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3・11以後の僕と憲法哲学 - 附属図書館 - 福島大学

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3・11以後の僕と憲法哲学

―福島大学生のための法学入門

金 井 光 生

すべての人間はある種の自然な親切と情愛によって、さらに法を共有する ことによって、一つに結ばれている。 ―キケロ『法律について』1巻35節

はじめに.

 本論集の今号は東日本大震災・福島第一原発事故発生3年の特集号というこ とで、学術的論稿に拘らず広く寄稿を求めるという趣旨だそうである。そこで 僕も、憲法学に従事する学藝者として、いまだ悩みながらも被災地・被曝地の 福島大学の教壇に立つ身として、3・11以後の憲法哲学の在り方を再自覚する ために、また、3・11前後の体験談の披露と今年度サバティカル(研究専念期 間)の近況報告も兼ねて、そして、将来多くは東北の復興に何らかの形で携わ ることになるだろう福島大学生にエールを送りつつ、ひとつの法学入門となる ことを意図して、エッセイ的な一文を寄せたいと思う。

1.

 ゴータマ・シッダールタ(釈迦)は説いた、「一切の生きとし生けるものは、

幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」(中村元訳『スッタニパータ』1章8 節145偈)、と。しかし、2011・3・11という未曾有の天災とそれに伴う国策 原発の人災は、福島・東北の人々の生存も生活も脅かす事態となってしまっ

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た。現在でも、故郷も職も生活も追われて避難生活を送っている人々も多く、

また、低線量被曝も収まるどころか東京電力の事故対応をめぐる不祥事も多い

―にもかかわらず、第二次安倍政権は、大震災と原発事故(事件?)などまる で無かったかのように、nuclear国策を一層推進し、平和的生存権を抹殺する ような日本国憲法の壊憲へと突き進んでいるのだけれども。

 カントと野田秀樹氏に衝撃を受けて学藝を志した僕が法学の道を進み始めた 理由は種々あれど、大きな理由は、青春時代に、「多種多様な人々がどうした ら平和に幸福に共生することができるのだろう?」という素朴にして究極的な 問いに直面したからにほかならない。もちろん、この問いへのアプローチは法 学以外の学問でも藝術でも宗教でも可能だし、どんな領域も人類の叡智として すばらしいものなのだけれど、苦しんでいる人たちを実効的に救済するにはや はり法的に人権問題を解決していくのが僕には最良に思われたのであった。し かも、それを実務家としてではなく、理論家として原理的に探究したいと思っ たのだった。それは、僕の研究対象であるアメリカ合衆国最高裁の有名な Oliver Wendell Holmes, Jr.裁判官がロースクール生に語った次の一節を知っ て、感銘を受けたからだ。

法は思索者の天職である。…思索者としての諸君の仕事は、ある事物 が諸々の事物全体へと通じる道を見通し易くすることであり、諸君が 有する事実と宇宙の構造との間の合理的な連関を示すことである

幸福とは、単に大企業の法律顧問になって莫大な収入を得ることで勝 ち取れるものではない。幸福を得るのに足る偉大な知性には、ビジネ ス的な成功のほかに、もっと別の糧が必要である。法に関するヨリ遠 大で一般的な側面とは、法に普遍的な関心を与えることである。そう した側面を通じてこそ、諸君は単に自己の天職で大家になるというだ けでなく、諸君の主題を宇宙と結合させ、無限者のこだまを捉え、そ

(3)

の 極 め て 計 り 知 れ な い プ ロ セ ス を 垣 間 見 て、 宇 宙 法 則 = 普 遍 法

(universal law)の暗示を受け取るのである

 現実の法的紛争の中に宇宙を見て、実定法(制定法)に即してかつ実定法を 超えてuniversal lawを探究すべしというホームズ裁判官の言葉は、実務家で かつプラグマティズム法学の祖と言われている人物のものであるがゆえに大変 重い。法学は単に「パンの学問」(F. シラー)ではありえない。まして、資 格試験のための技術的な受験勉強科目に尽きるものなどではまったくなく、ま さにミクロコスモスとしての人間の生とマクロコスモスとしての宇宙の交わり という深遠な哲学的な叡智なのだ。同じくホームズ裁判官が述べていたよう に、「法を率直に偉大な人間学=人類学的(anthropological)な文書とみなし て研究することはまったく適切なこと」であって、法は文藝作品と同じく人 類共同の文化作品として極めて<人間的なるもの>なのである。法学とは、杓 子定規で無味乾燥に形式的な文言解釈と当てはめだけを行っているのではな い。その背後で、絶えず宇宙世界を統べる外的法則と比定されるべき人間精神 を統べる内的法則を普遍的に解明することで、実定法を超えたRecht(法=権 利=正義)というレンズを通して実定法体系テキストに即して解釈する営みを 通じて人間を探究し、人間を幸福にする希望にほかならない。「法律学は、『実 現すべき理想の攻究』を伴はざる限り盲目であり、『法律中心の実有的攻究』

を伴はざる限り空虚であり、『法律的構成』を伴はざる限り無力である」とい う民法学の巨星:我妻栄の言は、つねづね肝に銘じておくべきである。

 こうして「掟の門」(F. カフカ)という「狭き門」(新約聖書ルカ福音書13 章24節)を―A. ジットの描くアリサのように彼岸に旅立つことなく―何とか くぐろうと志して紆余曲折した末、福島大学にお世話になることになったのだ が、その福島が「Fukushima」として不幸にも世界に知れ渡るようになった 悲劇が3年前に起きてしまった。去りたくても去れぬ人々とともに福島大学に 残った学生たちをまずは守る、という点で実務家たる教員(加えて震災当時は

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教務委員であった)としてはそれなりに対応したつもりだし、微々たるボラン ティア活動なども個人的に行ったりしたけれど、僕の実存において一層深刻 だったのは、いまこそ学藝者としての存在意義が問われることになった点で あった。

 「いったい、学藝など目の前で苦しんでいる人の役に立つのか?」という昔 から繰り返されてきた問題を蒸し返すつもりはない。そもそも学藝なるものが 役立つかどうかなど、しっかり学藝を学び修得してからでなければ判らないこ とであるし、より正確にいえば、学藝を役立たせることができるかどうかは学 ぶ者の側の都合にすぎない。しかし否応なしに現実がこの問題を胸に突きつけ てくる。しかもこの現実のあまりの大きさに言葉を失うしかなかった僕は、結 局、山のように日々量産されるに、

わ、 か、

論者の言説を尻目に、ただただ被曝しな がら沈黙するしかなかった。憲法学者ということ、福島大学で憲法学者である ということ、学藝者として何をすべきか、いかにあるべきか…。被災地などを 巡るほど、自分の無力さと学藝と学界の欺瞞性に悩み苦しんだ。

 しかしそのような中、僕にある種の決意をさせてくれたのも、現地に赴いて 活動する学藝者たちであった。芸人やアーティストも、自分はただお笑いや音 楽などをやることしかできないから何もしない、ではなくて、何の役にも立た ないかもしれないけれど、とにかく現地に飛んでお笑いや音楽などパフォーマ ンスをする、という行動に出た人たちが少なからずいたのであり、被災者の中 には、それによって犠牲者が還ってくることも放射線量が低下することもない としても、確かに心を癒された人々が存在したのである。わけても、福島出身 在住の有名な詩人:和合亮一氏が震災直後から福島に留まりながら魂の叫び声 を全国に向けて発信し続けていたことには、感動とともに大きなショックを受 けた。いったい、自分は学藝者として何をしているのか…。

 他方で、僕の知人が言ってくれた、「大変な時期に福島に留まって学生たち とともにいる、ということ自体が被災者への励み、被災地への貢献になってい るじゃないか」という言葉に励みと勇気をもらった。もっとも、原発事故が発

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生し放射性物質が飛散している中で福島大学に残り続けているというのは、結 果として―自分の本意ではまったくないにせよ―現状を肯定し国と東電の片棒 を担ぎ、学生たちを危険にさらすことに加担することになるのではないか、と いう切実な問題については、他人に傍観者的に指摘されるまでもなく、いまも 結論の出ないまま精神の異物感として存在し続けている。けれども、当時、現 にほとんどの学生が居残った以上は、その学生たちをその場で守ることもしな ければならなかったのは確かだと思う。そのことが、苦しんでいる人、虐げら れている人たちを法的に救済するという法学徒の務めであるとも思ったのだっ た。声なき声を上げている被災者たちとともに現地でRechtの声を上げること

―もちろん、声を上げて福島を離れるという勇気ある選択も当然あったろう。

いまだにどの選択が正しかったのかは判らない。だが、どこに在ろうとも、ど こに居ようとも、Rechtに仕える法学の使命は、公権力の道具や公務員試験の 受験技術に堕することではなく、フィールドワーク的にせよ、実践的にせよ、

純理論的にせよ、その内在的志向性としては「市民の権利のために闘うこと」

にある。

 法学に従事する者なら一度は必ず読む古典的名著:イェーリング『Rechtの ための闘争』の有名な一節。法を志す者の使命は重い。

   

利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=

法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならないかぎり

―世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが―権利=法にとっ て闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国 民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。/

世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題 はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。ま た、あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそ れを貫く用意があるということを前提としている。権利=法は、単な

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る思想ではなく、生き生きした力なのである。だからこそ、片手に権 利=法を量るための 秤 をもつ正義の女神は、もう一方の手で権利=

法を貫くための 剣 を握っているのだ。秤を伴わない剣は裸の実力を、

剣を伴わない秤は権利=法の無力を意味する。二つの要素は表裏一体 をなすべきものであり、正義の女神が剣をとる力と、秤を操る技との バランスがとれている場合にのみ、完全な権利=法状態が実現される ことになる。…闘争は権利=法の永遠の仕事である。労働がなければ 財産がないように、闘争がなければ権利=法はない。『額に汗して汝 のパンを摂れ』という命題が真実であるのと同様に、『闘争において 汝の権利=法を見出せ』という命題も真実である

 僕はいましばらくは―少なくとも、大学生時に被災被曝した学生が卒業する のを見届けるまでは―福島大学に残り、フクシマの憲法学者として理論的に被 災者・被曝者の権利を擁護し闘うために、無い知恵を絞り出していこうと決心 した。当たり前のことと言えば当たり前のことなのだが、芸人やアーティスト が芸を披露したりパフォーマンスしたりし続けるしかないのと同様、学藝者と しての僕は学藝を行うほかない。この現状を、世界を、universal lawの観点 から理論的に解明し解決策を練ること。かりにそれがただちに影響がなかった としても、現に苦しんでいる被災者・被曝者たちの権利の法的保障や現場で活 躍する実務家やボランティアの人たちの実践の法的正当化を理論的に行うこと は必要不可欠だし、長い目で見て、後代の子孫たちのために、このフクシマか ら発信したことが日本あるいは世界にとって有意義なものとなるかもしれな い。「われらとわれらの子孫のために」という日本国憲法前文第一段のフレー ズは重く受け止められるべきだ。

 同時に、学藝者として大学教員としてなすべきことのひとつとして、福島大 学その他での「講義」の意義を再検討する必要に迫られた。そこで、「憲法」

などのレギュラーの授業科目の中に震災関連の論点を加えて、できる限り関連

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情報も提供しつつ論じることにしただけでなく、地元メディアの要請に応えて 講義や演習の一部を放映することもしたりした。さらに、「憲法哲学」という 特殊講義を立ち上げて、このフクシマからRechtと日本国憲法の潜在的可能性 を被災者である学生たちとともに、哲学原理的に再検討することを試みたの だった。毎年240人程度の「憲法Ⅰ(人権)」講義と比べて、この特殊講義で は履修者は数人しかいなかったが意欲ある学生ばかりで、皆で濃密な時間を共 有でき、教科書の解説とは異なる充実した内容に、「大学に来た甲斐があった」

という感想まで頂けた。科目継続の希望も出た。貴重な体験であった。

 とはいえ、この実験的試みを通じて大きな論点が浮かび上がってきた。それ はつまり、「日本国憲法体系は本当に主権者たる日本の市民に根づいているの か?」という問題である。5月3日や11月3日が何の日か知らないとか、日 本国憲法が全部で何条あるか知らないなどというのは日本国民として論外(と いうか、ヤバイ)としても、小中高校で最低限の知識として日本国憲法を学ん でも、その理念や精神をきちんと理解して、しかもそれらを大脳だけではなく て心身に血肉化しているかといえば、おそらくそのような人はほとんどいない だろう。下手をすると、「法は市民の権利を守るもの」、そのために、「最高法 規である憲法は公権力(政府)を義務づけ統制するもの」といった法の支配や 立憲主義といった基本常識の理解さえアヤフヤかもしれない。「法と道徳感情 の原則的な区別」といった合理的たるべき 法リーガル・マインド的思考 の基本路線も、すべてを リクツより感情論か「お涙ちょうだい」話でケリをつけたがる一般の人にはな かなか理解しがたいだろう。多くの一般市民は、他人の権利を明確に侵害し ない程度の不快な言論やアブナイ思想にも敏感に反応しすぐに安易に法的規制 を感情的に叫ぶ割には、選挙権の行使にも普段の政治にも無関心、そのクセ、

自由におしゃべりし自由にゲームや音楽を楽しみ自由に恋愛するといった具合 に思う存分、本人の自覚のないまま日本国憲法の恩恵を享けて、日本国憲法上 の権利自由を行使しているというのが大方の現状であろう。しかし、3・11に より、「幸福追求権」(憲法13条)や「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法

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25条)などを侵害されて避難生活を強いられているような状況に遭遇してし まったからには、日本国憲法をはじめとする諸法に無関心ではいられないはず だ。だが、3・11後に一時は市民運動なども大いに盛り上がりを見たものの、

いまでは小さな活動を除けば、全国的にはもはや大震災の記憶すら風化し忘却 されつつある。誰かが仕組んでいるのかもしれないが、これでは国や東電の思 うツボである。3・11を別にしても、年間約3万人もの自殺者が出るこの国に おいては、「法の精神」(モンテスキュー)についての日本人の 心メンタリティ性 は、あま りにも脆い。

 おそらく、公領域における神権政治の悪弊への反省と政教分離(これ自体は 正しいことだ)のゆえに、私領域における宗教や宗教性まで希薄になってし まった戦後の日本にあっては、自己の生を賭けることができるリアルな信の対 象を喪失してしまい、それゆえに、反動的に新興宗教に入信したり、感情的な 匿名ネット世界に引きこもったり、果ては薬物や自殺などに走ったりすること になる人が続出する傾向にあるのではないだろうか。

 宗教それ自体の意義や是非について、僕には論じる資格がない。ただ、「宗 教=アブナイ」といった宗教学的無知によるそれ自体皮相で浅薄なカルト宗教 的偏見こそ最もアブナイものだと考えてはいるが。これから真の国際化を迎え ようというのに、諸宗教の基礎知識も持ち合わせてないようではお話にならな い。それに、ロクな宗教学的知識もないゆえに免疫も抵抗力もつかず、本当に 危険なカルト宗教にすぐ洗脳されてしまうのでもあろう。だからまずは、普遍 的な世界宗教の思想の意義と力には敬意を表さざるをえない。だが、少なくと も現代日本で、政府や政治をコントロールする公共圏において、自己の存在と 生の最終的なよ、

す、 が、

として市民の信の対象となりえるのは、もはや神や仏や霊 や預言者ではなく、Recht理念に根ざした法の支配・立憲主義を体現する法体 系にほかならない。この公領域において仏典や聖書や祝詞等に相当するのは、

憲法を最高法規とする法テキストであるはずである。3・11などの理不尽な災 厄によって不遇にある人が法的な救いを求めるのは法テキスト以外にない。そ

(9)

して、この法的な救いは心の救いにきっと繋がっていることと思いたい。主権 者市民が法に親しみ、法を通じて自己の権利を実現するために国家権力を民主 的に設営・運営していくことは、とりもなおさず、市民各人が自己の生き様

(と死に様)をRechtの精神的内在化を通じて自己のものとして全うできる前 提条件なのだから。法によって私たちの法的存在は法人格という形で保障され るのである。ならば、市民に法を説き法に市民を親しませるために、あるい は、主権者が真の主権者として本当に目覚めるために、数千年の歴史と重みに よってその普遍的な意義と価値が承認されている普遍的な世界宗教の思想と方 法に学び倣うことは、法学者たる者が真摯に取り組むべき課題となる。

 宗教的なるものを学ぶことは、決して神政や政教一致の復古といった反動的 な意味ではなく、法と法学の精神的基盤の解明と慈養にとって有益である。有 名なルソーの『社会契約論』がその掉尾で一見謎めいた「市民宗教」という構 想を提唱したのも、彼の理想とする共和主義を真に根づかせようとするゆえで あろう。かように、法学と神学とのパラレルは新しい発想でもなんでもない。

その詳細は法史学(法制史学)や法哲学を通じて各自で勉強してもらうとして も、西欧最古の総合大学といわれるボローニャ大学以来、法学・神学・医学は 上級三学部としてuniversityの顔であったほど重視されて密接に関わり合って きたという事実以上に、理論内容的にも、西欧法(学)へのローマ法と教会 法(カノン法)の影響のみならず、「契約」やら「ペルソナ」やら「人間の尊 厳」やらの諸観念をはじめとして、「近代国家学の重要な概念はすべて世俗化 された神学的概念である」と指摘されるほどまでなのである。この「法学≒

神学」の図式を忘却したのはそれほど古いことではなく、とりわけ日本では、

先の大戦で国家神道体制のために内外に悲劇をもたらした結果、「たらいの水 と一緒に赤子を流す」ごとくのヒステリックな宗教アレルギー狂(教?)と なってしまったうえに、近年の実用主義偏重で大学教育が劣化したことも重 なって、この忘却が促進されたのだろう。

 誤解されないように繰り返すが、「特定の宗教を信仰せよ」とか「神を信じ

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よ」などと説教しているのでは断じてない。信仰するかどうかはそれ自体が

「信教の自由」(憲法20条)で保障された私領域の問題である。信仰ではなく、

数千年の風雪に耐え生きてきた宗教的な理念というか精神というか本質の意義 から真摯に学び、市民の心身に生き生きとした法観念を根づかせようとする法 学に活かせるものは活かすべし、ということである。心からの助けや救いを求 める弱者には本当の法的な助けや救いがなされなければならない。Recht理念 と法的な救済思想の全市民的な実現のために、慈悲や博愛を説き、なかんずく

「救い」を真正面から扱ってきた宗教に学ぶことは多い。ルソー狂いの誇大妄 想家ロベスピエールや大日本帝国の暴走を挙げるまでもなく、左、

右、 両、

極、 に、

与、 え、 る、

宗、 教、

の、 力、

の、 負、

の、 側、

面、 を、

反、 省、

し、 反、

面、 教、

師、 と、

し、 て、

活、 か、

す、 こ、

と、 も、

含、 め、

て、

10

2.

 そこで折よく、この2014年度にサバティカル(研究専念期間)を頂戴した。

3・11大震災前は法律家のはしくれとして、また、ホームズ裁判官についての 研究者として、サバティカルが取れたら当然にアメリカ合衆国のロースクール にでも留学するつもりであった。しかし大震災を体験して3年経ち、全国的に 風化し忘却されつつ、さらに保守的改憲へ突き進もうとする時流にあって、今 こそ3・11にフクシマの人間が取り組まないでどうするという使命感と、悲劇 のどん底に突き落とされたフクシマだからこそ、この地から、真のRecht理念 と日本国憲法への信を問うことができるはずだという期待感から―たまさか佐 藤優『神学部とは何か』(新教出版社、2009年)を読んだこともあって―一年 度間、国内の専門的な研究機関で自分の直接の専門とは異なる前述の宗教的な るものへの勉学にあえて取り組むことにした。専門上、3・11や憲法の事柄は 否応なしに自分で勉強せざるをえないのであるから、この一年度間は、普遍的 な世界宗教であり、多くの国々の精神や文化に多大な影響を与え、法観念や法 文化にも無縁ではない、キリスト教神学と仏教学の基本思想の修得とその応用

(11)

としての僕の憲法哲学の思索的深化に集中しようと、『華厳経』の善財童子を 見習って法門を訪ねて指導を受けることにした。ともに2000年以上も続く人 類の偉大な遺産をたった一年度間で学ぶなどというのは高が知れているだろう が、それでも集中的に学ぶことができる機会は今回を除いておそらくもう二度 とないだろうと思い、海外ロースクール留学を断念したのだった。

 はたして、まだ2か月が過ぎようとするにすぎないけれども、ほぼすべてが 僕にとっては新鮮で、まったくもって充実し有益で有意義な日々を送らせても らっている。朝イチから夜まで講義や勉強が続き、おまけに約10年ぶりの東 京の朝の地獄のラッシュに精神的にも肉体的にもしんどいけれども、ただただ 純粋に新たな世界を知り学藝に打ち込める喜び!この上ない贅沢である。つく づく、貴重な時間とお金を割いて大学に通える自由(「学問の自由」と「大学 の自治」―特に福島大学は伝統的に学生・職員・教員という「三者自治」を重 んじてきた―も憲法23条で保障されている11)を行使している大学生は幸福で ある。古典名作に親しみ人類の叡智に耳を傾け積極的に学藝に打ち込んで思索 することで脳トレして、人間性のレベルアップに努めてもらいたいと思う。

 さて、曲がりなりにもキリスト教神学と仏教学(以下断りのない限り、便宜 上両者を合わせて「神学」と表記する)を齧ってみて率直に感じたのは、やは り神学と法学の本質的な構造の類似性であった。いうまでもなく、神学は、神 仏等という超越者にコミットしつつ啓示された聖典・経典類を前提にして、テ キスト解釈学を遂行してあるべき生き様を説く。他方、法学は、Recht(お好 みならば、「正義」あるいは「人権」などと言い換えてもよいが)という超越 的観念にコミットしつつ法テキストを一応前提として、同じく護教論的に合理 的に弁明しながらテキスト解釈学を遂行してあるべき社会を構想する。両者は ともに、希望に賭ける(第一には)<教ドグマ義学>なのである。ただし、超越者の 啓示とは異なり、明らかに有限で可謬的な人間の手に成る実定法は、原理的に テキスト改訂に開かれている点は異なるだろうけれど。

(12)

パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、

あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わた しは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを 見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたか らです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわた しはお知らせしましょう…」(新約聖書使徒言行録17章22−23節)。

 こう述べて、異邦人宣教の使徒パウロ(かつてはイエス教団を迫害していた 側であったが、「目からうろこのようなものが落ち」[新約聖書使徒言行録9章 18節]回心した)は、非キリスト教圏であった多神教のギリシアに、世界を 創造し統べる「知られざる神」である超越的唯一神の福音を説いた。法学徒

(法に関わる者すべて)であれば、この「知られざる神」をRecht理念と読み 替えて法を説き、大乗仏教の菩薩のごとく衆生救済という利他行に向かわなけ ればならない。とりわけ、絶望の淵に立たされた弱者とともに在って。

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状 態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたし は弱いときにこそ強いからです(新約聖書第二コリント信徒への手紙 12章10節)。

 どん底に突き落とされた時こそ、キリスト(救世主)としてのRecht理念 に、それを最良に体現した日本国憲法に、自己の生の希望を賭けることで、人 は強くなれるはずだ。何となれば、どんな人間でも自己を反省し、他者とのよ り良い関係に向かいたいと希望する以上、万人にはRecht理念へと向かう傾向 性が具わっているはずであるから。その理念は多くの人々には無自覚に隠され ていたとしても、普段の人々の言動の断片から推測するに、大乗仏教のいう

「如来蔵(仏種)」(『法華経』、『大般涅槃経』など)やキリスト教教父ユスティ

(13)

ノスのいう「種子的ロゴス」12の思想が教えてくれるように、universal lawは すべての人間の精神に、コミュニケーションを通じた全きRecht理念への潜在 的可能性を植えつけていると信じてよい。その市民たちの精神に眠るRecht理 念への契機を理性的に目覚めさせることこそ、法学徒の役目である。

 もちろん、神と同じく、Recht理念が実在するのか否か、実在するとしても Recht理念の内容に正解があるのか否か、有限で可謬的な人間には一朝一夕に 判ることはない。そもそも自分のことですら自分でよく判らないのに、社会や 世界のことなどただちに判ろうはずがない。だが、正解を把捉できるかどうか 判らないけれども、この理念が人間の生き様に何らかの影響を及ぼしている限 り、人間にとって本当に大切な問いだからこそ問い続ける価値と意義がある。

「大切なことは目に見えない」(サン=テグジュペリ『星の王子さま』より)。 かりにそれが人間の想像=創造したフィクションにすぎないとしても、それど ころか、弱者たちの「ルサンチマン」(F. ニーチェ)の帰結にすぎなかったと しても、それは信じるに足る、いや信じるべきリ、

ア、 ル、

な、 フ、

ィ、 ク、

シ、 ョ、

ン、

ではない だろうか。だから対話しつつ探究し続けなければならないのだ。

正義の理念にコミットするということは、『何が正義か』について超 越者が知っている正解にコミットすることではなく、こ﹅

の﹅ 問﹅

い﹅ そ﹅

の﹅ も﹅ の

﹅ に

コミットすることである。それは、かかる正解を手に入れて―手 に入れたつもりになって―それをこの世に性急に実現しようとする哲 学者王の野心ではなく、この問いを問い続け、解答を異にしながらも 同じ問いを問う他者との緊張を孕んだ対話を生き抜こうとする決意で ある。正解がど﹅

﹅ か

﹅ に

﹅ あ

﹅ る

﹅ か

﹅ ら

問うのではない。逆である。問いを真 正の問いと認めるからこそ、その正解の存在を想定せざるを得ないの である13

 「神は死んだ」と喝破したニーチェはかっこいい。だけれども、そうやって

(14)

「王様は裸だ!」と知のヴェールを剥ぎ取ってしまった後、ニーチェは自らを ブッダやキリストだと誇大妄想した挙句に発狂するしかなかった。しかも世界 はニーチェとは無関係に相変わらず動いている。有限で可謬的な私たち人間に とっては、有限で可謬的であるというまさにその事実が、人間を超越しこ、

の、 私、 を支えてくれている存在を予兆せざるをえない。とはいえ、他者との幸福な平 和的共生を可能とする最小限の「高貴な嘘」(プラトン)と、ただのウソ・マ ヤカシ・ダマシとの分別をどのようにしたらよいのか。この際どい一線の危険 性を意識しつつ、一方でTraditioの重みと、他方で情報公開に基づく思考と批 判の自由の中で、絶えず吟味し検証し続けるしかない。この意味では、僕の憲 法哲学におけるRecht理念の主たる内実を検証する試金石とは、絶えずこの Recht理念自体の再検討に開かれた、しかしその点においてまぎれもなく Recht理念のリアリティを前提としそれを統制的かつ構成的な原理とするとこ ろの、異質な他者との人格的な交わりを根源とするコミュニケーション関係性 の場である「思想の自由市場」を適正に保障し実現しているか、ということに なろうか。特に、3・11後の政府・東電の情報の操作や隠ぺいをめぐる犯罪的 行為を嫌というほど知らされたからには、この仮説を信じて法的に探究してみ るに値しよう。

3.

 宮沢賢治もインスピレーションを得て小品を記した『華厳経』についての

「インドラ(帝釈天)の網」の喩えのごとく、世界は無限の連続性のつながり をもって形成されており、森羅万象は仏教の説く「縁起」によって相即相入し て一即多・多即一の 法ダルマの中で生滅しているのだとするなら、私という存在も 他者から、キリスト教にいう「恩恵」として贈与され続けているのであって、

人格的コミュニケーション的な「我‐汝」という交わりを通じた個々人の人間 の尊厳はかけがえないものとして美しく大切にされなければならない。思う

(15)

に、ブッダにせよキリストにせよ、普遍的な世界宗教の偉大な開祖たちに共通 する最大の意義とは、現存在の時間的な有限性と可謬性を超克して、万人に、

わけても弱者や疎外者たちに、ディスコミュニケーションの修復と新たな人格 的なコミュニケーション関係性の再生という外部への開かれたる普遍的な救い をもたらしたことにある。それこそ、まさしく日本国憲法の保障する「平和的 生存権」(前文)と「個人の尊重」(13条)と、他の権利自由よりも厚く保障 されるとされている「思想・表現の自由」(19条・21条)の理念に最良に体現 されているものである。このことをとっても、日本国憲法は、古今東西人類が 苦しみと闘いの中から勝ち取ってきた偉大な遺産を受け継ぎつつ日本固有の風 土と円融させた叡智の結晶なのである―残念ながら、安倍政権が主張する 2012年自民党改憲案では、こうしたRecht理念が著しく退行してしまってい るけれども。

 私たちは、3・11大震災と原発事故の当事者として、公権力の言いなりで あってもならず実利主義第一であってもならず―今回の原発事件がまさに原子 力ムラという<産・官・学>の連携(結)による共犯であったことを忘れて はならない―真理を自律的に探究すべき最高学府たるuniversityにおいて、諸 学問を活かして法学を修得し、その価値と意義を社会に出て回向し実現する責 務を負っていると思う。法学を学ぶ者は単に通説と判例を理解・暗記するだけ で終わってはならない。Recht理念へのuniversal lawを法学‐哲学的に探究 すること、それにより衆生救済の闘いへと向かうこと、これが真摯で誠実な正 義の女神の使徒たるべき「法の賢慮(iuris prudentia)」としての法学の本質 なのである。

大学は職業教育の場ではありません。…大学の目的は、熟練した法律 家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人 間を育成することにあります。…人間は、弁護士、医師、商人、製造 業者である以前に、何よりも人間なのです。有能で賢明な人間に育て

(16)

上げれば、後は自分自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になること でしょう。専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは 専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野 の 技 術 的 知 識 に 光 を 当 て て 正 し い 方 向 に 導 く 一 般 教 養(general culture)の光明をもたらす類のものです。確かに、人間は一般教養 教育を受けなくても有能な弁護士となることはできますが、しかし、

哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記する のではなく、ものごとの原理を追求し把握しようとする哲学的な弁護 士となるためには、一般教養教育が必要となります14

 僕自身についても、純粋な学藝の成果をただ自分の喜びのためにだけではな く、これを自分の憲法哲学に生かして、少しでも人のため世のために回向する ことが、福島大学の大学人としての使命であり恩返しでもあろう。ひとえに 人々が少しでも幸せに暮らせるようにしたい、この社会を、愛すべき故郷を、

日本という国を良くしたい、ただそれだけの一念であって、政治的立場は関係 ない。明治天皇は「五箇条の御誓文」の一番最初に「広く会議を興し、万機公 論に決すべし」と天神地祇に誓った。当初の起草者の意図がどうであれ、この 誓いは―のちに昭和天皇も述懐しているように、民主主義の精神が日本にも古 来存在したことを闡明したものといえるのだとすればなおのこと―多様な意見 や見解の存在を寛容に認め、万事をフェアな言論と熟議によるべきことを要請 している。

 特定の思想や言動が不快だとか不敬だとかいって、それを実力や暴力で排除 したり抹殺したりすることは人として許されない。もし自分の思想が本当に信 ずるに値する正しい思想だと考えるなら合理的な言論のみによって自然と普及 するはずであって、合理的な言論によるのではなく実力や暴力に訴えたり、ま して異論反論を迫害したり弾圧したりすることは、すでに自分の思想の真実の 力を信じていないことになり、自分の思想を自分で裏切り否定することになっ

(17)

てしまう。人間が「考える葦」(B. パスカル)である限り、「思想・表現の自 由」の保障、その核心である「思想の自由市場」コンセプトという規範は、洋 の東西を問わず普遍的なRechtの主な内実なのであり、どんな思想や政治的な 立場を採用する人といえどもそれを侵すことは自己矛盾・遂行的矛盾に陥ると いう意味で、普遍的に擁護されなければならない「宝」である15。そして大学 は、専門職の倫理と良心に基づき、全き真理を求めて、適正な距離をもって市 民と公権力とを架橋しつつ批判する自由な審級でなければならない16。まった くもって、「知は力なり」(F. ベーコン)である―敢えて賢かれ(Sapere aude)17

おわりに.

 再び、ホームズ裁判官の言。

世俗の専門職の中で法律家は最高水準にあると世間が感じている、と いうのは真実であろうと思いたい。/ 法曹ということ!どんな物事も 他の物事との関連で考えられるときには間違いなく興味深い。どんな 天職も真摯に追求されるならば偉大なものである。しかし、人間の魂 の自発的なエネルギーを実感するような機会を与えてくれるのは、法 律職以外にあるだろうか?人が人間の生の流れの中にこれほどまで深 く身を投じること―そして、目撃者としても当事者としても、人間の 生の情熱・闘争・絶望・勝利をこれほどまで深く共有することは、法 律職以外にあるだろうか18

 Rechtそれ自体はフィクションかもしれないけれど、法的紛争は疑いなくリ アルな現実だ。弱者に腸が引き裂かれるほどに共感(com-passion)し弱者に 寄り添い弱者とともに事態の法的な解明を行い、法的な言葉を与えて法的な声

(18)

を上げること。意識しようとしまいと、空気と同じく法の中で生存しなければ ならない以上、万人は皆潜在的な法律家でありRechtの子である。市民の Rechtに仕えるべき公務員等の志望者はもちろんのこと、自分の専攻や職業に かかわりなく、法を学ぶことには意義がある。とりわけ、大震災や原発事故で 深い傷を負ってしまった人は、その癒しと救済のためにも。とはいえ、人間に とって大切なのは傷の回復や魂の復活よりも「再現する傷」(岩井俊二監督映 画『リリイ・シュシュのすべて』[ロックウェル・アイズ、2001年]より)で あるというのも、一抹の真実を含んでいるのかもしれないが。

 先の民事法学の大家イェーリングの古典的名著と並んで、刑事法上の古典的 名著で罪刑法定主義や死刑問題を考える際の必読書:ベッカリーア『犯罪と刑 罰』「序論」の冒頭から。法の支配・立憲主義の意義を真に受け止めよう。

 すぐれた法律は、その性質上、人々のあいだにあまねく利益をゆき わたらせるものである。少数の者たちだけに権力と富が集中し、残る 大多数の者たちは不利な立場に置かれ、貧困に陥ってしまいがちな傾 向に歯止めをかけるのも、すぐれた法律の役割である。それなのに、

人々は、〔法律を作るという〕この最も重要な決定事項を、日々の場 当たり的な思いつきや、すぐれた法律とは利益が相反する立場にある ような人たちの思いのままにゆだねて、大抵の場合そのまま放ったら かしにしてしまっている19

 いずれにせよ、3・11のせいで大学に行くことさえできなくなってしまった 同志たちも現にいることは忘れられてはならない。全国的には3・11が風化し 忘却されつつあるこれからこそ、福島大学生のみなさんには、想いを新たに、

自分の将来と将来の子孫たちのために3・11以後の憲法その他の諸法学を真剣 に学んで巣立っていただきたい。「学問」とは学び問い続けるという人間だけ に許された永遠の営みであり、結局、「学生」とは学んで生きる者のことであ

(19)

り、「学者」とは学び続けるべき者のことである。

 未来はRecht理念に照らされて、信じ学びつつ私たち自身が築き上げていか なければならない。どんなに無力さにうちひしがれようとも、未来は確実に到 来しつつあるのであり、しかもその未来は無限の潜在的可能性を秘めている。

それを人は<希望>と呼ぶ。だから私たちは、いまだ汲み尽されていない 1946年日本国憲法のポテンシャルに賭けながら、「われらとわれらの子孫のた めに」、日本国憲法という真言・福音を語り伝えながら生きなければならない。

冒頭に掲げたキケロの言葉にあるように、私たちは、相対的で限定的な国家や 政府やましてや公権的シンボル等によってではなく、ただ無限に与る各人の内 なる「他者への愛」と「Rechtに基づくuniversal law」の自覚と努力によっ てのみ、真に一つに結ばれて、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免 かれ、平和のうちに生存する権利」(日本国憲法前文第二段)を実現させるの である。

 さて、僕は、3年間の沈黙を経て初めて真正面から3・11に取り組み苦心惨 憺して執筆した最近の研究論文を、万感の想いを込めてこう結んだのだった―

「無力とは無限の力の潜在的可能性の予兆である」20

【課題】X. ボーヴォワ監督映画『神々と男たち』(フランス、2010年*実話を基にし た作品。カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリほか受賞)を観て、「信じるこ と」、「生きること」、「正義と救済をなすこと」について議論してみよう。

 【参考文献】*印を付けた文献は初学者への法学入門的な推薦書 遠藤比呂通『人権という幻-対話と尊厳の憲法学』(勁草書房、2011年)

大野晋『日本人の神』(河出文庫、2013年)

(20)

奥平康弘ほか編『危機の憲法学』(弘文堂、2013年)

奥平康弘・木村草太『未完の憲法』(潮出版社、2014年)

金井光生『裁判官ホームズとプラグマティズム―<思想の自由市場>論におけ る調和の霊感』(風行社、2006年)

同「憲法哲学の夜想曲:『正義の女』―ニーチェに寄せて」福島大学行政社会 論集23巻3号(2011年)

同『フクシマで“日本国憲法<前文>”を読む―家族で語ろう憲法のこと(福 島大学ブックレットNo.10)』(公人の友社、2014年)*

上脇博之『自民改憲案VS日本国憲法』(日本機関紙出版センター、2013年)

木村草太『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書、2012年)*

来栖三郎『法とフィクション』(東京大学出版会、1999年)

後藤忍編著(福島大学放射線副読本研究会監修)『みんなで学ぶ放射線副読本』

(合同出版、2013年)

佐野眞一・和合亮一『言葉に何ができるのか 3・11を越えて―』(徳間書店、

2012年)

塩谷弘康ほか『共生の法社会学―フクシマ後の<社会と法>』(法律文化社、

2014年)

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)

東京電力福島原子力発電所事故調査委員会『国会事故調報告書』(徳間書店、

2012年)

富田哲『法学の考え方・学び方―イェーリングにおける「秤」と「剣」(福島 大学ブックレットNo.5)』(公人の友社、2009年)*

中井浩一『被災大学は何をしてきたか』(中公新書ラクレ、2014年)

樋口陽一『人権(一語の辞典)』(三省堂、1996年)*

平井亮輔編『正義―現代社会の公共哲学を求めて』(嵯峨野書院、2004年)

福島大学原発災害支援フォーラムほか『原発災害とアカデミズム』(合同出版、

2013年)

(21)

森英樹ほか編著『3・11と憲法』(日本評論社、2012年)*

宮本久雄編『宗教的共生と科学』(教友社、2014年)

安冨歩『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』(明石書店、

2012年)

山本尤『ナチズムと大学』(中公新書、1985年)

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書、2011年)

Th. リット(小笠原道雄編)『原子力と倫理』(東信堂、2012年)

特集「大学の悲鳴」中央公論2014年2月号

雁屋哲(作)・花咲アキラ(画)「美味しんぼ」(第604話)週刊ビッグコミッ クスピリッツ2014年6月2日号(25号、小学館)

1 Holmes, The Profession of the Law (1886). ホームズ裁判官の詳細につい ては、拙著の参照を乞う。なお、彼の遺した貴重な文書の一部は、マイクロ フィルム資料として、福島大学附属図書館に所蔵されている。

2 Holmes, The Path of the Law (1897).

3 F. シラー(新関良三訳)「世界史とは何か、また何のためにこれを学ぶか」

『世界文学大系18・シラー』(筑摩書房、1959年)94頁以下。

4 Holmes, Law in Science and Science in Law (1899).

5 我妻栄『近代法における債権の優越的地位』(有斐閣、1953)560頁。

6 R. イェーリング(村上淳一訳)『権利のための闘争』(岩波文庫、1982年)

29-30頁、138-139頁。

7 「わたしたち日本列島人のなかに、倫理と法的規範を区別できない心情と理路 の溶融があるためで、これは宿痾のひとつとしてあるとかんがえた方がいい。

これは往相(往きがけ)で否定するのは難しい。還相(還りがけ)で否定する ほかない」(吉本隆明「聖徳太子『憲法十七条』」『思想のアンソロジー』[ちく ま学芸文庫、2013年]135頁)。

8 そして、それらを下支えしそれらを合理的かつ批判的に再吟味し続ける哲学的 営みは、すべての諸学問に内在する根底でなければならない(I. カント[角忍 ほか訳]「諸学部の争い」『カント全集18巻』[岩波書店、2002年]参照)。 9 C.シュミット(長尾龍一訳)「政治神学」長尾龍一編『カール・シュミット

(22)

著作集Ⅰ』(慈学社、2007年)28頁。G.アガンベン(上村忠男ほか訳)『例外 状態』(未來社、2007年)も参照。シュミットとは対照的な関心からではある が、ケルゼンもまた神学と国家論との並行性を指摘していた(H.ケルゼン

[長尾龍一訳]『ハンス・ケルゼン著作集Ⅵ・神話と宗教』[慈学社、2011年])。 10 そして―詳細は割愛するが―僕の研究内容面からいえば、おそらく大部分の 日本人が<空気>の支配の中で無自覚的に秘め続けている「内なる筧克彦と和 辻哲郎の思想」を立憲主義的な間主観的心身性によって克服するためにも。

11 思想の自由市場の理想型たる「独立的思考と批判の府」としての大学。「学問 の自由・大学の自治は、社会が、大学および研究者をしてその使命を果たさせ るに当たって、その職責遂行上の不可欠の条件として、社会自らの利害の観点 から、大学・研究者にこれを与えたものである…。社会自身が、秩序より自由 を重しとし、人類の絶えざる進歩を信じ、それによって、より多くの民衆の福 祉をもたらすことを信条としている。このような社会は、ほかならぬ真理探究 を使命とする大学に対して、当然、社会の知的進歩のリーダーシップを期待す るであろう。そして、大学は、この期待に応えるためには、外に対し、また、

その内部において、真理探究が可能であるような諸条件を確保しえなければな らない。これが大学の自由であり、学問の自由である。大学は、これらの自由 を保障されるとき、真理の探究を遂行することができ、それによって社会に奉 仕することができる。したがって、それらの自由は、一見『特別』で民主主義 と両立しないようにみえるが、高い理念の次元においては、社会自身がその利 害の見地からこれを大学に認めるところのものである」(高柳信一『学問の自由』

[岩波書店、1983年]125頁)。本郷隆「『大学の自治』に関する試論」東京大学 法科大学院ローレビュー7号(2012年)も参照。

12 ユスティノス(柴田有訳)「ローマ人元老院に宛てたキリスト教徒のための弁 明(=第二弁明)」『キリスト教教父著作集1・ユスティノス』(教文館、1992 年)149頁以下。

13 井上達夫『共生の作法』(創文社、1986年)24頁。

14 J.S.ミル(竹内一誠訳)『大学教育について』(岩波文庫、2011年)12頁、

13-14頁。

15 I.カント(円谷裕二訳)「思考の方向を定めるとはどういうことか」『カン ト全集13巻』(岩波書店、2002年)も参照。

16 「Philosophiam profiteriは『哲学を公言すること』を意味します。たんに哲

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学者であること、哲学を適切な仕方で実践し、教えることではなく、公的な形 で身を捧げること、哲学に従事すること、証言すること、さらには哲学のため に戦うことを公的な約束によって誓約することです。ここで重要なのはこうし た約束であり、責任の誓約です。…公言されるもの、教えられ、実践されるも のの知、対象、内容が理論的ないしは事実確認的な次元にとどまるとしても、

公言することはつねに、行為遂行的なスピーチ・アクトのうちにあります。…

『公言する』という語彙において私が強調するのは、職業や教師の権威、想定さ れるその専門能力、職業や教師がもたらす確証よりも、今一度言うと、保持さ れるべき 関アンガージュマン与 、責任の宣言のことです」。「結局、私の仮説はおそらく、次 のようなものになるでしょう(これはきわめて困難で、ほとんどありえないも ので、証明できそうにないものです)―思考、脱構築、正義、<人文学>、大 学、等々が有するある種の無、、、、、

条件的な独立は、分、、、、、、、、

割不可能な主権および主権的 な統制のあらゆる 幻ファンタスム像 から切り離されるべきであろう、という。…アカデミ ズムの外の力と調和しながら現実に抵抗するため、また、(政治的、法的、経済 的な)再我有化のあらゆる試みに抗して、主権のあらゆる別の形象に抗して、

自らの営み〔=作品〕によって創造的な攻撃布陣を張るためにです」(J.デリ ダ[西山雄二訳]『条件なき大学』[月曜社、2008年]32-33頁、46頁、70頁、

72頁)。

17 I.カント(篠田英雄訳)『啓蒙とは何か』(岩波文庫、1974年)7頁。往年 の天皇機関説弾圧事件を彷彿とさせるような、先頃の広島大学の授業への政治 的干渉のようなことは断じて許されない(早稲田大学教授水島朝穂氏ウェブサ イト「今週の『直言』」2014年6月2日を参照)。

18 Holmes, The Law (1885).

19 C. ベッカリーア(小谷眞男訳)『犯罪と刑罰』(東京大学出版会、2011年)

8頁。岩波文庫版もある(風早八十二ほか訳、1959年)。死刑について考える際 には、本書と団藤重光『死刑廃止論(第6版)』(有斐閣、2000年)は必読。い うまでもないが、死刑にせよ軍隊にせよ原発にせよ、それ自体の是非の判断と、

日本国憲法体系において法解釈学的に合法(合憲)か違法(違憲)かの判断と は次元を異にするというのは、法的思考のイロハのイである。

20 拙稿「メメント・モリ・2011・3・11―日本国憲法における<死者>の憲法 哲学的位置づけ、または、大地性」大野達司編著『社会と主権』(法政大学出版 局、2014年)294頁。  

(24)

*本来ならば、在地研究先の機関名と指導教員のお名前を挙げて感謝を申し上げる べきだが、本稿の性格上、別の機会に譲らせていただく。ご海容を乞う。

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