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PDF ルソー教育思想における自由の間題 - 福島大学

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ルソー教育思想における自由の間題

  一(近代的)人間のもつ二元性の克服一

荻  路  貫  司

 神法としての伝統的自然法の存在を否定し人間 の自己保存権を自然権として承認する契約社会を 近代社会ととらえるならば,その社会での教育は 自己保存欲求を充足する力,すなわち自然的自由 の育成を中心テーマとしているということができ ましょう。

 ところで,無制限な欲求充足は人間をアトム化 し自己保存権を保障している社会そのものの存続 を危うくするため,契約においては社会を崩壊へ 導かない範囲内での充足という制限が加えられる ことになります。そのため,自然的自由の育成は 近代社会の社会秩序との調和のもとで達成されな ければならず,教育はその秩序の許す範囲内にお いて欲求を充足する力,すなわち市民的自由の育 成を課題として担うのです。

 近代社会の思想である近代(教育)思想は,社 会の公的利益との調和のもとでの私的利益の追求

という,この道徳的,教育的課題に対して原理的 に答えることを自らの役割としています。そのた めまず自然権能力としての自己保存欲求を自然本 性とする自然人を措定すると共に,その利己的自 然人に対して市民的自由育成のための道徳教育論

を展開するという方法を取ります。

 この近代思想の課題解決方法に関して私たちが注 目すべきことは,自然人の中に欲求と並んでく人間を 社会へ向わせる性向》の存在が想定され,その第二の 自然本性に道徳教育の手掛りが求められている点 です。私たちが自由の問題について考えようとす る場合,この点に着目し,利己性と社会性という これら二つの本性が自然人において本来いかなる 関係のものとして考えられているかを明らかにす

ることが重要だと言えます。何故なら,それは両 者の「(規範的意味での)自然な関係」を示すもの

として道徳教育における市民的自由の内容を予め 規定する性格を有しているからです。

 ところで,私たちは近代(教育)思想内部にこ の関係の措定に関して鋭い意見対立が存在してい ることに気付きます。自由の問題に深く関わるこ の対立は次のようなものです。人間の中に利己性 と社会性の完全調和を達成する先天的能力が予め 存在していると措定しそれをよ1)どころに市民的

自由の確立を主張するものと,その能力の存在に 否定的立場を取り教育の力によって新しい調和を 内容とする市民的自由を樹立することを主張する

ものとの対立です。

 問題の所在を明らかにするためこの対立につい て少し見ておきますと,近代(教育)思想の主流 を占め多くの支持者を有している前者の主張は次 のようなものと言えます。自然人及びその自然人 より構成される自然社会の背後には私的利益と公 的利益の完全調和を規定する普遍的秩序(近代的 自然法)が存在していて,人間はその秩序を知る ための能力を生まれながらもっています。したがっ て,その能力を正しく働かせることができれば,

自らの私的利益を追求しながらしかもそれを容易 に社会の公的利益と調和させることができるよう になり,その結果,社会においては公的利益が常に 支配することになるとされるのです。

 しかし,この能力が何かという点になるとかな らずしも全ての人が同じものを考えてはいないよ うです。コンデャック,エルベシウス,ベンサム などのように利己性に仕える功利的理性にその役 割を託し道徳教育をその理性に対する知育として 展開するもの,ホッブス,前期ロックの場合のよ うに功利的理性以外に理念的理性の存在を措定す るもの,また,シャフッベリやハチスンそして更 にヒューム,スミスなどのように感情にその役割 を与えるものなどの違いが見られます。

 しかし,いずれの場合も,自然権のコロラリー である「労働にもとずく所有権」を侵犯しない限りで の利益追求の自由を内容とした普遍的秩序が想定 され,先天的能力はその所有権の遵守を人間に告

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げるものと考えられている点では同じだと言えま す。したがって,そこでの市民的自由とはその権 利を犯さない限りでの自然的自由,つまり自然権 保障機関としての近代社会において許される自由

を指すことになるのです。

 この主張に対してアンチ・テーゼを提出してい るのがルソーです。彼はまず自然人=孤立人との 考えを近代的自然法批判のための操作概念として 提出します。つまり,利己性と社会性はそもそも 対立しており人間はそれらを調和させる先天的能 力をもちあわせてはいないとし,人間論的立場か

ら上述の近代社会理論の隠ぺいした矛盾(既存の 社会をそのまま自然社会,つまり自然法の支配し

ている社会とみなすことによって,自然権二「労 働にもとずく所有権」の主張が実は自然権否定の

「所有のための所有権」の主張に変ってしまう矛盾)

を暴露しようとするのです。このことは,ルソー が社会契約の原点に立ち戻})近代社会をそれ本来 の役目である自己保存権を守るための社会として 再確認しようとしていることを意味します。

 この批判の後,ルソーはこの真の近代社会を築 くため,対立している人間の二つの本性を調和さ せることのできる自律的道徳を教育の力で生み出 すことを目指します。自然的自由を制御できる新

しい市民的自由育成のためのルソー道徳教育論の 展開です。

 私は近代(教育)思想におけるルソー教育思想 の位置を以上のようなものととらえ,後者の中に 前者において解決し得なかった(近代的)人間の 自由問題に対する一つの解答を見い出すことがで きると考えます。したがって,本論文では,ルソ ーが他の近代(教育)思想におけるように理性や感情 といった能力に何故利己性と社会性の調和を達成 するための手掛りをもとめることができなかった かを明らかにし,次に彼が教育によって育成する ことを目指す市民的自由は具体的にはいかなるも のでありそれは(近代的)人間の自由問題の核心 となる人間の二元性の克服に実際役立ち得るもの であったかどうかを探究しようと思います。

1 理

 近代(教育)思想では自己保存欲求が人間の第 一の自然本性とされています。では,この欲求を 充足する力,すなわち自然的自由の育成がいかに

考えられているかをコンデャックの場合を例に取 り要約してみると次のようになるでしょう。

 まず,人間の原動力を快・不快という欲求の原 理に措定し,彼をその原理によって支配される利 己的存在としてとらえます。(1}そして,この欲求 充足させるための人間精神はいわゆる観念連合説 によって説明されることになります。(2〕

 したがって,この説に従うならば,人間が欲求 を最大限に充足させることができるようになるこ とが最も重要なこととされるので,彼に欲求の最 大限の充足を可能にさせる能力,すなわち功利的 理性を育て上げることが教育だとされます。

 そして,この観念連合説においては,すでにお わか1)のように,観念連合と欲求充足とは功利的 理性のもつ同一機能の異なる二面であるとの考え

があり,(科学技術)知識の獲得と欲求充足は直接 つながるものと信じられています。そのため,人 間が欲求を抱きそれを拡大していくならばその欲 求を核に知識は増し知識が増せば今度は欲求が増 大していくといった,知識と欲求との無限に続く 相互作用が想定されることになります。そして,

功利的理性の教育によってその相互作用がひとた び開始されると,人間のもつ知識と欲求の飛躍的 増大が起こり彼は自らの可能性と自由行使の範囲

を無限に拡大していくことができるようになるも のと考えられているのです倒

 私たちはこの説に功利的理性とその理性による 進歩を信じ文明の福音を説く,ブルジョア的進化 の思想の典型を見い出すことができます。それは 人間の完成可能性を構成する自己保存欲求と功利 的理性(経験的理性とも言える)に対する絶対的 信頼に支えられた科学技術知識万能主義の教育思 想だと言うことができます。

 では,このような楽観主義に立つ教育論に対し てルソーはいかなる批判を行っているのでしょう か。それは,この思想のもつ「欲求の増大=知識 の増加=進歩」という図式が生産手段所有者,す なわち自らが知りそして望むことはそれをすぐ行 うことのできる人を対象として導き出されたもの であるという批判です。したがって,そこでは自 らの望むことをほとんど行えず人間の共同体的存 在様式によってかろうじて生存を保っている無産 者,当時大多数を占めていた貧農の存在が無視さ れているというのです。いま一つの批判は,無限 の進歩という考え方は分業社会を生み出し,その

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ルソー教育思想における自由の問題 3

結果人々は自らの欲求充足に関して他の人に依存 する度合いを増していくと共に,社会にはそれま でなかった新しい分裂(身分差でなく能力差にも とずく,いやよ童)正確には能力差にもとずくもの と近代思想の人々に誤認されていた生産手段の有 無にもとずく分裂)が生まれそれは年々拡大してい

くことになるというものです。ゆ

 こうした問題点を解消するため,ルソーは自己 保存欲求を生存のために是非とも必要とされる「欲 求」(besoin)とそれ以外の「欲望」(desir)とに分 けます。そして,人間の関心をその「欲求」のみ に向けさせることによって人々の間に従属関係を 生み出させないようにするという立場に立ちます炉,

このための教育が消極教育と呼ばれているもので

す。

 私たちは,この消極教育が一般に言われるよう に子供に対する教師の一切の積極的働きかけを排 除することを意図したものではなく今だ非力な彼 の諸能力を「欲望」追求のため無駄に費させるこ となく「欲求」充足のため用いさせるための積極 的手段であったと考えることができます。この時 期,子供が自らの「欲求」を感じしかもそれを自 らの力で充足できるようになるために是非必要と される身体訓練(なかでもと臣)わけ感官訓練)に ルソーが重要な意味を与えていることはその何よ りの証拠です。私たちはこの教育を人間生存に必 要とされる功利的理性育成のための基礎訓練とと

らえることができます。

 ところで,ルソーはこのように近代(教育)思 想の主張する教育を利己心(amour−propre)の教 育ととらえそれに対置した形で自らの教育を自己 愛(amour de soi−meme)の教育として主張して いますカ㍉(6}この自己愛の教育は自らの「欲求」を自らの

力で充足できる人間,つまり自給自足経済のもと での孤立的存在としての自然人の教育であって,

現実の交換経済社会の中でしか生きることができ ずそのため市民的自由をもつことを是非とも必要と している近代人の育成を意味してはいません」7,

ルソーにおいても,分業の上に成立する交換経済 社会である近代社会での人間形成が問題とされて

いるのです。

 では,自らひとりで生きることのできるとされ るこの自然人はどのようにして社会的存在となる ことができると考えられているのでしょうか。

 すでに述べたコンデャックの場合には,所有権

の不可侵を内容とする近代的自然法を人間が自ら の利己的活動から経験的に導き出しそれを容易に 遵守することができるものと主張されています押 そして,それは彼の理論が所有権によって保護さ れる有産者を人間の原型とし彼の欲求充足を目的 として展開されたものであることを思い起こせば 当然なことだと言えますま9}しかし,全ての人の自 然権(労働にもとずく所有権)の保障という考え に裏打ちされたルソーの自然人の場合は同じよう に考えることはできません。

 このように見てきた時私たちに思い浮かぶのは,

人間は自らを社会へ向わせその社会の秩序を認知 する能力として生まれながらに理念的理性を備え ているとの主張です。それは,伝統的自然法の存在 を信じる前近代の思想家たちの主張であ1),また 近代的自然法の存在を信じるホッブス,no〕前期ロ

ック{11川2,などに見うけられる考えでもあります。

そしてまた,彼らの主張する近代的自然観(人間 観,社会観を当然含む)に敢然と反対を唱えるプ

ラトン ケンブリッジ学派の人々の言うところで

もあるのです。113〕

 この主張に対して私たちが気付くことは,それ が近代的自然観に対して賛成の立場に立つ人にも

また反対の立場を取る人にも同ヒように自らの正 当性を主張し相手を攻撃するための理論的武器と されているということです。

 このことは何を意味しているのでしょうか。そ れは,理念的理性の告げる普遍的秩序の具体的内容を 私たちが特定できないということです。つまり理念 的理性は人間をいかなる社会へも向わせうるものと

な1)得るのです。ルソーがこの理性を自然人の社 会性を根拠付ける能力として採用することができ

なかったことは言うまでもありません。q41  次に,よ1)重要な点ですが,この理念的理性の主

張では人間の道徳的生長が初めから人間に備って いるものの出現と自己展開として考えられていま す。そしてこのことは,目指されている社会の性 格を予め規定することになり,そこから導かれる 結論を原子論的なものにしてしまいます。例えば,

ケンブリッジ学派の主張する理念的理性は本来は 利己心を放棄し人間を社会へ向わせるものであり ながら,その社会は実に個々の人間の中にある諸 制約から構成されることにな1),リットが述べて いるごとく「構成され導き出された一つの形象」

になってしまいます。q51その結果,社会全体の福

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祉と個人の幸福が一致すること,したがって,社会に奉 仕する人はそれと同時に自己自身の関心に奉仕して いる人でもあるということにされてしまうのです。

ケンブリッジ学派の主張は,前期ロックにみられ るような,個人の幸福を追求していくならばそれ は社会の福祉でもあるとの考え方に発展していく 契機を十分もちあわせていたと言えます。このよ うな理念的理性の主張は,私的利益と公的利益の 無矛盾的一致という考え方の内包する欺まん性を 批判することを自らの出発点とするルソーにとっ て,先の理由とあわせてどうしても受け入れるこ

とができなかったのです。

II感

 では,人間の社会性に仕え私益と公益を調和さ せることのできる能力とは一体何なのでしょうか。

 18世紀の思想界を見回した時,私たちは17世紀 に主流であった理念的理性の主張に代って人間の 感情に社会性の原理を見ようとずる傾向があるこ とに気付きます。しかも,それはカシーラやアザ ールの語るところによれば感覚主義(功利的理性 主義)に対する批判ばかりでなく理性主義(理念 的理性主義)に対する批判を含んだものとして展 開されているというのです。u6,

 私たちはこの思想の発端をイギリスの思想家で あるシャフッベリの主張に見ることができます。

そこには,リットが指摘しているように,知的な ものから感情的なものへの決定的な重点の転位が 生じており,心的領域が道徳活動の本来的な源泉

をなす領域とされています。1171ただ,このシャフ ッベリの場合には,感情の主張はまだ道徳を全面 的に感情に分解してしまっているわけではなく,

理性が感情の正しい適用を確保するという役割を 担い,したがって「感情が理性と合致するのでな ければ,われわれは真に有徳であるとはいえない」q8,

とされています。しかも,この合致を達成できる人 は少数の教養ある人々だけに限定されるのでず」9}

 この.ようにシャフッベリにおいてはまだ不十分 な姿しかしていない道徳感情の主張はその後スコ ットランド学派の人々によって受け継がれていき ますが,それをはっきりと道徳感覚の主張として 展開しているのがハチスンです。120}彼は,人間が 道徳感情を直観的に感得できる能力として道徳感 覚を生まれながらもっていると述べています。こ

のことは,社会性の原理となる感情がシャフッベ リの場合のように理性ある一部の人の手にしか入 らないものではなく全ての人がもっことのできる ものと考えられるにいたったことを意味します。{2P  ところが,この主張についてよ )詳しく見てみ

ますと,感覚が知らせるものは善観念を導き出す ことのできる普遍的感情ではなく単に社会愛を是 認しょうとする性向にすぎないとされます。122,普 遍化される前の主観的感情といえるものです。し

たがって,それは人間の経済活動を自らの体系の 中に組み込むことができないため具体的な価値判断 においては無視されてしまい,ただ神の恵みに支えら れた宇宙の調和を人間精神に教えそれによって彼 の知的満足を保障するにすぎないものとなってし まう運命にあるのです。そして,結局.人間の実 際行動においては当時の人々の考える「人々の最大 の利益を保障する公共の福祉」がそのまま善とされ,

すでに確立されている所有権をそのまま遵守する ことを規定する既存の社会秩序が肯定されてしま

うことになります。{23,

 ルソーがこのような主張を認めることができな かったことはすぐに理解できます。「人間は真に判 断した時善を選び,判断を誤った時には善悪の選択に おいても誤る」(24)と述べていることからもわかるよ

うに,彼は人間の感情が誤った功利的理性のもと に置かれるようなことになればそれは却って彼を 利己心に従う反社会的存在にしてしまうものにな ると考えています。彼は人間の生得的感情そのも のに対して善悪の審判者としての地位を与えては

いないのです。{25,

 次に,私たちはこの道徳感覚の主張がルソーと同時 代の,すなわち名誉革命二重商主義体制解体期の イギリスにおいてしだいに共感という社会的感情 の主張に変化していったことを見ておかなければ ならないでしょう。社会的感情が社会性の原理と なることができるかも知れないからです。

 共感論の創始者であるヒュームの主張は次のよ うなものであると見ることができます。人間の抱 く共感は哀れみの情のような主観的感情でなく,

「他人の性向と感情とを限像する力」の働きによ って「快・功用の無私的考察から起こる特殊な快 感」であるとされ,それは個人的な快感をもたら すだけでなく社会的には称賛を生み出し道徳的是 認の源泉になるというのです。人間はそれらの快 感と称賛を媒介として自らの利己心を利他的な道

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ルソー教育思想における自由問題 5

徳に転化させることができるというわけです。(26}

 私たちは,経済活動をしている人々から自然に 生み出されてくると主張されているこの共感を彼

らの間に生じてくる共通感情,つま1)共通の生活 実感のようなものだと見ることができるでしょう。

それは,自分たちの行っている活動が正しいもの でありしたがってそれを守っていかなければなら ないとの彼ら利己的人間の生活信条の上に成立し ているものと言えます。近代社会に生きる近代人 たちの抱くこうした共通感情に人間の社会性は基 礎付けられるというわけです。

 しかし,このヒュームの共感の主張は道徳論と しては完結し得ない運命をもっています。彼は近 代社会の共通感情としての共感に全面的信頼を置き 得ず,そのため自らの理性的反省によって利己心

をおさえ一般的観点に立つことのできる人だけが 同感の原理を作用させることができると考えるの

  く の

です。一部の人(ブルジョア)を除いた大多数の 人々が社会秩序に自ら進んで従うことができない 状況があることを意味しています。その結果,近 代社会は権力機関としての政府の成立を必然的に 要請し統治者のもとで正義の法(所有権の不可侵

を内容とするもの)の遵守が強制されなければな らないと主張されることになってしまいます。そ して,彼の理論は社会政治論として終結します。128)

したがって彼の教育論も共感を手掛りとする道徳 教育論としてではなく,政治知識を教え込む政治 教育論として展開されるのです。{29,

 ヒュームにおいてはこのように自己完結し得な かった共感の主張はアダム・スミスによって受け 継がれその完成した姿を示します。

 彼の場合,共感は真偽の判断力と同じ道徳的是 認能力とされそれは人間の感情であるというより は第三者の是認であり世論であると主張されてい ます。{30,つまり,相互の立場の転換によって生ま れる共感とは,同じように経済活動している人々 がたがいに行為者となりまた観察者となる動的関 係を通じて「自ずと行為の基準をつくり出す公平 な観察者」になることを意味するのです。{3Pした がって,それはヒュームの場合のように同じ利己 的生活を送っている人々の間に自然と生まれてく る共通の生活実感であるよりは,その生活実感を 自分たちのものとはっきり自覚しその上に立って 全ての行動の善悪を決めようとする意識的態度で あるということができます。【32,

 ヒュームの場合も同様ですが,このようなスミ スの考えからは利己心は制御すべきものであると の考えは生じません。何故ならば,共感とは利己 心二善との近代社会の生活実感を意識化しそれに 従って全ての活動の善悪を決めようとする態度そ のものだからです。そして,そのような態度を取 る人々よ})構成されるスミスの社会においては,

この生活実感を守る近代社会の社会秩序はそれ自体 所与であ1)したがって経験より導き出される秩序

(経験的自然法)であるとされます。それまで道 徳の問題であったことがスミスにおいては完全に 社会科学の問題として扱われることになるのです。

そして,秩序の是非についてはもはや問われるこ とはなくなります。

 私たちはこのスミスの主張の中に当時の経済発 展に対応した独立生産者の産業資本家への発展を 感じ取り,彼の考える近代社会が利己心の自動機 械としての産業資本社会へと脱皮していることを 理解することができましょう。{33,彼の共感の主張 はこのような産業資本社会の社会意識を共有する ことのできぬ一切の人(一部独立生産者も含む)

を切り捨て,残ったブルジョアジーのみによって 原理的に構成された近代社会の理論だと言うこと ができます。

 ルソーがこのような性格の共感の主張を受け入 れることができなかったことは言うまでもありま せん。それどころか,彼はそこに利己心によって

堕落させられた感情の姿を見るのです。

 そして,人間感情をそのような哀れむべき状態 に落ち入らせないために教育を行うことを主張し ています。それは,感情の純粋さは理性の正しさによ って決定されるとの考だ34,にもとずいて行われる 正しい功利的理性育成のための教育です。

 このルソーの功利的理性教育の具体的展開を見 てみますと,次の二段階によって構成されていま す。まず初めが,すでに述べたところの自己愛の 教育です。快・不快の原理にもとずき人間が自ら の生存に必要なものは何かということを知ること ができるようにするための教育です。いわば,自 立(自給自足)のための教育です。それに続き行 われるのが,功利的理性そのものを育てるための 知識教育です。適・不適の原理にもとずき人間が

「欲求」に対してばかりでなく広く自らにとって 有用と思われることにも目を向けそれを核として 知識を増していくことができるようにするための

(6)

教育です。135}この教育によって人間は時間の価値   その点について彼によれば,人間は,それまで に気付き自らの功利的理性を先見の明(prevoyance)自らに近ずき自らの弱さを補ってくれると思える

という推理力にすることができるようになるとさ れています。(私たちはこの教育によって人間が効 用の原理に気付き社会的効用の原理の発見まであ

と一歩の所まで近ずいていることに予め注意して おかなければなりません。)

 ルソーによれば,これらの教育の結果,人間が

「欲求」とはいかなるものであるかを知り推理力 をもっことができるようになっていれば,彼の最 初に抱くであろう感情は不幸な人々に対して向け られる哀れみの情(piti6)とすることができると 考えられています。(36}他の存在に関心を抱くようにな った時,そのような教育を受けた人間は不幸な人 が自らの「欲求」を充足できずに苦しんでいるのを 想像せずにはおれなくなりその人に対して優しい 感情をもつに違いないというわけです。

 そして,ルソーは,この哀れみの情がまだ人間 関係に関するいかなる知識(社会的効用原理,交 換原理についての知識も含んで)によっても裏付け

られておらず全く私的な同情心でしかないもので あるため,却って共感のように毒されることなく 社会性の原理となり得る大きな可能性を内に秘め ているものと判断するのです。

 私たちは,ルソー教育思想の中において新しい 市民的自由の育成を目指す彼の道徳教育がこの哀 れみの情を手掛りとして推し進められているのを 見ることができます。

 m 道徳教育

 では,この道徳教育はいかに展開されているの でしょうか。

 ルソーは,周知のように,その出発点を青年期 において人間の中に出現する性欲の誕生に見てい

ます。

 彼は,性欲の出現を契機として自然の秩序の中 で重要な位置を占める人間と人間の関係が教育の 中に入り込むようになるとして,そのための教育 論を展開していきます。

 まず初めにその出現形態について見ますと,す でに指摘したように,人間が受けた教育の違いに よって,つまり彼が正しい功利的理性をもつこと ができるようになっているかいないかによってそ の人間感情は異なるものになると言っています。

全ての人に対して自己愛の変形としての情愛を無 差別に抱いていたのが,性欲の出現によって異性

を愛したいまた愛されたいとの新しい感情を抱く ようになるとされています。しかも,こうして誕 生した性欲は彼の中に自らを他者と比較しようと する感情を生み出すことになり,それまで「自分 のことにしか注意を払おうとしない自己愛」{371し かもっていなかったものが恋人選ぴにおいて他者 に負けることなく自らが好まれ選ばれたいとの利 己心を抱くことになります。その結果,人間の中 には,「欲求」に代って他者に負けないためにも多

くのものを獲得したいとの「欲望」が生み出され てくることになるのです。こうして,人間は,利 己心の命じるまま想像力(誤った功利的理性)の 働きによって「欲望」をしだいに増大させていく ようにな1),遂には「欲望」充足のため手段を選 ぶことなく他者を裏切ってもそれを行おうとする ようになってしまうということです。138}

 いうまでもなく,「不平等起源論』に言うように 人間が性欲を偶然な形で充足している限上),こう した問題は起こることはないのであり,そこでは 特定の異性との結婚及び家庭の形成が暗黙の前提

とされています。特定の異性をめぐる同種との競 争・対立という場面を想定してみるならば,ルソ ーの「欲望」の増大とそれから結果される悪につ いての説明がわかりやすくなるということができ ましょう。近代(教育)思想の無限欲求充足の主 張の矛盾を一般的な形で明らかにするために,ル ソーが性欲を一つの操作概念としてもってきたと 考えることができます。

 それに対して,ルソーの教育を受けたエミール は,すでに述べたように,この性欲の出現に際し てそれを異性に対する感情としてではなく異性同 性を問わず不幸な人に対する哀れみの情として抱

くことができるとされています。それは,性欲が 利己心を引き起こす引き金にもそれを抑制する力 にもな1)得るものであることを意味しています。

そして,そのため性欲に善への道筋を与えるもの として理性の働きがクローズアップされるのです。

 ところで,以上見てきたように,ルソーの基本 問題は,社会的存在となった人間が他者のことを 考慮し決して他者を自らの欲求充足のための犠牲 にしないようになることだということができまし

(7)

ルソー教育思想における自由の問題

7

よう。そのため,ルソーは,「自らと他者の調和あ る生存を規定する善」を愛する良心(conscience)

をもちその良心の力で常に善を選択することので きる人を育成することを想定し,教育の最大の問 題を善の選択という自由の問題にみるのです。ル

ソーは,社会的効用原理が貫徹し利潤の支配する 交換経済社会である近代社会において人間の自己 保存権を守るという役割を教育に担したと言えま

す。

 すでに見たように,エミールがこの時点におい てもっことができる哀れみの情は私的な感情にし かすぎず,人間の経済活動を自らの体系の中に組み 込むことができないため近代社会の秩序の前に敢

えなくつぶされる運命のものだと言えます。

 さて,この点に関して,彼は次のように語って います。「人間は善についての生得観念をもっては いないのであって,理性が人間に善を知らせる時 初めて彼の良心は彼に善を愛させるようになる。」139〕

したがって,人間は「善を愛するために良心を,

善を知るために理性をもっている」140,ことになる と。このように,哀れみの情が実際に良心として 働くことができるようになるためには.善を善と して判断する理性,すなわち判断力が予め存在して いることが前提とされているのです。

 ところで,この判断力とは,人間がそれまでも っていた功利的理性でないことは言うまでもあ1)

ません。何故なら,その理性は「欲求」を最大限 充足させることのできる能力でしかなく,それが 対象としているのは事物と人間の間の,また,事 物と事物の間の関係でしかないからです。この理 性によって,自らと他者の,つまり人間と人間の 調和ある生存を規定する善の観念が導き出される 可能性は全くないわけです。

 したがって,功利的理性をこのような善につい て判断を下せる判断力に高めるために,【4Dそれま での教育とは対照的に教師が前面に出て積極的に 関与する知識教育論が展開されることになります。

(もちろん,それまでの教育も教師であるルソー によって教育論全体の中に明確に位置付けられて おり,その実施に際しては綿密な計画のもとに行 われたものであることはすでに見た通『)です。)

 さて,この教育によってルソーが実際に行って いることは,「人間関係についての研究」14aであり,

しかも「社会を通ヒて人間を,また,人間を通し て社会を研究しなければならない」143,とされてい

ます。〔44}そして,この教育の結果,ルソー自身の 言葉によれば,「自分自身の感情と他の人に観察さ れる感情とを十分に熟考したならば,自らのもつ 個人的知識を人間性という抽象的観念のもとで一 般化し,自らの個的(私的)感情を自らと人類と

を同一視させる普遍的感情に結び付けることがで きる」〔45}ようになるとされるのです。

 この主張によれば,判断力とは,それまでの功 利的理性のもつ推理力の考察対象を広げ青年期に 誕生した感情をも含めたことにその特徴を有して いるように思えます。このことは,自らの感情と 他者の感情とを比較検討するならば,両者に共通 なものが「人間本性においてそこから最も切1)離 し得ないもの,すなわち人間性」{46}として導き出 すことができるとの考え方に支えられています。

 ところで,この判断力によって導き出される人 間性の真髄とは,全ての人が同じように苦しみ死 んでいく運命にあるということです。(47〕ルソーは,

人間が自らの判断力によってそのことに気付くな らば,全ての人に対して同じ運命の同行者として の共同感情を抱くようになり,「自己愛を他の存 在の上にまで広げる」148}と共に自らと他者の調和 的生存を保つことができるようになると考えてい

ます。

 しかしながら,ここまで論を運んできた上で,

ルソー自身,「人間の本性にははっきり区別される 二つの原理が見い出される。その一つは人間を 正義と道徳的善の愛へと導き,いま一つは感官 の手先である情念に従わせる。人間はそれら二 つの相反する動きによって引き立てられ戦わさ れてお}),理性の声を聞いている時には活動的 だが,情念によって引きずられている時には 受動的存在になってしまう」149 と述べていま す。このことからもわかるように,彼の教育思想 の中には,人間は社会性をもつていながらも実際 にはしばしば利己性によって引きずられてしまい,

常に善を知らせるはずの自らの判断力によっても あざむかれる存在であるとの考えが抜きがたく見 られます。そして,もし判断力が誤り「偏見が提 示されることがあるような場合には,良心は逃れ

るか沈黙してしまい」(501善が常に選択されるとは 限らないとされているわけです。私たちは,ここ

に利潤の支配する交換経済社会においてどこまで も自己保存権を守ろうと努力するルソーの苦脳の 姿を見ることができます。

(8)

 そして,ルソー教育思想に見られるこのような 人間の二元性は道徳教育によって決して解消され ているようには見えません。何故ならば,教育に よって「正義の真の原理・美の真の原型・人間の 道徳的関係の全て,秩序の観念などがエミールに よって獲得される」{511と語られているにもかかわ らず,その教育のための具体的カリキュラムなり,

獲得し得るとされる諸原理・諸観念の実際の内 容なりは教育論のどこにも見当らないからです。

そこに見られるのは,単に私的感情である哀れみ の情を教育によって人間性を感じる良心に高める ことができるとの言葉の繰り返しだけなのです。

 このように,教育論において人間の具体的善が 何であるかが明確にされていないということは,

ルソーが人間の二元性をいかに調停しがたいもの と考えていたかを示していると共に,その二元性 の克服を目指し哀れみの情を良心に転位させよう としな彼の道徳教育が結局失敗していることを告 げています。

 そのため,人間と市民の同時育成を目指すエミ ール教育論はそれ自体としては完結せず,ルソー は「社会契約論』における契約の内容,すなわち

「私たち各自は自らの財産,自分自身,自らの生 命,自らの力の全てを一般意志(volont6gen6rale)

の崇高な指導のもとで共有し,そして各成員を全 体と不可分の部分として受け入れる。」152}を掲げ,

一般意志を告げる立法者の支配のもとでの市民的 自由の行使を説くのです。{53,そして,「ポーランド 統治論』に見られる後期の公教育論においては,

エミール教育論において展開された判断力育成を 軸とする良心教育論は全く姿を消してしまい,新

しい社会のもとで訓練によって一般意志に従わせ る市民教育論が展開されることになります。【541  しかしながら,政治によるこの市民的自由の行 使に対しても完全に信頼を置くことができなかっ

たものか,ルソーは政治が実際にはしばしば人間 の市民的自由を確立することなく却ってそれをだ めにするものとなることを語り,再び「良心と理 性によって賢者の心の底に書かれている永遠の秩 序の法に従うのでなければならない」吐55,と主張す

るのです。

 そして,ルソーはそれまでの道徳教育の不十分 さを補うために宗教教育を行うことの必要性を説 き次のように語ります。「神をその被造物において 熟考し,またその重要な属性を通して研究する璽61

ならば,人間は「自らが神によって善を愛するた めに良心を,善を知るために理性を,善を選ぶた めに自由を与えられている」{57,ことを感謝するよ うになり,そして実際に「理性を働かけることに よって神に気付き,神を愛し,神のなせる業を愛 し,神の欲するところの善を望み,神に気に入ら れように地上における全ての義務を果すことをひ

とりでに学ぶことになるであろう」{58}と。

 この主張を見る限り,彼は宗教教育による神の 出現とそれへの信頼によって道徳教育の不完全さ を補うことができると考えているようです。しか し,この宗教教育が何ら実際的な解決をもたらす ものでないことは明白です。何故ならば,それは 神への信頼を高揚するだけで,市民的自由に対し

て何ら具体的内容を与えるものとはならないから です。善を愛することは教えても,その善がいか なるものであるかということを教えはしないから

です。

 そのため,ルソーは遂に次のように語らざる得 なくなってしまいます。「人間は神とは異なり善を なすために断えず努力を要する」{59のであり,善 を知るために必要な「人間関係の研究は人間の全 生涯を通じての職務である」{601と。彼にとって,

人間のもつ二元性は生涯克服されることなく存在 しており,したがって人間はその克服を目指して 生涯努力し続けていかなければならないとされる のです。人間は神の恩恵を信じながらいつ獲得で きるともわからないまま善を求め市民的自由を求 めて死ぬまで生きていくということになります。

 以上見てきたように,ルソーの道徳教育によっ て目指された市民的自由の育成は,人間に対して 具体的な善を提示し彼をそれに従わせることはで

きず,ただ彼に対して「自らと他者の調和的生存」

を達成するために断えず努力を続けていかなけれ ばならないということを知らせるだけのものとな ります。その具体的内容をもたない市民的自由は 実際の価値判断においては何らの力ももっておら ず,近代社会のかかえる諸矛盾を実際に克服する ことのできるものでないことはもちろんです。人 間の二元性の克服は達成されないまま,今後の問 題として人間に残されることになります。

 ただこの教育の結果人間ができるようになるこ とと言えば,自らの「欲求」を自らの力で充足で きしかも近隣の人々に対しては哀れみ深く優しい 心をもつようになることだと言えるでしょう。そ

(9)

ルソー教育,思想における自由の問題

9

して,そのような人は自らと同じ心優しき人によ って囲まれながら自らが神に帰依し神を信じなが ら善とその善を行う市民的自由を求めて嘶えず努 力しているとの心の安らぎを感じることができる というわけです。私たちはこの人間の姿を「新エ ロイーズ』第五巻の第三書簡において展開されて いるボルマール家での田園生活の描写に見ること ができます。しかし,これとて,生産者(ボルマ ール氏)と労働者を共に対等な独立生産者(一方 は土地という財産をもち,他方は労働という財産 をもった)と見なすルソーの夢想の上に成立して おり,(近代的)人間のもつ二元性の克服になっ ていないことは忘れてはな酢)ません。〔611

 ルソー教育思想は,近代(教育)思想の主張す る近代的自然法の考えと無限進歩への信頼がはら んでいる矛盾を明らかにしその思想のもつ欺まん性 を暴露することに成功したと言うことができます。

しかしながら,教育によって(近代的)人間の二 元性を克服し「自らと他者との調和的生存」を規 定する市民的自由を樹立することは失敗している と言わざる得ません。ルソー教育思想は自由の問 題を解決することができなかったわけです。

 ただ,この失敗は(近代的)人間の二元性に対 するルソーの探究の姿勢が他の近代(教育)思想に 比べて浅薄でなく自らも含めてその思想における 人間論のもつ問題性の核心に迫ったものだったた めと言うことができるかも知れません。ルソー教 育思想に対する人々の関心が衰えることがないのは人 間の二元性を安易に調和させることなく,近代的限界 を有することによって却ってその分裂を意識化したあ たりに原因があると見ることができるでしょう。

(1) Condillac,Cours d etudes pour I instruction  〔iu prince de Parme,(Euvres philosophiques de  Con(iillac Vblume I,P,U.F.,1947,p.414,

(2) I bid,p.416.

(3)  I bid,p.p.401〜402.

(4)能力の差が存在している以上,(近代的)所有  の有無はそれまでのように身分差を規定する伝  統的自然法ではなく,能力の自由な行使を保障  する近代的自然法から当然結果されるものと考  えられている。

(5) Rousseau,J.一J.,Emile,Gamier,1964.p.42.

(6)  I bid,p.249、

(7)人間が社会において生きなければならない理  由については,Ibid,p.259.

(8)Condillac,op.cit.,p.370,&Le Commerce et  le Gouvemement,(E.C、Vblume H,P.U.F.,1948,

 p.265.

(9)道徳観念の定立に関して,コンデャックの場  合には功利的理性の働きと人知の蓄積の必要を  主張し,エルベシウスの場合は功利的理性のみ  の打算計算によって達成できるものと考えてい  る。そして,ペンサムの場合に至っては打算  計算による快の計量という功利主義が展開され  ることになる。

(1① 詳しく見るならば,ホッブスの場合理念的理  性にもとずく自然法の主張はあるが,それは自  らが行ってもらいたいことを他の人にもなせと  いう意味のものとなり,結局,自然権が自然法  より優位に置かれることになる。(福田歓一,近  代政治原理成立史序説,岩波書店,1976,p61)

(11)ロック,鵜飼信成訳,市民政府論,岩波書店,

 1975,p.12,&大槻春彦訳,人間知性論{4),

 岩波書店,1977,p.329.

(12)ロックの後期に関しては,「彼は1675年以降の  外遊中のフランス唯物論者との接触の結果,そ  の道徳論の中に感性的・快楽主義的人間像を持  ち込むことになり」,「神の観念と人間の合理性  の想定の上に論証的倫理学(合理的倫理学)を  導く一方,人間の快楽主義的欲求それ自体を神  の計画としてとらえることにより,神の意志を  すべての根本とみる主意主義の下に,合理主義  と経験主義の統一を図っていく」ようになるも  のと考えられる。(田中正司,ジョンロック研究,

 未来社,1977,P.137&142,)

(13)ウイレー,深瀬基寛訳,十七世紀の思想的風  土,創文社,1972,p.p,165〜166.

(14)生得観念の否定に関しては注の39を参照。

(葡 リット,関雅美訳,近世倫理学史,未来社,

 1956. p.70.

(1⑤ 水田洋,アダム・スミス研究,未来社,1976,

 p.294.(カッシーラー,中野好之訳,啓蒙主義の  哲学,紀伊国屋書店,1970,p.399,&Hazard,

P.,La pens6e europeeme au XVmeme siecle,

 Tbme II,倉ditions Contemporaines,1946,p.88)

(17)リット,前掲書,p.86.

(10)

(1⑳ ウィリー,三田博雄他訳,18世紀の自然思想,

 みすず書房,1975,p.79.

(1の 水田洋,前掲書,p.301.

⑳ ステイーヴン,中野好之訳,18世紀イギリス  思想史(中),筑摩書房,1969,p.232.

⑳ 水田洋,前掲書,p.p.301〜302.

⑳ ステイーヴン,前掲書,p.p.232〜233.

㈲ 水田洋,前掲書,p.308,&ステイーヴン,前  掲書,P.233.

(24) Rousseau,J.一J.,op.cit.,p.340.

㈲ ルソーにおける道徳原理二生得的感情という  ロマン主義の定式化は,ギリシャ的感情による  ローマ的理性の克服というすでにもっている図  式をルソー思想にあてはめることによって導き  出された,人間の内面性重視の新人文主義に特  有な解釈だと言うことができましょう。

㈱ 大野精三郎,歴史家ヒュームとその社会哲学,

 岩波書店,1977,p.84。

⑳ 水田洋,前掲書,p.226.

㈱ 大野精三郎,前掲書,p。p.85〜86.

㈲ ヒューム,大槻春彦訳,人性論(4),岩波書  店,1974,P.53.

⑳ 水田洋,前掲書,p.112&115.

⑳ スミス,水田洋訳,道徳感情論,筑摩書房,

 1973, p.p.178〜181.

麗)前掲書,p。27.

㈲⑬心㈲㈹㎝

水田洋,前掲書,p.p,229〜230.

Rousseau,J.一J.,op.cit.,p.268・

Ibid,p.200.

Ibi(i,p.261.

Ibi(i,p.249.

  Ibid,p.250.

  Ibid,p.354.

  Ibid,p、359.

  Ibi(i,p.340.

  Ibid,p.249.

  Ibid,p.279.

  自らの体験できないことに関しては,古代歴  史の教育が有効であると考えられている。

 る。そこに真に人間的なものがある。」(Ibid,

 p.260.)

⑬9)

(41)

(42)

(4の

(4萄 Rousseau,J.一J.,op.cit.,p276.

(4⑤  Ibi(i,p.260.

(切 「全ての人間は死ぬことを運命付けられてい

  Ibid,p.302.

  Ibid,p.337.

  n⊃id,p.355.

  Ibid,p、304.

  Ibid,p.588.

  Roussean,J.」・,Du Contrat S㏄ia1,Gamier,

 1966,p.p.260〜263.

(5の Rousseau,J.」.,LeGouvemementdePologne,

 op.cit.,p.p352〜355.

(5①

61)

⑮2)

⑮3)

(5励 Rousseau,J.一J.,Emile,P.605.

(5〔9 1bid,p.346.

(57) Ibid,p.351.

(58) Ibi(i,p.378.

(5田  Ibid,p.567.

(β⑪ Ibid,p.249.

61)羽鳥卓也,ルソーの経済理論(内田義彦編,

 古典経済学研究,上巻,未来社,1957)p.53.

Le probleme de la liberte dans la pensee6ducative

(ie Rousseau:Conquete(ie la dualite de1 homme.

Kanji Ogiro

 La s㏄iete modeme deman〔ie a l homme〔ie exercer sa libert6naturelle dans la hmite de regles de cette s㏄i6t6.Donc,1a pensee modeme,1a pensee de cette s㏄iet6,a Pour sujet de montrer id酬e mentl a cultiver cette Hberte civile d{ms rhomme.

 Pour la resolution de ce probleme,on generalement suppose qu il y ait la loi naturelle qui regle

(11)

ルソー教育思想における自由の問題

11

rhamonie entre le penchant egolste et celui s㏄iable(ie l homme,et maintient l id6e de elever sa libe−

rte civile conformement a cette loi.

   Contrairement,Rousseau trouve ces(ieux penchants s opposer dans rhomme,et critique cette opin・

ion(ie la pensee modeme.Et il tente d accor(ier les deux par1 education morale.

   Dans ce m6moire,je me propose de examiner si Rousseau reussit la conquete de cette dualite(ie rhomme et etablit sa vrai liberte civile dans son traite de1}education』

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