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「海外高級ブランドビジネスと日本人」 A9742127 南雲尚子

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2000年度 上智大学経済学部経営学科 網倉ゼミナール 卒業論文

「海外高級ブランドビジネスと日本人」

A9742127 南雲尚子

(2)

始めに

史上最長の不景気と言われて久しいが、日本における海外ブランドブームは加熱する一方であ る。街にはシャネル、エルメス、プラダ、グッチ等の海外ブランドのバッグを持って歩く女性達 で溢れている。また、海外のブランドショップが並ぶ通りでは、日本未入荷のいわゆる“レア物”

や最新作をいち早く購入するために開店 1 時間前から店の前に並ぶ日本人観光客の光景を目に する事ができる。更に驚くべき事には、これらの女性の大半は大学生を始めとした20代の若い 女性達なのである。

売上高は毎年、前年比を大幅に上回り、この元気な日本の海外ブランドマーケットの恩恵にも っとあやかろうと、日本でも1位、2位を争う人気を誇るグッチ・ルイヴィトン・プラダは、そ れぞれ世界最大級と銘打った大型店舗の出店を、ここ日本で実現している。勿論、これはファン にとっても嬉しい悲鳴。洗練されたコンセプトのショップに一歩足を踏み入れれば、そこは正に 外界とはかけ離れた別世界が広がっており、整然とディスプレイされた商品達を眺めていると購 買意欲が刺激され、消費者の財布のヒモは自然と緩み、最高のサービスを味わう事ができるのだ から。しかし、売上が好調なのはバッグや財布を中心とした小物・アクセサリー類で、洋服は売 上高の20%弱にすぎない。価格がべらぼうに高いという理由があるが、本来、これらのバッグ・

アクセサリー類は、そのシーズンのデザイナーの意図が凝縮された上質な洋服に完璧にコーディ ネートするように作られている。発売してからすぐにでも店に駆けつけなければ、希望の物は買 えないという売れに売れているバッグ類でも価格帯はせいぜい5万円が最低ラインで、本来20 代の若者が簡単に手が伸ばせる価格ではない。1ヶ月のバイト代を全額注ぎ込んでまで買いたい 理由を尋ねれば、「カワイイから」というあっさりとした答えが返ってくるだけ。

確かに今、ブランドビジネスは熱い。相次ぐブランドの再編・買収劇でファッション業界も例 外なく生き残りをかけた競争の時代に突入し、古い伝統を守りながらも21世紀に向けて常に変 化し続ける社会への対応を迫られている。そんな中、数年前から老舗ブランドが若手デザイナー を次々と起用し、若返りを図りながらイメージを一新しようとする動きが活発になっている。シ ーズンごとのデザイナー交代劇は珍しい事ではなくなった。

これまで敷居の高かったブランドの多くが、若者の感性に訴えるような商品を次々と打ち出し ているのはこのような事情のためである。しかし、やはり日本は他の国では例を見ないほど、ブ ランド物が大好きな若者が多い。何故なのか。収益面では間違いなく、日本のマーケットは有望 で魅力的だが、果たして、海外ブランドビジネスは日本で成功を収めている、あるいは定着して いると言えるのだろうか。

何故、日本で海外高級ブランドはこれほど若い人達に受け入れられるのだろうか。

ヨーロッパにおけるハイファッション・ブランドビジネスの歩みとブランドマーケティングが

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ファッションビジネスに取り入れられるようになった過程、日本に初めてブランド物が紹介され てきた経緯、そして現在の繁栄に至るまでを明らかにし、ファッション論を展開しながら、この 疑問を検討したいと思う。

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1 章

ブランドの歴史

まず初めに、そもそもブランドとはいつどのようにして成立したのか、というところから見て いく必要がある。

1.リゾートの時代

話は大英帝国時代に遡る。ブルジョアジーと呼ばれる上流階級の人々の間では、冬の社交シー ズンはロンドンで過ごし、夏は田舎で過ごすリゾート文化が定着していた。夏に好まれたのは言 うまでもなく、ブライトンに代表される海辺だった。やがて産業革命による急速な都市化と、資 本主義時代の到来によってこれまでの華やかな貴族文化は終わりを告げた。都市化の進展と共に、

中産階級の人々は、都市の喧騒と汚れた空気から解放され、疲れを癒してくれる健康的な娯楽を より強く求めるようになった。時は、1841年。鉄道が開通し、本格的なリゾート時代の幕は 開けた。

リゾート地では、男達は都市での制服となったダークスーツを脱ぎ捨て、白の上下におしゃれ なカフス、ネクタイのかわりにスカーフをあしらったカントリースタイルを好んで着用した。女 達は、都市での服装とはほとんど変わらないカジュアルとはかけ離れたドレスがまだ主流であっ たが、リゾート化の波は女達の服装にも解放をもたらした。ワンピースよりも脱ぎ着が楽なツー ピース、即ちスーツがこの時代から女性のモードに取り入れられるようになった。もちろん彼ら が着用したスーツはテーラーメイドが基本で、仕立ての良さが物を言った。

およそ1世紀の流れと共に、イギリス資本主義とフランス資本主義の力関係が逆転した。20 世紀初頭のバリは絵画、文学、演劇、音楽・・・全ての芸術領域に渡って輝かしい才能を世界中 から集めた「ヨーロッパの首都」となった。同じ事はリゾートとにも言える。イギリスに遅れる こと 1 世紀、フランスにも本格的なリゾート時代が到来。ベルエポックの自転車ブームに代わ り、自動車が誕生し、週末やヴァカンスをカントリーで過ごす生活様式が広まって行った。

ここで注目すべきは、ベルエポック時代の上流階級の旅は、現在私達がするような旅仕度とは 全く異なっていたという点だ。少ない枚数で済むように着回しの利く服を数パターンと、旅行用 のコンパクトな洗面道具を持って行くのではないという事である。彼らは日頃使っている愛用の 品々をそっくりそのまま旅先に運んでいた。滞在地でもそのままの暮らしをするために、日頃の 愛用品は全て旅先に携えてゆく、というのが19世紀の上流階級の旅のスタイルだった。

日本で人気のルイ・ヴィトンは19世紀後半からの旅行ブームと共に社名を築き上げた、世界 一のトランク商である。そもそもルイ・ヴィトンの出発点は、トランク商以前に荷造り用木箱職 人兼梱包業者だった。第二帝政時代、ルイ・ヴィトンは皇妃の衣装を箱に納め、行く先々にお召 し物を運ぶ皇室御用達の業者であった。豪華な衣装を無駄なく、傷つける事がないように箱に納 めて運搬する事が、彼の役目であった。富裕な階層の人々は、ドレスやアクセサリーを納めるト ランクから、帽子、靴、ティーセット、化粧品、本・・・にまで、高価なトランクを幾つも旅先

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に運ばせて、豪勢な旅を楽しんでいた。

高級馬具工房・エルメスは1880年に現在の本店であるフォーブル・サン=トノレに店を構 えた。サン=トノレは当時、おしゃれな馬車が行き交うパリのハイライフの舞台・ブーローニュ の森近くに位置していた。馬車で森を行き交うのは、上流階層の人々の日課であり、社交の場の 1つであった。そのため、馬車や馬の鞍は洋服と同じ位ファッショナブルで洗練されている必要 があった。

20世紀に入るとヨーロッパでも自動車が流行し始めた。アメリカでは既にフォードがフォー ドシステムを立ち上げ、大量生産、大量消費の時代が始まっていた。馬具商のエルメスにとって は、馬車の時代の終焉は商品そのものの終焉を意味したが、3代目の社長エミール・モーリス・

エルメスは鞍造りの技術を別の革製品、ハンドバッグや革ベルトに活かした。時は1920年、

女性達が家の外に出始めた時代の動きを彼は見逃さなかった。これまで顧客のほとんどが男性客 だったエルメスが、女性のブランドになった。また、エミール・エルメスはアメリカの大量生産 に対決した。大量生産・大量消費が広まれば、職人芸でしか作れない高級品はますますその価値 を増してゆくのではないか、彼は未来をそう予測した。彼は「稀少性」というブランドの本質を よく理解していたのだ。彼の方針はそのまま引き継がれ、1970年代に多くの会社が採用した ライセンス方式を断固として拒んだ事にも表れている。ライセンス方式とは、自社以外で製造さ れた製品に自社の名前を貸すシステムだが、結果として大量生産を招き、商品の稀少性は薄れる。

エルメスはアンチ・アメリカン・システムに徹する事で「エルメス」ブランドを世界のマーケッ トに高く売りつけてきたのである。

2.20世紀モードの始まり

モードの歴史は20世紀初頭ポール・ポワレの出現によって幕を開けた。1900年のパリ万博 以降、世界中から婦人達がオートクチュールをあつらにパリへやって来た。

ポール・ポワレは正に新世紀のクチュリエであり、20世紀モードの創始者である。そして彼 はファッション産業における“デザインという無形の価値とデザイナーのネームバリュー”をよ く理解していた。実際、彼のモードは画期的で彼こそがコルセットのない自分で着られる衣服を 流行させたクチュリエなのだ。

またポワレは商品としての商標、すなわちブランドネームにこだわり続け、自分の店の全商品 にこの商標を付けた。ブランドネームの宣伝にも力を注いで、宣伝旅行まで企てるなど、衣服の センスを備えたクチュリエは「広告」というメディアの力も見抜いていたのだ。

ポワレはメディア先進国のアメリカに渡った最初のクチュリエでもあるが、彼はどこでメディ アの力が予想以上に大きい事を思い知らされる事になる。何故ならアメリカでは、ブランドネー ムの盗用がまかり通っていたからだ。美しいものからぞっとするようなデザインの商品にまで

「ポワレ」の名が刻まれているのを目にしたと言う。

第2次世界停戦以前のアメリカには既にオートクチュールの商品が大量に出回っていたよう

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だ。一握りの有閑気球に混じって、アメリカのバイヤー達はオートクチュールをあつらえるため に、大西洋を渡った。彼らはパリのクチュリ絵のサロンでコレクションを見た後、1点のみにつ き異なるサイズを何着も発注して行った。つまりアメリカ市場では、当時すでに“ready to wear”

=プレタポルテのシステムが事実上存在し、顧客のサイズに合わせて服を作る必要など無かった という事だ。

更に、ここで注目すべき事は、ブランドネームが、ポワレの名が広く認知されていたという点 だ。これはメディアの影響力のすごさを表している。特に、メディアはフランスのような階級社 会よりもアメリカのような平等社会でこそ大きな力を発揮する事ができる。前者で力をふるうの は、狭い社交界でのうわさや口コミだが、後者ではマスコミだからだ。この事を如実に表す例を 1つ挙げてみよう。

ここで、メディアというのは特にモード雑誌をさすが、芸術的センスに富むポワレは画家の才 能を発掘する鑑識眼にかけても比類なかった。1910年には早くも2冊の作品集を出版し、工 法旅行の折にはやがてアール・デコのマイ品であるモード雑誌「ガゼット・デュ・ボン・トン」

で活躍することになる画家を助手として雇っている。そしてこれらの作品集は限定250部とい う、いかにもフランス的メディアなのであった。

1909年、ポワレが初のイラスト集を出した翌年、アメリカでVOGUEが創刊された。モ ード雑誌を大衆に届けようという野心を持った出版業者・コンデナストは1918年、経営難に 陥った「ガゼット・デュ・ボン・トン」を買収し、画家達にVOGUEの表紙を描かせた。

フランスが才能を提供し、アメリカがそれを量産してマスメディアに仕立てた格好の例である。

あくまでフランス的手法にこだわり続けたポワレの名は早くも30年代には忘れ去れて行く こととなった。

ポワレに代わって台頭したのは、ココ・シャネル。

抜群のビジネスセンスに長けたシャネルは、ポワレとは異なり、圧倒的多数に求められという 事の意味をよく理解していた。彼女はマスメディアを肯定し、アメリカ市場を征服してゆくので ある。

3.マスメディアとファッションの関係

シャネルの成功はマスメディアの力、すなわちVOGUEの繁栄を知る事なしには語れない。

そもそも何故アメリカがマスメディア先進国となりえたのだろうか?

答えはいたってシンプルだ。デモクラシーの国・アメリカは他のどの国にもました激しい競争 社会。名も無い匿名のマスとして暮らす誰もが有名な名を夢見て生きているのだ。誰もが上昇志 向に駆り立てられ、差異を求めて競い合う社会的土壌が根付いているためだ。

20世紀初頭のアメリカではすでに数百万部に達する女性誌がいくつも出回っていたが、コン デ=ナストは全てが大衆路線に向かうアメリカ・メディアには存在しないハイブロウなせんスを 狙い、高級志向を打ち出した。

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1920年代当時のヴォーグには大衆の国・アメリカには存在する事のない夢のようなイギリス やフランスの貴族社会のハイスタイルが描かれた。VOGURの存在なしには、輝かしいクチュ リエの名が知られる事はなく、言い換えれば、メディアが存在したからこそ、それらの名はマス の憧れをそそりたてたのである。

しかし、この事は読者がオートクチュールのオーダーの数を増やしたという事を意味するので はない。前述したように、アメリカのプレタポルテ産業はヨーロッパのどこよりも進んでいた。

実際、VOGUEにはグラビアとは対照的に地味で細かい字でびっしり紙面をうずめたドレスメ ーカーの住所とアドレスを載せた広告ページがあった。VOGUEは言わばコピーのための装置 だったのだ。裕福なアメリカの中産階級はオートクチュールのコピー商品を身に着けていた。

4.シャネルとアメリカ

シャネルはアメリカ市場を征服した最大のクチュリエである。彼女の名をモード界に広めたの は1916年のHARPERS BAZAAR、そして翌年にはVOGUEの記事に掲載され、

以来シャネルはアメリカ版VOGUEのスターとして毎号のようにページを飾った。

シャネルとポワレの最大の違いは、アメリカのマスメディアを受け容れたか否かという事であ る。シャネルはこの国の既製服を肯定し、自信の作品のコピーを「賞賛と愛のしるし」として大 いに喜んだ。シャネルの狙いは自分のデザインが量産されて大衆に消費される事だった。普及す ればするほど、シャネルの名はもっと多くの人に知られることとなり、有名になれるからだ。

しかし、シャネルが本物の価値を否定したわけではない。

コピーが多く出回るほど本物は益々希少性を帯び、価値が上がる。そして、本物のシャネルは 選りすぐった生地、仕立てのよさ・・・素晴らしい高級感にあふれていたので、量産品と間違え られる事などありえもしなかったのだ。平然と偽者の量産を許容したのも、オートクチュールの 品質に絶対の自信があったからである。

5.モードの大衆化

戦争の機運が第2次世界大戦が勃発した1931年、シャネルは早々とメゾンを閉めた。戦時 中、パリはドイツの占領下にありオートクチュールも存続の聞きに瀕した。しかし、2つの世界 大戦は19世紀の上流社会を失わしめ、その生活の様式も同時に過去のものにしてしまった。

世界的な歴史の趨勢の中、クリスチャン・ディオールの登場でフランスファッションは活気を 取り戻したかに見えたが、1960年代以降になると、存続をかけての変容を迫られることとな り、プレタポルテ部門の開設、ライセンス契約、化粧品事業など幅広い試みがなされるようにな った。

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6.混迷と模索の時代

ハイファッションブランドのプレタポルテ部門がオートクチュールに代わって台頭、定着し現 在の発展と拡大に至るまで、どのメゾンにも混迷と模索の時期が見受けられた。

1960年代はプレタポルテ部門が相次いで開設され、1970~1980年代はデザイナー ブームが巻き起こり、ランウェイには派手で突飛な現実離れしたファッションが氾濫した。

またいくつかの老舗メゾンでは創始者がこの世を去り、後継者問題に頭を悩ませ、新しいデザ イナーのもとでトップブランドの地位を守るべく再出発しなければならなかった。

ファミリー経営が中心のイタリアのブランドではグッチ家のように親子・兄弟間での経営権取 得を巡る抗争に明け暮れ、やがてはマウリツィオ・グッチ暗殺という血なまぐさい事件によって、

グッチの顧客はこのブランドを離れて行き、ブランドの知名度は完全に地におちた。

ジャンニ・ヴェルサーチも同時期に暗殺されこの世を去った。

これまでは顧客だけを相手にして来ればよかった。そして、ファッション熱が高まった80~

90年代初めまでは誰もがブランドに熱狂し、ブランドの名前だけを頼りにしていればよかった。

ショーそれ自体の存在意義が高まり、CNNを始めランウェイの映像が紹介される番組が登場し、

シャネルと独占契約を結んだ貴族出身のモデル・イネス・ド・ラ・フレサンジュの登場を機にシ ンディ・クロフォードやクラウディア・シファーなどの1日に何億円と稼ぐスーパーモデルブー ムが巻き起こったのもこの時期である。

日本でバブルが崩壊し、ヨーロッパ経済が不況を迎え失業率が高まり、一方でアメリカ経済が 繁栄の時代を迎えるための基盤を着々と固めていた頃、不特定多数の人にいかにして効果的に自 社ブランドを認知させ、購入させるのかといったマーケティングの重要性が次第にハイファッシ ョンビジネスにおいても注目されるようになった。

強い企業だけが生き残れる時代を迎えた今、ファッション業界もその流れとは例外なく無縁で はなくなった。相次ぐ買収劇とデザイナー交代劇。デザイナーは服のデザインだけでなく、自分 の服が売れるための効果的な戦略を編み出し、後ろ盾となってくれるような経営者とのチームワ ークで勝負していかなければならないのだ。

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2 章

ファッションビジネスの確立

混迷と模索の時代から既に巧みなファッションとマーケティングのセンスを兼ね備え、一大フ ァッション帝国を築き上げ、後のファッションビジネスの在り方を変えたデザイナーがいた。

ジョルジオ・アルマーニである。

1.天才ジョルジオ・アルマーニ~アルマーニ帝国を築くまで~

ジョルジオ・アルマーニは世界でも最も売れるデザイナーの1人であり、1975年にファッ ションハウスを開始して以来、ファッションの革命児と呼ばれるにふさわしい実績を残してきた。

有名人から「アルマーニを着てさえいれば間違いない」という支持を得ただけでなく、彼は新 世代キャリアウーマンの財布の紐を緩めることができた数少ないデザイナーの1人である。

シックで斬新なルック。パッドや芯を使わないだらりとしたシルエットのやわらかいスーツは 最高の素材が使われており、着る者に洗練された印象を与える。

「変化はわずかでなくてはいけない」。これが彼の服作りにおける哲学である。特に挑発的で 突飛なコレクションを展開し、ファッションの前身を強調するデザイナーが台頭した1980-

90年代前半に、彼は冒険をしない特異な存在であった。

アルマーニが最初からハイファッションの服のブランドとして確固たる地位を確立する事が できたのは、巧みなマーケティングセンスにもあった。

彼はプロモーションの展開においてセレブリティの影響力に着目し、彼らを味方につける事で 客をも店にひきつけることに成功した初のデザイナーだからだ。

ハリウッドで特に影響力と注目度の高いトップ暮らすの俳優、監督、プロデューサーに服を着 せる事でアルマーニの名は数々の新聞、雑誌、TVに出ることになる。リチャード・ギア、ジョ ディ・フォスター、ソファイア・ローレン、亡きジョン・F・ケネディ・Jr、NBAのパット・

ライリー監督等。

彼の客達は一般読者が読みたがり、見たがる面々ばかりだ。特に、モデルではなく、敢えて有 名人を広告塔に据える事で、確実に消費者の心を捉える事ができる。

何故か。

有名人の方が現実の人間に近いという感覚を我々消費者が持っているためだ。有名人には何か と映画やドラマで見る機会も多いため、昔から知っているような気になり、気持ちの上で自然と つながりができているためだ。

いつかのアカデミー賞はアルマーニナイトと化した。その夜輝いていた女優達は皆、アルマー ニを身に着けていたのだ。彼は一本もオスカー像を家に持ち帰る事なく、アカデミー賞を制覇す る事ができた人物だと言われるようになった。

アルマーニがハリウッド市場を席巻し、確実に消費者の心を捉えていくと、スターの影響力を ファッションの後押しに利用するという新しい規範が生み出され、業界はこぞってこれを模倣す

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るようになった。

余談になるが、だから特にここ数年のアカデミー賞では「誰が何を着るか」という予想レース と当日はファッションジャーナリスト達による批評の話題で大いに盛り上がるようになった。

最も輝いている旬のスターのもとにはアカデミー賞直前になると、何百着ものドレスがデザイ ナーから送られて来るそうだ。

オスカー像を獲得する事と、ベストドレッサーの栄冠を勝ち取ることの両方に女優達は専念し なければならなくなったと言えそうだ。

2.フランス VS イタリア

「モードは芸術である」と信じたポール・ポワレのように、現在でも特にフランスのデザイナ ー達は、売れるかどうかという事よりも洋服に芸術としての美を求める傾向があり、マーケティ ング面での強化を怠ってきた。

先ほど紹介したようにアルマーニに代表されるイタリアのデザイナー達の方がマーケティン グを早くから重視し、大衆の心を捉える術を心得ている。イタリア人はアメリカ人のものの考え 方や習慣をよく知っており、何がホットなのかを目ざとく見つける才能を持ち合わせているよう だ。

理由は様々だが、1950-60年代頃からイタリアのデザイナー達は文化的にハリウッドに ひきつけられてきた。おそらくこれはイタリア国内にも映画産業が育ち、また、フランスと違い、

イタリアには王族が存在しなかったため、映画スターに憧れのまなざしを送っていたためだとさ れている。それに対して、フランスのオートクチュールサロンでは上流階級の不興を買う事を恐 れ、映画スターのためのドレスの製作を引き受ける事などはできなかったのだ。実際にブリジッ ト・バルドーのドレスの製作を依頼されたクリスチャン・ディオールのサロンはこれを丁重に断 っている。

フランス人デザイナーはアート性の高い服を、イタリア人やアメリカ人はリアルクローズを作 る。

イタリアのファッション産業が着々と力をつけ躍進し始めた1980年代になっても、フラン スはイタリアの台頭をあまり気にしてはいなかった。中東とアメリカに新世代のファンが生まれ、

オートクチュール人気が再燃し始めていたからだ。しかし、湾岸戦争勃発と共に、オートクチュ ールの売上は再び落ち込み始めた。

オートクチュールの損失を補う手軽な方法として、フランスのブランドは主に日本の市場でラ イセンス契約に手を広げ、事業を拡張しすぎて、その結果、ブランドネームに傷を付けた。クリ スチャン・ディオール、ソニア・リキエル、エマニュエル・ウンガロ、ジバンシィ然り。

そんな中でもマーケティングの重要性を理解していたフランスのブランドのデザイナーもい た。

シャネルが1982年にチーフデザイナーとして招聘したカール・ラガーフェルドである。

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3.ファッションはビジネスである~甦るシャネル帝国~

1982年にシャネルはココ・シャネルの亡き後、新しいデザイナーを迎えたものの、かつて の栄光を失い、ブランドネームは失墜する一方だった。

そこで迎えたのが5ヶ国語を操るドイツ人デザイナー・カール・ラガーフェルドである。彼は 自身のブランドだけでなく、クロエ、フェンディなど数多くのブランドを手掛けてきた。また、

古くから親交を続けてきたファッション界で最も影響力を持つ米VOGUEの編集長・アナ・ウ ィントゥアー―どんなメゾンも彼女が席に着かないことにはショーを始める事はない。例え彼女 が1時間、それ以上遅れて来たとしても―にも「カールは売り方とマスコミのひきつけ方を良く 知っている」と言わしめている。

彼のシャネル帝国は洋服、化粧品、アクセサリーで年に実に10億ドル以上を稼ぎ出すまでに 成長した。しかも他の多くのフランスのブランドと異なり、ライセンス契約はただ1つとして結 ばずに。

本人も認めるところだが、彼のマーケティングとデザインのセンス以上に、運がよかった事も 確かだ。ココ・シャネルが生み出した不朽のシンボルをこのブランドは多数抱えていた点が有利 だったからだ。ツイードのスーツ、カメリア、CCマーク、チェーン付のキルトのハンドバッグ にベージュと黒のコンビのパンプス・・・。彼はこれらの一目でそれとわかるモチーフを見事に 現代風に味付けし、昔からのファンを喜ばせただけでなく、新しいファンを獲得する事に成功し たのである。

彼はパリファションの体制派を嫌い、自らアウトサイダーを自認している。過去のファッショ ンにしがみつくパリのプレステージを恐れたりせず、アメリカ人やイタリア人のように面白い物、

そして売れる物を作っていくべきだと。

4.新生グッチ~デザイナー=クリエイティブ・ディレクターの時代~

フィレンツェの名門、高級皮革製品ブランド・グッチの創始者であるグッチオ・グッチがこの 世を去ってからというもの、グッチ家では経営権を巡る争いや兄弟間の経営方針の違いが浮き彫 りになり、抗争が絶えなかった。その間にもグッチのブランドネームは傷つき、次第に顧客は離 れていくのだった。やがて、経営権の半分を握るマウリツィオ・グッチが暗殺され、一家には血 なまぐさいイメージが付着し、それが決定打となり、グッチ家の株はアラブの巨大資本・インベ スト・コープによって買収された。

インベスト・コープは新生グッチの旗手として、1992年にアメリカ人の若手デザイナー・

トム・フォードをクリエイティブ・ディレクターとして起用し、トムのモダンでシックでセクシ ーなデザインによりグッチはその傷ついたイメージから回復し、輝かしい復活を遂げた。

トム・フォードの起用に刺激され、老舗メゾンは相次いで若手デザイナーを起用し、老舗独自の

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伝統とオリジナリティーを生かしながら若返りを試みている。

5.自分らしいファッションを求めて

1995年頃からヨーロッパ経済全体は失速し始めた。フランス経済も苦境に陥り、例外なく ファッション産業も痛手を受けた。

1987年に株価暴落を経験し実用主義に移行したアメリカ経済社会では、フランスのファッ ションは評判を落とす一方で、アメリカの裕福な階級にはプラダ、グッチ、アルマーニというイ タリアの(リアルクローズの)ビッグ3の人気に火が付き、対抗できないでいた。

一般大衆の間では、GAPやバナナリパブリックなど、リーズナブルでデザインと着心地の良 い服が求められるようになった。

消費者達は賢くなったのだ。

誰もがファッションに浮かれた1980年代―90年代のように、今はファッションジャーナ リストの批評や有名人が何を着ているかなどは関係なくなった。

何を着たら自分を1番美しく見せる事ができるのか、決して無理をせず、肩肘を張らずに。消 費者の関心はそこにあるのだ。消費者は自分のライフスタイルに合う服を探し求めている。

ブランドのデザイナー達も苦難の道を乗り越えてようやく理解し始めたのだ。消費者が求めて いる服をデザインするべきなのだと。

6.ブランドマーケティング

ファッション業界の競争が激化する中、マーケティングの重要性はこれまでより一層重要性を 帯びてきた。

大切なのはブランドネームや服のデザインだけでなく、マーケティングのセンスも成功の決め 手となるという事だ。

間違った戦略を進めていけば、それは直ちにブランドネームの失墜につながり、消費者はすぐ に別のブランドへスイッチしてしまう。

先述したように、グッチ氏の暗殺事件を始めとするファミリーの相次ぐ内部抗争は美しいグッ チの製品に魅せられた顧客を離れさせてしまうのにそう長い時間はかからなかった。

それでは、ブランドビジネスにおいて大切なマーケティングのルールは何だろうか。

それは一貫したブランドアイデンティティを明確に表現していく事だ。

顧客と共鳴し、競合企業との差別化を行い、組織が行える事、またこれから行おうとしている 事を明確に表現していかなければならない。イベントによるプレスや顧客との結びつき、新規マ ーケットの開拓、伝統を維持しながらも新しい時代に対応していく柔軟性、製品のデザインと品 質の保証、アフターサービス、所有する事によって得られる満足感、組織の人間1人1人がブラ ンドに対して責任を持つ事。製品、組織、人、シンボル・・・これらの事全てに1つとして手抜

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かりがあってはならないのだ。

事業拡張の際には一層注意が必要だ。目先の利益が目当ての計画性のない安易なライセンス契 約やサブブランドの設立による拡大化は、既存のブランドをもリスクにさらす事になる。一度、

製品がマスマーケットに投入されてしまえば、消費者はメインの既存ブランドとの区別なしにサ ブブランドを認識するようになる。一度、消費者の記憶に植え付けられたイメージを完全に払拭 するためには相当なコストがかかる。従って、既存のブランドが大きく認知度やイメージが高け れば高いほど、注意が必要となる。

7.アメリカ人デザイナーの秘密

グッチのトム・フォード起用以来、老舗メゾンでは若手デザイナーを起用する動きが相次いで いるが、特にアメリカ人デザイナーの活躍が目立つ。そして一重に服のデザインだけでなく、ブ ランドのイメージ戦略、ビジネス戦略、商品自体への戦略など様々な目的をデザイナー自身が統 括して展開していく事が求められている。

これらの若手デザイナー達にアメリカ人が多いというのは、彼らがビジネスの国であるアメリ カで鍛えられて来たからこそ、という理由に他ならない。

現在、老舗メゾンの購買層のターゲットは特権階級に代わり、働く女性達である。そして、ニ ューヨークのファッション自体が、もともとキャリアに向けた服作りを主流に成長して来た。

グッチのトム・フォード、セリーヌのマイケル・コース、ロエベのナルシソ・ロドリゲス・・・

などニューヨーク出身のデザイナーが確実にファッションの波を変え、洗練されたリアルクロー ズの提案によってハイファッションのマーケットに活気と新しい息吹を吹き込んでいるのだ。

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3 章

日本におけるブランドビジネス

さて、これまで見てきたように、ハイファッションビジネスは当初は王室や貴族など、一握り の特権階級のために始められ、今でもターゲットの中心は裕福な階層、もしくは30代後半の働 く女性達である。(ただし、セレブリティや芸能人は除く)

しかし、日本では購買層の多くが20代の女性である。景気は一向に回復しないというのに、

ブランド物のマーケットに関しては不景気とは無縁のようだ。売上は2ケタ成長を更新し、快進 撃を続けている。

好調な日本のマーケットは、ここ数年でこれらの高級ブランドのメガ級の路面店が銀座や青山 を中心に続々とオープンしている事からも伺える。2000年だけでも関東地方に老舗系で、

プラダ(丸の内)

エトロ(銀座)

エルメス(丸の内)

マックス マーラ(銀座)

ルイ・ヴィトン(銀座松屋、国内最大規模。オープンの日は1時間待ちの行列)

以上の6店舗が、新進気鋭系でも、

マーク・ジェイコブス(青山、ヴィトンのプレタポルテを手がけるアメリカ人デザイナー)

アルベルタ・フェレッティ(青山)

マルタン・マルジェラ(代官山、エルメスのプレタポルテを手がける“アントワープの6人衆”

の1人)

が路面店やデザイナーのコンセプトショップを展開している。

また、2001年には、プラダ、ヘルムート・ラング(ブラダグループ)、エルメスなどが新 店舗のオープンを予定している。(日程は未定。)

更には、2000年の5月にはシャネルが恵比寿ガーデンプレイスで総額約4億円もの費用 を投じて、日本で最大規模の野外ファッションショーを行い、業界関係者や顧客のみならず、普 段はショーを目にする機会のない一般の消費者にもオープンにする事で、その魅力をアピールし た。その効果もあり、2000年秋冬プレタポルテコレクションは売上が前年比を実に20%も 上回るという結果を見せた。

日本のマーケットは実に魅力的で、各ブランドの経営者達は更なる市場拡大を急いでいる しかし、何故ブランド物がこんなに売れるのだろうか。

インターネットのあるサイトでは、大半の女性達がブランド物を購入したい理由として、「品 質・デザインが良」く、「持っていて大きな満足感を得られる」という点を理由に挙げている。

高価なブランド物を買うために、彼女達は働いて稼いだお金を貯めて、日頃頑張っている“自分 へのご褒美”として1つずつアイテムを増やしていくのだ。

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20代が中心の女性達に良く売れるとは言え、ブランドの経営者達は市場拡大に対応してはい るものの、決してこの若い世代をターゲットの中心に据えているわけではない。

私は日本でこれほどまでに高級ブランドビジネスが大きな成功を収めている要因として、

・明確な戦略と綿密なブランドリーダーシップ

そして、ブランド物を流行らせる外的な要因として、

・ メディアと日本の教育

が深く関わっているのではないかと分析している。他にも、単純に消費者の目が成熟したとか、

パラサイトシングルの増加など、様々な社会問題を挙げる事もできるかもしれない。

3章では、日本に海外ブランドが紹介されて来た経緯を踏まえながら、この2点を中心に話を 進めて行きたいと思う。

1.海外高級ブランドの日本上陸

日本でいわゆるブランド物感覚が成立したのは1970年代のこと。

そして、初めて日本にも海外の高級ブランドが上陸したのが1953年。洋装が一般的になっ たとは言え、日本はまだ戦後の貧しさの中で生きていた。

1954年、「ローマの休日」や「麗しのサブリナ」が日本でも封切られ、人々は貧しさの中 で遥か遠くの国のモードに夢を抱いていた時代である。

1960年代になると、ミニスカート旋風が日本を巻き込み、高度成長の真っ盛りを迎えてい た。

1970年代、ついにカルダン、サンローランなどパリのクチュリエ達の名がメディアを通し て日本にも届き始めた。そして、1970年代と言えば、「ELLE JAPON(現在のan

-anの原型)や「JJ」など、女性誌の創刊が相次いだ。

繁栄を極めた1980年代のバブル期に、日本の若い女性達はこぞってエルメスやシャネルな どのブランド物を手に入れるようになった。

1度手にしたブランド物の良さは忘れられる事はなく、バブル崩壊後、一時は売上が低迷した ものの、本物志向を求める若い女性達が増加し、不況が深刻化するにつれかえって売れ行きも良 くなっているようだ。

2.巧みな経営戦略

ブランドビジネス成功の背景には、過去の失敗の反省を活かした巧みなマーケティングと明確 な戦略によるものである事には間違いない。

ここ数年、シャネルを始めグッチやルイ・ヴィトンは通常の春夏・秋冬コレクションに加え、

クルーズラインを打ち出し、市場に投入し始めた。

クルーズラインとは、富裕層が、寒い季節に暖かいところへ旅行する時に持っていくための洋

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服というのをコンセプトに作られている。

クルーズラインが投入された理由としては2つある。

1つ目は、秋冬コレクションが雑誌での露出が始まる9月号から、春夏コレクションの露出 が始まる1月号まで、商品の掲載を持たせるのがきついという事。つまり、シーズンの終わり が近づくに連れ、人気商品を中心に完売してしまうので、完売した商品についは露出を続けてい く事ができないし、売れ残っている商品については人気や反響が少ないものなので、そればかり を雑誌クローズアップしてもらうわけにもいかないのである。従って、隙間の季節に雑誌や店頭 の目玉として投入できるラインが必要だったのだ。

2つ目は、各ブランドがクルーズラインに力を入れるようになったのも、多分に日本のマーケ ットを意識しての事という点に注目したい。何故なら、日本には季節に応じて梅春もの、初秋も のがある。手に入れることが可能な期間も短いのでレア感もある。特に日本の消費者はレア度の 高い物にはよく反応する。

クルーズラインは日本市場が世界を刺激して実現したと言っても過言ではないのである。

先述したメガショーの例やシーズンごとのテーマに基づく各ブランドの広告展開、徹底した差 別化など、海外のブランドは自分のブランドを消費者に鮮明に印象付けるのに熱心であると共に、

消費者が喜ぶツボを実によく押さえている。

例えば、先ほどのクルーズラインの話に戻ってしまうが、シャネルはここでも革新的な試みに 挑戦している。

アメリカのVOGUEと手を組み、VOGUEのサイト上でクルーズラインのショーの様子を 流した。そして、1週間という短い期間に、サイト上でクルーズラインの受注を受け付けた。消 費者はサイトを訪れて、お気に入りのコーディネートをクリックすると、あらゆるアングルから 写した商品の拡大写真を見る事ができ、希望すれば、VOGUEのシニアファッションディレク ターからアドバイスを受けることができる、というものだ。アメリカだけの世界初の試みであっ たが、今後もインターネットでコレクションを中継するという試みは、日本でもこれからも広が って行くに違いない。

反対に、日本のアパレル業界ではファーストリテイリングやオンワードなど一部の有力企業以 外は明確な戦略を打ち出す事ができず、強者に追随しているだけのやり方が目立つ。

例えば、そのシーズンに流行りそうな服をどこのメーカーも同じような服を一斉に作って売っ ている点だ。

明確な差別化がされない限り、消費者の心に長く記憶してもらう事はできず、気まぐれな消費 者にたまたま見つけてもらって購入してもらえるのを待つだけになってしまう。

3.メディアとブランド物

もう1点、日本人の若い人達にこれほどブランド物が素直に受け容れられるようになった理由 としては、やはりメディアの影響を見逃す事はできない。

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1970年代後半に創刊されたJJなどのブランド志向雑誌は50万部の大部数を誇る大衆 向け雑誌で、中を見ると、商品カタログ的性格が強い事がわかる。

それに対して、欧米のVOGUEのように人々から幅広く支持を得ているかのようなファッシ ョン雑誌でさえ、ヨーロッパのハイソサイエティと比べるとはるかに広いマスをターゲットにし ているとは言え、日本のファッション雑誌よりも読者層ははるかに狭い。つまり、VOGUEで 描かれている世界は未だに「夢」の中の世界にすぎないのだ。これらは富裕層や一部のファッシ ョニスタ達以外の消費者にとっては夢見るためのメディアなのだ。

先述したように、アメリカにおいては夢の実現は本物を真似たコピーを仕立てる事だった。ア メリカがパリモードの絶好のマーケットだったのは、あくまでプレタポルテ産業を通しての事だ ったのである。

最近になって、富の偏在が日本でも叫ばれるようになったとは言え、ヨーロッパやアメリカの ような歴然とした階級社会の壁は日本には成立していない。ブランド物が広がっていくのは、

「一億総中流意識」故、とする声が多いが、理由はそれだけではないのである。

私達はメディアで伝えられている事の正当性を評価するための教育をほとんど受けて来ない で育った。

特に近年、イギリスを始めとして、欧米では、「適切な規準や根拠に基づく論理的で偏りのな い思考」を形成し、メディアに対して常に批判的な目で接する能力を養う事を目的とした「メデ ィア・リテラシー」という分野の子供達への教育の早期が一層注目されている。

雑誌に掲載されているクリスチャン・ディオールなどの高級ブランドから出されている香水の 目的(役目)は何なのか、誰に向けて発信されているのか、購入した人はどんな効果を得る事が できるのか。

雑誌に出ているモデルの体型は痩せすぎではないか。こんなに痩せていては、バランスの摂れ た食事をしていないはずだから、健康な状態にあるとは言えない。

映画、ニュース、ドラマ・・・メディアで取り上げられている事に対していつも“批判的”な 目(ここで言う“批判的”とは否定的な意味だけを意味するのではない。適切な目でという事で ある。)で見る事で、発信されている情報に対して抵抗力を付け、適切な判断を下す力を身に着 ける事を目的とする教育である。それによって子供達は、自分達が育った文化的・社会的な環境 にふさわしい、つまり自分のライフスタイルに見合う行動を選択するようになるのだ。

日本のメディアは、不特定多数のマスをターゲットにしているかのようなスタイルでの情報発 信が中心なのである。もちろん、全ての媒体がではないが。

しかし、本来は内面が成熟した大人の女性こそが持つにふさわしいはずの高級ブランド物でさ え、誰もが持つ事ができるものとして取り上げている。消費者は当然、疑いもなく自分の事とと して情報を受けってしまう事になる。

だからと言ってメディアだけが悪いのではない。それを実際に仕掛けているのはブランド側な のだから。

「ふさわしい人にこそ持って欲しい」とブランド側の人間達は思っている。それによって、一

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層ブランドのプレステージが高められるからだ。それに、本当にふさわしい人だけが所有したの ではビジネスとして成り立たない。しかも、日本のマーケットは世界でも有数の“金の成る木”

である。最高のオートクチュールを製作するための実験費と材料費、華やかなショーを開催する ための巨額の費用、膨大な広告費を賄うための収益をあげなければならない。他のブランドの後 れを取る事もできない。そこにジレンマが生じているのだ。

一方で、ブランドの組織の人間自身も誤った理解によって、自社ブランドのイメージを、もし かしたら傷つけているかもしれないのである。だからこそ、組織の人間は自社ブランドに常に敬 意を払うと共に、誇りを持たなければいけないのだ。それを徹底する事こそがブランドマネジメ ントである。

欧米でメディア教育が重視されていたとしても、日本でもメディアを批判的な目で見る動きが 広まったとしても、ブランドの広告やブランドそれ自体の虚飾性を疑ってみる事がない限り、日 本ではブランド人気は衰えることがないと思われる。

何故なら、競争の激化する高級ブランドビジネスはシェア獲得のために、より華やかなキャン ペーンを行い、斬新な新作を次々と発表する事で、ブランド物に目のない日本人には魅力的すぎ る活動を展開していくはずだからだ。

最後に

ある著名なアーティストがこう言っていた。

「よく、私ももうこの年齢だから、そろそろブランド物を持ってもいいと思うの、と言う人がい ます。でも、私はその考えには反対です。年齢に合うかどうかではなく、その人のライフスタイ ルに合うかどうかが判断されるべきなのです。」

日本ではハンドバッグを含めたアクセサリー類が良く売れている。

ブランド物のハンドバッグだけがその人のコーディネートで1番目立つようでは本来失格な のだ。

ブランド物のハンドバッグでさえ、目立たないほどの存在感をその人自信が持ち、さりげない コーディネートができなければ。無理してブランドのバッグを持つ事でその人のライフスタイル や生き方に対する考え方がどれだけ貧弱なものかをかえって曝け出すだけである。

2001年 1月10日

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