挙げられた.
2. 生物 , 成分 , 生産物 という定義
合成生物学から生じる3要素のうち 生物 は,CPBの
“LMO” と同義であるという意見が大半を占めた.一方,
生産物 は低分子であるとの主張が多かった.一方で,ド イツの研究者からは,非天然核酸を含む新生物体や非生物で あるプロト細胞が合成生物学によって生じるまさに 生産 物 であって,これまでの遺伝子組換えの技術による生産物 は合成生物学から生じる 生産物 には含まれないという意 見も出された. 成分 については,そのコンセプトが不明 で,会議参加者から特に意見はでてこなかった.
3. 合成生物学および3つの構成要素が与える生物多様
性への具体的な例
この議論が,議題1として最初に掲げられ,合成生物学の 定義も 生物 , 成分 , 生産物 の議論もないまま,オン ライン会議の運営上わずか1週間という短時間で意見提出が 求められたため,参加者はたいへん混乱した.特にNGO中 心に,代謝工学手法で製造されたバニリンなどの生産物が,
地域住民の生活を脅かしているので,社会経済学的な措置を 求める意見が繰り返し提出され,本来の議論の目的から大き く議論の方向が逸れていった.
4. リスク評価とリスク管理
欧州のリスク評価の審査官から,合成生物学の操作的な 定義がなくても,その元となる生物種(宿主)があれば,こ れまでどおりのCPB下での個別対応でリスク評価の実施は 可能であり,新しい規制法も新評価法も必要ないという発言 があり,先進国を中心に同調者が多かった.また 生産物 も低分子である限り,既存の各国の薬事法(薬)や化学物質
(欧州のREACH),CODEX Alimentarius(食品)などで適 応可能という意見も出された.一方,途上国やNGOからの 意見は,社会経済学的措置を求めることに終始したため,一
部の参加者から,合成生物学のリスク評価と利益配分の議論 はグループを分けて実施すべきであるという意見も出された.
5. 社会経済学的措置
あまりに執拗に途上国やNGOが社会経済学的措置を求め る提案を繰り返したので,非締約国である米国から,CPB で定められた第26.1条にある「社会経済上の範囲」の規定を 逸脱しているのではないかと,途上国やNGOを牽制する意 見が出された.本来なら,“LMO” が国境を越えた場合の生 物多様性に与える損害に対する補償であるべきはずであり,
またもし 生産物 が低分子の場合は,たとえばCBDで議 論となったバニリンなどは,世界流通の99%が化学合成由 来の 生産物 である例も存在している.
一方,フィリピン代表からは,GMコーンを栽培するよう になって自国の貧しい小作農民の収入が安定したというコメ ントがあり,さらにホンジュラスの小作農出身のオブザー バーからも,社会経済学措置でお金を得ることでその職業に 縛りつけられるより教育を受けてその生活から脱出すること を強く希望している,という発言があった.経済的な補償を 途上国に実施しても,その対価が貧しい農民まで届くという 保証は全くないのだ.
最終的に,CBD事務局からのオンライン会議の要約も今 後の議論の方針も提出されないまま,本フォーラムは終了し た.
合成生物学に関するAHTEG会議開催
AHTEG会議のメンバーは,オンライン会議の参加者から CBD事務局が選出して,地域と専門性と性別が偏らないよ うに選別するとの事務局の方針が示されたが,実際選出され た30名のメンバーを見ると,CBD事務局にかかわりの深い 人物が多く,合成生物学の専門家が必ずしも十分に選出され ているとは言えないものであった(4).日本からは,元CBD 表1■CBD 合成生物学に関するオンライン会議の議題一覧
第1回オンラインフォーラム(2015年4月27日〜5月11日)
議題1. 合成生物学とCBDとの関係【座長:香坂玲(日本)】
議題2. CPBの LMO と合成生物学から生じる3要素( 生物 , 成分 , 生産物 )との類似点/相違点【座長:Ms. Restrepo
(メキシコ)】
議題3. 合成生物学の操作性定義:基準内/外の技術【座長:Mr. Loog(エストニア)】
第2回オンラインフォーラム(2015年5月25日〜6月8日)
議題4. 合成生物学から生じる3要素の生物多様性の維持に及ぼす潜在的利益とリスク,ヒトへの健康と社会経済的影響【座長:
Mr. Linnestad(ノルウェー)】
議題5. 締約国やその他の国で利用しているリスク評価法とモニタリングの最良の方法【座長:Ms. Schnell(カナダ)】
第3回オンラインフォーラム(2015年6月22日〜7月6日)
議題6. 合成生物学由来の 生物 ,成分 ,生産物 を規制する各国,地域,国際的手法の妥当性【座長:Mr. Kinyagia(ケニア)】
議題7. 合成生物学由来の 生物 , 成分 ,生産物 への影響を規定するための包括的なフレームワークの既存の準備状況.特に 生物多様性の減少と過度の損失の脅威について【座長:Ms. Torres(エクアドル)】
日本農芸化学会 ● 化学 と 生物
事務局の勤務の経歴をもつ金沢大学の香坂玲准教授(社会科 学者)が参加した.同氏は,先のオンライン会議の議題1の コーディネーターであり,合成生物学と生物多様性の関係に ついての最初のセッションを担当した.
AHTEG会議では,まずスロベニア代表が議長に選出さ れ,次に合成生物学の定義に関する議論がなされた(5).本稿 第2回(「化学と生物」2015年11月号「バイオサイエンスス コープ」の稿を参照)に記載した欧州委員会が提案した定 義(6)を基に,各参加メンバーから意見を求める形で議論が進 められたがやはり意見の一致が見られず,最終的に法的拘束 力にない暫定案として,下記の定義を決めて,会議を前に進 めることとなった.
Synthetic biology is a further development and new di- mension of modern biotechnology that combines science, technology engineering to facilitate and accelerate the un- derstanding, design, redesign, production and/or modifica- tion of genetic materials, living organisms and biological systems.
この定義の中で,元々欧州案にあった “genetic materials in living organisms” が,“genetic materials” と “living or- ganisms” それぞれ独立した単語として用いられ,さらに定 義が定まらない “biological systems” が追加された.さら にCPBでは,LMOにしか規制が及ばないことから,合成生 物学では,名古屋議定書にリンクさせて,合成生物学で使用 されるデジタル遺伝情報を,名古屋議定書の遺伝資源に含ま れると主張して,その利用から生じる利益の公平かつ衡平な 分配を行うように,ケニアやフィリピンなどが強く求めた.
最終案では,「合成生物学への特許に基づく,あるいはオー プンソースへのアプローチは,アクセスと利益配分の内容に ついて異なる意味合いを持つ.」とし,遺伝子配列データの 起源国や提供国,その情報の取得方法などの特許への記載の 義務化を求めて,その利用によって生じる利益の配分につい て,名古屋議定書に基づく方法を採用することを求めてい る(7).
また今後の課題として,「各国の遺伝資源から生じる電子 情報の流出」に対する言及もなされ,新たな規制へ発展する 可能性も残された.合成生物学によって生じる (生きた)
生物 , 成分 , 生産物 のリスク評価に関しては,先進国 を中心に個別評価を主張する一方で,ドイツの代表からは予 防原則の重要性の提起が改めてなされた.合成生物学に含ま
れる技術領域に関して,議長案では個々の技術の特定を求め る提案がなされたが,オブザーバー参加の米国が反対した.
今回のAHTEGでは,非締約国である米国代表の意見が特に 目立った会議だったようだ.
COP13に向けての議論の方向性
AHTEG会議の報告書は,11月16日にCBDのホームペー ジ上に掲載された.その報告書を踏まえて,各国からの意見 徴集の期間が2カ月間設定されている.その後,事務局で各 国からの意見をまとめて総括文書を作り,2016年4月25〜29 日にモントリオールで開催される各国政府代表者からなる科 学技術助言補助機関(SBSTTA)会議にその文書が提出さ れ,締約国の代表者によって議論される予定である.その 後,2016年12月にメキシコで開催予定のCOP13での正式議 題にするかどうかが決まる.そして正式議題と認められれ ば,COP13での議論に進むこととなる.(今後の日程は,表 2を参照)もちろん日本政府の公式意見書も,そして所属す るバイオインダストリー協会をはじめ,各国のバイオ関連団 体やNGOからもAHTEG報告書に対する意見書が作成され,
提出された(8).
今回,特に合成生物学に係る電子情報を規制し,国をま たがってその電子情報のやり取りが行われた場合,その電子 情報から生じる利益を,名古屋議定書の条項(遺伝資源)を 基に,途上国が先進国に求めようとする方向に議論が発展し たことに驚きを隠せない.これまで科学発展のために世界中 でさまざまな情報がデーターベース化され,自由に無償でそ の情報を取得するシステムづくりに先進国は力を入れてき た.しかし,それが途上国の生物多様性に影響を与え,衡平 な利益配分の機会を喪失させているというCBDでの議論内 容にはただ驚くばかりである.この場合,利益配分を求める 対象は,企業よりも公的研究機関や大学などである.日本の 科学技術や産業の発展のためにも,今後も引き続きCBDで の合成生物学に関する議論の進展を注視していくことが重要 であると筆者は考える.
表2■CBDでの合成生物学に関係する今後のスケジュール予定
日時 項目
2015年9月21日〜25日 AHTEG会議(カナダ モントリオール)
2015年11月16日 AHTEG会議の議論経過と結論に関する文書の提供(事務局から,締約国,非締約国,原住民,地域社 会,その他関連する団体)
2015年11月〜2016年1月末 AHTEG会議の議論経過と結果の文書に関する意見徴集期間
2016年2月〜3月 締約国,非締約国,原住民,地域社会,その他関連する団体からの意見のまとめと文書化(事務局)
2016年4月25日〜4月29日 科学技術助言補助機関会議(SBSTTA)開催(カナダ モントリオール)
2016年12月4日〜17日 COP13開催(メキシコ カンクーン)
日本農芸化学会 ● 化学 と 生物
総括にあたって
これまで5回の連載を通じて,CBDという国際会議の場 で合成生物学に対して各国がどのような意見をもち,その学 問分野を国際ルールの下でどのように取り扱っていこうとし ているのかについての議論を紹介してきた.科学者の多く は,先端科学・技術が人類の幸福に貢献し,その希望を実現 するものと信じて,日夜研究に励んでいると筆者は考えてい る.しかし,世の中には,その科学の内容を十分理解できな いために,誤った知識や誤解によって,その科学分野に畏怖 や嫌悪の念を抱くものも少なくない.また今回のテーマであ る合成生物学の発展は,途上国にとっては自国産業の浮沈に かかわる大きな問題として捉えられていて,その科学技術の 発展に反発する国も少なくない.科学者は日夜研究に没頭し ていると思うが,いったん研究室を出るとその周りにはこれ まで紹介してきた複雑な国際情勢があることもご理解してい ただきたいと思い,このテーマの特集を5回にわたって紹介 してきた.
CBDの上記の議論を受けて,合成生物学が最も進んでい る米国では,10月15日にワシントンにあるウィルソンセン ター(米国議会がスミソニアン学術協会の下に設置したシン クタンク)に米国の合成生物学を志向する企業やアカデミア のメンバーが集まり,AHTEG会議の報告とCBDの合成生 物学への規制強化の動きに対する今後の対応方法の議論をス タートさせた.欧州でも,12月10日にルクセンブルグ大学 で欧州委員会が主催する合成生物学ワークショップが開催さ れ,生物多様性と合成生物学の関係について議論がなされ た.
CBDのドイツの政府代表者は合成生物学の規制強化に積 極的であり,AHTEGの結論を欧州連合の結論として推し進 めようとしている.しかし,英国やオランダはCBDの動き に反対であると聞く.つまり必ずしも欧州連合内での意見統 一が図られているわけではない.欧米と異なり,日本では AHTEGの議論の内容を広く大学や公的機関,そして民間の 会社に報告し,その対応を議論する場は設けられていない.
このため,CBDでの合成生物学に対する新たな規制の枠組 み作りの提案を知る者は,一部の政府関係者などまだ少数に とどまる.
CBDでの合成生物学にかかわる議論は,日本の科学技術 の発展や日本のバイテクノロジーの産業の興隆にも大きくか かわるものと筆者は考える.是非,日本のアカデミアや企業 の研究者の皆様も,この世界的な規制の動きを注視して,
CBDの窓口である日本政府の各省庁の担当課に積極的に意 見を述べ,国際社会での日本の立場を位置づけるべく,国と しての意見形成にご協力していただきたく思う.(完)
謝辞:本稿の内容は,経済産業省平成26年度環境対応技術開発等(遺伝 子組換え微生物等の産業活用促進基盤整備事業)の「生物多様性関連の 遺伝子組換え技術の国際交渉に係る調査検討委員会」での議論ならびに 調査研究に基づいたものである.同調査検討委員会の委員の皆様および 報告者の執筆にご協力をいただいた関係各位の皆様に,改めて御礼申し 上げます.
文献
1) 環境省「みんなで学ぶ,みんなで守る生物多様性」条約 本文:http://www.biodic.go.jp/biolaw/jo̲hon.html 2) CBDオンラインフォーラム:https://bch.cbd.int/synbio/
open-ended/discussion.shtml
3) CBDオンラインフォーラムの参加登録メンバーリスト:
https://bch.cbd.int/synbio/participants/
4) CBDの合成生物学の専門家委員会(AHTEG)メンバー リスト:https://bch.cbd.int/synbio/ahteg/participants/
5) AHTEG会 議 の 最 終 報 告 書:https://www.cbd.int/doc/
meetings/synbio/synbioahteg-2015-01/official/synbioahteg- 2015-01-03-en.pdf
6) 欧州委員会科学委員会「Opinion on Synthetic Biology I Definition」:http://ec.europa.eu/health/scientific̲com mittees/emerging/docs/scenihr̲o̲044.pdf
7) CBDのAHTEG会 議 報 告 書(UNEP/CBD/SYNBIO/
AHTEG/2015/1/3 7 October 2015)https://www.cbd.
int/doc/?meeting=SYNBIOAHTEG-2015-01
8) AHTEG報告書に関する各国,各団体からの意見:http:
//bch.cbd.int/synbio/peer-review/
プロフィール
白江 英之(Hideyuki SHIRAE)
Vol. 53, No. 11, p. 801参照
Copyright © 2016 公益社団法人日本農芸化学会 DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.54.216