産業公害パート論文
公害防止投資の誘因分析
執筆者 芹川慎哉 野村哲也 分部真弓
序 なぜ公害防止投資を取り上げるのか
文責 分部 真弓
日本において、高度経済成長期に生じた大気汚染による被害は、1960 年代後半から 70 年 代にかけて激化し、四日市喘息に象徴されるように住民の健康に悪影響を及ぼした。その 後、70 年代後半には、硫黄酸化物(以下、SOxと記す)の濃度は低下し、ある程度大気汚 染を克服することができた。その背景には、企業による公害防止投資の実施が大きな役割 を果たしたと言える。そして、企業を公害防止投資へ促した要因として、自治体及び国に よる政策と政府系金融機関による低金利政策が考えられる。前者を「プッシュ要因」、後者 を「プル要因」と呼ぶことにする。
図 序 - 1 公 害 防 止 投 資 額 と S O x濃 度 の 推 移
0 1000 2000 3000 4000 5000 6000
1965196619671968196919701971197219731974
(億円)
0 0.01 0.02 0.03 0.04 0.05 0.06 0.07
(%)
公害防止投資額 Sox濃度
参考 O E C D(1 9 7 7)
図序−1は、大気汚染に対する公害防止設備投資額及びSOx濃度の推移を表す。公害防 止投資額の増加に伴い、SOx濃度が低下していることがこの図から読み取れる。従って、
企業による公害防止投資は、日本の大気汚染克服に大きく貢献したと言える。
日本において、重化学工業化によって推進された1950年代後半からの急激な経済成長は、
SOx濃度の上昇をもたらし、60年代後半にはその傾向が顕著に見られるようになった
(図序−2)。
図 序 − 2 実 質 G D P と S O x 濃 度 の 推 移
0 50 100 150 200 250 300 350 400 450 500
1955 1957 1959 1961 1963 1965 1967 1969 1971 1973 0 0.01 0.02 0.03 0.04 0.05 0.06 0.07
(%)
実質GDP Sox濃度
参考 経済白書
SOx 濃度の上昇が引き起こした深刻な大気汚染は、住民の健康に被害をもたらし、その 結果、被害者らは全国各地で公害反対運動を繰り広げた。こうした住民運動は、やがて四 大公害裁判など数多くの裁判闘争に発展した。さらに、深刻な大気汚染に対する政策は、
まず初めに地方自治体によって実施された。自治体と企業との間で結ばれた公害防止協定 がその一例である。また、国も大気汚染防止法(1968)や総量規制(1974)など、大気汚 染を克服すべく数々の対策を打ち出すにいたった。
こうして、住民による企業に対する公害反対運動や裁判闘争の展開、さらに自治体や国 によって実施された大気汚染克服に向けてのさまざまな政策は、企業を公害防止投資へ向 かわせた大きな圧力となった。この圧力を、公害防止投資に対する「プッシュ要因」と呼 ぶことにする。また、企業の公害防止投資を支援するプログラムとして、政府系金融機関 による低利の融資制度が極めて有効であった。この低金利政策を、公害防止投資に対する
「プル要因」と呼ぶことにする。
以下の章では、まず、日本の大気汚染問題の発生と克服の過程を述べ、次に公害防止投 資に対する「プッシュ要因」・「プル要因」についてそれぞれ論じる。
Ⅰ 日本における産業公害の発生と克服
文責 芹川 慎哉 1 高度経済成長期の日本
(1)当時の経済状況
日本経済は第 2 次世界大戦によって壊滅的な打撃を受けたが、朝鮮戦争による特需を経 て回復し、特に工業を中心に目覚しい成長を遂げた。無論冷戦下、西側陣営として当時の世 界情勢に組み込まれたなどの外的要因もさることながら、やはりその原動力となったのは 強力な工業化推進政策であろう。与党と政府は一体となってさまざまな経済政策を推し進 め、傾斜生産方式や所得倍増計画などの成功に見られるように、歴史に残る成果をあげた。
1950 年の朝鮮戦争から第 1 次オイルショックにより戦後初のマイナス成長を記録する 1974年までのおよそ20年間を高度経済成長期と呼ぶが、この時期は世界に類を見ないペー スで日本が成長し1、経済規模は約7倍に発展した。
この過程では神武、いざなぎなどの好景気が続き、多少の調整局面を挟みながらもほぼ右 肩上がりの成長曲線を描ききったのである。この間世界における日本の地位も変化し、1964 年IMF8条国へ移行するとともにOECDに加盟、1968年にはGNPでアメリカについで世 界第2位の経済大国となった。
国民のムードは 1964年の東京オリンピック開催の頃から最高潮に達し、三種の神器とし てカラーテレビ、冷蔵庫、テレビが一般家庭に普及するなど国民生活向上によって「経済成 長は美徳である」との観念が徐々に定着しつつあった。
そんな国民の希望を担う中核産業こそが工業、中でも加工貿易によって一躍世界に通用 しつつあった重化学工業であり、石油化学コンビナートや大型の製鉄所などは各地から歓 迎され、沿海部の好条件を生かしますますの発展を遂げた。
(2)重化学工業化の急激な進展
日本の工業化を支えた諸政策は産業に対する助成策と、効率的な国土利用を目指す政 策に大別される。高度経済成長期の前期は前者が中心であり、その代表は傾斜生産方式であ る。これは当時のエネルギー源である石炭産業、また電力産業から鉄鋼といった順に重点的 に予算を配分するというもので物資不足の戦後日本にとっては波及効果が大きく、大きな 成果を上げた。
また後者の代表例は池田勇人首相(在位1960〜1964)の掲げた国民所得倍増計画で、拠
1 1947〜1972年度までの経済成長率は年平均9.2%を記録。「キャッチアップ」の典型的な成功例とされる。
小峰(1997)による。
点開発方式2によって臨海部を中心とした全国各地を工業化することを目標としたものであ った。
これらの政策と既存産業の成長がうまくマッチし、産業は工業化するとともに重化学化 した。
2 エネルギー転換と大気汚染公害の発生
(1)重化学工業化に伴うエネルギー消費量の増大とエネルギー転換 こうした工業化の流れの中で、日本のエネルギー消費量は急増した。
表Ⅰ−1に見られるように、1955年から約10年強でエネルギー消費量はおよそ3倍に達 したのである。
表Ⅰ−1 エネルギー消費量の変化
年度 1955 1968
石油換算(単位万t) 5,130 14,580
また、それに伴い石油燃料の使用量が大幅に増えるのに加え,化学工業において原料とし ての石油使用量も増加し、表Ⅰ−2に示されるようにこの期間で完全に石炭と石油の消費 量は逆転した。
表Ⅰ−2 石炭から石油へのエネルギー転換
年度 1955 1965
石炭 49.2 27.3
エネルギー源
(%) 石油 19.2 58.0
これら2点より、高度経済成長期は日本にとってちょうど石炭燃料から石油燃料への転 換時期にあたっていたことがうかがえる。
(2)硫黄酸化物による大気汚染公害の発生
高度経済成長期の初期、日本では早くも産業起源の公害が発生していた。これは当時の燃 料であった石炭の燃焼に伴う降下煤塵の被害である3。
2 実際に池田内閣の閣議了承「全国総合開発計画」(1962)により、全土を対象に臨海部中心の最適な工業 化を図る方式が推進された。
3特に宇部炭で知られる宇部市の降下煤塵は著しく、市は条例に基づく委員会を設置して行政、企業、住民 の話し合いの場を設けた。これが「宇部方式」と呼ばれるもので大きな成功をもたらし宇部市が他都市のよ うな激しい公害被害に見舞われずに済んだ要因である。
しかしここで取り上げるのは主にエネルギー転換後、1960年代初頭からの主流となった 石油燃料燃焼に伴う二酸化硫黄の発生、ならびにその発生に伴い生じる健康被害としての 大気汚染公害である。
1969 年公害白書では地域別大気汚染状況がかなり詳細に述べられているが、なかでも表
Ⅰ−3にあげたような各都市がすでに煤塵、二酸化硫黄の被害に覆われていた。
表Ⅰ−3 大気汚染の進行地域に対する行政の認識(1 9 6 9) 広域的な汚染が高度かつ複雑に
進行している地域
東 京 神 奈 川 大 阪 兵庫
局地的な大気汚染が高度かつ複
雑に進行している地域 四日市 福岡
大規模工業開発が進行中で大気
汚染が問題化しつつある地域 千葉 愛知
厚生省
(3)四日市公害の激化と訴訟
特に1960年より操業を開始した四日市市の石油化学コンビナートにおける被害は激甚で、
いわゆる「四日市公害」として四大公害のひとつに数えられる。図Ⅰ−1 に四日市市の二酸 化硫黄濃度の経年変化を示す。これは1日平均の値であるが、1時間平均で1ppm を超える 地区まであり予断を許さない状態が続いていた4。さらに表Ⅰ−3には四日市市の主な発生 症状を示す。
4 コンビナートに近接する塩浜地区。この数値は現行規制の約10倍にあたるきわめて高いものである。
図Ⅰ−1 四日市市における二酸化硫黄濃度の経年変化
0 0.01 0.02 0.03 0.04 0.05 0.06 0.07 0.08
64 66 68 70 72 74 76 78 80 82 84 86 88 90 92 94 96 98
(年)
大気中濃度(ppm)
SO2
三重県環境白書 1 9 9 9 より作成 図Ⅰ−4 四日市市の 1 9 6 8 年時点における公害認定患者5数と病名
慢性気 管支炎
ぜん息性 支管支炎
気管支
ぜん息 肺気腫 計 0〜4 歳 16 -1 26 4 0 46 -1 5〜9 48 27 21 0 96 10〜19 9 4 23 0 36
20〜29 0 0 5 0 5
30〜39 7 6 19 0 32 40〜49 11 -2 9 10 -1 2 32 -3 50〜59 11 8 18 -1 1 38 -1 60〜69 21 24 14 -1 4 63 -1 70 歳以上 18 -1 8 7 -2 6 -3 39 -6 合計 141 -4 112 121 -5 13 -3 387 -12
公害白書(1 9 6 9)より抜粋、三重県調べ(単位:人)
表Ⅰ−5は四日市公害の簡略な年表であるが、1960 年に第1 コンビナートが操業を開始 してすぐに公害が発生していることは注目に値する。ちなみに1963年には第2コンビナー
5 四日市市が独自に制定した公害病認定制度によるもの。このシステムは画期的で行政が公害患者の治療 費を負担するというものであった。市の先進的思想はもとより、易学的調査にあたった三重大学医学部をは じめ関係各者による成果である。1972年に公害健康被害補償法として立法された。
トが、1972 年には第 3 コンビナートがそれぞれ稼動するのであるが、被害を受けてコンビ ナート建設を差し止めるような動きが無かった6のは事実である。
四日市のケースは決して特殊例ではなく、そもそもコンビナートが日本で四日市市が初 であったことからもうかがえるように、他地域でも石油燃料を燃焼させた排煙が二酸化硫 黄の大気中濃度を上昇させ、さらにそれは行政なり市民なり企業なりが対応できないスピ ードで進行するのであった。未曾有の好景気の中で行政も企業も、かつて無い規模による 工業化を強力に推し進めたのである。
四日市のようなコンビナートは全国に広がり、中でも水島コンビナートや京葉コンビナ ートは高名である。こうして全国的に工業生産量と石油エネルギー消費が拡大し、各地で大 気汚染公害を引き起こすこととなった。
6市民団体は何度か市議会に陳情を行い、操業中止を訴えているが市は第3コンビナート埋め立て案を可決
(1967)、地域振興のため企業誘致最優先であったことを示すものである。
表Ⅰ−5 四日市公害に関する年表
さて、このように各地で健康被害が相次ぐにつれ、住民の反対運動がわが国では多く発生 した。大気汚染ではないが水俣病におけるケースをはじめ、四日市の場合には住民団体が組
年度 市民 立法・行政・司法
1955 海軍燃料廠跡地払い下げに関する閣議了承
「異臭魚問題」
1960
「四日市公害防止対策委員会」設置
「磯津の亜硫酸ガスは他地区の 6 倍」(委員会中
間報告書)
1961
ぜんそくが顕在化(主に塩浜地区磯津)
住民運動の激化 ※このころ大気汚染最悪に 黒川調査団(通産、厚生)
自治会単位、主婦による抗議行動、「公害パトロー ル」
煤煙規制法対象地域に指定(1962 煤煙規正法 による)
1963
季節風の影響で磯津・市街地がともに被害を受
ける
最初の公害犠牲者
1964
沼津・三島闘争
1965 公害病認定制度発足
四日市公害訴訟第 1 回準備会 原告を公害患者、被告は磯津隣接企業(国・県・
市は除外)
1966
「共同不法行為」立証へ
四日市公害訴訟提訴 市議会、第 3 コンビナート埋め立て可決 1967
原告は公害病認定患者 9 名、被告は第 1 コンビ
ナート臨海部 6 社
1970 公害に係る健康被害の救済にかかわる特別措置
法
「米本判決」原告全面勝訴、被告企業は控訴取り
やめ 三重県、総量規制実施
1972
補償協定書調停 大気汚染防止法改正
1973 公害健康被害補償法
1977 二酸化硫黄に関する環境基準達成
1982 「きれいになった四日市の空」市が事実上の公害
収束宣言
織され、補償を求めて訴訟を提起した。
四日市の訴訟では被告 6 社を相手取り公害認定患者9 人が損害賠償請求の訴えを起こし た。1972年には原告側が全面勝訴、「米本判決」として名高い判決が下った。
損害賠償裁判は民事にあたるため原告は被告の過失を立証しなければならない。コンビ ナートのようにどこが共同の工程で責任範囲はどこか、というのは不明確で共同不法行為 の立証はそれまで困難とされていたが、裁判所は明らかな因果関係を疫学調査に求め被告 の立証責任を軽くした。また高度の注意義務を課し、たとえ技術的に予見が困難でもそれが 責任回避の理由にはあたらないとした。さらに環境影響を事前に調査する必要があるとし てわが国で初めて環境影響評価の考えを導入したのである。さまざまな面で画期的な判決 だったといえるだろう。閣議決定は1983年、法制化は1997 年を待たねばならなかったこと からも先進的な発想がみられたといえる。
3 大気汚染克服に向けた取り組み
(1)被害者の救済
こうして全国に広がる健康被害に対し、国をはじめ行政は何よりもまず事態の収束を図 らねばならなかった。
四日市市は公害患者認定制度によって1965年時点ですでに公害患者の救済に向けた動き を見せていたが、それに倣う形で国も公害健康被害補償法を制定した。
これは迅速に被害者を救済するための制度で、企業から賦課金を徴収し、指定地域内の公害 被害者に給付するというものである。最盛時の企業に対する賦課金額は1000億円(1987)
にのぼったものの、現在では漸減しており6000万円程度(1998)である7。
また図Ⅰ−2に、二酸化硫黄濃度と認定患者数の関係を示す。
7二酸化硫黄による公害は後述のように沈静化したのは確かだが、自動車の排ガスに伴う二酸化窒素による 公害が解決していないなか、新規認定が1988年に打ち切られたことに関しては賛否両論であり、産業界の ロビイングではないかとの声もあがっている。
図Ⅰ−2 二酸化硫黄濃度と認定患者数の推移
公害健康被害補償予防協会資料より作成
(2)環境基準、規制による環境行政と低硫黄化政策
ここで被害者救済から、予防に対する取り組みに観点を移す。
各自治体は公害防止協定8を積極的に締結したり、公害防止条例を独自に定めるなど積極 的な動きをみせ始めていた9ものの、国として総合的な公害行政への姿勢を鮮明にする必要 があるとの声が趨勢になっていった。1962年に煤塵に対応した煤煙排出規制法が制定され てはいたが激化するさまざまな産業公害に対応できる内容にはなかった。
高い理念を掲げ、さまざまな手法を駆使して公害除去に取り組むことができる法案とし て 1967年に公害対策基本法が制定された。典型7 大公害10に対し、「人の健康および生活 環境の改善」を目的とした環境基準を定め、その達成に向けた規制等の措置をとるという のが特色である。これにより日本的な、環境基準設定、規制強化、環境基準の企業による遵 守という法的手段、規制によるシステムが確立された。
さらに1968年には大気汚染防止法が制定され、K値規制が導入された。これは q=K*103*He2
という式によって表され、He(煙突の高さ)によってq(排出量)が定まるというもので ある。Kは地域ごとの係数でこの大小によって地域ごとの排出基準の厳しさを調整した。
8 Ⅱ章詳述
9 なかでも静岡県三島市、沼津市はコンビナートの立地を住民とともに拒むなど、強硬な姿勢を保ったこと で知られる。「三島闘争」といわれる。
10 大気、水質、土壌、騒音、振動、悪臭、地盤沈下
環境基準維持のためには拡散するしかなかったが故の措置であったが、たとえば四日市 では沿海部から市街にまで被害地域が広がるなど本質的な解決には至らなかった11。
1974 年からは指定地域に対する総量規制12を行い大気浄化に努めた。新設工場立地には 厳しい排出規制を課すなど過密工業地域に対する新規立地抑制にも効果をあげた。
また同時に通産省を中心にエネルギー源に対する対策も採られている。原油の低硫黄化、
重油脱硫が大きな柱であり、前者は東南アジアや中東からの輸出増、後者は技術開発促進13 でかなりの改善を得た。
表Ⅰ−6 エネルギー源に対する低硫黄化政策の効果
1965 1969 1975
平均硫黄含有率(%) 2.04 1.68
重油脱硫能力(%) 3.3 20.6 60.5
これらにより、表Ⅰ−1に示される急速な環境改善が達成されたのである。
(3)まとめ
高度経済成長期に急激な成長を遂げた日本は公害に対する対策の未整備なまま被害を拡 大させてしまった。これに対し被害者は訴訟や住民運動によってよく対応し、また公害被害 が広く知られるにつれ世論も徐々に経済成長よりも環境に傾き始める。また地方自治体も おのおのの実情に合わせさまざまな工夫をもって対策に追われた。先駆的な自治体も数多 く現れ国も模範としたところもある。
実際に企業の責任が次々に明るみになるなかで国としても総合法制化に取り組み、基準 のための規制というシステムを作り出した。企業にとってかなり厳しい水準だったがよく 産業界も応え、成果は急速に表れた。
企業にとって規制による公害防止活動は費用として減益要因にもなりうるので政府とし ては相当な覚悟が要ったはずだが国はかなり強く基準を高めていった。これら強制的施策 のほかに次章以降詳述する間接的な、金融面でのバックアップもあり、オイルショック只中 の苦しい時期でありながら環境改善と経済の持続的成長を達成できたのである。
11 三重県は国に先駆けて1972年に総量規制を導入している。
12 Ⅱ章詳述。
13 Ⅲ章のような措置で技術開発を促した。
Ⅱ 公害防止投資に対する P U S H 要因
文責 野村 哲也
第 2章では
,
日本における公害克服を考察する上で重要な要素である公害防止投資を企 業に行わせた要因はどのようなものがあったのかについて検討する。その中でもこの章で は,国による規制(K値規制,総量規制),地方自治体と企業の間で結ばれた公害防止協定に 焦点を当てる。1 国による規制( K 値規制,総量規制)
総量規制は『現行の排出基準のみによっては,大気環境基準の確保が困難と認められる 地域において環境濃度を大気環境基準のレベルに引き下げるため,気象,地形,発生源の 状況等の地域特性を考慮に入れつつ一定の科学的手法を用いてその地域内の発生源から排 出することが許容される大気汚染物質の総量を算定し,その総量の範囲内に排出総量を押 さえていくことをねらいとして工場または事業所単位で排出規制を行うこと』と定義され る。
最初に総量規制制度導入の背景について述べる。高度経済成長による重化学工業の急速 な発展に伴い,工場使用燃料の主流が石炭から石油に移行するとともに二酸化硫黄による 大気汚染が激化し始めた。その結果1967 年「公害対策基本法」,1968年「大気汚染防止法」
公布によって硫黄酸化物量規制(K 値規制)の施行があり本格的に排出規制が行われるよ うになった。しかし、K 値規制では,個々の煙突からの排出量に対する規制値は設定され ていたが,工場内の数本の煙突からの排出総量に関しては何ら規制がないという問題点が あった。このため,個々の煙突が基準を達成しても大気中の二酸化硫黄の濃度は K 値の規 制強化による効果に見合って低下しなかった。これを受けて,総量規制方式は四日市コン ビナートからの公害に悩んでいた三重県において1973 年4月1日いち早く実施された。三 重県における総量規制方式は次式によってあらわされる。
Q = F × C
Q 工場・事業場毎に排出できる硫黄酸化物の量 F 工場・事業場の使用燃料の総量
C 使用燃料の総量の区分毎に定めた係数
(係数は,使用燃料の総数が大きいほど小さい値を設定)
この三重県における総量規制方式は,後の大気汚染防止法に基づく総量規制の原型とな った。また,総量方式の導入の動きは,大阪府,東京都,川崎市,などにおいても見られ るようになった。これらの動きを受け,環境庁において総量規制算定方式検討委員会を設
け,その実施方法について検討が始まった。その結果,環境容量については『汚染濃度を 一定レベル以下に維持するための総排出量』とすること,各事業所における許容排出は,
一定の燃料使用量以上の事業所を特定工場として,該当する特定工場については燃料使用 量を基準とし,燃料使用量が多いところほど削減幅が大きくなる規制式を採用することと し,特定工場以外については使用燃料中硫黄分を規制できる方式とした。また,排出基準
(K 値規制)は,総量規制地域内についても引き続き適用され,総量規制と併用されるこ とになった。このような環境庁における検討の結果,総量規制導入のための「大気汚染防 止法の一部を改正する法律」案は国会に提出され,国会審議を経て1974年6月1日づけで 公布され,世界で初の総量規制制度として施行されることとなった。
図Ⅱ−1 総量規制指定地域
総量規制制度の概要は,以下のとおりである。①指定煤煙(硫黄酸化物,窒素酸化物)
の指定地域ごとに指定煤煙煙総量削減計画を策定する。②特定工場等の規模は工場・事業場 に設置されている煤煙発生施設で使用される燃料及び原料の量を重油の量に換算した値で 決定される。③総量規制基準は原燃料使用量方式により決定される。④特定工場以外に適 用される基準として,硫黄酸化物に関しては燃料使用基準(燃料中の硫黄含有率の上限値)
が定められた。
大気汚染防止法に基づく総量規制は,上記のように1974 年に硫黄酸化物に対して,1981 年には窒素酸化物に対してそれぞれ導入された。硫黄酸化物に対する総量規制は,1974年 から1976 年に全国24地域が指定地域として指定され,1978年3月を目標として総量削減 計画が策定された。その結果,達成期限である1978年3月時点で,環境基準達成率は93.0%
に達し,その5年後の1983年には99.4%ときわめて高い達成率を記録した。これらのこと
から、硫黄酸化物の総量規制の目標は十分に達成されており,公害克服に大きな効果があ ったと考えられる。
2 自治体による政策(公害防止協定)
公害防止協定とは地方公共団体,住民団体等が公害を発生させる恐れのある事業活動を 行う事業者とのあいだで,その事業活動に伴う公害を防止するために事業者がとるべき措 置を相互の合意形成により取り決めたものを言う。公害防止協定の結ばれる要因の第一は,
法の不備を補完し,その不徹底の補完にある。第二の要因としては,公害防止協定が地域 の実情に応じた個別的に妥当な公害防止対策を打ち出すのに便利であるということがある。
公害は,当該地域の地形・気象条件・住居や工場の配置など地域の特性に左右されることが 多い。公害対策はこれらの要素を十分に配慮した上で,個別発生源ごとに具体的措置を取 り決めることが重要になる。こうした要請を満たす手段として,公害防止協定が用いられ るようになった。
日本で最初に公害防止協定が結ばれたのは,1952年3月に島根県と山陽パルプ株式会社 江津工場および大和紡績株式会社益田工場との間に締結された「公害の防止に関する覚書」
といわれている。公害防止協定の名前を全国的に有名にしたものとして,1964 年12 月に 横浜市が根岸臨海工業用埋立地に進出予定の電源開発株式会社及び東京電力株式会社と締 結した公害防止協定がある。この公害防止協定はいわゆる『横浜方式』として,法律,条 例と並ぶ地域における公害防止の有力な手段として普及した。その特徴としては,①大気 汚染の現況と予測値等の科学的データを基にしている,②用地分譲に絡めて企業の建設計 画及び公害防止計画を提出させ,それに対して地方自治体が申し入れ,それを企業が応諾 する形をとった,③申し入れ内容はできるだけ具体的に示すことによって企業に自由裁量 余地のないように規定したこと等公害防止対策を具体的に定めた,④世論を背景に締結さ れた,などがある。
図Ⅱ−2 公害防止協定締結状況
62.10.1〜63.9.30の間に締結した協定数
63.9.30現在
有効な協定数 地方公共団体と 企業間の協定数
住民団体と企業間の 協定数 都道府県計 29037 1967 220
政令指定都市 620 47 2
( 出典 日本の大気汚染の歴史)
公害防止協定が締結されると,その後増設や計画変更があるたびに,地方自治体と事業
者は新たな公害防止技術の導入や技術水準に合わせた基準設定のために,協定内容を更新 した。このようなたび重なる協定の締結・更新の中で 1970 年代後半になると,いくつかの 申し入れ事項が共通するようになった。これらの共通事項の中には,「立入調査」,「測定及 び報告」,「費用負担」,「操業停止」等が含まれており企業の恣意性を排除するものとなっ た。
以上述べてきたように公害防止協定は大企業対策については大きな効果があったのだが,
中小規模の事業所,工場に関しては発生施設の数量のわりに排出量が少ないため,個別的 対応を取るのは非効率的である。そこで公害防止協定での経験を生かし,定型化した公害 防止対策を中小企業対策として用いることになり,1970年代後半に入り,これまでのよう な公害防止協定だけでなく公害防止要綱による規制・指導が行われるようになった。
最近では,一定規模以上の開発行為については環境アセスメントが実施されるようにな り,事前防止の役割を果たしている。このような流れの中で,「公害防止協定」は「環境保 全協定」として従来の協定よりもきめ細かいものへと変化してきている。「環境保全協定」
は,環境負荷の少ない,循環型社会を構築するための視点も取り入れたものとなり,企業 の社会的責任と協力を求め,地域住民の健康保護,環境保全と安全に配慮した内容となっ ている。
2章では、公害克服にあたっての国、地方自治体の政策に焦点を絞って話を進めてきた。
そこから、日本に特徴的なこととして次のことがいえる。まず、日本では国による規制よ りも、地方自治体による取組みが優先していたという点である。日本の公害対策は主に自 治体独自の規制や公害防止協定の締結、公害防止条例の制定など、下からの対策が中心で あった。このことは公害という地域性の高い問題を解決する上では大変に有効であったと 考えられる。(図Ⅱ−3参照)
図Ⅱ−3 神奈川県における硫黄酸化物排出量推移
Ⅲ 公害防止投資に対する P U L L 要因
前章までに、公害防止投資に対するプッシュ要因、すなわち企業に公害防止投資に向か わせたさまざまな要因について見てきた。要約すると、次の通りである。高度経済成長期 の中、急激な工業化に伴い公害が悪化し、住民の健康に深刻な被害をもたらすに至った。
その結果、住民は企業に対して公害反対運動を繰り広げ、各地で公害訴訟が展開された。
こうした住民の公害に対する苦情の増大は、まず、下からの政策を促した。自治体と企 業との間に結ばれた公害防止協定がそれである。さらに、国も総量規制に乗り出し、企業 への圧力は一段と強まっていった。以上のような外部からの圧力が、企業を公害防止投資 へと向かわせたのである。
しかし、公害防止投資は、企業にとってはコストであるから、企業に対して汚染の除去 を迫ることは、コストの増加を意味する。そこで、企業のために、公害防止投資を容易に 行えるような措置を講ずる必要があった。そのための政策として極めて有効であったのが、
政府系金融機関による低金利政策である。
企業の公害防止投資を引っ張る誘引として働いた低金利政策は、間接的な補助金と同じ 効果をもつ。低利の貸付金の増加は、企業の公害防止投資額の増加をもたらした。本章で はまず、公害の外部府経済性について簡単にふれ,低金利政策の効果を理論的に見る。そ して,当時の日本の社会的背景を踏まえつつ低金利政策の効果を実証分析する。さらに、
日本における利子率と公害防止投資額の関係について論じる。最後に,低金利政策による 公害防止投資の増加と公害克服の関係を見る。
1 公害の外部不経済性について
文責 分部真弓
企業による経済活動によって引き起こされた深刻な公害は、外部不経済の典型的な例と 言える。そして、外部性が存在すると、市場での取引数量が社会的に望ましい水準よりも 過剰になるという意味で、市場の失敗が発生する。なぜなら、公害のような外部不経済を 生み出す財の生産者は、当該財の生産活動が市場取引に参加しない第三者に及ぼす費用を 考慮せずに、すなわち社会的費用のすべてを負担することなく、生産量を決定するからで ある。
例えば、紙を製造する工場の生産活動が、河川の水質を汚濁し、何らかの被害を発生さ せたとする。しかも、工場側は自ら引き起こした被害に対し、何らの罰則を負っていない とする。この被害は、紙製造企業の生産活動がなかったならば生じなかった不利益である
から、この活動に伴う機会費用である。ところが、経営者の計算する限界費用にこの機会 費用が含まれていなければ、外部不経済が発生する。そしてこの場合、紙の生産量は、最 適生産量に比べて過大になってしまう。
外部不経済の問題は公害問題を述べる上で避けることはできない。しかしながら,この 外部不経済を述べるには,最適汚染水準を決定する必要がある。最適汚染水準を決定する には,環境の価格を知る必要があるのだが,実際問題として環境に価格をつけることは困 難である。そのため,この論文では最適汚染水準といった観点は考慮に入れず,低金利政 策の公害防止投資に対するプル要因としての機能についてみていく。
2 間接的補助金としての低金利政策
文責 芹川 慎哉
ここでは、低金利政策の性格,またその公害防止投資への効果といった観点から話を進 めていく。
(1) 間接的補助金の性格
OECDレポート14によれば、日本における高度経済成長の過程で、深刻な公害克服のため にさまざまな経済的手法が用いられたが、汚染課徴金や課税によるものはほとんど活用さ れず、主に金融、財政上の助成的な誘導装置が柱であったことが報告されている。ここでの 誘導措置が今回の論文でのプル要因としての低金利政策である。
間接的補助金である低金利政策は,汚染物質排出企業が国による総量規制や,自治体と の公害防止協定による厳しい排出規制が鞭だとすると,飴だと考えられる。日本の産業公 害はこのような,飴と鞭の政策によって解決が図られたということができる。
(2) 公害防止投資に対する低金利政策の意義
次に、実際に高度経済成長期の日本における低金利政策について分析する。
日本においては企業が公害防止投資に充当するための資金は市中金利よりもかなり低い 水準に設定され、またインフレなどによる実質金利の低下がよりいっそう企業の負担を軽 減した。投資は利子率の関数であり、それは公害防止投資にとっても例外とはいえない。
しかし公害防止投資は企業によって直接利潤に結びつかない費用でもあり、他の一般的 な設備投資などとは性質が異なる。このため汚染水準を下げるためには、公害防止投資に対 する貸付金の金利を下げなくてはならない。
利子率を公害防止装置を生産するための投資の限界効率とする。このとき企業が利潤の
14 1991年。
みを追求する場合の私的限界効率を考えると、これと市中金利との均衡点は高い汚染水準 をもたらす。
そこで,貸付金利をrからr’へと引き下げることによって,企業への貸付金はLからL’
に増加する。その結果,企業は公害防止設備投資を行うため,汚染水準は pからp’へと低 下する15。低利子貸付をすることで,企業の積極的な公害防止設備投資を促し、汚染水準を 低下させている。企業は市中金利では,汚染水準を低下させることが困難な場合でも,低 金利政策を利用することで一定の汚染水準を達成しやすくなる。
汚染排出者たる企業に対する優遇政策が公害防止に寄与した例として高度経済成長期の 日本をあげることができる。公害防止と経済成長の両立を図らねばならない途上国にとっ て、日本の公害克服の経験は非常に価値のある例といえるだろう。
そこで次に,日本における低金利政策の効果についてみていく。
図Ⅲ−1 利 PME 子
率
r A r’ B
L L’ 貸付金L
p’ C p D
汚染排出量
15 図Ⅲ−1参照
3 低金利政策と公害防止投資との関係
文責 野村 哲也
日本における低金利政策について社会的背景をふまえつつ具体的に考察し,その効果なら びに結果についてみていく。
(1)社会的背景
ここでは1960年代後半から1970年代を中心に見ていく。その理由としては,この時期 が公害問題を語るうえで重要な時期だからである。
図Ⅲ−2を見てみると1960年代後半は高度経済成長の時代だったことがわかる。しかし ながら、1970年代に入ると,1960年代のような成長は見られなくなった。しかも1974年 には実質成長率が−0.2%と戦後はじめてマイナスを記録した。その理由としては,第1次 オイルショックによる急激なインフレーションが考えられる。
このような状況の中で,1974年の総量規制実施など企業に対する環境規制は厳しさを増 していったため,企業は公害防止投資を行わざるを得なかった。
図Ⅲ−2
前年比成長率( GDP)
-2 0 2 4 6 8 10 12 14
1965年度 1967年度 1969年度 1971年度 1973年度 1975年度 1977年度 1979年度 1981年度 1983年度 1985年度 1987年度 1989年度 1991年度
%
前年比成長率( GDP)
(出所 経済白書)
(2)公害防止投資と貸付金の関係
公害防止投資に対する貸付金と公害防止投資との間の関係についてみる。公害防止に対 する貸付業務を行うのは,おもに政府系金融機関である。具体的には,公害防止事業団,日本開
発銀行,中小企業金融公庫,国民金融公庫である。これらの金融機関からの貸付額は,1970 年の公害国会以降の各種の公害規制強化により,1970年代初めに急激に増加し 1975 年に ピークを迎えている。下の図Ⅲ−3は貸付金と公害防止投資の関係を表したものである。
図Ⅲ−3 公害防止貸付金1 6と大気汚染設備投資の関係
y = 0.584x - 118.94 R2 = 0.9188
0 500 1000 1500 2000 2500 3000 3500 4000
0 1000 2000 3000 4000 5000 6000
大気汚染設備投資額(億円)
公害防止貸付金(億円)
図Ⅲ−3は,公害防止貸付金と大気汚染設備投資額(狭義の公害防止投資額)との関係を 示しているが,そこから双方が強い相関関係にあることが読み取れる。このことから厳し い排出規制をかけられた企業は,公害防止投資の貸付金を用いることによって積極的な公 害防止投資をすることができたと考えられる。
(3)金融的背景
次に上で見てきたように企業は貸付金を用いることによって公害防止投資を行ってきた のだが、なぜ企業はこの時期に公害防止投資をすることができたのかについてみる。
企業は経済成長を止めることなく公害防止投資をしたいと考えるのだが、そのためには 何が必要なのかと考えると、当時の日本には投資を誘引すると考えられる金融的背景が存 在していたという点に注目できる。具体的には低利貸付、オイルショックによるインフレ に伴う実質金利の低下などが考えられる。そこで、当時の日本が実際どのような状況だっ たのかについて考察する。
16 公害防止貸付金は公害防止事業団、日本開発銀行、中小企業金融公庫、国民金融金庫の貸付金を合計し たものである。
図Ⅲ−4 貸付金利の推移
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
1966年度 1968年度 1970年度 1972年度 1974年度 1976年度 1978年度 1980年度 1982年度 1984年度 1986年度 1988年度 1990年度
名目利子率(%)
銀行貸出 大企業 中小地方
参考 日本銀行「経済統計年報」 大蔵省「財政統計月報」
図Ⅲ−4は全国銀行貸出の平均金利と大企業の個別公害防止施設、中小企業・地方公共団体 等の個別公害防止施設に対する貸付金の利子率(名目)を比較したものである。
オイルショックや高度経済成長による物価上昇率の推移は図Ⅲ−5 のようになる。1972 年から1974年と1978年から1980年のところで急激なインフレが発生しているが,これ はおもにオイルショックの影響によるものだと考えられる。
図Ⅲ−5 物価上昇率の推移
-15 -10 -5 0 5 10 15 20 25 30
1966年度 1968年度 1970年度 1972年度 1974年度 1976年度 1978年度 1980年度 1982年度 1984年度 1986年度 1988年度 1990年度
物価上昇率(%)
参考 経済企画庁「国民経済計算年報」
図Ⅲ−6 は,名目利子率から物価上昇率を考慮して算出した実質利子率の推移である。
1974 年や1980年などは,実質利子率がマイナスの値を示している。このことは企業の公 害防止投資に大きな影響を与えたと考えられる。
図Ⅲ−6 実質利子率1 7の推移
-25 -20 -15 -10 -5 0 5 10 15 20
1966年度 1968年度 1970年度 1972年度 1974年度 1976年度 1978年度 1980年度 1982年度 1984年度 1986年度 1988年度 1990年度
実質利子率(%)
銀行貸出 大企業 中小地方
(4)利子率と公害防止投資の関係
図Ⅲ−7は実質利子率と大気汚染防止投資額との関係をあらわしている。この図から実質 利子率が低いときには企業による積極的な公害防止投資が行われており,利子率が高くな ると投資額が小さくなるということが読み取れる。つまり,公害防止投資もほかの投資と 同様に利子率の影響を強く受けているということがわかる。
17実質利子率は(名目利子率−物価上昇率)とした。
図Ⅲ−7 実質利子率と公害防止投資の関係
-25 -20 -15 -10 -5 0 5 10 15 20
1966年度 1968年度 1970年度 1972年度 1974年度 1976年度 1978年度 1980年度 1982年度 1984年度 1986年度 1988年度 1990年度
実質利子率(%)
0 1000 2000 3000 4000 5000 6000
大気汚染防止投資額(億円)
大企業 中小地方 大気汚染防止投資額
以上ここまでで述べてきたことを整理すると,次のようになる。貸付金と公害防止投資の 間には相関関係があるということ。二つ目には,公害防止投資は貸付金の利子率の影響を 受けるということである。つまり1960年代後半から1970 年代前半にかけての政府系金融 機関からの貸付の増加,また一般の貸付金の金利よりも有利な金利が設定されていたとい う点,オイルショック等によるインフレがもたらした実質利子率の低下といった要素が企 業による積極的な公害防止投資を誘引したと考えることができる。
その結果,本来ならば公害防止投資を行うことが難しい状況だったにもかかわらず,企 業は公害防止投資を行うことができたと考えられる。以上のことから,低金利政策は日本 の公害克服にとってなくてはならなかったものだということができる。
(5)公害防止投資と S Ox濃度
最後に簡単に低金利政策の効果を見るにあたって,公害防止投資のSOx濃度に与える影 響について簡単にふれておく。図Ⅲ−8 から公害防止設備投資の増加に伴いSOx 濃度も低 下していく様子がわかる。
このように,低金利政策は公害防止投資を誘引し,その結果として公害を克服する上で 大きな役割を果たした。
図Ⅲ−8 公害防止設備投資と S Ox濃度
0 1000 2000 3000 4000 5000 6000
1965年67年69年71年73年75年77年79年81年83年85年87年89年 1991年
公害防止投資額(億円)
0 0.01 0.02 0.03 0.04 0.05 0.06 0.07
SOx濃度(PPm)
公害防止投資額 SOx濃度
参考 環境庁「環境白書」
Ⅳ 日本の経験から
文責 分部 真弓 芹川 慎哉
日本においては、企業に対し厳しい排出基準を課すと同時に、企業の費用負担を軽減す るための措置として低金利政策が実施されてきたことは、これまで見てきた通りである。
そしてこの低金利政策は、企業の公害防止投資を促進し、大気汚染克服へと導いたという 点で、極めて有効な政策であった。そこで本章では、現在深刻な公害問題に直面している 途上国に、日本の大気汚染克服経験の中から、注目すべき点をいくつか取り上げる。
一つは、日本の経験から、公害防止投資を行うためには必ず企業内部に蓄積された資本 が前提になっているということである。企業にとって公害防止投資は、生産と直接関係の ないコストであるから、汚染の低減を迫ることは、必ずコストの増加を意味する。そのた め、公害防止投資に振り向けられる自己資本力の余裕は、公害防止のためには重要な要因 と言える。
実際、近年になって重化学工業を中心とした急激な経済成長を遂げてきた中国などアジ ア諸国における深刻な公害問題は、公害防止のための設備投資の低さにその原因があると 考えられる。そこで、公害防止投資を促進し、環境保全と経済成長とを同時に達成するに は、まず資本を蓄積する必要があると考える。
さらに、公害防止のためのコストを負担することは、短期的には企業にとって生産コス トの増加になるが、長期的には環境技術を生む重要な投資としての効果があることも見落 としてはならない。実際、日本の優れた環境技術は、企業が積極的な公害防止投資を行っ てきた結果、生み出されたのである。
また日本の場合、住民による公害反対運動がまず下からの政策(自治体と企業との間に 結ばれた公害防止協定など)を促し、さらに国による総量規制政策等が実施されるに至っ た。こうした「下から」の環境行政への参加は、途上国の「上から」のケースと大きく異 なり、日本の環境行政に特有のものであり、特筆に値すると考える。
日本の大気汚染克服経験を途上国にそのままあてはめて生かすことは、各国の政治体制、
社会事情、経済状況等が日本の場合と異なるため、困難な点が多いと言わざるを得ない。
しかし、日本の経験から、次のことは確実に言える。すなわち、公害防止のためのコスト が日本経済に与えたインパクトは微々たるものであった、という点である。実際、公害防 止費用の増大は、企業の競争力を深刻に損なうことはなく、日本が諸外国と比べてより高 いGNP成長率や低い失業率、さらに望ましい財政収支を達成することを妨げなかった。従 って、大気汚染克服のためには、成熟した民主主義の上に成り立つ政治システム、また、
企業の公害防止投資を促す法および行政体制を整えて、企業の活動をバックアップしてい くことが、持続的な経済成長に向けての第一歩であると考える。
高度経済成長期の日本においては、急激な大気汚染公害に対応できずに全国各地で被害 が続発した。しかし1960年代末から1970 年代初頭にかけ、激甚な二酸化硫黄による大気汚 染公害を抑えるのに努め、結果としてかなりの成功を収めることができた。
この要因としては日本型公害防止システムが優れていたことがもっとも大きい。ここで いう日本型公害防止システムとは、一定の環境基準を定め、それに見合う規制を企業に課し、
企業がそれを懸命にクリアするというものである。
これが機能した背景は官庁主導の経済政策で企業に対するコントロールが比較的容易だ ったこと、また企業が実際に訴訟を起こされるリスク、世論の高まりなど複合的であり、た とえば統計的に寄与度を割り出すようなことは容易ではない。
一見して企業のインセンティヴは規制をクリアできないことによるディスインセンティ ヴしかないようにも見受けられる。
しかし、ともすれば費用としかいえないような環境防止にかかる予算を投資と見立て、公 害防止関連技術に低金利政策を行うアイディアは画期的である。実際日本経済は公害防止 のもっとも活発であった時期にも減速していないし、これは日本型公害防止システムが機 能していたことを示すものである。
公害防止投資が経済に対し波及効果を生み、また技術革新による利益をも生み出すとい う発想で企業を巧みに誘導できたことは多くの示唆を持っている。
すなわち公害防止において企業と国は協調していたのであり、この協力体制が諸制度で 確立され、日本の大気汚染公害は一応の終焉をみたのである。
〔参考資料〕
・ 呉 錫畢『環境政策の経済分析』 日本経済評論社 (1999)
・ 大気環境学会史料整理研究委員会『日本の大気汚染の歴史Ⅰ』 LATTICE (2000) 『日本の大気汚染の歴史Ⅱ』
『日本の大気汚染の歴史Ⅲ』
・ 原田尚彦『環境権と裁判』 弘文堂 (1977)
・ 藤原聡 篠原啓一『ドキュメント大気汚染』 筑摩書房 (1990)
・ 川名英之『ドキュメント日本の公害』第1巻 緑風出版 (1987) 『ドキュメント日本の公害』第6巻 (1991)
『ドキュメント日本の公害』第11巻
・ 橋本道夫『私史環境行政』 朝日新聞社 (1988)
・ 日本の大気汚染経験検討委員会『日本の大気汚染公害経験』 The Japan Times (1997)
・ 山口光恒『わが国の環境問題』 慶應義塾大学経済学部講義資料 (1999)
・ 飯島伸子『環境問題と被害者運動』 学文社(1984)
・ OECD Environmental Policies in Japan (1977)
・ イェニッケ,ヴァイトナー編『成功した環境政策・エコロジー的成長の条件』 有斐閣 (1999)
・ 植田和弘他『環境経済学』 有斐閣ブックス (1995)
・ マーチン著、藪下史郎他訳『スタディガイド・スティグリッツ ミクロ経済学』 東洋経済 (1997)
・ 植田和弘『環境経済学』 岩波書店 (1996)
・ 公害白書昭和44年度版 厚生省 1969
〔インターネットリソース〕
環境庁ホームページ