化学の 窓
有機化合物の純度をはかる
核磁気共鳴法( NMR )を用いた SI (国 際単位系)トレーサブルな定量分析技術
最近,「トレーサビリティ」という言葉をよく耳にす る.主に食品の流通履歴(履歴管理)を指し,消費者が 生産者や原料をたどることのできるという意味を指して いる.「食の安全・安心」は常に関心の高いトピックス であり,これを通じて,「トレーサビリティ」という言 葉が世間一般に用いられるようになったわけである.一 方,分析化学の世界でも「トレーサビリティ」は注目さ れている言葉である.これは分析結果の信頼性を確保す るために重要なポイントであり,食品の流通履歴を表す
「トレーサビリティ」と区別するために「計量トレーサ ビリティ」と呼ばれている.ここでは,この「計量ト レーサビリティ」に関係した近年注目されている分析技 術とこの分析技術がもたらす,これからの定量分析につ いて紹介したいと思う.
純度はいくつ?
私たちはさまざまな物質に囲まれて生活をしている.
ニュースで取り上げられる場合,何かと「ワルモノ」的 な存在である化学物質であるが,目的に応じて使い分け られ,適切な管理において利用されることで,私たちは 快適な生活を過ごしている.適切な管理というのは,国 が定める規制や公定法,または各メーカーにおける品質 管理を指す.具体的な方法の一つには化学分析があり,
特に定量分析はこのような管理には必ず実施されてい る.化学物質の中でとりわけ有機化合物をここでは取り 上げるが,有機化合物の定量分析は一般的に分解能や微 量分析に優れた液体クロマトグラフィー(HPLC)やガ スクロマトグラフィー(GC)が利用される.これらク ロマトグラフ法は目的成分の標準物質との相対比較を行 う分析法であるので,測定対象化合物の標準物質が不可 欠である.私たちの生活を守るために欠かせないこれら の定量分析は,冒頭に述べた「計量トレーサビリティ」
が重要であることは想像できるだろう.「計量トレーサ ビリティ」とは個々の校正が測定不確かさに寄与する,
文書化された切れ目のない校正の連鎖を通して,測定結 果を計量参照に関連づけることができる測定結果のこと である.つまり,定量分析を行う際に国家標準物質を使 うことは信頼性のある分析結果を得るための重要なポイ ントの一つである(実際には国家標準物質を使って校正 された一次標準物質や実用標準物質などの認証標準物質 と呼ばれるものが使われることが多い).
一方,物質量の絶対量は普遍的な国際計量標準である 国際単位系(SI)にトレーサブルな測定によって得られ ると定義されている.この方法で純度を測定されたもの の一つが国家標準物質である.しかしながら,この定義 に従って純度が保証された有機化合物の標準物質は市販 されている数が少ないのが現状である.その理由はさま ざまであると思うが,筆者の立場で一つだけ挙げるとし たら「世の中に存在する分析対象物が莫大な数であり,
さらに増加傾向にあるので需要と供給が追いつかない し,バランスもとれない」のではないかと思う.分析現 場においては,絶対量が証明された標準物質が存在しな い場合には,対応する市販試薬を標準物質の代用として いると聞いている.市販試薬といっても各メーカーの品 質管理はしっかり行われているので品質上はほとんど問 題ないと思われる.しかし,各メーカーでの品質規格が 少しでも異なれば,それを標準物質の代用としたとき,
基準が異なる以上,機関Aと機関Bの分析結果が同じも のを分析対象としているのに異なる場合や,国際的に視 野を広げるとA国とB国でもほとんど差がないはずなの に異なる結果が…と,本来同じ結果であるはずであるの に異なった結果を導いてしまう.その結果,原因究明に 時間がかかったり,誤解を生んだり,別の次元の問題を 新たに生じることにもなりかねない.このことから,実 際の分析者は定量分析を行う際に用いる標準物質を見つ
め,「この純度は大丈夫?」としばし自問自答している のではないだろうか? これはサイレントな問題として 存在し続けている.すなわち,「計量トレーサビリティ」
をどのように確保していくのかがこの問題の解決策とし て重要となる.
有機化合物の純度をはかるには?(1〜8)
前章で述べた各メーカーの規格が異なると分析結果が 異なる可能性について補足する.メーカーが異なってい ても,それぞれの試薬の絶対純度が既知であれば,分析 結果に補正がかけられるので問題にはならない.では,
有機化合物の絶対純度はどのように測定されるのであろ うか? 物質量の絶対量は普遍的な国際計量標準である 国際単位系(SI)にトレーサブルな測定によって得られ ると定義されているが,有機化合物の場合,一次標準測 定法が実際に国家標準物質の値付け(絶対純度評価)に 利用されている.一次標準測定法には凝固点降下法があ る.この方法の精度は非常に高いが,融点付近における 融解点と温度の関係を測定するので,極めて高純度の化 合物が測定対象としており,迅速性や汎用性が高いとは 言えない.また,ほかの一次標準測定法も同様に迅速性 や汎用性に乏しく,国家標準物質として標準物質を迅速 に増やすことは現実的に難しいとされている.また,一 次標準測定法をメーカーの品質管理に取り入れるのもコ スト的に難しい.
一方,有機化合物を分析する手法の一つである核磁気 共鳴:NMR (Nuclear Magnetic Resonance)は分子内 の水素(核スピン)を直接観測することができる.主に 有機化合物の構造解析に用いられている分析法である が,測定で得られるスペクトルには定量的な情報が含ま れる.たとえば,エタノールの 1H-NMRスペクトルで は分子内に存在するCH3, CH2, OHが3つの信号となっ て現れ,信号強度(面積で表し積分値という)は原理的 には3 : 2 : 1の比率で現れる(図1).また,異なる分子 が混在する場合には分子間の定量情報を得ることができ る.2つの異なる分子を同じモル濃度で混合してNMR を測定すると,同じ核の数(1Hではプロトン数という)
の信号は原理的に同じ積分値で現れる(図2).この原 理に基づき,濃度あるいは純度既知の分子を標準物質と して,もう一方の分子の濃度あるいは純度を求めること ができる.つまり,NMRによって有機化合物の純度や 含量を求めることができる.
NMRにより,純度や含量を測定することは「定量 NMR」あるいは「qNMR(quantitative NMR)」と呼ば
れている.また,定量NMRは国際単位系の7つの基本 単位の一つである 物質量:モル を直接はかることが できるので,原理的に一次標準法の資格を有すると言わ れている.したがって,NMRは実用的なレベルで有機 化合物の純度や含量をはかることができるという点で注 目されており,ここ数年,分析プロトコルやバリデー ションなど分析技術としての研究が急速に進んでいる.
NMRで純度をはかるには?
NMRを使って定量分析はさまざまな方法があるが,
ここでは後に述べるわが国の公定法にも採用されている 内標準物質を利用した内部標準法AQARI (Accurate Quantitative NMR with Internal reference substance)
を紹介する(7).
図1■エタノールの 1H-NMRスペクトル
図2■異なる分子を同じモル濃度で混合した 1H-NMRスペクト ル
NMRスペクトルでは,異なった分子間においてもモ ル比と濃度の比例関係が成立する(式(1)).この原理か ら純度既知の物質を内標準物質とすると式(2)が導きか れる. 実際の測定では,内標準物質と測定対象物を混 合した溶液を調製し,定量用条件で 1H-NMR測定を行 う.測定における注意するポイントは式(2)にすべて含 まれており,主に①測定サンプル中の内標準物質と定量 物質の量が厳密にわかっていること:( sample, std)
②内標準物質の純度が厳密にわかっていること(計量ト レーサビリティが確保されていること:( std)*1 ③ NMR信号の面積(積分値)を精確に測定し,解析する こと:( sample, std)である.
A = A A
B B B
I H c
I H c (1)
=積分値, =プロトン数, =モル濃度
= sample× std × std × sample×
sample std
std sample sample std
I H W M
P P
I H W M (2)
Sample=分析サンプル,std=内標準物質, =重 量, =分子量, =純度
アセトアミノフェン試薬(純度100% LC assay)の純 度をAQARIにより分析を行った結果を示す(図3).内 標準物質には計量トレーサビリティが確保されている 1,4‒ビストリメチルシリルベンゼン- 4 標準物質を使用 した.アセトアミノフェンに由来する1H信号として,
CH3基の信号を使用して式(2)に従い98.4%と得た.
カルミン酸の純度は?(9)
では実際に定量NMRによってどのような問題が解決 できるのかを紹介したい.
コチニール色素は天然由来の色素の一つであり,食品 添加物として一般的に使用されている.その主成分はカ ルミン酸である.食品中の食品添加物や着色料を分析す る場合,一般的にはHPLCやLC/MS,TLCが利用され ている.これらは前述したように定量用標準との相対比 較によって定量分析を行うことから信頼性のある標準物 質が必要不可欠である.しかし,このような天然由来の 添加物や着色料の定量用標準物質はほとんど流通してい ないので,一般的には市販試薬を使って分析を行うこと
*1たとえば,定量NMR用の内部標準物質として以下のものが市 販されている.
1,4-ビストリメチルシリルベンゼン- 4 標準品 規格Trace Sure : Code No. 024-17031和光純薬株式会社 図3■アセトアミノフェンの qNMR (1H-NMR) スペクトル
表1■カルミン酸の市販試薬情報と定量NMR結果
サンプル 製造メーカ カタログ純度 qNMR純度 (%): カリウム塩3水和物として計算
カルミン酸(試薬) 1 >70%
(HPLC) 25.3
カルミン酸(試薬) 2 >95%
(Spectrophotometric) 92.9
カルミン酸(試薬) 3 記載なし 81.1
カルミン酸(試薬) 4 記載なし 80.8
カルミン酸(試薬) 5 95% 91.6
カルミン酸(試薬) 6 70 〜90% 86.5
コチニール色素
(試薬:食添用) 7 記載なし 29.0
となる.表1には市販されているカルミン酸試薬および コチニール色素の一部を列挙した.ラベルには各メー カーによる規格の表示があるものやないもの,あっても それぞれ規格が明らかに異なっていることがわかる.つ まり,市販されているカルミン酸を定量用標準物質の代 用とした場合,その絶対純度(絶対量)が不明なので分 析結果の信頼性はほとんどないに等しい.
そこで,この問題を解決する方法として,紹介した定 量NMR法による結果を表1の右端に示した.その結果,
すべての試薬に対して値付けすることができるとがわか る.この絶対純度の情報があれば,どの試薬を定量用標 準として使ったとしても,標準物質の濃度校正を行うこ とができるので,得られた結果の信頼性を一定に担保す ることができる.
定量分析におけるNMRの役割
筆者は入社以来,ずっとNMRのさまざまな応用方法 にかかわっているが,定量分析におけるNMRの役割は ここ数年で随分変化してきたと感じている.もともと
(たとえば高分子の組成比の決定など)NMRでしかでき ない定量分析や,高精度ではないもののある程度の精度 が要求された定量分析にNMRは利用されてきた.しか しここ最近,NMRが定量分析において,予想以上の精 度を有することや定量分析が抱える数々の問題点を解決 する可能性を秘めていることがわかってきた.これは
「試してみてわかってきたこと」であり,常識にとらわ れない研究者達が努力を重ねてきた結果であると思う.
定量分析においては用いた定量用の標準品のグレード が分析結果の信頼性に大きな影響を与えることから,な るべく真値を求めたい実験者はベターな選択を常に行っ ている.ただ今後,定量用標準品における「純度は?」
という疑問が定量NMR法で解決できるとすると,話は 変わってくる.純度が明確になれば,たとえ国家標準物 質レベルの高品質なものでなくても全体的な分析結果の 信頼性を底上げすることができるだろう.これがこれか らの定量分析の形となり,実際に次世代法としてシフト していくことが予想される.その兆しとして,私たちの 生活を守ることにつながる規制に定量NMR法は取り上 げられ始めている.具体的には,すでに公定法の一つで ある日本薬局方 第16局第1追補には生薬における標準 物質の問題とその解決法として定量NMR法の提案が参 考情報として記載されており,平成26年2月28日に告 示された第2追補には4品目の生薬標準品において定量 NMR法による規格が具体的に収載された.さらに食品
添加物関係に関してもすでに新しく指定された3品 目*2 について標準物質の規格基準に定量NMR法が採用 されている.また,国家標準物質や認証標準物質の値付 けにも定量NMR法が活用されている.
一方,定量NMR法は標準物質の値付けだけでなく,
目的成分の定量分析を直接行うことができる.NMRは 分離分析でないので,定量成分のNMR信号が分離でき ていることが前提になるが標準物質が手に入らない成分 については有効な手段として,HPLCと同程度の精度で 定量分析を行った報告例がある(10〜12).
このように,定量分析におけるNMRは「ほかの方法 ではできないものを分析する立場」だけでなく「信頼性 を確保するために欠かせない技術」としての役割も得つ つあるのではないかと感じている.
これから
筆者が「定量NMRの実用化に関する共同研究(医薬 品食品衛生研究所・産業技術総合研究所・和光純薬工業 株式会社・花王株式会社)」にかかわって約6年が経っ た.NMRで有機化合物の純度をはかるということが,
原理的に知られている方法から実践的な分析法へと状況 が変わりつつある.公定法に収載されたこともあり,認 知度も上がり取り組んでいる人も増加傾向.普及は進ん でいると感じている.精度としては有効数字2桁を確保 できるとされているが,微量の場合や混合物の場合を含 めると,分析技術としてまだ発展途上の部分があるのも 否めない.さらに,NMRはその大きさと導入コストの 点からクロマトグラフィーほど装置の普及率は高くな い.NMRを使った国際単位系へのトレーサブルな定量 分析技術をより実用的に普及するために,また,目的に 応じた使い道が確立されることを期待して,これからも そのお手伝いをしていきたい.
文献
1) 井原俊英,齋藤 剛:日本電子News 44, 1 (2012).
2) 杉本直樹:日薬理誌,137, 232 (2011).
3) 田原麻衣子,杉本直樹,大槻 崇,多田敦子,穐山 浩,
合田幸広,西村哲治:環境化学,22, 33 (2012).
4) 田原麻衣子,中嶋晋也,杉本直樹,有薗幸司,西村哲治:
水道協会雑誌,81, 10 (2012).
5) 杉本直樹,田原麻衣子,末松孝子,三浦 亨:食品衛生 学会誌,53, J228 (2012).
6) 細江潤子,杉本直樹,末松孝子,山田裕子,早川昌子,
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7) 細江潤子,杉本直樹,末松孝子,山田裕子,早川昌子,
鈴木裕樹,勝原孝雄,西村浩明,合田幸広:医薬品医療 機器レギュラトリーサイエンス,in press.
8) 経済産業省産業技術環境知的基盤課:平成21年度成果報 告書 基準認証研究開発事業「一対多型校正技術の研究 開発」.
9) 杉本直樹,多田敦子,末松孝子,有福和紀,齋藤 剛,
井原俊英,吉田雄一,久保田領志,田原麻衣子,清水久 美子ほか:食品衛生誌,51, 19 (2010).
10) 杉本直樹,多田敦子,末松孝子,有福和紀,齋藤 剛,
井原俊英,吉田雄一,田原麻衣子,久保田領志,清水久 美子ほか:日本食品化学学会雑誌,17, 179 (2010).
11) T. Yoshida, K. Terasaka, S. Kato, F. Bai, N. Sugimoto, H.
Akiyama, T. Yamazaki & H. Mizukami : , 61, 1264 (2013).
12) T. Ohtsuki, K. Sato, N. Furusho, H. Kubota, N. Sugimoto
& H. Akiyama : , 141, 1322 (2013).
(末松孝子,株式会社 JEOL RESONANCE ソリュー ションマーケティング部)
プロフィル
末松 孝子(Takako SUEMATSU)
<略歴>1997年九州大学大学院工学研究 科博士課程単位取得後退学(合成化学専 攻)/1998年工学博士取得/同年日本電 子株式会社入社/2012年株式会社 JEOL RESONANCE, 分社化により転籍<研究 テーマと抱負>定量NMRが活躍するため のフレームワーク<趣味>テニス,libera を聴くこと