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現地に赴く国際交流を通じた大学&研究者の貢献と交流について

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化学と生物 Vol. 54, No. 6, 2016

私が初めて海外へ行ったのは「広島大学ヒマラヤ学術調 査隊」に参加したときである.1973年12月25日に大阪空港 を出発し,インドのカルカッタで1泊,26日ネパールの首都 カトマンズに到着した.インドでは,道路沿いでの椅子だけ の散髪屋さんや茶色く濁ったガンジス川での沐浴など,見る ものすべてが別世界であった.インドでの汚さとは打って変 わって,カトマンズに着いたときの空の青さは今でも忘れら れない.広島大学ヒマラヤ学術調査隊は主に広島大学の山岳 部を中心に組織されていて,ヒマラヤ登山が目的であった.

しかし,私は当時,広島大学工学部発酵工学科の箕浦久兵衛 教授と微生物の生態調査で参加していたので,山登りには参 加せず,ネパール国内を散策し,土壌採取に専念した.われ われの行動には,東洋工業(現,マツダ)が車と運転手を提 供してくれた.車は中古車だが,運転手は元国連のWHO職 員で英語の話せるインテリであった.当時のネパールにはあ まり職がなく,時々車の運転手のバイトをしているとのこと であった.カトマンズに2日滞在して,保健所や大学を訪ね て微生物の聞き取り調査をした.いろいろな人に会って見聞 を深めることができたが,左手を出し握手を求めて憮然とさ れた失敗もあった.ヒンズー教徒にとっては,左手は禁断の 手であることをそのときはじめて知った.カトマンズをあと にして,ネパール第2の都市であるポカラに向かった.サン プリングしながらの移動で3日目だったか,車が急に止ま り,クラッチ板が摩耗して滑るので車はこれ以上動かない と,運転手が言いだした.修理するから部品をもってカトマ ンズにバスで引き返すから,ここで待っていてくれと言い残 し,彼は去ってしまった.まる2日間,図1のホテルでお世 話になり,お正月を迎えたのは一生の思い出になった.その 後は,車も順調に動き,南はインド国境のバイラワ,北はヒ マラヤ山脈の4,000 m地点まで,帰国する1月16日まで,ネ パール国内をくまなく移動できた.帰国も同様,カルカッタ を経由して,大阪空港に到着し,その後,広島の自宅でくつ ろいでいると,帰国のインド航空便に同乗していた東京,町 田市に住む男性が天然痘を発症したとのテレビニュースが流 れた.すぐに,パトカーとともに広島保健所所長がやってき て,軟禁状態となってしまった.町田市の男性は死亡した が,私は幸い何事もなく今を生きている.最初の海外出張 は,本当に印象深いものであった.この旅行以来,海外での

生活に自信がついたので,一人で香港,台湾,シンガポー ル,タイなどを旅行してきた.

仕事として,海外とかかわるようになったのは,永井史 郎教授(現,広島大学名誉教授)が東京大学から広島大学工 学部にこられてからである.当時の広島大学工学部には,ほ とんど留学生はいなかったが,先生がこられてからはタイを 中心に,留学生が増え始めた.広島大学工学部が広島市から 現在の東広島市に移転したのは1982年3月だが,その前後に 博士課程への留学生も増え始め,最初の学生はタイ国カセ サート大学のビッチェン先生であった.彼は家族で来日して おり,家庭で奥様お手製のタイ料理を食べさせてもらったこ ともある.1985年に永井先生が,大阪大学工学部附属生物 工学国際交流センターの客員教授に就任されてからは,永井 先生のお供で,よくタイのカセサート大学,チュラロンコン 大学に出かけた.その頃は,上記のビッチェン先生もカセ サート大学の先生として帰国されていたので,訪タイするた びに,彼のお世話になった.大阪大学工学部附属生物工学国 際交流センターは1978年附属微生物工学国際交流センター として設置され,微生物の研究を通じて,東南アジア諸国と の学術交流を推進し,アジアでのバイオテクノロジー研究の ハブとなることを目的としていた.その後,1985年に植物 工学の研究を含めて生物工学国際交流センターと改称し,

1995年には工学部だけでなく,学内共同利用施設の大阪大 学生物工学国際交流センターとして発展し続けている.私も

現地に赴く国際交流を通じた大学 & 研究者の貢献と交流について

きのこ研究から大学間交流へ

森永 力

県立広島大学国際交流センター

refer- ence

Reference Link

図1ネパール・村のホテル

日本農芸化学会 ● 化学 と 生物 

バイオサイエンススコープ

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436 化学と生物 Vol. 54, No. 6, 2016 1995年には客員助教授をさせていただいた.本センターは,

タイと日本との間で交互に1年に1度セミナーを開催してい たが,私も毎回出席,発表させていただいた.セミナー開催 の最初の頃,チェンマイ大学で開かれたときのことである が,私の講演発表のとき突然会場内で停電が起こり,プロ ジェクターが使えなくなった.その頃のチェンマイは電力供 給が非常に不安定で時々停電が起こるとのことであった.私 は当然,しばらく休憩かなと思っていたら,突然座長が白板 をひっぱり出してきて,これを使って講演を続けてくれと言 い出した.まだ駆け出しの私はスライドの中にたくさんの英 語をはめ込んでいたので,一向に英語が頭に浮かんでこず,

おろおろしたのを今でもよく覚えている.あとの懇親会で,

田口先生や永井先生に今回のセミナーで一番おもしろかった と話題にされてしまったが,このセミナーのおかげで,英語 でのスピーチに戸惑いがなくなったような気がしている.交 互に行われたタイでのセミナーは,バンコクやチェンマイで 行われ,懇親会での花火の打ち上げなど楽しい思い出もたく さんある.

また,大阪大学の木下晋一先生(のち北海道大学農学部 教授)の紹介でチェンマイ大学農学部のレヌー先生のシイタ ケづくりもお手伝いした.当時,彼女は多額の日立ファンド を獲得していて,ミャンマーやラオスとの国境付近でシイタ ケ栽培を試みていたが,うまく栽培できていなかったので,

レヌー先生や研究室の学生と国境の山岳地帯までよく出かけ て行った.もともと国境付近は,山岳少数民族がけしの栽培 をしていたが,プミポン国王が焼き払い,シイタケやイチゴ など農業への転換を奨励していた.王様のマークの付いた ジープで軍に守られながら山の中を駆け回り,夜はむしろを 敷いただけのVIPルームで寝起きし,蚊やダニに悩まされ たが,なぜかビールだけは用意されていた.シンハービール の味が今でも忘れられない.その後タイでは,山口大学とカ セサート大学との共同プロジェクトにも参画させていただ き,カセサート大学創立60周年記念として,タイのきのこ 図鑑作成にも携わった.カセサート大学理学部微生物学科の プーンピライ先生や森林学部のウタイワン先生にはよく山へ

きのこ狩に連れていっていただいた.カセサート大学の車を チャーターして,先生や研究室学生と1泊あるいは2泊旅行 に出かけた.所々の道端で少数民族が山から採集してきたき のこを売っているのを見かけた.車を止めて,きのこを眺 め,鑑定すると中には毒きのこも含まれていた.これは毒き のこじゃないのと話しかけると,時々お腹が痛くなることも あるよと笑いながら言ったので,驚いたこともある.きのこ 採集では,ビッチェン先生にもたいへんお世話になった.彼 の研究室では,採集品から菌糸やDNAを分離したり,標本 を作ったりして,さまざまな面でサポートしていただき,た いへん感謝している.彼は今では,私の親友の一人であり,

今なお,カセサート大学で活躍されている.きのこ研究を通 して,北東のコンケン大学ソーフォン先生,南はソンクラ大 学のワッサン・ペチラート先生,東はウボン・ラチャタニ大 学のチャリダ先生にもたいへんお世話になった.これらの長 い個人的つながりから,現在,カセサート大学とコンケン大 学,キンモンクット工科大学との間で,学生交流も含めた学 術交流協定を結んでいる.

韓国との交流もきのこを通じてである.韓国政府派遣の 研究員として来日した姜安易氏を当時勤務していた広島大学 工学部で指導したのが始まりである.彼は韓国水源市にある 韓国農村振興庁菌茸科の研究員であった.当時韓国はヒラタ ケ栽培が盛んで,菌茸科で作った種菌を韓国全土に販売して いたので,優良菌株の開発,維持が政府からの大命題であっ た.毎年2週間程度,きのこの遺伝や生理,細胞融合手順な どを教えていた.毎日,異なる研究員の家に招待を受けて,

オンドルの床に座り,真露を飲み交わし,きのこ談義に明け 暮れていたのが懐かしい.数年前,菌茸科の所長であった車 車烈氏の悲しい知らせを受けたとき,胸が熱くなった.ここ ろからのご冥福を祈る.

きのこ研究を通じて,たくさんの中国の研究者と交流す ることができた.シイタケのCHEFを用いた研究で染色体 数を明らかにしたり,プロトプラスト化や細胞融合の研究を していたので,1994年11月,中国,慶元市で行われたシイ タケ国際シンポジュウムに,実行委員の一人である華中農業

図3韓国農村振興庁菌茸科研究員(真ん中私の隣が車科長)

図2若い頃のビッチェン先生と研究室学生

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化学と生物 Vol. 54, No. 6, 2016

大学の羅信昌教授が招待してくれた,ペンシルバニア州立大 学のロイス教授とともに.上海で乗り換え,温州の空港に降 りると滑走路に中国公安のパトカーが停まっていて,いきな りそれに乗せられて8時間,舗装されていない道路の反対車 線を強引に走り,夜8時ごろ慶元市のホテルに着いた.ホテ ル全面に「熱烈歓迎」の赤い垂れ幕が下がり,市の力の入れ ようが感じられた.翌日,参加者は近くの寺院に案内され,

ここがシイタケ栽培発祥の地であるとの説明を受けた.なる ほど仏像の左手にはシイタケが載せられていた.シイタケ栽 培は日本人が考案したと聞いていたのだが.シンポジウム終 了後,羅先生から華中農業大学への訪問と講演の依頼を受け たので,そのまま武漢市へバスで移動することになった.途 中で1泊する長旅であった.それ以来,毎年夏休みには華中 農業大学の食用菌研究所(羅先生が所長)を訪れ,所員にき のこの生理や栽培を教えてきた.5年間ぐらい通い続けた が,ときにはイギリスの著名な放線菌学者,Dr. Hopwood にも会うことができた.寮の食堂で,放線菌のことをいろい ろと教えていただいたのはラッキーであった.日本菌学会と の国際シンポジウムを華中農業大学で開き,エクスカーショ ンで建設中の三峡ダムや西遊記に出てくる白帝城へ行ったの も思い出となった.

微生物の研究を通して,ベトナムとのつながりもできた.

私の博士論文は「鹿糞における真菌類の遷移とその有効利 用」で,研究期間中は研究室の学生とよく鹿の糞を集めに日 本三景の一つ,安芸の宮島に出かけた.白衣を着て鹿の糞を 拾っていると変人に見られたのか,よく観光客に話しかけら れた,何をしているのですかと.その中の一人に週刊ポスト の記者がいて,その後のお付き合いから連載もの「ほっとけ 森からの報告̶生命の支え 菌は金なり 」を書いたことも ある.草食動物の糞には,土壌中には見られない美しい菌類 が棲んでいる.また,それぞれが役割をもっていて,糞の分 解に寄与している.それら微生物を木片という担体に閉じ込 めて介護用バイオトイレを開発した.当時,NHKでも全国 放送され,それを見た東京の美術商がベトナム日本大使館を 通じて,ベトナムに普及を図りたいとのことで接触してき た.丁度そのころ,きのこ栽培で出てくる廃菌床の中の酵素 がダイオキシンを分解するということを発表していたので,

その実験も一緒にベトナムで研究することになった.ハノイ にある国立科学・新技術育成協会( )と5 年間共同研究を行った.研究所の所長は,キューバ危機のと きのベトナムの首相,ファン・バンドンの息子で,ファン・

ソンドン氏であった.彼は,今も大地に残る枯葉剤(ダイオ キシン)を何としても取り除きたいと願っていたが,政府に あまりお金がないので,私の方法に期待を寄せていた.私 は,研究員に竹やゴムの木あるいはヤシの実の殻などをおが 粉にして,米ぬかと混ぜ,オートクレーブ後,ヒラタケを植 える実験を教えた.当時,ベトナムではあまりきのこを食し てなく,スーパーでも高いものであった.私は農産廃棄物を 用いて,きのこ栽培を普及させ,きのこを販売したあとの廃 菌床を畑に埋めるよう農民も指導した.そのとき,きのこ栽

培を教えていた一人が起業し,ハノイできのこ栽培会社を 作っているのはうれしい限りである.

現在は,しばしばインドネシアを訪ねている.私の勤め ている県立広島大学は以前より,スマトラ島のパダン市にあ るアンダラス大学と学術交流協定を結んでいる.アンダラス 大学はジャワ島以外ではインドネシアで最も古い大学であ る.メイン・キャンパスはパダンの中心から約12 kmのリマ ウマニスに位置している.創立は1956年で,9学部,修士課 程は11コース,博士課程は5分野からなり,学生数は約 23,000人,教員数は約3,000人の大学である.交流を結ぶ きっかけは,ある大学の先生から紹介を受けた本学の教員 が,アンダラス大学の教員を1年間,本学で指導したのが始 まりである.指導した教員はすでに退職しているが,その 後,学術交流は他学部へも広がりを見せ,本学で修士号や博 士号を取得してインドネシアに帰り,アンダラス大学で教鞭 をとっている教員も数人いる.私も学生を指導したり,アン ダラス大学で実験講習のワークショップを開催したりして,

学生とのより親密なコミュニケーションを通じて,本校への 留学を図っている.また,一昨年はアンダラス大学学部長や 学生,ジャワ島ジェンバー市にあるジェンバー大学の学部長 や学生,そしてタイからの先生を含めて,本学でミニシンポ ジュウムを開催した.それをきっかけに,ジェンバー大学と も学術交流協定を結ぶことができた.ジェンバー大学は,イ ンドネシア東ジャワ州にある州立の総合大学で,文・理工系 15学部を有し,学生数は20,000名にのぼる.また,大学の ビジョンとして「科学技術,環境芸術,ビジネス,農業,産 業の発展に優れた大学」を掲げており,本学と同様,国際的 な視野を有し,地域産業を支える人材育成に取り組んでい る.ジェンバー大学からは,本年度3人の交換留学生が本学 へ来て,学ぶことになっている.インドネシアとの交流を きっかけに,本年度はマレーシアの大学との交流が始まろう としている.きのこの研究を通じて,東南アジアのみなら ず,イギリス,ドイツ,アメリカ,カナダ,オーストラリ ア,ニュージーランドなどのたくさんの研究者とも交流でき たことは,この上ない幸せであった.これからの若い人に

図4アンダラス大学でのワークショップ

日本農芸化学会 ● 化学 と 生物 

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438 化学と生物 Vol. 54, No. 6, 2016 は,積極的に世界に飛び出し,未知の世界に触れ合い,何か

をつかみ取っていただきたい.一人一人のそのような経験が 日本を大きく発展させる原動力になると信じている.

プロフィール

森 永  力(Tsutomu MORINAGA)

<略歴>1971年広島大学工学部発酵工学 科卒業/1973年同大学大学院工学研究科 修士課程修了/同年同大学工学部助手/

1986年同大学工学部助教授/1997年広島 県立大学教授/2015年県立広島大学国際 交流センター長,現在に至る<研究テー マと抱負>きのこの栽培と育種<趣味>

ハイキングときのこ採集

Copyright © 2016 公益社団法人日本農芸化学会 DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.54.435

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