安醗 霧雄1熊藪覇綾硲二十境と新講r蕩子二十境窪 総
熊坂覇陵の二十境と所謂「高子二十境」
安 醗 初 雄
至 白雲溝探訪とi醸雲窟探棄
筆者が熊藪氏の二十境に麗心を持ち鎗めた縫〉は,
ばくうんどう
その一つの鐸達郡保原鰹の白雲溺を観察してから
むウうぜきかん ぐ
であるむそれまでに綱驚上保原には龍誉巖とか愚
こ う タ
公谷といった難し墾漢字で表記する字名解毒る事 は,聡秘露隼壊棄跳大学の古灘嚢一教授を中心に,
棄義各桑の字名を調べた鰹,筆巻は橿鳥察を撞聾 して承織していた.その後橿鳥大学で縁療む萱野 宏氏から,それが高子の漢文学者熊藪覇綾の命名 に基づく由も縁っていたが,当時はまだそれらを 探索してみようと籍う意欲慧莚らなかった。
しらさわ いわザの じゃかぶむ
数隼薦,安達蔀奏沢樋岩舞の懸字館冠で,蛇藪 石1舞の葎在を知毎,それが花嚢岩カレンである事 ビやぬぷむいしが覇弱して鎌来,購部粟穂簿字蛇1螢石でも羅む花 かわごいし海若カレンがみられ,また鐙縁部小響霧震籠石や 羅綾懇でも,小聾驚公畏館長石鉢祐毯氏に教えら れ,懸類の零竃鑛1岩カレンがみられる事を難つた。
侮れも現地で確認して,ある地質時代に賭銭1襲出 地でも,溶食作絹が違背した時代解ある事に気づ
き,上保療の嚢雪濁の観察を悪いたった。
白雲潟慧,賭銭穰急行の高子験で下車すると,
すぐその辮在が料る。白雲濾の案内飯があるから である。筆者縁途中で農作業をして疑た人に,念 のため道を尋ね,東横堰の新駅鶏ぞえに跨をたどっ て淡島神経の境内に入警,その左鍵の緩い勾醗の 石段を登ったら白雲溺についた。白雲潟は火凄角 礫岩からなる岩塔で,宇摩牲出地内の小丘ま二にあ る。付透雄淡島富も含む元薬擁堂境講である。
この白雲溺を奏谷観音と呼ぶ人もあるが1欝,そ れば妥蚤でない。これは多分橿鳥毒玉手辺の岩谷
あやか
観音に欝ってのことであろうが,青雲溺に認って あるのは観音ではなく,薬締麹来だからである。
永慕編3海二十境轡謡講の簾の海雲溺の項でも 単本学元教官 橿鳥毒接木講賛一鰺
「一二琉鶏窟ト名ヅク」と割注をっけ,競璃光灘 ち薬締娠来を認る事を示している。ここ縁蓋十透 の岩谷観音とは嚢質も相違し,大小の濁窟の織子 も異なる。共通しているのは岩渥(岩谷〉である 事だけである。それ故雷雲潮紅懸の名をつけるな ら巻谷観音でなく,岩谷薬鑵であろう。後記する 寛操2隼(欝蓬鯨の上保漂村鑑鮨上鰻繊にも,こ れは「岩谷薬麟藤と記載さ轟て継る。
この欝雲海の岩穴は,緑化峯こよる講窟で,簾蓬 と毒ま全く麗わ蓼がなも㌔;花蠹毒岩・や火窪董岩の嫌な整 い結騒質岩石が,屡々懸髭で穴があく事があると されている。この種の穴だらけの岩塊をタホニー と呼ぶ事がある。白雲濁の岩塔の競翻に岩陰とも 鐸事ばれる彗三潟窟もあ穆,文面撰雛こは蓼}達謬翼誌纏1 で,綾食の跡と記載されている懸凸もあるが,そ れは波食ではなく,穿我懸化の結栗だろう。
きうんくつ 熊緩氏二十境にはこの灘雲溺の外に,懸雲霧窪
あむ,その名は溺窟の存蓬を捲示して麸る。それ で帰雲霧も白雲溝のそれと瞬類かどうかを確認し た継と考え.帰雲窟の探索をはじめた。帰雲霧1ま 上深濠の字名では,高子地籔南舘の灘山嶽の嚢南 斜面を接すことになっている。そこは送電塔もあ り.踏み分け跳もあることになっている駈で,矢 内誠選民と二人でここ鐙出躰中を探しまわった.
しかしここで§にっ疑たのは,人工的に癒塾して 虚されたとみられる多数の裏片だけであった。ま
もなくそこで帰雲霧が3竃つかる筈のな秘事が響明 した。この弱毒嶽の藷南斜面は,藤講高子二十境 の帰雲窟かも懸れな墾が,熊壕i氏の二十境のそ齪 でな》箏が串彗つたからである。それ濾すでに菅野 宏氏(雛その縫が,皐くから議題にしていた事であ る癖,不鱗にして筆者慧それを知らなかった。こ の字爆雷窟は零絵雛奪(茎8隠〉の出野駿蕊鎌降の 親字名である事もわかった。かくて熊薮氏み二十 境の本来の爆雷窟1ま,その後の探索で,學達緯籏
しまうてもむ
麟字聖天森にある學達驚上水道講整池矯のタンク がある丘の,髭面斜面にある事が覇つた。それ韓
鱗 福島大学教蕎学薬譲葉第騒発
永慕纒の二十境記(麟崖3)や.購書の文暴筆帰 雲窟の纒を参照して探しあてた。艦,これも含め 二十境の解1窪{立羅毒こつ難ては異説もあるが,と蓼 あえず本稿では私見を遽べよう。
璽 駈講ゼ高子二十焼雌に就いて
瞬講「蕎子二十境」は,保原ライ重ンズクラブ
(警が,永慕編から熊飯氏二1十境の名称をそのまま 採擁し,上保原地内の字名にあてはめて以来,そ の称が普及したとみえる。瞬クラブでは高子二十 境の名標や案内緩を建て,案内籔も鐸成したから である。その高子二十境1ま次の醜くである。
①丹露盤
⑤採芝屋
⑨隠 泉
⑬返照療
⑬岳父出
③玉兎巌
⑧婦雲窟
⑬高子鍍
⑭走、鶏嶺
⑱愚公谷
③長縢嶺
⑦将帰蔽
⑪不義鞍
⑬窪鷺縫
⑱嚢雲洞
④龍誉巖
⑧嚢首縫
⑫捻翠崖
⑱響 出
⑳古艦丘 この顯序と名称は,永慕編記載めそれらと全く 瞬様である。この二十の名称の轟,上保療地溝の
た か こ ぱ
字名にな疑のは,⑬高子酸と⑲巻雲溺とであるが,
しんたみい こしょうやま
繭者は字薪溜井,後者1ま字小姓幽に該当する.高 子鞍懸ち高子沼が,この字新溜井の溜地名である
ことは震知のことであ蓼,良雲溺が字小雛出地内 のノ墾丘ま藩こある岩塔あるも補ま岩盤であることも,
へんしようげん 高子地内では周知めことであろう。⑬の遽熱原は 字名では遜黙療であるが,上保原秘の地籍緩1こつ けてある一種全躍では,字返蕪療となっている
(鐵重i)。この嚢子二十境の顯窪と名称とが,熊飯 氏二十境のそれらと一致するの縁,高子二十境を 設定する際に,永慕編の記載に骸嫁した為であろ うということ1ま推察に難くない。かくて高子二十 境の内には,その翫荘が熊藪氏二十境のそれと一 致するものもあるけれども,過享の纒湧で両者の 不一致がみられることになった。それはすでに攣 くから捲摘されていた事実である。その麟灘が瞬 治§奪の地穏改乏事業亨特に縁墾隼の由野酸壷事 業書こ露来することは後遜する⑪
高子二十境の墓になった牽来の熊藪覇綾の二十 境が,どの地点の名稔であるかに麗しては,多少 異説もある。そ駿を箆しく跡づけるに縁,永慕編 の誕事を姦しく読み,それを現地で検証する以外 に方法はな秘㌔それは覇陸運)命名であるが,台鰻 が携めてこの書で記載したことだからである。
婚§3葎雛月
欝 永慕編の二十境記と熊飯氏二十境 熊籔覇綾命名の二十境は,承慕後継で「璽州熊 壌氏海産露二十境」とか,ε海左園二十境善とも 記されているが,その機要を述べている永慕編㊧
二十境は,熊藪氏二十境を知る根本資料の一つで ある。 この二十境鑓書ま台州の記述で,憲頭に誓先 人嘗テ二十境詩ヲ購ス,藤講二十境ハコトゴトク
リ ロ
高子柑ノ申磐ニア磐と違べている。この夫人は 熊鍍覇綾で,覇綾は高子縁の内外でニナの景勝地 を選び,詩を醸して,子の台州にも秘せしめ,明 轄発奮(賀縫〉韮月死去した。台州慧その後,父 の業績を韓んで永慕縞の纒集を始め,後隼楽i翁の 集書十種編さんに協力する少桂醸家谷文暴の二十 境舞に,覇綾と台辮の詩を題し,また盤釜が詩を 離す等して,天瞬毒隼(茎憾む承慕編を完成した。
それは覇緩み死後欝隼たっての事である.
たんろばん ぎょくとがん そみニナ境記によると,①丹露盤・③玉兎巌及
ちまうしまうがい
び③長繋嶺は,高子糧地内で熊飯氏の緩宅糞雲館 さいし むに近接して継る。㊧籠蕎巖・⑤採毛崖・⑧帰雲霧
むしヰこう
及び⑦嚢首緯は,籍麟樗1こあると読めるが,奏雲 館から余鯵遠くな野駈だろう。それで二十境籔井 詩の簾の採芝屋の詩で,それは「茅慶ノ咫尺ノ鷺3 1こあると緩した。懸ち麟i耕ではあるが,白雲館峯こ 至近の醗毒こあるとの憲1であろう。この題尺は,尺 度を示すのでなく,至近を意殊すると読める故で
しょうきだん ふくごんむ
ある。二十境記で捻⑦樗帰霧iも籍麟の篠藪寺臨か きら南方に登る藪遵(籔8,?)のように読める融
この藪iの西に饗落縄あ鯵とする等故である。然し 二十境詩ニナ首の簾の将鰯飯は,割涯でギ髭整ノ 函数十歩」で,遠来の客慧懲家総人を幾はず,覇 綾は撹んで邊え,懸る時慧この藪まで送ったとす るから,白雲館の灘西め熊薮家墓地茜の鍍道に慧 るろう(鑓8,7)。然らばこの割蓬は後記の難き 二十境記の記事と整合しな塾事になるが,異論者 の妬くこの害彗濃婆こ二十境護嚢の言怪事を緩み合わせる と,講事実との不整舎が更に数多く墨饗する。
⑱零出は後述の麺く高森で,難上保療糧と大鳥 材との入会地であるが,高子韓の入会地ではなく,
⑬萬父由及び⑱愚公谷が鑓圭保原耕地内であるこ
とは後述する。 こうして合舞権が暮謎して》る室轟く,
熊薮氏二十境は高子舞の中外にあむ。それでも当 時の熊藪氏の持高鯵§石余の霞地は,嚢子・箱麟・
と保療等の各韓に薩産して,大濠分の熊藪氏二十 境が熊藪氏の轟請地の地霧続きにあり,轟雲館の
安懇 霧雄:熊薮覇綾の二十境と解講野高子二十境涯 8§
庭蟹の海左蟹の延長にあたるとみられても,おか しくな墾麟浅紅あったのではなかろうか。
この熊壌氏二十境は景勝地であるから,人の嚢 にっき易い地形・地霧等があり,それに仮託して 命名されたとみえる,盤,その広さは広整様々で ある。以下馨海番弩は,熊藪氏二十境である。
:弩灘盤と蕊兎巌 熊飯氏二十境で最擁にでる鐙
たんろばん
が,襲弩露盤である。これは窃雲館裏曲の高子出
(高子騰)の最高羨にあ静,「ソノ鍍標ノ麟成セシ 妬キモノ」溺弩露盤であると,二十境記で逮べて いる。この最高辮に幾つかの立石(嚢荘〉が立っ て継るが,その内西端の岩控が立つ基盤が,丹露 盤であろう。それ慧花海岩の簸蓬に添う縁縁1平壌
丹露︑螢 癒軽
騒薩.文晃簸 弩露盤の襲
な基盤岩の上露である(纒i)。これを承露盤灘 ち誉露を受ける盤とみたてたのであろう。
露玉兎巌(蕎ノ岩)はこの丹露盤のすぐ透くで,
「盤ノ粟錘巖ノ碧緯二立ツモノ珪で,その警に鷺 除石・金杵石・石丈人もあると二十境記で述べて いる。それらは,山頂にある立石を含む露岩で,
深履風乾が進んだ後,地表±が流圭作耀で流濃し.
風建が及ばない芯だけ残った変形地である。
長強姦と籠轡巖 二十境記では丹露盤の懸に,
露長曝嚢嶺が続くとある。台郵郵ま巽講の欝宅舞肇ち白 雲館,殴び近くの八幡宮とその参道まで,南海と 考えていたのではなかろうかG二十境記で高子樗 が夢違出難題,唯々東ノミ合ハズ雄と再度運べて いるのは,その為であろうαこの長螺嶺も丹露盤 から見れば,蕪簗聾である。ここでダ翠嶺灘タル モノ」が長騒嶺であるとする。この嶺縁紅積上に 遵あむ,(老幼でも)通行薄能な出」(霧の意瞭を 持つが,嶺慧又ヂ高大な灘緻」も意味する。後者
は中国の秦嶺・興安嶺の頻きであるが,八達嶺は 前者に当たる。長曝嶺も講者で,文翼の長曝嶺鑓 でも,率糧嚢をのせた尾根がみえる。その嶺め西 で「罎巖ノ懸崖二続ケル魏々飛縫ノ誉ノ魏キモノ涯 が龍脊巖であるとする。これは上保原学長驕嶺み 西につながる籍麟の字聖天森東南部で,尾綴籍に 黄褪色の凝灰質砂岩塊が蔓んで,その藪の稜繰上 に捧ぴる土堤に続く⑪ これが蟻巖の懸崖に続く
「飛龍ノ誉」だろう。この事からみても学長曝嶺 み丘陵が,熊薮氏二.十境の長1露嶺だろう。
採芝屋と帰雲霧 二十境誕で1まさきの龍脊巖の さいし も 護憲でr丹崖鶴纒タルモノ」が,藏採芝屋である
\
0 翻瞬 聯雲窟
馨2、 文雑筆 鰯雲窟の纒
8ε 播島大学教育学藻論集第54号
ふくごんじとする。こ癬ま肇東森詫西の斜面で,篠巌寺東方 の崖を捲すかと患われるが,確護はまだ霧られて きうんぐついな鯵.採芝屋の棄に麟帰雲窟があるとされる故 鰯雲窟の盤錯がその探索の手懸鞍になろう。その 帰雲霧は慈遮の難く肇大森の穆連舞上水道調整池
舞奪タンクの薩ヒ嚢彗撰彗農藩薩で, 海量麦§逢盤欝重近護こある。
この遜帰雲霧諺,文暴の舞(懸2)によると,
夕襲がやや癒に繧きかけ,左手1こ出超あるから,
それは髭面また縁載藝聾する斜面に綾1蓋する事を 示す。これは突舞の鑓を摸写して,彩色した緩緩
の絵でよく寧彗る(毒彗慈7)。 これと二二十境記の議王
事を読みあわ重て,その盤鍛の予察をやり,躰懇 を探して溺窟をみつけた。それは花海岩の簿錘に 添う漏窟だが,大男でも容易に入れる籔さもあむ,
狭い割目ではな華、その左方の露岩の岩醗の毯凸 が,文羅の絵の様子に簸ていて,ここ以外にこの 付透に大きな露岩がないこと等も考えて,この漏 窟を遜帰雲霧と鑑定した鳶この窩縁濃彩藥.と由薦
むむなもむ
の餐森の穴属隷,狢の穴かも知れな覧㌔
樗蒲叛と鍵菖灘 二十境記で難雲霧に続けて
「葺ノ窟……蓼藻シテ,灘経ノ秘1表ニアルモノ涯が
しょうき ん ゑ
睡将帰叛(麩1暮,7),又その「蔽ノ蔭.彊鐵ノ むしサこ う覆畿ノ魏キモノ」が.匿躍善霧であるとする。饗
着羅撰ま欝垂を逆さ1こした蓼濃き建多とあるから,頂ま二が
平壌で,矯翼が急斜面に燐まれ,掻宣して麸る事 になる。二十境記の記載顯では,福厳寺薦;春み薄 おあひちぐま灘以外三方が急斜面紅謹まれた熊襲出大平毒であ むむなもむろう。この大準幽は韓境添の元字饗嚢iの携である が,出野改歪で元字饗森の亜藻意字愛宕出に擬え られ,残むは字大平出と字聖天森とに涯分さ畿た。
修}達撰葦各縫地籔の籍麟縁合懸簿建こ1ま, 親字ムジナ 森3の葉室記が熊i野薮擢〉薄雲こある。そこが響i蓬箋で二
十境記の覆襲の嫁きとする形に合致する。ここな ら溝鼠濃羅を観てて,桑新・瀬上・編島の各摩羅 も見える。それ故二十境詩二十蒼の簾の饗糞灘の 詩で,鐸騒裟ノ繧纏灘議幾二選ジ,霞鱗形勢紬台二 ふく接ス,漢爵ノ優者愚ヲ衡ミテ去奪,難麓ノ諸盤述
え
職シテ懸ル」と,瀬上密を選る饗州追申の羅構に 思秘を懇らす場霧に紹癒しぴ。然らば熊襲幽大翠 霞都熊藪氏二十境む饗首岡である事は疑いなかろ う。かくて髭に推定した蟻雲窟縁,そのすぐ東隣 だからその推定の揺愚牲は高いだろう書
羅景・嘉子駿・不難場 二十境記によると嚢首 いんせん縫から「棄マタ晦,嶺ヲ越エテ下レバ」醗隠裏に
鐵るとある。饗首鑓を南東に下って,その南を通
至§{}3隼i重用
る海獺上・高子賜の道をたどり,抵難鞍額を越え,
薮を下らず,肇天森砂東南に続く斜藤を犠燐って,
東に下れば隠裏にでる。この隠泉は上編原字癒病 藁と藻1こある湧薯芝で,現在簡易水道の承灘として秘 鱗されて疑る。賭銭縷急行の擁輪トンネル掘鑿で,
その水盤が低下して,弁難を深くしたという〇二 十境記ではギコノ泉…3婆シテ貌苧纒}羅1ヲ遜箏嚢ス
た か こ だ
レバ墜簸蕩子鍍(籔3)に鐵るとある。その道抵 ヂや華率デ,総懸皆奇」なる謬舞こかかる。それが ふきょう 垂墨不覊麹撃で,琴毅こ的場壕1の韓{もあるという。不琴篶まと でよう
は萱野宏氏も旛嫡するように,蕗の音にあてたの であれば,ここは蕗ノ窪ある継慧蕗ノ率と疑われ たかも知れな塾。
吹手演 癒羅
一難 ︑
︑ぜ尋築磯ぞ
濾欝講、畿、.
螺 『
霞膨
墜
馨
縫麟き.文無筆 高子駿の躍
拾翠崖と運難漂 二子境記ではこの不覊場から
「南二鐡テ,鞍壷1ヲ纒テ棄スレバ墜懸崖に鐵る毒 それが麟拾翠崖であるとする。また薪左二丹巌ヲ 簿デ,右二緑波ヲ鋳ス雌とあむ,二十境穣秀詩の 覇綾の詩で「西岸竿ヲ投シ」,盤谷が「麟崖饑寒 ノ上」とするの1ま,高子沼東麓津を懇趨させる。
二十境記ではこの拾翠崖から褻東シテ,径ヲ欝 闘二取ッテ,購スレバゴ,返照原に鑽るとあるo
安密 麺雄1熊簾覇綾の二十境と霧謂「蕩子二十境」 蟹
この東を講説のr嘘々東ノミ合ハズ」の粟と瞬様 二,跳棄と読み,南を南東と解すれば,この「蟹 懸涯は高子沼堤下の灘懸(籔鴛)であろう。また 二十境籔井詩の籔の返蕪漂み詩紅「芳漂二入ル」
とあるの濾,後連する延宝の高子耕穣弛緩のよし 漂灘に当ると患われる。然らば熊薮氏二十境の遽 照療は,字綴織入南蔀及び透隼抹溝された字隠漿
と,境字愚公谷の髭縁も含む療野であろう。
走馬嶺と海鷺鋒 二十境記によると返難原から そうまぬい購方へ,ゆるい勾翫の出路を登ると,露走馬嶺に 塗る。その巌頭には逆馬の彫の岩があったとある が,それは饗存しな鎚この嶺は羽山嶽の棄から 字高森まで莚びている。その走馬嶺の西で「奇癖 はくろ う
天ヲ擁ム」のが,羅糞鷺蜂である(鐵蓬)。これ は鋒であるから一つの懸蜂を意嫁する。一に羽黒 峰と名づくとあむ,又圭保原縁鑑鮨上緩(麟鑓の の羽虫嶽でもある。台州が綴頗二屑入ノ封ア1君 というのζま,羽虫の羽畢こかかわるのであろうが,
山頂違い字琴零鐵地内に羽黒出編もある。手羽t舞1ま この鋒の東斜面の字名であるが,灘毒は元来この 蜂の名響であった。ここでは字名と琶幾するため
燃 診 費
﹁夢焦鬱鬱外題
馨毒.文晃筆 白鷺鋒の馨
羽山嶽と記載する。これは礎羽繕離各地でみられ る灘毒婦舞の蝿象の由である。縫,字白鷺蜂はこ の由明晒に檸びる出鍵付近の出牢名である。
零露 二手境記では「白鷺鋒ノ棄,戯ノ童ニシ テ隆然タノレ」出が響毒だとする。湧出嶽鐸髭東出難譲 の字響露慧羽黒鐵綱もあむ,羽黒蜂雛ち璽嚢鷺縫 の内で痙露出でないだろう。文暴筆響露纒(籔§)
零声
薩麟醒難、1交髭筆 零轡の馨
でも露出の形は隆然たる鋳獲麟で,麗山嶽の田舞 には見えなも㌔二十境詩の零出の講中のヂ落登霞 競馬嶺懇」も,夕焼雲を逢、馬嶺の東から見たと読 める故.窪郵導出縁老馬嶺の東方にあることを意嫁 しよう。また二十境記の5零徴ノ東,欝1シテ後続 クモノ」が岳父出で,この棄溺羨擁縫癒に詫蘂で あれば,この文暴懸の産鍵萎こある深疑谷は,躍響 出と露岳父蜜との境の谷と見える。かくてこの谷 底慧上保原宇内出入の講の手鼻であむ,上保原と 後の大捷との財界にも当る。然らば痙樗由縁高岳 であろう。若し露悪出が字響出であれば,「藪シ テ後続ク」の1ま萬父出でなく羅建馬嶺になる。
う ほ ざ ん
萬父霞と愚公谷 二十境記では岳父由縁,響幽 に続くとあるだけであるが,二十境舞井詩の簸の
総 橿鳥大学教育学蒲譲集第騒号
岳父山では,ヂー二薦遅出ト名ヅク」と翻主をっ
う ち や ま
けている。この蕊蓬田は内鐵の音にあわせた表記 で,それが翼宇内出入である事は,多くの史料で 立証できる。この宇内出入を聡治総軍義目認の上 保原麟全籔{馨では,「宇内出宮緯磁」と浅し,攣 達馨轡誌でも内鐵あるいは跨幽躰と記載して継る。
ここは近盤の内鐵擁鉢で,瞬治以蕪は内出と称さ れていたに違いない。この舞拡は上杉文書の承霧 雲緩勉に,次の様に記されている。
東根ノ内
一,内鶴舞躰 擾ノ本有蓼 大熊羅迄給驚 こ憂)内出篠株は明治擁隼の調べでは,欝§舞歩 余の広い面穫を占めるが,出野改蕊では分離され ずに宇内出入の一字になった。一筆の官繍だから であろうむここの出地は車駕藻に深い沢があって,
露地癖薦載の二つに分かれている。その詫翻鑓は 三鶏魚i弱.馨搬及び独立標高点鍵3.藪㊧高藪があっ て,この上なら本立が障害にならな継鰻蓼.懸連 単響跳業趨が一望できる。台州は二十鞭井詩で,
萬父由に登ってヂ遥二縫籠濤ヲ望メバ,始メテ鱈 ズ鴻荒ノ嚢ノ薫滋簿ノ聡に漢キテシ事ヲ珪と難し
麟§.文晃筆 愚公谷の纒
重瓣3奪登用
ているが,さもあろうと患われる。そこで一つの 伝承である信連平野の泥海伝議を,想起するので あろう。縫龍湾もこの泥海伝説に麗わむがあむ,
享保奪聞の萩生蟹篠による妙音購鉾麟にも採録さ れている玄熊と龍との縫争で,破魏た籠が跳棄方 の鐵を羅導割って逸足し,猿鍵岩羅近に嫉谷を馨っ たので,鱈連単野の泥海が撃上ったとされている。
勿論泥海議は地質的1こは{馨の確護1もな終話である が,睡岳父毒の貌墨を鑑定するみには,有力な手 懸むの一つになる。後で知ったことであるが,萱 聾宏氏も嚢雲館二十境雑記で,この宇内出入の跳 蔀の露を岳父出とれさている。
ぐこうこく
露愚公谷について二十境記では,萬父山をヂ粟 二下レバ麟谷二入ル.是ヲ愚公谷トナス」とする。
また二}境纒秀詩の簾の愚公谷ではぜ一二罵楽沢 卜名ヅク」とするが,空涙あるいは癒沢で,常に は地表流がない沢であろう。兜に述べた内幽篠秣 の中の谷は,この沢の頭部であろう。文墨の愚公 谷の遜では,2〜3の人家が谷縫に携かれていて,
今§の内出池南方の谷の様子を示すかと患われる
(纒6)。ここは麩上保原梶の受霧寺がある宇内鐵
白雲濁 鬱鬱
麟7、文箋筆 白雲濁の緩
安露 携雄τ熊坂羅綾の二手境と誤謬「嚢子二十境3 綿
の近傍で,この谷を経由して南に進むと.翼々入 会の発出に通ずるのだろう。講出は懸上保原糧綴 からみた名称で,その外出は大郷材との韓鼻にあ たる高森幽であろう(緩8)。
良雪濁と古樵氏 二十境詫では白雲潅1はr愚公 谷ノ蕗デ,鐵縫藝ノ棄」羅ち密雲難の粟にあ鯵とす
る。これ慧さきに述べた字小雛出地内の小丘上に ある岩塔であることは,異論を慧さむ人1まいな》。
この岩塔は{葬達蔀糧誌1こも「給醗トシテ露々ノ墾講
かん か うつろ
窟ヲナス蒸とある。鎗購としては塵の意練である 故,穴だらけの様子を示す(懸7)。嚢雲溺の名 稔もこの穴に由来するに違いない。この轡屋の薦 にある患霊殿の後に,高子秘中で建立した台州鞘 禅の石の小瘡1がある。台州は享1穣3隼(i叙捻) 3 月没したが,生繭屡々私購を救疑の資としたから,
樽民は台州を敬慕して,翌遵奪2月その小縄を建 てた。但,それ1ま文乾2葬(総総)3月の清療豊
光撰の台州墓誌銘にr韓ノ父老其ノ徳ヲ追慕シテ,
材中央濃紅二・石黍羅ヲ立雌とあり,また,蔀繕誌で はこれを淡島神社境内峯こ1移したとあセ)!鐵,難獲次遷 宮したのである〇
二一駈境蓋嚢ではこの白雲潟の賃鉱で, 紅寿垂崖霞蔚タ
ルモノ涯撃懸古鐵廷であるとする。それは字書樵 丘地内の丘で,特に跳鍵縁簿武羅撰の1麩聯珠にの ぞみ急勾蟹で,銘高は3§澱余になっている③こ れ癖元来のノ罫牲出であるゆ醗治i3彗蟻灘の上保原醤 金轡では,この由を含む字小姓滋がある(舞鎗〉
が,それは字書撰丘と訂蕉された。
かくて羅丹露盤から始まって,匿治権丘までめ
、二十境が瞬在する出地や濁が,高子韓の欝周を縷 んで,「棄ノミ合ハズ」難ち棄だけ饑いて,平壌 耀璽こつながると合舞繋ま解議する。これで熊薮氏二 十境が高子材の外にもあって,嚢子樗の中外にわ たる事は醗確である。
麟霧、熊壌氏二牽鏡(陰麺及び太線の曳内番号)と高子二十境(鶴麟番号) 番号は璽簸参照
鱒 福島大学教藩学認譲集第灘号
驚 熊坂氏二十境の名秣について
熊籏氏二十境の各々の名稼は.醗違の醜く大藩 分は地形・変形地及ぴ地軸の名称に露来する。こ の二十境を選んだ覇綾は,盛籍の詩人王維の綴燐 集に心を灘かれて,それに見習って白雲館近経の 出野から景勝纏を選び命名したという。羅ち鐵野 で歩を産めて,鐸詩する鐙に麹好な場渋を選定し たのであろう。然らばそこには簿か人の§につく 地形・地霧等があって,詩人ならず搭人もそれに
§をっけ,名称をつけていたのであるまいか。こ の地は遅くとも古墳時代鐵繭から人が住んでいた 場羨だからである。轟子虫の湾ノ岩とか,宇鼕鼕痢 のかくれ聚〈隠豪),その西方の的場窪のように である。箱錠地内の整森は,整か獲がいたのかも 簸れな籍。また上保原の内鐵は.その麓置紅纏わ りがある地名である。羽山嶽は灘黒毒青月毒等の 小編もあり,灘無縫と辱ぶのも当然である。
上保漂の内でもその爵灘は,棄隣の大郷雛唇等 と同じく,小起伏青地の中にあって,この出地は 深懸想靴を受けた厚い地表土1こ覆われているから,
雨水を深く滲透させて,遂路のように発達した沢 籏には,地下水が滲鐵する蓬嚢地(谷地)もあむ,
承菱嚢中の冷水地の外,隠泉のような護1薯芝も点在…し ていたに違疑ない。かくてこの沢筋の低地では黒 くから水霧牝が進んだが,その漣灘に絃湯麺や冷 承地を琴1濡して,作った溜漉の水があてられてい た。高子地爽の高子沼・総懸人溜地(小沼〉等が その擁である。これらの築造奪代は瞬らかでない 解,大郷地内の鐡羽沼縁,建宝隼串代官羅頻辛兵 籍が構築させたという。地穆駿豆筆寺の字1嚢纒には
この鐙羽沼が纒示さ魏ているが,東綴堰が完威し た現;窪は存在しない。こうして沢簸の各新紅摺地 を構築したが,暮雨の年には婆々離水不建となむ,
雨乞の行事をやった。雷禅を罷る高成懸の天乞田,
富沢の雨乞の難名はそれを示している。農神が磨 る灘山嶽の上で雨乞をやるの1ま,嘗て通常のこと であったかも知れないが,熊竣氏ニナ境み零出離 ち雨乞出は,高森出であろう。
高子地区の台地や丘綾上,一翻では出地の頂.と まで,舞在は果撰1翼となっているが,瞬治擁隼ま でそこ1ま大部分が華野ある継は華冑で.醗地を養
う採草地,簸敷難場であった。それは出野改蛋後 に作成した地籍纒や地籍鰻でもわかる㈱oここの 鐵秣は宇内出入の外,一藩分に醸られていた。
i鱒3隼賛舞
返蕪原と久し原 永慕編では返蕪療を菱一二馨 難舞蓑襲名ヅク」とする。 騒筆癖票は久し療の音毒こあ わぜた表記で,嚢差し1こ震来するかも簸れなも㌔
魑,地秘教蕉麟の久し原が,どこまで鉱がってい たかは定かでない。後還する難く地穰改歪後の字 久し療は,耕地宅地の字として命名された響称で,
蓄の久し療と1ま麩域が違う筈である。この幾程改 墨事業は,これまでの石高を改あて,雄藩を定め ることを主§的としたから,そΦ高請地である耕 地宅地を髭に調蓋して.毒野の調室を後まわしと した。それで嘗ての久し療の内.そこの露地に醗 属した採草地は,字久し療から窮参離し,台地土 の密地と大蒜分纏である謹少の耕地と,近接する 低地の水難とをあわせ,耕地宅纏字の久し原とさ れた。その西半の段丘崖下の水霧は,後述する麺 く元来の久し療ではなかったとみられるゆそれ数 字久し療の内,台地上にある選藪は極めて狭小で.
「何々原」と辱ばれる状態とは似合わなくなって
しまった。
文羅の返蕪療の鐵は,透景に靉靆を構いている が,中暑以遠は原野である(纒§海台州授び盤
異
ノ返薫凛
麟麟騒嚢.文髭筆 遽蕪原の轡
安鐵 麺鑑:熊薮羅綾の二十境と醜羅r轟畢二十境」 劔
谷の詩にも芳原とか漂頭とあ鯵.二十境詩二十首 の簸で1ま,荒療の語も使離している。それらは返 照顯が原野であることを示している。延宝の穣弛 緩で慧.よし原がひさし原に続けて記載され.そ のよし原の耕地;が皆ひさし療の楚ξ右衛野饗青墨高請人 であるから,このよし原は字久し療の載に続く掌 編懇入の溝かと想われる。それはよし原に下々欝 が一筆あって,葭が繁っている抵濃地の瞬荘を暗 示する故である。こめよし療は芳療であろう。
由野薮蕉後の字遍蕪療は,幽字ですべて山聾で,
字久し原とは字総懸入をはさんで離れて墾るから,
蟹返熱源と慧麟であろう。二十境詩二十首の籔の 返蕪漂の誇でも「灌ヲカケテ買ッテ,還テ遍ル三 戸ノ霧雲とある3芦は,久し原の人家と譲める。
覇綾の詩に誓書嚢二・奨ス塞とあり,また二一影境詩 二十善の籔では「争奪三ノ墓二畢ス」とするのは,
横縫緩のrらんとう産糞涯選書こi当るかと患われるが,
それがどこかは今後の課題として残る。
吉樵長と小姓出 二十境馨井詩の簿の古蝶丘は こしょうやま「一二蘊蓄建山襲名ヅク3とある£1ま, 蓬穫雄葺まノ拠盤王
臣きの蓄婁こあわせた表菱三である。 2万§蟹鰺分の圭地
形鐵では,小姓凄の淫記嬢あるが.山名を示す小 活字ではないから,字名である。この字小姓塗は 字書艦廷の南東蜷で.白雲溝の巻塔がある小丘を 含み.明治然葎までに耕地宅纏の字名とされた。
優,明治欝奪講の土保繰越金錘で諺撃この小丘購 近が字裳雲漏と記され(灘2〉,漂舞ではこの字 白雲潟1ま跳蔀の字小姓出(後の字古樵丘)ととも に.薄縁に彩色され,出字であることを示す。
伊達郡越誌ではこの白雲溺を山名としても記載
し, ジーニノ群雄玉出ト名ヅク」 と害駆奎をっ診た毒ま,
この露雲潟は誤である。 この郡樗誌で導まそ(騒雷雲 漏が「繋遵ノ南,下古懇・大名之、歓及び佛鐵密ノ 耕地中二鰻趨スル小出」とするからである。その 小出1ま嚢雲溺ではなく羅古樵丘である。この柔道 は陸羽衡避の瀬上で分緩し,箱麟から高子幽の詫 をまわって,大名ノ上の跳の字界を遍む,保療経 塗で棺馬蔀中啓に至る申樗衡遵である。この小出 は麺勢権髭でもあるが,この本来憂〉小姓出は古く から醗近を含む字名とされていたと見える。それ が地覆改豊・出野改鑑で,虚字の古樵丘と耕宅地 字の小難…露との二つに分割されたのだろう。
V 高子材の範囲と熊坂氏二十境
麟簾で遽べた鄭く,熊鍍氏二十境は二十境記に
絞る銀り,高子糧の内外にある。その二藩 境のi饗 首魏・帰雲霧・採芝屋・龍脊巖などは,箱錠韓地 内にある尊その癖馬父出・愚公谷及び磐田も瞬治
9奪三高子耕と金撰:した懸皿L保原越翅奎終銭こある。
瞬上縁漂材の岳父出と愚公谷 遜岳父出に穏当 する溝虚構凝馨ち内田鶴1麟1が,懸、L保漂;樗の誌1であ る事を讒する史料慧,一にしてとどまらないゆ一 つは天鵜3年(欝総)盤鍔,編島在擁の代賞籟植 簿兵籍{婚が,梁辮頗3万石を軽率鐵雲守に渡す擦 の畷纏文書の内の撰達蔀東糧領躰螺叢で,その中 に「上保原醤,海山御鉢」が記されている。その 鐸鉢蓄ま長1さ§§?懸.横2§5幾で,擾{舞木があるとす る。長さと績鑛とが,霧筆達蒙謬轡誌の一と1呆原樗の内 出抹のそれと多少差があるが,緩め木立がある点 では共選し,機縦憂)飛獲:もそれ縁ど大きな樒違で はな碁敵,それは謬秘誌の湾山林と溝一と認めら れる。 この内出御躰は寛{蒙2奪1軽?魂3〉 6月の{夢 違蔀土保療翼鑑捲上緩(繭出蓬)に,次の熱く記
されて》る。
一、 内出御躰 叢輩竃箋喜糞繋金羅 {籔壱ケ霧雪
銚反雛 五拾参緯九籔六激歩 掻木 弐万護千七蕎九拾八牽
髭御躰下草藍綬葉巻韓 岡樽無料高子緯 梁 簿料大鳥麺三ケ韓へ往古8鞍下 懲役承六醤 弐拾五文被擁韓 溝霞漂七絵文ハ当糧 蕎六 文六分ハ大鳥耕 懸拾六文羅分が高子糧銚三 ケ掃よむ葎々取立上納縫来客申躾 親御躰之 内二懸嬬轡反歩余 禅宗宝勝院与中寺壱ケ寺 入込罷在躾 右獲爆寺地共に縫躰反磯之外二 御痙躾
この文中の当繕は勿論上保原村で,この舞躰の 下草及び擾落葉は,上保原・大鳥及び高子の3樗 入会で採集するが,その無役永縫5文濾上探療樗 が,毎彗三この三三ケ轡分を取り纏め囃するとある。
各柱舞に、髪綱するのでないのは,この簿秣が圭保 原緯内だからであろう。然し韓入会だから高子材 の灘では,これを灘子種の内とみなす人があるか も知れないが,さきにあけた極値代富の群纒文書 にも圭1保原繕の内とあるから,これ濾疑いもなく 蔭上保源樗碓轟であろう。この舞舞の中に入込ん でいる宝勝銑(麩1婚〉は,瞬t∫指墨鑛で,字飛出 にある受講寺及び寧寺薄の駁編寺と共に,羅上保 原糧三ケ寺の一つであ馨,舞躰に入込んでいる冗 字出寺の鐙螺寺地共に,糞曲舞秣の反燐の外であ るから.これは糧入会地ではなも㌔それ故この字
警2 羅轟大学教官学部論集第騒号
山寺は高子繕の内とされる運蜜1まない。まして憂 欝寺醗近1まこの懲躰から離れているから,高子越 の外である。この受R寺近鰺の谷が,熊藪氏二十 境の愚公谷であるから,麟憲公谷も高子耕の外で ある。かくて出野改鑑後の手籠誉巖・字萬父出・
字拾翠塵藻ぴ字将帰蔽(藝雛茎)も高子秘の外にあ る。それ故これらを高子、二十境の内とするその
「高子」の纒語は,誤解を招く基となるだろう昌 高森撫と講轡嶽 上保療軽鑑撫上緩に,瞬材の 秣場として,高森毒と灘山嶽があげれらている。
一 秣場 優ニケ藤
高森山与牢壱ケ湧ヘハ梁鱗無料大鶏林当付 入会 馬草叢来蓼率躾 想出嶽与串壱ケ漸へ 者 溝無料嚢子韓入会藩来む申候
これでみると高森鐵慧,懸.t録療鍾と大鳥醤と が入会地としているが,轟子種は入会権がなく,
羽鐡嶽華ま懸上蘇原越と高子耕との入会地であるが,
大鳥越は入会権がないのであろう。墾治褥奪の出 野酸正の蒔,この露出1ま.と保漂・大郷嚢材の境葬 係争縫になっていたが,高森幽は出石を境にして,
菓楽が大郷粒,醒享が上保原繋とされたのに,属 じく係争地であった灘鑛嶽め東斜懸の字弱毒は,
上保原材の内とされた。それは弱毒嶽に大鳥村の 入会権がなかったからであろう。
薬嚢藩前溜…欝=及び新深井等 羅1ご捲達士懸馨こ薬嚢嚢藝彗
溜井・新溜聾及び成合沢溜井等が,鰻上保漂材の 溜池として記載されて雛る。そ硲薬鑵羨溜井は
「長八拾懸 横裂拾懸 縫壱ケ湧 是ハ当麺穣方 甦拾六購三反歩 縫纏料高子樗緩方七反壱畝歩 梁鱗簿料大鳥越馨方三反獲麟歩之罵水二携講串猴 但 塊縫壱ケ漸」とあむ,溺項に次の麹く岩谷薬 麟を記載しているから,これは捗達蔀韓誌の綿繰 露溜池睾こ違いない(蟹鎗)。
一,岩谷薬麟 無料羅麺磯当惑伏 極楽鶴
ゆ さ ロ の
是ハ掻無岩穴 襲用八羅九舞舞隼祭申候 糧 鶏当籠家老馨舞座躾 縫 境之轟鐵壱 森右籠家二常ハ遠方数寄兼道心者捲置申 餓 騨藩舞陰地二牢舞書付も無之候得業 往 古参奮来鯵申猴
癖達郡韓誌でも上保原越の薬懸賞の項で,「嚢 雲溺ノ奇岩ノ窟ヲ以テ堂トナス(牛酪)縁讐藝1鷲 爪鑓とあるから,撫上緩の「較無岩穴韮云々の,
記事と封癒し,この岩谷薬懸は露雪洞の薬麟であ ると解される。しからば薬擁麟溜聾は痘雪濁の前 にあって,簿戯縷急行の軌道が榛織する岩谷溜漣
鯵93奪董婦
(佛供懸溜池)であることは疑いない。
溝指、ヒ鰻に新溜弁は罫長弐落弐拾幾 横六拾弐 題 鐙壱ケ駈 是ハ当韓覆秀霞拾六籍弐反歩 瞬樗御料趨子羅懇方九舞三反拾弐歩之縮水二群講 津蟹i {塁 籔縫弐ケ漸づとあ滲, この新溜井守,
溝右衛鍔が記されている。正徳3隼雛雛3〉の上 保原秘書土麟にも,「高子越 溜拝守 濤右籍轡」
があむ,これ纏麹室の高子韓纏縫鞍(蕩鐵欝)に 記されている疑麟茜平の溝右繕羅とみられること.
溜づ喋の観桑蔓が大きいこと.‡汽縫iがニケ謬量あること.
壷びに新溜井と称していること等を勘案すると,
これは嚢子沼である(籔欝㌔現字新溜聾は近鍵 の名稼を鑑承している。
成合沢瀉弄1ま「長六給懸 横鰻絵羅溺 縫壱ケ 断 是ハ当縁懇寿一職五反歩 梁鱗御料大鳥耕墾 方壱反参戦歩之縷方繕承二弓1」とあるが,これ1ま 内幽池等に穏当するのではなかろうか。
この三ケ湧の溜池の普請に必要な舞木は,上保 原績み飛出舞林の秘本が下賎されることに,窪古 から定まってお穆,諸経費1ま承下役として割む付 けて集めたという。この外にヂ大鳥轡趨羽溜i井」
の一項がある。それは大鳥粒の8驚§反盤歩,上 保原秘の盤麹歩の合計翻驚i反魂畝鐙歩の馨方醗 承を取るのに瀦璽されていた。この承鶏は砂子堰 を越すのにヂ持越覧縫藁を三ケ断につ酵ていたと いう。この縫圭藩窪溜…縛1ま大鳥華言南蟻}で,高成経緯喜界
に接し,確かに大鳥村の溜井であるが,この捲上 緩で薬郷前潔昇等には村名を漉記していないのは,
それが当然上保原材だというのであろう。しかし 高子轡鶴からみると,新溜聾は高子梶の内として いたのではなかろうか。
上保原縁絵襲等で推察できる高子擁の範鐙 、L 保療掌大地内の糧嚢藍斑藏の上保療粒絵纒鱒は,
嚢子粒の範霧を譲i足するのに膏耀である。この絵 麟は名主弥左衛溝,維頭徳兵籍・半十郎及び七十 躯等の記名があ穆,誌左衛群棲ま鑑徳3隼の上縁療 韓書上で講麺名主であり,徳兵籍等は寛保2奪の 隅村鑑撫土緩の纏頭名と構むである事等から,こ の絵籔縁至徳壊の作成とみられるが,上採療材の 内として内出御林(但,皺紙で爽出営躰と訂歪)
東西の山野の磐.南の高森虚及び灘山嶽も鑓示す る。褒上保原地内の由でこの絵翻に麟示されてい ない出1ま,高子出及び長藥嶺のみである。この絵 緩の灘西翻の白地の蕊分は,高子樗が巌む込む空 間で,小雛i出南方の巻地萎こ轟手軽分の涯震諺がある。
安馨 樗錐:熊藪覇陵の二十境と霧謂「護子二手境3 §3
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懲魏魏寡 .聾爆㌔
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義
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韓泌華誌では§月)合鬱 するが,韓幾にこの事業 畢こ義手したと思われる。
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拳麺)小蒲一構がその惣代 敬答
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麟 特薦薦
︾ぜ岸ンヨ あやドジ ャまきむ︑鱗
騒総.
ママその裁方の彿躾懸・大名之上・小又の外,薬麟堂 とその涯翻の古懇の集落,高子潺々下で高子糧海 に織長く湾入する古霧の承懸帯(字上古欝茜購藻 の低地も含むか)も上保原新講とし,また上保原 村の飛地数ケ湧の点在も泌示する(纒欝)〇 二十境霧褻でもさきにあげた「連縫三藝彗羅 唯々棄
ノミ合ハズj lこ続け,「平蕪ヨ撃高キコト数十丈,
懸躊中二麗ケテ,昆錘}山二・俵ル,張華:ノ新講高率 率ナノレモノ,嘉島二子樗」だという。 この平文藝とい うのは髭灘の東横の平地で,覆躊中に麗診ては,
高子沼縁蕊の谷鷺に総懸が麗かれている様子を示 す。寛文年中上保原材から高子麺が分立する際,
小姓由・総懸入・久し原,薩平・申渥敷・谷地畠・
原及び館(高子岡館)等にある羅敷と,それらの 近くにある露地を,高子樋としたのであろう。
上線原替絵燐め薦西部琢(越境及び活字鉢文字は安綴補入〉
w 地積改正と高子糎の範霞
購治8隼聾月,地穣改蕉着手の纈淳議菱灘茎!が,
福島繋から各戸長に遜達され,翌§奪嬉からその 事業を醗給した。深濠緩戸長役場管下の圭1保原・
高子溺村は瞬9隼5月(郡樽詰による,嬬鶴繋郷
善ま懇代人の異種で選達し た灘量轟2名が,下水原 の惣代人謬雛葬宅にiと憲す る等のことからみると,
耕地宅地の灘量は,轟耕 で一諾に実施もたのでなかったろうか。それ故上 蘇原・高子湾麟でもこれに準じて駿足事業が進行
したかと患われる。
耕地宅地講糞の擦の山聾の取振いや,地新字の
{等について,この議熱こ次の条項がある。
一,出野ハ耕地宅地等講豊済ノ土取講ノ顯厚二 鑑得業 耕地二孕喜タ躾地漸ハー途二取調 其 硬宜二俵ル事
一,地漸字ノ事 一区域ヲナシタル一字申二種々 ノ小字蕎之ノ類 其一選域之字ヲ穰ユル等ノ 事
藩項に黴ると耕魏に醗まれた小面積の出野は,
耕地宅地字の碗として,一藷に講養するが,その 縫み出野の講壷は後まわしとされた。それは瞬治 簸駕に出野改藍として実旛され,その実灘と富艮 有の区分をすることになる。その時大蒜分の入会 の出野が震三とされ,それで各地で係争が趨って.
後に由罫の下戻法が麟定されることになる。
字の広さ毒こついて毒ま, i馨董を霞1尺のi分として 緩示し,一紙に納まる広さを一つの字とした。そ の纒が字鰻緩で,その園の名称が字名である。そ
鱗 橿鳥大学教欝学蕩譲葉第襲号 五爵箕潜力
の区域内の1羅小字名慧,公簿から黙かれた。面積 が広い場合は幾つかに籔窮って,字濃纒が舞られ る。それで新字名が必要となるQ
上蘇原繕の大疑惣代 聡治簗奪8舞,桑に提鐵 し上保原村の地籍鑓及び地籍鰻に載ると.溝講の 人畏慧代は,渡透漂兵籍(字彫地内認),機嚢三 十郎(掌大地内37),轟昇幸七(字京嚢2屡)及び 小野轟懸の縷人である。この尋人は大疑慧代とし て字畷籔の各々に記名調潔し,地籍緩末尾にも懸 じく記名講馨している。低張内1まこの地籍緩から 拾い饑した各人の建議である。小野議落の名はこ の地籍緩の内には見当らな籍。しかし次の事実か ら字織子§と推定した。それはこの字高子6の宅 地が小野惣古徳醗名義で,この惣右衛門は字薪靉 靆・繧籔入・避難漂等で,32人共奮の代表となっ ておむ,その人数等からそれは懸高子村民の総持 と患われる等で,地籍鰻で代表惣石衛難の講羅を 確かめたら,鑛
島子糧の韓域ばかりでなくて,懸土保原との韓鼻 も熟知していたと患われる。
上深濠の牢番勢顯と高手樗め範雛 上採療縁一 番手小蛙から六十七番字高橋羨まで隷,耕雛宅地 字であるが,末尾の字高橋蒙綜飛地で,東砂深濠 軽と大捷秘との懸尋藁まさまって継る。この縮一番 から五十六番字佛繰霧までは,難上録療醤の字で あるのそれら縁上保漂秘絵遜を見ても,疑種麹で ある。これに鰐し五十七悉字小雛幽から字高子ま での欝字,灘ち小牲出・新靉靆・総舞人・上古懸
(盤.詫東藻のみ)・久し原・新溜昇・西講・溝台・
蔑及び高子の各字は,ほぼ高子鍾の内と見えるウ これらの字送域の磯定までに慧,多少の移動が あったかも知醜ない。纏えぱ明治茎3奪講の上録瘡 掻金鑼(纒鐙はその毒辛藤の辱)では,後の字小 姓出の大分が字白雲濁で,髭勝意字小姓鐵症され,
購違の難くその墾ずれもがt嚢野となって疑る。こ
信の葎と瞬一で あったからであ る。多分幾選さ れた時は轟落で あるが.後に襲 名して慧右衛擁 を名乗ったので あろう。 このノ墾 野惣書籍鍔の宅 地濾,字高子㊧
跳蔀で,上保療 一番手小難i・二 番字西原に透接 している。その
〜番手・二番及 び三番字下古馨 は,先にあげた 上保療秘絵纒で は,瞬耕地海萎こ あると読める。
それ故事聾畠信 の居宅は,嚢子 樗と懸上縁療秘 との樗界に近接 していたから,
人蔑懸代申少な くともi人寿ま,
癖畿繕雛鍛、,
ぎ擁.騰嬢 毒実 謎 荒土一審 鱒 鯉 確 残響 蕊
字蓬 字轟森 界 舗装欝亀鑑融奪噸歴
詫肇鋸耀磨霧奏欝 語︑態々欝欝 禽瓶華餐
瀬麟
劉六牽繍羅難 攣蕪 / x・ 早@飛. 聾襲
、、、
.影§ 駄−要︑
融 難六 ム 番 線審 湾 懲 蓬
籔麗.撰遠駆上保原秘一纏全図の窮単離零
安懇 鶴錐:熊薮覇陵の二十境と瞬講r蕩子二十境盤 縣
の字白雲潟の東方で,字佛僕懇地内鈴薬鑵鋳深井
(岩谷溜漣垂との闘縁.原鐵では窃地で示され人 家を示す集の三角が§懸籔示されている。そこは 薬麟羨潔秀の東灘から南方に鉱がっている字新雛 競の携に含まれると見える。然し字盤域確定後は,
この§鐸の人家がある地新は,字雷雲溺と鱗せ字 小姓出とさ轟た(懸難)。この字白雲溺の薬締窒 境内の見捨地?反§畝歩は,上縁療軽と轟子種と の入会㈱で,瞬治擁隼出躰3反7畝歩余を分離上 難.遜欝隼秘技淡島雛境内i痩2畝歩を分割した 故,残る2撰7畝歩の境内は大蒜分山野だろう。
地籍鰻でもこの正反2畝歩は秘経敷だが,地籍籔 では薬鑵堂の堂宇敷と地番が入れ替っている。上 記総字の合薬が高子沼から跳に開墾ている一つの 広験沢籔1こ,纏まっている事は留意を要する。
出野め講費は鋳述の醜く後奪1こ実権され,その 虚字は地籍緩では繋地宅地字の次1こ記されている○
躍ち六十八番字丹露盤から最後の九十三番宇内出
璽 聴︸︾ 勲 弊・︾ .藪 畢 癖 斡
青磁
乾霧 峯豫誓 麟纏 辱 義鷺 懲.徳︑締離︑耀⁝
毒麟
を ヨ あノ 藩町噂ぐ 傷艶 麗︾︾ 舟一・︑.欝萎 講義撫懸垂
鋸挽灘麟載
・. 鷹 ︐ノ
夢違樫義壕替
入までの器字が識字である。この内轟森・羽懲・
老ケ森及び中島由縁.大捷材の地籍緩及び地籍籔 にも記載されている。これらは上保療と大捷との 樽罫係争地であった。
六十八番字丹露盤から長縢嶺・磯・白鷺蜂・
懸果・狸蓉濁・吉撰丘陵び返照療と懸続の8字韓,
上記高子耕地内め耕地宅地字を雛んで豊ぶ。この 海芋窃鷺蜂と字隠泉との閣には,八十七番字大久 保がある寮,これは宮地のみの字だから,蔑有地 の字の後にまわされている。躍ち八十三番字高森 以下が宮地のみの字である。 この字退舞嚢原までの 8字は.中には一材懇待の草山がある字もあるが,
講述のように難高子の梶持と見られる32人藁蕎の 地漸もあって,嚢子繕地海または高子樗入会の由 宇とみられるg七十六番字採芝屋繊下は羅上保原 韓地内であろう。その内字内出入が鑓.ヒ線療麺講 であることは,慶述の選穆である。高子材の籠雛 はこの宇内出入遜方に罎られていた。
蹉 驚 誰
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藁 一 汁将戯
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誓ねト..ミ︑ノ〜論 葉影1墨v 騨哀墨♂寡㌧ 騰勢も声事も 鷲欝宇美丈撫 季婆 簾語評翻驚 遜 亨乾干奨一 燃恥 艦燦康彦字毒舞蓄.等 ︑鷲 !﹀wX場﹂嬉笑
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図絵.瞬治稔奪講上裸療字樋全緩辮率翻写
茎人家︑2縷宅地字の字翼︑3池︑逢妻野︑5窟躰︑遽・水驚は騒簸と講じ
この字内鐵 入は泌鴛の窟
秣の宇内出
(死海薮緯林)
に当るが,纒 猛も羅様その 西の学界が,
東にずれて継 る。この学界 は実は手縫鐙 入の小沼及び 字新懇醗の新 蟹前溜井に接 している。醗 建で字総鬚入 の耕地の癖輿 にある池がノ墾 沼(繧遜入溜 丼〉であり,
岡懸の字新灘 前の欝地の爾 奥にある沼魁 新密蔚深井で ある。欝琵で 宇内出入の南 西に入込んだ 字総懸入の一
麗 藩島大学教誉学認論集第騒号
部は,この小沼の入にあたむ,ここの宇内出入の
字翼道髪餓ま,ノ罫沼の堤圭1を遍塗ると南跳がつながる。
それと籍灘繭潔聾の東綴が,宇内幽入であること とは,手張醤に明示されている。2灘§分の窮桑跳 鯊毒計麺緩でも,字轟出入の字界はこの小沼の愛 東縁に接して遜む,薬藪羨潔躰の北棄購に霧って 延びている。それ改選墾では,その分高子轡の範
獲紡蟻突くなる。
麟i麺)南蟻の八十三番字高森駁下の宮地は,内 出入を縫いて,安政2奪(懲誌)保療後議が上保 原樗名主及び百姓中に発てた下知書齢があって,
上保療醤の嚢姓持株鐵であると認められている。
これは寛保の韓鑑鮨上鞍の記事と共に,湧出嶽及 び高森虚が高子麟の外であることを示す臼
畷 延宝元年高芋村検地緩と高子材の箋醗 延宝禿奪の鞍領辛兵籍検地の藻の高子秘検地緩 では,高子軽の字名を顯に次め如く記載している。
灘ちせんたふ・たんの下(たん下も羅じか)・繭 原・おかたい・沢蓉・いこ沢上・こせう山・古霧・
ひがしたい・藩・西平・わき・走癒・とう下・沼 ノ下・こ沼入・総懇入・壷鑿(出燈も購じか)・
ひさし療・よし原・愚欝豊きさ擾・中渥敷・谷地 畠・そ鐘)懸・はっけ・いこのま(華小沼か)・た い・らんとう講・沼元・いこ沼下・屋敷蕩・原・
館・南臨・ちいこ爆・浮・沼上・本沢及び沢であ る。この撲地鰻でも購む字名が再鐵するが,ここ では祷出の類に拾い鐵してある¢
字 名
主こせう出国 2蓉 平
襲 名請人 横×縦
敷 醸 積
3継綴入 鰭さし麟
5中屋敷・§谷地畠一 丁 漂
8 館
灘太鰍纐x鱗轍2捗
}孫 惣17厚×望7 i毒 御
溝畜鯛i鍛 ×8餌2 2卸
五郎在籍戦茎i ×4 l i i5!ノ
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六右籍霧i8〃×8帽 2μ34
量塗貸 越筆 13硬き畝2蓋。
表 高子醤蓮室縷地魑の屋敷名請人と屋敷の菰さ
茎鱒3奪豊玉§
屋敷を含む字 上記の字で麗敷(地懇数差後の 宅鍵)を含む字と屋敷鐙名請人は,薦表の難くで ある。この内こせう出・総灘入・ひさし原鉱,地 懇酸豊後も字名として残るが,その区域は後来の それと多少違うとみえる。地穣改歪蕾後で学区蟻 に異1鑓があること韓1.早く隻1学も旛鐘している稔畿}
ここでも饑えぱ逢のひさし療は,地税政登三時の久 し原の縫地濾含まないとみえる⑰それ縁2筆の渥 敷と下々懸鍛歩を含むが,飽縁下畠ボF々畠の計
茎反5麟鴛歩にすぎない数である。改正後の字久 し原の西蔀の低地にある水欝は,検纏鰻では多分 思懸であろうσそれは懸想の下醗27歩i筆は入舞
とみられる楚更改難が名請人である外は,ひさし療 の懇有徳霧及ぴ十郎兵籍が名請人で,すべて鐙で あ鯵,ひさし標準よし療・愚鐡と,換地緩で続く からである。また8の館毒ま高子岡館で,後{参字高 子と字弩露盤を含むのであろう(轡鎗〉ひ
7の療は善海の行人渥敷及び与古徳轡の渥敷が あるが,検地鰻で慧渥敷欝・鋳・原と続診て記さ れている⑪蕪は地穣改鉦後の字繭の内で,、L爆の みの渥敷穰と共に,館屋敷の毒雛こあるとみられ,
療は繭の読方を占めるかと患われる。それは明治 綴年にもそこに渥敷があむ,穫堰緩で羨に続く外,
屋敷麟の.L懸が原の与蒼籟霧と善海とみ名請地の みである事,鋳の中筋13筆が■与右衡驚の名請地で ある等からみて,療は渥敷離及び繭紅近接してい るとみられる事による推定である。
2の西平は舞字藪講の内,高子沼1こ遍い訴1こあ るのであろう。それは齊率の濤古徳門が,羅述の 妬く高子沼の灘井守とみら載るからである(V簸 参黙)。盤,寛保2葎の醤鑑鮨上緩の新溜聾蜜漬 右衛野駿ま,延宝験地から半糧紀以.ヒ後鐙こと故.
瞬一人ではなく襲名かも知れな麸。また5申渥敷 と6谷地畠とは,験鰹犠で前後して記載され.謙 墨筆の渥敷の外は,懸ばか鯵であ鯵,中渥敷の爆 は鷺淺の喜右衛霧・清左籍門及び清三郎み3人が 名請人で,谷地畠の爆1まこの3人の外,谷地畠の 勧鐸が名請人である事からみて季牢屋敷と谷地畠 は隣接していると見られる事,次に谷地畠の谷地 は譲地ではなく谷を意秣し,隠裏の詫から不覊場 に購う遵籔の谷に麗わりがあると晃られる事,字 西海の中跳嘉であれば,高子樗で中屋敷と響ばれ てもよさそうに冤える事等を翻案すると,薦の西 平に続いて,跳に中屋敷・谷地畠が壷んで.現字 面霧の内に含まれるように見える(國至の。
安綴 擁雄:無数覇綾の二十境と誤謬r嚢子三筆境」 警?
屋敷を含まない麟難字 この綾地鑛で察敷を含 まない各字の内,麗在の字名につながるのは,離 と古醗のみである。この薄葬ま現字蔚の講であろう ということは先に遽べた。古醗は下々懸毒筆のみ で,それが皆こせう幾の源太鶴が名請人であるか
ら,璽字上古蟹の東跳躯に当ると患われる。その 縫の字はその綾羅が瞬縫ではないが,髭にあげた 膣敷を含む字の透くにあると思われる。まずせん たふ・たんの下・離療・原麩・おかたい殴び涙嚢 と続く字の灘地は,すべて館の六麿籍響(名主)
及び糠之丞が名請人であるから,字繭の内かその 礒の字海台にかかる地であろう。後患のせんたふ の一難ま.中麗敷の濤在籍門及び清三郎が名請人 であるから,字溝台の内かも蟻れな》。1まつけ漫 びきさ橋は,共に段丘崖に麗わ鯵がある地名霧藷 であるが,この慧っけの縫地は砦懇で,牢屋敷の 3人だ謬が名諸人であむ,きさ橋も大鋸分が灘で,
瞬むく中渥敷の3人の外,谷地畠の勘舞が名請人 である敏,これも字西海車載藻1こ這い字海台み肉 かとみられる。
い沼入・いこのま・いこ沼下は,字総懇入の小 沼(纒羅入溝井)に関わ善があるとみら蕊る。い こ沼は入小沼とも読める。沼ま1は大濠分が下々爆 で,多分沼高子沼の上手にあたり,換地緩でこれ に続いて記される本沢等と共に,字新溜善の鐸子 沼内にあたるのではなかろうか。浮は下々燐のみ であるから,泥深い土地とみなすのに戸惑いを感 ずるが,墾治捻奪講の上保原金鑼(籔墨§)で,高 子沼の堰堤の下手(籔韓ではスペースの趨合で鉦 手に窪記)1こ,ウキと読める涯記がみえるの1ま,
今後の綾討の手懸むになる。かくてこの縷地鑛で も高子材の耕地覆び渥敷(宅地)は,嚢子沼鎌髭 の沢籔だけに鰻ら載る。
出野は塗壇緩には記職されないから,この綾地 緩でも碁子村の出聾が,どこまで鉱がっていたか は職らない。明治?隼の高子梅薪蜷絵鑓か,近糧 の高子醤絵懸がみつかると,それが判るだろう。
今のところ繭速め上保原韓絵緩.出野改鑑後の出 牢の纈淳,寛保の上保原樗鑑振上緩,繰原後療の 上保原替宛下知書の外,二十境記の「連出醤周
(中覇)瞬罐申二麗ケテ,罠繕出二敏ル」の記事 が.その鑑定の参考になるだけである。
む す び
緯 熊叛覇陵の命名である二手境慧,瞬氏の藩
宅である高子羅高子鱗館4〉密雲館を中心として,
高子秘露ばかりでなく,箱麟・上保原各凝地内に わたる幽地夢丘陵及び台地で,詩題となる二十の 景勝地を選定して,名稼がっけられた。その名称
は漢籍を重視する漢文学考の灘目躍如たるものを 慰むさせる。しかしその背後に,この名称1こ麗わ
りがあるこの地の地形・変形地・地霧の名稼,毅 いは在来の地名がある事も.容易に窺知しうる。
麟 熊籔氏二十境俗講,饗首鍵・爆雷窟・採芝 屋及び龍脊巌は,箱麟耕地残1こあり,岳父出及び 愚公谷は羅圭傑漂講地内にあり,讐鐵は羅上保原 掃と大鳥樗との樗界に驚るが,いずも高子樗の外 である。それ故熊媛氏二手境がすべて高子繕の融 にあるとする謹捻妥当でない。
/3)この熊摂氏二十境の名梅が,瞬治§年に着 手する地覆駿姦・出野改猛の事業で,上謀療・高 子爾韓合爵後の上保原軽地内の毒野の新字名とし て採矯された。その籍字の中には,字醤露盤・長 曝嶺・不覊揚浸び古鑑丘のように,熊坂氏二十境 のi〜2を内に含むものもあるが,字遷蕪療・走 馬嶺及び白鷺蜂のように,多少難業がずれたもの
もある。中には字玉兎巌・籠脊巌・採芝屋・鐸帰 藪・饗着濁・隠撮・拾翠崖・零露・萬父出及び愚 公谷のように,発来の位置とは全く麗縣がない地 区の出字名とされた場合もある。騒鍍の龍蕎巌。
拾翠崖及び爵父出の純麗が.翼㌶のそれらの毯選 と縷達する事等からみると,玉兎巌以下の由宇名 は,便宜的に各地区に宛てられたと患われる。
嬢 駈謂ヂ高子二十境涯は,永慕編の二十境の 名称と顯淳とを採醜し,鉦保原纏内の各字にあて た。その海驢高子蔽及び露巻雲溺は,字新溜井及 び字心性出にあてたが,継ぎは縁む名の新字名にあ てた臼それ故ジ高子二十境」と称するのにも拘わ
らず,高子材以外にあるものも多数含む。それ故 この「高子」の二字は,高子軽の範懸を知らない 人に,誤解を与えかねないと患われる。嚢子の知 名大熊壌氏を癒んで高子二十境としたかとみられ
るが,その実は上程漂二十境であろう。
鱗 永慕編の二十境記硲記事と二十境詩二十首 の将帰阪の割蓬とは,整合しないとみえる。熊籔 氏二1十境の餐Σ選で一薬毒こ異議力藻あるのは,主とし てこの割涯に二十境記の記事を緩み合わぜる為に 慮たかと患われるeその説では一地形単元である
あ ぶ く ま ヂ ゑ
高子鐸1(出)に,長曝嚢嶺等も含むとするから, こ のノ罫由を高子t聾と長曝嶺とに選分する必要がある
鰭 福島大学教官学藻譲葉第騒号 緯§3奪麺舞
が,長曝嶺を醜者の驚称とみるならまだしも,地 形的境葬がない等で,狂分するのは無鍵だろう。
購読,聖地謁蓋では矢残誠滋氏の協力を縁た。
また小島窪王氏から1ま,伏黒本の永慕纏の全文コ ピーを載き,彩亀入むの文羅籔写の成立について も舞教示を受け,福島大学名誉教授の萱野宏氏か ら,「白雲館二十境雑記涯の綾織を戴き.更に種々 参考になる舞教示をうけ,幕懸一義氏の篠協力も 得た。ここにあわせて厚く謝意を表する。
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轡 安灘窃雄 白沢村の地霧 海沢秘史竣
⑦ 辛沢光夫 福島発・歴史地麟 総 ゼン1タン雑1 {主宅地纒
麟 熊藪台州 承慕編 磁島藥轡書館藏 韓 寛保2奪上保標縄鑑指墨緩 保原舞史二 2縫頁〜
醗 葎達郡村誌一 歴史鐵書鮭講本 妬3頁 〃 橿鳥藥籔書館藏
織 萱野宏 嚢雲館二十境雑記 芸文福島麟舞舞 ig総隼
繕 保原ライオンズクラブ纒 高子二十境・保原 の民話 平成3年
騒騒懸総懸㈱ 毒鼕鼕窪窪縫 礁㈱繍舗 鱗鯵㈱鱒鱒
漢語詞典 申毯科学醗講書醗究承継輯室編 啓達郡各韓地選,箱麟栂全緩 銀鱗書館藏 高子梶綾地緩保原驚史二3達8〜3§頭 鐸達蔀各耕地纒ノ上保漂耕金轡 (81に翼じ 承瞬羅鰻 上杉文書 福島青史7 i総葵 妙音磯記 信連一統志 擁島青史資料叢書鱒 総頁
鐙擦集 東駕大学難縫纒書館藏 静達郡越誌一 歴史纒書雑題本 唾溌蓑
鐵羽沼 遜上書 5i?頁
上保原種地籍纒・地籍緩 藥文書 福島藥文 建センター藏 籟擁伝兵籍の篠島窪陣 保原驚史二 2稔頁 鐸達蔀棄根領躰緩 梁辮驚史6 鰺5頁
麗徳3奪上保原材書士保麟硬二2灘買
上保原越絵纒 保原簿史二 中盤の蕊写真飯 原纒は陸奥蟹攣達郡上篠原秘総懸 縫穀象藏 地穆改鐙着手顯窪議目 編島雍史欝 聾2頁 地積改壷中諸事掘鰻 繭経書 錘6頁 聡治憩零榎寺境内取調鰻 鰺薦骨桑文書 舞下知書写 保原麩史三 2灘頁 擁滋蟹男 地名砂醗究 古今書醗 馨頁
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