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理研時代の鈴木梅太郎博士 - J-Stage

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ビタミン B1発見 100 周年 祝典・記念シンポジウム

鈴木梅太郎博士  

記念シンポジウム

はじめに

20世紀後半,平和憲法と日米安保の下,科学技術振 興と経済発展の両輪で,我が国はGDP先進国へと発展 した.しかし,21世紀に入り,平成23年3月11日の東 日本大震災と福島第一原発事故もあり,科学技術と社会 の関係にも再検討の機会が来ている.昨年11月の日本 農芸化学会主催,鈴木梅太郎博士のビタミンB1発見100 周年記念式典の講演を基に,本稿では,21世紀に科学 技術政策のキーワードとして多用される イノベーショ ン に関する日米欧の取り組みを簡単に紹介し,続い て,明治以来100年の時間軸の中で,理化学研究所(理 研)の発足から1945年の敗戦に至る約30年の激動の時 代の鈴木梅太郎と関係者の活躍を,イノベーションの視 点から紹介したい.

21

世紀前半のイノベーション政策

まず,21世紀前半の科学技術を推進する米国,EUと 日本に見るイノベーション政策を簡略に紹介しよう.

米国のイノベーション政策は,2005年に,NII (Na- tional Innovation Initiative) から報告されたいわゆるパ ルミザーノ報告  Innovate America : Innovate or Abdi-

cate" に見られる.イノベーションは 発見と洞察が交 差するところで,社会的,経済的価値を創生する と定 義し,建国以来の米国スピリットであるイノベーション による以外,21世紀の米国の成功はない,と結論して いる.オーストリア出身でハーバード大学の経済学・歴 史学者,ヨゼフ・シュンペーターはイノベーションの預 言者とも呼ばれ,晩年の1942年に,厳しい心身の状況 下で,『資本主義,社会主義,そして民主主義』(1) を著 した.当時最大の脅威・競争相手であった共産主義社会 の発展との対比で,資本主義社会の発展には,厳しい創 造的破壊の継続的・内発的なプロセス,すなわちイノ ベーションが必須であると述べている.シュンペーター は日本とも関係が深く,高名な経済学者,東畑精一や中 山伊知郎は1920年代後半にボン大学時代の彼の下に留 学している.1931年には訪日し,当時の日本の産業発 展を高く評価した(2)

EUで は,ECの バ ロ ッ ソ 議 長 が 長 期 ヴ ィ ジ ョ ン  EU2020"  を2011年に決定し,経済・財政危機から立 ち直るための2020年までに解決すべき5課題,すなわ ち,雇用,イノベーション,教育,包括的な社会,気候 とエネルギーを設定し,加盟各国の国情に応じた協力を 求めた.これと呼応して,European Science Founda- tion (ESF) の議長マカロウは,直面する課題(気候変

農芸化学の伝統と先端生命科学の進展

理研時代の鈴木梅太郎博士

小川智也

理化学研究所和光研究所

(2)

動,持続的なエネルギーの不足,経済的,政治的不安 定,高齢人口の増加,貧困,飢餓,移民)の解決には,

課題が地球規模であるからこそ,地球規模の連携研究が 必須であると述べ,ECバロッソ議長のヴィジョン・

EU2020を科学の側面から支持している.

さて,我が国は,1995年に科学技術基本法を制定し,

1996年以降5年1期の科学技術基本計画を立て科学技術 を推進してきた.2006年からの第3期科学技術基本計画 は, 重点推進4分野

:ライフサイエンス,情報通信,

環境,ナノテクノロジー・材料,と 推進4分野

:エ

ネルギー,モノづくり技術,社会基盤,フロンティアな ど,合計8分野の分野別推進計画だった.2011年から5 年間の第4期科学技術基本計画では,25兆円の科学技術 イノベーション予算を閣議決定した. 科学技術イノ ベーション とは 科学的な発見や発明などによる新た な知識を基にした知的文化的価値の創造と,それらの知 識を発展させて経済的,社会的,公共的価値の創造に結 び付ける革新 と定義し,その一体的な推進をうたって いる.将来にわたる持続的な成長と社会の発展の実現を 政策の主要な柱に,課題解決型イノベーションとシステ ム改革を挙げている.前者は,東日本大震災からの復 興,再生の実現とともに,環境・エネルギーを対象とす るグリーン・イノベーションと医療・介護・健康を対象 とするライフ・イノベーションの推進である.後者は,

科学技術の高度化,複雑化,市場の急激なグローバル化 に伴い,国として,産学官の連携や社会価値の創生を飛 躍的に高め,また産学官の各主体の多様性や独自性など を十分に尊重しつつ,科学技術によるイノベーションを 促進するためのシステム改革の推進である.

20

世紀前半鈴木らは社会のニーズにどのよう に立ち向かったか

時代を遡り20世紀前半,理研という舞台で,鈴木梅 太郎は高峰譲吉や大河内正敏とともに当時の社会ニーズ にどのように立ち向かったのか,概略を振り返ってみた い.

1. 

鈴木梅太郎と高峰譲吉

1917年の理研の設立を牽引し,当時の我が国の研究 環境の革新 (NIES : National Innovation Ecosystem) に 邁進したといわれるのが,高峰譲吉である.1854年

(安政元年)

,ペリーが日米和親条約締結のため江戸に再

来日,吉田松陰が停泊中のペリーの船に密航(または暗 殺)を試みた年に高峰は誕生した.波乱万丈の前半生は 省略するが,1883年(明治16年)に英国留学から帰国

後,渋沢栄一や益田孝の支援を受け,農商務省の官僚か ら起業家に転進,さらに米国に渡り,40歳でタカジア スターゼの米国特許を取り,1900年(明治33年)46歳 のときにパークデイビス社から毎週供給された10キロ グラム単位のウシの副腎から上中啓三の協力を得てアド レナリンの結晶化に初めて成功,それらの結果得た巨万 の富を日米親善に向けた(3)

.1913年(大正2年) ,塩原

又策とともに,三共株式会社を創立し59歳で初代社長 となるが,創立時の株主には,鈴木梅太郎,長井長義,

北里柴三郎,池田菊苗が名を連ねた.同年に,ロック フェラー財団やウィルヘルム・カイザー研究所の設立の 動きなどを見て,日本における独創研究の推進の必要性 を説き,渋沢栄一ら経済界と桜井錠二や鈴木梅太郎など 学術界とも連携し,1917年(大正6年)

,財団法人理化

学研究所の創立に成功したことはよく知られている.

鈴木梅太郎は,高峰譲吉の20年後,1874年(明治7 年)に生を受けた.1896年に農科大学農芸化学科を卒 業し,1901年(明治34年)に27歳で留学,ベルリンの エミール・フィッシャー(4) の下でアミノ酸やペプチド 化学を学び1906年に帰国,翌年には東京帝国大学教授 となった.日本人の主食のコメと栄養・健康という社会 ニーズに密接した課題を設定し,鋭い切り口で研究テー マに翻訳した.1910年(明治43年)には,東大の研究 室で米糠の水溶性成分からオリザニンの分離に成功し,

脚気への治療効果も実証し,新栄養素であることを証明 した(5)

.その後,1917年(大正6年)に理研設立(写真 1

)と同時に44歳で主任研究員,7年後の1924年に51歳 で副栄養素の研究(新栄養素・ビタミンの研究)で農学 系では初めての学士院賞を高橋克己とともに受賞,同年 に日本農芸化学会を創立して初代会長に就任した.1937 年(昭和12年)

,64歳で満州国大陸科学院院長職を受

写真1駒込にあった理研1号館

(3)

け,昭和16年に退任するまで4年間理研と兼務し,満州 国の科学技術の発展に貢献した.ちなみに,特許庁は日 本の特許制度が100周年を迎えた1985年(昭和60年)

に日本の10大発明家を選定し顕彰した(6)

.その10名の

中には4人の理研関係者,高峰譲吉,池田菊苗,鈴木梅 太郎,そして本多光太郎が含まれている.

2. 

鈴木梅太郎と大河内正敏

さて,理研時代の鈴木梅太郎の活躍は大河内正敏との 連携を抜きには語れない.

大河内正敏は1878年に誕生,鈴木梅太郎の4歳後輩で ある.1921年から1946年まで,25年間にわたり理研の 生産工学の主任研究員,所長,また理研コンツェルンの 経営者として,理研の発展に貢献するが,そのすべての 期間,鈴木梅太郎との連携が,その活躍の重要な基盤と なっていた.1921年に所長に就任すると,部長制度を 廃止して主任研究員制度を導入し,フラットな組織にす ることで,物理部門と化学部門の部門間対立を解き,発 明の工業化による自主自立の運営を目指した.財政難の 1923年には,ビタミンAの生産と販売が理研の財政を 潤したが,1927年には,さらなる発展のため理化学興 業株式会社を設立して会長となり,理研の工学系の発明 に加え,ビタミン,合成酒,殺虫剤など鈴木梅太郎関係 の発明を事業化,製品化して販売することに成功した.

大河内の科学主義工業の主張は,彼の専門の生産工学 分野から発進した理研企業団だけではなく,鈴木梅太郎 が育てた生物化学を基盤とする新産業の成立にも力を得 た結果と考えられる.「工業に改良進歩がなければ生産 原価は廉くならない.製品の品質は良くならない.新し き生産方法,新しき生産設備,これ等が考案され建設さ れて,従来よりも,より良い製品が,労銀を挙げてもよ り廉価に生産される.古きものは労銀を世間並みにして も,生産原価は高い.新しきものは工業に最新の科学を 誘導注入しているからだ.この種の工業を科学主義工 業,昔ながらの保守的な生産方法を墨守している工業を 資本主義工業と名付けた」と述べている(7)

.このよう

に,大河内は,鈴木梅太郎らの力強い協力も得て,理研 精神を育成・先導して,シュンペーターと同時期に,組 織経営においてイノベーションの重要性を実践して,そ の先頭に立っていたともいえる.

1954年(昭和29年)

,石橋湛山は,

私の見た大河内 博士の功績,所謂科学主義工業の主張

,で次のように

述べている(7)

「昭和6年12月に内閣が更迭し,高橋是 清大蔵大臣の下に金の輸出再禁止が行われるや,わが国 の産業界は俄然活況を呈した.……理研コンツェルンの

総師として華々しく登場した大河内博士は日本窒素の野 口,昭和電工の森,日本産業の鮎川の3氏と合わせて,

私はこれを産業界の4傑と称し,特に推奨した次第で あった.……私は博士の門下から志を継ぐ人材が輩出 し,日本産業の前途に光明あらしめんことを祈願してや まぬものである」

また,大学同期の鮎川義介は, 大河内君の想い出 として,次のように述べている(7)

「もとの理研は日本 産業の根本を培うところにあるのであるが,古市公威さ んや,桜井錠二さんをはじめとして,田中館愛橘さん,

長岡半太郎さん,あるいは鈴木梅太郎さんというような 先覚者が,これに立てこもられて,今日までその基礎を 築かれたのであり,大河内君も正しくその一フィギュア であるに相違ないのであるから,日本の産業を復興する に当たって,大河内君のやり来たったところのものは,

これを良く振り返ってみる必要があると私は思うのであ る」

理研時代の鈴木梅太郎(大正から昭和にかけ て)

さて,理研時代の鈴木梅太郎の足跡を大正から昭和に かけてテーマ別に眺めてみたい(8)

1. 

合成酒の発明

まず,合成酒の発明を取り上げる.大正7年の全国的 な米騒動に端を発した米不足の軽減に資する発明で,社 会の要請を汲み上げた課題解決型,異分野融合型の開発 研究・イノベーションの好例であろう.大正8年に,清 酒醸造用の米45万トンの節約のため,初めは米以外の 澱粉にコメのタンパク質に似たアミノ酸組成を示す絹糸 屑を混合し,アルコール発酵して日本酒の類似品ができ ないかと実験したが,成功せず,方針転換をする.日本 酒に含まれる成分を研究し,それを混合して純合成酒の 創製を計画し,その結果,大正11年には合成酒の特許 を得たが,純合成法には主要な原料として高価なコハク 酸が大量に必要であった.

英国留学から帰国した藪田貞治郎は下瀬林太ととも に,1924年(大正13年)にはベンゼンの酸化バナジウ ム-酸化モリブデン触媒による接触空気酸化により高収 率で得たマレイン酸をさらに電解還元し,安価なコハク 酸の工業生産に世界で初めて成功した.その後,1928 年(昭和3年)

,大河内正敏所長は理研の出資で年産2万

石のモデル工場(写真

2

)を建設し,自身の率いる理化 学興業株式会社による宣伝・普及活動を強化した.

鈴木梅太郎も事業化を強力に推進するため,東恒人の

(4)

香り成分などの基礎研究を進めると同時に,事業化推進 担当に加藤正二を指名した.1937年(昭和12年)には,

北支事変(日中戦争)が勃発し,その後の戦局拡大によ る米不足で合成酒の需要が急増,三楽川崎工場,日本酒 類門司工場,合同酒精旭川工場,東邦酒類千葉工場,宝 酒造に加え,合成酒工場は,樺太,朝鮮,満州,台湾,

北支,青島,上海,漢口,ビルマ,マニラ,マカッサ ル,パラオなどにも及び,年産70 〜 80万石に達した.

いわゆる合成酒の研究は,戦後も坂口謹一郎,飯田茂次 に引き継がれ,21世紀の市場でも健在である.

2. 

タンパク質とアミノ酸の栄養学研究

次に,タンパク質とアミノ酸の栄養学研究,すなわち アミノ酸の混合物でネズミを飼ってタンパク質に代用 させる研究 を見てみたい.タンパク質は腸内酵素でア ミノ酸に分解されて吸収されるはずで,タンパク質に代 えてアミノ酸だけでも生命は保たれる理屈である.鈴木 梅太郎は1920年(大正9年)頃からこの実験を進めた が,実際にネズミを飼って試験すると,既知のアミノ酸 混合物では育たない.「これは,未知のアミノ酸がある のかもしれない.馬肉の硫酸加水分解後の混合物ならす べてのアミノ酸を含むはず」と考えて実験を繰り返すが 失敗する.また,バリタ加水分解物のアミノ酸混合物で も試すが,研究者たちは失敗を繰り返していた.そのよ うな時期に,1916年(昭和5年)に大学を卒業し理研・

鈴木研究室に入所したばかりの前田司朗は苦労の末,両 者を混合して実験すると見事に成功し,タンパク質はな くともネズミは育つという栄養学上の一大ニュースと なった(9)

.さらに,前田とIllinois大学のRoseは独立に

研究を進め,この研究は,必須アミノ酸スレオニンの発 見につながった(10)

.このように独創的なテーマを与え

ることにより,新発見に導くとともに,その後の術後患

者の点滴人工栄養という医療ニーズを解決するイノベー ションも成立したと言えよう.

3. 

オリザニン発見以降のビタミン研究

さて,水溶性ビタミン・オリザニンの発見以降も,理 研では広くビタミンの基礎研究から商品開発までが実施 された.

1913年,Wisconsin農 科 大 学 のE. McCollumとYale 大学のL. Mendelおよび共同研究者Connecticut農業試 験所のT. Osborneは独立に,動物の栄養に欠くことの できない水溶性のオリザニン以外に,バター中に脂溶性 の微量成分Aがあることを見いだしていた.1920年に は,London大学のJ. Drummondが脂溶性Aと水溶性B をそれぞれビタミンA, Bと呼ぶことを提案した.1922 年(大正11年)には,三浦政太郎らがバターに比べ鱈 の肝油にビタミンAが数十倍含有されていることを発 見し,高橋克己と川上行蔵が単離精製に成功し特許化し た.高橋克己は1925年32歳で腸チフスにより急逝する が,ビタミンAの構造は1929年にカロチノイド化学の 大家P. Karrerらによって決定された.同じ年,ノーベ ル生理医学賞がビタミンB1の発見でC. EijkmanとF. G. 

Hopkinsに与えられた.

写真2合成酒工場(理化学研究所内)

写真3理研ビタミンのポスター広告

(5)

Nobelprize.org の公式ウェブサイトには,カリフォル ニア大学のK. J. Carpenterによるビタミンの発見に関す る記載があるが,鈴木梅太郎が1915年頃から上記2人の 受賞者に加え,Funk, Goldberger, Grijnsとともに断続 的に指名されていたことも含め周辺事情が書かれていて 興味深い.

鱈肝油のビタミンAは理研内の工場で中宮次郎,浜 野貞行らによって理研ビタミンとして製造され,肺結核 の特効薬としても人気が出て販売実績が上がり,設立直 後の財政難に陥っていた理研の経営再建に大きく貢献し た(写真

3

.その後,1938年には理研から理研栄養薬

品株式会社(現理研ビタミン株式会社)に移され主力商 品として発展した.同時期には,緑茶のビタミンCの研 究が,三浦政太郎,辻村みちよ,丸山捨吉らにより,ビ タミンLの研究も中原和郎,犬養文人,鵜上三郎が進 め,構造決定に成功した(11)

.中原和郎は,鈴木梅太郎

の指導の下,同時に癌腫の研究も実施し20報に近い論 文を発表したが,1948年(昭和23年)には理研と兼務 で,財団法人癌研究会(1908年(明治41年)に発足)

の所長を引き受け,その戦後復興に貢献した.

4. 

農薬と天然物の研究

さて,次は農薬関連である.武居三吉によれば(8)

,鈴

木梅太郎は「国民栄養の改善と確保が国民にとって大事 なので,殺虫剤の製造そのものは大きな仕事ではない が,それが農業生産に挙げる効果は決して小さくない」

と折に触れて,農業生産と農薬に関する長期展望を発言 していたという.前述の米騒動の1918, 19年(大正7, 8 年)には貯蔵米にコクゾウ虫など貯穀害虫の被害が甚大 であった.山本亮によれば(8)

,1919年(大正8年) ,第

一次世界大戦で使用された毒ガス・クロルピクリンがコ クゾウ虫に特効があるとの報告がフランスであった.大 嶽了とともに,陸軍軍医学校から得た人毒性に関する情 報に配慮しつつ,その効果を検証すべく,1921年(大 正10年)

,我が国初の合成農薬クロルピクリンの生産を

三共の品川工場で実施し,それを用いて山形県で最初の 米倉庫薫蒸試験に成功したのである.クロルピクリンは 土壌に生息し農作物の生育に有害な病原菌や害虫を防除 する土壌薫蒸剤として,21世紀の日本農業にも広く使 用されている.

鈴木梅太郎のビタミンB(オリザニン)や高橋克己ら のビタミンA(ビオステリン)に始まる各種ビタミン,

山本亮らによる除虫菊殺虫成分ピレトリン(12) や武居三 吉らのデリス根の駆虫成分ロテノン,藪田貞治郎・住木 諭介らの植物ホルモンの先駆的研究は,20世紀後半の

我が国の天然物化学の隆盛を導き,21世紀には,ケミ カルバイオロジー,天然物創薬としても展開され,新し い研究領域として発展している.1942年(昭和17年)

の理研創立25周年記念講演会では,藪田貞治郎が 植 物ホルモンの話 として記念講演をしているが,当時東 大の研究室で住木諭介を中心に精製が進んでいたジベレ リンの話ではなかったかと推察される.ジベレリンの研 究は,その後,半世紀余の時を経て,理研横浜研究所の 植物科学研究センタ―で世界に冠たる先端研究が進んで いる.

5. 

大陸科学院の創設

さて,最後に大陸科学院に移りたい.1923年に関東 大震災,1925年に普通選挙法と治安維持法が成立した 翌年,鈴木梅太郎は南満州鉄道(満鉄)本社の田村洋 三,大河内正敏理研所長に依頼され,体調に不安を覚え ながらも藪田貞治郎,鈴木文助,加藤正二とともに満州 を視察して,満鉄顧問就任を決意し,中央試験所を指導 して農芸化学分野で満州の産業開発に協力することと なった(8)

.そして,1931年には満州事変が起こるが,

大連の満鉄の中央試験所長代理に三共の副工場長として サルバルサン製造の工業化に成功した世良正一を任命 し,その後満州大豆の大豆粕の食料と飼料への利用に成 功する.

1932年の満州国の建国宣言を経て政治状況は慌ただ しくなるが,1934年,満州国総務庁次長星野直樹から 理研所長大河内正敏に満州国の産業開発と研究所の創設 の依頼があった.翌年,満州国の科学技術振興のために 新京(長春)に10万坪の土地を得て大陸科学院(13) が 発足し,初代院長であり満州国国道局長の直木倫太郎,

理研の大河内正敏と鈴木梅太郎によってその整備が進ん だ.2年後に建設が竣工すると(写真

4

,鈴木梅太郎は

院長に就任し,農業研究,厚生研究,通産研究など各種 研究機関を1年で統合し,加藤二郎 (1937-1939) と志方 益三 (1939-1954) 両副院長の助力も得て科学技術を通し

写真4竣工当時の大陸科学院

(6)

て高い志で日満親善に努力した.

鈴木梅太郎は大陸科学院を理想的な活気のある研究所 にするため,21世紀の現在も研究経理上の難題となっ ている会計年度を超える経理が可能な特別会計を行政側 に認可させ,特殊技術者の養成・待遇問題など人材育成 にも努力し,70年後の現在も盛んに議論されるイノ ベーション環境の整備に成果を挙げた.毎週,異分野の 研究者を集めて談話会を開催して知識の紹介と交換を行 ない,異分野の交流にも努めた.また,大陸科学院の第 一期の事業は満州の発展に貢献する農業の開発,次の院 長のときは鉱工業振興の中心にならねばならないと考 え,研究所の設計,図書の収集などは,工学関係の研究 にも向くように配慮した.

し か し,1937年(昭 和12年 ) の 日 中 戦 争 の 勃 発,

1939年(昭和14年)には関東軍とソ連軍の間で満州国 と外モンゴル国境をめぐるノモンハン事件が起こり,日 本陸軍の初めての敗北を見て,その後の満州国の厳しい 未来がすでに予見される(14)

.なお,鈴木梅太郎は1941

年(昭和16年)に退任し,初代院長の直木倫太郎が第3 代院長に再任され満州国の道路網や港湾施設の整備に尽 力するが,1943年(昭和18年)安東港建設の出張先で 病を得て逝去する(15)

.寺田寅彦は1935年(昭和10年)

中央公論4月号に,「科学者の目から見れば実に話にも ならぬほど明白な事柄が,最高級な為政者にどうしても 通ぜず分からないために国家が非常な損をし,また危険 を冒していると思われるふしが,決して少なくないので ある.中にはよくよく考えてみると,国家国民の将来の ために,実に心配で枕を高くして眠られないような事さ えあるのである」と書いた.加藤八千代によると,太平 洋戦争末期に,大河内所長に日本の将来について聞く と,「寺田が昭和10年に書いたことに,鈴木先生も私も 同じ考えだった.今も同じだ」と答えたとのことであ る(16)

.科学技術立国を国是とする現在も,福島第一原

発事故に際しても明らかなように,科学組織と政治組織 の対話は難しく,システム・イノベーションが迫られて いる.

昭和天皇への御進講と現代に継承される理研イ ノベーション

1927年(昭和2年)

,鈴木梅太郎は,昭和天皇への御

進講で,ビタミン発見の歴史を以下のように記してい る.

「1906年(明治39年)以降,白米飼育の鳥類の脚気用 疾患に糠の水浸液が顕著な治療効果を認め,成分を探究 精製し,1910年に有効成分を精製しオリザニンと命名

し,多数の動物試験により,動物生育上不可欠成分と立 証し,従来の栄養学説に一大欠陥があったことを主唱し た.また,脂溶性のビタミンAの本体は,1922年(大 正11年)

,当教室の高橋克己が肝油より略純粋に抽出し

ビオステリンと命名し構造式(分子式)を提出した」

さらに,タンパク質と脂肪の栄養価について述べた後,

「食物中の成分を分離精製する研究の先には,化学の進 歩によって,食物の人造も将来実現せらるると考えま す.栄養学を基礎として漸次体質を改良し優秀なる民族 を造りうべきものと考えます」と述べ,研究の社会貢献 についても言及した.

1933年(昭和8年)の御講書始めの御進講は鈴木梅太 郎が自然科学分野としては初回であった. エミール・

フィッシャーの業績と生物化学の発展 という題でなさ れ,フィッシャー自身の業績に加えて,ウィルステッ ターの葉緑素,ハンス・フィッシャーのヘモグロビン,

レビンらの脳神経系の脂質の研究を挙げた.さらにわが 国の研究にも触れて,「池田菊苗の創製せる味の素は,

小麦のたんぱく質を塩酸によりて分解して製せるグルタ ミン酸と称する酸であります.肉類の味の成分はアミノ 酸あるいはそれの変化したものが多数あります.私が理 化学研究所に於いて案出せる合成日本酒,即ち,理研酒 のごときも,この研究に負うところが多いのでありま す」と述べている.

さらに,ビタミンやホルモンと酵素類の構造や合成研 究とその応用の医学上の研究が盛んであると当時の欧米 の研究活動を俯瞰し,「本邦学者の活躍も注目すべきも のがあります.高峰譲吉は牛の副腎よりアドレナリンを 結晶状に抽出せしは,ホルモンの最初の結晶として学会 の称賛を博したものであり,また氏の創製品ジアスター ゼも広く販売せらるるは周知の事実であります.その 他,辻本満丸のスクワレンの発見,朝比奈泰彦の漢薬成 分,真島利行の漆,佐々木隆興のアミノ酸,柴田桂太の 植物色素フラボンの研究の如きは何れも広き意味で生物 化学の属するもので世界的に認められておるものであり ます.医学の方面に於いては,荒木寅三郎(赤痢病原 菌)および故隈川宗雄の如きは本邦における生物化学の 先覚者であり……」と述べ,特に理研創設前後から,交 流が深い高峰譲吉のイノベーションを高く評価した.

さらに続いて,「顧みれば,過去に於いて化学が人智 の開発,世運の進展に寄与したる功績は誠に偉大なるも ので,万難を排して真理を探究し,自然を征服せんとす る先人の努力は驚嘆に値するものであります.我々はこ れら先人の功業に対して敬意を表すると同時に,進んで 独創的研究を遂げ,新天地を開拓して,人類の福祉増進

(7)

を企画しなければならないと存じます」と科学者の覚悟 のほどが述べられた.

第二次世界大戦無条件降伏後,連合国最高司令官総司 令部GHQにより,理研は株式会社へ改組され,1958年 の特殊法人化に至るまで仁科芳雄,坂谷希一,村山威 士,佐藤正典と社長を引き継いで困難な道を歩んだ(17)

佐藤正典は,昭和15年から敗戦直前まで満鉄の中央試 験所長を務めており,大陸科学院長時代の鈴木梅太郎と も交流があったものと思われる.

その後,2003年には独立行政法人となるが,2012年 の現在,野依良治理事長の機動的で柔軟な経営戦略の 下,生命系戦略センター群,ライフサイエンス基盤,物 理から生物・医学にわたる広範な研究インフラを国際ブ ランドとして確立し,さらなるイノベーションを通して 社会価値や経済価値に結実させる戦略を実施しつつあ る.一例として,アステラスから異動した後藤俊夫が牽 引するオールジャパンの創薬医療技術基盤プログラムが ある.本プログラムは,高峰譲吉や鈴木梅太郎の時代か ら築いた理研の医療イノベーションの伝統を継承して,

理研や各大学で見いだされる豊富な創薬標的,理研の各 種インフラ基盤を縦横に活用し,アカデミアと産業界の 橋渡しを意図するものである.

おわりに

ビタミンB1発見100周年を記念して,科学技術とイ ノベーションに関し,理化学研究所という限定された舞 台で,鈴木梅太郎の活躍を中心に纏める努力をした.21 世紀の科学技術・イノベーションへ取り組む我々への鈴 木梅太郎からのメッセージは,地球と人類が共生する科 学技術文明の発展と多様な文化の共存というグローバル な課題に,社会ニーズの視点から高い志で取り組むよう

にということではないか.

本稿を2012年3月12日に94歳で逝去された恩師,東京大学名誉教授,理 化学研究所名誉研究員,松井正直先生の御霊前に捧げる.

謝辞:松井正直先生,森謙治先生,正本弘子氏,池田光一郎氏その他 多数の方から,貴重な資料,有益な御助言,御指導をいただいた.心か らお礼申し上げる.また,ひとえに筆者の不勉強で,史実と異なる解釈 や独断と偏見があるかと恐れる.謹んでご容赦をお願いする.

文献

  1)  J. A.  Schumpeter : Capitalism,  Socialism  and  Democra- cy", Harper Collins Publishers, 2008.

  2)  T. K.  McGraw : Prophet  of  Innovation",  Harvard  Uni- versity Press, 2007.

  3)  山嶋哲盛: 日本科学の先駆者高峰譲吉 アドレナリン発 見物語 ,岩波書店,2001.

  4)  F. W. Lichtenthaler : , 4095 (2002).

  5)  荒井綜一:化学と生物,47,  118 (2009); U.  Suzuki,  T. 

Shimamura & S. Odake : , 43, 89 (1912).

  6)  http://www.jpo.go.jp/cgi/link.cgi?url=/seido/rekishi/

judai.htm

  7)  大河内記念会: 大河内正敏,人とその事業 ,日刊工業 新聞社,1954;斎藤 憲: 新興コンツェルン理研の研 究 ,時潮社,1987.

  8)  鈴木梅太郎博士顕彰会: 鈴木梅太郎先生伝 ,朝倉書店,

1967;宮田親平: 科学者たちの自由な楽園 ,文芸春秋 社,1983.

  9)  前田司朗:理研彙報,11, 1098 (1932).

  10)  C. E.  Meyer  &  W. C.  Rose : , 115,  721 

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  11)  W. Nakahara, F. Inukai & S. Ugami : , 40,  433 (1943).

  12)  山本 亮:日本農薬学会誌,1, 70 (1976).

  13)  満州国史編纂刊行会(編): 満州国史,各論 ,満蒙同胞 援護会,1970・1971, p. 1127.

  14)  戸部良一他: 失敗の本質,日本軍の組織論的研究 ,中 公文庫,1991.

  15)  満州回顧集刊行会: ああ満州 ,農林出版,1965.

  16)  加藤八千代: 激動期の理化学研究所 人間風景 ,共立出 版,1987.

  17)  理化学研究所史編集委員会: 理研精神88年 ,シーク コーポレイション,2005;特集・理化学研究所60年のあ ゆみ: 自然 ,中央公論社,1978.

Referensi

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【平成21年度日本保険学会大会】 第Ⅰセッション 報告要旨:山﨑尚志 2.データ及び検証方法 本研究は,1980年から2008年までに上陸した75個の台風を分析の対象としている(た だし,同じ日に上陸した台風はまとめてカウントしているため,実際は72個の台風をサン プルとする)。台風の上陸日をイベント日とし,わが国損保会社の株式異常リターン(損保